デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
8節 製糖業
4款 台湾製糖株式会社
■綱文

第11巻 p.251-266(DK110042k) ページ画像

明治33年6月13日(1900年)

台湾製糖業ノ振興ヲ計ル為メ新式機械ニヨル台湾製糖株式会社ヲ設立スルノ計画熟シ、是日三井集会所ニ於テ発起人会ヲ兼テ発起披露ノ宴ヲ開ク。栄一来賓トシテ之ニ出席ス。是年十二月十日当会社創立セラル。栄一株主タリ。


■資料

台湾製糖会社東京出張所保存書類(DK110042k-0001)
第11巻 p.251 ページ画像

台湾製糖会社東京出張所保存書類(台湾製糖株式会社所蔵)
明治三十三年六月十三日
午後三時ヨリ発起人会ヲ兼テ発起披露ノ宴ヲ三井集会所ニ開ク
当日ノ来賓及来会者ハ左ノ如シ
 児玉源太郎殿、三井三郎助殿、小沢少佐殿、横沢次郎殿、渋沢栄一殿、浅田正文殿、児玉少介殿、波多野承五郎殿、朝吹英二殿、田島・武智・上田・益田・アーウヰン・鈴木各発起人及福井菊三郎氏
 以上
 〔註〕当社発起人は益田孝・鈴木藤三郎・田島信夫・上田安三郎・ロベルト ウオルカー アルウヰン・武智直道・長尾三十郎の七氏。渋沢氏は来賓として発起人会当日の披露の宴に出席せられしものなり。


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK110042k-0002)
第11巻 p.251 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三三年
六月十三日 曇
○上略 午後四時三井集会所ニ於テ催シタル台湾糖業会社創立《(製糖)》ノ談話会ニ出席ス、益田孝氏ヨリ兼テ案内セラレタレハナリ○下略


台湾製糖株式会社史 第六三―九三頁〔昭和一四年九月〕(DK110042k-0003)
第11巻 p.251-259 ページ画像

台湾製糖株式会社史 第六三―九三頁〔昭和一四年九月〕
 ○第二章 当社の創立
  第一節 当社創立の動機
    一 児玉総督と糖業の振興
 明治二十八年四月十七日、下関講和条約が締結せられ台湾は我が領土に帰し台湾総督によつて統治せらるゝこととなつたが、爾来数年間は治安の確立に忙がはしく、産業的開発に就ては未だ十分に意を注ぐ遑がなかつた。樺山資紀・桂太郎・乃木希典の三台湾総督が相次いで在任した期間は、まさにこの時代にて軍政維持に要する巨費の大部分は国庫補助金に俟つの状態であつた。即ち明治二十九年度の台湾歳入九百六十五万余円の中、国庫補助金は六百九十四万余円に上り、翌三十年度の同歳入一千百二十八万余円の中、同補助金は五百九十五万余円を占める実状で、本国財政にとつて重き負担となつてゐた。従つて台湾領有は我が国にとつて贅沢であるとの議論すら起り、甚しきに至
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つては外人の説に和してこれを一億円で外国に売却すべしとの論が、有識者間にさへ論議せられる状態で、台湾統治の前途は頗る暗澹たるものがあつた。
 他方、日清戦役後に於ける我が国経済界はやゝ放漫に流れたため、その反動が起り明治三十年頃から経済恐慌、財政窮迫が現れて来た。明治三十一年一月、第三次伊藤博文内閣が成立し井上馨伯がその大蔵大臣に列せられた当時は、適切な財界救済策を講じ且つ戦後急激に膨張した事業の整理をなすことが最も急務であつたため、政府は同三十年より三十一年に亘る議会に於て台湾財政の国庫補助金を四百万円に削減した。それは同三十一年二月、児玉源太郎大将が第四代台湾総督として赴任しようとしてゐた際であつたので、井上蔵相は同総督に対し台湾に於ける産業、殊に製糖業を振興し将来財政収入の増大を図るべきことを説かれたといはれてゐる。児玉総督も亦台湾財政独立のため産業開発を一大眼目とせられてゐたので、爾来同島産業大宗の一たる糖業の奨励が自らその中心をなすやうになつたのである。
 台湾糖業の振興は領台直後から既に当局者の考慮に上り明治二十九年には在布哇帝国領事に託して同地の優良品種たるローズバンブー及びラハイナを本島に輸入し、その試作と繁殖に着手したが当時は専ら治安工作に忙はしく、未だ産業開発に十分力を注ぐ遑がなかつた《(た脱)》め、糖業は依然衰頽の儘であつたが、児玉総督の積極的施政方針が定まつて以来、飛躍的発展を遂げる機運に際会したのである。
 児玉総督は明治三十一年三月、内務省衛生局長より台湾総督府民政局長(同年六月より民政長官)に擢用せられた後藤新平氏を帯同して着任し、同年六月、各地方長官を総督府に召集して施政方針とも見らるべき訓示をなした。その要旨は政治機構を簡易にしてその運用を敏活ならしめ、治安上の禍根を除いて島民を安堵せしめ同時に財政の独立を図ることにあつた。しかしてこの方針達成のため、警察設備の活用、土地調査の実行、専売制の実施等が画策されたが同時にまた産業の開発が大きな項目をなしてゐたことはいふまでもない。
 当時、台湾産業の主要なるものは米・茶・砂糖・樟脳であつた。しかるに樟脳に就ては既に方針が決定し居り、茶は需要関係よりして漫然たる増産は望ましからず、更に米に至つては一躍集約の度を高めて増産することは時期尚早の事情にあつた。然るに砂糖は米と異り、農業生産物たる甘蔗に加工するものであり、改良を施すべき余地も遥かに多く、その品質を改善しつゝ増産することが可能なるのみならず、当時の状態としては増産によつて市場を混乱せしめる懸念なく、輸入防遏の国家的大局より観て寧ろ大いにこれを勃興せしめることが緊喫の必要事であつたので、糖業の奨励は産業政策の中心をなすに到つたものである。明治三十三年一月、総督府が米国滞在中の農学博士新渡戸稲造氏をして、諸外国の産業政策、特に糖政に関する施設を調査せしめたのもこの時である。
