デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
11節 硝子製造業
2款 品川硝子会社
■綱文

第11巻 p.443-459(DK110063k) ページ画像

明治21年6月(1888年)

是月栄一、西村勝三・益田孝・柏村信等ト謀リ、従来西村ノ個人経営タリシ品川硝子製造所ヲ引受ケテ、資本金十五万円ヲ以テ品川硝子会社ヲ設立ス。栄一相談役タリ。当会社ハ翌二十二年六月事業拡張ノタメ資本金ヲ六十万円ニ増加シタルモ、二十六年六月解散ス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第二七七―二七八頁 〔明治三三年六月〕(DK110063k-0001)
第11巻 p.443-444 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)第二巻・第二七七―二七八頁〔明治三三年六月〕
 ○第四十五章 硝子製造業
    第一節 品川硝子会社
品川硝子製造所ハ明治六年三条内府ノ創設ニ成リ、其後工部省ニ於テ之ヲ買上ケ、数年経営セシモ収支償ハス、明治十六年ノ末、西村勝三ハ稲葉正邦子ト共ニ政府ノ命ニ応シテ之ヲ拝借シテ自ラ経営セリ、始メ西村ハ此ノ業ノ収支償ヒ難キヲ予想シテ、三万円ノ補助ヲ政府ニ請願セシモ、終ニ許可ナカリシヲ以テ、不得已試ニ其事業ニ従ヒシニ、果シテ翌一箇年ニシテ壱万三千円余ノ損失ヲ醸セリ、依テ稲葉子ハ拝借ノ免除ヲ乞ヒシカハ、西村ハ磯部栄一ト共ニ其代金七万九千余円五箇年据置キ五十五箇年賦ヲ以テ払下ケタリシカ、爾来尚ホ年々損失ヲ免カレサルヲ以テ、磯部モ亦十九年払下人ノ名義ヲ除クニ至レリ、然レトモ西村ハ之ニ撓マスシテ如何ニ拮据経営スルモ其効表ハレサルヲ以テ海外ニ赴キ、実地ニ就テ之カ源因及改良法ヲ探究セント欲シ、同年欧洲ニ渡航シ、数月ノ間各地ノ硝子工場ヲ巡回シテ事業ノ実況ヲ観察シ、又技術家ニ就テ製造方法ヲ伝習シタリ、然ルニ当時欧洲各国ノ硝子工場ニ於テハ、独逸人ジーメンス発明ノ瓦斯応用新式炉一般ニ採用セラレ、斯業ノ上ニ一大進歩アルコトヲ発見シ、始メテ豁然醒悟シ我国従来使用ノ旧式装置ヲ破毀シ、此ノ新式ヲ採用スルニ非サレハ、到底外国輸入品ト相馳騁スルコト能ハサルヲ看破セリ、玆ニ於テ此ノ新式瓦斯窯ヲ採用シ、大ニ事業ヲ拡張セント欲シ、翌二十年帰朝後工部省ニ乞フテ年賦金利引即納ノ許可ヲ得タリ、乃チ青淵先生ヲ始メ益田孝・柏村信等ニ説キテ其賛助ヲ得、廿一年六月資本金拾五万円ヲ以テ品川硝子会社ヲ設立シ、先生ヲ戴イテ相談役トス、爾来殆ト旧工場ヲ改築シ、構造器械共ニ皆新式ヲ採用シ、其他長州小野田ニ分工場設置ノ計ヲナシ、共ニ孜々トシテ経営ニ力メタル結果、製造ノ改良ハヨク其効ヲ挙ケタリシモ、終ニ営利会社トシテ、其収支償フニ至ラス、不得已廿五年十一月解散ノ不幸ヲ見ルニ至レリ、然レトモ同会社ハ実ニ本邦硝子製造業ニ対スル開祖ニシテ、後年ニ至リ田中工場其他斯業ニ付成功セシモノ、一トシテ其模範ヲ此ノ会社ノ新式装置ニ取ラサルモノナク、終ニ斯業今日ノ盛況ヲ見ルニ至レリ、故ニ此ノ会社ノ如キ
 - 第11巻 p.444 -ページ画像 
会社夫レ自身ハ不幸失敗ニ終レリト雖モ、我国ニ於ケル硝子業成功ノ基礎根蔕ナリシコトハ明白ナル事実ナリトス
   ○解散ノ年月ヲ「西村勝三翁伝」ニハ二十六年六月トセリ。


