デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
1款 抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.75-78(DK110013k) ページ画像

明治22年12月(1889年)

製紙会社、気田分工場ヲ設ク。


■資料

王子製紙株式会社回顧談(男爵 渋沢栄一) 第六〇―六一丁(DK110013k-0001)
第11巻 p.75 ページ画像

王子製紙株式会社回顧談(男爵 渋沢栄一)  第六〇―六一丁
    一三、木材原質紙の製造
○上略
爰に一つの失敗談と云ふのは、其の時自分の考では此の木材原質の紙の工場も矢張均しく東京に置いても差支は無いものであるとのみ思つた。此は自分などの実地に暗かつた所から生じた過で、何とも赤面の次第であるが、其の時の考では、工場を遠国に置いては監督も届くまい。若しも機械が破損しても之を修繕するに費用が余分に掛るであらう。其の原料は仮令木材であるとしても、東京にもそれぞれ貯蔵の途があるであらう。東京ある哉。斯う決して東京へ工場を置くことにした。然るに一両年実験して見ると中々思つた通りにゆかぬ。此の木材は嵩高い原質であるから、東京に貯蔵してある間は、或は水に流れることもあるし、先づ第一腐ると云ふことが多い。而して運搬の費用も大に掛る。散々な失敗をした結果再び考を変へ、明治二十年四月頃から大川氏を諸方へ遣つて山林の調査をさせた。最初信州の木曾と大阪地方とを取調べ、それから又相州津久井郡の辺をも調査したが、遂に其の年の八月遠州周智郡気多村の気田といふ地を選定し、其附近の官林払下を静岡大林区署へ出願して、九月から其の地に分工場新築工事に着手した。此の分工場設置に就いて専ら尽力奔走したのは上村欣一郎氏であつた。斯くて翌二十二年三月迄に据付くべき器械類一切の発送を了り、其の年の十一月には本社から職工二十名を転勤させて、機械の試運転を行ひ、木材の截断を初め、十二月から創業することにした。此の新設工事費が総計拾壱万四千四百六拾八円余、其の翌二十三年二月に及んで分社開業式を行ひ、爾後専ら木材原質紙の製造を行ふことゝなつた。
  ○明治十七年七月ノ項、及ビ明治二十七年十月二十八日ノ項所収ノ同社創立二十年祝賀式ニ於ケル「青淵先生ノ祝辞」参照。


