デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
15節 造船・船渠業
1款 株式会社東京石川島造船所
■綱文

第11巻 p.632-640(DK110096k) ページ画像

明治32年6月11日(1899年)

是ヨリ先、神奈川県浦賀ニ当造船所分工場ヲ設ク。三十一年十一月竣工シ、是日開業式ヲ挙グ。栄一之ニ臨席シ取締役会長トシテ演説ス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第六〇―六二頁 〔明治三三年六月〕(DK110096k-0001)
第11巻 p.632-633 ページ画像

青淵先生六十年史(再版)第二巻・第六〇―六二頁〔明治三三年六月〕
 ○第二十七章 造船業
    第二節 石川島造船所
○上略
明治三十二年五月三十一日浦賀分工場工事悉皆竣工落成セルニ依リ、六月十一日ヲ以テ朝野ノ縉紳得意先及株主ヲ招集シ開業ノ典ヲ挙ケ、先生ハ取締役会長トシテ具ニ起業ノ沿革ヲ述ヘ、以テ平野造船所以来ノ革新ヲ披露セリ
 本日石川島造船所浦賀分工場ノ開業式ヲ挙行スルニ当リ、斯ク多数諸君ノ来臨ヲ辱フセルハ当所ノ光栄ニシテ、亦株主及役員一同ノ感謝スル所ナリ
 抑々我石川島造船所ハ元平野造船所ト称シ、明治九年ニ創立セシモノナルカ、同二十二年一月ニ至リ今ノ株式組織ニ改メ、株式会社東京石川島造船所ト称セリ、而シテ其当時ニアリテハ資金僅ニ二十万円余ニテ其設備甚タ不完全タルヲ免レス、僅ニ小蒸汽船ノ新造修繕ヲ為スニ止マリ、到底時運ノ流潮ニ伴フ能ハスシテ、巨大ノ船舶ヲ迎フルニ足ラサリキ、玆ニ於テ余ハ其所思ヲ取締役会ニ詢リテ、遂ニ明治二十七年六月此ノ地ヲ卜シ、玆ニ分工場ヲ設立スルノ計画ヲ立テタリ、時恰モ日清ノ戦役ニ際会シ、航海ノ事業、愈々必要ヲ告ケ、船艦ノ需要頓ニ増加シ、又是等船舶ノ修補日ニ切迫スルト同時ニ、船渠ノ必要頗ル急ヲ告クルモノアリ、我造船所タルモノ徒ニ完
 - 第11巻 p.633 -ページ画像 
全ヲ貴ヒ時日ヲ遷延スルハ得策ニアラサルヲ知リ、玆ニ総テ小規模ノ設計ヲ立テ一意速成ヲ期シタリ、然ルニ其後ニ至リ航海及造船奨励法ノ実施ニ際シ、海運事業ノ勃興ヲ来シ、我航海業ハ其面目ヲ一変セリ、然レトモ是等ノ船舶ハ概ネ外国ノ製造ニ係ルヲ以テ、実ニ慨嘆ニ堪ヘサルモノアリ、依テ遂ニ当初ノ小規模ヲ改メ、大ニ工費ヲ増加シ、完全ナル設計ヲ立ツル事ニ決定シ、二十九年二月其工事ニ着手シ、愈々三十一年十一月ニ開渠ヲナスノ運ヒニ至リ、引続キ造船機関ノ完備ヲ期センカ為メ、造船台ノ築造、起重器ノ設置、各工場機械ノ設備ヲ遂ケ、玆ニ全ク起業ノ完成ヲ告クルヲ得タリ
 本分工場起業ノ経過ハ右述フルカ如シト雖モ、退イテ熟々思フニ、本分工場タル之ヲ欧米ノ各造船所ニ比スレハ、実ニ小規模中ノ小ナル者、即先ツ本邦造船事業ノ開発的模範的造船所ト云フヘクシテ、未タ此ノ計画ヲ以テ満足スヘキニアラサルハ勿論、将来大ニ完全ナル設備ヲ規画スル所ナカルヘカラサルヲ信スルナリ
 元来斯ノ如キ国家的事業ハ、微々タル私立会社ノ能クシ得ヘキ所ニアラサルヲ以テ、或ハ余等ノ計画ヲ大胆ト云ハンヨリ寧ロ粗暴ナリト評セシ人モアレト、斯カル毀誉ハ元ヨリ余等ノ敢テ問フ所ニアラス、唯一意四面環海ナル我国ノ海運事業ヲ愈々発達セシメンカ為メ一片報国ノ赤心止ムル能ハス、遂ニ此ノ大胆ナル計画ヲ立ツルニ至リシナリ、玆ニ於テ余ハ一面ニ株主諸君ニ向テ唯目前ノ利益ニノミ着眼セス、成業ヲ永遠ニ期シ、以テ有終ノ美ヲナサシメラレンコトヲ切望ニ堪ヘサルナリ、又一面ニハ広ク世ノ技術家ニ向ヒ、本工場ノ不備欠点ヲ憚ル所ナク指摘シ、大ニ批難ヲ加ヘラレ、以テ他日ノ改良進歩ヲ促サルヽコトヲ希望スルモノナリ云々
   ○相州浦賀ノ地ニ船渠ヲ建設セントセシ栄一ノ意図ハ、既ニ明治十七年ニ明カナリ。本資料第十二巻所収「浦賀船渠会社」明治十八年七月十日ノ項(同巻第五頁)ヲ見ルベシ。
   ○東京石川島造船所浦賀分工場建設ニ前後シテ、浦賀船渠株式会社創立セラレ、両者激烈ナル競争ヲ惹起セリ。本款明治三十四年十月二十二日ノ項(第六四三頁)及ビ第十二巻所収「浦賀船渠株式会社」明治三十五年五月四日ノ項(同巻第八〇頁)参照。


