デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
3節 製麻業
1款 北海道製麻株式会社
■綱文

第10巻 p.669-698(DK100062k) ページ画像

明治20年4月1日(1887年)

是ヨリ先、北海道庁長官岩村通俊、道庁第二部長堀基、製麻ノ事ニ精通セル農商務省技師吉田健作ニ諮リ北海道ニ製麻業ヲ起サントス。東京ノ渋沢喜作・小室信夫、京都ノ浜岡光哲・田中源太郎等亦コレト前後シテ札幌市ニ麻糸及麻布製造ノ工場設立ヲ企図スルニ及ビ、是日岩村通俊上京シテ芝見晴亭ニ小室・渋沢・田中等ヲ招キ、会社設立ニツキ会議ス。大蔵大臣伯爵松方正義亦来リテコノ議ニ与リ、資本金八十万円ヲ以テ北海道製麻会社創立ヲ決ス。栄一モコレニ賛同シ、是年十一月五日東京蜂須賀邸ニ於ケル第一回株主総会後推サレテ相談役トナル。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一八五頁 〔明治三三年六月〕(DK100062k-0001)
第10巻 p.669 ページ画像

青淵先生六十年史(再版) 第二巻・第一八五頁 〔明治三三年六月〕
 ○第三十九章 製麻業
    第一節 北海道製麻会社
北海道製麻株式会社ハ青淵先生・渋沢喜作・小室信夫・田中源太郎・浜岡光哲・永山盛繁等ノ発起ニ係リ、明治二十年五月創立ス、其目的ハ当時未タ曾テ本邦ニ栽培セサリシ所ノ亜麻ヲ移植セシメ、大麻ヲ併セテ之ヲ原料ニ充テ紡糸織布ノ業ヲ営ミ、専ラ陸海軍ノ需要ニ供シ兼テ民間ニ麻糸麻布ヲ洽給シ、該品ノ舶載ヲ防遏セントスルニ在リ、工場ノ構造、麻ノ製法等ハ主トシテ模範ヲ仏国ニ取リ、資本金ヲ八拾万円ト定メ後百六拾万円ニ増加ス、二十四年一月業務ヲ開始セリ
同社ハ現今資本金旧株八拾万円、新株八拾万円(内四拾八万円払込済)社債拾万円(内壱万円償還済)ニシテ、社長ハ渋沢喜作、取締役ハ小室信夫・田中源太郎・浜岡光哲・永山盛繁・宇野保太郎、監査役ハ、青淵先生・本野小平・山中利右衛門ナリ


青淵先生公私履歴台帳(DK100062k-0002)
第10巻 p.669-670 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    民間略歴(明治二十五年迄)
○上略
 明治二十年
○中略
 七月 北海道製麻会社ノ創立ヲ賛成シ後其相談役トナル
  明治廿年岩村通俊氏北海道庁ニ長官タルニ当リ、北海道ニ於テ殖
 - 第10巻 p.670 -ページ画像 
産工業ヲ起スノ方法ヲ諮詢セラレ、尋テ其土地麻及亜麻ニ適スルニ付麻糸及織布ノ工場創立ノ事ヲ企図スルモノアルニ因リ、之ニ賛同シテ会社ヲ創立シ、後其相談役トナル
○中略
 以上明治卅三年五月十日調
 備考
  現在従事セル諸会社ノ業務其他公私団体等ニ対スル職任ハ左ノ如シ
   諸会社銀行等
○中略
               (加筆)
一北海道製麻株式会社監査役   四十年七月解散
 以上明治三十三年五月十日調


中外物価新報 第一五八二号 〔明治二〇年七月一二日〕 ○製麻会社の利益保護(DK100062k-0003)
第10巻 p.670 ページ画像

中外物価新報  第一五八二号 〔明治二〇年七月一二日〕
○製麻会社の利益保護
今度資本金八十万円を以て北海道札幌へ設立する製麻会社は、兼て本紙上に記載せし通り、愈よ其筋より満六ケ年五朱の利益配当を保護さるゝことになりたる由


中外物価新報 第一五八九号〔明治二〇年七月二〇日〕 ○北海道製麻会社(DK100062k-0004)
第10巻 p.670 ページ画像

中外物価新報  第一五八九号〔明治二〇年七月二〇日〕
○北海道製麻会社
東京・京都・滋賀の地方有志者が協同して北海道に北海道製麻会社を創立し、東京にては已に浜町三丁日一番地へ其創立事務所を設置したるが、其京都・滋賀に係ることは下京区第三組玉蔵町二十番戸に事務所を設置し、此にて取扱ふことゝしたる旨、去十五日京都の島田善右衛門・田中源太郎・浜岡光哲、東京の小室信夫・永山盛繁、滋賀の山中利右衛門・高田義助・小泉新助の諸氏より京都に届出たる由


中外物価新報 第一六八一号〔明治二〇年一一月八日〕 北海道製麻会社総会決議(DK100062k-0005)
第10巻 p.670-671 ページ画像

中外物価新報 第一六八一号〔明治二〇年一一月八日〕
  北海道製麻会社総会決議
去る五日浜町の蜂須賀邸に於て北海道製麻会社株主総会を開きたる由は、前号の紙上へ記載し置しが今其摸様を聞くに、同日は午後第一時より開議すべき筈なりし処来会者に遅参の向ありし為め、三時より開会し最初先つ定式会を開き、創立委員田中源太郎氏より創立委員五名にて、是迄に取扱ひたる庶務の顛末を報告し、偖夫より更に五名の委員を選挙し、其中より又一名の委員長を互選し、創立委員に於て今日迄に取扱ひ来りし一切の事務は、総て新選委員長及委員に引継くに、就ては今此委員を選挙するに先ちて其給料を取定むべしとて一同の意見を問ひし末、遂に衆議を以て委員は総て無給とし、但札幌在勤の委員は其在勤中手当として、一ケ月金五十円以上二百円以内を適宜支給することに決し、次て投票を以て五名の委員を選挙し、一同投票を畢へしかば直に点数を取調べて報告すべき筈の処、書記をして其数を調査せしむるには多少の時間を要するに付、便宜上此報告を後廻しとし次て株式払込の件に付、臨時会を開き定款第九条に「尤株主の都合に
 - 第10巻 p.671 -ページ画像 
依り会社の指定額以上全額を一時に払込も差支へなし」との三十字を追加し、又来年の定式会の事に付発議あり、元来製麻機械の欧洲より到者し全備する迄と、本社及製造場建設に数多の日子を要するを以て実際営業を開くは来る廿二年秋頃に至るべし、左すれば其間は特に年年二回宛の定式総会を開くを要せざれば、来年四月に開会する定式会は之を繰延して十月に一度開会すべしと云ふ説に決したり、此時に至り投票点数の調査全く畢りたるを以て、之を一同へ報告せしに六百〇七点小室信夫氏、六百〇二点田中源太郎氏、五百七十五点浜岡光哲氏四百卅三点永山盛繁氏、四百〇七点城多薫の五氏、多数に依りて当選したり、然るに田中氏は近来多用にて迚も札幌へ勤め切る訳には参らされと、平常京都に在て社務の協議に与り又一部の事務を取扱ふ事は承諾すべきに付、此旨前以て予め断り置く由を述べて委員たる事を承諾し、永山氏は異議なく即座に承諾されたり、又小室氏は熟考の上追て諾否の返答を為す由を述べ、浜岡氏は目下欧行中なれば田中氏より電報を以て諾否を問合はす事とし、城多氏は欠席なりしかば是も諾否は判然せず、依て委員長の互選は他日に延し同八時頃一同退散したる由、尤も右五名中若し不承諾の人あるときは二百廿点の渋沢喜作氏が次点なれは、多分同氏が補欠員にて委員に加はるゝならんか、又同日の来会者は東京十三名、京都・滋賀六名、北海道二名にて堀北海道庁理事官も臨席されし由、因に記す、同会社の資本総額は金八十万円なるが、内京都・滋賀にて四十万円、東京にて二十七万円、北海道にて十三万円を有するの割合なりと、而して現今一株に付証拠金として三円宛を払込あり、来廿一年一月を期して一株に付更に十二円宛を払込ましむる予定なりと聞けり


中外物価新報 第一六九一号〔明治二〇年一一月一九日〕 北海道製麻会社(DK100062k-0006)
第10巻 p.671 ページ画像

中外物価新報 第一六九一号〔明治二〇年一一月一九日〕
  北海道製麻会社
同会社の委員には小室信夫・田中源太郎・浜岡光哲・永山盛繁・城多薫の五氏が投票多数にて当選されしことは前号の紙上へ記載せしが、右の内城多氏は委員たることを辞退されしかば、投票順に由りて同氏の代りに渋沢喜作氏を委員に挙け、且又渋沢栄一・河瀬秀治・梅浦精一の三氏を更に相談役に依頼する筈なりと云ふ、又是迄支配人たりし徳見浮三郎氏は事故ありて此程解職せられたるが、同会社にては都合に拠り開業に至る迄の間は支配人を置かざる事に取極めたる由


