デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
1款 大阪紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.85-91(DK100008k) ページ画像

明治20年7月(1887年)

栄一ノ提案ニ依リ原棉輸入ノ為、当社々員川村利兵衛ヲ支那ニ派遣シ棉産地ヲ調査セシム。翌年更ニ印度支那地方ニ同人ヲ派シ、明治二十二年七月外務省書記官佐野常樹、印度綿業視察ノ目的ニテ孟買ニ赴クニ及ビ、再ビ抜擢シコレニ随行セシム。コレヨリ孟買棉花ノ輸入促進セラル。


■資料

(大阪紡績株式会社)創業二十五年沿革略史 〔明治四一年一〇月〕(DK100008k-0001)
第10巻 p.85-86 ページ画像

(大阪紡績株式会社)創業二十五年沿革略史 〔明治四一年一〇月〕
○上略
前記ノ如ク斯業ノ発達已ニ稍観ルニ足ルノ域ニ達シタリト雖モ、前途ノ進運ニ関シ識者ノ只管憂慮シタルモノハ原料棉花ノ供給不足ヲ告グベキニ対シ、如何ニ之ヲ補足スベキカノ問題ナリシナリ
元来本社創設ノ際ニ在リテハ専ラ内国産棉花ヲ以テ原料ニ充ツルノ方針ナリシモ、紡績工業ノ発展ト共ニ供給棉花ノ昂騰ヲ見ルニ至リタルヲ患ヒ、渋沢相談役等ノ提案ニ依リ当社ハ明治二十年社員ヲ清国ニ派遣シ、其産棉地タル江蘇省・揚子江沿岸・浙江省等重ナル棉産地ヲ調査セシメ支那棉輸入ノ溝渠ヲ開キタリ
此年一月頭取藤田伝三郎氏辞任ニ付、松本重太郎氏推サレテ社長トナリタリ
○明治二十一年再ビ社員ヲ西貢柬蒲塞及暹羅地方ニ差遣シ、安南棉花輸入ノ途ヲ開キタリ
○明治二十二年ニ至リ本邦紡績業大ニ勃興シ原料ノ需要益多々ナルニ際シ、其筋ヨリ派遣ノ官吏ト共ニ更ニ社員ヲ印度ニ派シ同国紡績業ノ
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実地ヲ調査シ大ヒニ同国産棉花ノ輸入ヲ謀リタリ、是レ実ニ印度棉輸入ノ嚆矢ナリトス、自是米棉輸入ノ途亦自ラ開ケ終ニ今日ノ盛況ヲ見ルニ至リタリ、即チ本邦紡績工業上ノ供給ニ対シ一点顧慮ノ患ナキニ至ラシメタルニ就テハ、本社ノ力与リテ其多キニ居ルヲ疑ハザルナリ
○中略
○上述ノ如ク本邦紡績工業ハ其発展ニ伴ヒ竺棉ノ輸入前途益々多望トナリシモ、当時日印ノ航路ハ彼阿会社ノ独占ニ属シ其跳梁跋扈ハ斯業ノ経営ニ幾多ノ障碍ヲ与ヘ我同業者ノ最モ憤激セル所ナリキ、当此時我相談役タル渋沢男爵ハ蹶然起テ之レガ排擠ノ任ニ当リ、進ンデ孟買ノ豪商多々氏ト提携ヲ約シ後ヘニ我同業有志者ヲ率ヒ或ハ政府ニ交渉シ或ハ日本郵船会社ト協商セルノ結果、明治二十六年十月ニ至リ郵船ニ藉ル印度綿花ノ廻漕ハ開始セラルヽヲ得タリ、蓋シ渋沢男爵ガ本邦紡績業ニ対スル卓見ト並ニ之レニ貢献セラレタル尽力トハ我同業者ノ永ク牢記シテ忘レザル所ナルベシ
  ○印度棉花輸入ニ関シテ、栄一ハ当会社ノ外大日本紡績聯合会及ビ日本郵船株式会社ニ関係シテ、夫々重要ナル役割ヲ果シ、原棉輸送孟買航路開通ノ成功ニ与ツテ力アリ。詳細ハ本巻所収ノ「大日本紡績聯合会」(第二〇七頁)及ビ第八巻所収ノ「日本郵船株式会社」(第一二六頁)ノ各項ヲ参照。


