デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
7節 製革業
1款 依田西村組・桜組
■綱文

第11巻 p.147-158(DK110030k) ページ画像

明治12年4月(1879年)

是ヨリ先、西村勝三、其ノ経営スル所ノ依田西村組ノ製革製靴ノ事業困難ニ陥レルヲ以テ、東京府権知事楠本正隆ノ勧告ニ従ヒ勧業資金十万円ノ貸下ヲ大蔵省ニ請願シ、是月其ノ半額ヲ貸下ゲラル。是ニ於テ栄一、西村ノ請ニ依リ同組ニ対スル債権者ト会シテ借入金年賦償還ノ方法ヲ定メ、以テ其ノ倒産ヲ防止ス。後、明治十七年桜組ト改称ス。


■資料

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第七一―七三頁〔大正一〇年一月〕(DK110030k-0001)
第11巻 p.147 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第七一―七三頁〔大正一〇年一月〕
    第五章 製靴及製革業の創始
○上略
是より先明治九年、翁の事業困難を極むるや、東京府権知事楠本正隆十年一月知事に昇任す いたく其境遇に同情し、かくのごとき有利の国家的事業を挫折せしむるは独り翁の不幸のみにあらずとて、政府が商工業奨励の為め民間に貸付くるの制度を定めたる勧業資金の補助を受くべき事を勧告せしかば、遂に其紹介により、十万円の貸下げを大蔵省に出願せり。参議兼大蔵卿大隈重信これを容れ将に其下附あらんとするに際して西南戦争の起るあり、軍費多端の故を以て暫く阻格せられしが、十二年四月に至り請願の半額をば十箇年賦五朱利にて、依田西村組に貸下げの命に接したり。勧業資金は此時内務省の所管たり時に翁は多額の負債を有せるが故に、債権者にして之を聞かば其返済を迫り、空しく勧業貸下資金を消費するのみならず、延いて倒産するに至らんを恐れ、事情を第一銀行頭取渋沢栄一に告げて其援助を請へり。渋沢乃ち翁及び依田西村組の資本主たる堀田家と議を重ね、負債償却の方法を定め、然る後渋沢自ら債権者一同と会見し、依田西村組を破産せしむるの不利を説き、寧ろ共同して、其事業を監督し、年賦償却の途を講ずべきを発議せるに、衆之に従ひければ幸に破産の運命を免るゝを得たり。よりて翁の有せる負債総額十五万円を分ちて、第一政府貸下げ金勧業資金第二堀田家出資金、第三三井家・小野組・第一銀行・稲葉家旧淀藩主外十余名の借入金の三種と為し、一箇年の純益金中其幾分を以て政府貸下げ金の償却に充て、其残額は堀田家に納入し更に堀田家に納入すべき金額の一割を請ひ受けて第三の債権者に分つことゝなす。これ実に翁が渋沢の力を籍りて、債権者の同意を得たる負債償却案なりき
   ○依田西村組ノ創立並ニソノ後ノ発展ニ就テハ参考資料ヲ見ヨ。


西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 〔大正一〇年一月〕 【序 青淵渋沢栄一識】(DK110030k-0002)
第11巻 p.147-148 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 〔大正一〇年一月〕
 - 第11巻 p.148 -ページ画像 
    序
○上略君は夙に本邦工業の発達を以て国富を増進せむと企図し、製靴製革業の外硝子耐火煉瓦等各種の新事業を起して、鋭意之に当られしも屡挫折して数奇なる運命は、君を苦境に陥れたること一再ならす、明治十二年の頃に及ひ、君の担当経理する桜組の営業損失多くして、負債償却の途を得す、殆と破産に瀕したる時君は至誠を以て各債権者に其内容を披瀝せしかは、余も亦君の真摯なる態度に同情し、其中間に介立して債務の整理を図り、幸にして各債権者の容るゝ所となりて、破綻の厄難を免かるゝを得たりき○下略
  大正九年十二月
                     青淵渋沢栄一識
                        


青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第二八七―二九六頁 〔明治三三年六月〕(DK110030k-0003)
第11巻 p.148-151 ページ画像

