デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
12節 煉瓦製造業
1款 品川白煉瓦株式会社
■綱文

第11巻 p.500-511(DK110073k) ページ画像

明治40年10月25日(1907年)

是日栄一、当会社株主臨時総会ニ出席ス。栄一ノ推挙セル郷隆三郎専務取締役ニ就任セリ。尋イデ
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十一月二十五日帝国ホテルニ於ケル披露会ニ出席シ一場ノ演説ヲナシ、当会社創立以来ノ沿革ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK110073k-0001)
第11巻 p.501 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年
十月二十五日 曇 冷                起床七時就蓐十一時三十分
○上略 午後一時品川白煉瓦会社株主総会ニ出席ス ○下略
十月二十六日 晴 冷                起床七時就蓐十二時
○上略 十一時海軍省ヲ訪ヒ○中略 又山内中将ニ面会シテ白煉瓦会社ノコトヲ依頼ス○下略


竜門雑誌 第二三二号・第二五頁 〔明治四〇年九月二五日〕 ○郷隆三郎君の品川白煉瓦株式会社入社(DK110073k-0002)
第11巻 p.501 ページ画像

竜門雑誌  第二三二号・第二五頁 〔明治四〇年九月二五日〕
○郷隆三郎君の品川白煉瓦株式会社入社 社員郷隆三郎君は去る明治二十六年東京高等商業学校卒業後堀越商会に入り、其支配人として永く勤続せられたるが、今回青淵先生の推挙に依りて品川白煉瓦株式会社に専務取締役として就任せらるゝこととなりたり、右は同社相談役たる青淵先生が特に故西村勝三氏の遺託に依り、会社経営の任に当るべき適任の専務者を選定せられし次第なれば、併せて堀越氏にも交渉して快諾を得、玆に確定を見たる次第にて郷氏は従来の関係上、堀越商会には相談役として向後も店務の協議に与からるゝ筈なりと云ふ


竜門雑誌 第二三五号・第三八―五一頁〔明治四〇年一二月二五日〕 ○品川白煉瓦会社紀念祝賀会(DK110073k-0003)
第11巻 p.501-510 ページ画像

竜門雑誌  第二三五号・第三八―五一頁〔明治四〇年一二月二五日〕
○品川白煉瓦会社紀念祝賀会 青淵先生が相談役として監督指導の労を執らるゝ品川白煉瓦株式会社に於ては、本年の東京勧業博覧会より其出品に対し名誉金牌を受領したると、又青淵先生が同会社の相談役たることを承諾せられたると、新任取締役郷隆三郎氏、専務取締役に就任せられたる披露とを兼ね、各得意先並朝野の紳士百有余名を、去十一月二十五日帝国「ホテル」に招待し晩餐会を開催し、左に記載する如く席上郷専務取締役の挨拶、青淵先生外来賓諸氏の演説あり、食後主賓一同喫煙室に入り懇談款話、時を移し和気靄々の中に散会したり、洵に近来の盛会なりしと云ふ
    郷隆三郎君の挨拶
 閣下、諸君、今夕は時節柄御多忙中にあらせらるゝにも拘はらず、御繰合せ下さいまして斯く御臨場を得ましたことは、我社の光栄と致します所で、厚く御礼を申上げます。
 当社も事新しく申すにも及ばぬことでございますが、明治八年旧の社長西村勝三氏が、仏国人工学士ペレゲレンといふ人に教授を受けて一家の事業として経営致しましたに起因致しまして、当初は伊勢勝煉瓦製造所と申す名の下に成立致し、後に品川白煉瓦製造所と改名致しました、明治三十三年に組織を改めて合資会社と致し、更に三十六年に至つて株式会社に変更致しまして今日に至りました次第でございます、実に我国に於ける耐火煉瓦製造の嚆矢とも申し得ますることは、窃に我社の誇る所でございます、回顧しますれば玆に三十有余年、其間幾多の波瀾を経ましたなれども、西村氏は屈せず撓まず熱心に経営
