デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
2節 蚕糸絹織業
2款 郡山絹糸紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.645-647(DK100058k) ページ画像

明治37年10月(1904年)

栄一、当会社相談役ヲ辞ス。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK100058k-0001)
第10巻 p.645 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴(明冶二十五年以後)
○上略
                (朱書)
一郡山絹糸紡績株式会社相談役  卅七年十月辞ス
○下略
 以上明治三十三年五月十日調


主要工業概覧 農商務省工務局調 第三八―四一頁〔明治四五年七月〕(DK100058k-0002)
第10巻 p.645-646 ページ画像

主要工業概覧 農商務省工務局調 第三八―四一頁〔明治四五年七月〕
    絹糸紡績業
 本邦ニ於ケル絹糸紡績業ノ起原ハ明治八年ニシテ、時ノ内務卿大久保利通公ガ欧洲視察ノ際、生糸ノ一大産地タル我国ニ絹糸紡績業ナキヲ遺憾トシ、帰朝ノ後政府事業トシテ上野国新町ニ水力利用ノ絹糸紡績所(錘数二千百錘)ヲ設立シ同十年開業セリ。次デ十二年七月、上野国旧前橋藩士等共同シテ紬糸紡績所ヲ開キ、懐清社ト称シ、二十年之ヲ前橋紡績所ト改称セリ。新町紡績所ハ政府ノ都合ニヨリ同年三井家ニ於テ其ノ払下ヲ受ケ、更ニ千二百錘ヲ増設シタリ。又同年京都ニ於テ第一絹糸紡績株式会社(三千錘)ノ創設アリ。二十三年ニハ神奈川県程ケ谷ニ日本絹糸紡績株式会社《(綿カ)》ノ創立アリ、英・独・仏等ノ最新機械ヲ購入シ、最初ハ主トシテ輸出展綿ノ製造ニ従事シ、後二千七百錘ヲ増設シテ絹糸ノ製造ヲ開始シタリ。当時技術幼稚ニシテ、製品粗悪ナルノミナラズ、原料ノ歩止マリ甚ダ少クシテ生産不廉ナルニ、生糸ノ価格ハ低廉ニシテ之ニ対スル値開少カリシ等ノコトアリ。此ノ外種々ノ原因輳合シテ各社孰レモ社運拙ク、第一絹糸紡績株式会社、日本絹綿紡績株式会社ノ如キハ一時製品ノ停滞甚シク、加フルニ職工ノ同盟罷工等アリテ殆ンド解散セントスルノ悲況ニ遭遇シタルモ、辛ウジテ此ノ難関ヲ経過スルヲ得タリ。然ルニ前橋紡績所ハ維持ニ苦ミ、遂ニ明治二十八年九月ニ至リ三井家ニ譲渡スニ至リタリ。其ノ後技術者及職工ガ漸ク斯業ノ経験ヲ得タルト、縮緬ノ緯糸ニ紡績絹糸ヲ使用シテ好結果ヲ見タルトニ依リ、各工場共収支相償フニ至リシガ、二十九年日清戦争後一般経済界好況ニ際シ、絹織物ノ流行盛大ニ赴キ、生糸ノ価格騰貴シ加フルニ紡績絹糸ノ使用法ニ熟達セシヨリ、紡績絹糸
 - 第10巻 p.646 -ページ画像 
ノ需要漸ク増加シ、第一絹糸紡績株式会社ハ年率四五割ノ利益配当ヲ為シタルガ如キ好況ニ際会シ、絹糸紡績業ヲ計画スルモノ輩出セリ。
即チ二十九年ニ新町工場ノ千二百錘、京都第一絹糸ノ四千五百錘ノ増設ヲ始メトシ、共立絹糸紡績株式会社(五千百錘)、日本絹糸紡績株式会社(五千百錘)、南洋絹糸紡績株式会社(三千錘)、富士紡績株式会社(五千百錘)、三十一年郡山絹糸紡績株式会社(三千錘)ノ創立ヲ見タリ。
此ノ如ク新会社ノ勃興ニ依リ、漸次生産過剰ニ陥リ三十五年一般事業界沈衰ノ為、救済又ハ自衛策トシテ合同問題起リ、程ケ谷ノ日本絹綿紡績株式会社ハ富士紡績株式会社ニ買収セラレ、其ノ他ノ六会社ハ合同シテ、絹糸紡績株式会社ト為リ、玆ニ二会社相対立スルコトヽナレリ。然ルニ日露戦役後斯業ハ三度活躍ノ時期ニ入リ、富士紡績ノ増錘ニ次デ鐘ケ淵紡績株式会社新タニ絹糸ノ製造ニ着手シ、京都ニ於テ第一第二ノ工場(一万九千九百二十錘)ノ成立ヲ告ゲ、再ビ三社ノ鼎立トナリシガ、曩ニ岡山及吉備ノ二綿糸紡績会社ト合同シタル絹糸紡績株式会社ハ経営漸ク困難トナリタル為、四十三年遂ニ鐘ケ淵紡績株式会社ト合併スルニ至レリ。左レバ現在ニ於ケル我国ノ絹糸紡績会社ハ富士瓦斯紡績株式会社(五万六千余錘)及郡山絹糸株式会社(三千錘)ノ三社ニシテ、錘数ハ合計十一万五千三百四十四錘ヲ算ス。而シテ主タル工場ハ何レモ綿糸紡績兼営ナル為、本業ニ投下セル資金明確ナラザルモ大約一千二、三百万円ト推算シ得べク、一昨四十三年ニ於ケル運転総錘数ハ八万六千七百四十五錘シニテ、生産額四十一万七千三百七十九貫ナリ。今最近五ケ年間ニ於ケル運転錘数及生産額ヲ表示スレバ左ノ如シ。

