デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
13節 セメント製造業
3款 三河セメント工場
■綱文

第11巻 p.582-589(DK110087k) ページ画像

明治24年5月(1891年)

栄一、第一国立銀行ノ所有ニ係ル在愛知県渥美郡田原町三河セメント工場ノ経営ニ就キ嚮導ス。


■資料

三河セメント社史 第一二六―一二八頁〔昭和一二年七月〕(DK110087k-0001)
第11巻 p.582-583 ページ画像

三河セメント社史 第一二六―一二八頁〔昭和一二年七月〕
 ○個人経営篇第三章 三河セメント工場時代
    第一節 子爵渋沢栄一氏が本工場関係の由来
 前経営者水谷氏は、前章に述べた如く明治二十三年四月十六日附をもつて、第一国立銀行四日市支店に、工場敷地建物機械等全部を担保に書き入れ、金五万五千円也の負債をなし、満一ケ年後の翌二十四年四月十六日に返済したことになつてゐるが、これは当時における同氏の窮状から考察し、無論本人に決済金調達の余裕があつた筈もなく、従つて何人か弁済したものがなくてはならぬことになる。
 そこで本人に代つて返金されたのが、抑々当代銀行界の泰斗第一国立銀行頭取子爵渋沢栄一氏であつた。大正十二年九月の帝都大震火災で、子爵家の古き記録は全部焼失したので遺憾ながら、此の間の事情を詳かにすることは出来ないが、子爵が斯く代理弁済をなし、この工場を引請けられたのは、素より銀行の損失を除かん為であつたことは当然一とつの理由であつたであらうが、自らこの経営に手を染められた子爵の真意は決して斯かる問題に胚胎した者のではなく、則ち子爵は当時浅野総一郎氏のセメント事業に絶大なる援助を与へてをられた関係から忖度し、このセメント工業の将来に深き関頭を有つての結果であつたことを確然と窺ひ知るものである。惟ふに我が国財界の巨頭たりし子爵は唯単に銀行家としての使命を完実されたのみならず、一面に於ては直接間接我が国産業の振興に偉大なる貢献を致されたその燦然たる事蹟の跡に鑑みる時、如何に小工場と雖も子爵の産業立国大精神は、将来の抱図に何ものかの期待をもち、於此に私財を投じて経営の決意をされたものと推憶す。
 然し子爵は、この経営に自己の氏名を表はさず、坂本柳左なるものをもつて表面上の工場主としたのである。この坂本柳左なる人の関係や閲歴は判明せざるも、明治二年正月子爵は静岡に於て商法会所を創立された時、同会所掛を命ぜられ、子爵の下に勤務した同藩の一人に坂本柳左衛門なる人があつた。柳左と柳左衛門との相違はあるが、之は正しく同一人であつたものと推断す。氏名を何右衛門、何左衛門、或は何兵衛としたのは、旧幕時代の通習であつたが、明治文化の進運に伴ひ、逐次其の影を没しつゝあつたのであるから、同氏は衛門の二字を削り新時代に相応はしく柳左の二字に改名されたものと推測す。
○下略
   ○上掲社史ニ記述セル栄一、工場継承ノ事情ニ付キ佐々木勇之助氏ニ質セシニ栄一、水谷孫左衛門ノ代理弁済ヲ為セシニ非ズシテ第一国立銀行四日市
 - 第11巻 p.583 -ページ画像 
支店ノ貸付担保権設定ニヨル履行ニシテ、第一国立銀行ノ所有ニ帰セシモノナリ。従ツテ栄一個人ノ所有ニアラズ、唯栄一同行頭取ノ故ヲ以テ三河セメント会社ノ処理ニ関シテ尽力スル所アリタルナリ。コノ根本的ナル点ニ於テ「三河セメント社史」ニハ誤謬アリ。余リニ穿テル記述ニ過ギタリ。依テ後出資料ニ関シテモ右ノ誤謬ヲ訂正セザルベカラズ。四日市支店長八巻道成ハ水谷孫左衛門ノ信用ニ関シテ過誤アリ、遂ニ深入セシタメ回収ノ途ナク担保ニ設定セル工場ヲ銀行ノ所有トナサシメタリ。斯クノ如キ事情ニシテ栄一ノ代理返済ノ事実ナシ。
   ○坂本柳左ヲ以テ工場主トナセシハ当会社ニ遺ル資料ニ明ラカナル所ナリ。然ラバ何故坂本ヲ以テ工場主トナセルカハ判明セザルモ、多分工場所有者ニ国立銀行ノ名ヲ掲グルヲ避ケタキ理由ニ因ルモノナラン。坂本柳左ハ本文資料ニ記セル如ク、栄一在静岡時代設立セル商法会所ニ於テ傭ヒタル人ニシテ、其後第一国立銀行ニテ調度掛ニ任ゼラレ明治三十二年停年ヲ以テ職ヲ辞ス。


