デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
3節 製麻業
3款 帝国製麻株式会社
■綱文

第10巻 p.744-759(DK100068k) ページ画像

明治40年7月26日(1907年)

北海道製麻株式会社・日本製麻株式会社ノ二社合同シテ帝国製麻株式会社創立ノタメ、是日東京銀行集会所ニ於テ両社合併創立株主総会開催サル。

栄一相談役ニ推薦サル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK100068k-0001)
第10巻 p.744 ページ画像

渋沢栄一  日記   明治四〇年
七月廿五日 曇冷                 起床七時
                         就蓐十一時三十分
○上略 地学協会ニ抵リ、北海道製麻会社株主総会ニ出席シ、畢テ帝国ホテルニ抵リテ午飧○下略
七月廿六日 晴冷                 起床七時
                         就蓐十一時三十分
○上略 午前十一時銀行集会所ニ抵リ、帝国製麻会社株主総会ニ出席ス、畢テ新重役ト共ニ午飧ヲ食ス○下略


青淵先生履歴台帳〔青淵先生公私履歴台帳〕(DK100068k-0002)
第10巻 p.744 ページ画像

青淵先生履歴台帳              (渋沢子爵家所蔵)
   民間略歴(明治二十五年以後)
○上略
   帝国製麻株式会社相談役  四十年七月 四十二年四月十日辞
○下略
  以上明治四十二年六月七日迄ノ分調


(帝国製麻株式会社)営業報告書 第一回 〔明治四一年一月〕(DK100068k-0003)
第10巻 p.744-745 ページ画像

(帝国製麻株式会社)営業報告書  第一回 〔明治四一年一月〕
    株主総会ノ事
一明治四十年七月二十六日東京市日本橋区坂本町東京銀行集会所ニ於テ、元日本製麻株式会社・元北海道製麻株式会社合併株主総会ヲ開キ、左ノ事項ヲ決議ス
一本社定款ヲ議定ス
一取締役七名及監査役三名ヲ選挙シ、左ノ諸氏当選就任セリ
  取締役 安田善三郎   取締役 大倉喜八郎
  同   田中源太郎   同   大橋新太郎
  同   土岐僙     同   中山尚之介
  同   宇野保太郎
  監査役 磯谷熊之助   監査役 小沢七兵衛
  同   雑賀良三郎
 一取締役及監査役ノ報酬ヲ金壱万五千円以内ト議定ス
    処務雑件
一七月二十六日取締役会ニ於テ左ノ各項ヲ決議ス
 一互選ニ依リ、取締役安田善三郎氏社長ニ、取締役宇野保太郎氏常務(札幌在勤)ニ就任セリ
 - 第10巻 p.745 -ページ画像 
 一取締役会ノ決議ニ依リ、相談役及支配人ヲ左ノ通リ推薦及選任セリ
  相談役  男爵 渋沢栄一 相談役 安田善次郎
  支配人  宮内二朔    支配人 上野栄三郎
一七月三十日帝国製麻株式会社設立ノ登記、並ニ日本製麻株式会社及北海道製麻株式会社解散ノ登記ヲ、東京区裁判所並ニ大阪支店札幌支店所在地区裁判所ヘ申請セリ


処務雑件(DK100068k-0004)
第10巻 p.745 ページ画像

処務雑件              (帝国製麻株式会社所蔵)
明治
四〇―七―二六 日本製麻株式会社・北海道製麻株式会社解散、帝国製麻株式会社創立株主総会
   東京市日本橋区坂本町東京銀行集会所ニ於テ、日本製麻株式会社・北海道製麻株式会社ノ合併ニ因リ設立スル会社ノ為メニ株主総会ヲ開ク
    出席株主      六七七名
    権利株数   九四、五二三株
      株主総人員    一、〇一五名
      株数     一二八、〇〇〇株
   一、本社定款ヲ議定ス(別冊)
   一、取締役七名監査役参名ヲ選挙シ、左記諸氏当選就任
     取締役 安田善三郎  取締役 土岐僙
     同   田中源太郎  同   宇野保太郎
     同   大倉喜八郎  同   中山尚之介
     同   大橋新太郎
     監査役 磯谷熊之助  監査役 小沢七兵衛
     同   雑賀良三郎
   一、取締役監査役ノ報酬決定
     金壱万五千円以内ト議定ス
四〇―七―二六 取締役会ニ於テ左ノ各項ヲ決議ス
   一、社長、常務(但札幌在勤)互選
     社長  取締役 安田善三郎
     常務  同   宇野保太郎
   一、相談役推薦
     相談役 男爵 渋沢栄一
     同   安田善次郎


竜門雑誌 第二三一号・第三七頁 〔明治四〇年八月二五日〕 ○帝国製麻株式会社の設立(DK100068k-0005)
第10巻 p.745-746 ページ画像

竜門雑誌   第二三一号・第三七頁 〔明治四〇年八月二五日〕
○帝国製麻株式会社の設立 北海道・日本両製麻会社は合併の交渉中なりしが、其協議成立して七月二十六日に至り両会社聯合して株主総会を開き、両会社解散の上資本金六百四十万円を以て新に帝国製麻会社を設立することに決し、取締役に安田善三郎・田中源太郎・大倉喜八郎・大橋新太郎・土岐僙・中山尚之介・宇野安太郎七氏《(宇野保太郎)》、監査役に磯谷熊之助・小沢七兵衛・雑賀保太郎三氏当選《(雑賀良三)》、青淵先生(元北海道
 - 第10巻 p.746 -ページ画像 
製麻会社監査役)は安田善次郎氏と共に相談役に推挙せられたり