 児玉総督の糖業に対する抱負は、明治三十三年十一月二十九日、高雄・台南間鉄道開通式の席上行はれた演説に於てもその一半を窺ひ得るが、更に同三十四年十一月五日、総督官邸に於て為された殖産興業
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に関する訓示的大演説に依つて一層十分にこれを窺ふことが出来る。即ち
 「糖、是レ本島物産ノ大宗タリ。其ノ産出額嘗テ、一億斤ノ上ニ出ヅ、然ルニ輓近漸ク衰運ニ陥リ、所産年一年ヨリモ減ジ、殆ンド回復ノ期ナカラムトス。憶フニ斯業ノ盛衰、其ノ繋ルトコロ甚ダ大ナリ。須臾モ忽諸ニ附スベカラズ。是レ殖産改良ノ事業、之ヲ以テ首位ニ置ク所以ナリ。其ノ方法ニ至リテハ、玆ニ縷述スルニ遑アラズト雖モ、要ハ広ク良種ヲ海外ニ取リ、之ヲ本島ニ移殖シ、且ツ民ニ教フルニ栽培ノ法ヲ以テシ、又新式機械ノ利用ニ依リ、在来ノ製造法ヲ改メ、以テ其ノ品位ヲ高メ、生産費ヲ節シ、数年後、今ノ産スル所ニ倍蓰セシメムコトヲ期ス。今ヤ新ニ砂糖消費税法ノ施行セラルルアリ、当業者ハ一時負担ノ重ヲ喞ツ者アルベシト雖モ、一方ニ於テ著々改良ノ実ヲ挙グレバ、生産費ノ減少ト、糖価ノ上高トニ獲ルトコロノ利益ハ、優ニ之ヲ償ウテ余アルベシ。」
と。これによつて見るに徒らに旧套の墨守を排し、海外より優良蔗苗を輸入して大いに甘蔗農業の改善を図り、且つ新式機械の利用を以て砂糖の増産を期せられたことが明らかである。
 当時、台湾糖業の前途に対する方策については種々の議論があり、総督府内の枢要な部分に於ても、今遽かに新式の大規模組織を採ることは変化が急激に過ぎ、却つて目的を達し難き虞あり、寧ろ小規模の製糖法より始めて漸次大規模なるものに移るべしとする漸進主義の主張が相当強く行はれてゐた。かゝる間にあつて児玉総督は当初より新式機械による大製糖工場設立説を持し、着々調査準備を進ましめられた。即ち先づ総督府殖産課技手山田熙氏に命じて台湾南部糖業地の実状及び新式糖業創始に関する見込等を調査せしめ、且つ本事業の経営者に就て深甚の考慮をめぐらされた結果、遂に三井家をして衝らしむることとなり、こゝに愈々、我が台湾製糖株式会社設立の端緒が胚胎するに至つたのである。
 凡そ事業の勃興及び成功には、一般機運の醸成が必要なことは言を俟たない。
 我が台湾製糖株式会社の設立も、かゝる時運の昴場によつて出現したものには相違ないが、その有力な指導者は実に児玉総督であつたと言ふべく、台湾糖業発展の黎明は児玉総督の卓絶せる識見と決断とによつて、殊の外早く訪れることとなつたのである。
 現、当社々長武智直道氏は当時を顧み、児玉総督と新式製糖会社との関係を叙して左の如く言つてゐる。
 「製糖事業ガ今日ノ如キ盛況ヲ見ルニ至ツタ事ハ、ソノ淵源ヲ索ヌレバ実ニ児玉総督及後藤長官ノ当時ニ起ツタノデアル。台湾ガ我ガ国ノ領有ニ帰シテカラ四年ノ歳月ヲ経テ居ナガラ、当時尚ホ台湾糖ハ土人ノ手ニ依リ不完全ナル製糖機具(敢テ機械ト云ハズ機具ト云フ)デ造ラル赤糖ノミデ、而モ其出来高ニ至ツテモ僅カニ数千万斤ニ過ギナカツタ。又ソノ原料甘蔗モ極メテ不良不利益ナル劣等種、実ニ今日カラ見レバ想像モ及バヌ幼稚極マル状態ヲ呈シテ居タノデアル。処ガ児玉総督ハ糖業ニ関シテ非常ニ深ク考慮サレ、之ヲ進歩
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発達セシムル事ニ力ヲ用ヒラレタ。ヤガテ新式機械ヲ用ヒテ精良ナル砂糖ノ製造ガ称ヘラルヽ様ニナリ、更ニ非常ニ熱心ナル勧誘アリシ結果、遂ニ明治三十三年ニ台湾製糖会社ノ創立ヲ見ルニ至ツタノデアル。コレ実ニ台湾ニ新式分蜜糖工場ガ出来タ始メデアツテ、何レモ故児玉将軍等ノ力ニ依ツテ築カレタニ外ナラナイ。」
    二 台湾総督府と三井物産合名会社との交渉
 前途の如く、こゝに台湾糖業に於ける近代的発展の黎明期が展開せらるゝに至つたが、なほ物情騒然たる新領土に於て、未経験の新事業を起す危険を冒すには十分な資力と、事業経営に深き経験とを有する者の蹶起が必要である。かゝる見地から児玉総督は、台湾に放資して糖業の改善に衝る最適任者は三井家なりと考へられ、民政長官後藤新平氏にその旨を含め、同氏をして三井家との折衝を進ましめられた。
 後藤長官は明治三十二年十二月上京、翌年二月帰任の途につかれたが、その東京滞在中、台湾製糖業に就て三井物産合名会社専務理事益田孝氏に諮るところがあつた。これが三井家に話のあつた最初のものの如くであるが、そのとき後藤長官の談話の要旨は、
 一、台湾現今ノ石ノ搾取器械ヲ廃シ改良機械ヲ用フルコト
 一、其改良機械ノ糖汁製出力ハ二割方多量ナルコト
 一、三井ニ於テ其改良ノ任ニ当ルコト
等であつた。仍て益田氏は先づ日本精製糖株式会社専務取締役鈴木藤三郎並に同社々長長尾三十郎氏に意見を求めたところ、両氏共これに賛意を表するのみならず、鈴木氏は単に在来のものを改良する等の程度に止めず、更に資本金を増加し糖汁搾出よりこれを精製するまでの域に達せしむべきであるとの積極的な見解を吐露した。同氏は当時我が国精製糖事業界に重きをなし、製糖技術方面に於ける第一人者を以て目せられ、夙に欧州の製糖事業をも視察し帰途台湾にも立寄り、同地の糖業事情に就ても相当の深い知識を有してゐたのである。
 かゝる意見の開陳に接した三井家は、更に進んで具体的折衝に入ることとなつたが、恰もよし、その頃即ち明治三十三年三月、三井物産合名会社の営業部長福井菊三郎氏が、樟脳の件に就て渡台中であつたのを幸ひ、氏をして既に帰台されてゐた後藤長官に左の件々について交渉せしめたのである。
 一、資本金ヲ五拾万円トスルコト