品川硝子製造所御払下代年賦金即時完約願書《(納カ)》(DK110063k-0002)
第11巻 p.444-445 ページ画像

品川硝子製造所御払下代年賦金即時完約願書《(納カ)》
                (品川白煉瓦株式会社所蔵)
品川硝子製造所ノ義ハ曩ニ元工部省ニ於テ業務拡張ノ御目的ヲ以テ御経営被成候処、得失相償不申、元工作分局ニテ年々金壱万五千余円ノ損失相生シ、欠額補塡ノ道無之旨ヲ以テ、去ル明治十七年中元工務省ヨリ稲葉正邦並ニ私両人エ拝借可被仰付旨御勧誘ニ候得共、元来該製造タル本邦ニ在テハ尤経験ナキ事業ニテ、実業ハ学理ノミヲ以テ規スヘカラサル故、旁目途不相立候間、直ニ御請仕兼、依テ当時政府ニ於テ毎年御損失ニ相成候金額二ケ年分即参万円、工業補助トシテ御交付被下候ハヽ試ニ着手可仕旨、御答申上候所、営業着手前ヨリ下附金ノ義ハ御聞届難相成ニ付、兎モ角従事勉強可致、其上工事ノ模様ニヨリ保護ノ致方モ可有之旨御説諭ニ相成、至極不得止義ト相心得、其儘御請仕、工業相試候処、私共ニ於テモ同年中金壱万三千余円損毛ニ相成候ニ付、翌十八年一月正邦義ハ拝借御免相願、引続礒部栄一並ニ私ニ於テ、五ケ年据置五拾五ケ年賦代金上納ノ方法ヲ以テ御払下ヲ蒙リ候処、其後尚損失ニ相成候間、栄一義モ明治十九年五月御払下人ノ除名相願、爾来井坂伝弥・黒沢喜兵衛・加藤平吉並私ニテ従事罷在候処、又々損耗打続キ候為メ遂ニ右三名義モ除名相願候事ニ立至リ候、其理由ハ前申上候通、該製造タル創始ノ事業故百事齟齬致、現ニ御引受仕候竈等ハ悉皆不用ニ属、爾後新ニ築造セシ者ハ搆造ノ大ナル分改築度数拾三回ノ多キニ及候次第、其他万般細大ノ実験ニ巨額ノ資財ヲ消費仕候ハ、更ニ申上候迄モ無之、加之元工作分局養成ノ職工ハ懶惰ノ慣習ヲ為シ、如何様奨励スルモ、其労働ノ力欧洲人四分ノ一ニ達スル能ワズ、依テ他日完全ノ職工ト為スノ見込ニテ、十七年八月ヨリ幼年生徒数十名ヲ募集シ、衣食ヲ給シ技術ヲ教エ、漸々之レヲ養成スル等、其費用夥数、右等ニ費消セシ資金莫大ニ在之候故、御引受以来如何様拮据勉励仕候得共、年々損失ノミ相嵩、維持ノ方法モ難相立、遂ニ前書ノ如ク除名相願候場合ニ立至リ候、然ルニ硝子ノ義ハ日用必需ノ品物ニテ年々輸入ノ数モ莫大ニテ、尚此上需用ハ増加スルノミニ付、私義工業熱心ノ余リ、昨年中如斯困難ノ折柄尚都合致、実地研究ノ為メ欧洲ニ航シテ自身親シク同業ノ景況事実ヲ視察スルニ、瓦斯利用ノ発明以来、近年工業上著大ノ進歩改良ヲ来タシ、毎事新奇利便ノ方法不尠、当品川硝子製造所ノ搆造器具ノ如キハ大概不用ノモノヽミニ相帰シ、在来ノ儘ニテハ到底営業ノ目的無之ニ付、帰朝後新式ノ竈築造仕候処、数回ノ後好結果ヲ得テ、将来施設営業ノ見込相立可申ト存候ニ付、今般一大改良ヲ加ヘ、建物器具等ノ不用物ハ悉皆取除キ、新式ニ法リ、更ニ搆造経営仕度、就テハ当所ノ御払下代金七万九千九百五拾円七拾銭壱厘、明治二十三年迄据置、廿四年ヨリ五十五ケ年賦御上納ノ御約定ニ御座候得共、右様永年ノ間負債ノ義務ヲ工場ニ負担候テハ再興ノ計画ニ対シ候テモ障害不尠候ニ付、更ニ今般特別御詮議ヲ仰キ
 - 第11巻 p.445 -ページ画像 
本年ヨリ十ケ年間据置、満期ノ上五十五ケ年賦返納可仕モノトシ、此際壱割利引法ヲ以テ即時完納ノ義即免許被成下度、現在該工場ニ価値ヲ有スル者ハ地所ト僅々タル建物ノミニ有之、此等ハ御省ニ於テ実地御撿査被成下候ハヽ明白ニ有之候、元来当製造所ハ板玻璃製造ノ目的ニテ三条殿ノ創設ニ成リ、其後元工務省ニ於テ御引継、上等食器類製造ノ御目的ニテ旧搆造ハ其儘ニ被差置、更ニ巨大ノ竈及ヒ之ニ相当スル諸工場御新設ニ相成候得共、板玻璃ハ当地ノ如キ石炭不廉ノ場処ニテ製造スヘキ者ニ非ズ、又上等食器類ハ内地ノ需要僅少ニシテ、一ケ月ノ製出高ハ一ケ年ノ需要ニ余アル程ニテ、何レモ其当ヲ得タル御計画ニ有之間敷ト奉存候、依之材料ノ高貴ナラズシテ製品ノ需要夥多ナル火舎灯器類下等食器薬瓶等製造ノ目的ニ候得共、右ノ次第ニテ搆造不適当ニ候故、是非更ニ搆造ヲ一新致サズ候テハ相成不申ハ勿論、瓦斯利用ニ付、利便ノ方法種々発明アリシハ前陳ノ通ニテ、旁不用ノ廉不少、随テ価値ヲ有スル者僅少ナル義ニ有之候、且今日新ニ加盟セントスル者アルニ、縦令無代価ニテ御払下ヲ得ルモノトスルモ、今日迄ノ損耗ハ三万余円ニ候故、取モ直サズ三万余円ニテ御払下ヲ得タルト同一ノ事実ニ有之、是等ノ義御諒察被成度候、本願御聞済被下候上ハ新ニ資本ヲ入候ハ勿論、技師ヲ欧洲ヨリ招聘シ、百般施設ノ方法ヲ改良シ、上ハ国益ノ幾分ヲ図リ、下ハ一身ノ素望ヲ貫徹可仕候、前文縷述仕候通リ、該工場元工部省ニ於テモ当時御処置ノ方法無之、勿論民間ニ在テハ一人ノ御引受ヲ相望候者モ無之際、私義御勧誘ノ御主意ヲ奉シ、奮発御引受仕、已来辛苦経営仕候事実ト、元工部省ニ於テ最初ヨリ営業上ノ摸様ニヨリ、如何様其御保護可被成下旨恩命在之候次第等、前後ノ事情御照諒、特別ノ御詮議ヲ以テ願意御聴届相成度別紙調書相添此段奉歎願候也
  明治二十年九月廿日        西村勝三
    大蔵大臣 伯爵松方正義殿

(以下四行朱書)
第一〇号
願之趣聞届
  明治二十年十月廿二日
            大蔵大臣 伯爵松方正義

    従明治十七年一月至十九年十二月損耗概略調書
一金三万弐千六百六拾六円八拾七銭弐厘 損耗
     内訳
  金三千七百拾壱円三拾六銭三厘    右御払下諸原材直引ノ損
  金八百五円九拾八銭九厘       右器械工具滅耗消却
  金四千弐百五拾六円七拾六銭八厘   右製品売上ノ損
  金壱万弐千八百九拾七円九拾七銭五厘 右工術研究費
  金弐千七百八拾九円七拾銭六厘    右販売上滞貸
  金三千八百八拾八円三拾五銭     右竈建築試験費
  金四千三百拾六円七拾弐銭壱厘    右生徒養成費
右之通リニ有之候也
 - 第11巻 p.446 -ページ画像 


品川硝子会社創立趣意書(DK110063k-0003)
第11巻 p.446-447 ページ画像

品川硝子会社創立趣意書
    品川硝子会社創立趣意書
開港以来凡百ノ物給ヲ欧米ニ仰ク固ヨリ多シ、而シテ其中本邦ニ於テ摸倣以テ之ヲ製造スル者亦少カラスト雖、其価ノ貴クシテ質ノ劣レル能ク外品ト頡頑スルニ足ル者甚鮮シ、硝子器ノ如キ其一ナリ、品川硝子製造所ハ明治六年三条内府ノ創設ニ成リ、其後工部省ニ於テ之ヲ買上ラレ数年経営セラレタルモ得失相償ハス、明治十六年ノ末遂ニ稲葉正邦並ニ西村勝三ニ拝借被仰付、幾モナクシテ年賦払下ニ相成、爾来拮据従事セシモ元来本邦ニ於テハ創始未熟ノ事業ナルヲ以テ、種々試験ノ為メニ資本ヲ消費セルモノ極メテ多シ、加之其製品未タ外品ト競争以テ勝ヲ制スル能ハサルヲ以テ、之カ為メニ年々損失ヲ蒙レルモノ亦極メテ多シ、是ヲ以テ創設以来十数年ノ久キヲ経ルモ、曾テ事業ヲ拡張スルノ暇ナク纔ニ艱難ノ中ニ於テ之ヲ維持保続セリ、是レ他ナシ製造ノ方法未タ宜ヲ得ザルノ致ス所ナルノミ、勝三窃ニ此ニ見ル所アリ、海外ニ趣キ実地ニ就テ之ヲ探究セント欲シ、遂ニ一昨十九年欧洲ニ渡航シ、数月ノ間各地ノ同工場ヲ巡遊シテ事業ノ実況ヲ観察シ、又実業家ニ就テ工事方法ヲ伝受シ初メテ豁然トシテ醒悟シ、従来使用シタル方法ノ陳套迂濶復タ用ユヘカラサルコトヲ知レリ蓋シ欧洲ニテ硝子製造ノ発明アリシ以来多年ノ間種々ノ発明進歩アリシト雖トモ、全ク旧来ノ製法ヲ改メテ別ニ一種ノ新発明ヲ出シタルハ実ニ今ヲ距ル七八年前ナリ、斯ク僅々ノ星霜ヲ以テ著大ノ進歩ヲ致セシコト該業ノ如キ者ハ各種工業中幾希ナリ、抑々硝子製造方法ニ於テ最緊要ナル者ハ炉ノ築造法ナリ、此事タル本業ニ従事スル者多年刻苦シテ考案シ試験セシ所ナレトモ、別ニ機軸ヲ出スモノアラザリシニ独逸国ノ「ジーメンス」氏始メテ瓦斯ヲ焚燃スルノ発明ヲ出スニ及ヒ、本業ノ改良進歩ヲ致スコト実ニ較著ニシテ悉ク旧慣ヲ破毀シ其影響ノ及ブ所大小ノ部局皆変化ヲ見ザルハ莫ク、大ニ面目ヲ一新スルニ至レリ、外国工場ノ進歩此ノ如シ、然ルニ顧ミテ本邦ノ硝子製造所ヲ視レバ依然在来ノ搆造製法ヲ墨守シテ少シモ改ムル所アラス、安ゾ能ク外品ト相馳聘スルヲ得ンヤ、是ニ於テ速ニ新式ノ搆造ニ法リ、大ニ事業ヲ拡張セント決意シ帰朝後先ツ新式炉ノ築造ニ着手シ傍ラ純然タル私有トナシテ会社組織ノ準備ヲナサンコトヲ計画セシニ炉ハ数回試験ノ後良好ノ結果ヲ得、且政府ニ請願シ年賦金即時完納ノ事モ全ク終局セシニ付、猶実地研究ノ為ノ昨年工長ヲ独逸国ニ派遣シ、又同地ヨリ本業ニ慣熟シタル技師並ニ多年同国ノ工業ニ従事セシ本邦人ヲ管理者トシテ雇入ルヽノ手続モ為タレバ、今ヤ乃チ会社組織ニ着手スベキノ時機ト為レリ、顧フニ硝子器ハ日用必須ノ物ニシテ其需要日ニ月ニ増加シ殊ニ本邦ハ其諸原材ノ供給ニ匱シカラズ、又職工ノ賃銀低廉ナルニ却テ外品ニ圧倒セラルヽヲ免カルヽ能ハズ、慨嘆ニ堪フベケンヤ、而シテ之ヲ救済スルノ方ハ唯新式ニ法リテ一大改良ヲ加ヘ以テ事業ヲ拡張スルニ在ルノミ依テ玆ニ品川硝子会社ヲ創立シテ弘ク株金ヲ募集シ以テ該事業ヲ完成シ全ク輸入品ヲ拒絶シテ内国ノ需要ヲ充スハ勿論本邦産ノ石炭ヲ仰クベキ東洋諸国ニ輸出販売セント欲スルナリ、有志諸君冀クハ勝三多
 - 第11巻 p.447 -ページ画像 
年ノ微志ヲ照諒シテ応分ノ賛助ヲ与ヘ以テ此事業ヲ成就セラレン事ヲ
  明治廿一年三月           西村勝三謹白