中外商業新報 第二〇八〇号〔明治二二年三月五日〕 北海道製麻会社(DK100062k-0007)
第10巻 p.671-672 ページ画像

中外商業新報 第二〇八〇号〔明治二二年三月五日〕
  北海道製麻会社
北海道札幌なる北海道製麻会社は本社及工場の建築も迫々捗取り、吉田技師外一名をして欧洲にて購入せしめたる諸機械も近々到着するの運びなるが、元来同会社は北海道庁より年五朱の保証を受け居るを以て、既払込株金に対しては既に利子の下付ありしが、創業諸般の事も最早斯く迄に相運び、同社の基礎も定りたれは、近日中に其株券を東京株式取引所の市場へ出して定期売買を開かしむる筈なる由、右の事を気構へしものにや、昨今同株券の価は五十八円乃至六十円(五十円
 - 第10巻 p.672 -ページ画像 
払込利子付)位なるが頓と売物あらざる由


東京経済雑誌 第三九三号・第六六四頁〔明治二〇年一一月一二日〕 ○北海道製麻会社(DK100062k-0008)
第10巻 p.672 ページ画像

東京経済雑誌 第三九三号・第六六四頁〔明治二〇年一一月一二日〕
    ○北海道製麻会社
北海道製麻会社は其後事務次第に捗取り、既に去る五日当地浜町蜂須賀邸内にて総会を開き、各地社員の総代人等出席にて、議決せし件々は、従来の委員改選、北海道出張委員設置、株金追募等の事なりし由今聞く所に依れば北海道は天候と云ひ、地味と云ひ、麻の育産には申分なき程なれば、必ず無比の良品を産出するに至るべし、併し現今の処にては耕作の十分ならざると年数の浅きとにて、未だ十分の結果を得ざる由なれども一・二年の内には盛大なる産出を見るに到るべしと云ふ