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK110096k-0002)
第11巻 p.633-634 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三二年
六月二日 晴
朝梅浦氏ヲ訪フテ内事ヲ談ス、更ニ石川島造船所開業式ニ関スルコトヲ談ス、大倉喜三郎氏来話ス○下略
六月三日 曇
○上略午後四時紅葉館ニ於テ石川島造船所ノ為ニ開キタル宴会ニ出席ス此夕方ヨリ大風雨夜ニ入テ殊ニ烈シ
六月七日 晴
朝石川島造船所沿革ノ草案ノ《(ヲ)》閲覧シテ之ヲ修正シ梅浦氏ニ送付ス、梅浦氏来リテ浦賀船渠開業式ニ関スル要件ヲ談話ス○下略
六月十一日 晴
午前七時二十五分新橋発滊車ニテ横須賀ニ抵リ、更ニ腕車ニテ十時過浦賀ニ達ス、同地ニ築造セル石川島造船所附属船渠ハ此日ヲ以テ開業
 - 第11巻 p.634 -ページ画像 
式ノ典ヲ挙クル筈ニテ、諸事ノ準備モ整頓シ且天気モ朗晴ナリシヲ以テ所員一同歓躍セリ、十二時過ヨリ来賓集合シ一時頃ニ横浜ヨリ来賓ヲ迎フル為ニ設ケタル神戸丸モ来着シ、一時ニ来賓輻輳シ来レリ、水陸合計千人以上ナリシ、一時半式ヲ行ヒ、沿革ヲ演説ス、次テ海軍大臣・逓信大臣・農商務大臣・東京府知事・神奈川県知事ノ祝文朗読アリ、式畢テ立食ヲ為シ余興ニハ浦賀固有ノ虎踊(此虎踊ト云フハ里人虎ニ仮装シテ蹲踞又ハ奔迅ノ体ヲ為スモノナリ、而シナ此曲ハ享保度下田ヨリ船番所ヲ浦賀ニ移スノ命幕府ヨリ出テタル時、船番所ト共ニ浦賀ニ来リタルモノニテ、其曲中ノ言語ニハ、解シ難キ蛮語多シト云フ)午後五時浦賀ヲ発シ夜七時過帰宿ス


