デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
13節 セメント製造業
3款 三河セメント工場
■綱文

第11巻 p.590-592(DK110088k) ページ画像

明治28年9月28日(1895年)

是日栄一、名古屋市ニ於テ同市岡谷惣助・山内正義・祖父江重兵衛等ト当工場ニ就キ要談ス。三十一年六月三河セメント株式会社設立サレ、全ク第一国立銀行ノ所有ヲ離ル。


■資料

渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治二八年)九月二八日(DK110088k-0001)
第11巻 p.590 ページ画像

渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治二八年)九月二八日
                   (八十島親義氏所蔵)
貴方廿七日附御状今日落手披見仕候、出立後無別条廿四日名古屋着、其後日々会議ニ出席いたし昨日ニて大概相済、今日ハ当地諸工場一覧之都合ニ候、只今田原セメント工場之事ニ付、名古屋人と相談之事有之、今夕ハ当地ニ於て一同と共に留別之宴会相催し、明日午前半日丈ケ会議之残りを議了し、午後二時之汽車ニて出立○中略
  九月廿八日                 栄一
    八十島親徳殿
   ○右ノ日附ヲ以テ後出、岡谷惣助等トノ間ニ開始サレタル当工場譲渡交渉日トナスハ困難ナルモ、大体此ノ頃カト推定サル。


三河セメント社史 第二〇二―二〇七頁〔昭和一二年七月〕(DK110088k-0002)
第11巻 p.590-592 ページ画像

三河セメント社史 第二〇二―二〇七頁〔昭和一二年七月〕
 ○個人経営篇第四章 三河セメント工場時代
    第一節 岡谷惣助氏外四名が本工場譲受の由因と
        内海三貞氏招請の関聯
 渋沢子爵が本工場を名古屋市の大財閥であり大実業家であつた岡谷惣助・山内正義・伊藤由太郎・祖父江重兵衛・松田有信(何れも先代)の五氏に譲渡契約の結ばれたのは、明治二十八年歳末の頃であつたと云ふことは推定されうるも、正確な時期は判明しない、又相互間における受授交渉開始の時及び動機、或はこの間における経緯等、全然究明の途なく甚だ遺憾である。唯売買価格の金弐万円也であつたことが売渡証書面の表示によつて知り得るも、然し之は正当の売買価格でなく単に登記手続上の便宜価格に過ぎなかつたのである。
 則ち本社の創立に際し、同三十一年五月二十日に第一回払込を了し(資本金拾万円内払込金六万円)同年六月一日本会社設立の登記を受け、玆に始めて会社の成立となり、同月末に至る一ケ月間を営業の第一期となし、その報告書によれば土地建物機械の固定資産が金六万円となつてゐる、即ち払込金の全部は悉くこの買収したる工場に計上してある点より考察し、如上売渡証書に明記されてゐる金弐万円也は、当然架空の価格であることを推断される訳である。
 そこで此の売買代金支払方法は幸に古書類中より発見したる一片の文献により、年賦償還方法であつたことが明瞭となつた、この文献は明治三十年七月のもので第三回目の償還金二千七百五十円也を送金した書翰の控である、之によつて見るに半年を一回となし、その第一回分の償還期は同二十九年六月であつて、会社創立の同三十一年六月は
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第五回目となる、故に前四回償還済合計は金壱万壱千円であるから、この不足額四万九千円也はこの五回目の償還期、而かも会社設立により払込みたる手許現在金をもつて、全未納額完済の筈なるも、こゝに不思議なことには此の場合未だ未済金が残つてゐたのである、察するにこの未支払金は買収契約金以外の特殊的関係のものであつたかと想はる、同年十二月十六日工場は失火により大損害を被り、その時売主は之が同情として幾何かの減額をなし、斯くしてこの時未済金は全部完了したものである。
 上述の如く相互売買契約締結後、年賦償還方法によつて買収金を分納してゐた関係上、これが完納までは依然として工場の主権は売主にあつたもので、唯買主は単に事業の経営権のみを有ち、この間は匿名の合資組織に依つたものであつた。同三十一年六月会社の設立となつた以後の未償還金は、相互協定の上之を普通貸借関係となし、而してこの改組を契機として売主は本工場に関する一切の権利を会社に譲り於是過去永年の覊絆を脱したのである。
○中略
 内海支配人の就任は渋沢子爵の嘱望に因つたことは、前に述べた如くであるが、この招聘交渉の当時既に子爵の手許に於ては、岡谷氏等との間に売買接衝が開始されてゐたのではないかと判察さる、則ち同氏等の本工場譲り受けが内海氏就任と殆んど同時であつた事情から推校し、正しく同氏の招聘は其の前提であつたものかと想憶さる、何んとなれば岡谷諸氏は固よりセメント事業の経験がある訳でなく、又経営上の適任者があつての着目でなく、故に譲受者の立場としては先づもつて之が経営の衝に当らしむる優秀なる専任者を求められた筈である、そこで子爵の詮衡と斡旋により、こゝに経営技術共に卓抜せる内海氏を得て相互交渉の円満なる進捗を促進したものと推断す。
   ○工場売却価格ニ関シテ佐々木勇之助氏ニ質シタレドモ不明ナリ。サレド年賦償還ニヨリテ支払ヒタルハ同氏モ之レヲ認メラレタリ。而シテ完済セザルハ事実ノ如ク述ベラレ損失ヲ招キテ銀行ハ工場ヲ岡谷等ニ譲渡シタリ。
   ○「三河セメント社史」(第一八八頁)ニ於テ、「同工場(浅野セメント)と渋沢子爵間との経理事項及び本工場(三河セメント)間における全般的事項につき、第一銀行前頭取佐々木勇之助氏が専任に処理されたものである」ト記スルモ、前述ノ如ク当工場ガ栄一ノ所有ニアラズシテ第一国立銀行ノ所有ナル事実ヲ解セバ、右ノ記述ハ誤ニシテ佐々木ニ於テ当然取扱ハルベキモノナリ。本社史ノ他ノ部面ニ於テ第一国立銀行ト浅野セメント工場及ビ三河セメント工場トノ種々ノ関係ニ関スル記録ヲ掲グルモ、其中ニ第一国立銀行ノ経理事項アルハ亦当然ナリト云フベシ。
   ○技師長内海三貞ニ関シテ三河セメント会社発起者岡谷等ト栄一ノ譲渡交渉ノ条件中、同氏ノ招聘ガ其ノ一ツナルガ如ク記スルモ之レ亦穿チ過ギタル解釈ニシテ、必ズシモ譲渡条件中ニ加フベキ理由ナシトス。
   ○上掲本文資料ニ見ル如ク三河セメント工場ハ岡谷惣助等ノ経営スル所トナレルガ、未ダ売却代金ヲ完済セザル期間、即チ明治二十九年五月ヨリ三十一年五月ニ至ル二ケ年間ハ栄一ト岡谷等ノ共同経営ト云フ形態ヲ採レリ。当工場ハ栄一ノ招聘ニヨリ内海三貞ガ新支配人ノ職ニ就クニ及ンデ前支配人岡本謙一郎ハ辞任シ、又同時ニ須永登三郎ヲ除ク他ノ浅野工場派遣員モ復帰シテ新タナ職員構成ヲ見タリ。於此内海三貞ハ自ラ陣頭ニ立チテ指導シ、優秀ナル製品ノ生産ニ努力シ、恰モ日清戦役後ノ好況ニ遭ヒテ飛躍的
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ナル発展ヲ遂ゲ斯業界ニ於テ確固タル地位ヲ占ムルニ至ル。而シテ此ノ栄一トノ共同経営ノ期間ヲ経過セントスルヤ、三十一年一月二十三日三河セメント株式会社ト称スル株式組織ノ会社発起認可申請ヲ農商務大臣ヘ山内・岡谷・祖父江・内海ノ発起人連名ヲ以テ出願シタリ。同年二月十四日付ヲ以テ発起認可ヲ得、更ニ同年三月十七日設立免許ヲ申請シ、四月二十一日之ガ免許ノ指令ニ接セリ。而シテ是ヨリ先同年三月十五日名古屋市西魚町近直楼ニ於テ創業総会ヲ開キ議事ヲ了シ、取締役ニ内海三貞・祖父江重兵衛・山内正義、監査役ニ岡谷錬助・松田有信就任ス。六月一日豊橋区裁判所ニ設立登記ヲ了ヘ、七月一日ヨリ営業ヲ開始セリ。之レ即チ現在ノ三河セメント株式会社ナリ。