川村利兵衛翁小伝 (大谷登編) 第九―一九頁 〔大正一五年四月〕(DK100008k-0002)
第10巻 p.86-90 ページ画像

川村利兵衛翁小伝 (大谷登編) 第九―一九頁 〔大正一五年四月〕
    大阪紡績株式会社
 前述の様に明治十一二年の交から、紡績所が所々に簇出したけれども何れも設備が不完全なので、折角の新しい機械も其の運用を全くせず企業の目的が達せられない有様であつた。そこで渋沢栄一・藤田伝三郎・松本重太郎等の諸氏が相謀つて、大資本の下に施設の完備した大紡績工場を設立せんとし、明治十五年十月大阪西区三軒屋に資本金二十八万円の大阪紡績株式会社の組織を見るに至つた。是は本邦紡績業史上に於ける劃世的の事件であつて、頭取には藤田伝三郎氏・取締役には松本重太郎・熊谷辰太郎の両氏選任せられ・渋沢栄一氏は相談役の員に具つた。而して此の会社の創立に最も力を尽したのは実に此の渋沢子爵であつた。
 偶々翁は支那に於ける綿繰業の萎靡として振はなかつた為めに、更に規模を大にし機械を完備して予期した所の利益を挙げようとして、実業界の重鎮たる渋沢子爵の力を仮りようとした。其の為めに東上して子爵の門を敲いたのである。或は翁が始めて子爵に面晤するに至つたのは、其の支那旅行中、支那の農夫が水牛を使役し、灌漑用の木製揚水器を巧みに使用してゐるのを目撃し、帰朝後是を本邦の農家に利用しようとして其の改良に腐心し、遂に一種の考案を得、其の専売特許権を獲んが為めに子爵の力を仮らうとして上京したものであるとも伝へられてゐる。
 かくて翁は明治十九年の春上京して、其の知人大阪紡績会社支配人蒲田清蔵氏の親戚で東京で商業に従事してゐた蒲田定七といふ人と共に、再三第一銀行に子爵を訪ね遂に子爵の秘書大沢正道氏の紹介によつて辛うじて面接する事を得た。而も一見の後は肝胆の相照すが如く殊に子爵は翁が棉花特に支那の棉産事情に精通してゐるのを甚だ奇と
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して、自ら関係してゐる大阪紡績株式会社の副支配人として入社せんことを懇請せられたので、為めに遂に永年心血を注いで精励して来た而も血縁の浅くない松坂屋の店に別を告げて、同社に入ることゝなつた。時に歳三十六。
    支那及印度支那地方視察
 翁は大阪紡績会社に入社するや専ら原棉の購入の衝に当つた。其の為め支那或は仏領印度支那等に航し棉産地を視察した。先づ廿年七月には上海香港に渡り棉花の集散状況を視察し、更に会社の依嘱を受けて渡支した兵庫県外務課長中山繁松及び神戸駐剳支那領事館書記生張某等と共に、通州・南翔の地方を旅行し十月初旬に帰阪したが、時恰も棉花の出廻時期でなかつたから予期の如き成績を挙げることは出来なかつたが、併しながら日本人の通州に足跡を印したのは実に此の行を以て最初とするものであつて、此の点に於いて記念に値するものである。
 二十一年には西貢棉が繊維長くして、混棉に利用して頗る優秀なるものである点に着目して、其の産地の状況を視察せんとし十月香港に渡り、其の地の日下部商会員なる大谷円といふ人と行を共にして、仏国エムエム汽船会社の船で西貢に航し同地の商務局・商業会議所等に就いて照合したけれども、元来西貢棉といふのは西貢より輸出する無《(為)》めに支那人等の慣称した称呼に過ぎないものであつて、実際同地方は棉産地ではなく皆奥地より搬出して来るものであつて、而も同地に於ける取扱高も僅に二三万俵より五六万俵の間を上下するに過ぎないものであることが明になつた。
 そこで西貢より更に貨物船アンドリユ・レイン号によつて暹羅・盤谷に航し、時に恰も新設せられた我領事館の紹介によつて同国の外務大臣ウアスカラウアンシー及び大蔵大臣デウアウオンシー伯等に就いて調査することを得たけれども、記録が不明確であつて詳細な事情を知ることが出来ず、たゞ国内の産棉は年額僅に四五万俵を超えず、而も国内の需要を充たすのみなることを知り得たに過ぎない。それから新嘉坡に行き商務局・商業会議所等に就いて、同地に於ける棉花の集散状況を調査したけれども満足なる結果を得ず、更に西してピナンに行きスマトラのアチン、バルマのラングンまでも足を延ばしたけれども、何れも不十分な結果に終り偶々年末に近づいた為めに、充たされぬ心を抱きつゝ其の十二月の初旬に帰朝したが、併し此の行によつて印度棉の大いに注意しなければならないものだといふことを十分に会得することが出来た。