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せられ、或は自ら海外に航して、外国に於ける斯業の実況を視察し、屡々技師を欧米諸国に遣しまして、泰西に於ける学理及び実際を調べさせ、我国に於ける化学工業上の学理を御研究なすつて居られる大家諸氏の御助勢と、自分の多年実験しましたる練磨とに依りまして、遂に非常な強熱に耐へ得る品物を製し、又化学工業上必要なる良品を製することに相成りまして、漸次従来輸入して居りまする外国品を防遏するのみならず、進んでは清韓地方に輸出して、外国品と競争せんとする機運に立至りましてございます、又其製造高に至りましても本社の外に大阪及び磐城に二大工場を設置致しまして、之を従来の支工場其他と合せますると、一箇月優に二百五十万個、即ち一箇年三千万個の製品を産出し得るまでに相成りました、原料は全国に渉つて豊富なる資源を有して居ります、製造の設備に至つては欧米新式の機械を採用し、之に我が社多年研究しましたる独特の技能を応用致しまして、製造法には革新を加へ、以て甚だ憚り多い言でございますが、我国に於ける耐火煉瓦の模範工場とまで賞讃を博するに至りましたのでございます。
 諸君、外国に於ける例は別に致しまして、我国に於てほ三十有余年の歴史を持つて居る工業会社は、不肖の寡聞なる甚だ稀なりと承つて居ります、我社は其経営上の組織方法に就きましては、時勢の変遷に応じて形の変つて現はれて居ることはございますなれども、三十三年の間終始一貫耐火煉瓦事業に従事致しまして、而して今日に立至り、以て我国工業会社の最も古きものゝ一に数へられるといふことは、当社の光栄と存じて居る所でございます、加ふるに当春開設されましたる東京勧業博覧会に於きまして名誉金牌を受領致しました、此博覧会は東京博覧会と申して名は地方的のものでございますなれども、其実質に至つては皆様御承知の通り殆んど内国勧業博覧会と択ぶ所はないと存じて居ります、斯る博覧会に於て最高級なる賞牌を得ましたことは亦我社が、大に光栄として歓ぶ所でございます、斯の如く発展し来り、斯の如く光栄ある歴史を有することを得、斯の如く栄誉ある表彰を得ましたることは、蓋し聖代の御余沢たる事は申すまでもございませぬなれども、畢竟海陸軍逓信製鉄所諸官衙は申すに及ばず、御来賓諸君を始め各地御得意様方の多年の御引立御贔負と、並に当社に対つて多大の同情を御寄せ下さる所の諸君の御厚志の賜物に外ならぬと、深く感謝致しまする次第でございます、斯く考へまして、かねがね我社は平素の御厚志に対して感謝の微意を表したいと考へて居りましたが、其機会を得ませぬ中に、不幸にも故西村社長は病を得まして本年一月遂に逝去致されました、当時は一時暗夜に灯火を失ひました如く甚だ心細く感じましたけれども、多年氏と共に業を執り、氏の薫陶に依つて此業を研究致しました者どもが集りまして、諸君の御高庇を力に一生懸命奮発して、故社長の事業を持続し、以て高顧に酬ひんとするに当りまして、幸にも当社創立以来非常に深き関係を持つて居られる所の男爵渋沢栄一君は、故社長西村君の友人としての遺託を重んぜられまして、厚き思召を以て、欣んで我社の事業に就て指導御監督下さるといふことを御承諾下さいました、是は我社の栄誉と致しまして
 - 第11巻 p.503 -ページ画像 
肝銘に堪へぬ次第でございます、玆に於て吾々の事業は赫々たる光明を認め後来に向て益々発展するの希望を得まして、一同大に奮発心を重ねましたる折柄、当夏、前申しました如く名誉賞牌を得ましたに就きまして、此好機会を利用して平素の御厚意に報い、社長死去の後と雖ども、実業界に於ける泰斗と仰がれる渋沢男爵が、御懇切の御指導御監督を下さる以上は、将来とも御得意様方に必ず御満足を償ひ得られるであらうといふことを信じまして、皆様に此事を申上げ御安心を希ひたく御披露を致したいといふやうな意味も持ちまして、名誉金牌を得ましたことも平素御引立の余光と存じ感謝の意を表しまする為に旁々一夕の小宴を開いて御来臨を願ひまする考でございましたなれども、当時は丁度炎暑の折柄御迷惑千万と御推察申上げまして、差延ばして此小春の好季節を待つて、今夕此会を開きました次第で御座います、意味を含みますること色々多く、供しまする所のもの甚だ粗末でありまして、何等の設備なく貴賓を待つの礼に欠けて居りまするのは恐縮千万でございまするけれども、どうぞ吾々の微意のある所を御酌取り下さいまして欠礼の段を御宥し下さらば有難き仕合せでございます、此機会に於て、聊か紀念の為に造りました甚だ詰らぬものでございますが御手許へ差出し置きましてございます、御邪魔ながら御持帰の栄を得ますれば本懐の至りに存じます、尚終りに臨みまして不肖隆三郎、去月二十五日株主臨時総会に於きまして、取締役に就任致しました、当日予ての希望とありまして、前専務藤村、永々皆様の御高配を忝ふ致して居りましたが、関係事業上色々都合に依つて専務たることを辞任致されまして、取締役会の相談の結果、私が専務の職を汚すことに相成りました、甚だ未熟の者でございますけれども、渋沢男爵の御懇篤なる御指導の下に、御贔負厚き諸君の御高庇を頼りと致しまして、一意専心此社の事業に尽し御得意様の御希望に添はんと存じ居りますれば何卒倍旧の御引立を偏に希ひまする次第でございます(拍手)、玆に杯を挙げまして謹で来賓諸君の御健康を祝しますればどうぞ皆様御面倒様ながら倶に杯を御挙げ下さる様願ひます(一同起立乾盃)
