デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
2款 三重紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.121-139(DK100015k) ページ画像

明治19年6月3日(1886年)

是ヨリ先、伊藤伝七ソノ経営ニ係ル三重県川島紡績所ノ成績不振ナルニツキ、栄一ニ援助ヲ求ム。

栄一其ノ請ヲ容レテ大紡績会社設立ヲ勧メ、資本金二拾二万円ヲ以テ三重紡績会社創立ヲ決定ス。

乃チ自ラ資本金半額ノ募集ヲ引請ケ、是日四日市ニ於ケル創立発起人会ニ出席シ議ヲ纏ム。是年七月一日当社其事業ヲ開始ス。


■資料

三重紡績会社第一回半季考課帖 自創業至明治一九年一二月(DK100015k-0001)
第10巻 p.121-123 ページ画像

三重紡績会社第一回半季考課帖 自創業至明治一九年一二月
    ○本社創立ノ要旨及原因ノ事
四日市港ハ勢州ノ咽喉ニシテ又接壌諸州交通ノ要区ニ居レリ、是ヲ以テ運輸日ニ開ケ、商業随テ進ミ全国屈指ノ貿易地タルニ愧チズ、然ルニ独リ工業ノ利ニ至テハ、一二旧式ノ製造物ヲ除クノ外、未タ新業ノ興起スルヲ見ズ、豈本港ノ遺利ト云ハサルベケンヤ、因ツテ審按スルニ、綿糸紡績ノ如キハ棉花ノ購入大ニ便利ニシテ其販路モ亦多クハ接壌ノ地方ニ係リ、加之方今紡績糸ノ需用漸次巨数ニ至ルヲ以テ、斯業一タビ起ルニ至テハ本港ノ商情一層殷盛ニ趣クベキコト期シテ望ムベキナリ、本県三重郡川島村ニ設在スル川島紡績所ハ、二三有志ノ合本私立ニシテ、紡錘二千本ヲ装置シ、明治十三年ヨリ紡糸ニ従事シ、当時得失相償フト雖トモ、将来同業者ノ四方競立スルノ時ニ至テハ、此ノ一小場ヲ以テ能ク衝ヲ争フベカラズト、是ニ於テ同所主幹伊藤伝七出京シテ之ヲ渋沢氏ニ謀リ、方法ヲ審按シ、計算ヲ確査シ、則チ合本ヲ以テ一会社ヲ組織シ、工場本部ヲ同港ニ開設シ、川島紡績所ヲ以テ之レカ支部トナシ、本支相合セテ紡錘一万二三千本ノ工業ヲ起スベキ計画ヲ為シテ、尋テ同志ヲ糾合シ、資本ヲ募集シ、三重紡績会社ト公称シテ其本部ノ地ヲ同港浜町ニトシ、而シテ川島紡績所ヲ購ヒ、旧規ヲ改正シテ七月一日ヨリ同社ノ附属工部トシテ更ニ開業シ、又一方ハ一切新器械ノ製造ハ倫敦ニ注文シ工務主幹一名ヲ採用シテ実際習問ノ為メ倫敦ニ派遣セリ
是本社ヲ創立シタル所ノ要項ニシテ、株主会諸議件諸計算ノ如キハ、之ヲ下条ニ輯録シテ其細情ヲ領悉スルニ便セリ
    ○集会決議之事
明治十九年五月十一日発起株主ノ総会ヲ四日市新田町松茂楼ニ開キ、本社創立事務モ稍々緒ニ就キタルヲ以テ、加入者各引受クベキ株金額ヲ確定シ、且其申込書ヲ差出スベク、本社ノ事業ハ地方ノ為メ加入者ノ為メ尤有益ナルモノナルヲ以テ、有志者各奮テ加入センコトヲ勧告スベキ等ノ事ニ決議セリ
同五月十二日各発起者再ヒ松茂楼ニ会シ、前会ニ於テ議決スル所ノ地
 - 第10巻 p.122 -ページ画像 
方株主ノ申込確定シタルニ因リ、其株主中ヨリ創立委員ヲ撰挙シ、及ヒ本社創立計画書ヲ各株主ニ照知スベキ事ヲ議シ、乃チ投票高点ヲ以テ九鬼紋七・八巻道成・伊藤伝七ノ三名ヲ撰挙セリ
同六月三日渋沢栄一氏本港ニ来着シ、東京株主総代トシテ地方発起株主ト共ニ高砂町浜田屋ニ於テ会議ヲ開キ、協議決定スル所左ノ如シ
一定款原案ニ対シ、討議ヲ以テ少シク修正ヲ加ヘテ之ヲ定奪《(マヽ)》シ、又営業規則ハ定款第二十九条ニ拠リ、委員ノ見込ヲ以テ決定シタル後、都テ各株主ニ送付スベキ事
一株金ハ弐拾弐万円ト定メ、金拾弐万円ハ地方発起人之ヲ負担シ、拾万円ハ渋沢氏ニ委托シ、東京大坂其他各地ニ於テ募集スルモノトシ事宜ニヨリ伊藤伝七氏上京シテ募集ノ事宜ヲ便理スヘキ事
一委員ハ他日之ヲ撰定スヘキモノトシ、目下仮ニ創立委員ニ委員ノ権限ヲ委任シ、本社創立諸般ノ事務ヲ処理セシムヘキ事
一本会員中現設三重紡績所持主ノ資格ヲ有スル者ト協議ヲ経、金三万五千円ヲ以テ同紡績所ヲ本社ニ譲受ケ、其代金ハ本社ニ加入シタル株金ニ払込ムベキコトヲ契約スベキ事
一又同紡績所ハ本年七月一日ヲ以テ本社ヘ引継キ、附属川島工場ト称シ営業スヘキ事
一右譲受代金三万五千円ハ七月一日ニ於テ一時ニ株金ヘ払込タル理由ナルヲ以テ、本社総株金払込ヲ終ハル迄ハ過払株金ニ対シ、相当ノ利子ヲ仕払ハザル可カラズ、其利子ノ割合ハ川島工場ノ営業上ヨリ得ル処ノ純益ノ高ニ依リテ定画スルヲ至当トスルニ因リ、従前営業ノ利益全高ヲ確実査撿スベキ為メ、株主中ヨリ調査委員三名ヲ撰拳シ、創立委員及ヒ此調査委員ヘ其事務ヲ委托スベキ事
一本社ノ工業上ニ於テハ学識実験兼全シタル者ヲ採用セザルベカラス然レトモ之ヲ得ルハ亦貿易《(容)》ナラザルヲ以テ、要之大阪紡績会社ヲ模範ト為シ、同社ニ依頼シテ相当ノ技術者ヲ仮用シ、一時之ニ委任シ此外従前川島紡績所ニ従事シテ稍々実験アル者一名ヲ以テ補佐トナシ、而シテ他日十分適実ノ技術者ヲ養成スベキ事
一本社工場設立ノ地ハ四日市浜町東手字早船及六左起ノ耕起ノ耕地ヲ購ヒ、地基ヲ築成シテ之ニ充ツベキ事
一第一回株金ノ払込ハ本年八月三十日限トシ、第二回以後ノ募集時日ハ毎次三十日前ニ通知スベキ事
一株金払込ハ第一国立銀行本店及各支店ニ委托シ、応分ノ手数料ヲ支払フベキ事
一本社創立事務所ハ第一国立銀行四日市支店構内ヲ借用シ、川島工場営業事務ハ該場ニ於テ取扱フベキ事
一創立委員ニ付与スベキ手当金額ハ、他日撰拳セラルベキ委員長之ヲ酌定スベキ事
    ○三重紡績所譲受代金ニ対スル利子支払方ノ事
六月三日決議ノ旨ニ基キ、三重紡績所旧持主ヘ支払フベキ利息割合ハ旧株主ニ於テハ現在工場ノ評価三万五千円ハ新工場落成シ完全ノ営業ヲ為シ得ル場合ニ至リ生スル利益収入予算ニ対シ其比較ヲ採リ、年壱割弐歩以上ノ利益ヲ得ル目的ヲ以テ算出評価シタルモノナルガ故ニ、
 - 第10巻 p.123 -ページ画像 
現今ノ普通利子年六朱ト見做シ、之ヲ新会社ヘ引渡シ、代金ヲ受取モノトセバ、新工場落成完全ノ営業ヲ為スニ至ルマテノ間、旧株主ハ其目的ノ半額ニ当ル利益ヲ得ル耳ニ止マリ、年壱割二歩ノ利子ヲ生スル工場ヲシテ年六朱ノ利子ヲ以テ譲与セシ姿ニシテ、甚ダ不利ナルガ為メニ、新工場落成営業スルニ至ルマテ、現工場ハ旧持主ノ営業トシテ損益共ニ負担シ、而シテ新会社ニ払込ムベキ株金ハ之ヲ別途ニ支出シ新会社工場落成ノ日ヲ俟テ、其紡績所ヲ交付スベキコトヲ要望セリ、然ルニ創立委員ニ於テハ、旧持主望ノ如クスル時ハ、新工場工事中現在工場ニ於テ諸般ノ利便ヲ得ル能ハサル耳ナラス、機械ノ取扱役員職工ノ進退等ニ至ルマテ大ニ不便ヲ生シ、其煩情云フベカラサルヲ以テ従前三重紡績所利益金ノ平均高ヲ算出シ、而シテ其高ハ将来永ク収メ得ラルベキモノト見做シ、其率準ヲ以テ過払金額ニ対シ利息ヲ支払フベキヲ以テ相当ナリトシ、遂ニ此委員等ノ見解ニ同意シタルヲ以テ、乃チ従前実際ノ帳簿上ニ就キ調査セシニ、四ケ年間ノ平均高金三千百六十八円七十銭四厘ニシテ、之ヲ該譲受代金三万五千円ニ率スレバ年利九朱○五厘余ニ当ルヲ以テ、更ニ協議ヲ経、年九朱ノ日歩利子ヲ過払株金ニ対シ、本年七月一日ヨリ支払フベキニ決議セリ