(北海道製麻会社)実際報告 第一回 明治二四年二月(DK100062k-0009)
第10巻 p.672-675 ページ画像

(北海道製麻会社)実際報告  第一回 明治二四年二月
  自明治二十年五月至同廿三年十二月 実際報告第一回
明治廿年五月ヨリ同廿三年十二月マテ、実際取扱ヒタル事務ノ梗概及計算ノ要領ヲ列記シ、以テ株主各位ニ報告スルコト左ノ如シ
 但本書中当期以前ニ係ルモノハ、毎期ノ総会ニ於既ニ報告セシト雖トモ、其都度報告書ヲ頒布セザリシニ由リ、更ニ之ヲ編纂シ創業中ヲ通シテ第一回ノ報告ト為ス
本社創立ノ起原 北海道ノ地味麻耕種ニ適スルヲ以テ、開拓使ノ時既ニ之レガ奨励アリシト雖トモ、其製線法ハ依然人手指頭ノ業ニ止マルヲ以テ、特ニ其進歩ヲ見ザリシ、尋テ道庁ノ治ニ移ルヤ、亦大ニ種麻ノ業ヲ奨励スルト共ニ、其製線業改良ノ必要起レリ
是ヨリ先キ曩ノ農商務技師吉田健作氏深ク意ヲ製麻ノ事ニ用ヒ、機械ヲ以テ製線法ヲ改良スルト共ニ、大ニ本邦ニ麻類紡織業ヲ起サンコトヲ望ミ、久シク欧洲ニ在リテ其業ヲ研究ス、而シテ帰朝ノ後先ヅ麻事改良説ヲ作リ、広ク天下ノ志士ニ頒チシコトアリシ、然ルニ其後曩ノ道庁第二部長堀基氏ハ吉田氏ニ就キ其業ヲ本道ニ起サンコトヲ図ル、是ニ於テ乎、東京ノ小室信夫・渋沢喜作、西京ノ田中源太郎・浜岡光哲、札幌ノ永山盛繁ノ諸氏モ亦大ニ製麻起業ノ必要ヲ認メ、且之レヲ本道ニ設クルハ、大ニ前途ニ望ミアルヲ信ジ、各自奮ツテ発起者ト為リ、広ク同志ヲ糾合シ、遂ニ八拾万円ノ資本ヲ以テ本道札幌ニ於テ一大麻紡織会社ヲ創設セントシ、乃チ相携テ本道ニ渡リ、吉田技師ノ計画ニ拠リ、其起業ヲ道庁ニ請フテ認可ヲ得ルニ至ル、之レヲ本社創立ノ起原ト為ス
本社創立ニ関スル事項 明治廿年五月農商務技師吉田健作、発起人小室信夫・田中源太郎・永山盛繁ノ四氏ハ本道札幌ニ出張シテ起業ノ位置ヲ定ムルト共ニ、本社創立ノ願書及定款ヲ道庁ニ呈出シ同月其許可ヲ得、同六月道庁ヨリ特別保護ノ命令書ヲ下付セラル、同七月本社創立事務所本部ヲ東京ニ置キ其支部ヲ西京及札幌ニ置キ、以テ株主募集ニ着手ス、尋テ小室信夫・渋沢喜作・田中源太郎・浜岡光哲・永山盛繁ノ五氏ヲ創立委員ト定メ、以テ本部・支部ノ事務ヲ分担処弁ス、同十一月第一回株主総会ノ撰挙ニ於テ、更ニ小室信夫・渋沢喜作・田
 - 第10巻 p.673 -ページ画像 
中源太郎・浜岡光哲・永山盛繁ノ五氏ヲ委員ト定メ、札幌ヲ本社トシ東西両京ヲ出張所ト改ム
本社総会ニ関スル事項 明治廿年十一月東京浜町蜂須賀邸ニ於テ本社第一回ノ株主総会ヲ開キ、第一回ノ収支計算ヲ報告ス、而シテ其議決条目ハ左ノ如シ
 一 委員ハ当分無給トシテ営業開始ノ日ニ於テ相当ノ報酬ヲ支給スベク、特ニ札幌在勤ノ委員ニ限リ、其在勤中手当トシテ一ケ月金五拾円以上弐百円以内ヲ適宜ニ支給スル事
 一 定款ニ拠リ委員長ヲ撰定スルハ、当撰委員五名ノ互撰スル所ニシテ、此際之レヲ置クト否トハ当撰委員ノ協議ニ任スル事
 一 定款第九条ニ、株主ノ都合ニ拠リ会社ノ指定額以上全額迄一時払込ムモ差支ナシトノ但書ヲ追加スル事
 一 今回ノ定式総会ニ於テ撰挙シタル委員ハ、営業開始ノ日マテ勤続セシムル事
 一 創立事務所ノ本支部其所在ヲ変更シテ札幌ヲ本社トシ、東西両京ニ出張所ヲ設置スル事
同廿一年十月東京中洲枕流館ニ於テ本社第二回ノ総会ヲ開キ、起業着手以来ノ景況其他実際ニ於ケル処務ノ状況及第二回ノ収支計算ヲ報告ス、同廿二年七月株主所在地即東京・西京・函館・札幌ノ各所ニ於テ臨時集会ヲ開キ、株券金額ノ改正ヲ議決ス、同十一月東京中洲枕流館ニ於テ本社第三回ノ総会ヲ開キ、業務爾来ノ状況及将来ニ関スル方針ヲ報告シ、併セテ第三回ノ収支計算ヲ報告ス
機械購入ニ関スル事項 明治廿年十一月吉田・横田ノ両道庁技師ハ欧洲出張ノ命ヲ受ク、是レ則チ本社機械購入等ノ為メニシテ、其十二月両氏欧洲ニ向ツテ出発シ、爾後一年余ヲ経テ両氏帰朝ス、而シテ其購入スル機械ノ全量ハ千九百五十一噸五分ニシテ、運搬ハ三回ニ之レヲ白国アンベルス港ヨリ小樽港ニ直航シ、同港桟橋ニ卸サシム、此ノ直航ハ特別ノ許可ヲ政府ニ願ヒ受ケタルモノナリ、而シテ其来着シタル機械ハ皆欧洲最近改良ノモノニシテ、其新造ナルコト各個本社名ヲ鋳付シアルヲ以テ知レリ、又機械購入ト共ニ欧人四名ヲ傭入ス、即一名ハ蒸気機械据付、一名ハ紡績機械据付、一名ハ晒白機械据付、他ノ一名ハ製織機械据付ノ為メニシテ、皆業務ニ老練、能ク管理者ノ命ヲ守リ、其勉励ハ常ニ人ヲシテ感動セシメタリ、而シテ三名ハ已ニ解傭帰国セシメ、今現ニ残ルモノハ製織機械据付人ノミ、然レトモ是亦遠カラズ解傭帰国セシムルノ計画ナリ
建築ニ関スル事項 本社ノ建築ハ之ヲ欧洲ノ学理ト実際トニ採リ、専ラ便利堅牢ヲ本トスルモノナリ、其ノ敷地ハ札幌北七条及北八条ニ亘リ、総坪数八千四十坪ニシテ、工場ハ其中央ニ設ケ、通路ハ連続スト雖トモ、其棟数ハ之レヲ七区ニ分ツ、乃チ第一区ヲ倉庫部トシ、第二区ヲ櫛線部及修繕部トシ、第三区ヲ粗紡部トシ、第四区ヲ精紡部トシ、第五区ヲ晒白部トシ、第六区ヲ製織部トシ、第七区ヲ蒸気部及電灯部トス、而シテ仮事務所ヲ西表門ノ内ニ設ケ、煙突ノ高サ百廿尺ナリ、此総建坪数ハ四千八百六坪余ニシテ実ニ東洋稀有ノ工場ト云フベシ
 - 第10巻 p.674 -ページ画像 
工事ニ着手セシハ明治廿年七月ニシテ、其全ク功ヲ竣ヘ、機械据付ノ整理ヲ告ケタルハ、同廿三年六月ニシテ、翌七月ヨリ機械ノ運転ヲ始ム、斯ク工事ノ長月日ニ渉リタルハ他ナシ、新開ノ土地ニ新大事業ヲ起ス、諸事ノ不便ハ素ヨリ、年ノ十一月ヨリ翌年四月ニ至ルマテノ間ハ、朔風飛雪寒気凛烈、全ク煉瓦工事ヲ為シ能ハザルヲ以テノ故ナリ然レトモ諸事計画ニ違ハズ、機械運転上最良結果ヲ得タリ
役員ニ関スル事項  本社委員ハ即チ小室信夫・渋沢喜作・田中源太郎・浜岡光哲・永山盛繁ノ五氏ニシテ《(加筆朱書 相談役ハ渋沢栄一梅浦精一城多薫三氏ニ倚頼シ承諾ヲ得タリ而シテ)》、吉田・横田両道庁技師ノ欧洲ヨリ帰朝スルヤ、道庁ハ直チニ吉田氏ニ命スルニ本社事業監督ノ命ヲ以テシ、横田氏ニ命スルニ其補助ヲ以テス、爾後本社委員諸氏ハ吉田監督技師ニ委員長ノ資格ヲ、横田同技師ニ技術長ノ資格ヲ嘱托ス、尋テ両技師ノ職ヲ罷ムルト共ニ、委員浜岡光哲氏ノ退職スルヲ以テ、各委員ハ直チニ吉田氏ヲ補闕委員ニ挙ケ、尋テ委員長ニ選挙シ、横田氏ヲ技術長ト為ス
製線所ニ関スル事項  本社ニ要スル原料ハ亜麻ト大麻トナリ、而シテ麻《(大脱カ)》ハ已ニ本道ニ産スルト雖トモ、亜麻ハ僅ニ試作ニ止マリシノミ、是ニ於テ乎、曩ニ吉田技師ノ欧洲ニ赴クヤ、道庁ハ同氏ニ命スルニ亜麻種ノ購入及亜麻耕種農者ノ傭入ヲ以テス
爾後其種子ト農者ノ来着スルヤ、道庁ハ大ニ之レカ耕種ヲ農民ニ奨励ス、農民亦進ンテ耕種ヲ為スニ至レリ、即明治廿二年度ニハ僅ニ廿五町歩ヲ耕種セシカ、其生育ノ良好ナルヨリ、翌廿三年度ニ至テハ凡ソ三百町歩ヲ耕種スルニ至ル、此景況ヲ以テ推ストキハ、其耕種ハ益々本道ニ増殖シ、本社工場全般ヲ運転スルモ原料ハ余アルニ至ルヘシ
是ヨリ先キ道庁ニ於テ製線器械ヲ以テ大ニ製線所ヲ創設スルノ計画アリシモ故アツテ果サズ、是ニ於テ本社ハ不得止其創立ヲ成功スルニ至レリ、即明治廿二年六月札幌郡厂《(雁)》来村ノ地所三千二百坪余ヲ以テ製線所設置ノ地ト定メ、直チニ起工シ、其十月ニ至リ工事全ク畢ル、尋テ製線業ニ着手スルニ至ル、其結果頗ル好シ、而シテ追次本社ノ紡織業ノ進歩ト共ニ其原料ノ需用モ亦増加ス、故ニ一ノ製線所ヨリ産出スルモノヽミニテハ不足ナルヲ以テ勢、他ニ亦増設セザルヲ得ス、故ニ明治廿三年二月又地ヲ札幌区附属地新琴似ニ六万五千余坪ヲトシ、同七月ニ工ヲ起シ、本年十一月ヲ以テ全ク功ヲ竣リ、目下専ラ製線業ニ従事中ニシテ、此結果モ亦甚タ良好ナリ、但シ厂来製線所ノ器械ハ疾クニ注文シタルヲ以テ、本社諸器械ト共ニ来着ス、琴似製線所ノ器械ハ本年三月ニ注文シ、同十一月来着シタルモノナリ、而シテ此製線業ハ本邦未曾有ノ業ニシテ、本社紡織業ニ向テハ一日モ欠クベカラサル事業ナリ
職工ニ関スル事項 ○略ス
社宅ニ関スル事項 ○略ス
諸規則ニ関スル事項 ○略ス
計算ニ関スル事項 ○略ス
株主ニ関スル事項 ○略ス
販路ニ関スル事項  明治二十三年七月一日ヨリ機械ヲ運転シ、職工ヲシテ現業ニ従事セシム、初メ粗糸ヨリ細糸ニ及ボシ、漸次練習セシ
 - 第10巻 p.675 -ページ画像 
ムルノ計画ナリシト雖トモ、需用者ヨリ細糸ノ注文アルヲ以ツテ試ミニ亜麻ヲ以テ細糸ヲ紡績セシニ、頗ル需用者ノ嗜好ニ適シ、敢テ外国輸入品ニ劣ラザルノ製品ヲ得タリ、乃チ見本ヲ各地ニ配布シ、之レガ品評ヲ為サシム、是ニ於テ滋賀県下ニ在テハ阿部市郎兵衛・山中利右衛門・堤惣平ノ三氏協同シテ関西一手販売ノ約ヲ結バントシ、同年十一月特ニ代理人ヲ札幌ニ出張セシメ、細糸ハ勿論粗糸即蚊帳糸ノ如キ需用尤モ多キニ由リ、之レカ販売約定ヲ結バンコトヲ請フ、当時試業日猶浅ク、製品ノ改良ヲ加フベキモノ亦尠カラズ、且ツ販売代価等ノ如キ未タ確定セザルニ由リ、仮ニ販売ノ約定ヲ結ベリ、爾来需用者ノ好評ヲ博シ注文益々多シ、製糸販路ノ一斑既ニ斯ノ如シ、織布ノ如キハ未タ販路ヲ試タルニ是亦世上ノ好評ヲ得タリ
果シテ、此ノ景況ニ由リ、工業ノ進路ニ蹉躓ナク、販路其宜シキヲ得バ、起業ノ目的ヲ達スル難キニアラザルモノナルハ信ジテ疑ハザル所ナリ
右報告候也
           北海道製麻会社
  明治廿四年一月    委員長  吉田健作
             委員   小室信夫
             委員   渋沢喜作
             委員   田中源太郎
             委員   永山盛繁


日本製麻史 (高谷光雄著) 第二五八―二八八頁〔明治四〇年一二月〕(DK100062k-0010)
第10巻 p.675-680 ページ画像

日本製麻史 (高谷光雄著) 第二五八―二八八頁〔明治四〇年一二月〕
 ○第五章 北海道製麻会社の設立
    第一節 創立の起因及企業計画
○上略
北海道庁にては長官岩村通俊氏を初め堀理事官等、吉田○健作・横田両氏師《(技)》と謀り、京都・滋賀・東京及び北海道の有力者に説て北海道製麻会社設立の事を勧告し、其の議漸く将に熟せんとするや、岩村長官上京して一日吉田氏及び創立委員小室信夫・渋沢喜作・田中源太郎等諸氏を芝見晴亭に招き相談会を開く、大蔵大臣松方侯亦来《(伯)》り臨まる、伯曰く、予は能く吉田氏の此の案に尽瘁するを知る、氏にして之れが計画に従事せば、予輒ち之を賛成すと、議決す。乃ち発起人を定め、四月九日附を以て公然左の願書を岩村長官に提出し、利子保証の恩典に浴せんことを請へり。