日本製麻史 (高谷光雄著) 第四一九―四二六頁 〔明治四〇年一二月〕(DK100068k-0006)
第10巻 p.746-749 ページ画像

日本製麻史 (高谷光雄著) 第四一九―四二六頁 〔明治四〇年一二月〕
 ○第九章 帝国製麻会社の成立
    第一節 合同の機運
日本製麻及び北海製麻の両会社合同に依り、帝国製麻株式会社を成立するに至れる端緒に溯り仔細に之を顧れば、其は実に十年以前よりの希望にして乃ち経済界の沈滞に際せし当時、之に対する自衛発展の方法として合同の力に待つべきもの多きを自覚したるに起因す、之より先北海道製麻会社の宇野保太郎氏は大津出身の人にして、現に近江麻糸紡織会社創立の当時にも発起人の一人として加名せられたりし程の久しき知人なれば、氏の北海道より帰省さるゝ毎に必ず相往来して交誼を温め、新を談じ旧を語り互に麻業実地の利害を研究するを以て常とせり、曾て明治卅三年氏の帰省に会し談偶々麻業会社の合同の事に及ぶ、氏曰く合同の事たる固より可なり、然りと雖も如斯は順境の時に於て初めて策すべく逆境の時に於ては語るも要なし、近時財界の不況は又此事を画すべき余地なきを憾むと、越へて数年、明治三十八年氏又帰省し謂て曰く、合同の談たるや久矣、昨今財界の順境は方に事を図るべき好時機なり奈何と、予曰く寔に然り乍併合同の必要を感ずるもの其悲境の時に在て切に、而して、其盛況の時何等要なきが如し人事凡て如是、但し早晩必ず合同の事実を挙げ得べき機会あるべしと呵々大笑せり、又三十五年三社合同販売の事成るや、予は北海製麻の独り分立するを遺憾とし、同社の重役田中源太郎氏を京都に訪ひ、合同販売の始末を述べて氏の意見を叩き合同加入を勧説するもの再三なりしが、氏曰合同は宜しく根本的たるべし、根本的合同は予之を賛成す、渋沢男帰朝して之を聞くも亦恐らくは如是ならんを信ず、彼の販売のみの合同は部分的合同にして所謂一時的姑息の手段に過ぎず、姑息の合同は他日必ず多少の苦情を惹起して破綻是より生ぜん、予や実に織物会社に於て此苦き経験を嘗得たり、蓋し根本的合同の成立も遠き未来には非らざるべし、予は寧ろ忍で其時機の到来を待たん哉と、議遂に協はずして止みぬ
当時○明治三十五年 我近江紡織の役員に於ても、大倉氏の熱心なる勧告と斡旋によりて漸く端緒を開き得し四社合同の議が、中途に䠖跙して三社の合同に止まり、一社をして依然孤立別在せしむるを遺憾とし、大倉氏に対して右の謝意を表すると同時に、左の一書を致せしことあり、当時の往復簿に其稿を存せり、乃ち左の如し、但し大倉氏は此時近江紡織の取締役たりし
 前略三社合同に就ては容易ならざる御配慮に預り、販売上一段の局を相結び、深く感佩罷在候、然るに其節は渋沢男の洋行中なりしを以て、根本的合同の期を逸し、且つ販売上に於ても北海を分立せしめ候義は尤も遺憾とする所に有之候、然れども其分立たるや他に特種の異議あるに非ず、且つ渋沢男の如きも曾て其企望を抱持し居られし事は、田中氏も明言し居られ候義に付き、敢て至難の事に非ざるは勿論、其成否は独り会社自身の利害たるのみならず、延て国家
 - 第10巻 p.747 -ページ画像 
的利害にも相関し候義に付、此際区々たる情実の如きは断然排却して然るべきものと確信致居候、旁以て男爵帰朝の上は御迷惑ながら今一応安田氏と共に速に御協議相成候様御尽力相願度、即ち過日も開陳致置候合同の大要は左之如し
 一金参百六拾万円    四会社総資本高
    金百六拾万円        北海製麻会社
  内 金百万円          下野製麻会社
    金六拾万円         近江製糸会社
    金四拾万円         大阪製糸会社
 内金参百拾参万円     払込金額
    金壱百参拾五万円       北海
  内 金九拾万円          下野
    金四拾八万円         近江
    金四拾万円          大阪
 一製造高弐百万円     但一ケ年間
    金五拾万円          各社北海道製線高
  内 金百五拾万円         同製糸及製織高
 一利益高六拾万円     同上
    金拾万円           同上製線益概算
  内 金五拾万円          同製品販売益同上