    印度視察
 此の時政府に於いても亦大いに注意を印度棉に向けるに至つた。当時、我邦の紡績業は長足の進歩をなし到底内地産の棉花のみにては其の需要の一端をも充たすことが出来ず、多く支那棉花の輸入によつて其の大部分を補給してゐたのであるが、もし万一同国棉花の凶作に会しようものならば、我が紡績業は根柢から大打撃を受けなければならぬ有様である。たゞ是を救ふものは印度棉の他にはない。偶々大日本綿糸紡績同業聯合会に於いても同様の憂慮を抱き、政府に稟請してそ
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の調査を請うた。そこで政府は翌二十二年七月、外務省書記官佐野常樹氏を印度に派遺して同国の産棉事情を視察させた。翁は以前から印度棉に深き注意を払つてゐた際であるから、是れを機として進んで玉木永久氏と共にそれに同行することにし、三重紡績会社の杉村仙之助氏も亦行を共にした。
 かくて一行は香港・マドラス・孟買・カルカツタ・錫蘭等で仔細に視察し、翁はそれ等の各地から自社及び日本紡績聯合会に宛てゝ其の視察の結果を報告してゐる。其の報告書は凡そ十数回に亘り其の観察の鋭敏で詳密な事は誠に驚くべきものがある。
 右の報告に記す所によると上海では官民合同紡績所二箇所が新に創立せられんとする事から綿繰会社の様子などを報じ、香港からは孟買棉花製糸の商況と孟買製糸の神戸直輸入の途が開かれる為めに、香港商人の打撃を蒙つたものゝ多いことを述べ、且つ孟買製糸の直輸入の結果は勢ひ本邦の製糸とも競争を惹起すべきを以て、其の香港経由によつて糸価に転嫁せられてゐた運賃及び諸雑費を精査して報告すべきことを約してゐる。錫蘭ではコロンボに新紡績会社創立の計画あることを知り其の計画の詳細を報告しマドラスでは四箇所の紡績工場及び棉花の農作、その集散の事情を調査して報道し、且つ海運の次第に隆盛に赴くにつれて運賃の低下する為めに、印度製糸に圧倒せられて我が邦の糸価も漸次下落し、前年我邦製糸十六手が百円以上の高価を告げたことがあつたが、今後は全世界に於ける綿糸界に一大変動があるか、或は我国の輸入関税の改正の時期が来るのでなければ、再びかゝる好況を呈することの無いことを述べて大いに警告し、なほもし糸価が昂騰する様な場合があれば、それは我が綿糸業者を利せずして却て印度の当業者の利益に帰するであらうと論じてゐる。孟買・カルカツタにても亦諸方の工場を縦覧し、その設備・職工の待遇等より、製産品の販売、原棉の購入等に至るまで、実に詳細に調査報告してゐる。翁の報告が政府派遣員の調査の結果と相俟つて、我邦同業者に他山の石として非常に有益な教訓を与へたことは誠に尠くない。故に聯合会よりは大阪紡績会社及び翁に感謝状を贈り、なほ翁には特に記念として縮緬地を贈つてゐる。其の感謝状は大阪紡績会社に宛てゝは
 印度棉花実況調査ノ義ニ付、客歳我聯合会ノ決議ヲ以テ、外務大臣ニ稟請シ、佐野書記官ヲ印度地方ニ派遣セラルヽノ時ニ当リ、貴社自費ヲ以テ貴社員川村利兵衛氏ヲ随伴セシメラレ、彼地棉花ノ実況詳悉調査ヲ了シ、我同業一般ニ利益ヲ与ヘラレタル事尠少ナラズ、是レ聯合会員一同ノ深ク貴社ニ謝スルトコロナリ、依テ本年東京ニ開キタル定期会ノ決議ヲ以テ本会ノ記録ニ特書シ、永ク貴社ノ功蹟ヲ表明シ、謹テ貴社ニ謝辞ヲ呈ス
   明治二十三年六月五日
              大日本綿糸紡績同業聯合会総代
                   尾張紡績会社
                      岡田令高
                   鐘淵紡績会社
                      駒井英太郎
 - 第10巻 p.89 -ページ画像 
  大阪紡績会社 御中
といひ、また翁に宛てたものには、
 貴下客年佐野外務書記官ト共ニ遠ク印度ニ航セラレ、彼地ニ於ケル棉業ノ実況詳細御調査ニ相成候段、本会ノ深ク謝スルトコロナリ、依テ聊カ縮緬地ヲ贈呈シテ本会ノ微志ヲ表ス、莞留セラルレバ幸甚
   明治二十三年六月五日
              大日本綿糸紡績同業聯合会