    北海道製麻会社創立願
北海道の地質麻類播種に適するや世人の知る所にして、既に旧開拓使の頃より之れを奨励せられし《(と脱)》雖とも、其業の今日迄充分の発達を見る能はさるは、畢竟是れ開誘するの具備はらさるを以てなり、何をか開誘の具と云ふ、曰く(第一)剥皮機械所(第二)紡織所設立是れなり剥皮を人方《(力カ)》に委するを以て、徒らに、許多の日時を費すのみならす、為めに大に線緯を減損し、従て価を高からしめ、紡織所なきを以て其販路狭隘にして、或は其播種の労を償はさるに至る、是れ土地の適当
 - 第10巻 p.676 -ページ画像 
なるにも拘はらす、其発達を見る能はさる所以なり、今や御庁に於ても深く此に察せらるゝ所あり、剥皮所を設立して、以て麻類耕種の人民を開誘せられんとす、一大美事と謂はさる可からす、然りと雖とも第二の紡織所なき時は殆と事の両輪一を欠くか如きものなり、故に私共爰に発起人となり、資本金八拾万円を以て札幌に於て一大紡織会社を設立し、麻糸麻布の紡織を興し其販路を開張して、内は以て北海道の生産を幇助し、外は以て海外の輸入を防止せす《(ん)》とす、然れとも本業の如きは未た創始の業にして、最初より会社の利益を見んこと甚至難なるのみならす、建築を始め機械の購入及其据附等に数多の日月を要するを以て、其間商売上必要の資財を割て之れに充んこと甚堪難き所に有之、仰き翼くは特に会社の利益を謀るにあらすして、直接には北海道の生産を翼け、間接には海外貿易の権衡に裨補する一大要事たるを洞観せられ、株金募集の時より満七年間年六朱に当る利益の保証を被成下置度、別紙定款相添此段奉願上候也
  明治二十年四月九日
     東京府下麻布区永坂町三十三番地  永山盛繁
     滋賀県下神崎郡宮荘村       山中利右衛門
     滋賀県下神崎郡山本村       小泉新助
     京都府下下京区第十二組永原町   島田善右衛門
     京都府下桑田郡亀岡北町      田中源太郎
     京都府下上京区第二十一組春帯町  浜岡光哲
     東京府下日本橋区浜町三丁目一番地 小室信夫
     滋賀膝下栗太郡草津村       高田義助
   北海道庁長官 岩村通俊殿

    北海道製麻会社定款
北海道製麻会社を創立するに付、其株主の衆議を以て決定する所の定款は左の如し
     第一章 総則
第一条 当会社の名唱北海道製麻会社《(は脱カ)》と称し、其本社を北海道札幌に置く可し
第二条 当会社の営業年限明治二十年《(は脱カ)》 月 日より向ふ二十ケ年とす但株主総会の決議に於て猶永続を望むときは、更に官の允準を謂ふて継続するを得可し
第三条 当会社は有限責任とし、負債弁償の為め株主の負担すへき義務は株金に止るものとす
第四条 当会社の営業は麻苧亜麻を以て糸布を紡織し、之れを販売するものとす
第五条 当会社は前項に掲る事項を以て本務となすか故に、其工業に必要する麻苧亜麻を買入れ、麻糸麻布等を売却するの外は他の売買事務に干与せさるは勿論、目的外の事業に関係す可からす
第六条 当会社に対し、管轄庁より命令されたる条項は堅く之れを遵守すへし
第七条 当会社の業務は此定款に拠て之を委員長委員支配人に委任す
 - 第10巻 p.677 -ページ画像 
可し
     第二章 資本金之事
第八条 当会社の資本金は八十万円と定め、一株百円とし総計八千株を内国人民より募集す可し、但営業の都合により株主の衆議を以て之れを増減するを得可し
第九条 此株金は、各其引受高を会社の指定する期限に於て入金す可し、而して其時日必す三十日前に通知するものとす
第十条 株主第一回の払込を為したるときは当会社より仮株券を交付し、第二回以後は其金額を右株券に記入し、委員長及主任者之れに鈐印すへし、但最終の入金を為したるときは本株券と交換す可し
第十一条 株主若し此払込金を怠るときは、其金高に対し、一日百円に付金五銭の延滞日歩利息を徴収す可し、而して其延滞日数六十日以上に及ふときは、当会社に於て此株式を売却し、其買受人をして補欠員たらしむ可し、但此場合に於ては売却に係る諸費及延滞日歩利息を計算し、不足あれは原株主より徴収し、余金あらは之れを還付す可し
     第三章 役員之事
第十二条 当会社の役員と称するものは左の如し
  委員長  一名    委員副長  一名(便宜置之)
  委員   三名以上  支配人   一名
  技術長  一名    技術副長  一名
  属員   無定員
第十三条 当会社役員の撰挙は毎年一月株主例式総会に於て、株式五十個以上所有の株主中より委員五名を撰奉す可し、而して其再撰挙に当るものは重任することを得可し
第十四条 此撰挙に応したる委員は、同僚中の互撰を以て委員長一名委員副長一名(便宜置之)を推撰す可し
第十五条 委員長委員は上任の日に当り、所持の株式中五十株の券状を当会社に預く可し、当会社は挌護し、其券状の保護預証書に禁授受の印を押し、之れを渡し置く可し
第十六条 委員長委員の在職期限は一ケ年間とす、若し期限中不時の欠員あるときは、委員の衆議を以て代任又は補欠を撰む可し、但此欠員の補員たりとも、時宜により在職の委員長委員に於て之を指名し、株主の衆議に付して決定するを得可し
第十七条 委員は月番を以て一名の撿査掛を定め、常に当会社営業の景況及金銭物品の出納を点撿す可し
第十八条 委員長委員は其衆議を以て支配人以下の役員等事務分掌の規程を設け、及之を撰任放免するを得可し
   ○第十九条―第六十一条略ス。
    第二節 会社の設立
明治二十年五月廿三日北海道庁は会社の設立を認可し、同六月二十九日附を以て左の命令書を交附して払込株金に対し向ふ六箇年間年利五朱迄を補給するの特典を与へられたり。
    命令書
 - 第10巻 p.678 -ページ画像 
                    北海道製麻会社
第一条 其会社の株金募集の翌月より営業開始の日まで、其払込金額に対し、一ケ年五銖に相当する利子を下付し、営業開始の後純益の配当五銖に上らざるときは、総株金額に対し年五銖までの不足額を補給す可し
  但本文純益配当とは会社総収入より営業費及起業費償還の為め、起業資本額の二十分の一を引去りたる自余の金額を云ふ
第二条 第一条利子下付及利益保証年限は通して満六ケ年間とす
第三条 利益保証年限中、其会社に於て北海道人民より購入する麻苧亜麻の価格は、毎年北海道庁長官の認可を経て之れを定む可し
第四条 利益保証年限中は、相当の事故なくして北海道人民に対し、麻苧亜麻の購入を拒むを得す
第五条 利益保証年限中、左の各項は株主総会に於て議決の上、北海道庁長官の認可を経て執行す可し
   一 会社定款を更正する事
   二 会社の資本金を増減する事
   三 会社の負債を起す事
第六条 其会社収支計算並営業上諸般の景況は、毎年六月・十二月の二季、正副委員長及委員の当撰解任は其都度、北海道庁長官に申告す可し
第七条 利益保証年限中、北海道庁長官は臨時官吏を派し其会社の諸帳簿及財産物件を撿査せしむることある可し
第八条 其会社に於て此命令書の明条に違背するときは、北海道庁長官は之れを制止し、又は営業を停止することある可し
第九条 北海道庁長官に於て必要と認むるときは、第一条・第二条を除くの外、此命令書を更正することある可し、但此場合に在ては予め其事由を明示す可し
○中略
当時北海道製麻創立に関し株主総代に於て左の事項を協定せり
    創立規約
北海道製麻会社設立に付、北海道及東西両京滋賀等の株主総代に於て協議決定したる条件左の如し
 一、当社は資本総額を金八拾万円と定め、北海道製麻会社と称す可し
 二、資本金の内各地に於て負担する割合は左の如し
    金拾万円     北海道
    金参拾万円    東京
    金四拾万円    京都及滋賀
 三、資本金の払込期限及金額は左の如し
    第一回  一株に付  金参円   明治二十年六月
    第二回  同     金拾弐円  同    十月
    第三回  同     金弐拾円  同二十一年四月
    第四回  同     金参拾円  同    八月
    第五回  同     金弐拾五円 同二十二年一月
 - 第10巻 p.679 -ページ画像 
    第六回  同     金拾円   同    四月
     但機械の購入建築の遅速及び開業の都合により、或は其期日並に金額を伸縮増減することある可し、此場合に於ては少くも三十日前之を各株主に報知す可し
 四、当社創立事務取扱の為創立委員五名を設け、開業迄の事務を委托す
 五、創立委員は京都滋賀地方より二名、東京より二名、北海道より一名、各其地方株主より撰出す可し
 六、当社開業前当分の内東京に創立事務所本部を置き、西京及札幌に各其支部を置く、但し起業順序整頓せし上は本部を移すものとす
 七、事務所は各其地方の委員之を担理す
 八、東京本部に於て当社全体に関する事務の取纏めを為すと、東京一部に関する事務の取扱を為すへし
 九、札幌支部に於ては当社全体則道庁に関する事務と、札幌一部に関する事務の取扱を為すへし
 十、西京支部に於ては京都及滋賀に関する事務の取扱を為すへし
 十一、創立事務は分つて二とす
   一 会社全体に関する事件
   二 各地株主に関する事件
 十二、会社全体に関する事件は総委員の協議決定之上執行するものとす
 十三、各地株主に関する事件は総委員の決定したるものを各地方委員分担執行するものとす
 十四、当社資本金全額払込迄は、其株式に関する一切の事務は、各地の委員之を分担調理すへし
 十五、当社の全体に関する費用は各地より之を醵集し、其各地に関する創業入費は一株に付金五拾銭を極度とし、適宜之を支弁すへし
 十六、払込金の内全体に関する費用と各地に関する創業費とを支出したる残額は、各地に於て之を保護すへし、但其保護の方法は総委員に於て協議決定すへし
 十七、前数項の規約は開業の際之を解除すへし
 十八、前数項中実施後不都合の廉あらば、委員協議の上改正することあるへし
    麻及亜麻紡織所設立経費概算書 ○各項ノ細目ハ略ス
 一金六拾弐万七千参百拾五円   起業費
 一金拾七万弐千六百八拾五円   運転資本
 合計金八拾万円    (円位以下略)
      此訳
  金六拾弐万七千参百拾四円    起業費
      内
    金拾九万八千参拾壱円    建築費
 - 第10巻 p.680 -ページ画像 
    金弐拾九万七千九百参円   機械代
    金拾参万千参百八拾円    機械運搬費其外諸入費共
    金七万百六拾八円      営業費一年分
    金壱万九千七百六拾八円   諸費
○中略
同二十二年二月吉田氏帰朝し、同年五月官を罷めて北海道製麻会社創立委員長となる、初め氏の委員長に推さるゝや、数回之を辞すと雖も創業百般の困難蝟集するの際、適任氏を以て最とし、衆議遂に決し、敢て氏を起しめたるなり。


