デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
17節 汽車・自動車製造業
2款 汽車製造株式会社[汽車製造合資会社]
■綱文

第12巻 p.136-144(DK120021k) ページ画像

明治34年6月28日(1901年)

是ヨリ先、汽車製造合資会社営業不振ノ為メ平岡工場ヲ合併セントス。栄一並ニ伯爵井上馨・今村清之助等之ガ斡旋尽力ヲナシ、是日遂ニ汽車製造合資会社臨時総会ニ於テ合併ノ件決議サル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三三年(DK120021k-0001)
第12巻 p.136-137 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三三年
三月十六日 曇
○上略二時東京府ニ抵リ○中略更ニ帝国ホテルニ抵リ、大坂滊車製造合資会社ノ将来ニ付平岡工場トノ合併談及増資ノコトヲ協議セシモ充分ノ協定ヲ得サリシ、此日会同セシハ大倉・原六郎・高田慎蔵・瓜生震ノ諸氏ニシテ、平岡工場ノ合併ハ其価格相当ナレハ異議ナキモ、少クモ其半額ハ平岡ノ出資ヲ此合資会社ニ加入スルコト、又此合併ニ付テハ殊ニ増資ヲ為スコトナク、銀行借入金ニテ運転ヲ為スヘキコトト《(ノ脱カ)》意向ナリキ、夜六時兜町ニ帰宅○下略
七月六日 曇又雨
○上略三時帝国ホテルニ抵リ、滊車製造会社ノ社員内会議ヲ開キ平岡工場買収ノコト、出資額増加ノコトヲ協議ス○下略
十月廿六日 曇
○上略午後一時滊車製造会社臨時総会ヲ開キ、増資ノ件及平岡工場買収ノ件ヲ議決ス○下略
十二月十五日
○上略十一時帝国ホテルニ抵リ、滊車製造会社臨時社員会ニ出席ス、今村・瓜生其他ノ諸氏来会ス、議事終局ニ至ラス、更ニ一会ヲ開クコト
 - 第12巻 p.137 -ページ画像 
トシテ散会ス○下略
十二月廿五日 曇
○上略十時過井上伯ヲ訪ヒ、十一時帝国ホテルニ抵リ、滊車製造合資会社々員総会ヲ開ク、大倉・今村・瓜生・高田・原六郎・毛利五郎ノ諸氏来会ス○下略


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK120021k-0002)
第12巻 p.137-138 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三四年
一月十八日 晴
○上略滊車製造合資会社委員会ヲ開ク、大倉・瓜生・今村・平岡ノ諸氏来会ス、要務ヲ決議ス○下略
一月十九日 晴
○上略滊車製造会社委員会ヲ開ク、大倉・瓜生・今村・平岡ノ諸氏来会ス、黒田・安田両家ニ対スル処分案其他ノ要件ヲ協議ス、午後三時安田氏ヲ其銀行ニ訪ヒ、委員ノ決議ヲ申告シテ同意ヲ求ム、両三日中ニ回答スヘシトノコトナリ、此夜大倉氏葵町邸ノ招宴ニ出席ス
(欄外記事)
  十九日ノ記事ハ誤アリ、同日ハ英人マヂソンキルビ・渡辺嘉一氏来リ、北越鉄道ノコトヲ協議ス、午後安田氏ヲ訪フ
一月三十一日 曇
○上略午後一時滊車製造合資会社々員会ニ出席ス○下略
二月廿五日 雪
午前八時井上伯ヲ麻布邸ニ訪ヒ、有賀氏内話ノ海外行ノコトヲ談ス、且滊車製造会社ノコト及石川島造船所合併ノ内情ヲ具陳ス○下略
三月二日 晴
午前十時麻布井上伯ヲ訪フ、経済上ニ関スル意見ヲ談話シ且貴族院停会ニ関スル情況ヲ談ス、平岡熙氏来会セルヲ以テ滊車製造会社ノコトヲ詳話ス○下略
四月七日 曇
午前麻布井上伯ヲ訪フ、桂子爵・平岡熙等来会ス、経済上ニ関スル時事ノ談話ヲ為シ、且滊車製造合資会社ノコトヲ談話ス○下略
四月十日 雨
午前十時銀行倶楽部ニ抵リ滊車製造会社ノコトヲ談ス、瓜生震・今村清之助・高田慎蔵・毛利・蜂須賀ノ諸氏来会ス○下略
四月十一日 晴
○上略此日午前九時安田善次郎・高田慎蔵来ル、大坂滊車製造会社ノコトヲ談ス
四月十二日 晴
午前住友吉左衛門氏来話ス、滊車会社ノコトヲ談ス○下略
四月十三日 曇
○上略此日住友氏ヲ島屋ニ訪ヒ、滊車会社ノコトヲ談ス
四月十四日 曇
午前十時井上伯来訪セラル、滊車製造会社ノコト及各種ノ談話アリ、共ニ午餐シテ一時過帰宅セラル○下略
五月八日 晴
○上略六時前帝国ホテルニ抵ル、滊車製造会社々員会ヲ開ク為ナリ、此
 - 第12巻 p.138 -ページ画像 
日ハ井上伯モ来会セラレ、大倉・原・高田・毛利・蜂須賀・平岡熙モ来会シ、是迄ノ経過ト将来ノ経営トヲ詳細ニ協議シ、且伯ヨリ一場ノ注意演説アリテ九時散会ス、夜深川宅ニ帰宿
六月廿八日 曇
○上略十時過八重洲町滊車製造会社事務所ニ抵リ社員総会ニ出席ス○下略
七月六日 雨
○上略午後一時本所錦糸町平岡工場ニ抵リ、大倉・瓜生・今村ノ諸氏ト共ニ、同工場買収ニ関スル検閲ノコトヲ為ス○下略
七月三十一日
午前九時本所錦糸町滊車製造会社支社ニ抵リ、社員総会ヲ開ク、井上勝・羽野知顕・平岡熙氏来会ス、大坂ニ於ル本社営業ノ状況ヲ平岡氏ヨリ聞知ス、畢テ兜町事務所ニ抵リ事務ヲ処理ス○下略


渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治三二年)一二月一七日(DK120021k-0003)
第12巻 p.138 ページ画像

渋沢栄一 書翰  井上馨宛(明治三二年)一二月一七日
                    (井上侯爵家所蔵)
粛啓、益御清穆御坐可被成奉抃賀候、過日は昇堂種々御高配に相成難有奉存候、其際御申聞に相成候別紙書類写取差上候、御落手可被下候其後小生逓信大臣に面会いたし候に付、例之契約之義承合候処頗る困難之由被申聞候、併尚平岡氏と同行逓信省へ罷出篤と御引合申上候上にて更に陳上可仕と存候、小生両三日来風邪引籠居候、㝡早稍快方に付不日出勤候はゞ早々御伺申上候、右申上度 匆々敬具
  十二月十七日
                      渋沢栄一
    世外老閣侍史


渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治三三年)三月一七日(DK120021k-0004)
第12巻 p.138 ページ画像

渋沢栄一 書翰  井上馨宛(明治三三年)三月一七日
                    (井上侯爵家所蔵)
奉啓、益御清適御座可被成抃賀之至に候、過日一書差上候後寸暇を得候はゞ拝趨仕度と存居候得共、種々雑事に取紛れ乍思欠礼仕候、然者先頃之書中にも申上候滊車製造合資会社之義も其後平岡より相談有之候も、兎に角一応賢慮相伺候上にて増資談に取掛申度と其儘見合居候次第に付、自然御帰京御延引に候はゞ小生平岡の中参上仕度、もし又近々御帰京と申事に候はゞ其上相伺申度に付、何共恐入候得共御模様御一声被成下度候、此段再度奉得芳意度如此御坐候 敬具
  三月十七日
                      渋沢栄一
    世外老閣
       侍史


渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治三三年)五月二四日(DK120021k-0005)
第12巻 p.138-139 ページ画像

渋沢栄一 書翰  井上馨宛(明治三三年)五月二四日
                    (井上侯爵家所蔵)
爾来御疎情申上候、然者過日御内意相伺候大坂滊車製造会社之義ニ付在東京之社員会合之日時ハ来ル廿九日正午帝国ホテルニ於て相聞度候得共《(開)》、御都合如何ニ候哉、御示被下度候、平岡とも其後面会打合候得
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共、同人ハ寧ロ今日ハ合併談ハ見合候方と申居候、併愚案ニてハ何分不安心ニ被存候間、是非兼而申上候如く相運ひ申度と奉存候
白耳義人会見之事ハ其後訳書出来せす、外務大臣ニも拝眉を得す、終ニ日一日と延引仕候、今日ハ益田氏と面会可致と存候間、其上ニて時日相究候様可仕候、右一書申上度 匆々不一
  五月廿四日
                      渋沢栄一
    世外老閣
       侍史


渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治三三年)一二月三〇日(DK120021k-0006)
第12巻 p.139 ページ画像

渋沢栄一 書翰  井上馨宛(明治三三年)一二月三〇日
                    (井上侯爵家所蔵)
奉啓、益御清適御坐可被成抃賀之至ニ候、然者過日来種々苦配仕候滊車製造合資会社ニて平岡工場と合併之件並出資金増加之事ハ、廿五日を以て㝡終之会議相開き色々と相談いたし、終ニ黒田家と安田善次郎とハ除名し、是迄之出資金ハ示談上、相当之割合相立払戻候筈ニ取究め、且二三之増資ニ不同意者有之候分ハ前之黒田安田之分と共ニ、其割当之増資額ハ、毛利家岩崎住友及平岡之四人ニて追加引受之事ニ致し、右ニて将来之営業ハ平岡ニ専任致候筈決定仕候、就而ハ毛利家ニ於て前陳増資引受之義者何卒老閣より之御声掛を以て御同意被下候様被成下度候、右様相成候ハヽ運転資本ハ多少借入金必要と存候得共、平岡ニして専心従事致候ハヽ繰廻しも可出来、又相応之利益も可相生と存候、自然平岡より右之段御伺申上候ハヽ、引続き奮発候様御督励被下度候、石川島浦賀分工場合併談も海軍省ニて心配致呉候間、其中老閣へ申上候様可相成と存候、もし其機会ニ立至候ハヽ御高配被下候様前以拝願仕候
右等申上候為尊邸参上之積ニ候処、月迫取込候旁延引いたし過刻電話ニて承り候処ニてハ既ニ御旅行と相成候由ニ付、乍略儀書中此段申上候義ニ候、いつれ来春拝光万々陳上可仕候 匆々謹言
  十二月三十日
                      渋沢栄一
    井上伯爵閣下
         侍史
  尚々滊車製造会社之事ニ付而ハ電話御問合も被下候得共、其際ハ何分未定ニ付拝答延引仕候、御海恕可被下候
  老閣之御帰京ハ何日頃ニ候哉、小生も一日より大磯へ罷越、十日頃ニハ帰京之積ニ御坐候
  有楽会も廿日前後ニ是非一会相開申度と存候、是又御含被下度候也


渋沢栄一 書翰 井上馨宛(明治三四年)五月八日(DK120021k-0007)
第12巻 p.139-140 ページ画像

渋沢栄一 書翰  井上馨宛(明治三四年)五月八日(井上侯爵家所蔵)
益御清適奉賀候、然者過日平岡熙より申上候如く滊車製造合資会社之社員会今八日午後五時ニ帝国ホテルニ於て相開候筈ニ付、何共恐入候得共老閣ニも御光臨将来之経営ニ対する高案御指示被下度候、東京社
 - 第12巻 p.140 -ページ画像 
員ハ可成出席致候様特ニ書通いたし置候間、旅行等無之限りハ罷出可申と存候、且粗末之食事も用意致候義ニ付、御談話後晩餐差上候都合ニ御坐候、右一書奉得芳意度 匆々不宣
  五月八日
                      渋沢栄一
    井上老閣侍史


汽車製造株式会社報告書(DK120021k-0008)
第12巻 p.140 ページ画像

汽車製造株式会社報告書           (雨夜譚会所蔵)
一、渋沢子爵トノ関係
  ○上略明治三十四年七月平岡工場ヲ譲受ケ、東京支店トナシタリ、蓋シ之レ亦タ数年前ヨリ子爵ノ御尽力ト御慫慂ニ因ルモノニシテ特ニ弥々其議ノ進展スルヤ、子爵ハ委員ノ一人トシテ終始御努力遂ニ其成果ヲ挙ケシメラレタリ○下略
一、沿革
  ○上略次テ明治三十四年七月東京市本所区錦糸町所在ノ平岡工場ヲ譲受ケ、之レヲ東京支店トシ、社名ヲ再ビ改メテ汽車製造合資会社トシ、資本総額ヲ金百〇五万円ニ増加シ、台北支店ヲ設立セリ


