デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
15節 造船・船渠業
1款 株式会社東京石川島造船所
■綱文

第11巻 p.643-652(DK110098k) ページ画像

明治34年10月22日(1901年)


 - 第11巻 p.644 -ページ画像 

是ヨリ先、当造船所ト浦賀船渠株式会社トノ間ニ激烈ナル競争起ル。栄一之ヲ憂ヒ海軍当局者ノ調停ノ下ニ両会社ヲ合併センコトヲ図リタルモ、浦賀船渠株式会社之ニ応ゼズシテ合併ノ議調ハズ。

是日特ニ当造船所臨時株主総会ヲ開キテ之ヲ報告ス。


■資料

株式会社東京石川島造船所報告 第一四回 明治三五年一月(DK110098k-0001)
第11巻 p.644 ページ画像

株式会社東京石川島造船所報告 第一四回 明治三五年一月
                (株式会社東京石川島造船所所蔵)
  第拾四回営業報告
              東京京橋区佃島五拾四番地
                   株式会社東京石川島造船所
玆ニ第拾四回即チ明治三十四年七月ヨリ同年十二月ニ至ル間ニ於テ施行シタル事業ノ顛末、及ヒ諸計算ヲ精査シ、監査役ノ検査ヲ経テ之カ要領ヲ株主各位ニ報告スルコト左ノ如シ
    一般ノ工況
本期ハ前々季来工業ノ不振益々其度ヲ高メ、期末ニ至リ経済界ノ趨勢稍々順境ニ傾キツヽアルカ如シト雖モ、一ヒ衰頽ニ陥リタル工況ハ、容易ニ其挽回得テ望ムヘカラス、即チ新規注文ハ極メテ稀ニ、同業競争ハ益々其勢ヲ加ヘリ、工況如此不振ナルニモ拘ハラス、労銀ノ如キ依然トシテ低下スルコトナク、作業ヲシテ困憊ナラシムル所ノモノ、亦敢テ其跡ヲ戢メサリシ
要之営業ノ困難ハ啻ニ前期ニ譲ラサルノミナラス、而モ工事高ニ於テ較々減少ヲ来タシタレハ、随テ事業ノ成蹟ニ於テ概シテ不結果ヲ呈シタル所以ナリ○下略
    所務総況
一、株主定時総会○略ス
二、株主臨時総会
 (其一)八月七日麹町区内山下町台湾協会ニ於テ株主臨時総会ヲ開キ左ノ事項ヲ決議セリ
  (一)浦賀船渠株式会社ト合併スルコト
  (二)右合併ニ関スル諸般ノ手続ハ便宜上取締役ニ委任スルコト
 以上ノ決議ハ、浦賀船渠株式会社カ同様合併ノ決議ヲ為シタル日ヲ以テ効力ヲ生スヘキモノトス
 (其二)十月二十二日麹町区有楽町東京商業会議所ニ於テ株主臨時総会ヲ開キ、左ノ事項ヲ協定セリ
  (一)浦賀船渠株式会社ト合併ノ事ハ、終ニ不調ニ帰シタルコト
  (二)取締役及監査役ノ報酬ヲ半減ニスル取締役ノ提議ハ否認スルコト


浦賀船渠株式会社株主総会決議録(DK110098k-0002)
第11巻 p.644-645 ページ画像

浦賀船渠株式会社株主総会決議録
               (浦賀船渠株式会社所蔵)
    株主臨時総会決議録
 - 第11巻 p.645 -ページ画像 
一当会社ト株式会社東京石川島造船所ト合併ニ関スル件ハ、調査委員ヲ設ケ、調査結了ノ後、更ニ株主臨時総会ヲ開キ合併ノ件ヲ議ス
  但調査ノ期間ハ極メテ短縮ヲ要ス
一調査委員ハ安田善四郎・籾山半三郎・細谷安太郎ノ三氏ヲ加ヘ、外七名トス
  但右七名ハ安田・籾山・細谷三氏ノ指名ニ一任ス
右決議候也
  明治三十四年八月七日   浦賀船渠株式会社
                専務取締役 塚原周造 (印)
                        ○外五名連署印略ス