願伺届録 会社規則 明治廿一年(DK100062k-0011)
第10巻 p.680 ページ画像

願伺届録 会社規則 明治廿一年 (東京府庁所蔵)
  明治二十一年十一月九日
一、北海道製麻会社創立事務処設置届並に同会社移転届の件
 (理由)本月二日移転届日本橋区役所ヨリ回送セシニ付、右事務所設立届出無之取調中之処、該区役所ヨリ昨年七月中差出セシモ行違ヲ以テ送付方延引セシ旨ニテ、本月六日書記持来セシモ七月中差出セシモノト見做、其儘存置スルモノトス
    御届
今般北海道庁之特許ヲ蒙リ北海道製麻会社創設仕候ニ付テハ、本月一日ヨリ日本橋区浜町三丁目一番地ヘ創立事務所ヲ設ケ事務取扱仕候、依テ別紙道庁御命令書及当社定款写相添、此段御届申上候也
 追テ定款之義ハ目下修正中ニ付、追テ出来ノ上ハ更ニ御届可申上、此段添申仕候也
      東京府日本橋区浜町三丁目一番地
              北海道製麻会社
                    北海道製麻会社東京創立事務所印
  明治二十年七月
                   委員
                    小室信夫
                   同
                    渋沢喜作
    東京府知事 男爵 高崎五六殿
 右出願ニ付奥印候也
         東京府日本橋区長 伊藤正信 
  (命令書略)


帝国製麻株式会社三十年史資料 第壱輯・第三六頁〔昭和一二年一〇月〕(DK100062k-0012)
第10巻 p.680-681 ページ画像

帝国製麻株式会社三十年史資料 第壱輯・第三六頁〔昭和一二年一〇月〕
    吉田健作君詳伝
○上略
是時○明治二十年三月に方り北海道庁長官岩村通俊君上京し、製麻会社創立の議も漸く将さに熟せんとす、長官一日君及創立委員小室信夫・渋沢喜作・田中源太郎諸氏を芝見晴亭に招き相談会を開く、大蔵大臣松方伯亦た来り臨む、伯諸氏に謂て曰く、予能く吉田君の此業に尽瘁するを知る、君にして之か計画に従事せは予輒ち之を賛成すと、議乃ち決す其資本金は八拾万円とす、而して北海道庁は向ふ六ケ年六朱の利子を
 - 第10巻 p.681 -ページ画像 
補助するなり、是れ此年四月一日の事となす。
○下略
  ○「帝国製麻株式会社三十年史資料第壱輯」ハソノ序文ニ左ノ如ク記セリ。
   一、第一輯は帝国製麻創立以前の記事を纏めたもので日本製麻史に洩れた記録を採ることに意を用ひた。
   一、吉田健作君詳伝は曾て本社に於て日本製麻史、其他を参考として編纂したものを再録した。
   一、三社合同販売より日本製麻創立に至る経過は、鹿沼工場に於て豊富なる資料に基き、鹿沼工場前史として今回編纂せられたものに詳記してあるので其儘載せることゝした。随つて記述が下野製麻を中心としたものであることは御断りしておく次第である。
   一、北海道製麻沿革誌・日本繊糸会社史は夫々当事者が自ら執筆せられたものであるから、当時の事情を詳にするためには洵に好個の文献であつて興味多いところであらう。(昭和十二年十月三十日「帝国製麻株式会社三十年史」編纂委員識)
  ○右ハ昭和十二年十月発行ノ「帝国製麻株式会社三十年史」編纂ニ当リ蒐集シタル資料ノ集成第一輯ニシテ、明治四十年帝国製麻株式会社創立以前ノ各会社資料ヲ主トス。帝国製麻株式会社本店安岡氏ヨリ借用セリ。


田中源太郎翁伝 (水石会編) 第一〇〇―一〇五頁〔昭和九年三月〕(DK100062k-0013)
第10巻 p.681-683 ページ画像

田中源太郎翁伝 (水石会編) 第一〇〇―一〇五頁〔昭和九年三月〕
 ○第二章 実業上の業績
    八 北海道製麻株式会社
 北海道製麻株式会社は翁及浜岡光哲翁が主唱者となり、小室信夫・永山盛繁両氏等を加へ、東京の財豪渋沢栄一・同喜作両氏の援助の下に、明治二十年五月設立したものである。その目的は当時未だ本邦に栽培したことのない亜麻を移植せしめ、大麻と混じ、これを原料として紡糸織布の業を営み、その製品は専ら陸海軍の需要に応じ、一方民間に麻糸・麻布を給し、以て舶来品を防遏せんとするにあつた。而して工場の構造、麻布の製法等はすべて範を仏国にとり、資本金は最初八拾万円とし後百六拾万円に増資し、二十四年一月から業務を開始した。資本金旧株八拾万円、新株八拾万円(内四拾八万円払込)社債拾万円合計百七拾万円で、最初社長は渋沢喜作氏、取締役は翁及浜岡光哲・小室信夫・永山盛繁・宇野保太郎の諸氏が之に当り、監査役は渋沢栄一・本野小平・山中利右衛門の諸氏であつた。
 斯くて一万八千六百坪の工場敷地内に、五千余坪の工場建物を新築し、紡錘数六千三百錘・機織数百十一台を据ゑ付け、技術者及事務員工場社員八十人の外、職工は男四百五十二人、女八百三十一人といふ多数を使用し、寄宿舎を設けて収容し、一昼夜二十二時間に亘り交代にて就業せしむる制度とした。同社は北海道に於いては勿論、本邦に於ける唯一の製麻事業として頗る大規模な経営であつた。遠隔の地ではあるが、亜麻栽培に最も好適せる地質で而も広漠たる沃野千里、将来幾らでも拡張の余地があり労賃又低廉で、すべての企業条件を具有している、翁がこの地に着目して、当時は勿論、将来も最も有望な麻糸・麻布製造業を創始したことは、翁の経済眼が如何に非凡なものであつたかを証するに足りやう。
 会社の製品は、糸と布の二類で糸類は帷子用・生平用・蚊帳用・畳
 - 第10巻 p.682 -ページ画像 
縁用・花莚経糸用・漁網用・捻糸・帆縫、靴縫、其他縫糸・元結用等の各種で、東京を始め北陸・九州・江州及び、本道各漁場地へ販売した。織物類は軍艦商船用帆布・雨覆ダツク・生晒各種リンネル其他の厚織麻布とし、専ら陸海軍又逓信省の御用を始め、一般船舶の帆地・鉄道貨車覆・敷物・雨覆用服地用として、その販路は頗る広いものがあつた。
 殊に同社製品は純粋の亜麻・大麻を以て紡織したものであるから、諸糸布ともその質強靭で、品質良好、就中帆布・貨車覆・雨覆等に用ふる「ヅツク」「ダツク」の類の如きは、最も適良で、且耐久力に富み、舶来品たるジユート製「ヅツク」「ダツク」の遥に及ばない優点があつた。されば一度本品を使用したものは、我の彼に優る数等なるを確め、次第に本会社製品を選用するの傾向を生じ、需用は年と共に増大した、従て会社の事業は益々隆盛に向ひ、前途又頗る有望視せらるゝに至つた。斯くて創業四年目の明治二十八年末には一ケ年平均製糸百万斤であつたものが、更に二年後の明治三十年末には約二百万斤に上り、織物も五十七万八千碼であつたものが、二年後の三十年末には約百十万碼を製産するの盛況に達した。
 又これが原料たる亜麻・大麻の栽培も、会社は北海道庁と共に力を協せて、一般農家に之が栽培を奨励し、或は原料の購入を予約し、或は資本を貸与すると共に、会社自ら試作して、栽培耕耘の範を示したので、農家も次第に有望の作物たるを認むるに至り、年毎に耕作面積の増加を見た、即ち明治二十三年の会社事業開始前は、作付反別僅に四百九十六町歩に過ぎなかつたものが、七年後の明治三十年には五千百七十六町歩に達し、一躍十倍に上るの盛況を呈した。
 同社は別に附属製線所を雁来・琴似・当別・新十津川・栗山の五ケ所に設け、麻茎の購入・浸水・乾燥・剥皮等、即ち原茎を繊維に製する業務を行つた。この事業はすべて機械力によるので、各所に所長以下技師技工を配置して合計約三百台の機械を運転し、職工及人夫総計約千人を使用してゐた。
 翁は明治十九年十一月、同社創立の際委員に挙げられ、創立に参画する所あり、その後二十六年十二月取締役に挙げられ、越えて三十六年八月、重役会の互選により社長に選挙され、専ら之が経営に任ずる所があつた。会社が遠隔の地であるに拘らず、年に一度は必ず同地に旅行し、以て会社の実状を査察し、その経営方針を誤ることなく、在任中着々として好成績を挙げ、多くの社員・職工・農夫等からも師父の如く尊敬され、年に一度の来社を待ち詫ぶるの有様であつた。
 後年北海道に於ける製麻事業の勃興につれ、同社と帝国製麻と合同の機運熟し、明治四十年七月、遂に北海道製麻を解散し、最も有利なる条件の下に帝国製麻との合併契約が成立したのであつた。こは田中社長が本事業の前途を見越し、一層鞏固なる基礎の下に将来の発展を策すべく断行したもので、本邦製麻事業界の革新であり、同時に又北海道製麻会社として有終の美を済す所以でもあつた。従つてこの英断は会社の株主一同より多大の賞讃を博し、合併成立後間もなく旧株主総会の決議により、慰労金を田中社長に贈り更に社員一同の名を以て
 - 第10巻 p.683 -ページ画像 
金盃に感謝状を添へて贈呈したのであつた。
 尚ほ翁は合併と同時に、帝国製麻会社の取締役に推挙され逝去前迄在任した。