願伺届録 会社規則二明治廿一年(DK110063k-0004)
第11巻 p.447-449 ページ画像

願伺届録 会社規則二明治廿一年 (東京府庁所蔵)
    品川硝子会社創立願
元工作分局品川硝子製造所義、去明治十八年中西村勝三外三名御払下致シ営業罷在候処、該工術ハ欧州近頃著シキ進歩ニシテ当工場搆造ノ如キハ陳腐ニ属シ、其製品到底外品ニ頡抗スル能ハサルニ付、今回私共一同発起トナリ資本金拾五万円ヲ以テ会社ヲ組織シ、別冊定款ニ遵ヒ営業仕度候、且亦新式ノ搆造ヲ以テ規摸ヲ拡張致スベク其材料ハ内地産出ニ富候ニ付、追々輸入品ヲ防遏仕度素志ニ御座候間、会社創立之義御允許被成下度、此段連署奉願候也
             芝区白金台町弐丁目五十五番地
             山口県士族
                    柏村庸代理
                    柏村信
             同区三田三丁目三十五番地
             東京府士族
                    高浜忠恕(印)
             同区浜松町弐丁目廿七番地
             東京府平民
                    子安峻(印)
             四ツ谷区元鮫ケ橋町五拾八番地
             栃木県士族
                    正田章次郎(印)
             京橋区築地壱丁目壱番地
             東京府平民
                    西村勝三(印)
             下谷区仲徒士町三丁目拾三番地
             東京府平民
                    加藤平吉(印)
  明治廿一年四月廿五日
    東京府知事 男爵高崎五六殿

前書之通願出ニ付奥印候也
            東京府京橋区長 林厚徳
(別紙朱書)
書面願ノ趣ハ追テ一般ノ会社条例制定相成候迄、人民相対ニ任候条、其旨可相心得候事
  明治二十一年五月
             東京府知事 男爵高崎五六

    品川硝子会社定款
品川硝子会社ヲ設立スルニ付、其株主ノ衆議ヲ以テ決定スル所ノ定款ハ左ノ如シ
   第一章 総則
第一条 当会社ノ営業ハ火舎薬瓶酒壜食器類等ノ硝子器ヲ製造シテ之ヲ販売シ、若シクハ東洋諸国ニ輸出スルヲ以テ目的トス
 - 第11巻 p.448 -ページ画像 
第二条 当会社ノ名号ハ品川硝子会社ト称シ、東京府下荏原郡北品川二百八十七番地元工作分局硝子製造所ヲ本社トナシ、追テ長崎或ハ摂津辺ニ支社ヲ設置スルモノトス、但当時京橋区南金六町拾壱番地エ仮事務所ヲ設置ス
第三条 当会社ノ営業年限ハ明治廿一年 月 日ヨリ起リ満二十ケ年トス
  但満期ニ至リ株主総会ノ決議ニ依リ延期スルヲ得ヘシ
第四条 当会社ハ有限責任トス、負債弁償ノタメニ株主ノ負担スヘキ義務ハ株金ニ止ルモノトス
第五条 当会社ハ第一条ニ定メタル事項ヲ本務ト為スカ故ニ、硝子器ヲ製造シテ販売スルノ外他ノ売買事務ニ干預セサルベシ
   第二章 資金之事
第六条 当会社ノ資本金ハ拾五万円ト定メ一ト株金五拾円トナシ総計三千株ノ内、三分ノ一ハ発起人ニ於テ之ヲ引受ケ、残リ二千株ハ内国人民ヨリ募集スルモノトス
   ○第七条ヨリ第六十一条マデ略ス。
右拾一章六十一条ハ当会社株主ノ衆議ヲ以テ相定メタルニ付、一同記名調印シテ之ヲ証明致候也
                 品川硝子会社株主連署
  明治廿一年 月 日

  明治廿一年四月廿八日受出
    品川硝子会社創立願
                   柏村庸代理
                    柏村信外五名
     指令案
書面願ノ趣追テ一般会社条例制定相成候迄、人民相対ニ任候条其旨可相心得候事
  但他管下ニ支社ヲ設置セントスルトキハ、其管庁ノ成規ニ従フヘシ、又定款第九章第五十三条社長以下印鑑ノ義ハ届出ニ不及義ト心得ヘシ
   年 月 日                知事
     報告案
 国債局御中                 東京府
今回左記ノ会社創立認可相成此段及通報候也
     記
一、品川硝子会社
  資本金 拾五万円
  壱株  金五拾円
  株金払込期限ハ明治廿四年二月迄九回ニ払込
  位置荏原郡北品川二百八十七番地
    ×
(理由)本社ノ事業ハ□《(不明)》前西村勝三名義ニテ営業致居候タルヲ、今回組織ヲ改メントスルモノニテ、同人及有名ナル財産家連署致居候ニ付、別段身元調ニ不及□ト相考居、又規則書追加等取調ノ処□□不
 - 第11巻 p.449 -ページ画像 
都合無之ニ付、本案之如ク認可之上報告セントス