 右は製造高及び利益金の如きも、輓近商況不振の上競争場裡に刻苦せし所の概計にして、其製造高も機械力に比し、凡そ六分に止まりし所の計上なるにより、若し連合して毎社に得意の製造を為し、且つ内外の需用を一手に収め、機械の全力を越し鞅掌するものとせば其実東洋特許の専売に異るなく、随て其利益も亦決して前日の比に非ざるは万信して疑はざる所に有之候(中略)右様の次第に付、渋沢男の帰朝を期し、此有終の局を完結候様御尽力相願度、幸に御一考云々
右は明治三十五年十月の事にして、三社の合同販売を締結せし当時の事情なり
而して今般遂に同氏の尽力に依りて根本的合同の成立を見るに至れるもの、蓋し一朝一夕の議に非らざりしを知るべきなり。斯くて明治四十年六月、日本及北海両製麻会社合併の協約既に成り、各社諸般の業務を此月に完了し、翌七月一日を以て帝国製麻株式会社は目出度玆に誕生する事となれり
    第二節 合同の成立
抑も形式上此合併の事に着手したるは四十年一月、日本製麻会社第七回株主総会の日なりしことを記臆せざるべからず、而して其順序の大要は左の如くにてありたるなり
 日本製麻会社は四十年一月の総会に於て始めて合同の協議を開きたるが、此時大倉氏曰、先方乃ち北海の田中氏とも屡々会見し、渋沢氏同意の事も亦明示せし旨を以てせられたり、玆を以て安田氏以下役員に於ても深く其労を謝し、尚ほ将来の交渉を挙て同氏に一任したり
 - 第10巻 p.748 -ページ画像 
 次て日本製麻は二月二十五日臨時総会を開き資本金を四百万円に増加し、且つ仮契約の為取替及び委員の派遣等に付き協議するところあり、北海製麻も亦均しく、弐百四拾万円に増資して歩調を同じくし、五月を以て合併の総会を両社同時に開くことゝなりたるが、其後相互諸般の調査及協定等着々進行したるを以て両社は約により五月二十三日各自に臨時総会を開き無事合併の議を決せり、其議案は左の如くなりし
   日本製麻株式会社臨時株主総会議案
一本会社と北海道製麻株式会社と左の仮契約に依り合併する事
     合併仮契約書
 日本製麻株式会社(以下日麻と称す)と北海道製麻株式会社(以下北麻と称す)とを合併し、一会社となすの目的を以て両会社々長の間に合併仮契約を締結すること左の如し
 第一条 両会社を合併し一の株式会社と為すこと
 第二条 合併会社の総資本額を金六百四拾万円とし、一株金五拾円の株式十二万八千株に分つ、但内六万四千株は金五拾円全額払込済にして之を旧株と称し、六万四千株は金拾弐円五拾銭宛払込にして之を新株と称す
 第三条 本年六月三十日現在の両会社株主は其所有の株式に対し、同数同額の合併会社株式を受くるものとし、其株券は追て之を引換るものとす
 第四条 両会社の資産及び負債は合併前に両会社取締役之を調査し協定すへきものとす
 第五条 本年六月卅日迄の両会社利益金並に前期繰越金は之を各別に計算し、同日現在の各社株主に配当すへし、但法定積立金賞与金慰労金は両会社各別に計算し、利益金中より之を控除する者とす
 第六条 合併に付両会社解散処分金(役員使用人の慰労金其他所要の金額)の金額は両会社別途積立金の内を以て、両会社取締役の協議に依り之を定む
 第七条 両会社は本年五月二十三日を期し、合併契約の為め臨時株主総会を開会するものとす
 第八条 前条の総会に於ける合併決議は本年七月一日より其効力を生するものとす
 第九条 合併に関する一切の手続は両会社の取締役に一任すへきものとす
 第十条 合併会社成立したるときは、両会社の取締役は各自本年七月一日午前零時現在の財産目録貸借対照表に基き、其会社に属する一切の財産帳簿等を遅滞なく合併会社に引継くへし、但本年七月一日より合併会社の成立に至るまて両会社の営業に関する収支勘定、並に新たに生したる権利義務は総て合併会社に属せしむるものとす
 第十一条 前条の貸借対照表は第四条の査定に基き之を調製すへきものとす
 第十二条 合併決議後と雖も万一当事者会社の一方に他の一方の利
 - 第10巻 p.749 -ページ画像 
益を害すへき不当の行為ありたるときは、他の一方は合併の実行を拒絶することを得
 第十三条 本書契約中両会社取締役に於て協定すへき事項は別に覚書に作成すへし
右契約締結の証として本証書二通を作り各一通を保有するものなり
  明治四十年五月一日
前述の如く合併確定の後は両社着々歩武を進め、愈々同年七月二十六日東京市日本橋区阪本町東京銀行集会所に於て合併に因り設立する新会社、即ち帝国製麻株式会社の株主総会を開き、左の定款其他を議定する事となれり
○下略