帝国製麻株式会社三十年史資料 第壱輯・第八九頁〔昭和一二年一〇月〕 【北海道製麻株式会社沿革誌(元常務取締役 宇野保太郎氏記述)】(DK100062k-0014)
第10巻 p.683-685 ページ画像

帝国製麻株式会社三十年史資料 第壱輯・第八九頁〔昭和一二年一〇月〕
  北海道製麻株式会社沿革誌(元常務取締役 宇野保太郎氏記述)
    創立の順序及役員の変遷枢要社員の異動
○上略
 明治廿年七月委員選挙を終り、小室信夫氏を委員長候補者とし同人の推薦にて徳見淳太郎《(マヽ)》を支配人に任じ、委員田中源太郎の推薦にて拙者を二等手代に任じ会計主任とし、同年八月先以て札幌に赴任、創立準備に着手せしめ北海道製麻会社創立事務所を北一条東一丁目三番地に置き、北海道庁への交渉其他の要務に当らしめ、建築材料調査注文等に取掛らしめたり、尚八月末小室信夫・島田種次郎(京都発起人)吉田健作・横田万寿之助の諸氏札幌に出張、実地に就き相談を遂げ吉田・横田の両氏は海外出張準備の為め先つ去り、小室・島田の両氏も続て出立、徳見支配人は一と通りの用件を終り九月下旬東京に赴きたり。先之北海道委員永山盛繁は北海道在任重役として曾て其衝に当るべきものと自任したりしに、委員長候補小室氏は専ら徳見支配人に任し永山をして干渉せしめず、徳見は自分一己の専断にて石材木材の注文を始め北海道庁の交渉其他の準備一切に取掛りたるより、永山氏の不平は爆発して道庁当任の理事官堀基に内訴し、其当時道庁は鹿児島県人の在官者多数なりしより同県人の勢力多大、殊に屯田司令部長官より将校の要部同じく鹿児島県人なりしを以て行掛上永山氏に左袒し徳見を敵視したるも、同人は小室氏を後楯として毫も頓着せずに進行したり。一夜堀事務官は永山を介して窃に島田及拙者を私邸に招き、徳見をして経営の衝に当らしむるなれば彼れ《(の脱カ)》不遜倣慢《(傲)》を憤り、北海道庁当務官吏は皆感情を害し誰しも同情するものあらず、随て此会社設立に対し一同は力を尽さゞるべし、聴く徳見は小室の推薦なれば同人の処分は京都の田中・浜岡に謀りて排斥すべしと説きたり。又永山盛繁は徳見の既に着手したる跡を探偵捜索し、是々の事件に収賄したりとか夫是の件は悪意を以て経営したりとか、屡々島田及拙者に警告し京都委員に迫り一日も速に排斥せよと促したるも、両人窃に申合せ未だ面識後数日を経たるのみにて新規の交際なれば、人物性質の如何を極めず濫りに一方に左袒すべきにあらずと雖も、将来特別の保護を受けんとする北海道庁吏員の全部に於て排斥する徳見氏を支配人に置き其衝に当らしむるは得策にあらず、去りとて永山氏は支配人として経営の技倆を欠くの人なり、如何にせば可ならんか、先輩の吉田健作氏に相談し而して京都委員に報告善後策を講ずべしと之を吉田氏に諜りたるに、田中源太郎に相談すべし、島田は速に出立報告の任に当り宇野は在留徳見の所行を監視し、併せて永山の人物を探るべしと議一決したり。当時拙者の心事は五里霧中未だ永山・徳見両人何れの黒白を決する能はず、徳見は敏腕なる才士にして軽薄の性質は免れざるも、支配人として経営の技倆は充分に備れり。永山氏は道庁吏員に縁故あ
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るも武人にして筆算に暗く、而して学術の素養更になし、蓄財志想あるも多慾にして正道を踏まず、言語挙動品性の粗略なる人なれば決して其器にあらず、是れは両氏を避け更に適当の支配人を選定するに如かず、当分何れにも偏せず徳見・永山同等に交際し其技倆を試むべしと決心したり。後数日にして徳見札幌を去るに臨み又来札する迄の離別として、道庁其外の吏員知己八十余名に招待状を発し東京庵に宴会を催したるに、永山之を防害したる為め会するもの僅に五名即徳見の旧友のみ、其他は何れも申合せ事故欠席し甚だ寥々たる宴会なりしも徳見は敢て自省せず別に勝算ありとて四面楚歌声裡に東京に出立せり永山は其後道庁吏員の声援を借りて徳見排斥を拙者に促し来るも、島田の報告達せざるか田中氏より何分の回答なきを以て創立事務所を空虚として京都に出立する能はず、依て田中氏に打電し留守居社員の派遣を乞ひ梶村某来札したり。此際創立総会を十一月五日東京に於て開会の通知に接し、永山は無論道庁属岡某は五人株主の総代として総会に臨席することゝなりたり。拙者は十月十九日札幌を発して十一月一日京都に達し、田中氏以下重立たる株主に面会し仔細に北海道の実況を告げ、新に支配人として温厚の年輩者選定を乞ひたり。翌二日田中氏と共に上京し善後策を講ずるには東京及北海道委員と交渉協議せざる可からず、即道庁代表岡属並に永山委員に会見したるに岡属は徳見を排斥せざれば道庁としては一切保護を与へずと内諭し、永山は北海道全部の株主、徳見支配人には反対なりと函館・札幌各方面より委任状を蒐集し来れり。依て京都滋賀株主の総代なる内貴甚三郎・山中利右衛門其他両三名着京したる人々内議し、五日の総会席上に於て委員改選と共に小室氏に再考を煩すことに一決せり。越へて十一月五日浜町蜂須賀家別邸に於て総会席上委員改選に際し、当選者は小室信夫・田中源太郎・浜岡光哲・永山盛繁・城多薫の五名となりて渋沢喜作落選したるより東京株主は一同唖然たり、即京都と北海道と申合せの結果なり。依て東京株主は種々の質問を起し京都・滋賀の株主も亦質問を発し遂に終結する能はず、梅浦精一の発言に依り当選委員妥協の上委員を決定すべしとありて、其後小室・田中会見、渋沢男爵に相談し徳見の支配人を辞任せしめ、委員は従前通り小室信夫、渋沢喜作・田中源太郎・浜岡光哲・永山盛繁の五名(創業中無報酬)とし、相談役渋沢男爵、城多薫、梅浦精一の三氏に嘱託し、追て支配人選定迄は北海道は会計として拙者、建築として宮村朔三(当時大津麻糸会社の製造長)両人を担当者とし永山委員之を監督すること、而して東京及京都に出張所を置き幹部となりて重要の件を指図すべしと。十一月中旬浜町常盤屋に集会し、和親の宴を張り渋沢男爵を始め関係者一同及吉田・横田の両技師も列席し、其序を以て海外注文器械の打合せを為したり。十二月両技師は欧洲に出発し、札幌に於ては北五条東一丁目二番地に創立事務所を移し十二月下旬宮村着任せり。
 廿一年三月永山委員着任し始めて創立の順序を定めたり。而して金弐拾万円の予算以内にて工場其他の建築を完了するとし、廿一年中に土中工事を終らざる可からず、大体の建物は廿年十二月渡欧したる吉田氏欧洲より建築据付絵図面を郵送し来りたるを以て、道庁建築技手
 - 第10巻 p.685 -ページ画像 
太田某に設計概算を託し調査せしめ、之れを参考とし一方宮村朔三に設計せしめたるに煉瓦石・石材・木材、其他建築材料の入用高一定せず、非常の差額ありしを以て東京幹部に於て鄭重の設計を要するものとし、辰野工学士に調査を託し宮村出京、建築仕様の目的を定め部分請負直営工事とし、宮村担任として工事に着手せり。此年八月田中源太郎・渋沢喜作の両委員来札、建築其他の設計実地に就き調査し目的経営を確定せり。同年十月雇外国人リツチ来朝、建家図面を持参し暫く東京に滞在せり。
○下略
  ○宇野保太郎ハ元北海道製麻株式会社取締役ニシテ、明治四十年七月廿六日帝国製麻株式会社創立ト共ニ帝国製麻株式会社取締役ニ就任シ、直チニ常務取締役トナリ、明治四十二年十月十二日常務ヲ辞任シ、以後大正六年五月六日逝去ニ至ル迄取締役トシテ在任セリ。帝国製麻株式会社三十年史資料第一輯ニ採録セル『北海道製麻株式会社沿革誌』ハ同氏ノ記録ナリ。