    株主臨時総会決議録
一当会社ト株式会社石川島造船所ト合併ノ件ハ、調査委員ノ報告ヲ是認シ、合併セサル事
一辞表提出ノ取締役並監査役ニ対シテハ、留任ヲ勧告スル事
  辞表提出者左ノ通リ
  専務取締役 塚原周造 取締役 浅野総一郎 同 臼井儀兵衛 監査役 桜井亀二
右決議候也
  明治三十四年十月十六日   浦賀船渠株式会社
                 監査役 荒井郁之助 (印)
                        ○外一名略ス


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK110098k-0003)
第11巻 p.645-647 ページ画像

渋沢栄一日記 明治三四年
一月二十一日 雨
○上略此日石川島造船所重役会ヲ兜町宅ニ開ク
一月二十三日 晴
午前七時五十分ノ汽車ニテ横須賀ニ赴ク、梅浦精一・進経太同行ス、鎮守府長官井上氏ヲ訪ヒ、石川島造船所浦賀船渠会社合併ノコトヲ依頼ス、長官快ク之ヲ承諾セラル、十二時三富屋ニテ午餐シ、三時横須賀発ノ汽車ニテ帰京ス、此夜兜町宅ニ帰宿ス
一月廿四日 曇
午前数多ノ来人ニ接ス、午後石川島造船所ノ重役会ニ出席ス、三時ヲ過キテ畢ラサルヲ以テ、第一銀行ノ重役会ニハ不参ノコトヲ電話ニテ申通ス○下略
一月廿五日 曇
○上略此日海軍省ニ抵リ角田氏ニ面会シテ船渠会社合併ノコトヲ談話ス
二月三日 晴
午前二三ノ来人ニ接ス、九時麻布広尾井上鎮守長官宅ニ抵ル、梅浦氏同行ス、海軍ノ官人角田・佐宗《(佐双)》・石黒・宮原・松本氏等来会、浦賀船渠会社塚原周造氏ト共ニ両社合併ノコトヲ談話ス○下略
三月一日 晴
○上略梅浦精一・平沢道次両氏来ル、石川島造船所合併ノコトニ付協議アリ○下略
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三月二十三日 曇
午前九時兜町ニ帰ル、梅浦精一・平沢道次・進経太ノ諸氏来リ、石川島造船所ノコトヲ談ス、十時海軍省ニ抵リ角田艦政部長ニ面会シ、浦賀船渠合併ノコトヲ談ス、梅浦精一同伴ス○下略
五月八日 晴
○上略四時過馬車ヲ馳テ白黒角田海軍中将宅《(目)》ニ抵ル、石川島造船所合併ノコトニ関スル談話ナリ、梅浦精一氏同伴ス、五時角田氏ヲ辞シ六時前帝国ホテルニ抵ル○下略
五月十二日 晴
午前角田秀松氏来ル、石川島造船所浦賀船渠会社合併ノ議ニ関シ、社長撰任ニ付内話アリ○下略
七月七日 雨
○上略浅野総一郎来ル、北越石油業合併ノ談アリ、及石川島浦賀両船渠合併ノ方法ヲ談ス、○中略午後梅浦精一来ル、石川島造船所合併ノコトヲ協議ス
七月九日 曇