青淵先生六十年史(再版) 第二巻・第二八七―二九六頁〔明治三三年六月〕
 ○第四十六章 熟皮業
    第三節 桜組
桜組ハ西村勝三ノ経営ニ係リ製皮造靴及ヒ革具ノ製造ヲ業トスルモノニシテ、素ト維新以来陸海軍ノ日ニ整備シ靴其他革具ノ需要甚夥多ナルニ拘ハラス原料・製品共之ヲ挙テ海外ニ仰クノ国家ノ為メニ不利ナルヲ感シ、内地ニ於テ不断之レカ供給ヲナシ以テ一旦有事ノ日ニ際シ後顧ノ憂ナカラシメンコトヲ期シ、明治三年ヲ以テ創立セシモノニシテ実ニ我国ニ於ケル洋式製皮業ノ始祖ナリトス、製皮造靴革具共各々地ヲ卜シテ製造場ヲ起シ、大ニ其経営ニ力メシニ時運未タ際会セス、職工ノ不熟練、原料ノ不足等幾多ノ艱難ニ遭遇シ、殆ント倒産セントスルモノ前後幾回ナルヲ知ラス、然レトモ其間拮据経営一日ノ如ク終ニ創業以来三十年後ノ今日ニ及ヒ、初メテ当初ノ目的ヲ達シ鞏固ナル一合資会社(資本金参拾四万円)トシテ陸海軍所要ノ靴其他革具ハ、殆ント桜組ノ製品ニヨリテ供給セラルヽノ状況ニ至レリ
第三回内国勧業博覧会ニ於テ、其製品ニ対シ名誉賞金牌ヲ与ヘラレタリ、其時ノ褒章証左ノ如シ
 明治三年始メテ造靴ノ業ヲ開キ尋テ製皮ノ工ヲ起ス、辛苦法ヲ捜リ拮据労ヲ執ル、能ク陸海二軍ノ具備ヲ補ヒ社会一般ノ需要ヲ給ス、舶齎ノ途漸ク絶エ輸出ノ端方ニ発ス、功績国内ニ播キ名聞海外ニ及フ、其事績ノ偉ナル感賞スヘシ
而シテ甞テ桜組ニ従事ノ職工ニシテ今独立シテ造靴ノ業ヲ自営スルモノ、全国ヲ通シテ千有余名ニ出ツルト云フ
青淵先生ハ明治ノ初年以来、或ハ営繕会議所ニ或ハ瓦斯局ニ西村ト共ニ公務ニ従事シ相知ルコト深キヲ以テ、其間桜組ノ事業ニ対シ常ニ自ラ信スル所ヲ以テ懇ロニ幇助扶掖セシモノ実ニ少ナカラス、殊ニ明治十二年ノ交漸次事業ノ困難ニ陥リ負債ハ積シテ其額巨万ニ上リ、殆ント大蹉跌ヲ生セントセシ際ノ如キ先生ハ友誼上之ヲ看過スルニ忍ヒストナシ、百方其救済法ヲ講シ、遂ニ一夕債主ヲ招集シ諄々トシテ説クニ、負債ノ為ニ桜組ヲ倒産セシムルノ国家ノ為ニ不利ナル所以ヲ以テシ、債主共同シテ桜組ノ事業ヲ監督シ年々挙クル所ノ利益ヲ以テ年賦
 - 第11巻 p.149 -ページ画像 
償却ノ途ヲ立テシムルコトヲ詢リ、遂ニ一同ヲシテ先生ノ発案ヲ承諾セシメシカ如キハ実ニ西村ニ対スル非常ノ尽力ナリキ、桜組ノ今日アルハ一ニ先生ノ賜ナリトハ西村ノ常ニ人ニ語ル所ナリト云フ、亦以テ先生尽瘁ノ如何ニ大ナリシカヲ窺フニ足ル、而シテ先生ハ現ニ合資会社ノ出資者ノ一人ナリ
明治三十二年十月同組ハ創立三十年祝挙行ノ為、芝紅葉館ニ於テ園遊会ヲ催フシ内外ノ貴顕紳士ヲ招待セリ、当日同組カ来賓ニ配布セル同組沿革ノ談話ハ左ノ如シ
 閣下及諸君、維新ノ当初兵制御新定ノ際、我国ニ於テ軍靴ノ製造ヲ為ス能ハサルヲ不便トシ、兵部省ノ御勧誘ヲ被リ西村勝三カ製靴事業ヲ開始シタルハ、実ニ明治三年十月十五日ニシテ、本月ハ恰モ其三十週年ノ当月ナルカ故ニ、聊祝意ヲ表スル為メ粗末ナル園遊会ヲ催シ、内外貴顕閣下及紳士諸君ノ賁臨ヲ辱フスルヲ得タルハ、無上ノ光栄トスル所ナリ
 凡ソ如何ナル事業ヲ問ハス、時ニ浮沈盛衰アルハ数ノ免レサル所ニシテ、桜組事業ノ一盛一衰ノ如キハ固ヨリ社会ノ一小些事ニ過キサルカ故ニ、玆ニ其経歴ヲ披陳シテ、敢テ閣下及諸君ノ清覧ヲ煩ハスハ、敬礼ヲ失スルノ嫌ナキニアラスト雖モ、桜組ノ事業ハ維新以降ノ新工業タル製靴・製革業全体ノ発達ニ就テ、直接ニ関聯スル所多キノミナラス、三十年前ニ発生シタル桜ノ萌芽ハ風雨霜雪ノ辛酸ヲ経テ再ヒ春陽ノ季節ニ会ヒ、漸ク将ニ蕾ヲ破ラントスルノ好運ニ向ヘリ、是偏ニ大方恩露ノ徳ニ依ル所ニシテ、既往ヲ顧ミテ追懐ノ至ニ堪ヘス、聊事歴ノ一斑ヲ拝告シ、併セテ感謝ノ意ヲ表スルモ亦必スシモ礼ニ於テ欠クル所ナキヲ信スルナリ