   之ニ対シ参ケ年間年六朱ノ利子ヲ補給サルヽコト
 一、耕作改良及原料供給ニ差支ナキヤ
長官はこれに同意を表し、なほ左の如き答弁があつたといふ。
 一、利子補給ノ高ハ今年ハ壱万弐千円ヲ限リトスルコト
 一、来年ヨリハ右補給ノ割合ヲ申出ノ通年六朱トシ、実際使用ノ金高ニ割当ルコト、但最高ハ三万円ナルコト(即五十万円の六朱ニ当ル)
 一、鉄道ノ布設ニ尽力セン
 一、水租権ヲ有スルコトニ尽力セン
 一、糖業取調ノ為ニ技手山田熙ヲ壱ケ年間無給ニテ会社ニ勤務セシムルコト
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 一、其他随時十分ノ尽力ヲ為スコト
尤もこれ等を為すことに対する条件として
 一、八重山糖業会社ノ製造器械ノ石川島ニ在ルモノヲ三井ニ引受クルコト、但価格七万五千円
等の条々を示されたのである。こゝに於て三井側では、福井氏の帰京を待ち更に評議することとなつたが、同氏は四月一日の台南丸にて殖産課技手山田熙氏と同道帰京の途についた。山田氏は予て新式大規模製糖業を起すべきことを唱へ、既述の如く総督の命によつて、種々この方面の調査をなしてゐたので、台湾糖業の実況説明を兼ね、本件交渉のため特派されたのであつた。
 両氏の着京するや、山田熙・鈴木藤三郎・長尾三十郎・益田孝・上田安三郎・福井菊三郎の諸氏は偕楽園に会合して種々協議した。この席に於て山田氏は調査の結果を基礎として、在来のまゝの方法に依る甘蔗だけでも、原料の供給は十分である。何となれば従来は甘蔗より得る蔗汁量は五十パーセント(甘蔗に対する搾出汁の割合)であつたが、改良の機械を用ふれば八十パーセントを得られ、また上等の砂糖をも製出し得られる見込である。仮に砂糖十噸の製造機械を毎日十台及至十五台使用するも、原料に不足を感じないからであると説明した。
 総督府側の提出条件である八重山糖業株式会社の機械引受については、先づ機械の調査をなすことになつた。この機械類は既に述べた如く、同社が買入れた儘、据付を見ずして石川島に保管されてゐたものであるが、調査検分の結果、結晶鑵・圧搾機械・汽鑵等の重要品は別に新調の必要あり、結局価値不十分なことが判明した。因つて三井側ではかゝる効率の低い機械を引受ける条件が存する限り、交換条件として資本金に対する利子補給の年限を、更に二箇年延長して都合五箇年となす交渉を行ふことに決した。恰も明治三十三年五月、児玉総督が東上中であつたので、この接衝は極めて順調に運び、総督は、
 一、補給利子ノ年限ハ参ケ年トシ、五拾万円ノ六朱ヲ限度トスルコト、但会社営業ノ都合ニヨリ尚ホ弐ケ年補給スルコト
 一、今年ノ補給ハ壱万弐千円ヲ限リトスルコト
 一、器械ハ会社ニ於テ引受クルコト
 一、着手期ハ準備ノタメ明年ヨリスルコト
等を口頭を以て約された。なほこの計画実行のため、
 一、資本金高ヲ五十万年ノ株式会社トシ、成績良好ナレハ之ヲ増加スルコト
 一、株ハ可成大数トシ個々小数ニ分タサル方針
 一、三井家ニ於テ四分ノ一ヲ受持ツコト
 一、鈴木氏ヲ台湾ニ派遣シ実地検分・地所選定其ノ他万般ノ準備ヲナスヘキコト
迄打合はせ、創業準備は着々と進んだ。
    三 井上馨伯と当社創立計画
 当時三井物産合名会社専務理事の要職にあつた益田孝氏は、製糖会社設立の新計画に就て、常に井上馨伯に報告相談してゐた。伯は夙に
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台湾糖業に着目し、曩に明治三十一年、児玉総督台湾赴任の際、特にその振興を説かれた程で、謂はば斯業の発案者であるから、この計画には勿論大いに賛意を表され、「新規ノ製糖事業ヲ今日ノ台湾ニ創始シヨウトスルガ如キハ、全ク国家的ノ事業ニ属スル。普通一期半期ノ配当ヲ顧慮スル一般的株主ノ烏合ニテハ、事ヲ成ス所以デハナイ。宜シク予ガ三井家並ビニ毛利家ヲ説キ、此処ニ資本ノ中堅ヲ定メテ、三期・五期ノ損耗無配当ヲ予メ覚悟シテ当ラセヨウ」と、大いに激励すると同時に自ら斡旋の労を取られた。資本金は明治三十三年五月には五十万円と決定されてゐたが、後、井上伯は、鈴木藤三郎氏を招致して、同氏の資本金増額の発案を委細聴取された結果、こゝに百万円を以て台湾製糖株式会社創立の計画は決定した。かくて発起人としては益田孝・鈴木藤三郎・田島信夫・上田安三郎・ロベルト ウオルカー アルウヰン・武智直道・長尾三十郎の諸氏が立ち、愈々創立発起人会の開催となつたのである。
 井上伯は、かくの如く当社創立の産婆役として、更に創立後に於ても事業の基礎を確立するため会社自ら耕地を所有することの必要を説かれ、また金融関係について力を致され種々懇切に斡旋される等、その後援はまことに容易ならぬものであつた。武智現社長は、当社創立三十五周年を迎へた際、老侯の尽力、後援を偲びつゝ
 「井上老侯ハ当社ノ創立ニ尽力サレマシタ。一製糖会社ノ為トシテデハナク全然国家見地ニ立タレテヽ亡クナラレルマデ一方ナラズ尽力サレマシタ。ソシテドウモ日本ノ会社ハ繁昌スルカト思フト直グツブレテ困ル。台湾製糖ハドウカ株式会社ノ模範トナル様ニ仕度イモノダトノオ話ガ御座イマシタ。至極尤モナ事デ、コノ仕事ハ国家産業ノ為ニヤラウトイフ事ニナツタノデアリマス。又ソノ方針デ今日迄進ンデ来タノデアリマス。」
と述べてゐる。当社今日の隆盛は、会社当事者一同の不断の奮闘に因ることもさることながら、同時に井上老侯の後援指導に負ふところまた極めて大なることを銘記せねばならぬ。
  第二節 創立発起人会と創立経過
 明治三十三年六月十三日、第一回創立発起人会を兼ねた発起披露の宴が東京市麹町区有楽町三井集会所(今の三信ビルの傍)に開催せられ、台湾製糖株式会社設立の趣意書が発表された。当日の出席者は児玉源太郎・小沢少佐(名闕)・横沢次郎・三井三郎助・浦太郎・渋沢栄一・浅田正文・児玉少介・波多野承五郎・朝吹英二・福井菊三郎の諸氏、及び発起人田島信夫・武智直道・上田安三郎・益田孝・ロベルト ウオルカー アルウヰン・鈴木藤三郎の諸氏であつた。