○上略午前十一時海軍省ニ抵リ、梅浦氏ト共ニ両社合併ノコトニ関シ角田・佐宗《(佐双)》・宮原・松本諸氏ト会話ス○下略
七月廿七日 晴
午前○中略十時石川島造船所定時総会ヲ台湾協会ニ開ク○下略
八月五日 晴 酷暑
○上略麻布井上海軍中将ヲ訪ヒ、船渠会社合併ニ関スル意見ヲ陳述ス、更ニ角田中将ヲ渋谷ノ宅ニ訪ヒ、再ヒ井上伯邸ヲ訪フ○下略
八月七日 雨
○上略午後一時台湾協会ニ抵リ、石川島造船所株主臨時会ヲ開ク、議長席ニ就テ両会社合併問題ニ関スル沿革ヲ縷述シ、株主ノ質議ニ答フ、議事畢テ兜町ニ帰リ、更ニ浜町宅ニ帰宿ス、此日ハ日本郵船会社重役会ノ常日ナリシモ、石川島造船所ノ為欠席ス
八月九日 曇 冷気
○上略午前十時兜町事務所ニ抵リ来客ニ接シ、且事務ヲ処理ス、両船渠合併談ニ関シ梅浦・平沢・塚原氏来会ス、夕方深川宅ニ帰宿ス
八月十五日 晴
○上略午後第一銀行重役会ヲ開ク、畢テ梅浦・平沢二氏来リ、石川島造船所ノコトヲ談ス、夜浜町宅ニ帰宿ス
八月十六日 晴
○上略此日渡辺福三郎氏ヘ石川島造船所合併ニ関スル意見ヲ詳話ス
八月十七日 晴
○上略午後浅田逓信総務長官ヲ訪ヒ、石川島造船所合併ノ件、北越鉄道会社ヨリ伺出テタル鉄道外国人ヘ抵当ノ件、無線電線ノ件等ヲ談話ス○中略石川島造船所合併ノ件ニ関シ、浦賀臼井儀兵衛氏ニ書状ヲ発ス
九月四日 雨
○上略塚原周造氏来リ、両船渠会社合併ニ関スルコトヲ談ス○下略
九月七日 晴
午前七時二十五分ノ汽車ニテ横須賀ニ抵リ、井上長官ニ面会シテ両船
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渠会社合併ニ関スル爾来ノ状況ヲ話説シ、且石川島ニ関スル意見ヲ縷陳ス、艦政部長モ同席ニ来ラレ、種々頼願ノコトヲ述ヘ、両氏トモニ領意ノ回答アリタリ、十二時浦賀ニ赴キ、新造船ノ大体ヲ視察シ、畢テ各課長ヲ集メテ爾来両会社合併ニ関スル顛末ヲ詳話シ且当方ノ決意ヲ示ス、三時過同所ヲ発シ横須賀四時十五分発ノ汽車ニテ帰京ス○下略
九月十六日 晴
○上略午後十二時三十分ノ汽車ニ搭シテ大磯ニ抵ル、梅浦氏ノ別荘ニ於テ渡辺治右衛門氏ト会見シ、船渠会社合併ノコトヲ談話ス、○中略夜七時十分ノ滊車ニテ帰京、夜深川宅ニ帰宿ス
九月廿三日 晴
午前第一銀行、東京商業会業所、共他各所ヘノ書状、及調査書ヲ送付ス、桜井亀二来リ両船渠会社合併談不調ノコトヲ報シ来ル○下略
九月廿六日 晴
午前石川島造船所ニ抵リ、将来営業ノ方針ヲ協議ス、梅浦・平沢・進経太氏来会ス○下略
十月十四日 曇又雨
○上略午後商業会議所ニ抵リ、石川島造船所株主協議会ニ出席ス、浦賀船渠会社合併談不調ニ成行タル爾来ノ顛末ヲ詳細ニ報告ス○下略