    青淵先生の演説
 御主人公及び臨場の諸貴賓、私は一面には今夕御招を蒙つた客として、此盛宴に列しましたる御礼を申上げなければなりませぬが、又一面には丁度今郷君から、私が此会社の相談役に任じましたことに就て御話がありましたが、其相談役として爾来御厚誼を蒙つた臨場の諸君に謝辞を述べ、尚将来厚き御引立を戴きたいといふの御願を申上げねばならぬ位地に居りまするのです、一向これといつて学問致しましたこともございませず、殊に技術の事柄などは何も存じませぬ私が、此品川白煉瓦会社の相談役に任じたといふことは、余程奇観とも申すべき訳で、色々の事に携はる渋沢だから、何でもござれに引受けると定めし御批評もございませうが、併し聊かそれには理由がございまして何か御申訳のやうでございますけれども、ちよつと一言其事を先づ申上げやうと思ひます。
 今郷君が御話なされた通り、此白煉瓦製造事業の極くの起原は明治
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六年頃であつたやうに思ひます、私が同僚の縁ある高松豊吉君なども此処に御列席でございますが、瓦斯会社が瓦斯局として東京府の管理に属して居りました時、世話をするやうにと任じましたのが、明治七年の冬から八年の春に掛けてゞございます、其頃既に西村君が此の耐火煉瓦製造といふことに苦心されかけたのでございます、当時私は屡屡瓦斯局に参つて、仏蘭西人のペレゲレンといふ人に、瓦斯のことに就て質疑討論をした際に、どうしても斯る事業の発達に伴つて、日本に耐火煉瓦製造といふことの仕事が発達して来なければ、真に化学工業の進歩を見ることは出来ないといふことを説かれた、西村君も大に此説に服し、蓋し西村君と雖ども其時分のことで確かに調べた意見ではない、悪く言へば聞き学問であつたでありませう、当時さやうな道理を実際に能く発明して、確乎たる意見を立てるといふ学識経験を持つた人は、未だ日本には無かつたと言はねばならぬのです、爾来私は西村君が耐火煉瓦製造に苦心せらるゝ有様を見て、当時同君が靴を造る革を製造することに頻りに困苦して居られたが、未だ其成功が十分でない、然るに今の耐火煉瓦のことに又苦んで居られるが、誠に其熱心には感じたけれども、果して此事が完全に成功するや否やといふ疑を持ちました、のみならず瓦斯局といふものは東京府のものであるからして、個人の仕事として耐火煉瓦製造を瓦斯局の片手間に遣ることは宜くない、真実に御遣りなさる御考ならば、寧ろ引離して専心御従事なさる方が宜からうといふことまで忠告したことを尚記臆して居ります、其後瓦斯局の方は今の明治八年から凡そ十年ばかり経ちましてから、遂にこれは民間の一事業になり得ると考へて、之を民設会社に引渡したいといふことに自分主唱致して、今日の瓦斯会社が其時から成立つて参りましたが、未だ其頃には白煉瓦の方は十分なる成蹟を挙げることが出来なかつたのであります、併し西村君の熱心、十年十五年の歳月を経て尚其事に辛苦経営されて居るのを見て、誠に御奇特のことゝは感じましたけれども、或は之が果して世の中の必要物とまでなり得るか否やといふことは、多少私共危みを以て観て居つたのであります、然るにそれより又十数年を経て殆んど三十年の後に至つて、始めて之を会社組織にしたいからして、どうぞ此処まで苦んで来たから、多分の仲間になつて呉れぬでも宜いが、御前は昔の縁故もあるから一部分の合資者になつて呉れといふことを勧められまして、玆に始めて私も合資者の仲間入を致した、即ち白煉瓦製造に利害の関係を持つといふ身になりましたのでございます、続いて更に一歩進めなければならぬ必要があるので、合資組織では資本を増すにも不便であるから株式会社に致し、遂に追々事業も進歩して、殆んど今日は稍々大きな会社とも唱へられるやうに相成つたのでございます。