中外商業新報 第五二〇五号〔明治三二年六月一三日〕 石川島造船所浦賀分工場開業式(DK110096k-0003)
第11巻 p.634-635 ページ画像

中外商業新報 第五二〇五号〔明治三二年六月一三日〕
    石川島造船所浦賀分工場開業式
石川島造船所浦賀分工場は今回全く竣工せしを以て、一昨十一日神奈川県下浦賀に於て其開業式を挙行せしに、来会者千二百名余、午後一時開業の式を挙げ、取締役会長渋沢栄一氏左の演説を為せり
 本日石川島造船所浦賀分工場の開業式を挙行するに当り、斯く多数諸君の来臨を辱ふせるは当所の光栄にして亦株主及役員一同の感謝する所なり
 抑も我石川島造船所は、元平野造船所と称し明治九年に創立せしものなるが、同二十二年一月に至り今の株式組織に改め株式会社東京石川島造船所と称せり、而して其当時にありては資金僅に二十万円余にて、其設備甚だ不完全たるを免れず、僅に小蒸滊船の新造修繕を為すに止まり、到底時運の流潮に伴ふ能はずして巨大の船舶を迎ふるに足らざりき、玆に於て余は其所思を取締役会に詢りて遂に明治二十七年六月此地を卜し、玆に分工場を設立するの計画を立てたり、時恰も日清の戦役に際会し航海の事業愈々必要を告げ、船艦の需要頓に増加し、又是等船舶の修補日に切迫すると同時に船渠の必要頗る急を告ぐるものあり、我造船所たるもの、徒に完全を貴び時日を遷延するは得策にあらざるを知り、玆に総て小規模の設計を立て一意速成を期したり、然るに其後に至り航海及造船奨励法の実施に際し、海運事業の勃興を来し我航海業は其面目を一変せり、然れとも是等の船舶は概ね外国の製造に係るを以て実に慨嘆に堪へざるものあり、依て遂に当初の小規摸を改め大に工費を増加し完全なる設計を立つる事に決定し、二十九年二月其工事に着手し、愈々三十一年十一月に開渠を為すの運びに至り、引続き造船機関の完備を期せんがため造船台の築造、起重器の設置、各工場機械の設備を遂げ玆に全く起業の完成を告るを得たり
 本分工場起業の経過は右述ぶるが如しと雖も、退いて熟ら熟ら思ふに、本分工場たる之を欧米の各造船所に比すれは実に小規摸中の小なもの、即先づ本邦造船事業の開発的摸範的造船所と云ふべくして未だ此計画を以て満足すべきにあらざるは勿論、将来大に完全なる設備を規画する所なかるべからさるを信ずるなり
 元来斯の如き国家的事業は、微々たる私立会社の能くし得べき所に