開拓指鍼 北海道通覧 〔明治二六年六月〕(DK100062k-0015)
第10巻 p.685-687 ページ画像

開拓指鍼 北海道通覧 〔明治二六年六月〕
  第八篇 製造所
    北海道製麻会社
    役員
 委員長  渋沢喜作         相談役   渋沢栄一
 委員   小室信夫               本野小平
      田中源太郎              山中利右衛門
      浜田光哲         技術長   横田万寿之助
      永田盛繁《(永山盛繁)》  副支配人  宇野保太郎
 所在地  札幌区北八条
 販売店  東京分社  東京市日本橋区北新堀町九番地
      三共商会  滋賀県近江国愛知郡沓掛村
      高田商会  東京市京橋区銀座町三丁目
      海老原商会 栃木県下野国足利町二丁目
 販売取次店
      函館船具会社  函館宮重商会
      小樽小松商店  札幌岡田商店
    沿革事歴
 明治十九年一月欧洲より帰朝せし農省務省技師吉田健作氏、近江紡績会社開設の指揮監督を委託せられ、其成積大《(績)》に観るへくして頗る世人の称賛を博せり、同社の創業事務整頓し開業式を挙行したるは同年十一月なりし、然るに会社の起業四方の好評を博するや、京阪地方各種の諸会社陸続として起り、結社熱方に高度に達せんとす、此時北海道庁理事官堀基氏、偶ま書を吉田健作氏に贈て曰く
 麻は北海道農産物中最も将来に見込有之者に付、厚く奨励を加へ漸次該業の旺盛を希図致候際、貴官著述の麻事改良説を読み頗る同感に付、今回出京親しく御説話相承り度と存候処、滋賀県御出張中にて大に失望致候、就ては別紙の件々、乍御手数御記載の上北海道庁札幌本庁へ宛送り被下度、且今回滋賀県下へ設立の麻紡績場に係る書類も、一切併て御送付に預り度、就中起業費の内訳、収支利益の
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調、一ケ年需要の麻量等、殊に要用に有之候、右は本道に於て大に関係を有し将来設立の見込有之候、右御多用中には可有之候得共成へく迅速御取調被下度云々
と、是に於て吉田氏は十九年の冬滋賀県を去り上京の後直に製麻業設立計画の取調に従事し、之を工務局に指出せり、其の大意は左の如し
 嘗て命を蒙り調査致候北海道麻類製造起業計画之義、今般右起業経費取調整済に相成候間、別冊亜麻耕種業施行経費の概算書、亜麻剥皮業設立経費概算書、麻類紡織業設立経費概算書、及び右三業創立試算書共、一綴として進呈致候間、至急道庁堀理事官許へ御送付被成下度、扨石紡績起業計画《(右)》の要は、其紡績部及び製織部共各精粗の両区に分ち、其粗は麻を以て糸一号より廿一号迄を紡き、主として袋物其他敷物の如き総て粗物を製し、以て輸出穀類の袋、洋風舟車具、旅具等に充て、余る糸を以て漁網等に充てんと欲す、又其精は亜麻を以て糸三十号より百号迄を績を主としてシヤツ、ハンケチーフ、食卓上の用布、窓掛、其他夏服類の如き総て精品を製し、以て洋風衣食住の諸用に応し、余る糸を以て越後小千谷布、上州足利絹交織、江州高宮布、西京西陣絹交織、和州奈良布等の原料糸に応せんと欲す、然り而して今若し前述諸般の需用に応せんとする時は、此起業も尚不十分なりと雖とも、先つ此起業にして成就し得るときは、再ひ進取の期に臨むも大に便益を見ることあるへし、到底今日此等の起業を計画するに於て最も注意を要すべきは、彼外人雑居後の時勢如何にあるへしと相信じ候故、玆に其用意も相加へ置候
  明治二十年二月二十一日          吉田健作
是時道庁長官岩村通俊氏上京し、該業創立の議に与れり、岩村氏一日創立委員小室信夫・渋沢喜作・田中源太郎諸氏と東京芝見晴亭に相談を開くに当り、大蔵大臣松方伯来り会す、伯諸氏に謂て曰く、予は吉田氏の此業に尽瘁するを知る、同氏にして之か計画に従事せば予輒ち之を賛成すと、是に於て議乃ち決す、其資本金は八十万円とし而して北海道庁は、向ふ六ケ年間、一ケ年五朱の利子を補助する事となれり是れ実に二十年四月一日なりし
    資本株式及機械工場
明治二十一年七月十九日家屋建築の工を起し、二十三年十二月三十一日に竣工す、其建坪は三千六百二十円六十五銭七厘《(脱アルカ)》、機械費四十二万六千七百円八十九銭九厘と五万六千二百十六円八十二銭二厘なり、資本金八十万円株数一万六千株、一株五十円、株主は二百十九名、現在所在地は京都・東京・函館・札幌とす、而して開業は二十四年一月一日なりし、其機械類は製糸機二十九台五千錘、製織機九十五台、蒸汽機関は五百馬力、機関数は五個、煙筒百二十尺、石炭消費高一ケ年間四百万斤、職工人員三百五十人、現在男百五十人女二百人、原料耕作反別六百町歩内亜麻四百町歩、大麻二百町歩、原料線維八十四万斤、内訳亜麻四十八万斤、大麻三十六万斤、製造高製糸三十五万斤、織布三十六万斤なり
雁来製線所は、附属工場なり、其起業費二万二百五十三円七十七銭六厘、機械数亜麻三十三台、大麻八台、機関数一箇、製線高一ケ年亜麻
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三十五万斤、職工人員四十人、又新琴似製線場の建坪は七百八十八坪起業費一万六千三百五十四円八十五銭六厘、機械数亜麻四十三台、大麻五台、蒸汽機関三十馬力、汽関数一箇、製綿高《(線)》は亜麻三十五万斤、大麻十五万斤、職工人員は五十人なり


開拓指鍼 北海道通覧 第一〇五頁〔明治二六年六月〕(DK100062k-0016)
第10巻 p.687 ページ画像

開拓指鍼 北海道通覧  第一〇五頁〔明治二六年六月〕
  第三編 官衙
    明治廿六年度北海道庁予算
                       円
  北海道庁          九四四、三五八・一七二
  農学校            二六、四五〇・〇〇〇
  北海道集治監        五五九、二五七・八九九
  屯田兵費          四三八、八九五・八六九
  北海道製麻会社補助費     四〇、〇〇〇・〇〇〇
   〃 紋鼈製糖会社〃      二、七五〇・〇〇〇
   〃 札幌製糖会社〃     二五、〇〇〇・〇〇〇
  北海道興産社費         二、五〇〇・〇〇〇
   〃 炭鉱鉄道会社費    一八八、三三三・三三三
   〃 航海 〃         四、五〇〇・〇〇〇
  十勝分監新営費(臨時部)   二五、四六一・三八〇