三河セメント社史 第一四六―一一五一頁〔昭和一二年七月〕(DK110087k-0002)
第11巻 p.583-585 ページ画像

三河セメント社史 第一四六―一一五一頁〔昭和一二年七月〕
 ○個人経営篇第三章 三河セメント工場時代
    第三節 浅野セメント工場に委託経営並びに
        右経営中における営業と作業
 当工場の事業遂行に就いて子爵は、明治二十四年五月浅野総一郎氏との間に委託経営の契約を取交はし、一切を浅野セメント工場に委嘱したのである、そして自分は背後にあつて、終始経営上の状態を注視し、時には意見を伝へ或は激励し、常に成績向上に尠なからぬ配慮をされたものである。そこで被委託者浅野工場は同年同月左の諸氏を転勤として、当工場に派遣したのである。
  工場監督並びに庶務会計 須永登三郎(渋沢子爵御令室の甥と伝へらる)
  購買並びに販売係    武田準吉
  製造係         吉田慶二郎
  書記          堂故良吉
    外に職工三名
 以上の七名は本工場の専任として勤務されたのであるが、外に浅野工場の支配人であつた三俣盛一氏は、当工場の支配人を兼務し、屡次当工場に在勤し、販路拡張と同時に販売に多大の努力を払はれ、尚浅野工場技師長理学士坂内冬蔵氏も時折り出張し来り、或は又通信をもつて技術上の指導をなし、更に同工場浅野喜三郎氏は特に本工場のために終始甚大なる配慮をされたものであつて、この経営中同氏は繁く当工場に来り、又は書信をもつて庶務並びに製造等凡ゆる事項に亘り時々刻々精細なる注意をされたものである。
 要するに右三氏は本工場経営の連帯責任者として兼務し、それぞれ鞅掌指導の任を分担し互に協力の上、渋沢子爵の御期待に副はんものと鋭意尽瘁されたものである。浅野喜三郎氏は故浅野総一郎氏の血縁関係者でなく、氏は技師長坂内冬蔵氏と共に明治十九年十一月「ビツクマン」留学生として、政府より派遣されし技師三名、職工十七名と行を共にして独逸に留学し、同国某セメント工場に於て製造技術を習得し、明治二十一年米国を経由して帰朝された方である。
 明治二十四年五月営業開始に当り、営業名を三河セメント工場と改
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め、マークは水谷氏時代の「三つ引」印を使用したのであるが、同年八月に於て第一銀行のマークである星印に改めやうかとの議もあつたが遂に実現を見なかつた、前水谷時代の樽貼り商標用紙は三つ引印周囲の地模様はなかつたが、この時代に浅野工場マークの中央地模様であつた波形を取り入れ、総べての文字を改めたものである。