(八十島親徳) 日録 明治三四年(DK120021k-0009)
第12巻 p.140 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三四年  (八十島親義氏所蔵)
七月九日 雨
今日ハ本所平岡工場ニ至リ、大倉組福田九六氏ト共ニ財産点検ヲナセリ、同工場ガ滊車製造会社ト合併ノ件ニ要スルナリ


竜門雑誌 第一五九号・第四五頁 〔明治三四年八月二五日〕 ○汽車製造合資会社(DK120021k-0010)
第12巻 p.140 ページ画像

竜門雑誌  第一五九号・第四五頁〔明治三四年八月二五日〕
    ○滊車製造合資会社
元大阪滊車製造会社と称し、青淵先生等の尽力に依て隆盛に赴きつゝありし同社に於ては、今回平岡熙氏の経営に係りし平岡工場を譲受け同時に単に滊車製造合資会社と改称し、其資本金を百五万円に増し、業務を拡張して従来の平岡工場を支店と為したる由なり、而して同社の業務担当社員は社長井上勝・同副社長平岡熙両氏にして、監査役は青淵先生及田辺貞吉氏其任に当り、各社員の出資額は左の如し
    人名    出資額       人名     出資額
               円                円
   毛利五郎   九五、九三〇   田辺貞吉    四八、一〇〇
   岩崎久弥   九五、九三〇   井上勝     四八、一〇〇
   前田利為   六五、〇〇〇   田嶋信夫    四八、一〇〇
   住友吉左衛門 六三、九五〇   平岡熙     四五、八六〇
   渋沢栄一   五七、二〇〇   安田善次郎   三七、〇〇〇
   蜂須賀正韶  四八、一〇〇   松本重太郎   三七、〇〇〇
   今村清之助  四八、一〇〇   森村市左衛門  三七、〇〇〇
   大倉喜八郎  四八、一〇〇   藤堂量子    二四、六〇〇
   高田慎蔵   四八、一〇〇   田中市兵衛   一八、五〇〇
   原六郎    四八、一〇〇   羽野知顕    一五、〇八〇
   藤田伝三郎  四八、一〇〇   二十一名 一、〇五〇、〇〇〇