    台湾製糖株式会社創立ノ趣旨
我台湾ハ由来砂糖ヲ産スルヲ以テ名アリ、然レドモ製糖ノ業ハ挙テ土民ノ手ニ委ネ、其製法ハ依然トシテ二百年来ノ旧態ヲ改メズ、品質粗製ニシテ内地ノ精製糖会社ハ已ムヲ得ズ遠ク其原料ヲジヤバ其他ノ地ニ求メ、斯島数百万円ノ富源ハ、空シク遺棄シテ省ルモノナキ有様ナリ、然レドモ惟フニ近世日進ノ機械ヲ利用シ、設備其宜シキヲ得バ斯業ノ将来豈有望ナラズトセンヤ、台湾総督府夙ニ見ル所アリ、苗種ヲ
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改良シ製法ヲ一新シテ斯業ヲ振興センコトヲ図ル、某等総督府ノ趣旨ヲ奉シ其保護ヲ仰ギテ玆ニ当会社ヲ創設シ、以テ国富ノ幾分ヲ増進センコトヲ期ス、江湖同感ノ諸士幸ニ此挙ヲ賛助セラレンコトヲ望ム
            発起人氏名住所
                アール、ダブリユウ、アルウヰン
                 芝区三田綱町七番地
                田島信夫
                 麻布区宮村町四十二番地
                武智直道
                 麻布区三河台町十四番地
                長尾三十郎
                 麹町区飯田町二丁目五十二番地
                上田安三郎
                 芝区三田一丁目四十三番地
                益田孝
                 府下荏原郡北品川宿三百十二番地
                鈴木藤三郎
                 府下南葛飾郡砂村元治兵衛新田四百卅二番地
この創立趣意書は字句こそ簡単ながらよく我が国勢発展の方向に棹さして、国富増進の幾分を負担せんとする意図を的確に表明したものである。この時、仮定款及び目論見書も作成せられ、会社創立事務所は東京市日本橋区坂本町四十三番地三井物産合名会社内に設けられた。目論見書の全文は次の通りである。
    台湾製糖株式会社目論見書
 一、台湾南県蔴荳ニ良好ノ地ヲ卜シテ工場ヲ設置シ、第一年度ニ於テハ製糖器械ヲ設備シ、一昼夜ニ弐拾噸ノ粗糖ヲ製スベキ設計ナリ
    一ケ年凡百弐拾日ノ営業ト見做シ二千四百屯、即チ四百〇参万弐千斤ノ粗糖ヲ得ル見込ナリ
 一、第一工場ニ於ケル結果ニシテ良好ナルトキハ尚ホ他ノ場所ニモ工場ヲ増設スル積リナリ
 一、原料ノ甘蔗ハ土民ヨリ買入ルヽモノトス
    但買入法ハ土地ノ習慣ニ従ヒ甘蔗代トシテ製糖ノ何分ヲ売主ニ与フルノ法ヲ採ルカ、又ハ甘蔗ニ含有スル糖分ニ依リテ代価ヲ定メ買入ヲナスカ、実地土地ノ情況ニ就キ其宜シキニ依ルモノトス
 一、時宜ニヨレバ進ンデ工場近傍ニ相当ノ耕地ヲ買入レ、小作人ヲシテ甘蔗ヲ栽培セシムルコトアルベシ
 一、速カニ専門家ヲ以テ調査ヲ為シ甘蔗ノ栽培ニ適スル未開懇地数千町歩ヲ引受ケテ、追テ適宜ノ方法ニヨリ開墾ニ着手スベシ
 一、製糖一ケ年ノ作業日数ハ百二十日トス
 一、当会社ハ株式組織トス
 一、資本金壱百万円也
    但此株弐万株(壱株金五拾円払込)
 一、第一期ニ要スル資金ヲ金五拾万円トシ、其支出概算左ノ如シ
 - 第11巻 p.258 -ページ画像 
    金五拾万円也
     内訳
     一金参拾五万参千円也 第一着手設計器械買入代
     一金九万七千円也 建築費
     一金壱万六千六百七拾円也 地所五万坪買入代(一坪卅三銭四厘ノ割)
     一金参万参千参百参拾円也 運転資金
      計金五拾万円也
 一、台湾総督府保護金ハ明治三十四年ヨリ五ケ年間、資本金五拾万円ヲ限リ年六分トシ損益ニ拘ハラズ年額金参万円ノ下附ヲ請願スル筈ナリ、尤モ本年中ニ払込ミタル資金ニ対シテハ金壱万弐千円ヲ受クル筈トス
 一、器械建築設計予算及営業予算ハ別紙ニ依ル(別紙ハ省略)
 一、創立総会ヲ了リ会社設立セバ直チニ新調スベキ器械ヲ注文スベシ
 一、工場ノ建築器械ノ送リ出等ハ順次之レガ着手ヲ為スベシ、新タニ欧州ヘ注文シテ製造スル器械ハ明年二月ニアラザレバ到着セザルベケレバ、営業ハ明年即チ明治三十四年秋ノ甘蔗ヲ以テ着手スルコトヽシテ万端ノ用意ヲ整フルモノトス
 一、株金払込ハ大略左之通
   第一回金弐拾五万円 総株金ノ四分ノ一
    是ハ創立総会前発起人ノ見計ヲ以テ払込マシムルコト
   余ハ器械代価ノ支払建築費等資金ノ入用ニ従ヒ、明治三十四年七月迄ニ払込ムモノトス
 一、株式引受ノ申込ヲナスモノヨリ証拠金トシテ一株ニ付金五円ヲ徴収ス
    但第一回払込ノ時ハ証拠金ヲ差引キ其残額ヲ払込マシム
○中略
 井上伯及び伊藤侯はまた華族・富豪間に於ける株式募集にも種々意を払はれた。やがて総数二万株は宮内省始め、各株主によつて引受けられ、証拠金(一株に付金五円)の払込も明治三十三年九月十日を以て結了した。第一回払込金は一株に付十二円五十銭即ち額面の四分の一、全徴収額二十五万円、取扱銀行は三井銀行本支店及び台湾銀行本支店としたが、払込期日たる明治三十三年十月二十日までにこれを完了した。創立当時の株主は左記九十五名であつた。
    明治三十二年十二月十日現在株主姓名表
   株数   住所    姓名
  一千株   東京   内蔵頭
  一千五百株 同    三井物産合名会社
  一千株   同    公爵毛利元昭
  七百五十株 台湾   陳中和
  五百五十株 東京   子爵吉川経健
  五百株   同    子爵林友幸