                     岡田令高
  川村利兵衛殿
とある。
 斯くの如く、翁の大阪紡績会社及び聯合会へ送つた報告は翁一代の記念として、又其の識見観察を窺ふべきのみならず、又紡績業史の上に於いても極めて意義ある史料となるべきものであるから、其の報告の全部は不幸にも今存してゐないけれども、蒐集し能ふ限りこれを本書の奥に附載することゝした。
    印度棉花の輸入
 翁が夙くから印度棉花の有利なる事に着目し、其の調査の為めに西貢に赴いたことは前記の如くであるが、今次の印度に於ける調査報告にも屡々其の事に言及し、即ち印度棉花は内地品及び上海品に比較し外見劣悪であつて素人黒人共に百斤に付き三五円方下等品と見做すこと必定なれども、工場に於いて実際に消費する時には屑棉少く、印度にては機械の運転我が邦に於けるよりも烈しいけれども、一向に糸切れのない事を実験し、又実棉は国産品より形小さく、外見宜しくないが、実際は毛筋細く粘力強い事を報告してゐる。
 偶々其の年の九月より我が国に於ける物価は非常な乱調子を示し、棉花の如きは甚だ高価を呈したが印度にあつて此の報を得た翁は、此の優秀なる印度棉花輸入の最好機会であり、又第一の急務であることを察し十月の末カルカツタより再び孟買を訪ひ、同地に於いて原棉購入に関する諸種の事情を調査し、原価・割引・運賃・積出し諸懸り・保険料・買付口銭・神戸陸揚費等を詳細に表示して、聯合会に報告し一方大阪紡績会社の為めにそれを購入しようとした。
 翁が孟買に於ける調査は、主として同地の豪商タタ商会の好意ある助力に基くものである。翁は始め香港の日下部商会の紹介状を持つて佐野・杉村両氏と共に同商会を訪問したのであるが、同商会の有力なる一員アール・デイ・タタ氏と会見して、互に肝胆相照し、一見旧知の如きものがあつた。タタ氏は翁の調査の為めに尽力したばかりでなく、其の購入に関しても鋭意助力して終にヒンガン・アコラ・ベンゴール等の種類三十俵を輸入することゝし、玉木氏が之を携へて先発帰朝した。
 此の棉花は水圧荷造の為め渋紙の如く圧搾せられてゐるばかりでなく、葉塵が多く混入してゐたから、会社では大きに驚き到底紡績用に堪へないものと認めたが、其の十二月翁の一行が帰朝するに及び、其の説明によりて始めて使用の方法を知り、実際に紡出するに当つて極めて優良なる結果を得るに至つた。斯くの如くにして玆に始めて印度
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棉花輸入の道が開かれ、我が紡績業者の原棉に対する不安の念が一掃せらるゝ事となつた。今日紡績原料の大部分を占むる印度棉花の使用の端緒は、かく翁の手によつて見出されたのである。かくて爾後翁の経営する大阪紡績会社は専ら印度棉花輸入の衝に当り、タタ商会と契約して同業者の為に買次をすることゝなつた。
  ○「川村利兵衛翁印度棉花事情視察報告」(「川村利兵衛翁小伝」附録第二)ハ本巻所収ノ「大日本紡績聯合会」明治二十二年七月ノ項ニ採録。(第二四二頁以下)
  ○印度棉花輪入ニ関シテ絹川太一氏ハ「本邦綿糸紡績史」第三巻ニ於テ、中野太右衛門(大阪綿買次問屋ノ一ニシテ内外綿会社ノ創立発起人トナリ後頭取トナル)ヨリノ聞書トシテ「本邦紡績の発達するに従ひ内外棉糸の競争起り、支那綿では繊維短かく良質の綿糸が出来ないので、彼我の競争上不利益な所から内外綿(内外綿会社)では英国などで取調べた結果、如何にしても支那綿以上の良綿を探索しねばならぬことを知つた。そこで大阪紡績会社に忠告して、海外各地に良綿の捜索をなさしめた。その結果川村利兵衛氏が印度へ渡航して、孟買綿を発見するに至つたのである。支那綿では十六番手ほか紡出出来ないが、印度綿なれば二十番手の紡出が出来ることになつた。」(第一七一頁)トノ談ヲ掲ゲ、「支那に始めて紡績が設立せられ、支那綿の供給漸次意の如くならざらんとするの憂ありて、大阪紡績会社が自発的に外綿調査に従事したものであるといふのが、今日我紡績史上一般の定説の様である」ガ、之ニ依ツテ「内外綿会社が大阪紡績に忠告して外綿の捜索を企てたこと」及ビ「支那綿が粗大で二十番手の紡出に不適当だのか外綿捜索の原因をなしたこと」ノ「二個の重大事実が判明した」(第一七三頁)トナセリ。