 唯今郷君が、故西村民が病革まる場合に、頻りに将来のことに就て苦心されたといふことを述べられましたが、此事は今御目出度い席に之を言ふも甚だ心苦しいことでございますけれども、故西村君の情を酌んで見ますると一言諸君の御耳に達せざるを得ないのであります、故西村氏が危篤に陥る少し前でありました、此白煉瓦のことに就ては三十年以前より渋沢に酷く心配させて居たことだが、未だ本当の安全
 - 第11巻 p.505 -ページ画像 
なる会社に立至らしめたとは言へぬ、然るに私はどうも此病気の為めに再び起つことは出来ぬかと思ふ、果してさうなつたならば是から先先の会社が如何になるか、相当な人が十分な経常はして呉れるであらうけれども、先づ年取つた人で大体の相談相手になつて呉れる人がなかつたならば、未来は甚だ案じられる、三十三年以前に心を添へて呉れた渋沢であるから、今日は幸に小部分でも利害の関係を共にして居る位地にあるし、旁々深い心配は掛けられぬでも、どうぞ会社の後援者になつて、これから先の力添をして欲しい、それに就ては是非一度面会したいといふことを、人を以て伝へられました、早速見舞に参りますと、余程衰へて殆んと言語を発するも困難らしうございましたが其重き病床に其事を言はれましたので、実は私も涙濺ぎて御引受をすると申したのでございます、これは先づ私が技術の事も何も存じませぬでも、御断りの出来ませぬといふ一の理由であつたのでございます。
 それから更に最一つ私が此事柄に就て是非力を入れて見たいといふ観念を持ちまするのは、段々日本も種々なる工業が進んで参りますることは実に喜ばしい、併し之を欧米先進国に較べて見れば完全とは申されぬ、左様に進んで来た事業中に、何が能く進み何が未だ足らぬかといふことを考へて見ますれば、私は学問も乏しく、広い事柄は存じませぬけれども、どうも此化学工業が日本に於ては劣つて居るではなからうか、之を劣つたなりで吾々実業家が安心して居ることは宜しくないことではないかといふ観念が深いのでございます、そこで此化学工業に必要な事柄は何かといふと、即ち人間の働くに米が要る、人間の働くに米が要るやうなもので、此耐火煉瓦は化学工業を発達せしむる重なる元素であると申しても、格別私が素人だからと申して、高山博士も此処に居られますが笑はれることはなからうと思ひます、果して斯う考へますると、未来の国富を増進する為に、どうしても此化学工業を盛にしたいといふことは私が希望するばかりでなく、満場の諸君も必ず御望みなさるに違ひない、既に然らば折角これまで西村氏が二十有余年の御苦心を以て此処まで発達しかけた事業でございますから、之を弥増しに発達せしむるといふことは、即ち日本の化学工業を進歩せしむる一段階にもなり得るであらう、斯く論じ来りますれば、日本の国富を増進すべき化学工業の進歩を望む諸君、此処に御集りの諸君は多く其方に縁故の近い諸君と思ひますが、皆両手を挙げて当会社の事業に御賛成下さることゝ思ふのでございます(拍手)今郷君は会社が金牌を貰つたことを誇るやうに仰しやつたが、固より金牌を貰つたことは名誉に相違ないから誇つても宜い、併しながら私は此金牌を貰つたのは、此処に御列席の皆様が、品川白煉瓦会社に金牌を下さるやうにして下すつたと斯う思ふのです、決して白煉瓦が貰つたのではなくして、諸君が煉瓦会社に与へて下すつたと申して宜いのです、総て事業が進むといふのは、例へは呉服屋が流行を造り出すといふこともございますけれども、要するに需用者があつて始めて其事業が発達するのです、果して然らば此白煉瓦会社が今度幾層の繁昌を来すといふことは、即ち化学工業に熱心なる満場諸君の御力であると言はな
 - 第11巻 p.506 -ページ画像 
ければならぬ、故に之を反対に言ふならば、若し白煉瓦会社が衰微の非運を見ることがあつたならば、是れ日本の化学工業が進まぬのである(拍手)日本の化学工業の進まぬのは日本の富の進まぬのである、斯う申すと、品川白煉瓦会社の振はぬのは、会社自身の罪ではなくして、即ち皆様の罪である、其責任は御列席の諸君に帰せなければならぬのでございます(拍子)今日斯る盛運に向ひましたのも故西村氏が不屈不撓の精神と、之に加へて皆様の御同情を得、就中此処に御列席の高山君なり、手島君なり、阪田君なり、是等学者諸君の御力添にあることを思ひますれば、実に喜ばしい次第でございます、玆に私は会社の為に喜ぶと同時に、臨場諸君に尚未来の御厚情を冀ひまするのでございます(拍手)
    高松豊吉君の演説