  五百株   同    原六郎
  五百株   同    田島信夫
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  五百株   東京   武智直道
  五百株   同    長尾三十郎
  五百株   同    上田安三郎
  五百株   同    益田孝
  五百株   大阪   藤田伝三郎
  五百株   東京   ロベルト ウオルカー アルウヰン
  五百株   同    鈴木藤三郎
  五百株   大阪   住友吉左衛門
○中略
  百株    東京   渋沢栄一
○下略
  第三節 創立総会
 明治三十三年十二月五日、東京市麹町区内幸町、東京倶楽部に最後の発起人会を開催し、創立総会に関する一切の準備は完了した。依つて同十二月十日、同市日本橋区坂本町、東京銀行集会所(現坂本公園南隅)に於て創立総会を開催した。出席株主総数委任状共七十名、この株数一万七千三百株であつた。
 創立総会は益田孝氏、会長席に着き、定款確定の件、創立費認諾の件、重役俸給額決定の件、取締役及び監査役選挙の件等を議定した。
○下略
   ○創立総会ニ於テ選挙セラレタル取締役及監査役左ノ如シ。
     取締役 鈴木藤三郎 益田孝 陳中和 田島信夫 武智直道
     監査役 長尾三十郎 上田安三郎 岡本貞烋
    尚取締役ノ中、鈴木藤三郎ヲ社長ニ互選シ、又ロベルト ウオルカー アルウヰンヲ相談役ニ推薦セリ。
   ○当会社ノ引受ケタル八重山糖業株式会社ノ製造器械ニツキテハ本巻所収ノ「八重山糖業株式会社」明治三十一年八月二十日ノ項(第二二二頁)参照。



〔参考〕世外井上公伝 第四巻・第七〇〇―七〇六頁 〔昭和九年五月〕(DK110042k-0004)
第11巻 p.259-261 ページ画像

世外井上公伝 第四巻・第七〇〇―七〇六頁〔昭和九年五月〕
 ○第三章 実業の振興
    第四節 会社の援助
○上略 公は既設諸会社の振興に心を注いだばかりでなく、更に進んで国家経済の大局から観て、必要な諸会社の創設をも慫慂したのである。即ち台湾製糖会社の如きがそれである。台湾製糖会社の創立に就いては、既に三十一年、公が大蔵大臣当時、我が国の輸入糖額が年々増大してゐる現状を見て之を遺憾とし、折柄新総督に任じて渡台しようとする児玉源太郎に台湾将来の経綸を説き、在来の糖業に改革を加へると同時に、斯業を益々盛大ならしむべき必要を説いたことがある。公のこの意を含んで渡台した児玉は、民政長官後藤新平と共に、大いに斯業を改革奨励する所あり、且つ一方に於ては総督府直接援助の下に機械力に依る新製糖工場を南部台湾の地に創立しようとの計画を立てるに至つた。
 これ迄同地は、砂糖・米・茶・樟脳の台湾ではなくして、土匪蜂起
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の台湾であつたがために、地味気候共に諸作物の栽培に適してゐるにも拘らず、割譲後数年間はその儘放擲して省みられなかつた。甘蔗栽培も同様であつて、唯僅かに劣等種の甘蔗を栽培し、旧式の方法に依り低級の砂糖数百万ピクルを製造するに止まつてゐたのである。公は国家経済上より之を頗る遺憾とし、前述の如く国産奨励の意味に於て児玉総督にもこの意を示したので、児玉は後藤と共に一大決心を以て右の計画を立てたのである。
 児玉はこの計画を立てると共に、使者を派して先づ三井物産会社に謀らしめた。由来新領土に於ける新企業には種々不期不測の危険障害を伴ふものである。当時の台湾も亦さうであつて、この未経験の土地に於ての新企業に当たるものとしては資力と経営の経験から三井物産会社を措いて他になかつたのである。物産会社に於ては企業的先見の明のある益田孝が児玉よりこの計画を得て、更に当時精製糖事業界に重きをなしてゐた日本製糖会社社長鈴木藤三郎《(精製糖)》に謀つたところ、鈴木はこの計画は至極面白い計画である。台湾は将来必ず東洋産糖地の一となるであらうとの意を述べて同意し、なほ資本の増額を必要とする旨を附加した。鈴木は夙に欧州製糖業視察の帰途、台湾に立寄つて同地の甘蔗栽培上の知識を相当有して居り、既に述べた公の諸工場巡視に当つて日本製糖会社視察の際、大いに斯業の熱心を公に認められ、爾来公の助言援助を受けてゐる間柄にあるものである。
 偖、益田はこゝに於て意を強うし、愈々之に関する一切の案を具して公を訪うた。公は斯業の発案者である故固より大いに賛意を表し、「新規の製糖事業を今日の台湾に創始しようとするが如きは、全く国家的の事業に属する。普通一期・半期の配当を顧慮する一般的株主の烏合にては、事をなす所以ではない。宜しく予が三井家並びに毛利家を説き、此処に資本の中堅を定めて三期・五期の損耗無配当は予め覚悟して当らせよう。」といつて公は大いに奨励する所があつた。而も公は更に鈴木を招致し、資本増額の発案に就いて委細聴取し、こゝに先づ百万円を以て台湾製糖株式会社創立の計画は決定せられた。時に三十三年秋のことである。
 初め益田が新計画を公に具申した時、公は、「之に当るものは鈴木の外にない。君は既に鈴木に社長就任の承諾を得てゐるのであらう。」といつて尋ねた。併し益田はまだその承諾は得てゐなかつたので、直ちに同人に交渉した所、鈴木は精製糖事業多忙を極め、他を頗る暇なしとして之を辞退した。益田は公の性格を知つてゐるので、再三懇嘱して漸くその承諾を得たと伝へられてゐる。