渋沢栄一 日記 明治一九年(DK100015k-0002)
第10巻 p.123-124 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治一九年
    四日市伏木新潟巡回紀行
三十日○五月 五時豊橋ヲ発シ十二時熱田ニ抵ル、時ニ八巻・船本・伊藤諸氏来リ迎ヒ大森屋ニ於テ午餐ス、午後二時汽船熱田ヲ発シ四時半四日市ニ達シ浜田屋ニ投宿ス、晩ニ支店○第一銀行四日市支店ニ抵リ事務ヲ一覧ス、此日天気朗晴風強ク塵埃甚シ、夜熊谷・山辺氏等大坂ヨリ来着ス
三十一日○五月朝来風雨甚ク外出スル能ハス、伊藤・駒田・船本其他緒氏交々来話ス、午後雨ヲ冒シテ水谷氏ノ紙質製造所及油絞器械ヲ一覧シ、更ニ紡績器械設置ノ地所ヲ見ル、熊谷・山辺・伊藤ノ諸氏同行ス一覧後再ヒ支店ニ到リ事務ヲ検査シ午後六時松茂楼ニ抵ル、蓋シ地方諸氏四十五人ノ招宴ニ応スルナリ、酒間知音ノ数人ト雑談シ宴席頗ル盛ナリ、夜十二時旅亭ニ帰宿ス
  ○五月廿六日東京ヲ発シ、仙石原・蒲原・静岡・豊橋ヲ経テ三十日四日市ニ抵ル。
三日○六月 ○上略 午後一時半四日市ニ達ス、地方諸子皆来リ迎フ、此夜地方諸子ヲ松川楼ニ招宴ス、午後三時紡績工場ノコトヲ地方発起者数名ト浜田屋ニ会議ス○下略
  ○六月一日津ニ赴キ此日再ビ四日市ニ抵ル。
    京坂巡回紀行
十二日○十二月 晴午前六時豊橋ヲ発シ岡崎ヲ経テ午後一時熱田ニ抵ル、四日市店八巻道成及地方商估下里・伊藤・水谷等来迎ス、相伴フテ名古屋ニ抵リ魚半楼ニ投宿ス
三重紡績会社ニ関スル事務及水谷工場ノコトヲ議ス、夜船本竜之助氏来ル、宴ヲ設ケテ芸妓ノ歌舞ヲ見ル
三重紡績会社器械代ノコトニ付テ本店佐々木氏ヘ書状ヲ送ル、東京西京ヘ電報ヲ発ス
 - 第10巻 p.124 -ページ画像 
  ○十二月八日東京ヲ発シ、横浜・湯本・吉原・藤枝ヲ経テ此日名古屋ニ抵ル
  ○右日記巻末ニ記セシ覚書中ニ左ノ記事アリ。
  「原田乕蔵 三十余
    工部大学卒業生ニテ其後兵庫造船所ニ従事シ、又工部大学教授トナリ、当時大阪商船会社監督役勤仕
   斎藤垣三
    工部大学卒業生ニテ当時造幣局器械方奉職
   河井清三郎 二十八
    職工学校教員
   水上彦太郎 二十五六
    専売特許可役員
   右三重紡績会社雇員見込ノ人名
   外ニ
     大谷竹蔵
      職工学校生徒
     下山秀久
      工部大学生徒」


勢州毎日新聞〔大正七年五月七日〕 渋沢男の車中談(DK100015k-0003)
第10巻 p.124-125 ページ画像

勢州毎日新聞〔大正七年五月七日〕
    渋沢男の車中談
○上略
「伊藤君は川嶋と云ふ所にて紡績所を経営せしが、其の温厚篤実にして正直至誠、事に当るの熱烈なるを知りたる予は斯の人ならば斯の事業も必ず遂行し得られんとの念を強めしが、予は明治拾年同志と謀り大阪紡績会社を起せる経験もあり、故に予は伊藤君と相語るや其の為す有るを信ずるも惜むらくば好漢事業に対する主義消極に流れ規模小さき憾みあり、須らく思想雄大何事も積極的に進まざる可らずと訓戒忠告せしが、予は明治維新に際し諸事更革され頓に興国の機運を招徠せしは総て積極主義なりし為めに外ならずと確信すれは也、何事も
△穣極主義 の下に為さざれば真の大発展は望む可らす、此を以て三重県に来り、津市の藤堂家山荘たりし偕楽園に当時の知事にて今の石井駐米大使の先考なる石井邦猷君・伊藤君及び地方の有志と会合するや、予は規模を大にして積極の方針を執らん事を力説したり、斯る主義の下に予は技術者を欧米に派遣せよと慫慂せしが其の様の事をしては費用の出場がなしと、当時は伊藤君等も躊躇したれど、予は之が実行に努め、浅草蔵前なる高等工業学校の出身なる工業学校長の正木泰蔵君などに諮り、優秀の技術者を求しが斎藤君(恒三)なども未だ少年の一技術者に過ぎざりき、今や工場も十六ケ所の多きに達し今日の興隆を見るに至れるが要するに
△人材配置 宜しきを得たるが為め従つて事業の経営も順調に好成績を収めたるならん」
○下略
  ○右ハ五月四日ヨリノ愛知三重両県下旅行中記者ニ語リタル車中談ノ一節ニシテ「竜門雑誌」第三六一号(大正七年六月)第七〇頁ヨリ採録セリ。
  ○右旅行中五月八日、四日市の官民有志歓迎会に於ける講話中にも栄一は三重紡績会社創立の事に触れ「明治十七年に伊藤伝七君と御交際を始めました」と述べ、更に「伊藤君と紡績から交際を願つたのも是等の関係からで
 - 第10巻 p.125 -ページ画像 
当時伊藤君は川島(三重郡川島)と云ふ処で、二千錘の紡績を起されたので、政府は十六七年頃から始めたのですが、大阪紡績は渋沢が四日市地方に紡績事業を起すと云ふ事は果して大阪の事業に影響せぬかと非常に心配して相談がありましたが、私しが三重県で紡績事業に賛成して起業するとも決して心配する必要は無く、世界の大勢から見るも大阪紡績の人が憂ふる様な事は無いと私しは先見の明を誇る訳でありませぬが、英国倫敦等の例で見まするも斯る少さな考を起すべきもので無いと信じて三重紡績を起した原因であります、其後十五年か十七年頃かと思ひますが時の知事も力を入れまして、伊藤君も尽力致し今日あるに致りました」と述べたり。
   (「竜門雑誌」弟三六一号第三七―三八頁〔大正七年六月〕)


竜門雑誌 第四八一号・第一四二―一四三頁 〔昭和三年一〇月〕 渋沢子爵と紡績事業(斎藤恒三)(DK100015k-0004)
第10巻 p.125 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第一四二―一四三頁 〔昭和三年一〇月〕
    渋沢子爵と紡績事業(斎藤恒三)
○上略
 子爵と三重紡績との関係も亦子爵と大阪紡績との関係に遜らぬものがある。三重紡績は其初め先代伊藤伝七氏の伊勢国川島村に於ける個人経営にかゝるものであつて基錘数は僅に二千錘に過ぎなかつた。然るに創業以来引続き幾多の困難を極めたる結果、遂に明治十八年頃時の三重県令石井邦猷氏に其救済方法を議りたる処、石井氏は直にそれは東京の渋沢氏に面会の上親しく指導を仰ぐべしと注意されたるのみならず、更に渋沢子爵に対する鄭重なる添書を与へられたるを以て、早速伊藤氏は東京に子爵を訪ひ其事情を述べられた。由来大紡績建設は子爵の熱心なる主張であつて子爵は該工場をせめて一万錘の工場に拡張する必要ある旨を懇篤親切に勧説せられ、之れに必要なる資本は東京・四日市両方面に於て募集することゝなり、子爵の多大なる尽力に拠り首尾克く該拡張計画が実現せられた。時は明治十九年七月資本金二十二万円であつた。此時子爵から伊藤氏に対し会社の創立と同時に大阪紡績に於ける山辺氏の如き有為の人物を選抜してこれを英国に遺はし斯業の実習を為さ《(し脱)》むベしとの注意あり、伊藤氏は時の東京高等工業学校(蔵前)長正木暹蔵氏《(マヽ)》に謀りたる結果、図らずも私がその選に当りこゝに私が子爵の請により同紡績会社に入社したのである。
○下略


竜門雑誌 第六二一号・第一八―一九頁 〔昭和一五年六月〕 青淵先生を偲ぶ(東洋紡績株式会社取締役会長伊藤伝七)(DK100015k-0005)
第10巻 p.125-127 ページ画像