草創時代ニ於ケル札幌ノ工業 (札幌商工会議所編) 第六五頁〔昭和一一年一〇月〕(DK100062k-0017)
第10巻 p.687 ページ画像

草創時代ニ於ケル札幌ノ工業 (札幌商工会議所編)
                第六五頁〔昭和一一年一〇月〕
北海道製麻会社創業当時ノ北海道庁補給金ハ左ノ如クデアル
  一、補給金
  北海道庁ノ命令ニ基キ補給ヲ受ケタ金額次ノ如シ
                  円
    明治廿一年   一八、四九一・九〇〇
    〃 廿二年   二八、六三一・八三三
    〃 廿三年   一七、六一八・九一七
    〃 廿四年   四〇、〇〇〇・〇〇〇
    〃 廿五年   四〇・〇〇〇・〇〇〇



〔参考〕北海道立志編 (梶川梅太郎編) 第壱巻・第四二二―四二六頁 〔明治三六年五月〕(DK100062k-0018)
第10巻 p.687-689 ページ画像

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〔参考〕殖民公報 第三号・第七八―八一頁 〔明治三四年七月〕 札幌製麻会社概況(DK100062k-0019)
第10巻 p.689-691 ページ画像

殖民公報 第三号・第七八―八一頁 〔明治三四年七月〕
    札幌製麻会社概況
△沿革 北海道製麻会社の創立は明治二十年五月に在り、初め農商務技師吉田健作、深く意を製麻の事に用ひ機械を以て製線法を改良すると共に大に本邦に麻類紡織業を起さんことを望み、久しく欧洲に在りて之を研究し帰朝後先つ麻事改良説を作りて汎く四方の志士に頒ちたり、由来本道の地味は麻耕種に適するを以て開拓使時代より既に之を奨励しつゝありしと雖も、製線法は依然指頭の業に止り更に其進歩を見さるを以て、当時北海道庁第二部長堀基大に之を遺憾とし居たるか恰も此説を開くに迨ひ、同技師に就きて其業を本道に起さんことを図る、而して小室信夫・渋沢喜作・田中源太郎・浜岡光哲・永山盛繁等亦製麻起業の必要を認め、且つ之を本道に設くるは大に前途に望あるを信じ、各自奮ふて発起者と為り、同志を糾合し遂に八拾万円の資本を以て本道札幌に於て一大製麻紡績会社を創設せんとし、吉田技師の計画に拠り愈々明治二十年五月起業の位置を定め、定款を制定し直ちに本庁へ其創立を出願したり、営業年限は同年より満三箇年《(十脱)》(明治二十六年十二月定款を改正し満五十個年とす)資本金は八十万円(二十九年二月臨時総会に於て百六十万円に増資)組織は有限責任にて、営業の目的とする処は本道産の亜麻・麻を以て其品質の精粗に従ひ細太各種の糸を紡績し而して粗造の太糸と本邦在来の機織機械に適せさる糸類を以て「ダツク」、「ズツク」等を織成するに在り、同月中直に其の許可を得且つ六月二十九日本庁より特別保護の命令書を下附したるが、其要旨は株金募集の翌月より営業開始の日まで其払込金額に対し一個年五銖に相当する利子を下附し、営業開始の後純益の配当五銖に上らざるときは総株金額に対し年五銖までの不足額を補給することにて、此利子下附及利益保証年限は通して満六個年間(明治二十一年四月より同二十七年三月まで)と定めたり、仍て同年七月創立事務所本部を東京に置き、支部を京都及札幌に設け、同十一月札幌を本社とし、東西両京を出張所と改めたり、二十四年四月東京出張所を廃し更に日本橋区北新堀町に分社を設く、又同月本庁より吉田・横田両技師を欧洲に遣はし、同社のため各種の器械を購入せしむ、明治二十二年中両技師帰朝す、尋て各種器械到着せり、其全量千九百五十一噸五分皆欧洲最近改良のものにして新造に係る、又此器械購入と共に蒸汽機械・紡績機械・晒白機械・製織機械等据付のため老練の欧人四名を傭入れ、同二十三年六月に至り工場の竣工と共に悉く其据付を了へ、翌七月より運転を始む、是より先き札幌区北七条及北八条に亘り総坪数
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八千四十坪の地を工場敷地と定め、二十年七月より工場の建築に着手したり、総建坪四千八百六坪余之を七区に分つ、即ち第一区倉庫部、第二区櫛線部及修繕部、第三区粗紡部、第四区精紡部、第五区晒白部第六区製織部、第七区蒸汽部及電灯部とす
吉田・横田両技師の欧洲より帰朝するや本庁は吉田技師に同社事業監督を、又横田技師に技術長を嘱托す、尋て両技師官を罷むると共に吉田技師を委員長に選挙し、横田技師を技術長と為せり
明治二十二年六月、札幌郡雁来村に製線所を新設し、同年十月工竣り直に製線に着手せしか、結果頗る良好、且つ本社紡織業の進歩と共に原料の需用も亦増加するを以て、同二十三年中更に新琴似村に製線所を増設したり、如斯諸般の設備稍々整ひたるに付、明治二十四年一月一日より愈々営業を開始し、当分の内機械半運転と定め、製糸に在りては精細なる織糸と蚊帳糸を主とし、織物に在りては帆布「ダツク」「ズツク」等を製織したり、就中蚊帳糸の如きは日を逐て需用増加し製糸出来高中の最高額を占めたり、斯くて二十五年十月以後に至り、製品の販売益々好況を呈し、貯蔵の原料のみを以て注文品を製造すること能はざるに由り、其不足補充のため府県産の麻苧を購入し、併て工業事務を拡張し、製線所を増設することゝし、先つ二十六年中当別製線所の建築工事に着手し二十七年七月竣工せしを以て、同月以来三製線所其全運転を為すの盛況に達し、殊に二十八年上半季に至り始て所要の原料は悉く本道産のみを以て充実することゝなる、而して又同季より工場器械全部の運転をなし、且つ織機台其他を増設し、更に十月一日よりは製糸部の夜業を実施するに至りたり、翻て又亜麻・麻等の耕作状況を観れば数年来同社が耕作奨励の結果、二十六年度には耕作反別九百町歩余、二十七年度には千八百町歩余、二十八年度には、三千二百余町歩、二十九年度には六千町歩に達し、比年益々隆盛に赴くを以て、新十津川村に又一の製線所を増設するに決し、二十八年五月より工事に着手し、二十九年一月より試運転を為したるか、尚ほ一層規模を拡張し同年六月工事全く落成し、直に事業を開始することゝせり
明治二十八年冬期より帆布「ダツク」麻布等陸海軍の用途頓に進み、大麻・亜麻両糸の需用亦非常に増加するに至り、販路益々拡張するに迨ひたるを以て二十九年二月の臨時総会に於て増資及事業拡張を議決し、栗山・岩見沢・樺戸の三個所に製線所を増設することゝなり、又同年十月より機織部の夜業を開始す、尋て翌三十年四月には栗山製線所の建築工事落成し試運転を為すに至り、爰に於て製線所の数五個所に達し社業愈々隆盛に赴けるを以て此機に乗し、海外各国に於ける原料耕作、糸布製造其他諸般の業務視察として同年同月工場長福田久徳当別製線所長金井文之助を欧米へ派遣し、同年十一月及十二月中両名相前後して帰社す、爾来視察調査の結果原料耕作・製線・紡織等着々改善する所ありしか、三十一年に至り世上一般商況の不振に伴ひ製品販路の渋滞を来し事業を収縮するの止むを得さるに及ひたるを以て、九月より当別製線所を、十一月より栗山製線所を、当分休業することとし、又十月上旬より製糸部の夜業を中止し之に代ふるに毎日曜日の
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休業を改め二週に一日の休業を為すことゝせり、明治三十二年後半季以後に至り稍々市況回復すると共に各種製品の売行亦良好に赴き、殊に昨三十三年は北清事変のため陸海軍逓信省の注文品続出し頗る好況を呈せり、又同年中仏国巴里府開設の万国大博覧会へ出品し名誉大賞牌を得たり、現今の役員は、社長渋沢喜作・取締役田中源太郎・同浜岡光哲・取締役兼支配人宇野保太郎・監査役渋沢栄一・同長尾三十郎同本野小平とす
○下略


〔参考〕宮村朔三自伝 第二九―六五頁(DK100062k-0020)
第10巻 p.691-698 ページ画像

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