 益田・鈴木より新計画を聴取して賛同した公は、その後毛利家・三井家を自ら説いて中堅的資金を出さしめた後、更に岡本貞烋をして華族・富豪の間に奔走せしめた。その結果多数の同意者を得、遂に同年十二月十日の創立総会、翌三十四年一月五日の大株主協議会の開催とまで進捗した。この協議会に於て公は一場の演説を試み「予は本社の株主でも役員でもないが、最初本会社の発起人に向つて斯業の有望なること、並びに之を大にしては我が国経済上に大関係を有する有益な事業であるから、是非成功させたいとの希望を述べて置いた。されば
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その後も種々の点で督励して来たが、本社が成立したに就いては、徳義上将来参考となるべき注意並びに希望を陳べたい。」と冒頭して我が国輸出入の現状を説明し、輸入超過よりして兌換券が不換紙幣となる虞れがあるので、正貨の流出を防ぐには是非とも生産事業を奨励発達せしめなければならぬ。それにはこれが第一策として、先づ台湾で砂糖を製造し、我が国の需要を満たさしむべきこと、又之に伴うて甘蔗農業の改善、新式機械に依る製造の緊要なるべきことを説き、且つ本社は徒らに配当の過多なることのみ拘泥せず、その基礎を鞏固にし、大いに耕地の買収を行ふべきこと等を懇々力説し、併せて台南地方の開発・高雄の築港等にまで言及した。
 この両会合は、又別に耕地買収の件をも附議決定すべき会合であつた。公は夙に農業上には深い趣味を持ち、殊に甘蔗農業に就いては多大の関心を有してゐたのであるが、この会社も初めには農民から製糖原料としての甘蔗を買収し、会社は単に工場のみを所有して製糖に従事することになつてゐた。併しそれでは事業基礎の確立は保障出来ないだらうとの見地から、公は会社自ら土地を所有して、自作農場を設け、甘蔗の栽培を中心として会社を経営するの得策であるとして、耕地買収の件を前記創立総会に提案せしめ、次いで株主協議会に附議決定を見た訳であるが、この事に就いては公は前の演説中に於て述べてゐる。その後会社は良く公の意に則り、更に耕地を拡張し資本を増額し、以て後年の財界逼迫、金融硬化に際会しても、なほ社運隆盛に赴き、現在は三万五千町歩以上の耕地を有し、資本金二千五百余万円を擁してゐるのは、会社当事者一同の不断の努力に依ることは勿論であるが、一面同社の産婆役であつた公に負ふ所も亦少くない。
 かく会社が堅実となつたについてこゝに一挿話がある。公の持論としては、株式会社は社会的意義の上から株主にのみ徒らに多額の配当を為すべきものでない。当時の金融から考へて内地ならば一割、植民地ならば一割二分位の程度を穏当とする。而してその会社の堅実を図り社員及び下層関係者の優遇を謀るべきであるとのことであつた。依りて同会社は公の訓戒に則つて、数年間、一割二分の配当を継続して来たが、その後会社の利益も大いに増加したので、一割四分の増配をした。然るにこの増配が公の本旨に戻つてゐたので、公の喧しい叱言が出て、将来増配罷りならぬとの申渡があつた。これには重役一同も恐縮した。それで次期に於ては前期よりも一層利益が多かつたにも拘らず、配当は一割二分に引下げることになり、会社は一般株主に対してこの減配の理由を説明するのに大いに閉口したと伝へられてゐる。


〔参考〕台湾製糖株式会社史 第八―一九頁〔昭和一四年九月〕(DK110042k-0005)
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台湾製糖株式会社史 第八―一九頁〔昭和一四年九月〕
 ○当社沿革の大要
    四 創業時代
 当社の創立に先だち明治三十三年十月、初代社長鈴木藤三郎氏は後の支配人山本悌二郎氏と共に渡台して実地踏査の結果、台南県僑仔頭庄(今の高雄州橋子頭)に、一昼夜甘蔗圧搾能力二百五十英噸の工場を建設することに決し、同三十四年二月、即ち創立二箇月後に工場建設
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工事に着手した。同時に原料甘蔗の一半を自給するの必要且つ有利なるを察して、橋子頭附近に一千余甲歩(一甲は九段七畝二十四歩に当る)の土地を買収し、此処に農場を経営し社業遂行の案固を図ると共に、模範的甘蔗農業を行つて地方農民を指導することとした。この土地所有方針は創業以来一貫不動の社是として今日に及び、現在所有土地面積は四万九千二百六十七甲(昭和十四年六月現在)、広袤三十三平方里余にしてほゞ和歌山県又は香川県の耕地面積に匹敵する程の大を成すに至つた。
 当時支配人として現地に於て悪戦苦闘した山本第三代社長は、その頃を追懐して困難といへば総てが困難であつたと語られたが、洵に社業の遂行には一つとして困難の伴はないものはなかつた。先づ交通運輸不便のため、機械・建築材料の運搬など、今日に於ては到底想像も及ばぬ種々の障礙に遭遇したのである。
 即ち当時の打狗港は築港工事などは施されて居らぬので、積荷は波浪高い港外二・三海里の処で沖取りするの外なく、汽車も亦纔かに高雄・台南間一日二往復あるに止まり、停車場の設けすら無い橋子頭にて建築材料の如き重量貨物を荷卸するのは実に容易ならぬことであつた。しかし努力の苦心は報いひられて、工場建設工事は意外に順調に運び、明治三十四年十一月には機械据付も完了し、十二月中実地的試運転を行ひ、翌三十五年一月十五日には芽出たく操業を開始し、こゝに近代文化の産物たる大規模新式製糖工場が力強く運転されはじめたのである。
 当社社標は社名の頭字TSを組合せ、同時に昇る旭日を象徴させたもので、洵に当社の使命抱負にふさはしく当を得た着想であつたと思はれる。
 当時、使用した原料甘蔗は附近農民の栽培した在来種を買収したのであつて、収穫量・含糖分共に極めて少ない劣等品であるばかりでなく、農民は会社に原料甘蔗を供給したことがないため、兎角受入に円滑を欠き延いては工場の運転にも齟齬を来たす結果を招いた。その上社員及び職工を得ることも困難にて、折角苦心の末之を得ても、相次いで疫癘に冒され昼夜継続作業の場合の如きは、交代して貰ふにも代りの者も無く、已むを得ず不眠不休、連続勤務するの状態で、時としては製糖作業の継続が不能に陥らふとしたことさへあつた。