 販売方面は当初頗る難色があつたものゝ如く、則ち明治十九年来の企業勃興熱に連れて同業者続出し、当時既に其の数十二三の工場を算するに至り、従つて生産過多の結果は勢ひ競争激甚を極め、公入札の如きは殆んど採算を無視する惨めさであつた、斯くして売値は常に低落を辿り、而かも官庁向は勿論其の他各鉄道方面における品質検査の規格関門通過にも悩まされ、可なり深刻なる販売場裡に終始し、その苦心は実に容易のものではなかつた、けれど浅野工場の経営である影庇と、併せて三俣支配人の陣頭に立つての奮闘並びに品質向上と相俟ち、逐次販路を拡大したのである、そこで同氏努力中における主なる納品先を挙ぐれば、鉄道局(東海道線用)関西並びに参宮両私設鉄道・大阪上水道・静岡監獄・東京帝国大学・横須賀軍港(浅野工場と共同)・三重紡績株式会社等に納め、尚明治二十四年より同二十五年にかけては、尾濃平野大震災の後ちを承け、一時斯界は相当の活況に恵まれて需要も多く、当時愛知県庁及び名古屋市役所へ復旧工事用として多量に納品した記録が遺つてゐる、又東京清水組は明治二十四年十二月、清水満之助名義をもつて名古屋出張所を開設し、以来同所間の取引は盛であつた、更に日本土木株式会社名古屋支店なるものがあつて、同社とも取引があつた。此の間或る場合の商略としては、浅野工場製品として同工場のマークを貼用したこともあつたらしく、後には全く浅野工場製品として市場に販売したと伝へられる。何れにしても背後における渋沢子爵の関係は陰に陽に対外的好果の反映となり、漸を逐つて業績の伸張を見たものである。
 委託経営中の製造工程は前の水谷氏時代と同様であつた。明治二十四年五月事業着手後は原料の仕込み、石炭の購入、又工場内諸般の整備改善、其の他一切の準備行為に約三四ケ月を要し、将に本格的製造に着手せんとしたる九月、暴風雨のために若干の被害をうけ全く製品を見たるは十月であつた、その翌十一月には順調なる作業状態となり窯口吐出の白煙は天を蔽ひ、汽機は黒煙を吐いて天に織り為し、こゝに過去の沈黙は一躍蒼生の活気を呈するに至つた。九月には第一銀行四日市支店長八巻道成氏の配慮により、鳥羽鉄工所より細粉機フレツト一台を購入して二台となり、大いに機能を充実したのである。当時生産計画は日に三十樽の予定であつた。
 製造技術の点に於ては前に述べた如く、専門家の坂内理学士及び浅野両氏の指導によつたもの故、その進歩の跡は前時代の比ではなかつた、殊に浅野氏は常に間断なく此の製造上に関し熱心に注意されたものである。斯くして漸次整備の完きと従業者の熟達とに相俟ち、品質の向上は勿論生産数量は予定以上の成果を挙げ、且つ生産原価の低減等大いに見るべき実績を挙げたのである。
 石灰石の採掘並びに輸送は前時代の責任者であつた杉原治綱氏をも
 - 第11巻 p.585 -ページ画像 
つて当らしめ、石炭の購入は浅野工場石炭部なるものがあつて、此処より購買し安井利助氏なる人が殆んど取扱つてゐたものである。
 当時改築或は増築用に要したる煉瓦は四日市より購入し、又煉瓦積職工も同地より雇入れたものである。樽材は豊橋より購入したものらしく、その職工払底の場合は、知多郡又は四日市方面の酒樽製造職人を臨時雇ひをしたのである。