 明治ノ初メ百事創始ニ属シ海外ノ事物ヲ輸入スルニ当リ、工商共ニ徒ラニ事ノ新規ナルニ驚クノミニシテ何人モ其事情ヲ審ニセサルノ時ニ際シ、殊ニ製靴・製革ノ事業ノ如キハ、抑モ末ナリトシテ何人モ意ヲ留ムルモノナク、明治三年築地入舟町ニ製靴工場ヲ開設シタルノ当時ニ在リテハ、原料ノ仕入、靴ノ製造、販売ノ方法等計画ノ順序ヲ立ツルコト最モ困難ニシテ、恰モ物ヲ暗中ニ捜索スルカ如ク偶ゝ横浜ニ来リタル支那人中、曾テ香港ニ於テ製靴ノ職ニ従事シタルモノヲ雇フテ専ラ製作ニ当ラシメ、事ノ細大トナク其意見ヲ参考トシテ立案シタルカ如キハ、今日ニシテ考レハ殆ント一笑ニ値セスト雖モ、亦以テ創業当時ノ情況ヲ知ルコトヲ得ヘシ、幸ニシテ瑞西総領事シーベル君大ニ勝三ノ計画ニ力ヲ添ヘラレ、同国人フアーブル・プラント氏等ニ図リテ製靴ニ関スル書籍器械其他必要ノ原料ヲ欧洲ヨリ取寄セ、玆ニ始メテ事業ノ緒ニ就クコトヲ得タルハ同氏等ニ対シテ大ニ感謝スヘキ所ナリトス
 同年十月築地入船町ニ製革工場ヲ設置シ、翌年十一月之ヲ向島ニ移ス、今日向島須崎町ニ於ケル製革所ハ即チ其時ニ建築シタルモノニシテ、規模構造ノ法ニ副ハサルヘキハ勿論ナリト雖モ、当時只一二ノ製革図書ヲ参考シテ之ニ随意ノ判断ヲ加ヘ、僅ニ差支ナキ工場ヲ建築スルコトヲ得タルハ誠ニ僥倖ト云ハサルヲ得ス、是ヨリ先キ横浜在留ノ独逸人某、我牝牛皮ノ価格低廉ナルヲ以テ之ヲ製革トシテ
 - 第11巻 p.150 -ページ画像 
本国ヘ輸送スル為メ、製造所ヲ本牧村ニ設置ス、即チ該工場ノ技手タルボスケニ就テ製革ニ係ル諸般ノ事項ヲ質問シ、其養成シタル職工ヲ我工場ニ採用シ、亜ヒテ本牧村ノ製造所閉鎖セラルヽニ及ンテボスケヲモ亦我工場ニ雇聘シタリ、然レトモ当時専ラ軍靴ノ甲革ヲ製造スルニ止マリ、需要ノ大部分タル底革・中底革及武具用等各種ノ皮革ハ一切外国ノ輸入ヲ仰キタリ
 明治四年和蘭国ヨリ靴工手レマルシヤンヲ雇聘シ其事業ヲ伝習セシム、当時専ラ士族ノ子弟ヲ募リ又救育所ノ少年五十余名ヲ引取リテ造靴ノ職ニ就カシメ、其後ニ至リ養育院ノ少年モ亦連年之ヲ引取リテ靴工生徒ヲ養成シ、聊カ窮民授産ノ方法ヲ講シタリ、工業ノ発達ハ一ニ職工ノ技倆如何ニ依ルハ勝三等ノ深ク信スル所ナルカ故ニ、爾来大ニ職工ノ養成ニ勉メ今尚其事ニ鋭意セリ
 明治五年初メテ洋式革具製造所ヲ設置ス、同年勝三ノ弟同姓勝郎ヲ欧米ニ派遣シ製革・製靴ニ係ル事業ヲ視察セシメ、兼テ必要ナル器械標本類ヲ購求シ大ニ事業改良ノ資ニ供スルコトヲ得タリ
 明治十二年製革技手ヲ濠洲シドニーニ派遣シ製革ノ事業ヲ調査研究セシム、之レ本邦製革業上記憶スヘキ一新紀元ニシテ、翌十三年同人カ調査ヲ齎シテ帰朝スルニ及ンテ、彼地ニ於ケル製革ノ方式ヲ採用シ、新タニ汽機ヲ装置シ生徒ヲ募集シテ新式ノ製革法ヲ伝習シ、漸ク好結果ヲ得タルヲ以テ明治十七年ニ於テハ従来船来皮革ノミヲ使用セラレタル陸軍砲兵工廠ニ於テ、兵器附属品製造ノ為メニ我製革ヲ代用セラルヽニ至リ斯業ノ為メニ聊カ面目ヲ施スコトヲ得タリ然レトモ靴底革ハ其結果尚不充分ニシテ、依然外国品ノ輸入ヲ仰キタリ、当時我工場ニ於テ募集シタル生徒ノ数無慮三百余名、而シテ完全ニ其業ヲ卒ヘタルモノ僅ニ三十余名ニ過キス、以テ職工養成ノ困難ニシテ且ツ失費ノ夥多ナルヲ見ルニ足ルヘシ