〔参考〕明治工業史 化学工業編・第四七〇―四七一頁〔昭和五年一〇月再版〕(DK110088k-0003)
第11巻 p.592 ページ画像

明治工業史 化学工業編・第四七〇―四七一頁〔昭和五年一〇月再版〕
 ○第二編第八章第三節 セメント
    (三)関西地方
○上略
 明治十五年二月、旧三河田原藩士族授産の目的を以て、有志者相謀り、東洋組なるものを組織し、愛知県渥美郡田原村字二ツ阪に工場を建設し、同所産の石炭を燃料として、セメントの製造を開始したるもの、即ち田原町の三河セメント株式会社の前身なり。故に創立の古きは小野田セメント株式会社に次ぐものにして、我が邦に於ける最古工場の一なりとす。抑々東洋組は専ら斎藤実高に依りて経営せられ、セメント製造の傍、尚三河西尾に於て建築用煉瓦の製造をもなせり。その創業当時に在りては僅に焼窯二基を築き、人工搗臼にて焼成品を粉砕するが如き規模極めて小なるものなりき。然れども原料の純良なるは工部大学校に提出して、試験したる成績に依るも瞭かにして後、伊勢国四日市の人水谷孫左衛門二十一年十二月に至り一切の業務を引受け、工場を字豊島に移し事業の拡張を行ひたれば、漸く年産額一万樽内外に及べり。二十四年十月水谷氏退き、工場一切を東京の人阪本柳左に譲渡せり。阪本は第一国立銀行より資金の融通を受け、技術に関しては浅野セメント会社技師長阪内冬蔵に依嘱し、製造監督の任に当らしめたり。然れども尚充分の成績を挙ぐるに至らざりき。二十八年八月第一国立銀行頭取渋沢栄一は内海三貞を選抜して、営業及び製造に関する一切の業務を担任せしめたるを以て、内海は漸次規模を改め学理を応用して製品の改良を計りたれば、之より大に製品の声価を挙ぐるに至り、販路も随つて逐次拡張するに至れり。三十一年六月阪本柳左個人の所有たる工場を買収して規模を拡張する為、工場経営の組織を改め資本金拾万円の三河セメント株式会社の創立となれり。此の年十二月不幸火災を起し、工場の一半を烏有に帰したるも、直ちに再築に著手すると同時に、新式の機械を据附け、益々業務の拡張を行へり。三十九年八月日露戦役後の需要激増に際するや、之に応ずる為、資本金を弐拾万円に倍増し、更に機械の改良増設と、製造力の増進とを計れり。
○下略