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あらざるを以て、或は余等の計画を大胆と云はんより寧ろ粗暴なりと評せし人もあれど、斯かる毀誉は元より余等の敢て問ふ所にあらず、唯一意四面環海なる我国の海運事業を、愈々発達せしめんかため、一片報国の赤心止むる能はす、遂に此大胆なる計画を立つるに至りしなり、玆に於て余は一面に株主諸君に向つて唯目前の利益にのみ着眼せず成業を永遠に期し、以て有終の美をなさしめられんことを切望に堪へさるなり、又一面には広く世の技術家に向ひ、本工場の不備欠点を憚る所なく指摘し、大いに批難を加へられ以て他日の改良進歩を促さるゝことを希望するものなり云々
続いて海軍大臣は、石川島造船所が有益なる国家事業を企図し克く百難を排して今日の成功を致したるを賞賛し、造船工場、船渠は海国に於ける緊要事業中の最も緊要なる所以を説き
 本邦に滊船の紹介せられたるは嘉永三年即《(六)》ち今を去る四十六年前、合衆国特派艦隊司令官ペリー始めて来航し、安政五年に互市条約を締結し、続て他の西洋各国と通商航海の条約を締結せられたるの後に在り、爾来歳月を追ふに従ひ航海船舶の増加と共に事業大に発達したるも、船舶の割合に船渠不足して、即ち現在登簿噸数五百以上の本邦人所有の滊船は二百十有余艘に達し、内外船舶の東京湾に入るもの一ケ年約四十七万噸の多きに上れるに拘らず、東京湾に於ける既成民有船渠の数は本船渠を合して四個、全国を通じて十六箇にて、内五百噸以上の船舶を容るゝに足べきもの概ね十二個に過ぎず今之を五百噸以上の民有船舶の数に比較せば、船渠の数一個に対し五百噸以上の船舶十七艘強に当り、更に五百噸以下の船舶に比較するときは甚しき不足を感ずるのみならず、外国の船舶にして入渠を要する者を合するときは殆ど其用に応ずるの暇なきの現状なり
との事を詳述し、終に船渠の船舶に対する関係は恰も医者の病者に於けるが如く必要なりとの比喩を以て、苟も適当の時期に船舶の入渠を怠らんか、最も貴ぶべき速力を減じ且燃料を徒消し遂に船体機械の保存上に恐るべき損害を招くに至らんとの事を切論し、二十七・八年の交、船舶の増加著しき時に自身が窃に造船工場及船渠の欠乏を憂慮したりしに、幸に爾来大小の船渠十有余個を得、今又此壮大なる遠洋航船を容るべき大船渠を東京湾口に見るを得たるは国家のため慶賀せざるべからずと論結し、最後に尚造船工場の規模をして一層拡張すべき旨を述べて、之れを祝詞とし、次に逓信大臣・農商務大臣・東京府知事・神奈川県知事・浦賀町有志者総代臼井儀兵衛氏の祝詞あり、是にて全く式を終り立食の饗応ありて来賓は各自各工場を巡覧し又虎踊・手品・茶番・太神楽等等の余興を観覧し、午後三時卅分再び神戸丸に乗船帰途に就たり