 唯今品川白煉瓦会社の発達のことに就きましては、渋沢男爵を始め其他諸君から御話がありましたので、別段私に於て申上る所はありませぬ、唯私は今日瓦斯会社の側から一言白煉瓦会社の製品に就て申上げたいと思ひます、東京瓦斯会社に於きましては数年前から瓦斯窯に使用する煉瓦を品川白煉瓦会社に注文致して、絶へず用いて居りますが、段々瓦斯事業が発達するに随ひまして、到底以前のやうな小さい窯では追付きませぬから、窯を大きくすると同時に熱を高めて、一定の時間に成るべく多量の瓦斯を造らなければならず、随て窯の構造も其強度の熱に堪へるだけの煉瓦で造らなければなりませぬ、此点に就きましては品川白煉瓦会社に於きましても、十分御研究になつて、良好なる耐火煉瓦を造り出されましたから、それを以て昨年深川製造所の瓦斯窯を造りましたが、今日では余程熱を高めましても、少しも差支なく、頗る好結果を得て居ります、是は偏に煉瓦会社の賜物であると存じます、それから耐火粘土製の瓦斯レトルトに就きましては従前は殆んど皆外国から買つたのでありますが、レトルトといふものは御承知の通り場席を取るもので、目方が重く且つ壊れ易いものでありますから、成るべく内地で之を製造したいといふ観念を持つて居りましたが、幸に品川白煉瓦会社に於て其製造を始められ、既に四五年前より水平式のレトルト七十四本は同社の製品を以て、橋場の瓦斯工場に於て使用して居りますが今日までの結果では敢て外国品と異りませぬ故、先づ水平式の瓦斯レトルトは満足の成蹟であります、それから傾斜式のレトルトも二十一本丈け品川製のものを橋場の工場で用いて居りますが、これは未だ僅かの使用期間で、此先きどの位保つか判りませぬが、今日までの所では是も成蹟が宜しいやうであります、斯云ふ工合に瓦斯会社の方でも研究し、又、煉瓦会社の方でも研究されまして、双方の事業が今日の如く好結果を得ましたのは誠に喜ばしい次第で御座ります、独り瓦斯事業には限りませぬ、是から追々種々の化学工業が起る場合に、外国から耐火煉瓦や耐火粘土の製品を購入するといふことは、到底堪へられぬ所でありますから、是等のものは是非品川白煉瓦会社で製造なされるやうに希望致します、本年は同会社の武藤技師が外国に行つて、種々彼地の工場の状況を調べて居られますから、不日帰朝の上は一層斯業の改良進歩を謀られて将来同会社の事業
 - 第11巻 p.507 -ページ画像 
が益々隆盛となることは信じて疑はないのであります、尚もう一つ申上げたいことは本年東京勧業博覧会へ同会社より出品になりました耐火煉瓦や瓦斯レトルトは、高山部長の下に厳格なる審査を遂げられたる結果、品質の良好なると、事業の経営完全なる廉を以て最高の賞牌たる名誉金牌を授与せられたのは、誠に慶賀する所でございます、今日其御祝宴の席へ私共御招待を蒙り斯様に御鄭重なる御接待を受けますることは誠に私共の光栄とする所で、感謝の至に存じます、私は此御礼を申上げると同時に品川白煉瓦会社の万歳を祝し併せて重役及び社員諸君の御健康を祈ります(起立乾杯)
    手島精一君の演説
 私は潜越でございますが今日の盛宴に列りました御礼を申上げ、又唯今郷専務取締役並に渋沢男爵より御話がございましたことに就きまして、聊か感じましたことを申述べたいと考へます、白煉瓦会社の創立が明治八年と承知しましてございますが、然るに渋沢男爵は明治六年に既に協議を受けたと言はれますから、玆に白煉瓦会社は尚二年を増しまして即ち三十四年になります、今より三十四年前の世態を熟々考へますると、当時日本に於きましては今日の工業と称すべきものは無かつたのでございます、此時に於て白煉瓦の製造に着眼された故西村勝三翁の御卓見は、誠に感服せざるを得ないのでございます、何が故に之を申すかと云へば、実に今日も窯業専門の人に就きまして、純白でない煉瓦を製造する会社を、煉瓦製造会社《(白脱カ)》といふ名を命けたのは如何であるといふことを尋ねました所が、其専門家の曰く、当時は耐火煉瓦といふやうなことを申しました所が、世の中の人が耳を傾けない、其結果蓋し素人解りの宜いやうに、白煉瓦会社といふ名を命けたのであらう、斯ういふことでありました、此一事を以て考へましても如何に三十六年若くは三十四年の間、本社が苦心されたかといふことが解るであらうと思ひます、私が聞きまするのに工業の発展の率先者は、耐火煉瓦にあるといふことを承りました、考へて見ますると其意は蓋し鉱山より金属を掘出すに就ても、之を鎔かすには耐火煉瓦を用ひなければならぬ、又各種の金属を火熱に依り形を変ずるにも耐火煉瓦を用ひなければならぬ、其他焼物