帝国製麻株式会社三十年史 第三一―三六頁 〔昭和一二年一〇月〕(DK100068k-0007)
第10巻 p.749-751 ページ画像

帝国製麻株式会社三十年史 第三一―三六頁 〔昭和一二年一〇月〕
  二、帝国製麻株式会社の創立 (自明治四十年至大正二年)
    イ、帝国製麻の創業時代
 明治四十年七月二十六日、東京市日本橋区阪本町東京銀行集会所に於て日本製麻株式会社・北海道製麻株式会社の合併に因る新会社の創立総会を開催し、こゝに資本金六百四拾万円の帝国製麻株式会社は成立したのである。この創立総会に於て推挙せられたる役員は次の通りである。
     役員
  取締役 安田善三郎 大倉喜八郎 田中源太郎
      大橋新太郎 土岐僙   中山尚之介
      宇野保太郎
  監査役 磯谷熊之助 小沢七兵衛 雑賀良三郎
 同日取締役の互選に依り社長には安田善三郎氏、常務取締役には宇野保太郎氏(札幌在勤)が当選就任した。
同時に相談役として左記の二氏を推薦し其承諾を得た。
  相談役 男爵 渋沢栄一 安田善次郎
また支配人として左記二氏を選任した。
  支配人 宮内二朔 上野栄三郎
更に創立当時の本支店、工場、農場は左記の通りであつた。
 本店(日麻)        東京市日本橋区品川町裏河岸三番地
 大阪支店(同)       大阪市西区靱北通一丁目二番地
 札幌支店(北麻)      北海道札幌区北七条東一丁目一番地
 日光製品工場(日麻)    栃木県上都賀郡日光町
 鹿沼製品工場(同)     栃木県上都賀郡鹿沼町
 大津製品工場(同)     滋賀県大津市松本
 大阪製品工場(同)     大阪府西成郡伝法町
 札幌製品工場(北麻)    北海道札幌区北七条東一丁目
 北海道製線工場
  旧北海道製麻工場
   琴似  雁来   当別  新十津川  樺戸
   栗山  富良野  北竜  狩太    真狩
 - 第10巻 p.750 -ページ画像 
   幕別
  旧日本製麻工場
   清真布  旭川  紋鼈  虻田  倶知安
   帯広   士別
 美瑛農場(北麻)  北海道石狩国上川郡美瑛村
   ロ、創業時代
 斯くして新たに生れ出た帝国製麻株式会社は原料の自給より紡績・製織・仕上加工に至るまでを一手に経営する極めて特殊な色彩を以て我繊維工業界に登場したのである。而して創立当初の数年は専ら戦後急激に膨脹したる旧会社の内容に改廃充実を加ふることに費された。
 会社の合併に伴つて当然発生する重要なる問題は職員の待遇進退に関することである。
 新帝国製麻では合併直後安田社長より写真○略スに掲げた様な指令が発せられ総ての社員は其儘新会社職員として採用されることになつたその後十月一日附を以て『諸氏の眼中復た旧社あるべからず和衷協同以て社業に尽瘁すべし』といつたやうな訓示が発せられて居るところを見ると、職員の統制和睦には可なり頭を使つたやうに思はれる。
 社員の去就に就ては右の様な指図を与へると共に、事務組織を改廃統一する為には矢継早に色々の令達が発せられて居る。例へば製線工場の計算組織を旧日本製麻式に則り、札幌に製線本部を新設して北海道に於ける原料事業一切を独立せしめ、或は製品工場の計算組織を北海道製麻に倣つて之を更改し、或は営業規則を制定して事務の大綱を定むる等、旧両社の長所を遺憾なく取容れて事務の促進改善を計つた事績は著しいものがある。
 製造上に於ては従来北海道製麻の亜麻製品が断然優良品たるの声価を把持し、苧麻製品に於ては日本製麻鹿沼工場の品物が歓迎せられたる傾きがあつた。従つて今回の合併を機として之等の特徴を助長増進するために、適品適機の合理化、技術者の交迭、機械の移転等が盛んに行はれたことは云ふまでもない。
 更らに北海道に於ける亜麻耕作も亦この時期に於て大いに整理充実せられ、以て当社原料自給の基礎が確立せられたのである。
 抑々北海道に於ける亜麻の耕作は明治二十二年二十町歩の作付を以て嚆矢とし、漸次拡張せられて明治二十九年日清戦役後の勃興時代に当つては一躍五千町歩に垂んとする大拡張が行はれた。其後盛衰はあつたが明治三十七八年戦役を迎へて再び反別の激増を示し、帝国製麻創立の明治四十年には九千五百町歩と云ふ空前の耕作町歩に達した。
