デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
11節 硝子製造業
4款 関係会社諸資料 2. 日本板硝子株式会社
■綱文

第11巻 p.479-482(DK110066k) ページ画像

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■資料

竜門雑誌 第一四二号・第二四頁 〔明治三三年三月二五日〕 ○日本板硝子株式会社の創立(DK110066k-0001)
第11巻 p.479 ページ画像

竜門雑誌 第一四二号・第二四頁 〔明治三三年三月二五日〕
    ○日本板硝子株式会社の創立
青淵先生は夙に我国の硝子製造業に関係を有し、明治二十年益田孝・浅野総一郎等諸氏と共に磐城硝子会社を発起せられたることあり、翌廿一年には品川硝子会社の設立を賛助せられて、其相談役となられしか、両社共不幸にして解散せしも先生前室の姉の子息にして幼より先生の薫陶を受けし、田中栄八郎氏の田中工場は製瓶事業を企てゝ成功し、今は東洋硝子株式会社となり、当竜門社長の如きも其株主の一人なるが、今回岩城滝次郎・斉藤熊三郎・長岡直三・岡崎久次郎・外山義達等の諸氏は資本金三十万円を以て日本板硝子株式会社を設立し、品川の硝子工場を買収して大に硝子製造業を営まんとするの計画あり先生及浅野総一郎氏も此挙を賛し、同社は既に株式募集に着手したり


日本近世窯業史 (大日本窯業協会編) 第四編・第九五―九六頁〔大正六年五月〕(DK110066k-0002)
第11巻 p.479-480 ページ画像

日本近世窯業史 (大日本窯業協会編) 第四編・第九五―九六頁〔大正六年五月〕
 ○第三章第四節 板硝子製造業
    第一 東京地方
○上略
 即ち曩に品川硝子製作所に於て板硝子試製に従事せる東京の岩城滝次郎は、其の関係上最も熱心に斯業に志を有し、先づ第一着として米国に赴きて実際を視察せんとし、斎藤熊三郎及び浅野総一郎等の助力を得て目的を果し、三十二年帰朝せしを以て、当時硝子商として板硝子輸入の激増を慨嘆せる熊三郎は、直ちに滝次郎を中心として資本金三十万円を以て一会社を設立せんと計劃し、浅野総一郎・外山義達・河野松五郎・森川惣助・長富直三・糸永新太郎・平野与市・岡崎久次郎等を発起人とし、株式公募に先だち試験的に製造を行はんとして、三十三年三月金六万五千円を以て品川硝子会社の旧工場を譲り受け、熊三郎経営の衝に当り滝次郎を主任技術者として試製に着手せしが容易に目的を達せず、漸く七月に至りて二尺平方計りの硝子板一枚を得しが、既に此時迄に試験費七千余円を消費し、且つ一日操業毎に百円乃至百五十円を損失する悲境に沈淪し、加ふるに滝次郎故ありて任を辞し高弟川村鉄太郎之に更り、此頃より損失補塡の一法として食器製
 - 第11巻 p.480 -ページ画像 
造を兼営せしも頽勢輓回し難く、日本勧業銀行の借入金三万円をも消尽し、遂に三十四年十二月末熊三郎は損失数万円を負ひて工場を閉鎖するの止むなきに達せり。
○下略


