デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
25款 其他ノ鉄道 10. 小倉鉄道株式会社
■綱文

第9巻 p.375-377(DK090043k) ページ画像

明治40年6月14日(1907年)

是ヨリ先、岩田作兵衛外六名小倉鉄道敷設ヲ請願シ、是日許可サル。会社資本金三百五十万円ノ内百万円ハ栄一ノ斡旋ニヨル。後大正三年経営不振ノ為興業銀行ヨリ右百万円ノ支払命令アルヤ、栄一、渡辺嘉一・谷口守雄等ヲ派シテ会社業態ヲ調査セシメ、打開ノ道ヲ講ゼシメ、以テ窮境ヲ脱セシメタリ。


■資料

小倉鉄道株式会社に就いて (帝国瓦斯協会に於て昭和三年七月廿八日)(帝国瓦斯協会 谷口守雄氏談)(DK090043k-0001)
第9巻 p.375-376 ページ画像

小倉鉄道株式会社に就いて (帝国瓦斯協会に於て昭和三年七月廿八日)
         (帝国瓦斯協会 谷口守雄氏談)
 九州に在る現在の小倉鉄道は以前金辺鉄道《キベ》と云つて居りました。其起りは陸軍中将小沢武雄氏等の発起が初まりです。小沢中将は同会社の社長だつた。けれども経営不首尾から事業上に全く蹉跌を生じ、鉄道建設中途にして既に廃棄せねばならぬ破目に陥つたのです。現在金辺隧道と云ふのがありますが、之れも三分の一の工事を行つたのみで其後十数年間も中止されて仕舞つたのです。地方民は之れが中止を遺憾に思ひ、種々企図する処があつて其の発起人等上京して、之を牟田口元学氏、工学博士渡辺嘉一氏及私三人に依頼して来ました。そこで三人が小倉迄行つて調査を行つた結果、見込ありと見極めを附けたのです。牟田口氏は愈々事業に着手する為に第一銀行頭取をして居られました渋沢子爵に後援を依頼して御承諾を得たのであります。そうして愈々創立したのが明治四十年だつたと思ひます。資本金は三百五十万円だつたと記憶して居ります。処が工事中資金の不足を生じたので第一銀行に頼み其保証を得て興業銀行から百万円の借入金をして之に依つて完成したのであります。然し玆に一言して置きますが、完成した工事は鉄道の敷設、港湾設備其他凡て私等の報告通りに実行せず、私等の最も不利益な条件としたところをやつたのであります。会社創立後は渡辺さん、私二人も牟田口さんと一処に会社重役に就任する事にしてあつたのですが、二人が這入る事は発起人に不利益な為め退け
 - 第9巻 p.376 -ページ画像 
られ、牟田口さんのみが社長に推選されました。敷設地域も発起人等が自分の所有地関係から故意に私等の調査を変更したのであります。愈々運転開始して見ると、成程成績が面白からず、遂に興業銀行からの借入金返済期日到来にも不拘支払不能となつたのです。そこで興銀からは顧問を派して業態を調べて見ると結局見込なしとの宣言を受けたのであります。其結果興銀は第一銀行に支払命令を出しました。之が大正三年であります。第一銀行としては自ら保証したのだから支払は覚悟したものゝ、渋沢子爵の思はれるには鉄道専門の渡辺博士が居るにも不拘、興銀の調査に専ら従つて百万円を弁償する事は万全を尽したものでないから、今一応渡辺博士に調査を依頼しやうと言ふことで渡辺さんが小倉へ出張なさつた。其時私も同行して渡辺さんの下に審査を行つて殆んど二ケ月を費しました。実地踏査して見ると如何にも無理な工事をしてある。百分の一勾配が三哩も続いて、それも石炭を満載して輸送する時上りで、空車の時は下り勾配である。成程算盤では四十車輛に石炭満載して上れる計算になつて居るが。実地には如何であるかと云ふ事になると、牟田口社長以下責任者にして確実なる答へを為し得るものは一人もなかつたのです。発端に於て事の非は先方に在るので、会社側としては何の申開きを為すべき点はないのであつて、渡辺博士の憤慨されたのも尤もである。博士は石炭満載列車の試運転を要求されたけれども、此試運転に同乗する程の決心を持つた重役は一人もなかつたのです。実際列車が逆行でもしたら命を賭する事は覚悟せなければならなかつたのです。致方がないから調査に行つた私等二人が同乗試験をやつた次第であります。此の試験は幸にして無事に済んだものゝ欠点は幾多ありました。牟田口社長は会社の存否が一重に私等二人の調査報告に存する処から頻りに私に頼んで会社の将来のため万事都合よく進展する様に願はれました。牟田口さんは私の恩人であり、先輩であります。然し此度の事は些少の私心あるべからず。殊に私は渡辺博士の下に助手として調査を行つてゐる次第で、私が曲直を誤る事は渡辺博士に累を及ぼし、渡辺博士の将来を陥入れるのであるとして社長の懇願を退けたのであります。調査の結果改修すれば将来がない事はないとの見込が附いたので、此意見を委細第一銀行に復命して調査を終了したのです。玆に於て興銀も取立を猶予する事に成り、第一銀行は百万円の支払の必要がなくなりました。小倉鉄道株式会社の沿革として此事は決して等閑に附する事の出来ないものであります。同時に会社が今日あるを得た事が一重に渋沢子爵の御後援にある次第であると私は思ひます。尚ほ牟田口社長は最早故人となられましたが、会社窮境に在る当時会社内に独り牟田口社長の如き人格の人を有した事は大に苦境脱出に与つて力あるものであります。


日本鉄道史 下篇・第五七八―五七九頁〔大正一〇年八月〕(DK090043k-0002)
第9巻 p.376-377 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

日本鉄道史 下篇・第六六〇頁〔大正一〇年八月〕(DK090043k-0003)
第9巻 p.377 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕小倉鉄道株式会社第拾期業務報告 明治四十四年上半期(DK090043k-0004)
第9巻 p.377 ページ画像

小倉鉄道株式会社第拾期業務報告 明治四十四年上半期
 株数   地名    姓名
 五〇〇  東京  男爵渋沢栄一
   ○第拾壱期業務報告(明治四十四年下半期)ニヨレバ七〇〇株、以下第拾七期(大正参年下半期)迄同数株ニシテ、且ツ栄一ノ名儀ナレド、第拾八期(大正四年上半期)ニハ渋沢同族株式会社社長渋沢敬三名儀ニ書改メラレ後株買却セラレ関係止ム。