竜門雑誌 第一五七号・第四六頁〔明治三四年六月二五日〕 ○石川島造船所浦賀分工場(DK110096k-0004)
第11巻 p.635-637 ページ画像

竜門雑誌 第一五七号・第四六頁〔明治三四年六月二五日〕
    ○石川島造船所浦賀分工場
東京石川島造船所は元平野造船所と称し明治九年に創立せしものなるを、後明治二十二年一月に之を改称して株式会社に革めたるものなれども、規模狭小にして漸く千噸以下の小蒸滊を製造し得るに過ぎざる
 - 第11巻 p.636 -ページ画像 
を以て、社長たる青淵先生の発意により去る二十七八年の日清戦役中相洲浦賀港《(州)》の西南端館浦を選びて分工場を設置する事となり、二十九年二月より海面の埋立及船渠の築造等に着手し、三十一年十一月に開渠式を行ひ、三十二年六月に至り始めて造船に関する工場機関造船台起重器等の設備を了りたるものなるが、今其近況を聞くに左の如し
 構内の建物と製鑵業 構内の総坪数は三万七千八十七坪内建物三千百坪にして就中其重なるものを機械・製鑵・撓鉄・煉鉄・銅工鋳造・造船等の諸工場並に倉庫事務所倶楽部社宅等の数種とす、而して以上諸工場の配置及建築等に関しては未だ本邦の如何なる部分に向ても充分なる設備を望み難き今日なれば姑く之を別題とするも、兎に角製鑵場に於ける諸器械の設備のみは先づ以完備せるものと謂ひ得べく、殊に此程米国よりニユーマチツク ツールス(圧搾空気機)を購入し、既に其備付を了りて現に運転し得るに至れるのみか、他の製鑵に要する大小の諸器械の如きも亦勉めて新式のものを選択せるが故に此点に就ては本邦第一に位する三菱造船所と殆ど肩を並ぶるに至り、他の作業に関しても均しく三菱造船所と同様の設備なきに非ざれども、其主要なる部分は東京の本工場にて負担せるが故に実際両工場を対照するに非ざれば造船設備の完成を知り得難きが如し
 船渠と造船台 該工場の船渠は初め速成を期するの目的にて、渠壁は土丹切放しとなし長三百六十尺、深二十四尺の小船渠を築造するの計画なりしが、後工費を増し更に完全なる設計に改めたるものにて其尺度は左の如し
  長 自渠頭至戸当 四百五十一尺 縦斜度五百分の一
  幅 自側壁下部至側壁下部 五十四尺 横斜度六十五分の一
  深 自渠底至平地 三十二尺 盤木高 四尺
 又造船台を設置し、現在の位置にて長五百尺総噸数九千噸迄の船舶を製造し得べく、外に六十噸起重器の備へもありて汽鑵揚卸も亦自由なりと云ふ
 現在製造中の汽船 分工場設立以来一昨年は第五大島丸昨年《(犬)》は第六大島丸《(犬)》(以上何れも六百噸)を製造し、目下製造中の汽船は第三艘目にして平野造船所創立以来百七十艘目に該当する由、而して今回の汽船は其内の最も大なるものにて長二百四十尺、幅三十四尺、深二十二尺、鋼製二重底、予定噸数千五百五十噸(排水量二千七百噸)速力十二海里、其他総て造船規程に準拠せしものにて、製造の上は倫敦ロイド会社の保険に附し、逓信省の命令航路たる新潟函館浦潮樺太間の乗客用となす筈にて、船内は総て電灯付きとなし上等客八人、中等客二十八人の予定なりと云ふ、尚ほ同船は大阪の汽船業者大家七平氏の注文せしものにて、其注文価格は二十九万二千五百円外に造船所の受く可き政府の奨励金三万六千円合計三十二万八千五百円なれども、造船所は尚ほ損失を免れざるは時勢の未だ熟せざるが為めにして誠に遺憾至極なりと云へり
 修繕と新造船 以上の如く新造船の引合はざる次第は嘗て三好工学博士の談せられたる所にて明瞭なりとす併しながら同分工場の如きは普通の船渠会社と異なり既に造船に関する一切の設備ある上に
 - 第11巻 p.637 -ページ画像 
職工の如きも運用人夫を合すれば常に千人内外を雇ひ居れるが故に若し新造船なき場合には職工人夫等の散ず可き恐あると殊に大資本を投ぜる諸機械を充分に運転せしめざるの不利益は莫大なるも常に造船事業を継続して徐ろに時機の倒来《(到)》を待つの外なかる可く、斯かる有様にて昨年下半季は株主へ対しても全く無配当の已むを得ざるが如き有様なりしに幸にも本年は船舶を修繕せしもの可なりに多く目下修繕中のものを合して一月以降二十五隻(総噸数合計六万噸)に達したるが故に此上半季には若干の配当をなし得べき予想なりと