・硝子・セメント・コークスの製造等化学と機械の工業が進むに従つて耐火煉瓦の需用は最も多いのである、曾て西村勝三翁が今日あるを認められて、此会社を起されたのは則ち卓見と言ふ所以であります、而して会社が今日の旺盛に至るまで、其間固より非常なる苦心を重ねられたのは言ふ迄もない、始め耐火煉瓦の何物たるを知らない世人に、其効用を知らしむるといふことに就ても、非常な御苦心であつたに拘はらず、今日に於ては品川の本社に加ふるに、尚大阪並に磐城湯本に大工場を設けられて、承れば外国に於ける同業の工場に遜色なしといふまでに盛大になりましたのは固より一面に於ては会社が終始渝らず其業務に熱心に貢献されたのを疑はざると同時に、他の一画に於ては此席には耐火煉瓦を需用される所の諸会社の方々もございますれば、是等の諸君が多々益々御需用になつて、所謂供給需要があつて今日の盛況に至つたのであつて、製造販路共に確実になつた次第と存じます、故に本年の東京博覧会に於て
 - 第11巻 p.508 -ページ画像 
名誉金牌を得られた当業者は其製品が最優等である為めで極めて少数でございますから実に名誉と言はざるを得ないのでありますが、さて本会社が其名誉を得られたのも決して偶然でない、是れは会社が最も優良なる製品を造り出され、需用者も亦之を優良なる製品として需用された結果でありまして、即ち世の中の声が博覧会に反響したのであります。
 本会社の今日あるは他に原因があらうと思ふのです、それは私は西村勝三翁とは御存命中知遇を辱けなうして居りましたが、同翁技術上に於ける用意周到なることは恐くは満場の諸君も御承知であらうと思ひますが、随て翁が技術者の責任を重んじ、兼て技術者を優待されたといふことも、会社が今日の進歩を見るに至つた幾分の原因であらうと信じて疑はぬのであります、斯く申まするのほ私は徒らに技術者に左袒するのではありませぬ、今日多数工業会社の中で往々技術者の責任を軽んじ、重役は技術に耳を仮さず又は甚しきは彼等を頥使して其意見を斥けるが如きことを承りました、尤其意見の不利益不経済の場合には固より止むを得ないのであります、所が西村翁に至りますと能く技術者の意見を用い、技術者の責任を重んじたといふことは事実であつて私は技術者の側に就ても西村翁に対し大に謝意を表して宜からうと思ふのでございます、尚此場合私が平素思つて居ることを申述べたいのは、唯今渋沢男爵より今日化学工業の尚十分発達しないのを遺憾に思ふといふ御話がありましたが、此点に於ては今夕は化学工業界のオーソリチーたる博士先生も居られますが、蓋し渋沢男爵の感ぜらるゝ所は、皆均しく感ぜらるゝ所と存じます、而して其のこゝに至るの原因は製品需要の多少其他種々原因がありますが、其一は技術者を冷遇する結果、技術者も熱心が薄く終に化学工業の発達が不十分と考へます、それは今日何種の工業も技術者の伎倆が必要であるといふことは諸君も首肯せらるゝ所で、技術者の能否に依つて工業に盛衰のあることは申すまでもない、然るに拘はらず、工業の会社が動もすれば商業上の一偏より其事業を左右しまして、利益さへあれば機械職工の如きは不関焉の憾みが往々ありまして、遂に其工業が十分に発展しない、縦し一時利益がありましても所謂健全の発達を為さないのであります、然るに今日以後の工業会社には右様述ぶるが如く減じまして、現に瓦斯会社に於ける高松博士、大日本製糖会社に於ける酒匂博士の如き、何れも社長として技術並事務の執行宜しきを得て御成績の良好なるは勿論にて他の工業会社も之に傚はんことを望みます、尚望むらくは会社の中に幾名かの重役の御ありの場合には、工業の智識技能ある人にして尚事務の材幹ある人を重役の中に一人なり二人なり御加へになりましたならば、将来化学工業と言はず機械工業と言はず、大に健全なる発達を為すであらうと、私は信じて疑はぬのでございますから、今夕一言諸君に御注意致したのでございます、終に臨みまして本会社の益々隆盛なることは満場諸君と共に期待する所であります、殊に商工業に御経験多き渋沢男爵が本会社を十分に御補助になります以上は、将来益々隆盛に赴くことは、諸君皆御同意と考へます、就きまして甚だ潜越ではございますが、私は満場諸君と共に大白を挙げ白煉
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瓦会社の隆盛を祝さうと思ひます(一同起立乾盃)
    高山甚太郎君の演説