 明治十九年勝三欧洲諸国ノ工業ヲ視察シ、就中独仏ノ軍靴及武具製造ヲ調査シ諸般ノ器械器具ヲ購求シタリ、始メ我工場ニ於テハ独逸ニ行ハルヽ製革ノ方式ヲ採用シ、亜ヒテ明治十三年以来ハ多ク濠洲ノ方式ニ依リタリト雖モ、濠洲或ハ米国ノ如キ原料ノ豊富ナル地ニ於テハ、其製造ノ方法粗大ニシテ専ラ機械力ヲ使用シ、到底我国ニ応用スルノ不可ナルヲ覚リ、本邦牛皮産出ノ状況、工銀ノ比較及内地産薬種ノ性質等ヲ研究シ、独逸式ニ依ルノ必要ヲ認メタルヲ以テ独逸国ニ於テ技手クンベルゲルヲ雇入レ、帰朝後更ニ職工生徒ヲ募リ製革ノ方法ヲ全然独逸式ニ改メタリ、是亦製革業上記憶スヘキ事実ナリトス
 明治二十年事業取調ノ為メ西村謙吉ヲ墺独諸国ニ派遣ス
 明治二十一年ヨリ年々牝牛製革ヲ独逸ニ輸出シ来リタルモ、原料騰貴ノ為メ二十三年ニ至リテ止ム
 本邦ノ製革業漸次発達シタルヲ以テ陸軍省ニ於テハ精密厳格ナル実地撿査ヲ施行セラレ、我製革ヲ以テ軍靴底ニ使用スルニ於テ些ノ懸念ナキノ成績ヲ認メラレ、明治二十二年以来舶来革ノ使用ヲ廃シテ本邦製革ヲ用イラル、亜ヒテ中底革モ亦我国ノ製革ヲ用イラルヽニ至リ、軍靴製造ノ材料皮革ハ一切外国ノ供給ヲ受クルノ必要ナキニ
 - 第11巻 p.151 -ページ画像 
至レリ
 明治二十三年内国勧業博覧会ニ於テ名誉金牌ヲ賞授セラル
 明治二十八年事業拡張ノ為メ府下北品川ニ製革支工場ヲ設置ス
 同年西村謙吉ヲ米墨諸国ニ派遣シ製革原料ニ関スル取調ヲ為サシム
 明治二十九年従来ノ製靴法ヲ改良シ、分業製靴法ヲ採用スルカ為メニ、技手ヲ米国ニ派遣シテ調査ヲ為サシメ、翌三十年新ニ工場ヲ府下北品川ニ起シテ仕入靴ヲ製造シ、専ラ多数ノ労働者ニ供給シ兼テ東洋諸国ニ輸出スルノ目的ヲ以テ、改良靴ト称スル分業器械製新靴ヲ発売シタリ
 明治三十一年東洋諸国ノ牛皮産出ニ係ル事項取調ノ為メ、西村謙吉ヲ南清・暹羅・新嘉坡各地ニ派遣シ、帰朝後更ニ独逸索遜製革学校ニ留学セシム、同人ハ該地ニ於テ製革職工独逸人三名ヲ雇ヒ入レ、目下同行帰朝ノ途ニ在リ、而シテ同人該地滞在中ニ於ケル任務ノ一トシテ専門ノ学者、実業家ニ依頼シテ、新設工場ノ設計書ヲ調製セシメ、同人ヲシテ亦自ラ其事ヲ研究セシメタリ
 明治三十二年技手大沢亨、農商務省実業練習生トシテ製革業研究ノ為メ、独逸索遜ヘ留学ス
 同年清国湖北総督張之洞氏ノ依頼ニ応シ、清国武昌ヘ製革所新設ノ計画ヲ為ス為メ、技手ヲ同地ニ派遣シ今現ニ出張中ナリ、且ツ清国ヨリ我国ニ派遣スル留学生十名ノ為メニ、我工場ニ於テ製革業伝習ノコトヲ承諾ス
 以上ハ技術作業ニ関スル概要ニシテ、製革ノ事業ハ特ニ学理ノ応用ニ関スルモノ多ク、技術ノ上ニ於テ一歩ヲ進ムル毎ニ研究ノ困難ハ常ニ一層ノ深キヲ加フルカ故ニ、其成績ニ於テハ未タ大方ノ賞賛ヲ博スルニ足ラサルヲ慚ツト雖モ、幸ニシテ目下ノ必要ニ供給シテ遺憾ナキコトヲ得ルニ至レリ、而シテ製靴ノ事業ハ、其進歩大ニ著シク、今ヤ外国ノ製品ニ対シテ甚シキ遜色ナキノミナラス、我靴工ノ団体ハ現ニ米国桑港ニ於テ盛ニ製靴業ニ従事スルカ如キ、固ヨリ同業家カ苦心経営ノ労少ナカラサルニ依ルト雖モ、桜組モ亦幾分ノ光栄ヲ荷フコトヲ得ルハ大ニ欣喜ニヘ堪サル所ナリ
 技術上ニ於ケル研究ノ苦心ハ固ヨリ営業者本然ノ務ニシテ、将来ニ於テモ其労苦ノ益々大ナランコトハ予メ期ス所ナリト雖モ、桜組カ創業以来経過シタル営業上ノ困難ハ作業ニ比シ更ニ一層ノ甚シキモノアリ、勝三等不敏ニシテ屡々蹉跌失敗ノ逆境ニ陥リ、初メ伊勢勝一己ノ営業ヲ移シテ、依田西村組ト為シ、更ニ桜組ノ名称ニ改メ、其間種々ノ困難ニ遭遇シ将サニ倒レントシテ僅ニ一縷ノ命脈ヲ維持シ得タルコト凡ソ幾回ナルヲ知ラス、幸ニシテ官民諸公特殊ノ眷顧ト旧佐倉藩主堀田家ノ非常ノ保護トニ依リ、能ク三十年ノ長日月ヲ経過シテ遂ニ今日ノ小康ヲ得ルニ至リタルハ、其恩恵ノ大ナル勝三等ノ常ニ銘シテ忘レサル所ナリト雖モ、特ニ本日ノ祝会ニ際シテ其感更ニ一層ノ深キヲ覚フ云々