川村利兵衛翁小伝 (大谷登編) 附録・第七七―七八頁 〔大正一五年四月〕 【渋沢子爵との関係 (大阪 横尾孝之亮)】(DK100008k-0003)
第10巻 p.90-91 ページ画像

川村利兵衛翁小伝 (大谷登編) 附録・第七七―七八頁 〔大正一五年四月〕
    渋沢子爵との関係 (大阪 横尾孝之亮)
氏が曾て支那内地に旅行した時水牛を利用して灌漑用水揚器械を用ひて居るのを見て、直ぐ氏の眼は光つたのである。帰朝後直ちに合資組織を以て秋馬用水会社を設立し、水揚機械を作つて政府より専売特許を得、之を琵琶湖畔で試験せしめたものである。此の企は成功を見ずして止んだが、不思議にも之が端緒となつて君が栄達の途は拓けたのであつた。
 氏が此の水揚機械の専売特許を得べく東京に上つた時その援助を乞ふべく渋沢子爵に面会したことがある。談偶々棉花の事に及ぶや、水揚機械そつち退けで独特の熱弁を奮ひ支那の棉花事情を力説し、併せて綿繰器械増設の件を力説したものである。渋沢子爵も大に感心して了ひ、豎子大に用ふべしと為した結果、曰く「水揚機械の製造宣伝綿繰事業の拡張又不可なきも、寧ろ君の経験豊富なる棉花の知識を活用する方、成功の近道と信ずる。丁度幸ひ大阪紡績会社が原棉知識に精通せる人物を要望してゐる際であるから私が紹介の労を取る、其処へ入つたならば自他共に利益であらうと思ふ」と云ふことであつた。其後間もなく渋沢子爵の言に従ひ大阪紡績へ入社したのであるが、抑も氏が今日の大事業を達成する糸口を獲たのであつた。
  ○川村利兵衛ガ上京シテ初メテ第一銀行ニ於テ栄一ニ面接スル事ヲ得タルハ、明治十九年春ニシテ同年間モナク従前ノ松坂屋ヲ辞シテ大阪紡績会社ニ入社セリ。
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  ○川村ガ大阪紡績会社ヲ辞シ、日印貿易合資会社ノ創立ニ参加セシハ明治廿七年ナルヲ以テ、大阪紡績会社在任ハ足掛九年ナリ。
  ○川村ガ最初ニ支那視察ニ赴キシハ明治十七年八月ニシテ、松坂屋ノ為ニ単身渡支シ余姚地方ノ棉産地ヲ調査シタルモノナリ。十九年春上京シテ栄一ニ会セシハ此支那地方視察ノ結果ナリ。
  ○右「渋沢子爵トノ関係」ノ記事ハ明治二十年代ノ内外棉会社時代ヨリ川村利兵衛ト昵懇ノ間ナリシ横尾孝之亮ノ記述ニシテ、更ニ「川村利兵衛翁小伝」第六一―七五頁ニ「恩人川村翁ヲ追想して」ト題スル同人ニヨル、川村利兵衛ト日本ノ明治二十年代印度棉輸入事情ニ関スル好個ノ記述アルモ別ニ「大日本紡績聯合会」明治二十二年七月ノ項ニ採録シタレバココニハ略ス。