 加ふるに土匪の襲来したことも一再に止まらなかつた。これが為め工場の周囲には土壁を繞らし、事務所の屋上には万一の場合に備へて大砲を据付得る設備を施し、屋上並に階下廻廊には、銃眼を穿ち、一方、陸軍分遺隊の駐屯を請ふと共に社員職工中から選抜した百有余名の義勇団を常備しつゝ製造に従事しなければならぬ有様で、その危険と困難とは全く言語に絶するものがあつた。しかし我が従業員は斯る苦境の中にこの危険を冒しながら、精励苦闘、よく操業を続け以て今日の基礎を築いたのであつた。
 操業方面は上述の如くであつたが、当時我が国の金融は一般に円滑を欠き、特に危険視せられてゐた台湾への金融の如きは、当社の事業に相当理解ある斯業者すら尠なからず躊躇する状態とて、此の方面で
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も亦一方ならぬ苦心を要した。丁度此の頃三井銀行の営業部に居られた前大蔵大臣池田成彬氏は、当社の社債百万円募集に尽力することとなり、一流銀行の代表者に参集協議を求めたところ、その席上某銀行頭取の如きは「一たいそんな会社は何処にあるのか」といふ始末で、募債は遂に成立しなかつた。「一流の銀行家でさへ斯ることを平気で言はれる時代もあつたものだ」と、同氏は最近、武智現社長に述懐せられたが、この一事を以てしても当時の状況を察知し得るであらう。また火災保険会社の如きも、当社の工場に保険を附けることを極力回避する状態にて、今にして思へば全く夢物語に類するものである。しかしかゝる事情であつたにも拘らず、株金は常に遅延なく払込まれ、予定の事業は何等の支障なく着々進捗した。当社が斯く後顧の憂ひなく企画経営に邁進し得たことは、株主各位の理解と、熱心なる後援とに由るものにて、この美はしくも円満なる関係は、爾来今日に至るまで毫も変ることなく、実業界広しと雖もかゝる類例は容易に之を他に求め難いであらう。
 製品の販売もまた困難であつたが幸ひ糖商は最初から好意を以て尽力し、明治三十五年九月には三井物産合名会社と製品一手販売(内地全部)契約を結び、今日の如き確実な販売方策の端緒が開かれたのである。
 かくして事業は年月と共に確乎たる発展の途を辿り、創立当初二百五十英噸の工場能力は、僅に五年後の明治三十八―三十九年度には既に六百五十英噸となり、曩に世人から危惧の眼を以て観られた当社の事業、延いては台湾糖業に対する懸念も雲散霧消し、前途有望なことを認識せしめ得るに至つた。
    五 第一回増資
 是に於て当社は益々社業の刷新発展のため、海外糖業地の状況を研究して参考に資すべく、日露戦役の未だ終らぬ明治三十八年、常務取締役山本悌二郎氏並に農事製造に関する機・化・農の三技師を布哇に赴かしめ、詳さに糖業を視察せしめ、大いに啓発せられるところがあつた。爾後農場・工場・運輸等各般の新施設に対して、この知識の応用せられたもの頗る多く、実にこの布哇視察こそは日露戦後の当社事業大拡張に有力なる準備となつたものである。
 以上の如く社業の前途に対して十分な見極めがついたので、従来の橋仔頭工場に隣接して、布哇式による第二工場(能力四百米噸)を併設すると共に、原料製品等の運搬のため蒸汽機関車による三十吋軌幅専用鉄道を敷設し、尚副産物たる糖蜜を原料とする独逸式酒精工場をも同地に設置することとした。また一方、後壁林には模範農場と一千米噸の第三工場を建設する等のため、明治三十九年八月資本金を五百万円に増加し、玆に劃期的一大躍進を見ることとなつた。
 橋仔頭第二工場は、明治三十九年八月、建設準備に着手し、翌四十年末には早くも鉄骨建築・四重圧搾・四重蒸発缶の設備を有し、内容外観共に台湾に於ける最新式工場の先駆をなす工場を完成して直ちに作業を開始した。
 酒精工場は明治四十年五月建設に着手し、同四十一年四月操業を開
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始した。
 これまた台湾に於て糖蜜を原料とする酒精工場の嚆矢となつたものである。
 橋仔頭の専用鉄道は、機関車・貨車の外に、電話線をも備へたもので、明治四十年十一月完成した。これが当社専用鉄道の濫觴であり、同時に台湾に於ける三十吋軌幅専用鉄道の初めのもので、牛舎・台車等にのみ依つてゐた従来の甘蔗輸送方法に比し、全く劃期的のものであつた。
 当社に於ては創業開始当時すでに橋仔頭に自営農場を設けたが、明治四十年には、更に鳳山庁下後壁林(現高雄州下)に模範大農場を開設し、大農式経営に適するやう耕地の区劃整理を施し、我が国最初の試みとして蒸汽犁《スチームプラウ》を用ひて深耕を行ひ頗る良好な成績を挙げた。後壁林農場は今日でも国内に類例を見ぬ程の大農場にて、経営は益々合理化され、農学とその実際方面とに寄与するところ大なるものがある。
 後壁林工場は、高雄の内海に臨み、広漠たる農場の中心に建てられた、鉄骨亜鉛板葺三階建、圧搾能力一千米噸の大工場にて、明治四十二年一月製糖を開始した。
    六 日露戦役後の大拡張時代
 翻つて台湾糖業の一般状況を見るに、明治三十五年六月、糖業奨励規則が発布せられ、十年計画の下に臨時台湾糖務局が開設せられ糖業政策が確立した結果、台湾本島人の出資に依る小資本の製糖会社が相次いで起つたが、不幸にして孰れもその成績は挙らなかつた。幸ひ当社は既に開拓試験時代を順調に経過し、明治三十三年以降毎年継続下附せられてゐた、総督府の補助金は、愈々三十八年度を以て終了したが、最早さしたる影響を受けないまでに整備発達してゐたのである。