〔参考〕西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第六三―七八頁〔大正一〇年一月〕(DK110030k-0004)
第11巻 p.151-154 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第六三―七八頁〔大正一〇年一月〕
 - 第11巻 p.152 -ページ画像 
    第五章 製靴及製革業の創始
○上略
是より先明治二年三月政府は東京府庁内に開墾役所を置き、府下無産の民を下総小金ケ原に移して其地を開墾せしめしが、五月更に民部省内に開墾局を置き其事務を掌らしむ。貿易商社の肝煎等は官命によりて之に参与し、各五十人づゝの窮民を引受くる事となれり。翁は商社の肝煎なりしかば、小金ケ原の大地主たるも悪しからずとて、特に三千人を貸与せられん事を請願せしかども採用せられず、乃ち此機会を利用して、製靴の新事業を創めなば、以て大村益次郎の遺志をも果たし、国益をも挙ぐると共に、一部の窮民に生産を授くるの利益ありと玆に始めて其決心を堅くせり。やがて之を政府に申請し允可を受くるの後、窮民中より五十人の少年を選び、別に士族授産の目的を以て旧佐倉・川越両藩士の二三男をも募りて職工と為し、翌三年三月十五日伊勢勝製靴工場を築地入舟町に起したり。是実に本邦に於ける斯業の嚆矢たり。乃ち甞て香港にて製靴業に従事せる清国人潘浩を雇ひて教師と為し、又瑞西国総領事の斡旋を以て同国の商人フアーブル・ブランド等とも謀り、製靴に関する機械図書を始め、必要の原料をも欧洲より輸入せりといふ。かくて創業以来常に兵部省の御用を勤めたれども、職工等尚未熟にして、一足の上納価格一両二分の定めなるに、製造の原価は五両を超え、損失尠なからざれば、同省に請願し一万両の貸下を受け、五年三月靴工蘭人レ・マルシヤンを招聘して教習の任に当らしむるなど、鋭意其発達に苦心せり。数年の後に及びて技術も漸く進み需要また増加せしかば築地一丁目に第二製靴工場を起し、又市内各所にも五個の分工場を置くの盛況に向へり。
初め翁が工場を創設するや、製靴の原料を海外に仰ぐの得策ならざるを信じ、明治三年十月製革工場をも築地入舟町に設け、四年十一月更に向島須崎村に移したり。初は横浜在留の独逸人にして本牧村に工場を有せる製革業者ボスケに託して諸般の指導を受けしが、後には同人を招聘して工場専属の技師と為し、五年に至り漸く軍靴の甲革を製造し得るに至れり。而も重要の大部分たる底革・中底革・兵器附属用の諸革等は、なほ海外よりの輸入を待たざるを得ざりき。此年また洋式革具製造工場を築地一丁目に設く。
○中略
製靴・製革の事業は幾多の困難と戦ひつゝやゝ其緒に就くを得たるの際、四年十月兵部省より軍靴五千足づゝ六箇月間上納すべきよしの命ありしが、十二月に至り一箇年を限りて十万足の上納と為し、五年三月更に之を改めて向ふ十箇年間毎年十万足づゝの上納と為す。以上は皆陸軍の需用に応ぜるものなりしが、此年また海軍へも上納の端を開けり。是に於て西村勝郎を欧米に派遣して工業を視察し、且つ製靴・製革並に莫大小製造に関する機械・器具・標本等を購はしむるなど、著々発展の法を講じたれば、経営漸く順境に向ひ過去の損失を塡補するも近きにあらんと思はれしに、はしなくも意外の運命に遭遇せり。是より先翁が製靴の事に従ふや、世人之に留意する者なく殆んど独占事業たるの観なりしが、後漸く同業者を生じ就中東京に於て二宮某が
 - 第11巻 p.153 -ページ画像 
各鎮台の軍靴用達を命ぜらるゝあり、大阪鎮台に於ては独逸人を雇ひて其製造に従ふあり、また旧□□頭弾直樹が翁の勧めによりて其業を創め、翁と共に兵部省の御用をも承るあり、陸軍に対する同業者の競争日に添ひて盛んならんとす。加ふるに山城屋和助が政府の命を受けて欧洲より購ひ来れる多数の軍靴の、いまなほ手持せるあり。されば陸軍省明治七年兵部省を陸軍省・海軍省の二つに分つの態度も自ら一変し、明治七年に至りて前命を停め、更に四箇年間、毎年二万五千足別に長靴二千足づゝの上納に改む。此時に当り、翁は巨額の資本注入して未だ其回収を得ず、創業以来の損失十七万円に達せる有様なりしかば、数次歎願を重ねて、漸く無利息三万九千円貸下げの恩典を得たると共に、工場の一部を閉ぢ職工を減ずるなど、縮小主義を取りて、纔かに之を弥縫するの窮境に陥れり。