願伺届録 会社規則二明治廿二年(DK110063k-0005)
第11巻 p.449 ページ画像

願伺届録 会社規則二明治廿二年     (東京府庁所蔵)
    増株出願書
今般臨時総会ヲ開キ株主ノ格段決議ヲ以テ本社資本金四拾五万円ヲ増加シ、都合六拾万円ヲ以テ営業仕度候間、御認可被成下度、此段奉願候也
  明治廿二年六月十七日
               品川硝子会社
                  社長 柏村庸(印)
                  委員 西村勝三(印)
                  委員 高浜忠恕(印)
                  委員 馬越恭平(印)
                  委員 正田章次郎(印)
 東京府知事 男爵高崎五六殿


西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編)第八六―九〇頁〔大正一〇年一月〕(DK110063k-0006)
第11巻 p.449-450 ページ画像

西村勝三翁伝 (西村翁伝記編纂会編)第八六―九〇頁〔大正一〇年一月〕
    第七章 欧式硝子製造業の経営
明治六年太政大臣三条実美は、其家令丹羽正庸及び家従村井某の子三四之助の建策を容れ、自ら板硝子の製造所を品川に起して興業社と称したり。されど経営意の如くならざりしかば、九年四月工部省之を買上げ、改めて品川硝子製作所と名づく。是より板硝子の製造を停め、十四年再び製造に著手せるも翌年に至りて止む専ら舷灯の紅硝子・食器、其他の常用器具を製造したれども、是亦収支償はざりければ、十六年に至り政府は資力ある商人に工場を貸与して営業を継承せしめ、漸次之を民業に移すの議を定めたり。よりて工部大書記官中井弘を介して、翁に慫慂する所あり、翁乃ち華族稲葉正邦旧淀藩主の出資を仰ぎ、十七年二月相共に向ふ十箇年間其工場を借用し、純益十分の二を貸下料として上納するの契約を結び、其業を開きたり。翁初め硝子製造の収支償ひ難きを予想し、三万円の補助を政府に出願したれども許可を得ざりしかば、已むを得ず事に従へるに、果して翌十八年には一万三千余円の損失を招けり。之が為めに、稲葉家は漸く疑懼の念を抱き、五月工場の返納を請ひしが、翁は別に見る所あり、磯部栄一と謀り、七万九千余円五箇年据置き五十五箇年賦を以て之を払下げ、なほ旧によりて品川硝子製作所と称す。其製造する所は陸軍用水瓶・諸薬瓶・洋灯用油壷及び火舎・食器・理化学用器等なりしに、水瓶・薬瓶の外は概ね利益なく、磯部も亦遂に払下人の名義を脱退するに至り、事業の経営ますます困難を加ふ。是に於て翁は自ら海外に赴き、実地に就きて之が実状及び業務の改良法を探究せんとし、同十九年欧洲に渡航して数月間各地の硝子工場を視察するに及び、独逸人シーメンスの発明せる複熱式窯一般に採用せられ、従来我邦にて使用せる英国式製法の比にあらずして、斯業の進歩発達著しきものあるに驚き、必要の図書・機械等を購ひて帰朝せり。海外視察の事はなほ詳しく第八章に云ふべし翁は此経験によりてシーメンス式に窯を改築せんとしたれども、不熟練の為めに是も亦失敗に畢りしかば、翌二
 - 第11巻 p.450 -ページ画像 
十年十月技師中島宣を独逸に派遣し、実地研究の任に当らしむ。かくて二十一年には麦酒瓶の製造を開始せり。之を我国に於ける麦酒瓶製造の濫觴と為す。中島はシャルロッテンブルヒなるベテック・ウンド・ケルステン硝子工場に入り、複熱式窯の研究を重ね、各種の器具・機械を携へ、職工数名を雇傭して帰朝せるは同年五月にして、品川硝子会社が将に成立せんとする間際なりき。
是より先翁が欧洲より帰るや、大に事業を拡張せんの志あり、明治二十年十月には工部省に請願して年賦金利引即納の許可を得、全く其所有に帰したりしかば、渋沢栄一・柏村信・益田孝等と謀り、二十一年六月資本金十五万円を以て品川硝子会社を設立し、柏村庸信の男は社長に、翁及び正田章次郎利右衛門の男・馬越恭平・高浜忠恕・小林秀知は委員取締役に相当すに、渋沢・益田及び柏村信は相談役に就任せり。然れども翁は依然会社の中心なりき。爾来殆んど旧工場の全部を改築し、構造・機械・製造法等皆独逸の新式を採り、且長州小野田に分工場を設置するなど、著々として経営に力めし甲斐ありて、麦酒瓶の如きは一箇月九万乃至十万本の生産力を有するに至りたれども、営利会社としては未だ収支相償ふに至らず、二十六年六月遂に解散せり。