三河セメント社史 第一九一―一九七頁 〔昭和一二年七月〕(DK110087k-0003)
第11巻 p.585-587 ページ画像

三河セメント社史 第一九一―一九七頁 〔昭和一二年七月〕
 ○個人経営篇第三章 三河セメント工場時代
    第六節 専任支配人の設置と岡本謙一郎氏の新任
 委託経営の方法は固より其の形態が合理的のものでなく、殊に直接経営の衝にある首脳者が兼務者である以上、如何に渾身の努力を注がれたとしても、順調なる最終の成果を期し得ることは至難なものである。随つて此の間の成績は可良なるべき機能を有しながらも、案外其の実績は予期に副はなかつたやうである。故に浅野工場に於ては、聊か当惑の気配も見え又委託者の立場としても長く現状のまゝ晏如たるものでなく、因て子爵は浅野総一郎氏と協議の上、専任の支配人を設けることゝなり、此に岡本謙一郎氏の就任となつた訳である。そこで子爵は之を契機に積極的進展を図らんとされたものらしく、故にこの人選には特に意を用ひて敏腕果鋭の士を求め、その結果同氏の抜選を見たものであつた。そして赴任後における活動並びに工場拡張等の方針を与へて、一切を附託されたやうだ。
 氏は子爵の篤き信任と其の使命に向つて邁進を誓ひ、勇躍単身帝都を発して当工場に着任(明治二十六年二月頃)したのである。これと同時に三俣支配人の兼務を解いたのであるが、製品販売に関しては終始相互の連絡を保つて円満協調し、尚製造技術の点に附いては従来通り浅野喜三郎氏が主として指導の任を続けたのである。
 岡本支配人は固より浅野工場の人でなく、工場主の直属であつて委託者の立場である。が又その一面に於ては被委託者浅野工場の立場ともなつて勤務されたのである。斯く変革を見たのであるが相互の委託契約は依然として存続され、同工場より派遣中の須永氏外六名は従来通り本工場に勤続したのである。
 同氏は着任後工場地内に舎宅を新築することゝし、これが竣工期の同年八月、家族を迎へて此処に居住しこの家屋は現在の社宅中最も古き第一着の工に成つたもので、即ち社宅地西入口坂路の右側最西端の一棟がそれである。
 同氏就任に際しては無論前任者の方針と並びに其の径路を踏襲し、子爵の御期待に副ふべくその活躍奮闘の事迹は、以下述ぶる判明の大綱によつて窺知さる。明治二十六年下期頃、名古屋市塩町に山内商会(店主山内文助氏当時薪炭業を営み、市会議員にもなつた人で、非常に敏腕家の商人であつたと伝へられる)と云ふ販売店を設け、相互極めて緊密なる関係を保ち、縦横無尽と云つた積極的活動をしたものである。この間多大の犠牲を覚悟し新販路の開拓に全努力を傾注されたやうだ、鉄道局納品の如きも同商会が取扱つてゐる、東京方面の販売
 - 第11巻 p.586 -ページ画像 
で判明したる主なるものは、文部省・大蔵省・玉川上水道・浦賀海峡観音崎砲台等に納め又名古屋方面は勿論、岐阜・三重両県下への進出は目醒敷く、山内商会と力を協せて鋭意販売に淬励したものである。就中関西・参宮両私設鉄道の納入は、一層順調密接を極めたものであつて、本工場はこの両鉄道布設工事開始より全線開通迄は、前水谷氏経営時代より由縁の深きものがある。因つて左に両線の開通年月を示すことゝする。
      関西線開通年月日