明治工業史 化学工業編・第四三〇―四三二頁〔昭和五年一〇月〕(DK110066k-0003)
第11巻 p.480-481 ページ画像

明治工業史 化学工業編・第四三〇―四三二頁〔昭和五年一〇月〕
 ○第二編第八章 窯業
    第四 板硝子製造業
○上略
 明治三十年頃、日清戦役終りて事業各地に興隆せる際、一旦中絶したる板硝子製造の計画は該品の需用日に益々盛なるに従ひ、再び擡頭し来れり。曩に品川硝子製作所に於て板硝子試製に従事せる東京の岩城滝次郎は最も熱心に斯業に志を有し、先づ第一著に米国に赴きて実際を視察せんとし、助力者を得て其の志望を果し、三十二年帰朝するや、資本金参拾万円を以て一会社を設立せんと計画し、株式公募に先ち、試製を行ひたるに容易に目的を達せず。三十三年七月に至り漸く二尺平方許りの硝子板一枚を得しが、既に此の時迄に試験費七千余円を消費し、且一日操業毎に、百円乃至百五拾円を損失する悲境に沈淪し、為に遂に其の目的を達せずして止みたり。
 然るに板硝子の輸入額は年々増加し、三十四・五年頃既に輸入年額百万円に上りしかば、斯業に注目するもの啻に硝子業関係商工業者のみに止まらず、明治三十四年第十六議会において衆議院議員根本正等より窓硝子製造業保護奨励に関する建議案提出せられたり。当時また農商務省工業試験所長高山甚太郎は「工業試験所に板硝子製造練習工場設置の意見書」を草し、之を政府に提出せり。朝野の輿論斯くの如く、専門家の意見斯くの如くなるを以て、政府も亦、其の主旨を容れ我が邦に板硝子製造所設立の必要を認め農商務省は所長高山に命ずるに、斯業に関する計画設備の更に詳細なる調査を以てせり。蓋し是れ先づ政府の事業として自ら本業を経営せんとしたるを以てなり。玆に於て高山所長は、東京高等工業学校助教授にして当時窯業研究の為、独逸留学中なりし平野耕輔に板硝子製造に必要なる最新式窯設計及び外国技師招聘手続等に関する実地の取調方を委託し、平野耕輔は報告書に詳細なる収支予算を添へて提出し、次いで農商務省は在白耳義実業練習生益田熊太郎及び山田三次郎に命じて同国に於ける斯業を調査せしめ、外務省も白耳義公使館書記官小西孝太郎に命じて同一の事項を調査せしむると共に、政府は有力なる実業家、硝子事業に経験ある者数名を集め、其の意見を問ふ所あり。斯くて板硝子製造業を官営となすべきか、民業に補助すべきかに付、朝野の議論沸騰せしが、政府は遂に之を後者に拠るに決し、資本金壱百万円の株式会社を設立せしめ、之に対し四箇年間に五拾万壱千円の保護金を下附する事とせり。
玆に於て民間の有志者は会社の創立に著手し、前途事業の拡張を見込み、資本金百万円を以て経営する計画を立て、当初の起業費及び運転資金を六拾万円とし、残り四拾万円を拡張費に充つる事として予算を作成し、明治三十五年十月西村勝三・大倉喜八郎・高島小金治・植村
 - 第11巻 p.481 -ページ画像 
澄三郎・藤村義尚・白石元次郎・斎藤熊三郎・浅野総一郎の八名連署して、板硝子製造業補助金下附請願書を、時の農商務大臣平田東助に提出せり。之に対し政府は第十七議会に提出したる歳計予算案に此の補助金を計上し、愈々実行を見るに至らんとしたるに、不幸議会は解散となり。次いで日露戦役となり。軍国の政府多端となりしかば、此の計画も自ら延期の止むなきに至りぬ。後、平和克復となるや、所謂戦後経営事業の一として、大阪に板硝子製造を主なる目的とせる東洋硝子製造株式会社創立せられしかば、板硝子製造業補助のことは自然沙汰止みとなり、爾来十余年間明治年代中には再び東京及び其の附近に板硝子製造を企図するものなかりき。



〔参考〕東京経済雑誌 第四六巻一一六一号・第一〇八四―一〇八五頁〔明治二五年一二月六日〕 ○板硝子製造補助案(DK110066k-0004)
第11巻 p.481-482 ページ画像

東京経済雑誌 第四六巻一一六一号・第一〇八四―一〇八五頁〔明治二五年一二月六日〕
    ○板硝子製造補助案
板硝子製造所設立につき、政府が明年度より四ケ年継続として五十万一千円の補助を与ふることに決し、今期議会に提出するに付きては、之が補助命令案は左の如く内定し居れりと云ふ
 第一条 窓玻璃の製造を奨励し職工を養成せしむる為め、政府は某会社に対して工場設計・工事監査及摸範技術者雇入に要する経費及職工練習槽窯設備費及練習費補助として左の補助金を給与す、
  但補助金は毎年六月及十二月の二期に之を給与す
   一金五万九千二百円 明治三十六年度給与金
   一金十三万八千四百円 同 三十七年度同上
   一金十三万八千四百円 同 三十八年度同上
   一金十六万五千円 同 三十九年度同上
第二条 某会社は始て補助を受くる年度内に於て、農商務大臣の監督の下に最新式に則り、一ケ月四万平方メートル以上の窓玻璃を製造し得る槽窯一基、尚之に相当する工場及諸般の設備を為し、其次年内に於て更に同様の槽窯一基及之に相当する工場並に諸般の設備を為すべし
第三条 某会社は前条に記載したる槽窯二基の内、一基は常に之を使用して作業を為すべし
第四条 某会社は第二条に記載したる最初に設備すべき槽窯及工場の設計及建築施設の監督は、農商務大臣の承認したる外国技師に之を嘱托すべし
第五条 補助年期間某会社重役の新任退任及定款の変更は予め農商務大臣の認可を経べし
第六条 某会社は補助を受くる次年度以後に於ける補助年期間は左記の外国技術者を雇聘して本邦職工養成に勉むべし、但し其雇聘解雇の場合及不得止事故に依り其人員を減ずる場合に於ては農商務大臣の認可を経べし
  一、吹方十二人 一、大助手十二人
  一、延展工四人 一、裁断工一人
  一、火工三人
 - 第11巻 p.482 -ページ画像 
第七条 某会社は補助を受くる次年度以後の補助年期間、自己の工場に使用するの目的を以て少なくとも職工六十六人を養成するの外、農商務省の給費に係る職工五十人を養成するの義務あるものとす
第八条 某会社は第二条・第三条に記載したる設備を要する外、特に職工養成の目的に使用する為め毎回原料一千貫匁以上を溶解し得る槽窯及之に相当する設備を施し、初めて補助を受くる次年度より満三年間常に之を使用して作業の練習を為さしむべし
第九条 補助年期間某会社営業の報告収支決算は其の都度農商務大臣へ届出づべし
第十条 補助年期間農商務大臣は随時官吏を派遣し営業の状況を視察せしめ、且事業の成績を報告せしむるべし
第十一条 此命令の条項に違背したる時又は職工養成の目的を達すること能はずと認めたる時は、農商務大臣は補助金の支給を停止することあるべし