日本近世窯業史 第四編・硝子工業 第二七―三二頁〔大正六年五月〕(DK110063k-0007)
第11巻 p.450-453 ページ画像

日本近世窯業史 第四編・硝子工業 第二七―三二頁〔大正六年五月〕
 ○第二章第二節 民間硝子工場の勃興
    第一 三大硝子会社の設立
○上略
 是より先き明治十六年政府に於て品川硝子製作所を民業に移さんとするの議起るや、時の工部大書記官中井弘より西村勝三に対し、之を引受けずやとの内談あり。勝三は下総国佐倉藩主堀田家の旧臣なり。夙に時勢の赴く処を察して士籍を脱し、民間に下りし者なり。維新騒擾の頃横浜に於て、銃砲弾薬商を営みて家屋を起せり。其志工業に厚く、此時既に一方には本邦に未だ発達せざる製靴製革の業を起し、他方には内地に於て製作甚だ困難なる耐火煉瓦の業を励み、通称を伊勢勝と呼びて実業界に雄飛せり。中井弘熟々考ふらく、硝子工業は政府の力を以てして猶ほ且つ至難の事業たり。今之を民業に移さんとするも、尋常の徒を以てしては此難業の経営覚束《(な)》からん。宜しく之を勝三の如き工業上に経験あり、且つ意志の強健にして創業の難に耐ゆる者に承継せしむるに於て、稍や前途の憂を軽からしむるものなりと。爰に於て勝三を呼びて謀る処ありしなり。勝三乃ち之を山城国淀の旧藩主稲葉正邦に謀り、資金の出所を得たりしかば、更に二三の同志を募り、十七年二月品川硝子製作所の拝借を出願して許可せらる。其借用の条件としては期限を十ケ年と定め、工場及び地所諸機械の価額金六万六千三百九拾三円四拾四銭三厘の二十分の一、即ち金三千三百二拾円に当る公債証書を保証として提出し、貸与料は純益金の十分の二を上納するものとし、また製造用の薬品其他の物品及び半製品を買受け其価額金壱万三千六百四拾五円二拾五銭八厘を五ケ年に分割して上納する定めなりき。
 勝三工場其他所属物件の交付を受くるや、稲葉家の家令高浜忠恕と
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力を協せて之が改善を計れり。初め勝三の此計劃を立つるや、事業の収支償ひ難きを予想して、三万円の補助金下附を太政官に出願せしも許可せられざりき。而して営業に従事すること僅々三四ケ月に過ぎざるに、損失せし金額殆んど二千円に達せり。正邦勝三等は尚ほ数千円を支出して計劃する所ありしも、依然として好結果を収むること能はざりしを以て、二人の間に異論を生じ、十八年五月正邦は工場を還納せんことを請願し、之に対して勝三及び磯部栄一等は更に数千円を投じて工場の構造を変換し、窯形を改良し之を私有に帰して以て経営せんことを請願せり。太政官因て吏員を派し実況を審査せしめたるに、将来に見る処ありとし、悉く勝三の請願を聴許し、工場及び地所機械並に営業必需の物品を交付し、其価額合計金七万九千九百五拾円七拾銭壱厘を五ケ年据置き、明治二十三年五月以降五拾五ケ年に分割して上納するものとし、其完納に至るまでは其全額の二十分の一即ち金三千九百九拾七円五拾三銭五厘に当る公債証書及び工場地所等を抵当として提出すべきことゝ定められぬ。
 玆に於て勝三は品川硝子製作所の所有者となれり。依て名称は其儘襲用することゝ為し、操業法に一大改革を加へぬ。即ち全部を四科に分ち、各科に工長を置き、各工長をして其科製品の全部を請負はしむることゝ為し、第一科に於て陸軍用水壜、第二科に於て薬用壜、第三科に於て洋灯用油壷及び火舎、第四科に於て飲食器及び理化学用品を製造せしむることに定めたり。
 斯の如くにして初年度は水壜・薬壜に於ては多少の利益を見るを得たりと雖も、全躰に於ては壱万円余の損失を免れざりき。当時職工学校傭教師にワグネルと言ふ者あり、陶器硝子等に関し深奥なる知識を備ふ。勝三之に就きて、外国にはシーメンス氏リゼネラチイブ窯の発明あるを聴き、此式に則らば必ず生産費の低廉を図り得らるべしと信ぜり。
 次いて翌十九年四月勝三は硝子製造業の外、自己の経営に係る製靴製革及び耐火煉瓦の欧羅巴に於ける状況視察として、外遊の途に上れり。而して独逸に行きシーメンス複熱式によれる製壜所を実見するに及び、興業社及び工部省時代より伝へられたる英国式製法に比し、大に特長あるを知れり。依て帰朝後更に技師中島宣を独逸遊学の途に上らしめぬ。宣は独逸シヤルロツテンブルヒのベエツク・エンド・ケルステン硝子製造所に入り、該式窯及び欧式硝子の製造法を実地に就きて研究し、翌二十一年五月各種の吹込型及び押型其他の機械並に硝子工独逸人弐名を伴ひ帰朝せり。宣がベエツク、エンド、ケルステンの工場に入るや、時恰かもシーメンス式窯の改築を為しつゝありし際にして全体の構造を能く修得するを得たりと云ふ。宣の不在中勝三は麦酒瓶の製造を開始せり。是れ我国に於ける麦酒瓶製造の濫觴なり。次で程なく宣の帰朝するや、新たに坩堝拾個を入るべきシーメンス式窯の築造に着手し、其年十二月に至りて落成したるを以て、翌二十二年一月より操業を開始せり。また宣が独逸より伴ひ帰れる弐名の硝子工は各八時間に三百五十本の麦酒瓶を吹く技倆を有せり。当時我職工は同時間に僅々八十本を吹くに過ぎざりしが、後には遂に三百五十本を吹く
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者拾数人を出すに至れり。又火力の加減を司る者は最も斯業の成否に関係深きものなるを以て、其後二人の火夫を独逸より招きたるに、彼等の技と宣の技と敢て軒輊なきを発見せしかば、三ケ月の給料と旅費を与へて送還したりと言ふ失敗もありき。斯の如く窯改築の結果として大に生産力の増大を来たし、三四ケ月後には一ケ月能く八万本乃至九万本の麦酒瓶を製出するに至れり。此品川硝子製作所が始めて築きたるシーメンス複熱式窯の伝来は、我硝子工業に於ける一新紀元と目すべきものとす。
 品川硝子製作所の業務は日を逐ふて改善せらるゝに至りしかば、勝三は更に資金を増加して事業の拡張を計らんとせり。曩に五十五ケ年賦を以て払下げを受けたる工場は、此時年賦金利引即納の許可を得たれば、此機に乗じて業務を拡張すると同時に、また此頃新設せられたる磐城硝子会社と雄を市場に争はんと欲し、明治二十一年資本金拾五万円を以て有限責任品川硝子会社なるものを設立せり。此会社は実に勝三の首唱したる処にして、成立と同時に社長には久しく独逸に遊学せし柏村庸を戴き、勝三及び正田章次郎・馬越恭平・高浜忠恕は委員(現時の取締役)に選挙せられ、渋沢栄一・柏村信・益田孝は其相談役に推挙せられぬ。又株主としては藤田伝三郎・横山孫一郎・柿沼谷蔵・中沢彦吉・喜谷市郎右衛門・原六郎・高島嘉右衛門・仁杉英・西村茂樹・二橋元長・益田克徳・大鳥富士太郎・岡本貞烋・犬養毅等百三拾九名を得たり。会社の営業は火舎・薬壜・酒壜・食器類・窓硝子等の硝子器を製造販売し、若くは東洋諸国に輸出するを以て目的とせり。
 有限責任品川硝子会社成るや、品川硝子製作所の地所・家屋・器械窯・原料及び製造品一切を金五万七千五百円にて買収せり。当時品川硝子製作所の工場は第一より第四に至る都合四あり。第一・第二・第三工場に於ては瓦斯窯を用ゐ、各窯中に大中小各種の坩堝を容れ、其大小に応じて酒壜・薬壜及び火舎を製造し、第四工場は工部省よりの製造を踏襲し、灯台局用の灯台火舎・軍艦用の食器及び薬壜・陸軍用の薬壜、及び水呑壜・鉄道局用の灯用硝子等を製造するを定業とし、其他一般の上等品注文に応ずることゝ為し、又押型器を以て下等食器をも併せて製出するものと定めたり。新設の品川硝子会社も亦た此分業法に則りて製造に着手し、麦酒瓶は殆んど之を横浜なる麒麟麦酒会社に売却し、日本麦酒会社・浅田麦酒会社とも幾分の取引を為し、薬壜は日本製薬会社に売捌き、また押型硝子製品は下等品の需用多きを察し、主として水呑及び皿等を作りて販売せり。
 翌二十二年に至るや、事業稍や其緒に着きたるを以て、九州地方に支社を設立し、押型硝子器及び板硝子の製造を開始することの計劃を立て、其拡張資金として金四拾五万円を増し、資本金総額を六拾万円に為さんとせり。此業務拡張計劃に関し初め勝三は、良好なる石炭を容易に収得せらるゝ点よりし、且つ清韓方面に製品を輸販する便利よりして、筑前国若松港を以て支社設置の地とすべしと主張したり。然るに他の重役中には長門国厚狭郡小野田を以て最良の候補地なりと主張する者あり、其所以は同所にはセメント会社舎密会社等の設立ある
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を以て、営業上相互の応援を得ること多かるべく、又京阪地方との交通も便利なるのみならず、原料の珪石及び燃料の石炭は附近五里以内の海路を以て運搬せられ、且つ此地に工場を建設するに於ては、長州士族の授産を援くべきを以て、地方有志の賛成する者多きに由る。此年九月重役会議に於て遂に小野田に設立することに決し、直ちに工事に着手せり。而して此小野田分工場は、二十四年を以て落成したるも当時不幸にして経済界に恐慌あり、予て命じたる増資株金払込みの如きは、金融逼迫の為め何人も之に応ずる者なきに至りたりと雖も、会社は拡張事業に資金を要すること頗る急なるものあれども、財界悲境の為め意の如くならず、止むを得ず山口の旧藩主毛利家より金五万円を一時借入れて困厄を凌けり。
 東京本社にありては麦酒瓶製造用の窯時々に破損し、其都度操業を休みて修繕せざるべからざる憾みありしも、技術は漸々上達し、検圧機を以て之を検するに製品の殆んど全部は十気圧に堪へざるものなきに至り、外国品に敢て譲らざること知るを得、薬壜も亦た原料の調合を改良したる為め、甚だ堅牢なるものを産出するに至り、押型製品は従来の直火窯を改めて瓦斯窯を新築したる結果、製品の数を増し、品質を良好ならしむるを得たり。而して技師には中島宣の外海福悠の新たに入社するあり、職工も技術熟達せる者多数を輩出するに至れり、然るに当時原料年々に騰貴するに加へて、生産力増加の為め供給は遂に需用を超過するに至り、各種の製品を通じて庫中に堆積するもの甚だ多きと、経済界一般不景気の影響を蒙りて、麦酒瓶の相場崩落を来たせしかば、業務の経営上に少なからぬ打撃を受けたり、是等の原因相錯綜して営業収支相償はず、小野田分工場は建築の工成りしも、未だ其操業を見るに先ち、明治二十五年十一月品川硝子会社は遂に解散の不幸を見るに至りぬ。
   ○当会社解散ノ年月ハ「西村勝三翁伝」ニ従テ明治二十六年六月トス。