竜門雑誌 第六二一号・第一八―一九頁 〔昭和一五年六月〕
    青淵先生を偲ぶ(東洋紡績株式会社取締役会長 伊藤伝七)
○上略
 次に三重紡績につきましても先生の御配慮は大阪紡績に劣らぬものがあるのであります。三重紡績は明治十三年頃、丁度鹿島万平さんと一緒の頃に、私の父○十世伝七が政府の払下を受けまして二千錘の紡績を拵へたのであります。場所は四日市の附近の川島村と云ふ所であります。其の川島村に設けますのにも、やはり水力の関係で川島村を選んだのであります。爾来私の父は親戚の者共と経営しましたが、中々思ふやうに成績が挙りませぬ。遂に何とか大転回を考へなければいけないと云ふことに思ひ付きまして、其の当時の第一銀行の四日市支店長でありました八巻道成氏に、どうも成績が良くないが何か一つ考へて
 - 第10巻 p.126 -ページ画像 
貰ひたい、と云ふお願を致しました所、それでは子爵――其の頃は子爵ではありませぬが――青淵先生に御相談をしたら宜からうと云ふので、父は明治十八年東京で初めて先生にお目に懸りまして、色々御相談を申上げ、お教へを願つたのであります。所が先生の仰しやるにはさう云ふ規模の小さなものでは迚も製品は不揃ひだし、又経済的運用の上からいつても不利であるから、合本共力してやらなければ物にならないと云ふので、先の大阪紡績の例に倣つて一万錘の規模で、資本金は二十二万円と云ふことに決められました。併し田舎のことゝて迚も二十二万円を纏めることはむづかしく、金融上非常に困りましたが先生はそれでは俺の方で半分斡旋してやらうと仰しやつて、東京方面に於て十一万円をお纏め下さいまして、明治十九年の六月に三重紡績会社と云ふものが出来上りましたのであります。○下略
  ○三重県川島紡績所ハ政府ノ奨励策ニヨル十基紡機払下ニ基ク紡績所ノ一ニシテ、明治十三年二月伊藤伝七外一名之ガ設立ヲ出願シ、同十五年六月操業ヲ開始セリ。伊藤伝七(九世)ハ既ニ明治初年以来綿糸紡績業経営ノ志アリ、自ラ鹿島万平ヲ訪ネテ教示ヲ受クル所アリ。子伝一郎モ亦赤羽工作局・鹿島紡績所・富岡製糸所・横須賀造船所等ヲ視察シ、更ニ堺紡績所ニ見習工トシテ入所シ実地ノ研究ヲ遂ゲタリ。(伝一郎ハ明治十六年父ノ歿後伝七(十世)ト称シ、専ラ紡績所ノ経営ニ当リシガ、後ソノ経営ニツキ栄一ノ援助ヲ求メシナリ。)工場ノ設立ニ当テハ、当時ノ政府奨励ニヨル各紡績所ニ於ケルト同ジク、水路及設立地ノ撰定、工場ノ設計、機械ノ装置等ニツキ政府技師石河正竜ノ指導ニ俟ツ所多ク、コノ間ノ事情ハ本項ニ参考資料トシテ収録セシ正竜ノ「復命書」及ビ「日記」ニ明カナリ。明治十五年開業後十八年ニ至ル営業成績ハ左表ニ現ハレタル如ク不振ニシテ、特ニソノ当初ニ於テハ製糸ノ品質不良ノ為臥雲紡糸及印度糸ニ圧迫サレ販路開ケズ損失ヲ重ネタリ。
            興業資本    営業資本     支出      収入      損△益
                円       円       円       円       円
    明治十五年  六五、〇〇〇  一〇、〇〇〇  一六、五二八  一四、七〇八  △一、八二〇
    〃 十六年  〃       〃       四七、四六六  四二、一七八  △五、二八八
    〃 十七年  〃       〃       四四、九九九  四九、九五〇   四、九五一
    〃 十八年  六九、〇七八  〃       六四、五三六  六六、二〇三   一、六六七
   而シテ成績不振ノ原因ニ就テハ、当所ヨリ政府ニ提出シタル書類ニ於テ、一資本金ノ夥多ナルコト、二機械ノ不完全ナルコト、三機械ノ解説書ナキコト、四前紡機ト精紡機トノ作業歩合釣合ハサルコト、五水力ノ不足ナルコトヲ挙ゲタリ。不振ノ結果ハ又払下紡機ノ代価延納トナツテ現ハレ、十六年一月第一回延納願ヲ提出シ、以後十九年四月迄六回ヲ重ネ、遂ニ同年十月政府ノ棄捐スル所トナレリ。尚株式組織ニヨル工場規模拡大ノ計画ニツキテハ十九年四月ノ第六回延納願ニ於テ、「現在工場ノ困難ヲ輩出セシハ其原因一ニシテ足ラスト雖モ主トシテ其基礎ノ小ナルニ帰セサルヲ得ス故ニ世運ト共ニ進歩シ永ク当紡績所ヲ維持シ素志ノ如ク輸入綿糸ノ幾分ヲモ防遏セント欲セハ、差当リ一万錘ノ紡績所ヲ新設シ尚世況ニ伴フテ漸次増設スルヲ最モ適当ノ事ト奉存候、依ツテ今般一万錘工場ヲ設立スヘキ見込ヲ以テ損益予算工事ノ順序等取調候処粗営業可相成ノ目途相立候、然ルニ固有資本ハ大凡金十七万円ヲ要スヘシ微力ノ私共既ニ現在工場ノ資金四万有余円ノ損失ヲ負担ニ帰セシメ、尚夥多ノ所設興業資金ヲ支出スル如キハ到底力ノ及フ処ニ無之ニ付、会社法ヲ以資金ヲ募集工場ヲ増設シ、現在工場ハ元資金ノ多額ヲ顧ミス現今ノ価格ヲ以附属工場トナシ、永遠維持ノ方法ヲ確立シ将来当業隆盛ク期センコトニ決心、既ニ株主募集ニ着手仕候次第ニ御座候」ト述べ、之ヲ以テ代価延納ノ理由トナシタリ。(絹川太一
 - 第10巻 p.127 -ページ画像 
編「本邦綿糸紡績史」第二巻第四三一―五三五頁ニ拠ル)
  ○工場規模拡大ニ際シ伊藤伝七ノ栄一ニ接近セシ経路ニ就キテハ、絹川太一ハ「本邦綿糸紡績史」第二巻(第五三六―五三七頁)ニ於テ、第一銀行四日市支店長八巻道成ノ紹介ニヨルモノト三重県令石川邦猷ノ紹介ニヨルモノトノニ説ヲ挙ゲ、「各所の風説を綜合するに矢張石井説が事実らしい。」トナセリ。


本邦綿糸紡績史 (絹川太一編)第二巻・第五四一―五四三頁〔昭和一二年九月〕(DK100015k-0006)
第10巻 p.127 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

三重紡績会社創立規約(DK100015k-0007)
第10巻 p.127-128 ページ画像

三重紡績会社創立規約
    有限三重紡績会社創立規約
三重紡績会社ヲ設立スルニ付、発起人ノ協議ヲ以テ創立規約ヲ決定スルコト左ノ如シ
 - 第10巻 p.128 -ページ画像 
第壱条 当会社委員ノ撰拳会ハ来ル明治十九年七月迄ニ開会スベキニ付、其迄ノ間ハ発起人ノ投票ヲ以テ創立委員ヲ定メ、之レニ定款ニ明記スル委員ノ権限ヲ担当セシムベシ
  但創立委員ノ数ハ三名トス
第弐条 当会社資本金募集方ハ総額弐拾弐万円ノ、内金拾弐万円ハ既ニ地方発起人ニ於テ引請ケ、残金拾万円ヲ各地有志者ヨリ募集スルモノトス
第三条 右資本金弐拾弐万円ノ内金三万五千円ハ、三重県下三重郡川島村ニ在ル三重紡績所ヲ買受ケタル代金ヲ以テ之レニ充テ、残ル拾八万五千円ヲ新ニ募集スルモノトス
第四条 右川島村ニ在ル紡績所ハ来ル七月一日ヲ以テ引継、新会社ノ営業ト為ス故ニ、引継当日ヨリ総株金払込ヲ終ル迄、右買受ケタル代金三万五千円ニ対シ年九朱ノ割合ヲ以テ日歩利子ヲ支払フモノトス、而シテ右買受代金ノ内ヨリ株金払込高ヲ其期日毎ニ引去ルニ付其差引残高ヲ其都度元金ト為シ利払スルモノトス
○第五条
以下略
右ハ三重紡績会社発起人総会議ニ於テ議決シタル証トシテ各記名調印候也
  明治十九年六月
           三重紡績会社発起人
                     連署印