 然し亜麻事業の最も困難を感ずる点は原料獲得の急速に行はれぬことにある。亜麻の作付を拡大し漸く原料を手に入れる頃には、世上の景気は已に一変して居ることが多い。日露戦後の好況時に於ても此の傾向を観取することが出来る。
 明治四十年にはそれ程盛んであつた亜麻作が、四十二年度は三千三百町歩に、四十三年度は二千百町歩に激減して居る。之は云ふまでもなく時機を失した原料耕作面積の激増に困つて原料調節に努めた苦辛を物語るものである。
 - 第10巻 p.751 -ページ画像 
 斯くの如く両社合同による帝国製麻の創立已に成り、引績いて内容の整備も完全するに至つたので明治四十二年には相談役男爵渋沢栄一並に安田善次郎の両氏が退隠を申出でられた。
当社の生みの親とも称すべき両氏を送るに、幸ひにもこの好時機を得たことは当社として誠に喜ばしいことであつたと云はねばならぬ。大正二年二月には更に職制を改革して支配人制度を廃し営業部長・庶務部長・監査部長の三部長合議制度としたことなどは事務根幹上の大きな出来事であつた。
 明治四十年より大正二年に至る創業時代の七年間は、前述の通り社内の整備充実に没頭したのであるが、此間の営業成績は常に良好なる状態を持続して、裕に一割の配当を継続しつつ欧洲大戦時の好況を迎へるに至つた。
  ○日本製麻株式会社ハ、明治三十六年六月安田善次郎・大倉喜八郎両氏ノ斡旋ニヨリ下野製麻株式会社・近江製麻株式会社及ビ大阪製麻株式会社ノ合同シテ成立セルモノナリ。ソノ資本金ハ弐百万円(下野製麻八拾五万円、近江製麻六拾万円、大阪製麻五拾五万円)ナリシガ、明治四十年倍額増資セリ。鈴木鈴馬ノ談ニヨレバ明治三十五年三社ガ共同販売協定ヲ結ビ、更ニ合同交渉ヲ開始スルヤ、北海道製麻株式会社ニモ参加ノ勧誘アリシガ同社ハ北海道ニ偏在シテ事情ノ他社ニ異ルモノアルト、事実上ノ首脳者タル栄一ノ洋行中ナリシタメ合同ヲ延期シタリ。
  ○栄一ハ明治三十五年五月十五日、欧米漫遊ノタメ横浜港ヲ発シテアメリカ合衆国ニ向フ。全年九月末イタリー羅馬ニ遊ビ、翌十月初メコロンボ・シンガポール・香港ヲ経テ同月卅日、神戸ニ上陸、卅一日帰京ス。「日本製麻史」ニヨレバ下野・近江・大阪三麻糸紡績会社ガ、販売合同ノタメノ契約書ヲ取交セシハ同年九月三日ナリ。
  ○右ニ就キ北海道製麻会社明治三十六年六月(本巻第七〇六頁)ノ項参照。
  ○帝国製麻株式会社ハ、公称資本金六百四拾万円内四百万円払込済(四十一年上半期ニ金八拾万円ヲ徴収セリ)ニシテ、積立金ハ明治四十年十二月ニ於テ拾七万九千四百八拾円ナリシモ、明治四十二年六月ニハ参拾弐万弐千四百八拾円ニ達シ、毎期年壱割弐分ノ利益配当ヲナセリ。然シテ製造高ハ明治三十九年上半期ニ織物百九拾八万四百七拾五碼七分、糸類弐百八拾九万四千八百六拾四听参分ニシテ、四十二年上半期ニハ織物百参拾五万九千百八碼六分、糸類弐百八拾弐万七千参百八拾弐听六分ナリ。


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK100068k-0008)
第10巻 p.751-752 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年
一月二十八日 晴 寒大風
○上略 午前十時日本橋倶楽部ニ抵リ帝国製麻会社株主総会ニ出席ス○下略
八月二十一日 晴 暑
○上略 帝国製麻会社札幌工場ヲ一覧ス、宇野保太郎氏案内ス、工場ノ各部ハ紡績及織布工場ニ彷彿タリ、頃日来製品ノ販路充分ナラサル為メ原料及製品少シク堆積スト云フ○下略
  ○八月十一日東京発北海道旅行中ナリ。此日札幌ニ在リ。
八月二十二日 曇 涼
○上略 旅宿ニ帰リ夜食後、町内実業家数十人旅宿ニ来リ談話ス、帝国製麻会社鈴木鈴馬氏来話ス
  ○此日旭川ニ在リ。
 - 第10巻 p.752 -ページ画像 
八月二十三日 雨 冷
午前六時起床直ニ朝飧ヲ食シ六時三十分発ノ汽車ニ撘ス、地方ノ人々停車場ニ来リテ行ヲ送ル、陸軍士官矢野氏鈴木氏ト共ニ同車ス、製麻事業ニ関シテ種々ノ談話ヲ為ス ○下略
  ○此日旭川ヨリ清水ニ抵ル。