(西村勝三)書簡 渋沢栄一宛(明治二二年)一二月一三日(DK110063k-0008)
第11巻 p.453 ページ画像

(西村勝三)書簡 渋沢栄一宛(明治二二年)一二月一三日
御病中甚奉恐入候得共、品川硝子会社ヘ別紙之者ヘ渡金、凡五千円之高割引ヲ以テ御融通被成下間敷哉、同社当時株金払込中ニ候処、長州表三分ノ弐ニ候故、年内之引当ニ難相成、依而御許容之程偏ニ奉願上候 頓首
  十二月十三日              西村勝三
    渋沢様
   ○明治二十二年ノ諸資料トシテ一括サレタル中ニアリ。故ニ同年ノモノト推定ス。



〔参考〕日本近世窯業史 第四編・硝子工業 第一五―二二頁〔大正六年五月〕(DK110063k-0009)
第11巻 p.453-458 ページ画像

日本近世窯業史 第四編・硝子工業 第一五―二二頁〔大正六年五月〕
 ○第二章 明治時代の硝子工業
    第一節 官設硝子工場の沿革
本邦硝子工業の発達を扶掖誘導して最も力ありたるものは明治初年に於ける官立硝子工場の設立にあり。而して此官立硝子工場の事蹟を
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述べんと欲せば、先づ其前身たる興業社に筆を起さゞる可からず。
     第一 本邦最初の洋式硝子工場
 明治初年に起りたる新式硝子工業として特筆すべきものは、明治六年東京府下品川に興業社と称する一大硝子製造所の創立を見たること是なり。興業社は太政大臣三条実美の家令たりし丹羽正庸及び村井三四之助の発起計劃したるものにして、正庸自ら其業務を総宰し、三四之助は専ら技術上の事務を担当し、泰西新式の機械を据付け、其製法を応用して板硝子を作り、以て漸次多額に上らんとせる輸入品を防遏せんと企てたるものなり。当時未だ本邦産業の幼稚なりし時代なりしかば、其目的の極めて嶄新なると且つ其組織の甚だ広大なるとよりして、頗る世人の注目を惹きたる事業なりき。
 是より先き三条家の家扶村井某の養子三四之助なる者あり。東都遊学して、英国人技師ガアルと相識るに至り、欧米工業界の実況を聞知し、併せて硝子製造業の大要を知るに至れり。爾来斯業に関して深く研究する所あり、其有利の事業なるを知るや、遂に三条家の家令丹羽正庸に説き、次いで三条実美の賛助を受け、愈硝子製造業を開始する計劃を立て、工場地を水利に便なる品川宿東海寺裏なる目黒川畔に卜せり。当時工業の幼稚なる時代なりしかば、斯業に必要なる機械器具は勿論、坩堝に要する粘土及び築窯に要する耐火煉瓦の如き、其他主要なる材料は、悉く之を遠く英吉利より取寄せたり。而して一方原料の撰択に就ては、純白なる原石を以てするにあらざれば、硝子は製造し難きものなりと思惟し、甲斐の特産たる御岳山の水晶即ち六方石及び之が根石を採掘運搬し来りて其原料に使用せり。後ち板硝子の原料として白砂を使用する事を聴き、更に白砂の蒐集に奔走し、漸く伊豆白浜の海辺に於て発見し之を品川に輸致せり。又職工に就ては斯業に全然関係なき素人を養成するよりは、寧ろギヤマン職人を使用するを勝れりと為し、高給を払ふて東京・大阪の硝子職人を羅致せり。岩根常助・宮垣秀次郎・関根政治郎・岡本竹次郎等は、当時其募に応じて傭入れられたる職工なりき。斯くして諸準備の整頓すると同時に、予て教師として招聘の約を結びし硝子工英国人トーマス、ウオルトンの来着を見しかば、爰に始めて坩堝の製造に着手し、之が乾燥するを待ち板硝子の製造を開始せり。
 然るに板硝子の製造の如きは、夢裡にも見たることなきギヤマン職人なり。僅かに吹き竿一本と雖も、完全に取扱ひ能ふや否やを疑はるるの輩なり。況はんや多量の生地を竿頭に巻き、更に之を功妙に振り伸ばすことの如きは、到底此時代の職工に望み得られざりしや論なく寧ろ之を望む者の要求は無理なりしなり。事情此の如くなりしかば、完全なる製品は一も見る能はずして、事業遂に失敗に帰し、明治九年工部省に工場全部の買上げを請願するの已むなきに至りぬ。当時の関係者が此硝子製造事業の為めに消尽したる資金は、実に弐拾余万円に達したりと伝へらる。夫れ板硝子の製造たる技術進歩せる今日の日本を以てするも、猶ほ内地産の供給に待ち難く、海外より毎年多額の輸入を仰ぎつゝある困難多き事業なり。此困難多き無経験の新事業を明治の初年に於て創始経営を試みたるは感ずるに余りあり。唯だ其成績
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の挙らざりしは、また止むを得ざる処なりき。初め三四之助思へらく硝子事業は其種類多しと雖も、之を大別すれば器物及び板硝子の二種に帰す、然るに前者は製品の種類複雑に渉り、従て職工の養成至難ならん。之に反し後者即ち板硝子なりせば、製品単純にして職工の養成も簡易ならんかと。斯くて現今と雖も猶ほ至難の業たる板硝子を製造せんと企てたるは、彼が失敗を速かならしめたる主因と謂はざるべからず。
     第二 工部省品川硝子製作所
 明治初年に於ける本邦唯一の新式硝子製造所たりし興業社は、終に明治九年四月を以て工部省の買上ぐる処となりぬ。蓋し是れ興業社の後始末を引受けたるに外ならず。工部省の所管に移るや品川硝子製作所と称して製作寮に隷属せしむ。製作所を置くの後ち、工場の修繕増築及び近傍の地所購入等に時日を費し、翌十年十一月に至りて漸く実際の操業を見るに至れり。而して興業社の傭教師たりしウオルトンを徴傭し、製造の業を管掌せしめたり。
 是より先き十年一月官制に改正あり。製作寮を廃して新たに工作局を置き、大鳥圭介を其局長に任じ、当所を之に隷属せしめて品川工作分局と改称せり。此年七月舷灯用硝子を製造する工場及びフリント硝子窯建築の工を竣成せしかば、同十一月始めて紅色硝子の製造に従事せり。此舷灯用紅色硝子の製造開始に就き、本邦人技術家として専ら其衝に当りたる者を藤山種広と為す。蓋し種広は硝子製造の先進国として名ある墺太利に於ける製法を学び来りて、之を斯業幼稚なる本邦に移植したる最初の技術者として特筆すべきものなり。工部省が興業社の硝子工場を買上げたる時に先きだつこと四年、即ち明治六年会々墺国の首府維也納に於て勧業博覧会の開催あり。我国亦た之に賛同し墺国博覧会事務局なるものを設け、総裁に参議大隈重信を、副総裁に佐野常民を任命して事務を処理せしむ。而して此年二月常民の渡墺するや我商工業者を随行員として伴ひ行き、彼地に於ける各専門の業務に就て実習せしむる処あり。種広曩に佐賀鍋島家の経営に係る硝子工場に在りて斯業に経験あり。此回の挙あるや二級事務官として其行に加はり、墺国に於て活字製法・活字紙型製法・硝子製法・鉛筆製法の技術を学習練磨することを命ぜらる。当時常民が政府に報告したる技術伝習始末書中に種広をして硝子を伝習せしめたるに関して陳べて曰く、『硝子は欧洲日用必需の品にして衣鏡窓板より杯盤黒斗の類に至るまで皆之による。我国も亦た近来硝子を用ゆること漸く広く、而して皆之を外国の輸入に仰ぐ。維府の会英国及び墺国波希米州の出品、就中精美にして人目を奪へり。種広従来此業に通暁するを以て、墺国スーヘンタール村ストルツエス氏の製造所に入り、硝板製造硝子配合の法を学習せしむ。方今品川に製硝所の設けあるを聞く。種広をして此挙を賛助せしめば、此業を開くに於て裨益多かるべし。抑も波希米州は硝子を製するは多くは僻郷に於てし、英国に比すれば其法簡便にして其費用蓋し少なし。該州より硝板其他の硝器を製するに要する工人若干を来たし、内国に於て此業を開き、また兼て種広をして彼土に再遣し広く諸種の製硝を研究せしめば、其進歩すること速かなるべし