三重紡績会社定款(DK100015k-0008)
第10巻 p.128-129 ページ画像

三重紡績会社定款
三重紡績会社ヲ創立スルニ付、其株主ノ衆議ヲ以テ決定スル所ノ定款ハ左ノ如シ
    第一章 総則
第壱条 当会社ノ名号ハ三重紡績会社ト称シ、三重県伊勢国三重郡四日市市字早船ヲ以テ本社ノ位地ト為スベシ
第弐条 当会社ノ営業年限ハ明治十九年 月 日ヨリ起リ満三十年トス、但株主総会ノ決議ニ依リ、営業年限ノ延期ヲ請願スルヲ得ベシ
第三条 当会社ハ有限責任トシ、負債弁償ノ為メニ株主ノ負担スベキ義務ハ株金ニ止ルモノトス
第四条 当会社ノ営業ハ洋式ノ器械ヲ用ヒ、綿糸ヲ製造販売スルヲ以テ目的トナシ、将来社業ノ進歩スルニ至リ、更ニ織布ノ工業ヲ起シ兼業スルコトアル可シ
    第二章 資本金ノ事
第七条 当会社ノ資本金ハ弐拾弐万円ト定メ、壱株ヲ百円ト為シ、総計弐千弐百株ヲ内国人民ヨリ募集スベシ
  但営業ノ都合ニヨリ株主ノ衆議ヲ以テ、此株高ヲ増減スルヲ得ベシ
    第三章 委員ノ事
第拾壱条 当会社株主ノ投票ヲ以テ三拾株以上ヲ所有スル株主中ヨリ人員三名ヲ撰挙シ、之レヲ当会社ノ委員ト為スベシ
第拾弐条 委員ハ互撰ヲ以テ委員長壱名ヲ撰定スベシ
第拾三条 委員ハ其会議ノ決議ヲ以テ、当会社全体ノ事ヲ総理スルノ
 - 第10巻 p.129 -ページ画像 
権アルベシ、故ニ会社ノ業務ヲ整理スルニ於テハ、株主ニ対シテ其責ニ任スベシ
○第十四条ヨリ
第六十四条迄略
右十一章六拾四条ハ当会社株主ノ衆議ヲ以テ相定メタルニ付、一同記名鈐印シテ、以テ之ヲ証明致候也
   明治十九年六月
            三重紡績会社発起人
                      連署印
  ○当社創立ノ際ハ栄一出資セズ、明治二十一年ニ至リ金参万参百円ヲ出資シタリ。
  ○当社最初ノ委員長ハ八巻道成ニシテ、委員ハ九鬼紋七・伊藤伝七ナリ。
  ○明治三十五年五月、当社取締役会長九鬼紋七・取締役伊藤伝七・同斎藤恒三ノ名ヲ以テ旧委員長八巻道成ニ対シ、ソノ旧功ヲ彰センガ為メ感謝状ヲ贈ル。ソノ一節ニ曰ク「貴下曩に第一銀行四日市支店在職中十九年六月渋沢男爵の代表者を以て本社創立の発超人と為り、進て計画の労を執り其の開業に当り更に委員長と為り、二十三年十一月辞職に至るまて其功少なからさるを鳴謝し記念として金屏風一双を晋呈す」ト。(「竜門雑誌」第一七一号第六〇頁〔明治三五年八月〕)


聯合紡績月報 第一二号・第四三―四五頁〔明治二三年四月〕 三重紡績会社(DK100015k-0009)
第10巻 p.129-130 ページ画像

聯合紡績月報 第一二号・第四三―四五頁〔明治二三年四月〕
    三重紡績会社
同社ハ明治十九年二十二万円ノ合資株式会社ノ組織ヲ以テ設立シ、発企人ノ互選ヲ以テ八巻道成・九鬼紋七・伊藤伝七三氏ヲ創立委員ト定メ、三重県伊勢国三重郡四日市町大字浜町ニ地ヲトシ同社ノ位置トナシ三重紡績会社ト称ス、抑モ同会社設立ノ始メニ当リ去ル明治十三年伊勢国三重郡四郷村大字室山伊藤伝七外三名ニテ設立セシ、同国同郡川嶋村大字川嶋ノ三重紡績所ヲ悉皆買受ケ附属川嶋工場トナシ、明治十九年七月ヨリ引継キ営業ニ従事セリ、同工場ハミユール精紡機四台(錘数二千本)及之ニ附属スル前紡績認繰機等ニシテ、三十馬力ノ水車及ヒ二十五馬力ノ蒸滊機ヲ装置セリ
同社工場煉瓦石二階家五百五十七坪四合六勺平家百三十五坪二合二勺ニシテ、其工事ハ日本土木会社ニ托シ明治廿年六月一日ヨリ起工シ、同廿一年五月ヲ以テ竣工セシメタリ
明治十九年十月工学士斎藤恒三氏ヲ聘シ同社ノ技師長トナシ、英国ヘ派遣セシメ機械買入及ヒ同国紡績諸工場ヲ視察セシメ、傍ラ有名ナル同国オールドハム紡績工場ニ入学セシメ、因テ実業ノ研究ヲ卒ヘ廿年十月帰朝ス
同工場ヘ設置セシ蒸滊機ハ英国ランカシヤー州ボルトン「ヒツク、ハーグリーブス」協同会社ノ製造ニ係ル実用二百五十馬力ノコンパウンド、タンデム形ニシテ、滊鑵三箇ヲ供ヘ紡績器械ハ同州オルドハム「プラツト」兄弟商会ノ製造ニ係ルミユール精紡機十台(錘数七千本)リングフレーム精紡機十台(錘数三千四百四十本)及ヒ之ニ附属スル前紡機綛繰機等ニシテ、明治二十年十二月ヨリ器械据付ニ着手シ廿一年三月其一部ヲ整頓セシヲ以テ同月廿六日ヲ以テ紡出ヲ試ミ、爾後着々歩ヲ進メ同年十二月ニ至リ諸工事全ク整頓セシヲ以テ、是ヨリ昼夜営業ヲナスニ至レリ
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明治廿年三月同社創立事務追々整頓セシヲ以テ創立委員ノ任ヲ解キ、更ニ定款第十一条ニ遵ヒ委員選挙ノ投票ヲナセシニ、八巻道成・伊藤伝七・九鬼紋七ノ三氏当選各就任セリ、明治廿一年七月曩ニランカシヤー州マンチエスター「マザープラツト」商会ヘ注文セシ、電気灯一台並ニ之ニ供用スル滊機一台到着セシヲ以テ之カ据付ヲナシタリ
○下略
  ○「最初三重紡績が第一工場の紡機を全部ミユールにすべく注文方を斎藤氏に命じた。視察の結果氏はリングの甚だ有利なるを看破し、自己の見計らひを以てミユールの外リング三千余錘を買入れた。同時に据付技師としてプラツトのドランスフヰールド氏を雇ひ入れた。此人は専らミユールの達人であつた。据付後三重紡はミユールで主に二十番を紡出し、リングでは二十番から三十番を紡出した。」(絹川太一編「本邦綿糸紡績史」第二巻第五四八―五四九頁)