中外商業新報 第五八六二号〔明治三四年八月九日〕 石川島浦賀合併の必要趣旨(DK110098k-0004)
第11巻 p.647-648 ページ画像

中外商業新報 第五八六二号〔明治三四年八月九日〕
    石川島浦賀合併の必要趣旨
去七日、同時に開会せられたる石川島造船所及浦賀船渠会社臨時総会に於て朗読せられたる、井上男爵の合併必要の趣旨左の如し
 抑も造船工業たるや工業中の最も主要なるものにして、其私人の営業に係るものと雖亦之れ国家的の事業に属し、之れか消長は直ちに国家の盛衰に影響す、故に当路者は常に之に対して細心の注意を懈らす能く其機微を察し、法規の許す限りは務めて誘導扶掖して之れか発達を幇助し、以て国家の進運に伴随せしむるの方針を執ることは極めて必須の事なるべきを信するなり
 今や世界の大勢は駸々乎として物質的の進歩を致し、文明の風潮は滔々として東漸し、漸く清韓の両国にも波及し、彼邦に於ける具眼有識の士は終に国勢の維新を見るに致るへきを期するものゝ如し、東洋刻下の形勢に徴するに蓋し誤らさるの見ならん乎、果して然らは数の然らしむる所早晩軍艦・商船は勿論百般工業物件の必要を感し、其供給製作を、外邦に求むるに至るへきや明かなり、此時に方り、其注文の衝に当り、製作供給の機に投し、之れを誘導扶掖して文明の域に進ましむること単り隣佑の情誼たるのみならす、実に先進国たる本邦の天職と謂ふへし、故を以て予め工業の発達を図り、彼をして安んして我に信頼せしむるの策最も刻下の急務なるへしと信す、如此するときは啻に清韓両国に対するのみならす、進んて欧米各国に対し国利を増し国運を進め、玆に始めて東洋に覇たるの実を示すことを得へし、工業のこと豈に忽にすへけんや
 曩に石川島造船所並に浦賀船渠会社の造船工業を目的とし、造船所を浦賀港に建設せられたるは実に国家的事業として大い同意を表す
 - 第11巻 p.648 -ページ画像 
る所なりき、然りと雖此両社は同一営業の目的を以て等しく浦賀港内に存在しあるを以て各其社運の隆栄を企図するの熱情に駆られ、彼此の得失全然相反するか如き場合に際しては知らず識らず業務の競争となり軋轢となり、遂に工業の発達なる目的を誤るに至る蓋し故なきに非さる也、夫れ両虎の相搏つや、其一を斃すに非されは止ます、両社の競争も底止する所なくんは終に其一を失ふに至るへし否な勢の激する所或は終に両社を併せ失ふに至るなきを保つへからす、然り而して若し此の杞憂をして実なから《(マヽ)》しめん乎、其害の波及する所頗る大にして終に世人をして興業難を感せしめ、工業発達の障碍となるに至るや必せり豈寒心留意せさるへけんや、本邦工業の現況よりするときは此種の会社の益多からんことを希望するの時に際し、却て此弊を見る、国家の為め洵とに慨嘆に堪えさる所なり
 余常に私かに之れを憂ひ、信用ある人の之れか調停の労を執り、以て両社の融和を図るあらんことを国家の為め希望しつゝありし折柄浦賀船渠会社長塚原周造氏より余に嘱するに居仲調停の事を以てし次て石川島工場の渋沢栄一氏よりも亦同一の嘱を受く、余不肖固より其任にあらすと雖、之をなす国家の利なるを思ひ之れを肯諾し、爾来心を潜めて両者の利害得失を攻究調査したるの結果、別紙調書の示すか如く両者を合併して一社となすの困難ならさるを確認したり、而して両社に在ても亦等しく合併の利なるを認め、之れを望むや切なりと雖、只其実行に至ては或は決する能はさるやの恐あり何そや個人の利害或は感情の上より之れを是非し、賛否の容易に纏らさるか如きことなき能はされはなり、然れとも开は思はさるの甚しきものにして所謂眼に秋毫の末を観て輿薪の大を観さるものと謂ふへし、抑も一利一害は数の免かれさる所にして利の在る所害亦之に伴ひ、終始完璧の利は終に求むへからさるものなるか故に、眼を全局の表に注き心を国家の上に致さは是非の分利害の決自から明らかなるへし、何そ踟蹰するを須ゐんや
 故を以て宛も快刀の乱麻を断つか如く果断以て事を処し、両者を打て一丸となし協心戮力して事業の進捗を期すること実に今日に処するの急務にして而して此の如くにして始めて社運の隆栄を見るに至るへし、河□《(海)》は細流を択はさるか故に終に其大を致す、国家奉公の大義を惟れ思はゝ区々の小利害小感情の如き、豈に一掃し難からんや、余の両者に於ける、始めより毫も恩怨なし豈に親疎の別あらんや、唯国家の工業に待つ所以を思ひ両社の近況を憂ふるの余、聊か微力を致し両者の為めに将来を善くせんと欲するのみ、故を以て事を処する専ら至公至平を期し苟くも偏倚する所あらさるなり、諸子幸に之れを思ひ、断然両社を合併し、内は財政の刷新を図り冗費を省きて以て有用に充て、外は信用の鞏固を求め業務に勉めて以て来客を集め孜々として敢て怠るなくんは、社運の隆栄期して待つへきなり、豈単り両者の為めのみならんや
  明治三十四年 月       男爵 井上良馨(印)