〔参考〕日本製麻史 (高谷光雄著) 第三三九―三五〇頁 〔明治四〇年一二月〕(DK100068k-0009)
第10巻 p.752-754 ページ画像

日本製麻史 (高谷光雄著) 第三三九―三五〇頁 〔明治四〇年一二月〕
 ○第七章 三社の合同販売
    第一節 三社合同の前提
我邦に於ける麻糸の同業会社は従来近江・北海・下野の三会社にして其製品の一半は織物用の原糸に供し、一半は他の諸需用に充てたるが明治二十九年大阪に細糸を専門とする繊糸会社起り、以上四社の製造に係る細糸の内、帷子用の外は大抵蚊帳用として近江の長浜越前の武生を重なるものとし、其他広島・高岡・関戸等に需用せられたり、而して需給の関係は四社間の競争を惹起し、其結果として往々粗製濫造抛売々崩の弊に堪えざるものありたり。尤も織物の販路に就ては三十二三年頃より近江・北海・下野三社の販売掛支配人又は重役等時々集会する事あり、右は当時海陸軍省逓信省等官衙の需用に過ぎざりしを以て其集会は常に東京に於てせしも、未だ満足せる協定を見るに至らざりし。
同三十四年四社の重役彦根楽々園に会合し、各需用地の総代をも招致して始めて連合販売を試むるの議を決せり、該協定事項の要領は各会社の紡機数を基として製造額を定め、信認金を徴し、事務所を江州愛知川に置き、又得意先勘定は多くは延取引となし手形を流通せしむる事等にして、且つ事実上合同に向つて漸次歩武を進めんことを期し、同年九月より之を実施せり。而して四社の契約及び販売所取扱規定は左の如し。
  ○四社ノ明治卅四年九月廿三日附ノ契約書及明治卅四月四月十五日ノ協定ニナル販売所取扱規定ハ略ス。
如是して事務所を開き、四社交互に当番の主事を派して之が実行に勉めたりしも、奈何せん四社共に各方面に特殊の得意先及び多数の販売人を有せしを以て、従て互に取引の慣習を異にし其事情に通ぜず、為めに動もすれば不測の苦情を惹起し、会社も亦此措置に付き終始苦慮の裡に一ケ年を経過したり。
    第二節 四会社と大倉安田の二氏
三十五年更に根本的の合同を企画し、大倉喜八郎氏(近江麻糸会社重役)に就て之が斡旋を依頼したるに、大倉氏は乃ち金融機関を利用して所期を遂げん事を図り、安田善次郎氏と共に主唱者となり、北海の渋沢喜作、下野の鈴木要三の両氏及び余の三名(大倉氏は三社の織物乃ち陸海軍の需用を主眼とせられたるに依る)東京に招き、大倉氏は内外経済上の趨勢より分立の不得策を論じて合同の必要を説かれ、安田氏は銀行を以て合同を援助せん事を述べらる、於是議大に進捗し更に大阪を加へて四社鎌倉に会同したるが、北海道は聊か事情を異にす
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るのみならず同社の重役たりし渋沢男、海外旅行中なる旨を以て、議将に成らんとして而も成らず、余更らに鈴木氏と謀り今北海一社の故障によりて我々三社の希望を中止せしむるは遺憾少しとせざるのみならず、大倉・安田両氏の厚意に対しても亦斯くて無為に止むべきにあらず、依て四社連合の大成は姑く之を他日に譲り、兎も角も此際三社を以て合同販売を成就し、徐ろに時機の到来を竢つも決して遅しといふべからずと勧む、氏も此説に賛成し議漸くにして決し、大倉・安田両氏に通ずるに根本的合同の事は機未だ熟せず、其販売合同すら尚ほ且つ成立し難き有様なるが故に、先づ我々三社のみにて進で連合販売を実行し、逐次大成を期するの勝れるに如かずと決せし事を以てす、両氏に於ても事情不得已を諒して承諾せられ、合同事務所を東京に開くや安田銀行は之に対して金壱百万円を投資せらるゝことゝなり、同年九月東京市日本橋区呉服町に一大合同店を開業せり、是れ日本製麻会社創立の起因なり、当時『近江新報』が此の合同の真相として記載せしものあり、能く其実相を尽したるを以て其全文を左に掲ぐ。
     麻糸合同の真相
 今回麻糸合同販売の事に付ては已に諸新聞にも散見し、其大要に於ては敢て異なる所なきも、中には北海製麻の局外なるを以て或は前途多少の競争は免れざるへし抔記載せる者あり、今関係者に就て其真相を聞くに、北海製麻は其地の遠隔に伴ひ一時事情の均しからさる所あると、且同社の主権者とも云ふべき渋沢男爵の洋行中なるとに依り、其帰朝迄の猶予に過きさるなりと云へり、又今回合同の起因は大倉氏の近江麻糸会社重役に就任以来、小資会社の分立は今日の時に適せさると官納品其他に付ての不利益少からざるを憂ひ居りしか、本年に至り安田氏と謀り両氏合意の上、自ら主唱者となりて四会社社長の会同を促し、去る七月廿九日を以て帝国ホテルに始て会見の端を開きたり、当時大倉氏の意見に曰く、凡そ売品の競争は需用供給の均衡を得さるに依るも又多くは之を売急くに座せり、而して其売急ぎなる者は帰する所資金の回収を急くに外ならされは、頃日安田君とも相謀り諸君の会同を煩はし、大に救済の策を講せんとす云々と陳べ、安田氏も亦曰く、予は元来工業の事は詳にせざるも大倉君の合同論に賛同し、且予は銀行業者なるを以て其事柄に依り、給資上相当の御相談は敢て辞せさる考なり云々と、然るに四社長は始めての会見に付き別に何等の考案もなく、各自区々の意見にして中には尚早論も出てたりしが、席上大倉氏の提出に係る論題は(甲)根本的合同案にして四社を合併して参百六拾万円の資本となし、一ケ年の製造額凡そ弐百万円、此純益概算凡そ五拾万円云々、(乙)合同の成立迄一手販売をなすの法案にして原価を一定する事製造を制限する事、資金を供給する事等なりしが、安田氏の説は本日は此二問題の解決に止まるも、予は甲案に賛同する者なり、若し甲案の如くなるときは製造額の原価弐百万円にして、其原料は凡そ半額と見て百万円なるへし、然らは其合計参百万円なるも製品は一面より転々売却し去るものなれは、其半額百五拾万円を供給せは充分なるべし、若し此金額にて充分なりとせば予は予が管理せる銀行
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に於て供用すへしと迄の懇話なりしを以て、四社長も深く其厚意を謝し、篤と協議を尽くすへき旨を答へ、其日は晩餐の饗を受けて退散し、翌日より商業会議所に於て連日会同の結果一の契約案を草し安田氏に示したるに僅に二個の意見を異にせり、其一は製品には個個の得意を存するに依り一括の販売は迷惑なりと云ふこと、又其一は随分錯雑の種類に付、販売主任は四社の重役中を以て選任すべしと云ふに在りしも、安田氏は分売を非認したると其主任は一面は四社の代表者なるも、一面は銀行の為めに各社の製品を管理すへきものに付、局外者にあらされは不可なりとの意見にて協議纏まらす、終に根本的合同の成立迄見合度旨を申越せり、仍て四社も亦止むなく他日の合同を期し一旦解散することゝせり、然るに北海製麻を除くの外は安田銀行の要求にて敢て差支なきものと認め三社の結合に対し更に契約の再定を試みたるに、大倉氏も亦不得止ことゝ為し再ひ之れが斡旋の労を取られ、安田氏も亦承諾せしを以て直に同氏邸に参集し左の如く予約せり
 (一)根本的合同を目的とすること(二)販売を一手に帰せしむること(三)三社の供用金は壱百万円と定むること(四)利息は商取引と固定貸との中間を折衷して随時協定する事
 販売所員は三社より徴収し、所長の撰定は安田氏に一任し、九月一日を以て契約実施の期となしたり、而して北海製麻へは三社より其結果を公然通告し、同社も亦暫時猶予の止を得さるを来話し、且渋沢社長に於ても根本的合同は素より企望の事なれば、不日渋沢男爵の帰朝を俟ち協議決定すへきに付、夫迄の処は在来の協定を維持し相換ることなきを期せられたる程の事なれは、前述の如く為めに競争等の事なきは万信する所なり ○下略