三重紡績会社第二回株主総会要件録 明治二〇年七月一五日(DK100015k-0010)
第10巻 p.130-133 ページ画像

三重紡績会社第二回株主総会要件録 明治二〇年七月一五日
    ○三重紡績会社第二回株主総会要件録
明治二十年七月十五日三重紡績会社第二次株主定式総会ヲ四日市新田町松茂楼ニ開設ス、当日来会シタルモノ左ノ如シ
 伊藤伝七殿   九鬼紋七殿   下里貞吉殿
 八巻道成殿   杉村仙之助殿  九鬼文之助殿
 三輪猶作殿   大塚八郎兵衛殿 鈴木廉平殿
 後藤伊兵衛殿  川島伝左衛門殿 中島文五郎殿
  以上拾弐名
右ノ外委任状ヲ以テ代理ヲ托スルモノ左ノ如シ
 尾高幸五郎殿  小林吟次郎殿  中島クニ殿
 伊藤伝平殿   岡田重蔵殿   天春文衛殿
 水谷孫左衛門殿 九鬼総太郎殿  田野定吉殿
 辻新兵衛殿   後藤仁兵衛殿  梅浦精一殿
 船本竜之助殿  浜野門三郎殿  田中利吉殿
  以上拾五名
又其他来会シ能ハザルヲ通知シ又ハ其通知ナク欠席スルモノ左ノ如シ
 坊野宗兵衛殿  柿沼谷蔵殿  薩摩治兵衛殿
 杉村甚兵衛殿  森耕殿    秋島新三郎殿
 小林八郎兵衛殿 水谷耕平殿
  以上八名
右来会ノ諸氏ハ午後二時議場ニ着席ス、委員長八巻道成氏議長ノ席ニ就キ、先ツ株主諸君已ニ会同セラレタルニ依リ、第二次株主総会ヲ開クベキ旨ヲ述ヘ、書記ヲシテ委任状ヲ差出シタル人名並ニ委任ヲ受ケタル人名ヲ披露セシメ、続テ年度ノ考課状ヲ朗読セシメ、了テ議長ハ考課状中不審ノ廉アラバ質議アランコトヲ乞ヒ、且ツ本季間ノ営業ハ之ヲ前季ニ比スレハ非常ノ好結果ナリ、是レ全ク世況大ニ輓回ノ徴ヲ現ハシ、一般購買力ヲ増進シ、就中綿糸ノ需用ハ他ノ工業製品ヨリモ著シク必用ヲ感シタルト、役員等拮据勉励ノ功ヲ積ミタルトニ依リ、今日ノ好果ヲ奏シタルモノト信認セリ、然レトモ現今世上工業ニ注目スルモノ漸ク増加シ、紡績事業ノ如キ今後各地ニ創設ヲ企ツルモノ少
 - 第10巻 p.131 -ページ画像 
ナカラザレハ、従テ互ニ勉業競争ヲナスハ必然ノ勢ニシテ、目下ノ利益ハ此儘永遠ニ保続スルモノニ非ラズシテ、世運ノ進ムニ従ヒ営業ノ難キニ趣クハ自然ノ数ナリ、之ヲ欧米工業ノ有様ニ照スニ、該工業ノ景況タル年々改良進歩シテ営業ニ注意勉励スルハ非常ナレトモ、困難ヲ踏ムモノ少ナカラザル由ナリ、然レトモ当社ノ如キハ会社組織宜シキニ適ヒ、役員其人ヲ得タルニ依リ、前途ノ望ヲ属スベキハ諸君ト共ニ信スル処ナリ、斯ノ如ク今日世況好景気ノ機ニ投シ、各地工場創設ノ時ニ臨ミタレバ、新工場建築落成ノコトハ実ニ目下ノ急ナレバ、細心注意シテ百事漏脱ナカラシメンコトニ熱意配神スル処ナリ、右ノ事情ナルヲ以テ当季純益金ノ如キモ会社ノ基礎鞏固ノ為ヲ思ハヽ、之ヲ配当センヨリ寧ロ別段積立金トナスハ、其当ヲ得タルモノト考ヘラルルニ付、委員ニ於テ此原案ヲ提出シタル所以ナリ、諸君此意ヲ了シ、異見ノアル処ヲ討議シ、可否ヲ決セラレンコトヲ望ム
支配人伊藤伝七曰ク、本季間世況好景気ノ為メ製品ノ需用ヲ増シ、価格モ従ツテ騰進シタルト、職工ノ勉励ニ依リテ製造額ヲ増加シタルトニ因リ、多額ノ利益ヲ得タリ、然レトモ此益タル独リ工場ノ純益ノミニ非ラスシテ、売買上ニ得タルモノモ少シトセス、故ニ世況ノ浮沈ニ伴フノ憂ナシトセザレバ、今日ノ結果ハ前途持続スベキモノニ非ラサルナリ、依リテ之レヲ継続セント欲セハ、拮据勉業ノ功ト世況ノ如何ヲ考慮スルノニ者ハ実ニ必要ノ点ニシテ、着々事ヲ計ラザルベカラザルヲ信スルナリ
九鬼文之助氏曰ク、前季純益金ノ処分ハ曩ニ之ヲ了セリ、今回定款第五十一条ニ拠リテ処分セラルベキ各金額ハ考課帖朗読ノ節承リタレトモ聞洩シタル処アレバ今一応承リ度シ
議長、書記ニ命シテ之ヲ説明セシム
九鬼文之助氏曰ク、本季純益金中別段積立金ノ項ヲ設クルハ、会社ノ信用ヲ厚クシ、蹉跌ノ憂ヲ防クガ故ニ実ニ必須ノコトナレトモ、今日当社ニ好結果ヲ得タルコトナレハ、該金ノ弐割ヲ別段積立金トナシ、残リ八割ヲ各株主ニ配当セハ、一挙両全ノ策ナラン、諸君以テ如何トナス
議長曰ク、本社創立ノ際ヨリ東京渋沢栄一氏ヘ万般相談ヲナシ、其後モ常ニ定款外ノ処置ナレトモ会社全体ヲ鞏固ナラシメン為メ、委員ヨリ渋沢氏ヲ相談役ニ依頼シテ往復致シ居ナリ、故ニ当委決算《(季)》ノ後伊藤支配人ヲ上京セシメ、処分方ヲ相談シ来リタリ、今其大要ヲ支配人ヨリ述ベン
支配人曰ク、渋沢氏ト相談シタル要旨ハ当川島工場タル、新工場創立ニ先タチ、事務ノ手順ヲ定メ職工ノ養成ヲナスガ為メニ買入レタルモノニシテ、今日過当ノ益金ヲ得タルハ目的外ノモノニシテ、寧ロ僥倖ト云フベシ、而シテ現今全国ノ景況タル紡績事業ヲ属目スルモノ多ク、之レカ設立ヲ企ツルモノ各地ニ興起シタレバ、共ニ営業スルノ日ニ至タラハ今日ノ景気ハ多少変動ヲ生シ、過当ノ益金ヲ収ムルト否トハ未タ予メ計リ難シ、況ンヤ現在小工場ニシテ仮令過当ノ収益金アリト雖トモ、之ヲ株金募集ノ高ニ応シテ配当スレハ、多額ノ金員ヲ得ラルヘキニモ非ラサレハ、寧ロ前季ニ做フテ別段積立金
 - 第10巻 p.132 -ページ画像 
トナサハ、他日世況ノ変遷ニ遭遇スルコトアルモ、之レカ備トナリテ会社鞏固ノ基礎ヲ得、互ニ心ヲ安スル処多カラン、已ニ大阪紡績会社ノ如キモ本季純益金非常ニ多カリシカ故ニ、定款外ニ別段積立金ヲ設クベキ旨申入レ置キタル事ナリ、依リテ此益金ハ之ヲ配当センヨリ、別段ニ積立置ノ必要ナルヲ感スルニ付キ、余カ意見ヲ株主総会ノ際諸君ニ懇到報告セラルベシトノ事ナル旨ヲ述ブ
下里貞吉氏曰ク、純益金処分ニ就テハ之ヲ積立ツルノ必用ナルコトハ、第一会社ノ信用ヲ厚クシ、後日不利益ノコトアルトキノ備ヘトナルベキニ付間然スル処ナシ、然レトモ考課帖ヲ一見シテ、已ニ多分ノ純益金アルコトハ各承知スレトモ、実際配当金ヲ受クルコトアラハ、株主ハ一層満足スヘシ、殊ニ当地ノ如キ未タ会社組織ノ必須ヲ感セサルモノ多キ地ニアリテハ、創立中ニ利益金ノ配当アリト云ハヽ、世上ノ信用モ益々厚カラン、依テ曩ニ九鬼文之助氏ノ説ニ弐割ハ之ヲ積立八割ハ配当スヘシトアリタレトモ、右ニテハ配当金額端金アルコトニ付、一株弐円ツヽノ配当トシ、残余ハ前季ノ別段積立金中ニ加ヘ置カンコトヲ欲ス
議長曰ク、九鬼・下里両氏ノ説ハ少シク異同アレトモ到底配当スルノ主趣ナレハ原案ト配当ノ二説ニ分チ決議シ、其主趣ヲ一定シタル上細目ヲ討議シタシ
下里貞吉氏曰ク、配当スルノ主趣ハ大同小異ハアレトモ、大体九鬼氏ト同様ノ訳ニ付九鬼氏ヲ賛成ス
大塚八郎兵衛氏曰ク、九鬼・下里両氏ノ述ベラルヽ処ノ如ク積立金ヲモ設ケ配当モスルコトトセハ、両全ノコトニシテ大ニ都合ナラン
一同原案ト配当ノ二者ニ就キ可決セラレンコトヲ望ム、依テ議長ハ右二者ニ就キ投票セシメタルニ
 (原案ニ賛成スルモノ 三百二十七点)
 (配当ニ賛成スルモノ 二百二十六点)
依テ議長ハ原案ノ通リ可決シタル旨ヲ告グ
議長曰ク、本会ニ於テ決議ヲ乞フモノハ特ニ利益金配当ノ一条ナリ、然ルニ此条ハ既ニ決了セシニ依リ此ニテ閉会スベキナレトモ、玆ニ諸君ニ報道致シタキコトアリ、則チ新工場建築費ノコト是ナリ、該費ハ斎藤技術長、着英ノ上改良ノ器械ヲ求メ工場建築其他変更ヲ要スル所モアリテ株金ニ不足ヲ生スルヤノ事是ナリ、依テ之レカ不足ヲ補ハンニハ株式ヲ増加スルカ又ハ負債ヲ起サヽルベカラサルコトニシテ之カ処分方ハ総会ノ決議ヲ仰カサル可カラサル要件ナリ、然ルニ器械買入代金及ヒ建築費モ勘定未決ニシテ確実ナル計算ヲ立ツル能ハサルニ付、仕払金不足スルトキハ定款第三章第十四条ニ拠リ委員ニ於テ一時負債ヲ起シ仕払ヲナシ追テ決算ノ上処分方総会ノ決議ヲ請ハント存ス、依テ予メ諸君ノ承知セラレン為玆ニ陳述致置クナリ、衆皆之ヲ諾ス
議長ハ右ニテ総会ノ完了セシ旨ヲ述ベ、更ニ談話会ヲ開キ委員支配人ハ営業上ノ大要並ニ新工場建築ノ要領ヲ談話シ、畢テ午後八時一同散会セリ
  明治二十年七月十五日      議長八巻道成
 - 第10巻 p.133 -ページ画像 
  ○当社ノ利益配当率左ノ如シ。