  亀山駅―――四日市駅間 明治二十三年十二月二十五日
  四日市駅――桑名駅間  同二十七年七月五日
  桑名駅―――名古屋駅間 同二十八年五月二十四日
    参宮線開通年月日
  亀山駅―――一身田駅間 明治二十四年八月二十一日
  一身田駅――津駅間   同年十一月三日
  津駅――――阿漕駅間  同二十六年十二月三十一日
  阿漕駅―――宮川駅間  同三十年十一月十一日
  宮川駅―――山田駅――鳥羽駅  同四十四年七月二十一日
 右両鉄道納めの品は、各所の回漕店が取扱つてゐたのであるが、就中桑名町下里貞吉氏(販売店であつたかと想はる)の取扱ひは殊に多く、即ち楫斐・長良・木曾三川の鉄橋々脚に要する莫大なる数量によつたものと思料さる。
 次に工場の拡張であるが、従来焼成窯は五基であつて南より北に一列となり南端を第一号窯と称へて第五号窯に至つた。岡本氏就任中の明治二十七年頃、第一号窯の南に二基(焼成能率百二十樽宛)を増築して七基となし之を第一号窯第二号窯としたので、これまでの第一号窯を第三号窯と改め、順次番号を繰り下げて最北端の窯は第七号となつた。これに附属して第二・第三号窯の処に、ヱレヴーエターを増設して二ケ所となり、更に既設五基の上部窯口を改造延長して焼成量の増産をも計つた。乾燥場も沈澱池の南に一ケ所増設して三ケ所となし尚沈澱池も一ケ所(内部は二区劃)増築して内部の桝数は七個となつた、又これまでの沈澱池煉瓦壁の高さを延長して原液の増量を計り、或は焼成窯焚口の上屋を新築し、その外職工休憩所・浴室・種類別倉庫等各般の増築改築を行ひ、大いに劃期的機能を拡充したものである従つて右完成の暁は月産数量約二千樽であつたと伝へられる。
 右大拡張以前の事務所は現在本社の入口にある浴場の辺にあつたものであるが、この時代旧工場地内の北西隅に移転し、尚自分の住宅以外にも舎宅職工部屋等をも新築したる等、大いに手腕を奮つて本工場躍進の転機を成さしめたものである。
 如上拡張の必要としたものか、隣接地の左記五筆を買収し、坂本工場主の名義としたのである。
  字名   地番     反別   売主    所有権移転年月日
 安原崎  五三ノ内一  二十七歩 須永登三郎 明治二十六年十月十二日
 同    四八    一畝十八歩 河辺孫七  同 年十月二十日
 同    五四     二十二歩 河辺銀蔵  同 年同月同日
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 同    二〇ノ内一   五反歩 不詳    同 年十二月十八日
 同    四四ノ内一    十歩 同     同 年同月同日
 明治二十五年以後の財界大勢は常に不味の裡にあつて競争の悪弊に悩まされ、同二十六年は一樽三円以下に惨落した時もあつた。同二十七年は日清役の開戦により、需要の減退となつて販売の痛苦は殊に深刻なものがあつた。斯く不振を続けし時機に就任したる氏はこの難関に処して善く之を突破し、加ふるに精励黽勉多大の成績を収め、その精鋭なりし活躍振りは四五の文献によつて充分に察度され、そして同氏は苦闘三年自己の使命を遂行し、想ひ出深き事蹟を遺して同二十八年十一月(或は十二月か)、後任内海氏と替つて東京に引き揚げたのである。
○下略