中外商業新報 第五八六二号〔明治三四年八月九日〕 石川島造船所臨時総会(DK110098k-0005)
第11巻 p.648-649 ページ画像

中外商業新報 第五八六二号〔明治三四年八月九日〕
 - 第11巻 p.649 -ページ画像 
    石川島造船所臨時総会
東京石川島造船所は、去七日午後一時より台湾協会に於て臨時総会を開き、浦賀船渠会社と合併の件に付き協議したるが、出席者は四十四名にして権利数は委任状共二万三千三十九個に達したるが、此日今回の合併談に付き種々奔走せられたる海軍工務総監石黒五十二氏は仲裁者海軍中将井上良馨氏の代理として臨塲あり、渋沢栄一男議長席に着き両船渠合併の件に付臨時総会を招集したること、次に本問題は去明治二十九年の交、同造船所か浦賀工場の工事を成功したる際浦賀船渠会社か同様の設計を為すに至りしかば、玆に廿九年十一月より十二月に掛け合併談起りし以来、卅一年と昨年より本年に掛けたる今回の合併談とを合し都合三回の協議あり、海軍省にても両会社の合併を切望したるを以て、去一月十八日浦賀船渠の塚原周造・臼井儀兵衛両氏、同廿一日造船所の渋沢栄一・梅浦精一の両氏前後して横須賀に至り、海軍中将井上良馨男に両社合併に関する居中調停の件に付依頼したるに、同氏は無条件なれば一個人の資格にて引受んとの申出あり、外に石黒五十二・佐双左仲・角田秀松・宮原二郎・松本和の五氏を委員とし、数ケ月間両会社の財産の調査ありし結果、此総会を開くに至りし次第を述べ、同委員石黒五十二氏が井上氏の代理として列席ありし旨を報告し、次に別項記載の合併趣意書及委員の調査に成る両社の財産調を朗読し、以て此無条件合併並に合併に関する手続に関しては総て重役に一任ありたき旨を述べ、次に石黒氏より一応の挨拶と共に合併の必要を述べしに、向井善兵衛氏は合併には異議なきも無条件にて合併するは不本意なるを以て、今一応調査委員を設け之か調査の後其可否を決せんと発議せしも、議長及石黒氏より財産に関する調査は実地に就て綿密なる調査を為したる上、両社の昨年度下半期考課状を正確と認定し計算したるものにて間違なき旨回答あり、向井氏の説に二三の賛成ありしも少数にて消滅し、大多数にて原案を決し、次に井上中将外五名の委員諸氏に感謝の意を表することを決し、石黒氏は其厚意を謝し、無事午後六時頃散会したりと云ふ


銀行通信録 第三二巻第一九一号・第五五一頁〔明治三四年九月一五日〕 ○浦賀船渠会社石川島造船所合併の不調(DK110098k-0006)
第11巻 p.649-650 ページ画像

銀行通信録 第三二巻第一九一号・第五五一頁〔明治三四年九月一五日〕
    ○浦賀船渠会社石川島造船所合併の不調
相州浦賀船渠株式会社と同所に船渠を有する東京石川島造船所とは、昨年来両者の間に合併の議起り、両者重役は本年一月海軍中将井上良馨氏へ両社合併に付き居中調停の労を執られんことを依頼せしに、同氏は快く之を承諾して、更に同中将より石黒五十二・佐双左中外三氏に向て両社財産の調査を委嘱せし処、右五氏は以後数月間之が調査に従事し、頃日に至り漸く下準備出来せるを以て、両社重役は双方無条件にて合併を決行することゝとし、八月七日浦賀船渠会社は日本橋倶楽部に、石川島造船所は台湾協会に、各臨時総会を開き合併の件を議したるに、造船所の方は異議なく原案を可決したるに引換へ、船渠会社の方は議容易に纏らす、結局更に造船所の財産に就き精細なる調査を遂けたる上合併条件を決定することゝなり、委員十名を挙げて閉会せり、然るに該委員は其後造船所に就き、財産調査の申込を為したる
 - 第11巻 p.650 -ページ画像 
に、造船所にては断然之を拒絶し、結局船渠会社にて此石川島造船所の資本を減額するか船渠会社の株券価格を引上くるかの条件附合併を主張して、造船所は互に譲らさる由なれは、結局合併は不調に帰するの外なかるべし