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 明治二十年上半期  無       明治三十年 下   一・六             割 〃 〃   下   一・二     〃 三十一年上   一・六 〃 二十一年上   〇・七     〃 〃   下   一・二 〃 〃   下   一・二     〃 三十二年上   一・四 〃 二十二年上   一・四     〃 〃   下   二・〇 〃 〃   下   一・五     〃 三十三年上   一・二 〃 二十三年上   〇・八     〃 〃   下   〃 〃 〃   下   〇・四     〃 三十四年上   一・三 〃 二十四年上   〇・八     〃 〃   下 〃 〃   下   一・〇               一・四強 〃 二十五年上   一・五   自 〃 三十五年上 〃 〃   下   一・八   至 〃 〃   下 〃 二十六年上   一・四               一・二 〃 〃   下         自 〃 三十七年上           一・六   至 〃 〃   下   一・四 〃 二十七年上           〃 三十八年上 〃 〃   下   一・〇               一・八〇八 〃 二十八年上   一・五     〃 三十九年上 〃 〃   下           〃 〃   下           一・八               三・〇〇八 〃 二十九年上           〃 四〇年 上 〃 〃   下           〃 〃   下   二・〇           二・〇     〃 四十一年上下  一・二 〃 三十年上            〃 四十二年上   一・五〇四 



  ○資本金額・積立金高ノ大要左ノ如シ。
     年月        公称資本金     払込資本金       諸積立金
                     円          円          円
   明治二十年末      二二〇、〇〇〇    二二〇、〇〇〇      一、九八七
   明治二十五年末     五九五、〇〇〇    五九五、〇〇〇    一三六、三一八
   明治三十年末    一、五〇〇、〇〇〇  一、五〇〇、〇〇〇    五五一、四〇一
   明治三十五年末   二、〇〇〇、〇〇〇  一、七〇〇、〇〇〇    五四〇、〇〇〇
   明治四十年末    九、六〇〇、〇〇〇  五、二七七、六七五  二、七五〇、一七〇・七〇
   明治四十二年六月  九、六〇〇、〇〇〇  五、二七七、六七五  三、一六〇、〇〇〇
  ○製造高ノ大要左ノ如シ。
              糸             布
                 封度
   明治二十五年 七、三九二、三〇四・五    
                               ヤード
   明治三十年  一四、〇八九、一七八     三、八三〇、五一三
                                 反
   明治三十五年 一七、一二八、〇九五・七五    四九四、六七二
                   貫
   明治四十年   六、三四六、四一〇・六九〇 一、四四五、二八三



〔参考〕愛知広島大坂三重岡山静岡栃木各府県下紡績所建立復命書(註 農商務省工務局宛石河正竜氏復命書)(DK100015k-0011)
第10巻 p.133-136 ページ画像

愛知広島大坂三重岡山静岡栃木
各府県下紡績所建立復命書
    (註 農商務省工務局宛石河正竜氏復命書)
               (日本綿業倶楽部研究室所蔵)
    三重紡績所
三重県下伊勢国三重郡室山村伊藤伝七外一名設立。同県下同国同郡川島村紡績所ノ儀ハ。伝七及ビ其長子伝一。嘗テ界紡績所《(堺)》ヲ視テ思フ所アリ。奮然志ヲ起コシ。自亦之コレヲ立テムトスルコト已ニ久シ。明治十二年十二月九日伝一来リ正竜ニ見ヘテ其事ヲ商量ス。時偶マ官。
紡績機械ヲ下民ニ貸シ与ヘムトスルノ挙アルニ会シ。遂ニ官ニ其一ヲ拝借セムコトヲ願ヒテ聴サレタリ。当時四日市港船舶ノ便。今日ノ如
 - 第10巻 p.134 -ページ画像 
ク宜シカラズ。伝七ノ意。石炭ハ頼ム可カラズ。機械ノ運転ハ。必ツ水ヲ以テシ。而シテ其水ハ。我居ヲ距ルコト。務メテ近キ者ヲ用ヰムトスルニ在リ。因テ予メ其水ト地トヲ点撿シ。官ニコレヲ択バムコトヲ請ヘリ。正竜命ヲ奉シテ。明治十三年五月二十一日三重県庁ニ至リ翌二十二日県ノ勧業課員二名ト共ニ。伝一ヲ導トシ。先ヅ河曲郡玉垣村字ナ戸ケ坪ナル地ニ水ヲ視ルニ。田疇ノ間ニ通セル一溝ニシテ。川ト曰フ可キ者ニ非ズ。水最少ク。高低多カラズシテ。用ウ可カラズ。又此水ヲ分カチテ。一水車場ヲ設ケタル有リ。コレヲ視ルニ。亦用ヰルニ足ラズ。此水流ハ。灌田ノ為メニ設ケタル所ニシテ。六郷井ト名ツケ。俚民灌田用ノ水流ヲ名ツケテ井ト曰フコヽヲ距ルコト遠カラズ。同郡甲斐河田両村ノ界ニ於テ。鈴鹿川ヨリ分カチ取リタル者ナリ。次デ三重郡松本村ニ水ト地トヲ視ル。其水ハ。同郡尾平村ノ地ニ水門ヲ開キ。数村ノ田ニ灌グ用ノ為メニ。三岳川ヨリ分カテル者ニシテ。其量。今視ル所甚ダ少クシテ用ニ足ラズ。
○中略
明治十三年十一月二日県ノ勧業課長三輪親行ト共ニ。更ニ川島村ノ地ヲ視テ。菰野村字ナ募リノ地ニ至リ。コヽニ紡績所ヲ設クルノ位置ヲ経画ス。
○中略
各地。各水。視ル所大率此ノ如クニシテ。用ウ可キ者アリ。用ウ可カラサル者アリ。就中菰野村字ナ募リノ地ヲ最良ナリト為ス。而シテ伝七ハ。川島村ノ地ヲ用ヰムト曰ヒ。伝一ハ菰野村ノ地ヲ用ヰムト曰ヒ。
