デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
9節 麦酒醸造業
1款 ジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテッド
■綱文

第11巻 p.340-346(DK110051k) ページ画像

明治18年2月(1885年)

是月栄一、後藤象二郎・岩崎弥之助・増島六一郎・独逸人カールローデ等内外人ト共ニ出資シ、横浜ニ於テ米人コープランドノ経営スル麦酒醸造所スプリング・ヴァレイ・ブリユワリーヲ継承シ、新タニ株式組織ヲ以テ資本金五万弗ノジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテッドヲ設立ス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一七六―一七七頁 〔明治三三年六月〕(DK110051k-0001)
第11巻 p.340 ページ画像

青淵先生六十年史(再版) 第二巻・第一七六―一七七頁〔明治三三年六月〕
 ○第三十七章 麦酒醸造業
    第二節 キリン麦酒
ジヤパンブリユーエリー、コンパニー(日本麦酒醸造会社)ハ横浜在留外国商人ノ設立スル所ニシテ所謂麒麟ビール是ナリ、法学士磯野計明治屋ト称スル商会ヲ開キ頗ル其販売ヲ力ム、広ク東洋諸国ニ輸出シ内地ニモ弘マリ、名声一時ニ高シ、麦酒ノ広告ヲ盛大ニスルコトハ、蓋シ麒麟ビールニ初マル、外国商人等内外共同シテ業ヲ起スノ利アルヲ認メ、先生ヲ勧メテ株主トナシ、明治二十二年七月推選シテ理事員トナス、後二十九年十二月ニ至リ、先生繁劇ナルヲ以テ理事員ヲ辞シ又株主ヲ止ム
   ○右ニ「又株主ヲ止ム」トアルモ、他ニ資料ヲ得ザル故其ノ年月ヲ明ラカニセズ。明治二十九年当会社資本金ヲ六十万円ニ増資シ会社組織ヲ改メタルニ照合シテ、或ハ理事員辞職ト同時ニ株主ヲモ止メタルモノナランカ。本款明治二十二年七月ノ項(第三四六頁)参照。


横浜市史稿 産業編・第六六六―六六八頁〔昭和七年一一月〕(DK110051k-0002)
第11巻 p.340-341 ページ画像

横浜市史稿 産業編・第六六六―六六八頁〔昭和七年一一月〕
 日本麦酒醸造の先鞭を著けたコープランドは、我国将来麦酒業の必然的発達を予想し、事業拡張且つ醸造能力の増進を必要とし、十八年二月、之を内外人共営の手に移し自己は一株主として醸造法の研究に専念した。この月、スプリング・ヴアレー・ブリユワリーの一切の権利義務を継承して設立されたのは、ジヤパン・ブリユワリー・カンパニー・リミテツドである。その発起人は後藤象二郎・岩崎弥之助・増島六一郎・渋沢栄一・益田孝・カールローデ、其他著名の内外人であつて、玆に始めて資本金五万円、一箇年の醸造高二千石に達する一小会社の設立を見るに至り、其製品は新に麒麟麦酒と命名して市場に出されたのである。このジヤパン・ブリユワリー・カンパニーの設立こそは、久しく暗雲低迷の状態にあつた我が麦酒醸造事業に一転期を劃したものである。即ち設立と共に横浜の独逸輸入商カールローデの事に依つて
 - 第11巻 p.341 -ページ画像 
独逸製の最新式醸造機械を購入し、独逸技師を本国より招聘して、純然たる独逸式の麦酒を醸造するに至つた。其結果として輸入麦酒の駆逐と共に、輸出麦酒としても亦顕著なるものになつた。当時一般に火入殺菌を打つてゐた我国麦酒醸造業に対して殺菌機を知らしめたるもジヤパン・ブリユワリー・カンパニーであつた。
 斯く我国麦酒醸造の先駆を為した麒麟麦酒は、二十九年株式組織に改め、資本金を六十万円に増資し、同時に香港で登録した商標を、此時以来我国の商標登録に移し、玆に始めて、日本国籍を有する「麒麟麦酒」と成つたのである。
 明治三十二年、ゼ・ジヤパン・ブリユワリー・カンパニー・リミテツド(日本醸造株式会社)と改称し、同三十九年、更に資本金百二十万円に増資し、越えて日露戦役後国運の発展と共に、同四十年二月二十三日、更に又工場拡張の必要に迫まられ、近藤廉平、其他数氏の発起となり、同社の権利義務を継承して、資本金二百五十万円に増資して麒麟表酒株式会社と改称され、「横浜麦酒」と呼ばれて全国的に汎く賞味せらるゝやうになつた。○下略