 閣下並に諸君、今夕此盛宴に列したることは、私の最も栄誉とする所でございまして、玆に御礼を申上げますと同時に、曾て此会社に就て考へて居る所を一言致さうと思ひます、此品川白煉瓦会社の歴史は即ち日本の耐火物製造業の歴史でありまして、此会社が今日斯の如き隆盛を見ることの出来ますのは即ち日本の耐火製品の発展が如何に著しいかといふことを証明するのでありまして、会社の成功を祝すると同時に日本の耐火物製造業の発達を祝する訳であります。
 白煉瓦と申しますと、世間の人は動もすると赤煉瓦に対する煉瓦であつて、極く其製造も簡単の様に考へて居る人があります、諸君の中には、今日左様な考を持つて居る者はなからうと仰しやるか知れませぬけれども、昨年から今年の春に掛けまして、種々の会社が起つた際に、白い土の出る所であると白煉瓦会社の出来るものと心得て、定款などを拵へて持つて来た人が沢山ありました、でございますから白い土さへ出れば白煉瓦が出来るといふ考を持つて居る人が今日も尚あるのであります、併しながら是は英吉利のやうに、天然良質の耐火原料に富んで居る国はいざ知らず、独逸の如き若くは我日本の如き産出の原料を以て耐火煉瓦を製することは、実に容易ならぬことである、今日品川白煉瓦会社が此隆盛を見るに至つたのは、実に故西村翁が其熱心と努力とを以て幾多の困難に打勝た結果であることは、吾々能く知つて居る所でございます、即ち此結果として今日の隆盛を見ることが出来たことゝ思つて居ります、尚私は此際会社が今日の盛域に達したる原因なりと思つたことを一寸一言述べたいと思ひますが、それは此会社の技術者諸君と多年私は友人として交際して居る、二十八九年の頃だと思ひます、耐火事業調査の目的を以て欧米を巡廻したことがあります、其時に丁度品川白煉瓦会社の技師も一緒でありまして、数月の間寐食を倶に致しまして、色々会社の事を聴いたこともありましたが、曾て此技師から会社に対して不平らしき言葉を聴いたことは一度もなかつたのです、いつも聴くことはどういふ事であるかといふと、色々の試験をして、どういふ風に遣つたら好結果を得られたかといふ苦心談でありまして、会社の社長若くは重役に対して不平なやうなことは一度も聴いたことはないのです、即ちそれらの事を考へて見ますると、此白煉瓦会社の社員の方々は同心協力して、此事業に従事して居られるといふことが能く解るのです、今日動もすると技師を紹介して呉れなどゝいふことを頼まれまして、紹介して遣ると一年も経たぬ中に色々な事をいふて、外へ転したいなどゝいふことを申し出るのです、其技師の意見を聴き、又一方会社の社長などの意見を聴いて見ますと、両方とも説があるやうで、どつちが宜いか解らぬが、兎に角何処か好い位置があつたら世話をして呉れなどゝいふのです(笑)さういふ腰掛的仕事をして居る者と、一生涯の事業として専心其会社の事業に従事して居る者を較べて見たら、其結果に於て相違が無くてはならぬ訳でありますから、之が今日品川白煉瓦会社の隆盛を見るに至つた一の原因ではないかと私は信じて居ります、それからもう一つは是
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は先刻手島君から仰しやつたから、私が更に長く述ぶる必要はありませぬが、技師を重んずるといふことです、今日東京大学、若くは高等工業学校の卒業生を傭聘しても彼等は僅かに三年間学術技芸を学んだのに過ぎないのであるから、実業に就ても、直ちに実業社会に起る所の複雑なる問題を遺憾なく解決することは出来ない、それが為に色々非難の声もありますが、品川白煉瓦会社に於ては、さういふ人は成るべく指導して解決の出来るやうに仕向ける、力の足らぬ人は学資を給して学校に入れたり、経験を積んだ人は更に外国に留学させるといふやうにして莫大の費用を投じて居られる、それでありますから留学から帰つて来られた人の意見も十分信用して用ひられるといふやうな訳であります、其結果として先年大阪に設立せられた工場の設備であるとか、昨年竣成せる磐城の製造場に於ける機械・製造方法などは実に一新機軸を出したるもので、余程英断を以て技師を信じ、技師の意見を採用にならなければ、斯ふいふ方法を採るといふことは或は大に会社に異論のあることではなからうかと思ふ程であるのに、それを断行されまして、其結果として今日は非常に良品が沢山出来るといふことでありますが、是等が即ち技師を重んじて、外国に於て経験して来た所の技倆を十分揮はせたから、今日あゝいふ結果を見ることが出来たので、外に種々原因もありませうが、此二つが即ち今日白煉瓦会社の隆盛を見、且東京勧業博覧会に於て最高の賞牌を得られた所以であらうと思ひます、依て此事を述べまして聊か祝意に代へます(拍手)