大川平三郎君伝(竹越与三郎編) 第一六〇―一七六頁〔昭和一一年九月〕(DK110013k-0002)
第11巻 p.75-77 ページ画像

大川平三郎君伝(竹越与三郎編)  第一六〇―一七六頁〔昭和一一年九月〕
    第七、王子製紙会社の支配人
○上略
 斯くて遠方から製紙原料の材木を東京に輸入することは断念すると同時に、材木を手近く蒐集し得る地元に工場を置くべきであると衆説は一致した。先づ大河の上流には、必らず木材があるに相違ないといふ概念から、富士川や、大井川や、木曾川の上流において、材木の取
 - 第11巻 p.76 -ページ画像 
れる場所を発見せんと数回の跋渉を試みた。然るに木曾川の上流には沢山の材木はあるが、河流が激湍であつて、運搬の方法がない。富士川もよいが多くは御料林で簡単に買取の方法がない。そこで天竜川の上流秋葉山の奥を探険した処が、非常に広大なる民有林があり、また遠州の牡丹谷と言ふ処に、恰当の林野を発見した。牡丹谷は元来大蛇が居ると言ふので人跡が絶えた処であるが、そこには樅の木が自然に発生する。此の木は発育力が強いので他の樹木を植ゑても樅の木に圧迫せられて、生長することが出来ぬ。そこで百姓は一本の樅に五銭の費を投じ、樹木の根本を約三尺位環状に皮を剥ぐのである。そして立木は水分を吸収する力がなくて二三年の間に立枯するやうに仕向けるのであつた。大川君は之れに着目して京丸牡丹谷二里四方ほどのものを二百五十円で買ひ取つた。其の価格は安いやうであるが費用を掛けなければ植林も出来ぬ深林大沢であるので、彼等は歓喜して二百五十円の金で之を売り払つたのである。斯くて当分無限とも言ふべき山林が手に入つたので、天竜川の上流秋葉山奥の院の下気田川に沿うてパルプ専門の工場を建設する計画を立てたのである。
 偖て此の計画を実行するには今一応パルプ製造の技術を研究せねばならぬといふ必要を感じた。是れはケルネル式移植の失敗から、念には念を入れよといふ結論に達したからである。そして大川君再びアメリカに旅行して、各種のことを見学した。之が大川君の第三回の洋行で明治二十九年出発《(明治二十年九月)》して翌年四月帰朝した。
    第八、遠州の工場に於ける努力
 大川君今回の洋行は極めて短日月であつた。それはパルプ事業に就いては既に概念が出来て居るのみならず、之を実地に試験して居る。唯だ好成績を得ぬので之を改良するためであつたからである。そしてアメリカでプロビデンス市外のリツチモンド製紙会社に於ける研究により、之に自家の創意を加へて出来上つたものが大川式ダイゼスタアと称するパルプ製出機である。
 そこで愈々静岡県下へ新工場を起す段取となつた。
 普通の方法によれば東海道に工場を設け、山奥から木材を積み下げる手段を取るであらうと想像せられた。木材は巨大なる積量を有するものであるが、之を紙に作り上げれば積量は三割位になつてしまふのである。そこで大川君は寧ろ森林の現地に於て工場を建て、木材の運搬に伴ふ無用の費用を倹約しようと決心した。斯くて此の目的の為めに選定せられたのが遠江の秋葉山であつた。
○中略
 斯くて工場も愈々建築せられたが動力としては水力を利用する計画であつた。恐らくは水を利用することは日本に於ては大川君が最初の考案者であつたであらう。此の水力利用に就いては更に別個の研究を要する点があるからと云ふので、其の実行は後日に保留して差向き蒸気汽缶で進行することとした。併しながら山奥へ石炭を送ることは容易でないから、附近の山の木材を買ひ取り之を燃料として蒸気汽缶を動かすこととした。勿論汽缶は全体で百五十馬力ほどのものであるから薪炭の費用は些細のものであつた。
 - 第11巻 p.77 -ページ画像 
 此の工場で大川君は所謂大川式セメントラインド・ダイゼスタアなる釜を使用したのである。大川式ダイゼスタアはアメリカのホイーライト式を改良したものであるが、其の製作は高二尺五寸径十二尺の鋳物の釜を十個積み重ね其内部を鉛で張る。そして釜と釜との重ね目へ深くハンダを施し、二吋径のボールトを以て、堅固に締附けるのである。然るに高度の熱に会ふときハンダと鋳物と鉛との伸縮に差異があるから、其の間から蒸気が洩れ出すと言ふ危険があるので、是れには非常の苦心をしたのであるが、果して大川君が在京中に釜に異常があると言ふ技師長からの電報に接し、直ちに其の使用停止を電報にて命じ、大川君自ら現場に赴いた時、釜は最早破裂してしまつた。
○中略
 斯くて大川君自慢の新式汽缶も此の儘では失敗と言ふの他はなかつたが、窮して通ずると言ふ諺の如く、此の失敗は簡単なる手段によりて回復せられた。それは汽缶の内部に鉄筋コンクリート式にセメントを塗布することであつた。大川君は前章に記するが如く浅野君と協同してセメント会社を経営して居るので、不図考へついてセメントの煉瓦を作り、之を汽缶の中に十日ほども吊り下げて試験をしたが、何等の変化もない。そこで愈々セメントを以て、釜の内面に舗装することとなり、さしもの難問題も、一時に解決してしまつた。然るに不思議にも大川君が右のセメント、ライニングの方法を案出すると殆ど同時にアメリカに於てもボストンのラツセルと言ふ技師が、セメント、ライニングでパテントを取り、ラツセル式の釜を作り出したのである。世界各国の製紙家は襤縷を原料とする時代より一転再転して、木材よりパルプを製造する時代となりて最も必要なるは最好最良のダイゼスタアであるが為め、世界各国の製紙家の肝脳は此の物を得る為めに費された。例へばアメリカのリツチモンドと言ふ富豪は、其の女婿ホイーライトが発明したるダイゼスタアを最良の釜と信じ、数百万弗の資本で一大工場を起したが、実験の結果、良好ならずして遂に没落したのである。またアメリカのウイスコンシン州にカクワナと言ふ小都会がある。其処のコロネル、フランバハといふ、製紙界に知られた人が一種の合金を発明し、之を以てダイゼスタアを作つたが、ホイーライト式と同じく十二呎の釜十個を積み上げ、セクシヨンの継目に非常な大きなボールトを入れて、絞め上げるのであつた。従来のホイーライト式に勝るが如く思はれたが、之もまた、実用の結果破裂してしまつた。然るに大川君は気田工場の一経験から卒然としてセメント舗装法を発見したのは如何にも工業界の一大出来事であつた。大川君は此の釜の発明の苦心のために頭髪皆白しといふ程心労したのであつた。その後釜の内部に塗るため種々の充塡料や塗料など発明せられたが大体に於て此のセメント舗装法を基礎としたるものである。斯くて二百五十円で買ひ取つた秋葉の山奥は、爾後幾年の間、間断なく材木を供給した。また其の後工場の裏手にある仇山といふ薪材山を五十円で買ひ取つたが、之は十年間も間断なく薪材を供給し、気田工場の宝庫となつたのである。