各々見ヲ殊ニシ。父子相和セザルガ如クナルニ至レリ。後遂ニ川島村ノ地ヲ用ヰルニ決シ。明治十四年一月十日川島村ニ行テ。地ノ境界ヲ画シ。水路ノ線ヲ定ム。此地。卑湿且ツ川ニ瀕セルガ故ニ。地下水近ク。僅ニ地ヲ鑿テバ水輙チ出ヅ。又被水ノ虞無キニ非ズ。因テ三岳川ノ沙礫ヲ取テ。コレヲ築高スルコト七尺ニ至ル。家屋建搆ノ基礎。陀螺水車安置ノ地場ヲ経始セムトスルニ。又衆議紛紜決セズ。同年三月七日伝一伝七父子ニ会シ。建築経始ノ図ヲ示シ。事ノ便否。費ノ多寡ヲ開説ス。父子大ニ喜ビ。翌八日事ノ決ハ。正竜自コレニ任ズト為シ。以テ建築吏員ニ諭告シ。事始メテ定マル。明治十五年一月ニ至リ。家屋ノ造構成ルニ近キヲ以テ。同月七日工人一名ヲ遣ハシテ。紡機ノ装置ニ徐々従事ス。然ルニ予メ陀螺水車ノ工作ヲ横須賀海軍造船所ニ委托セシガ。偶マ官ノ工作繁クシテ。期ヲ過ギテ成ラズ。因テ工手ヲ増シ。夜作ヲ為サシメ。同年五月二十九日ニ至リテ。始メテ完成シ。翌六月七日船運シ来リ。直チニ其装置ニ従事シ。同月十三日ニシテ卒ハル。時ニ紡機ノ装置已ニ成レルヲ以テ。翌十四日始メテ紡機ヲ運転シ。十八日始メテ綿ヲ機械ニ登セ。同年八月ニ至リ。紡機ノ運転。紡糸ノ操作。共ニ調熟整頓セルヲ以テ。同月二十二日落成御届申上。翌二十三日川島村出立。岡山県下備前国児島郡下村紡績所ヘ相赴候。水溝ハ。分水門ヨリ四百九十八間ニシテ。陀螺水車ノ水ニ至ル。此間。地ノ低キ処多ク。土沙ヲ築堆シテ。上ニ溝ヲ通シ。外ハ。結縷草ヲ植ヱテ。崩頽ヲ止メ。内ハ。粘土ヲ被ラシ築実スルコト厚サ一尺。以テ水ノ漏失ヲ防グ。又一処。藪沢中ニ一流水ノ在ル有リ。コヽニハ木
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梘ヲ架セリ。溝ノ幅ハ。底ニ於テ八尺。陀螺ノ上ニ至テ。長二十四尺ハ十二尺《(幅脱カ)》。此一部ハ。方石ヲ以テ編築シ。而シテ其幅八尺ト十二尺ト相接スル処ニ。水門ヲ設ケ。以テ水ノ多少ヲ為シ。此門ノ前。右側ニ放水門ヲ開キ。以テ剰余ノ水ヲ。直チニ廃棄水溝ニ放流ス。陀螺水車廃棄水溝ハ。三岳川ノ流ト並行スルコト二百間ニシテ。コレニ出ヅ。陀螺ノ噴出スル水ヲ。直チニ近ク三岳川ニ棄ツル時ハ。極メテ簡捷ナリ。然レトモ是ノ如クスル時ハ。高低ヲ失フガ為メニ。長ク下ニ引ケルナリ。
陀螺水車ハ。「フォールニーロン」式ノ者ニシテ。其大サハ径六尺。六分九釐。力ハ三十疋馬四八。水量ハ一秒時間二立方尺三十個。水ノ圧高ハ十二尺五寸ナリ。水ノ上下面ノ高低十六尺九寸六分五釐ナルガ。此地ハ。土壌水ニ飽充シ。僅ニ坳陥アレバ。水輒チ涌出シテ。流涸シ難ク。且ツ三岳川ハ。洪水暴カニ至ルノ常ナレバ。動モスレバ圧逆ノ妨アラムコトヲ虞リ。其四尺四寸六分五釐ヲ捨テヽ。斯クハ為セルナリ。
家屋建搆。水溝開築。紡機装置。陀螺水車製造装置。総落成ニ至ルマデノ費額。
 金弐万九千四百八拾七円。弐銭七釐。
   機械横浜マデノ運賃同所ニテ荷揚賃海関税等臨時官ヘ上納シタル分及ビ機械横浜ヨリ川島村マデノ運賃ハコレヲ除ク
後久フシテ。伊藤伝七謂ヘルニ。頃日陀螺水車ノ力減弱シテ。紡機ノ運転速ナルコトヲ得ズト。其意不満ヲ抱ケルガ如シ。水量如何ヲ問フニ。常日ヨリ少シ。因テコレニ謂テ曰ク。紡機運転ノ速ナラザルハ。水ノ少キガ為メニシテ。陀螺ノ力弱キガ為メニ非ズ。而シテ水ノ時トシテ少キハ。当初子等経日量リ験シテ。能ク知ル所ナルニ。正竜ノ言ヲ聴カズ。菰野村募リノ地ヲ用ヰズシテ。コヽニ設立セルニ非ズヤ。今水少クシテ。運転速ナラズトハ曰フ可クシテ。陀螺水車力弱クシテ。運転速ナラズトハ曰フ可カラザルナリト。後又運転速ナラズ不満胸ノ言アルヲ聞キ。正竜想フニ。或ハ陀螺ニ損傷セル所アルヤ。或ハ機械ニ不均ヲ生セル所アルヤ。若シクハ掃除周ク到ラズシテ。鈍重ヲ為セルヤト。因テ明治十七年五月二十七日偶マ大坂府下ヨリ静岡県下ヘ赴クノ路次。川島村紡績所ニ過リ。聞クニ果シテ運転速ナラザルヲ言ヒ。且ツ曰ク大坂三軒屋紡績所ノコトヲ聞クニ。螺紡機ノ進退大ニ速ニシテ。我ガ者ノ比ニ非ズト。乃チ螺紡機ノ動状ヲ視ルニ。初メニ殊ナル所無ク。宗軸ノ動ヲ止メテ。毎機手ヲ以テ動カスニ。重ヲ増セル者無ク。又動ヲ起コシテ視ルニ。各機ノ動状常ヲ失ヘル所無シ。時偶マ螺紡機一基ハ修繕ノ為メ動ヲ止メシガ。他ノ三基ハ一分時間ニ三進三退セリ伝動帯車ヲ視ルニ。此ノ者ヲ彼レニ用ヰ。彼ノ者ヲ此レニ用ヰ。加之車ニ厚サ一寸ノ木輪ヲ箍シ。以テ其径ヲ大ニセル者アリ。因テ謂テ曰ク。凡ソ機械皆ナ維持平均アリテ。必ツコレヲ失フコトヲ得ズ。今視ル所ノ如ク。帯車ヲ彼此錯用シ。殊ニ妄ニ其径ヲ大ニスル等ハ。極メテ宜シカラズ。試ニ今副軸ニ串セル小車ニ代ヘテ。当サニ此軸二在ルベキノ奮車ヲ串セヨ。全機ノ動忽チ速力ヲ増スコト必セ
 - 第10巻 p.136 -ページ画像 
リ。是レ正竜ノ実験シテ知ル所ナリ。又機動ノ遅速ハ。一ニ螺紡機進退ノ回数ヲ以テ謂フコトヲ得ズ。所紡糸ノ大小ニ従テ。亦遅速セザルコトヲ得ズ。今紡グ所ノ糸十六七号ノ者ニシテ紕ノ宜シキヲ得。而シテ一分時間ニ進退スルコト三回ナレバ。饒ヒ遺ル所ノ一機ヨ加フルモ二回半ヨリ減ゼザラム。姑ク以テ足レリト為ス可シ。正竜近日三軒家紡績所ニ行テ視シニ。蒸気ノ圧力八十「ポンド」ノ極ニ昇リ。而シテ騾紡機ノ進退二回半ニ至ラザリシ。工手未ダ熟セザルニ。強テ速ニ運転セシムレバ。或ハ過ツコト有ラム。彼ノ陀螺水車ノ製ニ至テハ。正竜已ニ駑力ヲ尽シ。復タ感ヲ遺ス所無シ。此陀螺宜キヲ得タルヲ以テ。島田紡績所ノ者モ。同図ヲ以テ工作セシメシガ。水量常ニ要スル所ノ如ク有ルガ故ニ。力量多キニ過グルヲ以テ。噴水溝四口ヲ塞ギテ運転スト云ヘリ。水ノ少キニ至テハ。奈何トモス可キ無キナリ。視ル所ニ従テ。説クコト如是ニシテ去レリ。其後報アリ曰ク。果然意ヲ決シ。蒸気機械ヲ設ケ。以テ水力ヲ助ケリト。正竜コレヲ聞テ。大ニ可トシ悦ベリ。