(麒麟麦酒株式会社)工場巡り(DK110051k-0003)
第11巻 p.341 ページ画像

(麒麟麦酒株式会社)工場巡り
    当会社ノ沿革
○上略
一、明治十八年後藤象次郎・岩崎弥之助・増島六一郎・渋沢栄一・益田孝、カールローデ、ベルツ、カークウード、グラバ氏其他内外紳士出資ノ下ニ、資本金五万弗ノ株式組織ニ改メ、「ジヤパン・ブリユワリー・コンパニー・リミテツド」ヲ設立シテ香港ニ於テ登録シ、前記事業ヲ継承シ、之ガ経営ノ衝ニ当リタルハゼードツツ、エフ・エス・ゼームス、エル・ヒーリング、シー・ビー・バーナード氏等ニシテ、此時現キリンビールノ商標ヲ市場ニ出スニ及ビ販路忽チ開ケテ輸入防遏ノ実ヲ挙ゲタルノミナラズ、進ンデ東洋各地ヘ輸出ノ魁ヲナスニ至レリ
一、明治二十九年ニハ資本金ヲ六拾万円ニ増資シ、同三十二年ゼ・ジヤパン・ブリユワリー・コンパニー・リミテツドト改称、同三十九年資本金百弐拾万円ニ増資ス
○下略
   ○栄一等ノ設立セルジャパン・ブリュワリー・カンパニー・リミテッドノ資本金ニ関シ「横浜市史稿」ハ五万円ト記セルニ対シ「当会社ノ沿革」ハ五万弗ト記セリ。当会社ハ香港ニ於テ登記シタルヲ以テ、貨幣単位ヲ弗ニ採リ、五万弗トナシタルモノナルベシ。



〔参考〕麒麟麦酒開源記念碑(DK110051k-0004)
第11巻 p.341-342 ページ画像

麒麟麦酒開源記念碑
安政五年、徳川募府が独断専行して国を開くや、欧米人続々として横浜に来りしが彼等は居留地と称せらるゝ一区域の中に居住す、天沼は此居留地に属し嫩草斜に連り、喬木短樹其間を点綴し清泉滾々として崖下に湧き、気清く風軟かに一幅春園の画の如し、明治五年米人ダブリウー・コブランド此処に工場を建設し、スプリング・ヴアレー・ブリ
 - 第11巻 p.342 -ページ画像 
ユワリーと称して麦酒を醸造す、是れ日本に於ける麦酒醸造の開源にして今日の麒麟麦酒株式会社の前身なりとす、明治十八年後藤象次郎伯・岩崎弥之助男・増島六一郎博士・渋沢栄一子・益田孝男・カークウツド、グラバ、ベルツ、カールローデの諸君唱首となつて同志を糾合し、ジヤパン・ブリユワリー・コンパニーと称する合資会社を起してスプリング・ヴアレー・ブリユワリーの事業を継承し、始めて其醸造する厘酒に麒麟麦酒と命名す、明治二十九年更に之を株式会社に改め、ゼ・ジヤパン・ブリユワリー・コンパニー・リミテツドと命名し、前年香港政庁に登録したる事業を日本政府に登録す、明治四十年豊川良平・近藤廉平男・米井源治郎・瓜生震・田中常徳・高木豊三・高田正久・草郷清四郎・今村繁三・磯野長蔵等の諸君主唱して麒麟麦酒株式会社を起し、ゼ・ジヤパン・ブリユワリー・コンパニー・リミテツドの事業を継承して以来資本を増加して事業を拡大し、天沼工場のみにても地域七千五百九十八坪に達せしが、大正十二年の震災に遭ふて工場を鶴見に新築し、之より更に事業を伸張し、満洲・朝鮮にまで分工場を増設す、其初居留外国人の需要に応ずるがために醸造せられたる麒麟麦酒は、其風味と香旨により国民的飲料となりて全国に弥漫し、外国品の輸入を防遏するのみならず却て外国に輸出せらるゝに至る、始めて日本の土を踏む外国人等甕中の玉液を汲み盞内の金波を傾け、図らざりき、日本またミユンヘンビールあり、ガムブリナスの神は扶桑の地をも祝福するかと嘆賞するに至る、麒麟麦酒の発達の跡を見るに一粒の種子が生長繁茂して亭々たる参天の大樹となり、朝暉を受けては丘陵を掩ひ夕陽を負ふて江海を翳ふに至るが如し、今麒麟麦酒株式会社が其発祥の地たる天沼に記念碑を建つるに会ひ、文を撰して其事を誌るす、之を読む者必らず麒麟麦酒株式会社発達の歴史は、日本国勢開展の歴史と其軌を一にするを感ぜん
  昭和十二年一月       竹越与三郎撰 野本白雲書


