デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
15節 造船・船渠業
1款 株式会社東京石川島造船所
■綱文

第11巻 p.658-661(DK110100k) ページ画像

明治40年4月27日(1907年)

当造船所創立満三十年祝賀式ヲ挙グ。栄一之ニ臨ミ演説ス。


■資料

竜門雑誌 第二二六号・第四三頁〔明治四〇年三月二五日〕 東京石川島造船所臨時総会(DK110100k-0001)
第11巻 p.658 ページ画像

竜門雑誌 第二二六号・第四三頁〔明治四〇年三月二五日〕
○東京石川島造船所臨時総会 東京石川島造船所にては本月五日築地同気倶楽部に於て株主臨時総会を開き、取締役会長たる青淵先生議長となりて、現在資本金五拾壱万円を増加して百五拾参万円と為す事を議決し、又取締役及監査役を増加することに決して、議長より現任監査役青木庄太郎・同臼井儀兵衛両氏を取締役に、小野準一・石川顕一郎・佐藤政五郎三氏を監査役に指名し、又取締役及監査役報酬現在年額四千五百円以内を増加して六千円と為すことに議決せり


竜門雑誌 第二二八号・第二四頁〔明治四〇年五月二五日〕 ○石川島造船所創立三十年祝典(DK110100k-0002)
第11巻 p.658-659 ページ画像

竜門雑誌 第二二八号・第二四頁〔明治四〇年五月二五日」
○石川島造船所創立三十年祝典 石川島造船所にては兼て製造中なる
 - 第11巻 p.659 -ページ画像 
東京湾滊船三光丸《(山)》(九百噸)の進水式を兼ね創立満三十年の祝典を挙行したり、当日〇四月二七日は造船用機械を以て作りたる閻羅王、橋弁慶及大砲其他の作り物を来賓の縦覧に供し、午後三時より園遊会を開きしが種々の模擬店及余興あり、五時半より進水式挙行、式終て立食の饗応あり、同式に於ては先づ専務取締役平沢道次氏の工程報告ありて次に先生を始め東京湾滊船会社長桜井亀二、山県逓信大臣代、尾崎東京市長等の演説及び祝辞ありたり
   ○是ヨリ先、日露戦争ニ因リテ海運業発展シ、船舶建造ノ註文増加ス。従ツテ造船業モ大イニ伸長シ、東京石川島造船所亦其例ニ洩レズ、左ノ資料ニヨリソノ一斑ヲ知ルベシ。