〔参考〕(石河正竜) 日記 明治一二―一五年(DK100015k-0012)
第10巻 p.136-139 ページ画像

(石河正竜)日記 明治一二―一五年
                  (谷沢一氏所蔵)
 ○明治一二年
十二月七日 小沢氏ヲ発シ名古屋ニ宿ス
   八日 朝早県官渡辺平四郎来リ日、三重県下三重郡室山村伊藤伝七ナル者夙ク綿糸紡機ニ志アリ、三重県令ヨリ当県令ニ書ヲ贈リテ伝七ヲシテ子ニ面晤セシムルノ介ヲ為サムコトヲ請ヘリ、伝七屡屡コヽニ来レリ、然レトモ子未帰リ来ラズ、、今又来レリ、岡崎ノ旅舎ニ行カシム可シ、請フ教フル所アレト、了テ旅舎ヲ出テ岡崎ニ帰ル、夜伊藤伝七・小山徳蔵来ル
   九日 伝七、茶二盒ヲ贈ラル、夜酒ヲ設ク、紡事ヲ語リ夜半ニ至ル
   十日 伝七・徳蔵帰リ去ル
 ○明治一三年
一月 日 昇局ノ前工作分局ニ之ク、伊藤伝七ノ書来ル
二月廿一日 明日出立ノ届ヲナス、三重県伊藤伝七来リ紡機建立ノコトヲ頼ム、万古窰急須二ヲ贈ル
  二十三日 三重県下伊藤伝七来リ紡機建立ノコトヲ頼ム
四月二十四日 静ノ書来ル、伊藤伝七・山春三六郎来《(天春三六郎)》ル、白銀茶托五ヲ贈ラル、一東斎ノ所作ニシテ秤量五十二匁アリ
五月十二日 午後雨、明日平野誠一○平野誠一郎ト共ニ大阪府下金田友七ノ紡績所ノ地ニ之カムコトヲ約ス、偶々田中内務権大書記官書ヲ郵シテ令ヲ伝ヘテ曰、大阪府ニ之クノ路次三重県下伊藤伝七ノ紡績所ノ水力地場ヲ撿セヨト
  廿一日 早出椋本ニ午食シ津ニ到リ宿ス、伊藤子先ツ来リ待チテ県庁ニ之ク、明日官吏一員・測量師一員ト共ニ各地各水ヲ撿視セムコトヲ約ス、夜藤堂長竪来リ紡機ノコトヲ商議ス
  廿二日 県官二員ト共ニ伊藤・天春ノ二子ヲ導トシ玉垣村松本村
 - 第10巻 p.137 -ページ画像 
ニ地ト水トヲ撿シ四日市ニ宿ス、夜□《(欠)》馬氏来リ紡事ヲ商量ス
  廿三日 石榑村大矢知村ニ水ト地下ヲ撿シ、四日市ニ帰リ宿ス
七月廿九日 明日三重県下ニ出張セムコトヲ平野ト約ス
  三十日 早発知立ニ至ル、天偶大ニ雨フル、被服悉ク浸サル、熱田ニ午食シ汽船四日市ニ航シ玉川楼ニ宿ス、伊藤伝一○伊藤伝一郎来ル、夜海月楼ニ飲ム
  三十一日 松本村ニ至リ紡機ヲ設立スルノ地ト水トヲ撿ス、県官牧野・豊田ノ二氏来リ会ス、午後四字四日市ニ帰ル、平野東京ニ航シ余独コヽニ宿ス
九月十三日 是日平野ト共ニ三重県下及愛知県下ニ紡機所設置ノ地ヲ撿セムトス、早昧平埜子来ル、共ニ出テ熱田ニ午食シ火船四日市ニ航シ宿ス、伊藤伝七・県官牧野・三重郡長伊藤祐賢来リ会ス
十一月一日 早出熱田ニ午食シ四日市二航ス、杉村仙来リ迎ヘテ浜ニ在リ、玉川楼ニ宿ス
   二日 川島村ニ紡機建立ノ地ヲ《(脱アルカ)》相了リテ菰野村ニ至テ午食シ、片岡村ニ佐野直民ニ会シ高低測量如何ヲ問フ
 是日県ノ勧業課長従ヘリ、午後五時四日市ニ帰リ匆々装ヲナシ横浜ニ行クノ火船ニ搭ス、夕六時開洋船大有丸ト号ス
十二月廿二日 伊藤伝七来リ事ヲ議ス
 ○明治一四年
一月九日 早発熱田ニ至リ午食ス、偶火船出デズ、前賀須ヲ経テ桑名ニ宿ス
  十日 早発川島村ニ至リ紡機建立ノ地ヲ撿シ水渠ノ線ヲ視ル、了テ四日市ニ宿ス
二月廿三日 伊藤伝一来リ事ヲ議ス
三月一日 三河国大平村ナル勧農局綿糸紡績所陀螺水車結構成ル、是日試転ス、車快転衆大キニ驚キ且喜フ、自覚エズ手ヲ拍テ舞フニ至ル、紡機モ亦機大ニ宜シ、転シテ十一時ニ至ル、水渠壊ルヽ所アルヲ以テ止ム、生徒十三名ヲ召シテ祝杯ヲ傾ケシム、生徒ハ皆諸県ヨリ遣《(サ)》ハレテ紡機ノコトヲ学バシムル者ナリ、来リ賀スル者多シ、試転宜シキヲ得タルコトヲ家人及ビ静也ニ電聞ス、伊藤伝七ニ電信ヲ通シテ不日其地ニ之カムコトヲ聞ス
  五日 明日三重県川島村ニ之カムトス、此事ヲ伊藤父子ニ電聞ス
  六日 早発熱田ニ午食シ火船四日市ニ船ス、川島子来リ迎ヘテ埠頭ニ在リ、旅舎浜田屋ニ宿ス、伊藤伝一来ル
  七日 伝七ヲ従ヘテ室山村ナル其居宅ニ至ル、是レ伝七・伝一ヲ会同セシメ共ニ商量シテ紡機所経始ノコトヲ一決セムガ為ナリ、二子ニ紡機ノ位置、水溝ノ線路ノ便否、経費ノ多少ニ至ルマデ篤々開説ス、伝七父子大ニ喜ベリ、事遂ニ決ス、酒飯ヲ設ケラル、暮前辞シテ出ヅ、繰繭場ヲ視テ四日市ニ帰ル
  八日 朝川島村ナル紡機建立場ニ至リ昨日決議スル所ノ条々ヲ建築役各員ニ諭告ス、伊藤子来リ会ス、午前廃棄水溝ヲ撿視シ四日市ニ帰リ匆々午食シ火船熱田ニ至ル、時五時、是日午後雪変シテ雨トナリ降ルコト益々甚シ、遂ニコヽニ宿ス
 - 第10巻 p.138 -ページ画像 
  十一日 夜来雨尽日不歇、伊藤氏紡機建築図ヲ平野誠一ニ付シ、且余ガ意向ヲ授ク
  十三日 朝早三重県令岩村氏来リ、日来伊藤氏紡機ノ為メニ労力スルヲ謝シ、且ツ向後更ニ労力セムコトヲ頼マル
  十五日 朝起四望晧然夜来雨、午後換テ雨トナル、伊藤伝一来《(マヽ)》ル
四月九日 三重県官岡本孟県令ノ命ヲ奉シ来ル、曰ク県下伊藤伝七郎建立《(マヽ)》スル所ノ紡機場建築土木役、爾後平野誠一郎ノ手ヲ脱シ県ヨリコレヲ作シ遣ハサムト欲ス、請フコレヲ許セヨ、而シテ然ル時ハ今県ヘ発遣セル土木吏本田・菅谷ノ二氏ハ速ニコレヲシテ帰リ去ラシメヨト、余対ヘテ曰ク平野ノ手ヲ脱スルコトハ勧農局ニ稟ス可キコト固ヨリ言ヲ待タズ、本田・菅谷ヲシテ速ニ帰ラシムルコトハ余ノ為ス可キ所ニ非ズ、土木吏ハ平野ノ管スル者ニシテ余ノ敢テ関セサル所ナリト、因テ岡本氏曰ク然ラバ直チニ帰リ今月県官ヲ汽船東京ニ遣ハシ勧農局ニ具陳スベシト、匆々帰去
五月四日 早発行クコト未幾許ナラズシテ雨、熱田ニ午食シ滊船四日市ニ航ス、伊藤・杉浦両氏来リ迎ヘテ埠ニ在リ、共ニ行テ旅舎ニ投ズ
  五日 川島村ニ紡機建設場ヲ撿視シ、午後発シテ関ニ至リ宿ス、三重県ノ土木官送リテコヽニ来ル、夜共ニ酌ム○下略
七月十一日 早発関ニ午食シ四日市ニ宿ス、伊藤・杉村二子来ル
  十二日 川島村ニ紡績所建築ヲ撿ス
八月八日 早出御油ニ午食シ大平ニ帰ル、時午後二字
 本局ヨリ達書来リ、其意曰ク、人民設立紡績所建築及ビ機械構設ハ官ヨリ保護スルコトヲ廃セリ、因テ各紡績所ヲ各設立主ニ引キ渡シ、家屋建築機械構設ノコトヲ設立主ニ篤々指示シ、而シテ後東京ニ帰レト
 右達書ニ依リテ各府県ヲ巡廻シ、東京ニ大帰スルノ装ヲ為ス
九月六日 朝少飲、佐以也ニ別カレ出デヽ熱田ニ午食シ四日市ニ至リ宿ス、伊藤・杉村二子来ル
  七日 大和屋喜六荷物ヲ護送シ来ル、午後伊藤伝一郎ヲ従ヘテ津ニ至リ県庁ニ之カムトシ、川島村ヲ過キリ建築ノ状ヲ撿視シ出デヽ松本村ニ至ル、偶暴雨怒雷僅ニシテ神戸駅ニ至リ宿焉
  八日 宿ヲ出デヽ津ニ至リ、一店ニ投シ、伊藤子ヲシテ、正竜尋デ庁ニ至ラムトスルコトヲ告ゲシム、勧業課長三輪親行曰ク、正竜ノ来ルヲ待タズ予行ク可シ、請フ旅舎ニ在テ俟テト、居ルコト少頃ニシテ、三輪及ヒ次官牧野岸次来ル、紡績所建築機械据付ノコトヲ引キ継ガムコトヲ告グ、二氏声ヲ齎フシテ曰ク、今引継ヲ受クルトモ、県ニ其事ヲ知リ、其事ヲ為スコトヲ得可キ者、固ヨリ一人トシテ有ルコト莫シ、竟ニ其事ヲ廃壊スルヨリ他アラザルナリ、此事ニ付キ工務局ヘ申立ツル次第モ有リ、明日牧野子ヲ東京ニ遣ハサムトス、引継ノ事ハ請、姑ク待テト、議罷テ伊藤酒盃ヲ薦ム、二子去ル時薄暮
十二月廿一日 伊藤伝一郎来ル、日外電信コレヲ召スニ応ズルナリ
   二十二日 伊藤伝一ニ紡機建立各所順次アリ、妄ニ急グ可カラサルコトヲ諭ス
 - 第10巻 p.139 -ページ画像 
 ○明治一五年
一月七日 紡績据付工夫鶴村富三郎ヲ三重県川島紡績所ニ差遣ス
三月十一日 川島紡績所ニ之キ各処ヲ撿視シ、午後室山村ニ行キ繅繭場ヲ観、遂ニ伊藤氏ニ宿ス、厚ク歓待セラル
四月三日 紡工坂及ヒ中村ヲ川島紡績所ニ差遣ス
  十三日 川島村紡績所ニ之ク
  十五日 〃
五月二十七日 午後五時横浜港ニ碇ス、船ヲ下リ旅舎ニ至ル、伊藤伝一先ツ来リ余ノ至ルヲ待テリ、是日偶東京ニ至レリ、電信以テ余ノ来リシコトヲ聞ス、暮夜窃ニ家ニ帰ル
  二十八日 早昧横浜ニ之キ伊藤氏ノ来ルヲ待ツ、尋デ来ル、コレト共ニ横須賀ニ之ク、「トルビン」ヲ撿視ス、無欠完成セリ
  二十九日 横浜ニ帰リ更ニ東京ニ帰リ、伊藤氏ノ為メニ買フ所ノ諸物品ヲ撿ス、翠々楼ニ宿ス
六月四日 風静船穏 四日市港ニ碇ス、時午後四字、船ヲ下リ逆旅ニ投シ酒飯ヲ喫シ、夜十時川島ノ僑居ニ帰ル
  七日 「トルビン」ヲ運送シ来ル
  八日 「トルビン」ヲ安置スル準備ヲナス
  十四日 始メテ「トルビン」ヲ転回セシム、転状力量大ニ良シ
  十八日 是日始メテ機ニ綿ヲ登ス
  二十四日 騾紡機始メテ糸ヲ出ス
七月十日 栃木県ノ生徒三名県ニ帰ル、コレニ托シテ三重紡績所始メテ紡スル所ノ糸ヲ工務局ニ送ル
八月二十三日 三重紡績所落成セリ、明日発シテ下村紡績所ニ赴カムトス
  ○石河正竜ニ就テハ、本巻大阪紡績株式会社明治十四年十月ノ項参照。