製靴・製革の事業が、かくの如くにして頓挫を来せる際、翁は脚気病より引つゞきて心臓病を患ひ、容態軽からず一時は険悪の兆候さへありて、医師も全治を保証せざるに至りしかば、翁は或は起ざるべきを慮り、一日岡田平蔵を枕頭に招きて後事を託し、且財産の全部を売却して負債返弁の資に宛てん事を請へり。岡田乃ち貸借の調査を行へるに、負債の総額二十九万円に達し、資産は僅かに五万円にして別に三万円の貸金あるに過ぎざりき。而も翁は此際特に命じて一切の貸金証書を焼却せしめたり。蓋し債務者は皆旧誼ある人々なれば之を責むるに忍びざりしものなるべし。然るに幸にも翁の病は幾もなく平癒せしかば、更に岡田と謀り小野組より十万円を借りて急に要する負債を償へるに、小野組は翁に要求するに製靴・製革の諸工場を岡田の名義に改めん事を以てせり。翁も玆に至りては争ふに由なく築地一丁目の工場を除くの外は総て其名義を変更したりしが、不撓不屈の精神に富める翁はいかでか斯る事に辟易すべき、更に、資金の融通を得んが為めに、明治九年大沢省三・丹治平助及び近藤近三を代理として佐倉に遣り、旧藩主堀田家の援助を請ひたれども、議未だ熟するに至らず経済更に困難を加へたり。是に於て同十年再び堀田家に説き、漸く出資の承諾を得たるにより、同家の家令依田柴浦は主家を代表して会計を掌り、翁は作業を担任することゝなし、同年四月更に名称を改めて依田西村組と称せり。此時岡田平蔵は既に逝き、同姓平馬専ら事業を監せしが、経営意の如くならざるを以て工場全部を翁の管理に復せん事を求めたれば、翁は依田と議して之に応じ、一時岡田の名義に移れるもの、再び翁等の手に復帰するを得たり。
○中略
明治十二年五月濠洲に於て博覧会の開設せらるゝや、翁は製革工場の技師山崎亀太郎を同地に派遣して各製革工場を視察し、専ら黒象皮及び底革の製造を調査研究せしむ。これ本邦製革業上記憶すべき一新紀元なり。翌十三年山崎の帰朝するに及び彼地に於ける製革の方式を採用し、新に蒸汽機関を装置し、生徒を募集して其業を伝習せしむ。十五年四月に至り黒象皮の製造漸く成功を遂げ、従来舶来品のみを使用せる陸軍砲兵工廠は、兵器附属品製造用として依田西村組の黒象皮を代用する事となれり。されど靴の底革・中底革等の製造はなほ未だ十
 - 第11巻 p.154 -ページ画像 
分ならず、依然として其殆んど全部を海外の輸入に仰げるは翁の頗る遺憾とせる所なりき。当時製革工場の募集せる生徒の数は三百名を越えたけれども、完全に其業を卒へたるは僅かに三十余名のみ、職工養成の困難にして且つ失費の夥多なる、想像に余りありといふべし。
○中略
明治十七年七月依田西村組を改めて桜組と称す。蓋し翁は佐倉の出身なるのみならず、旧藩士なる堀田家は其恩人にして且資本主なれば、永く之を記念するにあり、而して佐倉の語は日本人の理想とせる桜と国音相通ずるを以てなり。折しも同年十二月朝鮮に変乱あり、我公使館は清韓兵の襲撃する所となりて死傷少なからず、遂に両国と葛藤を生じたれば、政府は万一を慮りて密かに戦備を整へしより、軍需品の供給俄に激増せる結果、翁の工場製品にして前日選に洩れたる黒象皮及び試験的に製造せる速成革等、悉く砲兵工廠の買上ぐる所となり、更に新しき注文の輻湊せしが為に、常に損失を招ける製革事業は、時局の影響を受けて予期せざる利益を収め、年来の負債を償却してなほ幾分の嬴余を見たりき。
   ○西村勝三ハ旧佐倉藩士ニシテ維新ノ頃商工業ニ身ヲ委ネ、屋号ヲ伊勢勝ト称ス。銃砲売買其他種々ノ業務ヲ試ミテ、屡々失敗シ多額ノ負債ヲ有シタリ。明治二年秋、兵部大輔大村益次郎、西村勝三ニ薦ムルニ製靴業ヲ興サンコトヲ以テセリ。即チ翌三年伊勢勝製靴工場ヲ興シタルモノナリ。