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竜門雑誌 第二号・第二一―二二頁〔明治二一年五月二五日〕 ○和製洋紙ノ景況(DK110013k-0003)
第11巻 p.78 ページ画像

竜門雑誌  第二号・第二一―二二頁〔明治二一年五月二五日〕
    ○和製洋紙ノ景況
近年洋紙ノ商況著シク活溌ノ勢ヒヲ呈シ、一般ノ需用遥カニ内地製造所ノ供給ニ不足ヲ告テ、益ス舶来紙ノ輸入ヲ仰クニ至レリ、未タ詳細ノ調査ハ経サルモ昨年六・七月頃ヨリ今日ニ至ル迄、普通印刷用紙ヲ初トシテ各種紙類ノ輸入高実ニ莫大ノ巨額ニ達シ、尚今春ヨリ年末ニ掛ケ輸入スヘキ約定ノ紙類モ亦一層著大ナル景況ナレハ、従テ価格モ非常ニ騰貴シ客年中普通印刷紙一磅ノ価格六銭乃至七銭ノ間ヲ往来セシカ、今日ハ実ニ八銭或ハ九銭ニ昂進シ、益ス品ノ払底ヲ来タシ各製紙所ハ価格ノ如何ニ拘ハラスシテ注文ヲ謝絶スル程ノ上景況ナリ、爰ニ早クモ王子製紙会社ハ已ニ今日ノ商況アルヲ予想シ、昨年三月株主総会議ニ於テ新タニ資本金廿五万円ヲ増シ之ヲ五十万円トナシ、第二工場ヲ設立スルコトニ決シ、昨年ノ秋社員大川平三郎君ヲシテ同事業研究ノ為メ米国ヘ派遣セシカ已ニ去月廿五日ヲ以テ帰国セラレ、目下新築工事ニ着手中ニテ遅クモ来ル明治廿三年ニハ竣功ノ見込ナリト云フ、且ツ同会社ノ紙質原料ハ樅樹ヲ多量ニ使用スルコトナルガ、之レモ遠州掛川近方ハ十数里ノ広キ間、多クノ樅樹蓊鬱トシテアレハ同地某地ニ原質製造所ヲ設立センカ為メ、本年ハ九月頃同会社々員中村順一・槙村欣一郎《(植村欣一郎カ)》ノ両氏ヲ派遣スト云フ、一タビ此事ノ世上ニ出ツルヤ大ニ全国製紙家ノ勇気ヲ鼓舞シ、各競フテ抄紙ノ増殖ヲ計画セシノミナラス、一昨年来諸株式ノ騰貴ニ因リ鉄道ニ、紡績ニ、鉱山ニ、起業会社流行ノ折柄、製紙業モ忽チ世人ノ着目スル所トナリ、新タニ富士製紙会社ト云ヒ、四日市製紙会社ト云ヒ、又ハ墨水抄紙会社及ヒ千住製紙会社等、何レモ弐拾万乃至廿五万円ノ資本ヲ募集シ各々紙類ノ供給ヲ図ラントス、之ヲ明治十八・九年ノ頃各製紙所ノ倉庫貯蔵紙ハ堆ク積ンテ山ヲナシ、価格日ニ低落シテ其止マル所ヲ知ル能ハサリシト今日ノ価格トヲ比セハ雲泥ノ差アリ、如斯二・三年間ニ価格ニ大差ヲ来タセシハ如何ナル理由アルカヲ考フルニ、洋紙需用ノ多寡ハ国ノ文明進歩ニ至大ノ関係アル者ナリ、夫レ世ノ未開境域ニアツテハ百般ノ学術未タ幼稚ニシテ、各人意中ニ快楽ヲ覚知セサルヲ以テ、書籍及新聞紙ノ発行甚ダ少ナク紙類ノ需要アラサリシカトモ、世ノ開明ニ赴クニ従ツテ文書ノ業頻繁ナルヘキハ固ヨリ当然ニシテ、或人ノ説ニ国ノ文明ハ其国ノ発兌スル新聞紙ノ数ヲ以テスヘシト、然レハ今日我邦ニ於テ斯ク俄ニ紙類ノ需要増進セシハ全ク智育ノ発達セシ所以ナルベシ