東京石川島造船所五十年史 第二四―二九頁〔昭和五年一二月〕(DK110096k-0005)
第11巻 p.637-638 ページ画像

東京石川島造船所五十年史 第二四―二九頁〔昭和五年一二月〕
    四、日清戦争時代
        自明治二十七年至同三十六年
○上略
 二年に亘る大戦役○日清役が、帝国の極東に於る国際的地位を高め、惹いては我国産業の発達伸長を刺戟せし処甚だ大なるものあり、殊に海運業の如き、新領土の獲得と国威の振興とに影響されて、長足の進歩を遂ぐるに至りしは云ふを要せざるが、当時本社にても夙にこの時勢を洞察する処あり、専ら事業の拡大と内容の整備に努め、開戦後間もなき明治二十七年九月二十七日の臨時総会にて新に建設を議決せられたる神奈川県浦賀に於る分工場の如きも、その規模をして一層大ならしむる事となれり。
 浦賀はわが造船史上特筆せらるべき歴史的の地にして、幕末安政元年(一八五四年)こゝに幕府の造船工場は設立せられ、当時洋式帆船の建造せられたるは既に述べたるが、この地たる単に記憶すべき史蹟たるに止まらず、その位置東京湾口に位し造船業に最も適せるものあるを以て、大船の建造修理に不便尠からざる石川島以外、別に適当の地を卜して相当規模大なる造船工場並に船渠を設立せん事、本社が多年の計画に属せし為、戦後の形勢を察したる本社にては、前記臨時総会に於て、こゝに一大船渠建設の事を決したるなり。
 かくて本社は先づ右総会に於て、その位置を神奈川県三浦郡浦賀町字川間館浦海岸に相し、こゝに長さ四五〇尺以内、幅九〇尺以内、深三〇尺以内の大船渠を二十万円の工費を以て、約一ケ年にして竣成せしむる事とし、これが為に新に十万円を増資する事となれり。
 翌二十八年七月二十三日、右船渠築造工事が当局の認許する処となるや、本社は海軍技師恒川柳作氏に工事の設計を嘱託し、これが万全を期する上より、同氏薫督の下に本社自ら施工するに決し、直ちに著手したりしが、その後地形其他の関係より二十八年九月五日の臨時総会に於て、船渠の大きさを長四〇八呎五吋、幅一〇六呎、探三三呎に改め、その工事費予算を二十五万円に増加し、この為更に二十五万円を増資して、本社の総資本金を五十万円となせり。
 爾来鋭意その完成を急ぎつゝありしが、二十九年に至り監督技師を交迭して工学士山崎鉉次郎氏をその後任とし、海面埋立、防波堤築造等に於てやゝ最初の計劃を変更すると共に、附属工場の建築、諸機械の製造、註文等にも最善を期したる為、予定の竣工時期なる明治三十
 - 第11巻 p.638 -ページ画像 
年(一八九七年)十月二十五日迄には、到底完成を期待すべくもあらず、依つてなほ一ケ年間の延長を神奈川県庁に申請し、一方工費の増加に伴ひ、三十年三月二十七日の臨時総会に於て、更に五十万円を増資せり。
 その後工事順調に進捗して、三十一年(一八九八年)十月に至り船渠は所要の扉船、排水喞筒等と共に全く落成し、至難の海中浚渫、潮止工事また竣成したるに依り、ここに同年十一月一日を以て開業するを得たり。
 顧れば明治二十八年の起工より年を閲する四年、その間増資する事三度、起工前二十五万円に過ぎざりし資本金は今やその四倍の百万円となり、船渠また再度の設計変更により竣成時の大きさ(単位呎)
       長    幅    入口幅  水深(戸当にて)
  上部  四五六   七八   六五   満潮 二五
  下部  四四八   五六   五三   干潮 一九
となり、その間然する処なき幾多附属工場の漸次竣成するありて、正に浦賀湾口の一偉観たるを失はず。
 而して開業と同時に従前浦賀出張所と称したるを、新に浦賀分工場と改め、造船・船渠・造機・製図・庶務・倉庫の六課を設け、開業第一日(十一月一日)日本郵船会社汽船仁川丸の入渠を見たるを始めとして、年内既に四隻を入渠修繕し、翌三十二年には早くも二隻の鋼製石材運搬船(大阪築港用の第五・第六犬島丸)を新造し、業績漸く上らんとするものあり。即ち同年六月十一日を期して、既に略ぼ設備の整ひたる浦賀分工場に朝野の貴顕約三百名を招待して、盛大なる開業の式を挙げ、渋沢取締役会長は当日本社沿革その他につき一場の演説を試みたり。
   ○東京石川島造船所ガ明治二十六年ヨリ三十二年ニ至ル間ノ資本総額ノ変遷左ノ如シ。
     明治二六年九月五日  七五、〇〇〇 増加   二五〇、〇〇〇
     〃二七年九月二七日 一〇〇、〇〇〇 増加   (決議ノミ)
     〃二八年九月五日  二五〇、〇〇〇 増加   五〇〇、〇〇〇
     〃三〇年三月二七日 五〇〇、〇〇〇 増加 一、〇〇〇、〇〇〇
     〃三二年 月 日  五〇〇、〇〇〇 増加 一、五〇〇、〇〇〇