渋沢栄一 書翰 岡本謙一郎宛(明治二六年)五月八日(DK110087k-0004)
第11巻 p.587 ページ画像

渋沢栄一 書翰 岡本謙一郎宛(明治二六年)五月八日(雨夜譚会所蔵)
関西鉄道会社ヘセメント販売之事ニ付、浅野氏ヘ之書状一覧仕候、依而別紙白石直治宛一封さし上候間、近日御持参被成篤と御頼入有之度候、此書状ニハ同会社新工事ニ付、セメント買入方ハ定而其品位を試験し直段を聞合せ、各地より之申出ニ付競争買入と可被成ニ付、三河工場も其中ヘ御加ヘ被下度、且同所ハ入費減少之工夫有之候ニ付、競争上他ニ相譲不申心得ニ候旨認置候間、其御心得ニて白石氏ヘ丁寧御頼入可被成候、参宮鉄道之方も此程渡辺技師出京ニて色々と当工場之為メ深切ニ注意被申聞候筈ニ付、明朝承合候ハヽ其次第明日中斎藤峯三郎より書通為致候積ニ候、何卒須永とも御申合之上、別而御勉力有之度候、右申進候 匆々
  五月八日                渋沢栄一
    岡本謙一郎様


渋沢栄一 書翰 岡本謙一郎宛(年未詳)八月一一日(DK110087k-0005)
第11巻 p.587-588 ページ画像

渋沢栄一 書翰 岡本謙一郎宛(年未詳)八月一一日(雨夜譚会所蔵)
其後不相替勉励せられ候事と存候、然者其工場之模様此度須永出京ニて詳細承及且浅野氏との関係も種々相談之上、是迄之約定ハ其儘継続之筈ニ候得共、爾来工場之指揮ハ都而銀行より取扱候事ニ相成、委細之事情ハ須永相心得帰場ニ付御聞取可被成候、又先般来之歩合金浅野方ニ受取居候分も、此度決算相立候様相成、工場之為ニハ大ニ都合を得候次第ニ御坐候
向後製品販売之事も伊勢尾張辺之地方ヘ其工場より直接引合候向ハ、別段歩合金抔差出候義無之訳ニ付、其工場ニ於てハ務て其地方ヘ直引合之販路御心配有之度候、右ニ付而も関西鉄道之方抔ハ此上とも飽迄御尽力被成、入札と相成候時ハ精々相働落札相成候様致度と存候、又製造上之都合ニ未タ不完全之点有之候様子ニ付、向後須永ニハ専ら其辺ニ尽力し焼方之不満足等無之様、又原土之入費抔も今一段低下ニ相成候御工夫有之度候、要之向後其工場維持之見込ハ製造之要務ハ可成須永相任し、計算と販売とハ貴処引受候様被成、且武田・吉田抔申人々ニも専心ニ此工場之為尽力いたし候心得ニ相成候ハヽ、製品も今日よりハ壱弐割ハ安く仕揚り候様可相成と存候、もしも工費今一層引下候
 - 第11巻 p.588 -ページ画像 
工夫無之時ハ、他之競争ニ打勝候事も出来兼可申ニ付、呉々も一同申合、前陳製費減少之事ニ御精々可被下候、尚須永へも篤と申含候間御聞取可被下候、此段一書申進候 匆々
  八月十一日               渋沢栄一
    岡本謙一郎様