竜門雑誌 第一六一号・第三四頁〔明治三四年一〇月〕 ○石川島造船所の臨時総会(DK110098k-0007)
第11巻 p.650 ページ画像

竜門雑誌 第一六一号・第三四頁〔明治三四年一〇月〕
    ○石川島造船所の臨時総会
東京石川島造船所に於ては、本月廿二日午後二時より東京商業会議所に於て臨時総会を開き、浦賀船渠会社と合併不調の次第報告及重役報酬半減の件に付凝議したるが、先づ会長たる青淵先生には
 昨冬以来石川島・浦賀船渠両会社合併の件に付種々協議し、結局去八月七日両会社双互に総会を開き合併の決議を為し、以て前途益々斯業の発達を計らんとしたるに、本会総会の満場一致之が決議を為したるに係はらず、浦賀船渠は総会に於て調査委員を設け、更に両会社の財産上其他の件に付種々調査を為さしむることとなりし以来再三右委員とも協議したるも遂に調停成らす、浦賀船渠は去十六日総会を開き調査委員の報告に基き合併を否認するに決したるを以て今後の方針に就き種々重役協議を尽したるも、頃者鉄工業は一段商工業の不振に伴ひ自然注文少なきに加ふるに小資本の工場多く孰も工賃の競争を為すを以て、刻下に於ける斯業の困難一方ならず、依て今後は出来得可き丈冗員を淘汰し冗費を節し浦賀分工場には閑日月なからしむる丈の設備を為し、以て刻下の事業を継続することに決し、其第一着手として取締役監査役の報酬一ケ年六千円なるも之を三千円に減ず可きことを御了承ありたし、顧ふに我々は軽卒に此合併の事を図りしにあらず、慎重に其衝に当りしも今回の不幸を見るに至りしは実に遺憾に堪へざる次第なれば、一時は辞表を提出し責を引んとせしも、斯せば其後任者あるや否やも判然せず、会社をして其業務執行上彷徨せしむるに至るを以て、諸君より叱責ある迄は留任することに決したる次第にして、今日は右合併不調の報告を兼ね今後の方針等を御協議せん為め総会を招集したるものなりと
の主旨を以て一場の挨拶を為し、梅浦氏も重役報酬節減の件に付縷々陳ぶる所ありしも、株主は合併不調に関する報告は了承せしも、報酬節減の件は全く節減するも僅に六千円なれば、是丈は従前の儘とし其他諸般の経費を節減し、以て会社の前途を計営せんことを主張し重役諸氏の再三報酬節減を主張するも之を承認せず、現今の儘据置かんことを唱へしより、結局再考することに決し午後三時散会したる由なり