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK110073k-0004)
第11巻 p.510-511 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四〇年  (八十島親義氏所蔵)
十月廿五日 晴
午後一時ヨリ工業倶楽部ニ於テ品川白煉瓦会社ノ総会アリ、藤村氏議長席ニ就キ配当年一割四歩ト決定、取締役一名補欠選挙ハ満場一致渋沢男爵(特ニ出席)ノ指名ヲ乞フ、乃チ男爵ハ立チテ明治八年故西村翁ガ此事業創始以来間接乍ラ自身トノ縁故関係ヨリ説キ起サレ、今早春社長逝去ノ前後事ノ遺託ヲ受ケ快諾シ、尋テ相談役引受ノ事情ヲ陳ヘカヽルカ故ニ此指命モ快ク引受クベシトテ、郷隆三郎氏ヲ挙ケラレ満場之ニ賛同ス、尋テ形式上重役会ヲ開キタル後、藤村氏ハ自身万歳生命ニ専ラ尽力ノ関係上専務ヲ辞シ、同時ニ郷民専務トナリシ旨ヲ披露シ、株主総代漆昌厳氏ハ藤村氏在任中ノ功ヲ犒ヒ、尋テ郷氏立テ一場ノ挨拶ヲ為ス、玆ニ於テ散会、男爵ハ別室ニ於テ重役一同ヲ会シ郷氏ニハヨク守成ノ裡ニ進歩ノ心掛ヲ欠クヘカラサル旨、又山内氏ニハ年ハ若クモ郷氏ヲ兄トシテ相共ニ益尽悴《(瘁)》ヲ望ム旨、且一同ヨク和衷協同西村氏ノ遺業ヲ承ケ、且ヨク世ノ進運ニ伴ヒテ同業会社ニ出シ抜カルヽヨウノコトナキ様充分奮励ヲ望ム旨、特ニ郷氏ニハ専心之ニ従事以テ推薦シタル予ヲシテ人ヲ見ルノ明アリシトノ賞賛ヲ将来受ケシムルヨウアリタキ旨ヲ申聞ケラル
十一月二十五日 晴夕曇
午後三時過ヨリ帝国ホテルニ於ケル品川白煉瓦会社ノ宴会ニ臨ム、コハ取締役ノ一人トシテ亭主役ニ列シ、過日来郷氏ヲ助ケテ此計画ニハ
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頗斡旋シタル処ナルガ、主客百人計リ、重ナル来賓ハ殆ク《(ド)》来会サレタルハ亭主側ノ幸福ニシテ、待合中ノ余興トテモホンノ落語(小三ト円喬)位ニ止メ、只食堂ノ装飾ニ二百余円ヲ投シタルト紀念品トシテ聊サゲ鉛筆・絵ハガキ位ヲ贈リタル位ニテ、食事トテモ差シテ趣向シタルモノニモ非リシカ宴後、郷専務ノ挨拶ニ次ギテ渋沢男爵ガ一面ニハ来賓トシテ、一面ニハ相談役トシテ会社側トナリ、最趣味多キ演説ヲサレシニ続テ手島精一・高山甚太郎・高松豊吉等、化学工業ノオウソリチートモ云フベキ三先輩ガ、揃ヒモ揃フテ会社及故社長ニ対スル衷心賞賛ノ辞ヲ述ヘラレタルハ会社ノ為非常ニ好福トスル所、又食事後休憩室ニテモ来客ハ渋男ヲ中心トシテ何レモユツクリ話コマレ、是レ亦好都合ナリキ、要スルニ今夜ノ祝宴ハ予期以上ノ大成功ニシテ会社ノ位置ヲ高メ信用ヲ博シ、販路ヲ拡張スル上ニ於テ至大ノ好果アルヘシト信ズ、十時半帰宅


(八十島親徳) 日録 明治四一年(DK110073k-0005)
第11巻 p.511 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四一年  (八十島親義氏所蔵)
四月二十五日 晴
午後品川白煉瓦会社総会ニ臨ム(工業クラブ)郷氏専務就任後第一回ノ総会ニシテ配当ハ如先例一割四分也、渋沢男爵モ相談役ナルガ今日ハ出席ヲ給ハリタリ、モトヨリ何等質問サヘモ無ク、スベテ原案ノ如ク決ス
八月八日 晴 烈風夕治マル
朝万歳生命保険会社ヘ立ヨリ品川白煉瓦会社ノ重役会ニ出席ス、同社ニテハ今回払込金ニ代ヘテ日本勧業銀行ヨリ十七万円ヲ二十ケ年賦年七分五厘ノ利率ニテ借入ノ内約出来ニツキ総会ノ打合等ヲ為ス、夫ニツキ一ノ話アリ、即チ過般来北浜・二十・第一等ノ諸行ヨリノ借入金十四五万円ニ及ビ払込ヲ為スニ非レハ返済ノ見込立サルニ付、種々苦心ノ末、東京海上保険会社ノ各務氏ニ相談シテ工場全部ヲ抵当トシ、十万円ヲ期限五ケ年利率一割ニテ借入ノ内談ヲナシタル上、郷氏ヨリ相談役渋沢男爵ニ相談セシ処、男爵賛成サルヽト思ヒノ外大ノ不賛成ニシテ、ソンナ高利ヲ借リルハ予カ関係会社ノ大不名誉ナリトテ絶対ニ不承諾ナリシ郷氏モ男爵ノ意外ニ強硬ナル高説ニ励マサレ、非常ノ熱心ヲ以勧業銀行ヘ交渉ヲ重ネタル末、金高モ多ク又利率モ安ク借ルコトヲ得ルニ至リシ次第ニテ、男爵ヲ相談役トシテ其智恵ヲ借リタル効能、歴然トシテ顕ハレタル次第トテ郷氏等モ大ニ感謝セリ