三河セメント社史 第一九七―一九九頁〔昭和一二年七月〕(DK110087k-0006)
第11巻 p.588-589 ページ画像

三河セメント社史 第一九七―一九九頁〔昭和一二年七月〕
 ○個人経営篇第三章 三河セメント工場時代
    第七節 支配人交迭工学士内海三貞氏の新任並びに
        浅野セメント工場派遣員の復帰
 元三俣兼務支配人、次いで前岡本支配人両氏任務中の努力は歳を逐うて整備機能を完実し、尚製品の声価を昂揚し更に生産数量の増加となり、斯くして所期の目的に達せんとしつゝありしも、適々渋沢子爵は内海三貞氏の非凡なる人格と学識、併かも卓越したる技量を有し、且つ稀なる英資の士であるを知り、是非本工場の支配人兼技師長に招聘せんとなし、当時帝国大学教授で同氏の師であつた、工学博士高山甚太郎氏の斡旋を求められたのである、そこで同博士の配慮により幸に氏の諒諾を得るに至つたことは、本工場弥栄の福緒として大なる慶幸であつたものと言はねばならぬ。そして岡本前支配人と替つて着任就職されたのは明治二十八年十一月末か、或は十二月上旬であつたやうだ。
 後年セメント業界に於ては異口同音に「三河社に過ぎたるものは内海だ………」と評された点から見ても、如何に傑出したる材幹であつたかを窺知されるのである。
 内海氏の就任に際し、浅野セメント工場より派遣中であつた七名の内、須永登三郎氏を除く他の六氏は岡本前支配人の退去と同時に、浅野工場へ引き揚げたのである。須永氏は委託経営着手以来、本工場にあつて直接全般の庶務並びに経理の責に任じ、この間の苦心励精は想像以上のものであつて、その功労は特に多大であつた。従つて氏は尚本工場として不可欠重要な人物であつた関係上、内海新支配人は氏の留任を浅野工場に懇請し、その認諾を得たのであつた、斯くして氏は明治三十二年四月まで勤続し、玆に本工場改組の前後を通して八ケ年殊大の功績を遺されたのである。○下略
   ○三河セメント工場以前ノ沿革概説
    栄一ノ所有ニ係ル三河セメント工場ハ伊勢四日市ノ人水谷孫左衛門ヨリ譲受ケタルモノナルガ、水谷ハ更ニ東洋組ト称スルモノヨリ継承シタルモノナリ。今当工場ノ起源ニ遡リテ其ノ略歴ヲ記シ、三河セメント工場ノ前身ヲ明カニセン。
    当工場ノ所在地田原町ハ石灰石ノ埋蔵量頗ル豊富ニシテ、徳川時代ニ於テ既ニ石灰製造行ハレ藩ノ直轄事業トシテ経営サレタルコトアリシモ、明治ニ入リ廃藩ト同時ニ明治四年藩士佐藤進・永瀬誉等ニ依リ事業引継ガレ、同十年頃同町大字白谷ノ住民ノ経営スル処トナリ、又同町大字田原蕨沢或ハ井戸沢或ハ二ツ坂ニテ藩士其他ノ者ニヨリ石灰製造工業ガ盛ンニ試ラレシコトアリタリ。従ヒテ石灰事業ガ機縁トナリテ玆ニ田原藩士ノ授産事業トシテセメント製造業ヲ創始スルノ起因トナレルガ如シ。
    明治維新ノ諸制度改革ノ中、武士階級ト謂フ特権的身分制度廃止ノ断行ニ
 - 第11巻 p.589 -ページ画像 
ヨリ、当藩士モ一般ノ例ニ漏レズ旧時代ニ於ケル社会的地位ヲ失フト同時ニ、生活的拠所ヲ奪ハレ、為メニ何レカノ職業ニ就キ自ラノ生活ヲ維持セザルベカラズ、家禄ハ明治九年ニ至リ金禄公債トナルヤ、旧士族ハ爰ニ社会的生産ニ参加スベク強要セラルヽニ到ル。