〔参考〕帝国製麻株式会社三十年史 第二一―三〇頁 〔昭和一二年一〇月〕(DK100068k-0010)
第10巻 p.754-757 ページ画像

帝国製麻株式会社三十年史 第二一―三〇頁 〔昭和一二年一〇月〕
 ○一、帝国製麻創立以前(明治十七年より同四十年迄)
    三社合同に因る日本製麻株式会社の創立
 明治廿七年八月日清戦争が勃発したのは近江・下野・北海道の三製麻会社が創立されて未だ間もない時であつた。三社は俄然軍需品製造のため大多忙を極むるに至つた。軍部の大需要に対して生産力のあらん限りを傾倒して昼夜兼行増産また増産が行はれ、軍需品としての麻製品が始めて其威力を発揮したのである。
 創立当時の三社資本金合計は百二十万円であつたが日清戦争を契機として各社共に事業が拡張され、二十九年には其三倍に近い三百二十万円と云ふ厖大な資本になつた。それのみならずこの戦争景気で突如として資本金二百万円の日本繊糸会社が創立されたから、この十年間の麻業界の膨脹は実に甚だしいものであつたと云はなければならぬ。
 麻製品が軍需品として非常時的需要の継続する間は四社共に好景気を謳歌して拡張に拡張を重ねて居たが、結局それは文字通り非常時の現象であつて遂に世上の景気は其反動に際会せざるを得なかつた。所謂戦後の不況が襲来して来た明治三十一・二年頃には、四社の生産は愈々過剰を示して競争濫売漸く激甚を極め、之を救ふの途は生産制限
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協定に依るの外なき事態となりまづ完納帆布を主とする協調が各社支配人間に行はるゝに至つた。之が同業会社協定の第一歩である。次で明治三十四年四月には東京に於て四社重役間に益々濫売に陥りつゝあつた蚊帳糸の協定が行はれた。更に進んで全般的四社合同販売協定が具体的に成立したのは三十四年九月である。此合同販売協定は各社能力の比率に従つて運転台数の制限をすることを骨子とし、合同販売所を滋賀県長浜町に開設し各社の信認金供託、反則制裁等、其当時としては相当進歩した規約の許に成立を見るに至つたのである。然し不況の深刻化は益々止まるところを知らずこの合同販売制度の力を以てしても製麻界の救済は求むべくもなく、遂に一ケ年で之を解散し更に徹底的の根本治療実現の機運を俟たざるを得なくなつた。
 翌三十五年には近江麻糸の重役大倉喜八郎、下野製麻(明治廿六年七月十一日改称)の大株主安田善次郎両氏が積極的に斯業の善導に乗出すことゝなり、金融援助を条件として根本的四社の大合同を提唱するに至つた。そこで各社々長を東京に招き同業分立の不得策を縷述し斡旋之れ努められたが、当時北海道製麻の主権重役であつた渋沢男爵が海外旅行中であつたため話を進むるに由なく、四社合同のことは姑く他日に譲るの外なきことゝなつた。併し業界の危機は各社の現状をこのまゝ放置することを許さぬものがあつたので、根本的合同に代るべく北海道製麻を除いた三社は引続き安田・大倉両氏の斡旋により、更に強化せる三社合同販売所を設立することゝなつた。其条件は
 一、根本的合同を目的とする事
 二、販売は合同販売所の一手に帰せしむる事
 三、三社の供用金は壱百万円と定むる事
 四、利息は商取引と固定貸の中間を折衷して随時協定の事
 斯くして新合同販売所は日本橋区呉服町に開設せられ、三十五年九月一日より開業を見るに至つた。而して販売所長には安田銀行より派遣せられた宮内二朔氏が就任することゝなつたのである。
 この合同販売所は本部を東京に置き、出張所を各会社所在地に設置した。而して販売資金として安田銀行より壱百万円を供給せられたため、各社は之により資金の運用上大いに利便を得、製造上の調節を計つて合同販売の効果は相当大なるものがあつた。
 然し三社の企図するところは単に合同販売に止まらず、更に進んで根本的合同を策する事にあつた。其後明治三十五・六年にかけて合同談は頓に進行し、安田・大倉両氏の少なからざる尽力もあつて、遂に下野製麻・近江麻糸・大阪麻糸(明治卅五年七月廿九日日本繊糸会社改称)三社の間に、合同談が成立し、新たに日本製麻株式会社が創立せらるゝに至つたのである。
  合同に因る創立  明治三十六年七月一日
  資本金      弐百万円   五拾円払込済  四万株
  出資内訳     八拾五万円  下野製麻株式会社
           六拾万円   近江麻糸紡織株式会社
           五拾五万円  大阪麻糸株式会社
  本店所在地    東京市日本橋区品川町裏河岸三番地
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  支店所在地    大阪市北区中ノ島二丁目五十六番地
  工場所在地    日光工場   栃木県上都賀郡日光町
           鹿沼工場   同  同   鹿沼町
           大津工場   滋賀県大津市
           大阪工場   大阪府西成郡伝法村
  北海道亜麻製線場  紋鼈、虻田の二工場
  取締役 鈴木要三(下野)  阿部市太郎(近江) 小久保六郎(下野)
      阿部市三郎(大阪) 滝沢喜平治(下野) 木村陽二(大阪)
      菊地長四郎(下野) 雑賀良三郎(大阪) 高谷光雄(近江)
  監査役 横尾宜弘(下野)  小野市兵衛(大阪) 小沢七兵衛(近江)
  顧問  安田善次郎     大倉喜八郎
 北海道製麻の渋沢男爵は丁度この頃海外より帰朝せられ、三社の重役は同男爵を訪問して北海道製麻の合同参加を勧説したが多少躊躇の色があつたため、一先づ三社間に於てのみ合同を実現することゝなつたのである。
    日本製麻、北海道製麻の合併
 三社の合同によつて成立した日本製麻株式会社は前の合同販売所長宮内二朔氏を支配人に任じ、内外事務の刷新を計つた。先づ下野・近江・大阪の三社は其の長所に随つて製造の分業を行はしむると共に夜業を廃止することゝした。この各工場の分業と夜業の廃止とは大いに生産高の増加を齎し、生産費を著しく低減するに効果があつた。販売方面に対しても内地の販路を整理すると共に海外に販路を策する等、種々改善に努力した結果事業の内容は順次見直さるゝに至つた。
 斯くして刻苦経営、明治三十六年を送つて翌三十七年を迎ふるや玆に図らずも日露開戦に際会するに至つたのである。戦争と製麻業の繁忙は常に相伴ふものである。従来久しく喞つて居た業界不振の声は一朝にして消散し去り、日本製麻・北海道製麻の両社共に軍用急需品の製造に、日も足らざる活況時が再来したのである。玆に於てか懸案の合同談も一時立消えの形となつて、両社は只管軍需品の製造に全力を尽し皇軍軍需品供給の大使命を完全に果すことに没頭したのである。
 戦時好況の結果は両社共再び玆に第二次の事業伸展を遂げた。即ち四十年上半期には日本製麻は資本金弐百万円を増資し、北海道製麻亦百二十万円を増資して両社共其資本金額の倍加を実現したのである。此の曠古の大勝を博した戦役に際して吾工業界が劃期的発展を遂げたことは云ふまでもないことであるが、我製麻事業両社も玆に空前の発展を示してその内容亦頓に堅実を加ふるに至つた。玆に於て多年の懸案であつた両社の合同は此の時を措いて他に求むべからずとの意見が唱へらるゝに至り、安田・大倉・渋沢三巨頭の下相談も案外容易に進行した。そこで日本製麻は四十年一月第七回定時株主総会に於て合併の件を内議し、両社とも一切重役一任との条件で五月二十三日を期して両社の合併臨時総会を開催し、合併仮契約の議案を議決して玆に多年業界の宿望は達成せられ、本邦製麻界は完全に帝国製麻会社の名称の下に統制せらるゝに至つた。之れ吾帝国製麻成立の由来であつて製麻史上顕著なる一転機を劃するものである。
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  ○合併仮契約議案略ス。


〔参考〕東京経済雑誌 第五五巻第一三八八号・第八四九―八五一頁 〔明治四〇年五月一八日〕 製麻事業に就て (日本製麻株式会社支配人 宮内二朔君談)(DK100068k-0011)
第10巻 p.757-759 ページ画像