〔参考〕(麒麟麦酒株式会社)工場巡り(DK110051k-0005)
第11巻 p.342-343 ページ画像

(麒麟麦酒株式会社)工場巡り
    当会社ノ沿革
一、明治五年未ダ日本人ガ麦酒ヲ魔法ノ水ナリト驚嘆セシ時代、米国人コプランドト云フ人ガ横浜山手天沼ニ於テ「スプリングバアーレーブリユワリー」ノ名称ノ下ニ初メテ麦酒ヲ醸造ス、之レ即チ本邦最古ノ歴史ヲ有セル我キリンビールノ前身ナリ
○中略
一、明治四十年、豊川良平・近藤廉平・米井源治郎・瓜生震・田中常徳・高木豊三・高田政久・草郷清四郎(以上故人)今村繁三・磯野長蔵氏等ノ発起ニテ資本金弐百五拾万円ノ麒麟麦酒株式会社ヲ横浜ニ設立シ、事業ノ一切ヲ継承シ此時以来日本人経営ノ衝ニ当リ、規模愈拡張セラレ事業一層盛大ヲ加ヘ、品質ノ改善ニ伴ヒ声価益高マルニ至レリ
一、大正六年資本金ヲ五百万円ニ増額シ、兵庫県神崎ニ神崎工場ヲ新設ス
一、大正十二年資本金壱千万円ニ増額シ、同年更ニ壱千八拾万円ニ増
 - 第11巻 p.343 -ページ画像 
資シ、仙台市ニ於ケル東洋醸造株式会社ヲ合併シテ仙台工場トナセリ
一、同年関東地方大震災ニヨリ横浜工場(本社)烏有ニ帰シ、翌十三年横浜市生麦ニ地ヲ卜シ横浜工場ヲ復興建設セリ
一、昭和三年横浜工場内ニ清涼飲料水工場ヲ新設シ、キリンレモン、キリンサイダー、キリンシトロン、キリンタンサンノ製造ヲ開始セリ
一、昭和四年横浜工場隣接地ニ製壜工場ヲ新設シ、自給自足ノ設備ヲ整ヘタリ
一、昭和七年ニハ酵母剤アミターゼ並ニキリン・スタウトノ製造ヲ開始セリ
一、キリンビール其他清涼飲料水ハ夙ニ宮内省御用品タルノ光栄ニ浴シ、各地ノ博覧会共進会等ニ於テ最高名誉賞牌ヲ授ケラレタルコト挙ゲテ数フベカラズ、当社三工場一ケ年ノ麦酒醸造能力実ニ四拾五万石、清涼飲料水壱万石ニ達スルニ至リタルハ一ニ愛顧各位不断ノ高誼ニ囚ルトコロ、タヾ精励ト誠実トヲ以テ専心コレニ酬ユルノ外ナキヲ痛感ス
    現状(昭和八年五月現在)
 一、資本金      壱千八拾方円
 一、払込金      八百参拾万円
 一、諸積立金及繰越金 八百八拾参万弐千余円
 一、本店所在地    横浜市鶴見区生麦町字明神前拾七番地
    同 出張所   東京市京橋区京橋弐丁目四番地明治屋ビルヂング
 一、工場       横浜工場・製壜工場 横浜市鶴見区生麦
            神崎工場 兵庫県神崎
            仙台工場 仙台市小田原
 一、支店所在地    東京・横浜・大阪・福岡・京城・名古屋・仙台・札幌