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製硝の原品皆我国に産するを以て、盛に此業を開き、日用消靡するの品をして輸入を仰がざるに至らしめ、経済上の大益を起すを期望す』とあり。之を以てすれば明治の初年に於て、政府も亦た能く硝子製造の将来有望なる工業なるを洞察せしを知るべし。
 種広明治七年の春技術伝習を終りて帰朝す。初め印書局出仕の命を拝す。八年同局の廃止と共に紙幣寮に移り活版局長に任ぜらる。十年同寮の印刷局活版部と改称せらるゝに及び、幾くならずして職を辞し前年設立せられたる工部省の品川硝子製作所に入れり。而して墺国に於て伝習し来りし硝子製造の技術を実地に施して、当所製造事業の発達を計れり。玆に於てか鹿児島藩経営の硝子工場に於て製出せしことありし以来、絶へて之を製するものなかりし舷灯用の紅色硝子の而かも大に進歩せる製品を見るに至りしのみならず、其他模様硝子小板硝子をも試製するに至れり。斯くして彼れは硝子製造技術の伝授を終るや当所を去り(年月不詳)佐野常民の勧めにより井口直樹と共同して鉛筆の製造に従ひ、本邦に於ける鉛筆製造業者の原祖となれり。本邦に於ける硝子製品改良発達の事蹟を述べんとせば、種広の功亦た没すべからざるなり。彼れは後幾くならずして死せり、惜むべき哉。
 工部省は当時大に硝子工業拡張の案を定め、更に硝子工英国人ゼームス、スピートを徴傭し、十二年四月より食器其他常用器具の製造を創始せり。また曩に築造する処のフリント窯屡々破壊し製造を全ふし難きを以て、更に英国製の耐火煉瓦を以て改築し、其工成りたれば、愈此年より製造に従事すると同時に、其十二月化学実験所を新設し、赤鉛炭酸加里等の化学的製品の製造を兼業として営むことに定め、工部大学校化学科の生徒をして実地の操業に当らしめ、同校傭にして教頭兼化学教師たる英国人ダイブルスをして其監督を兼務せしめぬ。翌明治十三年五月に至り、是等の化学製品は始めて販売せらるゝに至りしかば、其利益を以て硝子作業費に加ふることに為せり。
 明治十四年二月 曩に興業社より購入せる板硝子製造窯は、修築の必要ありて早急に業を執る能はざりしを以て、是まで専ら舷灯用硝子其他食器の製造に従ひつゝありしが、爰に至り漸く修築の工終了せしを以て、板硝子の製造に着手せり。然るに板硝子の製造は依然として困難の状態を脱せず、翌十五年に至りて製造を中止するの止むなきに至りぬ。又此年三月当所製造の硝子各種を第二回内国勧業博覧会に出陳し、第二等有功賞牌を得たり。蓋し本邦製硝子が博覧会に於て賞を得たる嚆矢なるべし。同五月更に硝子工英国人エマニユヱル、ホープトアンを増傭し、切子摺模様の技術を職工に伝習せしめぬ。翌六月是より先き傭入れたる坩堝工英国人スキートモル任期満ちて帰国す。彼れは工部省の管轄と為りし以来其職に勉励せし廉を以て、慰労として銀若干を下賜せらる。十六年二月化学実験所を廃止し、また硝子工スピートを解傭し慰労として同じく銀若干を下賜せられぬ。蓋し此時本邦に於けるフリント硝子の技術熟達し、最早外国人に教を待つの要なきに至りしに由る。此月また前に規定せる販売規則を更正し、東京市内の商人杉田幸五郎に命じて、京橋区出雲町なる其商店に品川工作分局製造硝子の売捌所を開かしむ。次いで五月太政官に稟議する所あり
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曰く『当所工業は最初職工教育の為め、専ら日用器物の製造を為し、稍や其技も進歩せしに依り、今一歩を進めて板硝子の製造を完成せんと欲す。蓋し板硝子は目下官民屋舎に要する夥多にして、其輸入も少なからず。幸ひ工場窯機械も粗ぼ具備せるを以て、既に数回の試験も為したれば、此上は実地職工手練の一点にあり。故に之に要する費金として向ふ四ケ年間に金九万四千円を下附せられんことを』と。六月に至り此稟議は太政官の允可する所となり、十六年度の試験費として金弐万円を下附せられしかば、前年以来中止せし板硝子の製造を再興したるも、数ケ月にして又もや中止するの已むなきに至りぬ。之を以て観るに板硝子製造の如何に至難なるかを知るに足らむ。
 此年九月工作局を廃し、品川工作分局を品川硝子製作所の旧名に復して工部省の直轄と為し、鉱山局長佐藤与三をして、所長を兼務せしむ。従来当工場の事務を管掌せし者には福谷啓吉及び佐伯秀明あり。其長を置きたるは今回を以て始めとす同時に工部権少書記官渡辺昇を以て会計主務心得と為せり。同十一月皇太后宮品川硝子製作所に行啓あり、工部卿佐々木高行、所長佐藤与三の先導によりて諸工場を台覧せらる。此際製造器物数拾個を献納し、勅奏任官以下職工に至るまで酒饌料の下賜ありたり。
 政府は孜々として硝子器具類の製造改良を計る処ありしと雖も、当時本邦生活の程度未だ是等の製品を用ゆるに意を注ぐ者多からず、為めに当所に於ける一ケ月の製品は之を以て一ケ年間の需要を充たして猶ほ余裕あるの状態なりき。加之舷灯は角度の製出困難にして完全なるものと云ひ難く、依て之が救済策として洋灯油壷及び火舎をも合せて製造するに至れり。而して其製品は相応に良質のものを得たりと雖も、市中には俗にジヤツパン吹と呼ばるゝ粗製にして価の低廉なる品物の売行き広く、従て之と競争を免がれざるが為め、国庫の損失は毎年数万円に達せり。爰に於て此十一月太政官に稟請して曰く、『当製造所創業以来莫大の費用を要し、目今漸く技術進歩し精良なる製品も稍や出づるに至りたりと雖も、収支常に償はず、畢竟官省の事業は活溌なる営業を試むる能はず。寧ろ之を民業に移して其発達を謀らしむるを可とせん』と、太政官直ちに之を批し、貸与の方法を詳細取調べて具申すべしと令せり。また此月所長の更迭あり、工部権少書記官阿部浩を以て之に代らしめらる。浩其任を襲ぐや、太政官に稟請して曰く、『硝子製造の業創開以来、工場を構造し、機械を購収し、工師を徴傭し、職工を養成し、製品を試験する等に巨額の費金を要し、技術漸く進歩し、十五年度に於て製出する所の器具、即ち食器・火舎・化学器具の類は、其総数弐拾九万八千五百五個に達し、輸入品に劣らざるものも巨多なるに至り、稍や初当の目的を達するに至りしと雖も、営業上に於ては収支相償はず、痛く諸費を節減するも年毎に欠額補塡を仰ぐにあらざれば、之を継続すべからざるが故に、曩に該工場を資力ある商賈に貸与して営業を継承せしめんことを稟請せり。因て今創立以来本年に至るまでの費額を精査するに金拾八万九千壱百三拾壱円余にして、未だ償還せざるの額拾七万五千六百九拾三円余なり。然り而して諸工場及び諸機械地所等の財産に属する価格は六万六千三百九
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拾三円余、其残額拾万九千三百円余は試験費等の無形に属して消耗せしものなれば、都て該金の償還を貸与人に負担せしめんとするも之を肯ぜざるべきなり。請ふ之を奈何せん』と。太政官は之に対し興業総費額は未償還額と為し、暫く之を擱置し、仮借人より漸次納付すべき金額を以て償却すべきを令し来りしと共に、品川硝子製作所を人民に貸与すべき条約書案を允裁して下附せり。
 越えて十七年二月、当所諸工場及び諸機械地所等一切を併せて貸与せられんことを稲葉正邦及び西村勝三等より請願するあり。乃ち之を聴許し、其契約を結び、拾ケ年間を期して該工場を経営せしむることと為せり。