〔参考〕談叢 二 第一〇九―一一四頁〔明治三三年九月〕 依田柴浦先生伝(DK110030k-0005)
第11巻 p.154-156 ページ画像

談叢 二 第一〇九―一一四頁〔明治三三年九月〕
  依田柴浦先生伝
吾兄柴浦君。名貞幹。字子葉。幼字十太郎。佐倉藩士依田貞剛第一子。母斎藤氏。年十二。貞剛君卒。嗣襲世禄二百石。十七櫂為藩主正睦近侍。貞幹受射於湯川直道。直道世以射術著。江戸深川三十三間堂。為武人試射処。直道老。其子多病。不得試於堂。求其門人善射者。莫若貞幹。乃請之正睦。正睦欲許之。藩老潮田高遠曰。貞幹才能堪大任。莫使其終一伎也。直道固請。乃許之。堂射法有大矢数。日矢数。千射。百射目。其大矢数。徹昼夜。試其力。有発及二万箭者。当時武人以此為栄。貞幹初試百射。得其八。次試大矢。数算一万三千余。正睦聞之曰。伎已中式矣。不必正試也。厚賜罷之。櫂為帳役。実嘉永二年七月也。方是時。外事日逼。諸藩頗以富国強兵為務。佐倉旧倣甲州兵法。操練兵士。正睦聞長沼澹斎兵法。欲参酌西洋兵法。聘野慵斎為師。抜藩士堪事者数人。受其学。貞幹中選就学。極其蘊奥。安政六年四月。与同僚数人承旨。始改兵制。率倣澹斎。参以西洋法。草成未上。同僚木村重周。夙講蘭学。有器識。独以為澹斎法不足用。宜専従洋法。為歩騎礟之兵。衆疑其大過。貞幹曰。重周言是矣。乃上書。尽棄前議。従其言。罷弓矢長槍諸隊。士為騎。卒為歩。並用銃。別置大砲隊。以士族庶子充之。編三兵訓練書。正睦命頒為藩軍制。六月。貞幹為第十四銃隊長。兼側用人。正睦伝封其子正倫。猶視政事。万延四年四月。以貞幹兼会計事。時初国家多事。財用不給。負債山積。正睦謂。府庫空虚。欲強兵。不可得。会田中重参。
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上書乞釐正会計法。首薦貞幹。言廉幹有識。可用也。正睦乃有是命。尋用重参言。下三条問目於会計吏曰。租税代折銀。以防奸耗。日謝絶財主。裁減宿負。以閉濫出。曰有大費用。募債管内。以通民財。吏卒墨守旧制。不喜変法。多謂。謝絶債主。若有国用。何以応急。又租税折銀。使民賤粟重金。他所言不過瑣細末節。貞幹以為。策不出非常。安除宿弊。因引山崎闇斎盍徹論為証。別編制会計法一篇上之。大意如重参言。処置周詳。正睦命老臣雑議。不決。会幕府改鋳金銀幣。旧弊価倍蓰。藩府庫蔵古金数千両。貞幹又議。貯金以備急也。今欲釐革財政。若無其法。国家之急。莫大焉。出其三分一。可以償旧債之半矣。正睦従之。乃召債主諭其意。債主等初聞佐倉釐革財政。恐其停償。俄聞得其半。則大驚為幸。曰他日募債。多少唯命。蓋諸藩積債。利子多滞。何況母金。今事出望外。其喜可知也。先是計吏皆謂。如其議。彼慍不聴。或強求全額。或逆閉貸路。至是始服。於是尽罷財主。減其俸。租米蓄庫。時出售。得利数倍。又裁冗費。汰冗員。歳出入相当。国用始足。元治元年正月。以功増三十石。蓋異数也。二月。移大砲頭。用人如故。七月。進班大寄合。十月。常野賊起。幕府命佐倉。与諸藩合力討之。宰臣平野重久率諸隊往。貞幹従焉。大戦。賊拠那珂港。我在磯浜。貞幹以大砲迫岸而陣。敵砲如雨。貞幹奮前。勝負不決。戦両日。敵別将榊原照煦。遺使約内応。幕府軍監疑其詐。貞幹曰。彼為仇所陥。非賊也。軍監従之。廿八日。敵塞火起。我軍発砲轟撃。進度川。照煦出降。武田伊賀等潰囲而去。十一月。貞幹護送照煦等四百余人於佐原。知其抗幕兵、非本意。厚遇之。降卒感激。無一喧噪者。既而幕府命法吏糺察之。欲待以捕虜。貞幹曰。護送兵数。与彼相当。然粛然奉命者。自知其無罪也。宜以士礼問之。乃許用礼服。貞幹俄命造礼服数十具。照煦等大善曰。吾輩不辱。以君力也。雖死不朽矣。審問具服。拘禁於諸藩。明年五月。幕府賞従征諸藩士。貞幹亦賜金及時服。乃頒与之摩下士卒。不留一銭。尋進番頭。増給七十石。万延二年。為年寄役参藩政。掌軍馬事。合旧禄給三百五十石。平野重久。佐治延年等議。欲大革兵制。非貞幹不可。於是連薦之。貞幹延通西洋兵事者。講究累日。悉変旧法。定徴兵法。管内百石地貢三人。編制歩兵。櫂藩士強壮堪事者為士。官以旧歩卒為大砲兵。選藩士庶子為士官。其騎兵仍用上中士。専充伝令使。又始置弾薬武具等司。監造火器。建兵営於城中。交番警衛。一朝有変。即時従事。兵制大振。正論賞其功。賜章服銀両。於是貞幹威頗盛。壮年士争附之。文吏多不懌。宰臣由比演貞。初与議不合。与属吏語。稍侵貞幹。壮士聞之大怒。殆有両党紛争之勢矣。藩士青木顥。宮崎直候憂之。時平野重久在江戸邸。二人往告之。重久大驚。及還藩。告貞幹。貞幹曰。某所為。皆欲益国家也。豈可貪於勢。而誤大事乎。上書辞職。正倫手書屡止之。固辞不止。明治元年二月。罷。特命班位如故。使其子貞襲禄。以由比演貞奉職無状。褫其職。先是海内形勢一変。幕府帰政於朝。未幾。王師東征。正倫在京師。幕士逋竄両総。所在騒擾。追討使柳原前光至。命佐倉
 - 第11巻 p.156 -ページ画像 
発兵。藩士等不服曰。吾藩為徳川氏世臣。不得与幕府戦。平野重久百方説諭。不肯。重久以為。貞幹得士心。急起之曰。事急矣。煩君一出。貞幹乃起。諭衆曰。諸子不従。是陥我君於死也。声与涙共墜。衆乃服。貞幹無子。養藩士庄田某子貞為子。娶以其女。是歳請致仕。正倫不許。二年二月。再請許之。貞幹自是絶口不復談時事。築室於城外箭谷。名曰黙黙庵。日以歌詠琴笛為娯。為人純一誠愨。胸襟如洗。性慈恵。聞有人告困乏者。傾嚢救之。不毫吝惜。弟百川諫曰。彼実不甚貧。詐装之。恐為其所欺也。貞幹笑曰。弟言大有理。然不能忍者。亦吾病也。是年八月。朝廷定藩制。置知事参事。正倫為佐倉藩知事。命藩士。投票挙参事。貞幹中選。貞幹辞不出。正倫手書諭之。貞幹曰。其堀田氏老僕耳。安辱朝命。且時勢日変。藩制恐難久行。某誓致力主公。今非其時也。四年。藩且廃。正倫移東京。貞幹時来請従執賤役。正倫許之。尋為家令。善治財産。堀田氏益富。九年十二月。以病辞。正倫厚労之。二十五年一月。病卒。年六十六。子貞仕於朝。為陸軍中尉。死西南役。庶子二。曰貞種。貞枝。貞幹六十後。尚挽強弓。発必貫革。天子甞召善射。見其伎。貞幹与焉。又善和歌。雖不甚工。詞気温藉。想見其為人云。
   ○「談叢」ハ依田学海ノ文集ナリ。