渋沢栄一 日記 明治三二年(DK110096k-0006)
第11巻 p.638-639 ページ画像

渋沢栄一日記 明治三二年
十月十四日
朝七時五十分新橋発ノ汽車ニテ石川島造船所浦賀分工場ニ抵リ、第五犬島丸進水式ニ列ス、午前十一時浦賀ニ着ス、西村捨三夫妻・進経太・荒木民三郎諸氏同車ス、分工場ニ於ル、進水ノ準備十分ナラスシテ大ニ遅刻セリ、且盤木ニ故隙《(障カ)》アルヲ以テ船水際ニ在テ進水セス、一同大ニ失望ス、午後一時過食卓場ニ来客ヲ誘フテ立食ス、午後五時浦賀ヲ発シ横須賀発ノ汽車ニテ大船ニ抵リ、汽車ヲ転シ七時過大磯長生館ニ投宿ス、蓋シ兼子病ニ由テ此家ニ療養シ在ルヲ以テナリ、皆川夫人モ同宿セラレシニヨリ種々ノ談話ニ鬱寥ヲ散シタリ
十二月六日 晴
此日ハ浦賀分工場ニ於テ犬島丸進水式アルヲ以テ出張ノ筈ナリシモ、
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風邪気ナルヲ以テ電報ヲ以テ之ヲ謝絶ス、終日宅ニ在テ療養ス


東京石川島造船所五十年史附録・第二三七―二四〇頁〔昭和五年一二月〕 【懐旧談片 (小川鉄五郎氏談)】(DK110096k-0007)
第11巻 p.639 ページ画像

東京石川島造船所五十年史附録・第二三七―二四〇頁〔昭和五年一二月〕
  懐旧談片
    二五、浦賀での失敗
 明治三十一年十一月、浦賀分工場の船渠は漸く竣工したが、工場の諸設備はなほ完備に程遠かつた。その時、船渠開きに日本郵船が入れてくれた仁川丸はペンキの塗替だけで何の事もなかつたが、次に入渠した英国船ケンモア号では、大失敗を演じたものだ。
 この船は三千噸といふ当時では可成りの大船で、それが上海から来る途中余程の暴風に遭つたものと見えて、厚さ一吋もある船側の弯曲板が八枚も破損してゐて、二重底まで破損してゐた。実はこれ位の破損なら、ベンヂング・ローラー(曲板機)さへあれば苦もなく修理が出来るのだが、設備不揃ひの悲しさにはそのローラーがまだ到着してゐない。
 処かそんな事は考慮に入れないで、本社では十日で修繕すると云ふ契約を結んで仕舞つたのだから、さあ困つた。一吋の鉄板だから生優しい事では平らにならない。何でも丸太棒二三本を下敷にして上からカンカン叩いたものだが、そんな事では契約の十日で修理の成らう道理もなく、結局二十日掛つてそれも満足とはいへない有様、その為ケンモアの船長からは修繕料を延滞料で棒引にして仕舞はれた上に『上海の船渠へも一度入れるが、そこへゆく途中、浸水でもすると困るから、防水材料として、セメントを五十樽貰ひ度い、甚だお気の毒だが(ヴェリー・ソーリー)』と云はれたりした始末で、開業匆々散々であつた。然しこれが為に設備が促進して、いゝ結果にもなつたのであるが、かうした失敗など蓋し時代を反映する好資料ではあるまいか。
                    (小川鉄五郎氏談)
    二六、犬島丸進水奇談
 浦賀で最初に造つた第五犬島丸の進水式当日(明治三十二年十月十四日)丁度いい機会だと云ふので、京浜の名士数百名を招待して工場を見て貰つた事があつた。その日は船を下して立食の饗応に移らうと云ふ順序であつたが、さて進水式となり綱を切つたのはいゝが、船は船台を半分だけ辷つてハッタと止り、動かばこそと云ふ椿事が出来した。
 進水式で船が中途で立往生するなど縁起でもないが、これはその前日非常な暴風雨があつたゝめ、船台が新しいのでグリースが浮上り、その上へ砂が喰ついたのが祟つて思はぬ失錯となつたのであつた。多勢の客を招ばれた渋沢さんの御心中いかばかりとお察ししたがどうにもならず、進水の中休みで型通り式は終つた。これなど新しい造船所としては傑作の失敗であらう。
 その後潮の干満を利用して、漸く船を下したが、当時悪口を云ふものがあつて、三日目の朝になつて船はひとりでに下りてゐて一同目をパチクリさせたなどいふものがあるが、決してそんな訳でなかつた。
                    (小川鉄五郎氏談)
 - 第11巻 p.640 -ページ画像 