 他方、明治三十八年六月、製糖場取締規則が公布せられ、原料甘蔗採取区域制が確立され、不安と煩雑とを極めた原料の需要供給関係が統制されるに及び、製糖業者・蔗農民相互の悩みは消失し、共存共栄を楽しみつゝ安心して事業計画を樹立、遂行し得るやうになつた。この制度は一製糖場毎に一定の採収区域が限定せられ、区域内に生産される甘蔗は、原則として指定製糖場以外に売渡すことを得ず、又当該製糖場はその区域内の甘蔗は相当代価を以て一定期間内に全部買収する義務を負ふことを趣旨としたものであるが、決して区域内に蔗作を強制するものではない。随つて製糖場は区域内の蔗作者を指導誘掖して、蔗作を奨励する必要が起るのである。
 台湾糖業が本格的軌道に乗り、将に一大躍進を遂げんとする時、国運を賭して戦つた日露戦役は我が大勝を以て局を結び一般企業熱は勃然として起つた。製糖会社も明治三十九年以来四十三年末までに、明治製糖株式会社・東洋製糖株式会社の創立、大日本製糖株式会社の台湾分工場新設、既設塩水港製糖株式会社の組織変更、林本源・新高・帝国及び英国資本系のザ フオルモサ シユガー エンド デベロツプメント コンパニー リミツテツド(The Formosa Sugar and Development Company, Ltd.)等の諸会社も亦大組織を以て創立せられ、台湾糖業は忽ちにして帝国の重要産業たるに恥ぢざる地歩を占め、砂
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糖の自産自給も真に近きにあるを思はしむるに至つた。この勃興時代に於ける当社は、前述の橋仔頭第二工場・酒精工場・後壁林工場の建設及び模範大農場の開設等に次で、更に一段の躍進を遂げ、明治四十四年頃迄は実にめまぐるしい程の忙さが続いたのである。
 即ち台湾南部の旧阿緱庁下に展開する渺々たる沃野は、古来・米・砂糖の産地として有名であり、当社は創業当時より夙に此の地に矚目しながら、未だ之れに手を延べる機会を得なかつたが、愈々この地に製糖工場を建設するの急務たるを認めるに至つた。由つて当社の株主が其の株式の大部分を引受けて、新たに資本金五百万円の大東製糖株式会社を創立し、次で明治四十年四月、之を合併して当社の資本金は一躍して一千万円となつた。こゝに於て直ちに圧搾能力千二百米噸の阿緱工場建設に着手し、翌四十一年末には早くも製糖を開始したのである。
 下淡水渓は河幅実に二哩半に及ぶ台湾屈指の大河であるが、一つの橋もなく交通上多大の支障となつてゐた。当社は進んで之に一大架橋工事を施し、三十吋軌幅専用鉄道を通じて、一般旅客貨物の輸送並に阿緱工場建設材料、製品等の運搬を実行した。
 同渓は雨季毎に汜濫して交通を杜絶せしめたため、台湾南部に於ける文野の一劃線となり、その東岸地域は西岸地域に比して、人文の発達、産業の開発共に甚だしく遅れ、殆んど別世界視されてゐたのであるが、この鉄道の開通により情勢は全く一変するに至つた。かゝる会社専用鉄道による旅客貨物の運輸は実にこの時に其の端を発したものである。
 是れより先、当社橋仔頭区域に北隣し台南庁下曾文渓にまで及ぶ広大な原料採取区域を擁する台南製糖株式会社があつた。当社は将来の発展上、同社を合併するの有利なことを認め先づ商法の規定により資本金二百万円を以て、別に同名の台南製糖株式会社を創立し、旧会社の事業全部を承継せしめ、然る後明治四十二年八月これを合併した。その結果当社の資本金は更に増加して一千二百万円となつた。更に明治四十三年十二月には阿緱工場を拡張し、同時に第二酒精工場をも同所に併置し、また台南府(今の台南市)の南郊、車路〓《しやろけん》に能力一千二百米噸の製糖工場設置及び原料輸送設備、その他諸般の改良事業等を行ふため、資本金倍加の決議をなし、総資本金額二千四百万円となつた。
 阿緱工場の拡張工事は、明治四十三年十一月落成して、能力三千米噸、東洋一の大工場となり、車路〓工場も亦、四十三年十月下旬落成し、阿緱酒精工場は独逸最新式の設備を以て四十四年五月竣工、夫々直ちに操業を開始した。
 明治四十四年に至り英国系資本の経営になる二工場、即ち台南庁下三崁店に於けるザ フオルモサ シユガー エンド デベロツプメント コンパニー リミテツド製糖工場(能力八百五十英噸)及び同庁下鳳山に於けるザ ベイン エンド コンパニー(The Bain & Company)所有の製糖工場(能力三百英噸)合併の議が起つた。これがため先づ該工場財産を以て新に資本金百五十一万円の怡記製糖株式会社を組織
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せしめ、同年十一月これを合併し当社の資本金は更に増加して二千五百五十万円に達した。
 かくの如く相尋いで工場の新設、拡張せらるゝに随ひ、機械の修理製作等の一部を自営とする必要上、明治四十二年三月橋仔頭に鋳物工場を建設し我が国最初の甘蔗圧搾機用転子《ローラー》セルの鋳造に成功した。この工場はその後高雄に移転し、漸次拡大して同業他社の仕事をも引き受けるに至つたが、大正八年当社はこれを閉鎖し、新に設立された株式会社台湾鉄工所によつて経営されるやうになつた。爾後同所は次第に発展して今日では台湾糖業のため必須の鉄工所となつてゐる。
 尚ほ当社は精製糖工場をも兼営することの有利且つ必要なるを認め明治四十四年十二月、神戸精糖株式会社神戸工場の買収を完了し、精製糖界に進出することとなつた。
 これまで我が本社は思ひ出多き発祥の地橋仔頭にあつたが、事業の急激な拡大の結果、社業統制の便宜上、明治四十四年二月十一日、之を高雄に移転した。この後阿緱大平野開拓の意図の下に大正九年十二月十日、更に阿緱街(今の屏東市)に移転し、以て今日に及んでゐる。