〔参考〕西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第九一―九七頁〔大正一〇年一月〕(DK110030k-0006)
第11巻 p.156-157 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編) 第九一―九七頁〔大正一〇年一月〕
    第八章 欧洲視察
翁の経営せる靴・革・耐火煉瓦等の事業は漸く進歩発展の域に向ひたれども、新に著手せる硝子事業と共になほ幾多の改善を要するものあり。
是に於て、親しく欧洲に遊び、斯業の視察調査を遂げ、将来に資せん事を思ひしが、常に志を果たすを得ざりき。然るに明治十九年に至りて外遊の志を決し、まづ砲兵工廠提理陸軍砲兵大佐黒田久孝を訪ひ、軍用革製造の調査研究に就いての指導を請へるに、黒田は独逸に於ける斯業の発達を説き、之を学ぶべきを勧告せしかば、翁其言に従ひ、重きを独逸諸工場の視察に置かんとす。是に於て更に桜組の出資者たる堀田家の同意を得たるの後、同年四月を以て西航の途に上れり。かくてまづ仏蘭西に著して里昴・巴里等を巡視し、六月独逸に赴き、伯林をはじめ十余箇所の都市を訪ひしが、就中最も意を用ゐしはサクソン製革工場・カルヽリンデル甲皮行場・ギツタ調革工場・ハインリツヒ、クノフ製革工場・マイエル、ミユヒエル、ウンド、デンニゲル製革工場・ドレスデン軍靴製造所・シヤーロツテンブルヒ職工学校・ヘルムシユテツト耐火煉瓦工場・エバスワルデ耐火煉瓦工場・エーレンフエルド硝子工場・アルトナ、チング硝子工場・シーメンス硝子工場にして、優秀なる製作品・製作の原料、さては参考の図書等は必ず之を購うて本国に送れり。翁はまた此地に於て製革技師を招聘するの意ありしかば、伯林の革商サロモン商会に託して之を募集し、詳かに其学殖・技術・性格等を調査せる後、百数十名の応募者中より二十五名の候補者を選び交渉を開きしに、俸給其他に異議ありて悉く不調に
 - 第11巻 p.157 -ページ画像 
帰す、翁いたく良工の得難きを歎じたる際、サロモン商会よりハンプルヒなる某底革製作所の工長クンベルゲルを紹介し来りしかば其作品を閲するに、独逸製の最良品とは言ひ難きも、米国品に優る事数等なるが故に、直に雇入れの約束を結び、八月伯林を去りて白耳義に向へり。
翁は白耳義に於てもリエージユなる二三の硝子工場を参観し、更に海を渡りて倫敦に赴く。初め翁のクンベルゲルを雇ふや、所属工場に後任者を得るまで二箇月間出発の猶予を与へ置きしが、工場主之を喜ばず即時辞職を迫りしかば、已むを得ず直に日本に航せんとて、旨を倫敦なる翁の旅寓に通告し来れり。翁此時英国の諸工場を巡視せんとする際なりしも、彼の出発を繰上げし上は之を迎ふる諸準備の必要を認め、僅かに窯業の隆盛を以て名あるストーブリツヂの二三工場を視察せるのみにて帰途に就き、十月横浜に著したるが、クンベルゲルもまた十一月を以て来朝せり。
    第九章 製靴及製革業の成功
翁が製革事業創始の際は範を独逸に採り、明治十三年以後は概ね濠洲の製法に拠りたり。されどもなほ未だ完からざりしが、欧洲より帰朝の後新に職工・生徒を募集し、技師クンベルゲルに就きて伝習を受けしめ、再び純独逸式に改めたり。これ実に本邦製革史上に一新紀元を画せるものなりき。二十年事業の調査研究の為め、養嗣子西村謙吉を墺・独二国に派遣す。蓋し製革の事たる単に技術の熟練精巧を要するのみならず、学理の応用に待つ所甚だ多ければ、事業の発展と共に益益調査研究を要したればなり。翁の意を用ゐる事かくのごとくなれば、桜組製作品の真価もまた漸く世上の承認を得んとす。是より先明治十年第一回内国勧業博覧会の開設せらるゝや、始めて靴・革及び革具を出品して竜紋賞牌を受領し、翌十一年また京都府博覧会に靴を出品して銀牌を受領せしが、尋で十四年第二回内国勧業博覧会には、靴及び革を出品して一等有功賞牌と進歩賞牌とを得、二十年東京府工芸品共進会には馬具・塗革を出品して二等賞牌を受くる等、著々進歩の実跡を示すと共に、同年更にまた製革を独逸に、但原料騰貴の為め二十三年に至りて止む製靴を露領浦塩斯徳に輸出するの盛況を呈したりしが二十二年五月に及び陸軍省の精密厳格なる検査に合格し、其製革は軍靴底に使用するも全く懸念なきものと認定せられ、爾来同省に於ては舶来革を全廃するに至り、尋で中底革もまた採用せられ、軍靴製造の材料皮革は一切外国の供給を仰がざるに至る。かくて二十三年の第三回内国勧業博覧会には、翁は製靴・製革及び耐火煉瓦の審査員を命ぜられしが、なほ其出品に係る靴・革に対して名誉賞牌を受領せり、褒賞の文に「明治三年初めて造靴の業を開き、尋で製皮の工を起す、辛苦法を捜り拮据労を執る、能く陸海二軍の具備を補ひ社会一般の需要を給す、舶齎の途漸く絶え輸出の端方に発す。功績国内に播き名声海外に及ぶ、其事蹟の偉なる感賞すべし」といへるは、実に的中せる評語といふべし。
○下略


〔参考〕願伺届録 会社明治廿一年(DK110030k-0007)
第11巻 p.157-158 ページ画像

願伺届録 会社明治廿一年 (東京府庁所蔵)
 - 第11巻 p.158 -ページ画像 
御□相□居候各靴製造高右販売代価共三四両月分取調上申仕候、弊店之義は重ニ陸軍省御用靴製造仕候義ニ付、此両月間員数販売金額共一二両月より相増居候得とも、一般之景況ハ別紙上申書之通リニ有之候間、此段も為念奉申上候也
               京橋区築地壱丁目壱番地
                      (印)
    明治二十一年六月        桜 
  農商課
    御役人中様

     記
明治二十一年三月調
   製造
 各靴員数    五千七百六拾九足
   代価
 金七千七百八拾三円〇七銭五厘
同 四月調
  各靴員数 七千三百三拾八足
    代価
  金壱万千六百八拾壱円拾弐銭
    此他各条二月調差出候節ト別ニ異動無之候
   事業ノ盛衰及其他近因
各靴ノ販売ハ本年三月以降減少ノ姿ナリ、畢竟穿用者ノ減セシニアラスシテ一般ノ不景気ニ元因セルカ、殊ニ婦人靴ノ如キ昨年ニ比スレハ大ニ注文ノ数ヲ減セリ
職工ノ折合一般良平穏ナリ、之レモ不景気ニ伴ワレテ通常ノ職工ハ解傭サルヽモノ多シ
革種類ハ舶来和製共需用ノ充分ナラサルニモ不拘、該価格ハ差異ナシ革具ノ内遊歩馬具ノ類、近来売捌ケ最宜シ
右之通リ有之候間、此段奉申上候也
               京橋区築地一丁目壱番地
                      (印)
    明治二十一年六月        桜 
  東京府庁
   農商課
     御中