〔参考〕東京石川島造船所五十年史 附録・第二四〇―二四四頁〔昭和五年一二月〕(DK110098k-0008)
第11巻 p.650-652 ページ画像

東京石川島造船所五十年史 附録・第二四〇―二四四頁〔昭和五年一二月〕
  懐旧談片
    二七、浦賀の事ども
 浦賀に分工場を造らうと考へついたのは、本社の将来を思つて、水の浅い石川島では到底満足が出来ず、どうしても新に大造船所設立の必要を痛感した結果である。
 - 第11巻 p.651 -ページ画像 
 処がこちらで左様な計画を抱いてゐた事を聞いて、「渋沢がやるのだからやがて儲るに違ひなからう」と云つて、同じ浦賀に造船所建設の計画を樹てたのが、元管船局長の塚原周造と云ふ人、これに主として資本を提供したのが渡辺治右衛門氏で、どちらも造船には素人であつたが、先方の方が手廻しがよくて、逸早くこれを具体化し、往年幕府の船舶修繕所が置かれた浦賀湾奥の谷戸の地に、新造船所を創設する事にしたので、こちらで実地踏査にいつた時には既に先方に取られてゐて、止むなく湾口の館浦に決めたのである。
 その後彼我相前後して開業し、自然激甚な競争となつたので、海軍の松本和氏や石黒五十二技監などが、無益な競争をやめて合併してはと両社の間を斡旋され、こちらでは海軍当局の意嚮を尤もと思つて直ちに承諾して、株主総会の決議まで経たが、先方が不承知だつたので合併は成立せず、結局分工場だけを先方に売却する事になつたのであつた。(渋沢子爵談)
      浦賀船渠との競争
   一体浦賀ではどの道こちらが損な立場に在つたのだ。といふのは、浦賀船渠は湾の奥、風波を避けた所にあるのに、こちらの分工場は湾口にあつて、どちらかといへば風当りも強い。
   それに両社が修繕料などで競争し出したとなると、より安い方にといふのは人情である。そこで船主は先づ浦賀に入港すると、湾口の本社の繋留浮標に繋船して、然る後に、双方に修繕料の競争入札をさせる。何の事はない人の軒先で、同じ物を売つてゐる隣りの値段を問合はせるやうなもので、うまく行つてこちらの船渠に入つて呉れた処で、結局殆ど実費で修繕するやうなものであつた。(小川鉄五郎氏談)
    二八、何故浦賀へ?
 浦賀のやうな辺鄙に、造船会社が二つも出来れば共倒れになるか、どちらか一方が非常な打撃を受けるに定つてゐる位の事は、最所から判り切つた事でないかと云つた人が、その時分(明治三十四五年頃)にもあつた。
 が、実は本社では、船渠敷地の選定などの事は浦賀船渠の方で魁したものゝ、その後一向手を着ける模様もないので、これは口先許りで宣伝倒れになるのだらうと見て取つて、計画から起工とドシドシ事を進めたのだ。
 ところがやがて先方でも起工し始め、結局予想されたやうな大競争となり、最後に売却するやうな結果に立到つたのは遺憾千万であるがしかしやるだけの事はやつたのだから失敗はしても尊い経験ではあつた。
 当時吾々は壮年の元気溌溂たるものがあつて、幾度かクラブで徹夜して浦賀船渠対抗策に議論の花を咲したものである。時に分工場長福地文一郎氏は三十五歳、造船課長の小川は二十八歳、造機課長の栗田に至つては高工出のホヤホヤの二十六歳と云ふ白面の一書生、僅かに庶務課長の大竹福司氏だけが四十に手の届かうと云ふ年配だつた。
 百万円以上もかけた分工場を、よくこんな若手ばかりでやらせて呉れたものだと、今でこそ回顧されるのだが、その時分にはいづれも意気衝天で大した元気だつた。だから愈よ売却と決して、浦賀の地を去
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つた時には、宛然赤穂浪士の城明け渡しの時に似た悲痛な感情に思はず涙を抑へ兼ねたものであつた。(小川鉄五郎・栗田金太郎両氏談)
   ○浦賀港ニ於ケル両会社工場ノ位置ハ次ノ略図ヲ参照スベシ(浦賀船渠株式会社浦賀工場編纂「三浦半島と浦賀ドツク」〔大正一五年一一月一〇日〕ノ挿図ニ拠ル、即チ本工場トアルハ浦賀船渠ノ谷戸工場ニシテ川間分工場トアルハ元東京石川島造船所ノ浦賀分工場ト知ルべシ)
[img 地図]水源地 明神山 畠中 新町 州崎 新井 浦賀港口 材料置場 材料置場 川間分工場 川間 鈴浦 横須賀ニ至ル 本工場 荒巷 谷戸 宮下 紺屋町 田中 三崎ニ至ル
  ○明治三十五年五月四日ノ項参照。