〔参考〕東京石川島造船所五十年史 第三五―四一頁〔昭和五年一二月〕(DK110100k-0003)
第11巻 p.659-660 ページ画像

東京石川島造船所五十年史 第三五―四一頁〔昭和五年一二月〕
    五、日露戦争時代
        自明治三十七年 至大正三年
○上略
 本社が浦賀分工場売却に伴ふ創痍より著々恢復しつゝありし頃、日清戦役後頓に露骨となりし露国の極東に対する侵略政策は、愈よ端的に発揮せられ、遂に朝鮮に加へられたる脅威の傍若無人を極むるに及んで、我国は敢然起つてこれに戦を宣し(明治三十七年二月五日)以て極東の平和確保の為、国運を賭するの挙に出でたり。
 日清戦争に際して全力を挙げて軍国奉仕の任につきたりし本社は、今回も亦進んで報国の誠を示し、先づ開戦匆々、本社所有の小蒸汽船朝日丸を陸軍省に提供し、次いで運貨船三隻も亦借上げとなり、一方工場に於ては、弾丸工場備付の機械器具一式、即ち旋盤以下六十六廉を陸軍に売却し、該工場またその徴発に応じ、所要の原動力は本社に於て供給する事となれり。
 爾余の工場に於ても軍艦隔壁、鋼甲板等各種軍需品の製作に努め、水雷艇の修理をも引受けたるが、この間陸に海に、皇軍連戦連勝を博し三十八年(一九〇五年)五月日本海大海戦またわが快勝に帰するや間もなく休戦となり、次いで平和は克復せられたり。(其後明治四十年戦時行賞の事あるや、戦時に於る本社の功績に対し、平沢専務取締役、内田取締役以下幹部社員四名に叙勲又は賜金の御沙汰ありたり。)かくして極東空前の大戦役に大捷を博し、新に領土及び権益を獲得したるわが国朝野の間には、当時大いに進取積極の気運漲り、殊に工業方面に於ては、業界振興の気最も動き、戦後諸会社の新設勃興甚だ著しく、本社のこれが影響を受くるまた尠からざるものありて、業務繁忙を呈するに至れり。
 戦端の未だ開かれざりし三十七年初頭、先づ諸工場を増設し、更に汽缶用水として新に水道鉄管を引けるなど、設備の改善拡張を怠らざりし本社にてはこの一般的気運に乗じて、三十九年(一九〇六年)七月二十七日の臨時総会に於て、十五万円の増資を決し、相前後して造船台の新設を行ひ、原動力を電力に統一するの計劃にも著手したり。
 翌四十年(一九〇七年)三月五日の臨時総会にては、更に百二万円
 - 第11巻 p.660 -ページ画像 
を増資して、総資本金を百五十三万円とする事を議決したりしも、その後に至り戦後産業振興の気運次第に衰へ、工業界の漸次沈衰に向ふに及んで、同年十月四日の臨時総会は、前回議決の増資を五十一万円に減額し、総資本金を百二万円に変更せり。
 この間に於ても財界の変調愈よ甚しく、為に注文の激減を見るに至りしが、本社にては極力これが蒐集に努め、一方冗員を減じて専ら持久に務めたる為、増資後もよく一割の配当を持続するを得たり。
○中略
 これを要するに、日露戦争後十年間に於る本社は、浦賀分工場に於て受けたる打撃より次第に恢復し、財界の沈衰に堪へつゝ、よく堅実なる経営を続け得たるの時代にして、その間の主なる工事としては、朝鮮の清川江・鴨緑江・漢江等の橋脚沈下工事用の潜水函、各地の耕地整理に供給せる排水喞筒の製作、及び水力電気発達に伴ふ鬼怒川・桂川・利根川等に於る発電並に送電設備工事、更には各種起重機の製作等にして、造船工事に在りては、山光丸以外特筆すべきものなかりしも、一方鉄骨建築等に於ては都下に高層建築の漸く盛ならんとするに先立ち、明治四十年には両国国技館の大鉄傘、四十二年には東京中央停車場の鉄骨製作並に組立を引受け、いづれもその成績優秀にして一般の好評を博し、殊に東京中央停車場の如き、その鉄骨組立に当つて足場を築かず高層建築上こゝに独創的なる劃期的作業に成功して建築界の嘆賞を博し得たるは、私かに本社の欣快とする処なりき。


〔参考〕雨夜譚会文書 東京石川島造船所(明治三十二年以後)(DK110100k-0004)
第11巻 p.660-661 ページ画像

雨夜譚会文書
    東京石川島造船所(明治三十二年以後)
明治卅二年浦賀分工場の設備落成と共に技師を増聘して、船舶建造に従事し、同年石材運搬汽船(総噸数五一三)二隻、翌卅三年には航洋汽船一隻の注文を受けたのを初めとして、修繕船の船渠に出入するものが相踵いで一時は繁栄を呈したのだが、何分造船者の競争に押されて廉価請負を余儀なくされ、機械を運転しつゝ、業績傾く次第となつた。加之新工場の諸事不馴れ、浦賀船渠株式会社の創立などが一時に重つて欠損の悲運を生じ、同年卅五年五月浦賀分工場を浦賀船渠株式会社に譲渡するとゝもに減資を余儀なくされて、同年十二月卅五万円にまで大削減を断行した。爾来は作業も旧態に帰り船舶製造は寧ろ副業とし、陸用機関、鉄道橋梁桁材の製作組立に専念した。ところが日露戦役が勃発するや我航運業の発展著しく、延いて造船業の復活を促し、本所業態玆に再び一新し総噸数九百噸の汽船山光丸その他の造船を行つた。これに伴つて工場の膨脹があり、四十年には二度増資を続行して一躍百弐万円の資本額を計上するに至つた。時恰も創業卅年に相当し盛大に記念祝典を挙行した。○下略
   ○明治二十六年以後、栄一取締役会長ニ重任左ノ如シ。
     明治三十年一月二十五日 重任
     〃三十三年一月二十五日 〃
     〃三十五年五月四日   〃
     〃三十八年五月三日   〃
 - 第11巻 p.661 -ページ画像 
     〃四十一年五月二日   〃
   ○右ノ内三十五年五月四日ノ選任ハ任期満了ニ拠ラズ重役総辞職ニ依ル。同日ノ項(第六五二頁)参照。