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          絹糸               紬糸              合計 年次   錘数      製造額       錘数     製造額      錘数      製造額          本        貫       本        貫       本        貫 三九  三四、五三三  一五三、一八四   七、四二一   五四、一八三  四一、九五四  二〇七、三六七 四〇  五四、四一二  二三四、一六〇  一三、四五九  一〇四、九七九  六七、八七一  三三九、一三九 四一  七五、一七八  二六四、一五七  二四、二四九  一一六、七五八  九九、四二七  三八〇、九一五 四二  七一、五七一  二三六、二六八  二四、二四五  一四八、七四七  九一、八一六  三八五、〇一五 四三  六三、一七〇  二五三、四六六  二三、五七五  一六三、九一三  八六、七四五  四一七、三七九 



  ○右ハ本誌ノ第一紡績工業中(二)絹糸紡績業「斯業ノ沿革並現況一班」ノ抜萃ナリ。


新聞集成明治編年史 第一一巻・第三九六―三九七頁〔昭和一一年三月〕(DK100058k-0003)
第10巻 p.646-647 ページ画像

新聞集成明治編年史 第一一巻・第三九六―三九七頁〔昭和一一年三月〕
    絹糸紡績八会社大合同進捗
〔三・二八○明治三五年 時事〕前号所報の如く、絹糸紡績八会社は昨今大合同の計画に付き協議中にして、来月十五日には更に各会社の会合を催す筈なるが、元来此合同談の起因は、去る一月中三井呉服店理事高橋義雄氏が京都出張の際、同地の第一絹糸紡績会社取締役稲垣良治郎氏に会して、近年に於ける絹糸紡績の不況を説き、之が挽回策及び将来我邦絹糸の発達進歩を計らんとせば、其大合同を為すの必要を説きたることあり、当時稲垣氏は自個会社の好都合なると其他の事情に依り
 - 第10巻 p.647 -ページ画像 
直に賛同の意を表するに至らずして、爾来熟考中なりしも、我絹糸紡績が技術上に於て海外各国に及ばざること遠くして、其進歩改良を期するは、到底小会社が孤立して経営する能はざること等に付き、遂に高橋氏の意見に賛同したる結果、全国各絹糸紡績会社に通知し、其意嚮を問ふことゝ為し、去る二十日に京都に於て、第一・日本絹糸・共立・南海・郡山・富士・日本絹綿・三井新町の八会社の集合を催したるに、何れも賛同の意を表したるより、爰に愈々合同談の進歩を見るに至りたるなりと。而して其合同条件に就ては各社各経済事情を異にし、随分困難なるべきも、評価人を選定し地所建物其他の不動産を評価して之が合同を計り、漸次に機械・原料・製品其他の財産に就き合同の手順を為す筈なるも、先づ第一着手として不動産の合意を為す筈にて、去る二十日集会の席上に之を決議し、各社とも其内部の協議を纏むる為め、第一絹糸は既に重役会を了へ、日本絹糸・共立両会社は来月十二三日頃臨時総会を開き之を議する筈なり、左れば其結果如何は今より予測し能はざる事柄なるも、各社が必要上合同の意嚮あるは実際の事実なれば、益々其進捗を見るに至るならんか、今合同せんとする各社の払込資本及び錘数を示せば左の如し。
  三井新町 五十万円   五千百錘
  第一   四十万円   七千二百錘
  日本   卅七万五千円 五千百錘
    創立当時の払込金八十万円
  共立   六十万円   六千錘
  日本絹綿 四十七万円  二千七百錘
  南海   四十五万円  三千錘
  郡山   三十万円   三千錘
    資金払込額十二万円 借入金十八万円と見積る。
  富士   五十万円   五千百錘
  合計   三百五十九円五千円 三万七千二百錘
 尤も右にして愈々合同するに至らば、資本金は更に増額するの必要あるべく、各社の財産を調査したる後ならでは、固より確定する能はざるべきも、約五百万円位に増加するならんと云ふ。