〔参考〕構浜市史稿 産業編・第六六五―六七三頁〔昭和七年一一月〕(DK110051k-0006)
第11巻 p.343-346 ページ画像

構浜市史稿 産業編・第六六五―六七三頁〔昭和七年一一月〕
    麒麟麦酒株式会社の沿革
 麒麟麦酒醸造の起源は、明治五年の頃、未だ日本人が麦酒を以て魔法の水なりと驚嘆して居た時代に於て、英国人の麦酒醸造技師ダブリユー・コープランド(W. Copeland)と云ふ人が、始めて横浜山手天沼《あまぬま》《(註一)》の山腹に清泉の湧出するのを見て、これは麦酒醸造に好適するであらうと想ひ、麦酒の醸造を企てたに基因する。則ち此処に始めてスプリング.ヴアレー・ブリユワリー(Spring Valley Brewery)《(註二)》と云ふ名称の下に、一の麦酒醸造所が建設された。是れ恐らくは本邦に於ける麦酒醸造の嚆矢であらう。当時の天沼は、四隣鬱蒼たる樹木を以て囲まれ、清浄なる湧泉と清鮮の空気とを抱擁した景勝の地であつた。而かも此処から始めて生まれ出た麦酒こそは世に「天沼ビアザケ」として近くの鉄砲場現今の大和町一円の英兵調練場に通ふ駐屯軍の将卒や、横浜在留の外人に取つて、実に無くてならぬものの一に算へられて旺に需要
 - 第11巻 p.344 -ページ画像 
されたのであつた。
 日本の国勢が日進月歩するに伴ひ、外人との交際を頻繁ならしめ、社交場裡に於ける交驩の席上、常に食卓に供用されてゐたのは此「天沼ビアザケ」であつた。而して其等の席に列した本邦人も、遂には最初の迷惑か、嗜好に遷つて行つたのも、全く「天沼ビアザケ」の然らしむる所であつたらうと思はれる。
 斯くて「天沼ビアザケ」は内外人の交際場裡に好果を齎した許りでなく、我国麦酒醸造業に多大の貢献をなしたのであつた。即ち明治九年に創業された北海道開拓使麦酒醸造所も、その以後に建設された諸種の麦酒会社の為にも、如何に多大の刺戟を与へたことであらう。また明治六年、甲府の人野口正章に招聘されて麦酒醸造の秘訣を説いたのはコープランド技師であつた。
また輸入麦酒の日に月に漸次増加する傾向あるのを、「天沼ビール」によつて之を牽制し、進んで之を輸出して東洋市場に確固不抜の基礎を築き、輸出麦酒の先鞭を著けたのも、実にコープランドの賜物であつた。
○中略
 前述の如く麒麟麦酒株式会社は、日本醸造株式会社の一切の権利義務を継承して設立されたものであつて、豊川良平・近藤廉平・米井源治郎・瓜生震・田中常徳・高木豊三・高田政久・草柳清四郎・今村繁三・磯野長蔵等の発起である。
 元来「麒麟麦酒」はスプリング・ヴアレー・ブリユワリーの創始時代から、品質本位を以て終始一貫し、後には日本の「ミュンヘン・ビール」として、内外人の賞讃を博するに至り、漸次その醸造高をも累増し、大正五年に至つては、到底世の需要に応じ難くなつたので、大阪市外に分工場設置の議が起り、同十二月、愈々大阪市外神崎《かんざき》に分工場を設置する事に決定した。越えて大正六年六月、地鎮祭を施行し、愈々工事に著手し、同年四月、資本金倍額五百万円とし、本工場拡張分工場新設の費に充てた。八年三月中旬より、神崎工場新麦酒記念売出を行つて一般顧客の好評を得た。
 今、次に大正元年より同八年に至る麒麟麦酒醸造高を掲ぐれは、次の如くである。
 (年次)  (醸造高)   (年次)   (醸造高)
            石             石
 大正元年  三三、三四〇  大正五年  四九、三九九
 同 二年  三七、一八五  同 六年  六一、〇五八
 同 三年  四一、九一五  同 七年  六九、七六五
 同 四年  四一、〇一七  同 八年 一一六、五三四
即ち右表に見るが如く、大正七年、神崎工場設置以前に於て六万九千七百六十五石であつたものが、八年に至り、約二倍の醸造高を示してゐるのを見ても、如何に当社製造品の需要が旺盛であつたかを知ることが出来る。
 斯くて再び本工場拡張の必要に迫まられ、八年夏に至つて、約五割の醸造高を増産するに就いての拡張工事を遂げ、同年十月よりは神崎工場の第二期拡張を行ひ醸造高の増産を図つた。時偶々大正九年の財