東京経済雑誌 第五五巻第一三八八号・第八四九―八五一頁 〔明治四〇年五月一八日〕
    製麻事業に就て (日本製麻株式会社支配人 宮内二朔君談)
我が邦に於ける製麻会社は従来北海道製麻株式会社と我が日本製麻株式会社との二あるのみなりしが、今回両会社合同の内議成り、既に其仮契約を締結したるを以て、来る二十三日各臨時株主総会を開きて、之が決議を為し、両会社合同の筈なり、此合同成立せば資本金六百四十万円を有する本邦唯一の製麻会社たるに至るべし
製麻の原料 製麻事業は輓近著しく進歩し、昨今に於ては稍外国製品の輸入を防遏し得るに至りたるが如し、我が会社が、取扱ふ所の製品は、ヅック類・ダック類・夏服地・リンネル・綿ヅック・ホース・漁網・蚊帳用糸・麻布用糸・網糸・ラミー糸・絨斗糸・縫糸括糸・畳糸・各種麻糸・麻織物等にして、其原料は重に亜麻と称するものにして、我が邦固有の麻とは其種類を異にせり、日本在来の麻は其種類甚だ多けれども産出額尠なく、随ひて価格廉ならず、且つ之を紡績機械に上すには、極めて不適当なる品質にして、猶ほ我が邦在来の綿が、之を紡績糸と為すに恰好ならざるが如し、故に綿糸紡績会社が、其原料たる棉花をば之を海外より輸入するが如く、製麻会社も亦其原料をば之を海外より取寄するか、若しくは之を内地に於て栽培するか孰れかの方法を執らざるべからざりしなり、左れど海外に於ける原料は高価にして、到底引合ふものに非ざりしを以て、内地に於て亜麻栽培の方法を講じ、其種子を遠く白耳義国より購入して、之を北海道の新開墾地に播種し、爾来其端緒を得て益々改良拡張の道を計り、今日に至りては製麻の原料たる亜麻は、全く之を北海道より供給し居れり、其他製麻の原料として多少支那麻及び印度麻を輸入せり、支那麻は亜麻とは全く其品質を異にし、寧ろ我が邦在来の麻に似たるものにして、年々之を輸入して紡績に使用せり、印度麻も亦使用する其額極めて尠少なり
原料の不足 製麻の重なる原料たる亜麻の栽培を為すに就ては、非常なる苦心を為したる所なり、元来亜麻の栽培は我が邦に於て未だ何等の経験を有せざりしが故に、会社は自ら進んで、農民に其耕作法を教へ、種子を貸与し、肥料を頒布し、収穫後必ず之を購入すべき契約を結び、益々其耕作地の拡張を図りたるが、幸なる哉、北海道は地味気候共に亜麻の耕作に適したるを以て、我が会社は石狩・胆振及び十勝の三個国に於て、紋鼈・虻田・倶知安・旭川・清真布の五個所に原料工場を設くるに至り、本年に入りては更に真狩・士別・帯広の三工場を増設するに至れり、是等は皆亜麻の精撰所にして、此所に精撰せられたる原料は日光・鹿沼・大津・大坂の製品工場に輸送せられて後、始めてヅック・リンネル等の織物若しくは糸類に製作せらるゝなり、本年に於て三個所の原料工場を開設するに至りたるは、是全く製品の需要日に月に激増せるの結果なり、今後に於ても益々其原料工場の拡張を為さんと欲すれども、耕作地は限りあり、遽に増加すべからざるの情態なり、且亜麻の耕作は輪作なるが故に、普通の農作と異なり非
 - 第10巻 p.758 -ページ画像 
常なる耕地面績を要するものなり、そは或る耕地に、一度亜麻を作れば、尠くも七個年乃至十二個年間は再び同一地に耕作すること能はざればなり、我が会社は本年約五千町歩の耕作地を得べき筈なるが、仮りに七個年の輪作なりとせば毎年五千町歩の耕作地より収穫を得るには、三万五千町歩の耕地を所有せざるべからざるなり、如何に北海道が未だ十分に開墾せられざる所ありとするも、恁る広大なる面績を一個所に求むること能はざれば、止むなく之を各地方に於て耕作せざるべからず、原料を得るには叙上の如き困難あるが故に、製品の需要に伴ふて、之が原料供給を十分ならしむること能はざる次第なり
製品需要の増加 製品の最も多く需要あるは、ヅック・ダック類なり陸海軍・鉄道庁・逓信省等其重なる需要者にして、其他織物糸類は重に近江・越前・広島等に需要あり、斯く製品の需要は益々増加するのみなるが、何故に恁く其需要を喚起するに至りし乎を見るに、其主因は近年国民の生活程度が、漸次高まりたるに基くことなるべし、惟ふに国民生活程度の低き時にありては、孟夏の季節も木綿服を以て甘じたるが、社会に奢侈贅沢の風行はるゝや、木綿服は帷子に換へらるゝに至り、又蚊帳は麻蚊帳に限ることとなり、木綿の時代は麻の時代に進歩せるが故に、麻の需要の増加するは社会文化の進歩に伴へるものなりと云はざるべからず、左れば我が会社は昨今華客に対し、殆んど其注文を拒絶する有様にして、綿糸紡績の如く其需要の増加に伴ひ、其製造力を進むること能はざるは是全く原料の供給不十分なるに因るなり
製麻会社の合同 北海道製麻及び日本製麻の両会社が合併するに至らば、我が邦に於ける製麻事業は独占事業となり、会社は原料耕作者たる農民に対し、乱暴なる措置を為すに至るべきを憂ふるものありと雖も、其実杞憂に過きざるべし、以上述べ来りたるが如く、原料の欠乏は遽に補足せらるゝものに非ず、而も其欠乏は日に増し甚だしきことなれば、農民が其原料の売却に窮する如きことなかるべし、十年以前にありては製麻事業未だ発達せず、会社は種々の口実を設けて原料購入を拒絶し、而して其価格を低下したることあり、又其当時にありては亜麻を耕作する耕作会社あり、其会社が農民に之が耕作を為さしめたるが、其収穫を見るに及んで、会社は資力なきが為め、之が買入を為すこと能はざりしことありしと雖も、今や是等の不正会社は、其形影を没するに至り、耕作せる亜麻を売捌くに、窮するの懸念なきに至れり、且つ我が会社の如きは其原料価格に等級を附して之を購入し、多年の実地経験は売る者も買ふ者も共に満足する円満なる取引を行ひ居れり、戦時に於ては燕麦の相場暴騰したるが為め、農民は孰れも之が耕作を為したるが、戦争終結すると同時に、其相場は非常に下落したり、彼是平均すれば麦作は甚だしく有利安全なるものに非ず、非常なる高値もなければ又非常なる安値もなく、毎年能く其利益の平準を保つは亜麻なることを悟るに至れり、即ち亜麻作は投機的農作に非ず極めて安堵し得べきものなるを一般農民の熟知する所となれるを以て見るも、会社が農民に対する態度の如何を推知し得へきなり
リンネル其他の製品にして毎年我が邦に輸入する額は、三十万円内外
 - 第10巻 p.759 -ページ画像 
に過ぎずと雖も、今回の会社にして合併成らば、十分内地需要者を満足せしめ、同時に是等海外製品の輸入禁遏に努め、更に進んで将来に於て支那朝鮮迄之が輸入の道を開かんと欲するなり、唯々支那朝鮮に於ける国民の生活程度は未だ充分に進歩せる所無きを以て、我が製品の需要を喚起するは、多少の星霜を経ざるべからずと雖も、其陸海軍の組織にして、稍整頓完備するに至らば、軍隊生活に必要欠くべからざる、ヅック・ダック類の需要を生ずるや疑なからん