〔参考〕東京石川島造船所 三十五年(五十八期)間概説[東京石川島造船所 三十五年(五十八期)間概記] 自明治二十二年一月至大正十二年十一月末日(DK110096k-0008)
第11巻 p.640 ページ画像

東京石川島造船所
三十五年(五十八期)間概説[東京石川島造船所 三十五年(五十八期)間概記] 自明治二十二年一月至大正十二年十一月末日
    (営業報告書摘録)〔未定稿〕
○上略
  ○明治三十二年
一月二十五日本会社ニ於テ第十回通常総会ヲ開キ、三十一年中ノ営業報告並諸計算ヲ承認シ利益金ノ処分ヲ議決ス、続テ臨時総会ヲ開キ、資本金五拾万円ヲ増加シ資本総額ヲ壱百五拾万円トナスコト、及ヒ之ニ関聯シテ定款第四条ヲ改正スルコト、四拾万円ノ借入金ヲ為スコト重役報酬年額ヲ五千円トスルコト等ヲ議決ス
八月十一日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、定款全部改正ノ件ヲ議決ス
十二月二十日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、新株ノ募集ニ関スル事項ノ報告ヲ承認ス
六月十一日朝野ノ縉紳、得意先及株主諸君ヲ招待シテ浦賀分工場開業ノ祝典ヲ挙ク、渋沢取締役会長ハ席上具ニ起業ノ沿革ヲ述ヘ以テ平野造船所以来ノ革新ヲ披露ス
  ○明治三十三年
一月二十五日麹町区内山下町台湾協会ニ於テ第十一回株主定時総会(以下単ニ定時総会ト記ス)ヲ開キ、三十二年中ノ営業報告並諸計算ヲ承認シ利益金ノ処分ヲ議決シ、次テ取締役並監査役任期満了ニ付、取締役ヲ七名ニ、監査役ヲ三名ニ増員シテ改選ヲ行ヒ(取締役ニハ前任者渋沢栄一・梅浦精一ヲ再選シ、浅田正文・園田実徳・進経太・益田克徳・平沢道次ノ五名ヲ新ニ選任シ、監査役ニハ前任者田中永昌ヲ再選シ、西園寺公成・肥塚竜ノ二名ヲ新ニ選任ス)重役報酬年額ヲ六千円トナスコトヲ議決ス、続テ臨時総会ヲ開キ、定款中改正ノ件及ヒ借入金四拾万円ヲ七拾万円ニ増加スルノ件ヲ議決ス
専務取締役ヲ輔佐スル為メ理事ヲ置キ新任取締役平沢道次之ヲ兼摂ス所長及分工場長ノ名称ヲ廃シテ支配人ニ換ヘ、取締役進経太ヲ本店支配人ニ、福地文一郎ヲ浦賀支店支配人ニ選任ス
本社ニ技師長ヲ置キ進取締役兼支配人之ヲ兼摂ス
欧米ニ於ケル造船造機ノ事業視察ノ為、進支配人兼技師長ヲ派遣ス、四月出発十一月帰朝ス
七月十四日本社ニ於テ臨時総会ヲ開キ、定款第二条(浦賀ニ支店ヲ置クコト)ノ改正及第三条ノ次ニ「当会社ノ株主ハ日本人ニ限ル」ノ一条ヲ加フルコトヲ議決ス、此新条項設定ハ蓋シ造船奨励法ノ規定ニ基キ必要アリタルニ因ル
同日浦賀分工場ヲ以テ本会社ノ支店ト為ス
○下略