 - 第11巻 p.345 -ページ画像 
界不況に際会したが、而かも尚醸造高に影響されたことなく、左記の如くに漸次累増の趨勢を辿つてゐる。
 (年次)  (醸造高)   (年次)    (醸造高)
            石              石
 大正九年 一一七、三九五  大正十一年 一四五、〇〇二
 同 十年 一二六、五九八  同 十二年 一六九、三四一
 輓近醸造高の激増は、その度毎に叙上の如く数度に亘つて両工場の拡張若くは増設を行ひ、尚一般需要を満たすに至らなかつたので、十二年五月に及び、更に資本金一千万円に増資し、又同年六月、一千八百万円に増資して、八月、仙台市所在の東洋醸造株式会社を買収して仙台分工場を設け、以て一般需要に応じた。然るに同年九月一日、関東大震火災によつて、主力工場であつた横浜工場が罹災したのであつたが直ちに神崎・仙台の両工場の増築拡張を行ひ、之が需要に対して万全を期した。為めに其生産総量に於て大なる減少を見なかつた。即ち
 (年次)   (醸造高)   (年次)   (醸造高)
             石              石
 大正十二年 一六九、三四一  大正十四年 一四六、四九八
 同 十三年 一六七、四五九
右表に拠ると、大正十四年は何れの麦酒醸造会社に於ても減少を免れなかつたが、其主因は、財界の沈衰ではなくて、麦酒最多需要期たる六・七・八月の気候が雨天勝ちに因るのであつた。
 斯く我国に於ける麦酒の需要は未曾有の震災にも、或は財界の不況にも影響さるゝこと少なく、其製産額は年々増加の趨勢を辿つてゐるので、主力工場たる横浜醸造場の復興が、総ての点に於て急施設を要したので、神崎・仙台両工場の拡張を行ふと共に、大正十三年四月、新に横浜市外生麦海岸《なまむぎ》に地を相して、愈々横浜工場復興の第一槌を下される事となり、同十五年四月、小麦工場を除くの外、悉く竣工を告げたので、同年六月十三日、壜詰を開始した。同工場が開場式に於て発表された概要に拠ると、「緑滴ル松林ノ丘ヲ北ニ負ヒテ、南ニ濶然タル東京湾ノ風光ヲ展望シ、京浜ニ沿ヘル生麦海岸ハ空気清爽、用水充溢、水陸ノ交通最モ便」とある。加ふるに、最新式独逸醸造機を装置し、場内の清潔なること、飲料工業経営の必須条件に適合し、製産能力は年額十四万石に上る。蓋し東洋第一の理想工場と云ふも敢て過言で無いのである。
 昭和二年一月一日、時勢の進展に随ひ、製造・販売両部を統一すべく、従来株式会社明治屋に於て経営し来つた販売を直営に更め、更に三年二月、横浜工場内に清涼飲料水工場年産能力十万箱を設け、キリン・レモン、キリン・シトロン、キリン・サイダー、キリン・タンサンの製造を開始し、従来之が供給地を他に仰いで居た麦酒壜及び清涼飲料水壜の自給を計るべく、横浜工場に接して製壜工場年産能力一千五百万本を設けることに決し、四年十月に竣工して、玆に其陣容は殆ど完成の域に達し、其製品の声価は品質の優良なるによつて、斯界に其真価を認められ、内国勧業博覧会・勧業共進会などに於て名誉金牌・銀牌等を授与せられたことは枚挙するに遑がない。最近昭和元年以後に於ける醸造高は左の通りである。
 - 第11巻 p.346 -ページ画像 
 (年次)   (醸造高)  (年次)  (醸造高)
            石             石
 昭和元年 一六一、八七七  昭和三年 二二八、一七九
 同 二年 一八九、九二四  同 四年 二四五、九八二
 本社の資本金は一千八百万円、内払込金八百三十万円一箇年の醸造能力は四十万石である。

  〔註一〕「麒麟麦酒」の誕生地なる天沼は、横浜山手居留地の一部に属し、其山腹の清泉は醗酵に利ある硬水であつて、最初コープランド技師が、特に此清水を選ひし所以は、実に玆に存した。
  〔註二〕コープランド技師経営の「スプリング・ヴアレー・ブリユワリー」時代にては、地域七千余坪あつて、汽缶室・貯蔵室・仕入室・冷却室・醗酵室・瓶詰室等の設備もあつた。
   ○当会社ニ関スル史料ハ関東大震災ノ為、悉皆焼失シ本社ニモ神奈川県庁並ニ横浜市役所ニモ現存セズ。