    於此時ノ愛知県令国貞廉平ハ政府ノ旨ヲ膺ケ各藩ニ於ケル士族階級ノ救援ニ乗出シ、其ノ土地ニ適応スル産業ヲ選択シ以テ之ガ斡旋指導ヲナシタリ。斯クノ如ク同県令ハ士族匡救策トシテ田原ニセメント業ヲ興サンコトヲ企図シ、明治十三年十一月ニ於テ工部省大権技長宇都宮三郎ノ実地検分トナルヤ、同氏ノ指導ヲ受ケ窯業ノ研鑚ヲ積ミタル斎藤実尭ヲ推薦シ、以テ斎藤実尭ヲ首領トナシテ田原町二ツ坂ニ工場ヲ建設シ、東洋組ノ名ノ下ニ明治十五年二月該事業ヲ創始スルニ至ル。然ルニ当授産所ハ漸ク本格的ニセメント製造其緒ニ就キタル明治十八年一月、国貞県令ノ病没ト共ニ斎藤実尭ハ飄然三河ノ地ヲ去リ、東洋組ハ玆ニ突如首領ノ退去ニ遭ヒテ之ガ為メ一時工場ハ休止ノ状態ニ陥リタリ。然ルニ陸軍御用商人ニシテ岐阜県人ナル吉村鷲治郎ガ当工場ノ経営ヲ援助維持スルコトヽナリ、辛クモ閉鎖ノ悲境ヲ免レタルモ、結局予期ノ成績ヲ見ズシテ業態ハ不振ヲ続ケ、経営ハ困難ニ陥リ、藩士ノ労務者ハ次第ニ減少スルガ如キ危局ニ直面スルニ至レリ。
    斯カル時吉村鷲治郎ノ説得ニ依リ、伊勢四日市ノ人水谷孫左衛門ガ東洋組ノ事業ヲ継承スルニ及ンデ、当授産所ハ解散ノ悲運ヲ免レタリ。水谷孫左衛門ナル人ハ企業心旺盛ニシテ三重紡績・四日市製紙・水谷製油場・四日市精米・四日市煉瓦・鳥羽鉄工場等ノ創立ニ与リタル履歴ヲ有スル進取的頭脳ノ所有者ナルモ、一面経営ノ才腕伴ハズ又性格的ニ飽キ易キ所アリト見エ、凡テノ事業ニ失敗セリ。兎モ角モ同氏ハ爰ニ東洋組ヲ引キ請クルコトヽナリ、工場経営及ビ将来ノ伸張発展ニ遠大ナル抱負ヲ懐キ現在三河セメント会社ノ所在スル三河国渥美郡相川村大字豊島字安原崎及ビ新田ノ地ヲ買収シ、此所ニ新工場ヲ建設シ明治二十一年十一月事業ヲ開始セリ。工場建設ハ一気呵成的ニ工事ヲ進メ二十二年八月全建設ヲ竣功シ、同月二十五日ニハ機関ノ試運転ヲナス。此所ニ建設サレタルハ事務所・粉砕室(フレツト据付)・上室(篩撰別)・機関室(ボイラー及スチームヱンヂン)・製造事務室・攪液場(一ケ所)・沈澱樽(二ケ所)・乾燥場(二ケ所)・焼成窯(第一号ヨリ第五号、焼成能率ハ一号百三十樽、二号三号百六十樽、四号百八十樽、五号百四十樽)・石灰焼窯(一号二号)・白地貯蔵所(山上及工場内二ケ所)・風化部屋(二棟)・其他倉庫製樽長屋等ニシテ、当時地方トシテハ偉観ヲ呈セリト。而シテ其ノ製造工程ハ次ノ如シ。
                井水 粘土
                 ↓ ↓
     原石→石灰焼成窯→風化室 → 配合攪擾→攪液場→沈澱槽→
     →乾燥場→焼成窯(徳利窯)→粉砕機→篩→撒布樽詰
    本事業ノ開始ニ当リ営業名ヲ三河セメント会社ト称ヘ、商標ハ現在使用ノ三ツ引印を制定シテ、東洋組時代ノ幹部ニ地元民ヲ三四十名傭入レ、資金ハ主トシテ水谷独力ノ負担出資トナリ、第一国立銀行四日市支店ヨリ融資ヲ受ケタリ。又製品ノ販売ハ多ク水谷孫左衛門自ラ之ニ当リ、販売先ハ豊橋方面、三河湾・伊勢湾ノ沿岸地ニ向ヒテ出荷シ、生産高ハ月産約三百樽位ト思ハル。
    其ノ経営ニ付キテハ水谷ヲ始メ幹部ハ鋭意設備ノ改善ヲ施シ、職工ノ熟達ヲ期シタレドモ斯業ノ猶困難ナル上ニ当社創業ノ十九年以後ノ企業勃興ヲ促進セル好況期ノ反動トシテ、二十三・四年ハ経済界全般ノ深刻ナル恐慌ニ直面シ甚シキ苦境ニ立チ、竟ニ水谷ハ此ノ時期ヲ乗切ルベクニハ微力ニシテ又同氏ノ諸事業ノ失敗ニヨル資金上ノ行詰リハ三河セメント事業ヲモ破綻セシムルニ至レリ。斯クテ当工場ハ水谷孫左衛門ヨリ栄一ノ手ニ継承サルヽコトヽナリタリ。