〔参考〕中外物価新報 第九八三号〔明治一八年七月一九日〕 品川硝子製造所(DK110063k-0010)
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中外物価新報 第九八三号〔明治一八年七月一九日〕
○品川硝子製造所 同製造所ハ先きに工部省の所轄たりし際、同省にて消糜されし費金ハ無慮四十万円余の巨額なりと云へど、嘗て其効能もあらざりしかば実に之を持て余されしとかにて、人皆之を難工業と称する程なりしが、彼の有名なる西村勝三氏ハ如何にも之を遺憾に思ひどうかなして之を健全なる製造所に為さんと苦慮し、自ら奮て同所の払下を出願し過般其許可を得たるに付、夫より職工を淘汰し竈を改築する等、着々之に改良を加へ、近頃ハ又舷灯玻璃の製造を始めしに、最も完全の品を製し得て已に管舷局の検査をも経たるより、各県勧業課へ其由を具申して之が買上を請ひたれば、長崎県抔にてハ早くも百組の注文を為され、其他も追々注文ある趣にて、且価も低廉なりとの評判なれば日に増し売行くべきハ必定なり、斯れば独り舷灯玻璃のみならず余の製品も漸くに一般の需用を増し、西村氏が苦慮熱進《(心)》の効果を現ハすも、蓋し遠きにあらざるべし


〔参考〕中外物価新報 第一〇六七号〔明治一八年一〇月二八日〕 品川硝子製造所の進歩(DK110063k-0011)
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中外物価新報 第一〇六七号〔明治一八年一〇月二八日〕
○品川硝子製造所の進歩 我が工業家中に其人ありと知られたる工業熱心家西村勝三氏ハ、過般の本紙にも記せし如く眼前の損失あるを厭はず、其筋にて持て余されたる品川硝子製造所を引受け、毎月凡そ五六百円程も損毛を為して刻苦勉励し、其以前工作局所轄の時分にハ僅か一竈なりしを、今度更に五個の竈を増築して六個となし、職工にも各自専門の業を孰らせ、鋭意改良を図りしかば、同氏が着手以来僅僅六ケ月余にして工術大に練磨し、昨今ハ漸く損毛を免るゝ様になりしを以て、猶近年燭乙人《(独)》シーメン氏の発明に係る瓦斯を使用する竈を新築せんと計画中の由、同氏ハ嘗て造靴製皮の商工業に好成蹟を現ハしたる人なるが、今又多年工作局にて殆んど其維持に困却されたる硝子工業を引受け、大に改良拡張したるハ年来同氏が工業上の経験に富み、職工の奨励法其宜きを得たるが為めなるべし、然るに如何なる誤聞に出でしや、去る十八日の報知新聞に同氏ハ右品川工場の拝借を免願なしたるに付、某氏ハ其事業を経続《(継)》せんとて同所払下の儀を其筋へ出願せり云々と掲報ありし為め、遠国との取引上に不都合を生じ同氏もほとほと困じ居らるゝよしなれば、聊か目今の景況を記載し同氏の為めに其寃を雪きぬ
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〔参考〕中外物価新報〔明治二一年七月三日〕 ○品川硝子会社開業式(DK110063k-0012)
第11巻 p.459 ページ画像

中外物価新報〔明治二一年七月三日〕
    ○品川硝子会社開業式
同会社にてハ一昨日午前十一時より株主六十名の相談会を開きて、定款修正の廉々を議定し、続て午後三時より仮開業式を執行せり、当日の来賓ハ各麦酒製造所の役員及各新聞記者等にして、柏村社長の祝詞ありて一同へ立食の饗応ありしが、同社にてハ今度独逸式に傚ひて更に新竈を増築し、右落成の上本開業式を執行する筈なりとぞ


〔参考〕中外商業新報 第二一六八号〔明治二二年六月一八日〕 品川硝子会社増株(DK110063k-0013)
第11巻 p.459 ページ画像

中外商業新報 第二一六八号〔明治二二年六月一八日〕
    品川硝子会社増株
同会社にては今度規模を拡張して板硝子及ひコツプ、瓶等の世間に最も需用多きものを製出する為め、去十四日株主臨時総会を開き従来十五万円の資本なりしを、更に四十五万円増加し合計六十万円と為したり、依て定款中にも多少改正を加へ且つ原料及石炭に高《(富カ)》める九州又は中国辺に恰好の地を卜して、新に工場を置設《(設置)》する筈にて渋沢栄一・益田孝・柏村信の三氏は相談役たることを承諾したりと云ふ


〔参考〕中外商業新報 第二一七六号〔明治二二年六月二七日〕 品川硝子会社の計画(DK110063k-0014)
第11巻 p.459 ページ画像

中外商業新報 第二一七六号〔明治二二年六月二七日〕
    品川硝子会社の計画
同会社ハ曩に三条内府の所有なりしも、其後西村勝三氏の所有となり以来事業の拡張とともに、又変じて竟に会社組織となしたるものにて資本金は十五万円となし一株五十円の内、既に二十五円払込済となり即七万五千円の募集済となり居たるものなりしか、本月十四日株主臨時総会の決議を以て更に四十五万円を増額し、資本総額を六十万円と定めたるが、比内旧来の株券だけは株主の便を計りて、今回更に株式取引所に依頼し定期売買に附することとなり、取引所に於ては追て其筋へ請願するの手続をなす筈なりと、又何故に斯く資本を増加せしかといふに同社の従来仕用《(使)》し来りたる器械は欧米の如くならず、何れも不完全の点あるにより更に是を改良する事、又更に一大製造所を一箇処、九州肥前地方へ新設し以て盛んに板硝子及び器物を製造し、尚着着事業を拡張するの目的より出たるものなりといふ