大阪紡績会社第一〇回半季実際考課状 自明治二一年一月 至同年六月(DK100008k-0004)
第10巻 p.91 ページ画像

大阪紡績会社第一〇回半季実際考課状 自明治二一年一月 至同年六月
    ○株主総会決議之事
一一月中大阪東京ニ於テ株主総会ヲ開キ、半季純益金配当方法ヲ決議セリ
一同時例ニ依リ頭取取締役相談役ノ撰挙ヲ行ヒ、旧任松本重太郎(頭取)熊谷辰太郎・佐伯勢一郎(取締役)渋沢栄一・矢島作郎・藤本文策(相談役)重任セリ


大阪紡績会社第一二回半季実際考課状 自明治二二年一月 至同年六月(DK100008k-0005)
第10巻 p.91 ページ画像

大阪紡績会社第一二回半季実際考課状 自明治二二年一月 至同年六月
    ○株主総会決議之事
一一月十一日大阪ニ同十五日東京ニ株主総会ヲ開キ、前半期純益金配当ヲ決議セリ
一右総会ニ於テ頭取・取締役・相談役ノ撰挙ヲ行ヒ、松本重太郎・熊谷辰太郎・佐伯勢一郎取締役ニ、渋沢栄一・矢島作郎・藤本文策相談役ニ各重任セリ


大阪紡績会社第一四回半季考課状 自明治二三年一月 至同年六月(DK100008k-0006)
第10巻 p.91 ページ画像

大阪紡績会社第一四回半季考課状 自明治二三年一月 至同年六月
    ○株主総会決議之事
一一月十六日大阪ニ同二十日東京ニ株主総会ヲ開キ、前半季純益金配当方法ヲ決議セリ
一右総会ニ於テ頭取々締役ノ撰挙ヲ行ヒ、松本重太郎・熊谷辰太郎・佐伯勢一郎取締役ニ、渋沢栄一・矢島作郎・藤本文策相談役ニ各重任セリ



〔参考〕東京日日新聞 第五〇一二号 〔明治二一年七月一九日〕 大坂紡績会社(DK100008k-0007)
第10巻 p.91 ページ画像

東京日日新聞 第五〇一二号 〔明治二一年七月一九日〕
    大坂紡績会社
○同会社にては一昨日第一国立銀行に於て株主総集会を開き、一株(百円)に付十八円の配当をなせり、即ち年三割六分の割合にして、此他尚金十二万三千円余の積立金をなし、四千余円を後季に繰込みたりと云ふ。