 - 第12巻 p.141 -ページ画像 

世外井上公伝 第四巻・第七〇七―七〇九頁 〔昭和九年五月〕(DK120021k-0011)
第12巻 p.141 ページ画像

世外井上公伝 第四巻・第七〇七―七〇九頁〔昭和九年五月〕
 ○第十編第三章 実業の振興
    第四節 会社の援助
○上略公○井上馨は井上勝に対して屡々助言或は督励の位置に立ち、或時は自ら下阪して経営の現況を視察して会社の発展を冀望してゐた。けれども会社は容易に予期の発展を見る事は出来なかつた。一体この会社の事業不振の因由は、会社そのものの経営如何にも由る所があつたのであらうが、又この会社と競争の位置にあつた平岡工場の存在も亦その一因をなしてゐた。○中略
 かくの如き事情の下に公の冀望は裏切られ、会社の事業は頓に振はなかつたので、株主の中には不満を抱くものさへあるに至つた。こゝに於て会社側はよりより善後策を協議した結果、挙げて公に一切を委任して社運の発展を図らうとした。公は井上勝とも旧知の間柄であり又毛利家が株主であるといふやうな縁故から、この事を引受け、之を渋沢栄一・今村清之助の二人に謀つた。二人は平岡に謀ることが最も有利であるとのことであつたので、公は平岡とは一面識もない間柄であつたが、種々手を尽して、遂に平岡から、自分の工場を経営しながら汽車製造会社を援助しようとの諒諾を得た。併し同一の営業目的を有つてゐる自他の両会社を偏頗なく経営することは頗る難事であつて縦令平岡が公正に事業を進めても、利害の衝突を来し、汽車製造会社からは非難の声が揚がるのは免れなかつた。それでこの善後処置をなす為に、三十二年五月五日に会社側に於ては、公を始めとし井上・岩崎・渋沢・今村外四名の出席を請ひ、帝国ホテルに於て大体左の協議決定をなした。
 一、当会社ハ平岡工場ト合併スルヲ希望スルニ就キ、合併ニ関スル一切ノ事ハ全権ヲ井上伯ニ委嘱スル事。
 一、合併ヲナシタル暁ハ子爵井上勝氏ト平岡熙氏トヲ以テ無限責任社員トナシ、当会社ノ業務ヲ執行セシムル事トナシ、他ノ社員ハ悉ク有限責任社員トナル事。
 一、顧問弐名ヲ置キ、営業上ノ顧問ヲ井上伯ニ、会計上ノ顧問ヲ岩崎男ニ委嘱スル事。汽車製造株式会社提供資料
との決議事項は同九日の臨時総会に提出し承認を得た。公は会社側よりこの委嘱を受けたので、渋沢・今村の外に岩崎弥之助を加へて平岡と交渉した結果平岡も公の意を諒とした。依て会社は六月十日に復帝国ホテルに臨時総会を開き、井上勝を改めて社長とし平岡を副社長とする外、資本の増額、業務の拡張、合併後の会社開業式を来る七月五日に挙行する等の事を決議し、愈々この合併は実現の運びになつた。
 以来、社業は日に進運に向ひ、三十四年七月に業務拡張の結果、東京に支店を設け、台湾には既に分工場を設ける等、その発展は頓に著しく○下略
  ○右書汽車製造会社ト平岡工場ノ合併ヲ三十二年トスルハ誤リ、平岡熙ノ汽車製造会社入社ハコノ年実現セラレシモ、工場ヲ合併セルハ三十四年七月ナリ。即チ東京支店ノ設置コレナリ。

 - 第12巻 p.142 -ページ画像 

今村清之助君事歴 (足立栗園著) 第四四四―四四六頁〔明治三九年九月〕(DK120021k-0012)
第12巻 p.142 ページ画像

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〔参考〕竜門雑誌 第一七九号・第三六―三七頁〔明治三六年四月二五日〕 ○汽車製造合資会社の現況(DK120021k-0013)
第12巻 p.142-143 ページ画像

竜門雑誌  第一七九号・第三六―三七頁〔明治三六年四月二五日〕
○滊車製造合資会社の現況 同社に於ては昨年以来製造中なりし、京釜鉄道会社注文の「ボギー」式客車此程竣功し、広く観覧を許したる由なるが、今同社創立の由来及現況を示さんに左の如し
 △沿革 同会社の起源は、去明治二十三年平岡熙氏か匿名組合を設け東京砲兵工廠所轄鍛・木・鋳の三工場を借用し、同年六月二十四日より事業を開始し、同二十九年三月三十一日工場借用満期に付返納せしが、是より先本所綿糸町に地を卜し工を起し此時漸く成を告げ、現在の場所に移転し、三十四年八月大坂滊車製造合資会社と合併し、滊車製造合資会社東京支店と称せり
 △各工場と其職工 現在同会社の地所面積は六千三百七十六坪、建設物は二千〇八十三坪三合三七にして、是れを各別に分つて錬工場・鋳工場・木工場・塗工場・旋盤工場・挽立工場・製缶工場・機関室・仕上工場・製品撿査場・倉庫・事務所の十二となし、現在使用の職工は二百二十二人なりとす
 △製作せし重なる者 同社創業以来製作せし重なる者を挙ぐれば左の如し
 - 第12巻 p.143 -ページ画像 
    品名              数量
  客貨車(ボギー車)        二百九十四台
  客貨車(四輪車)         一千八百十台
  ボイント、クロツシング      一千六百六十二組
  跨線橋              二十四紐
  輜重車              九千七百九十七輛
  大宮工場鉄家根          六棟(四千四百八十坪)
  京仁鉄道合資会社注文韓国帝王車(ボギー車) 一台
  滊機               四台
  呉鋳工場鉄家根          一棟(四百四十坪)
  機関車組立及修繕         十四輛
 其他シグナル・橋桁・旋車台・カーブシエー・馬車・諸器械諸器具等なりとす
 △広狭両式の客車寸法 同社製造の客車はボギー式にして凡て米国式なり、今回竣功せし京釜鉄道客車と最近製造の内地客車の寸法を比較すれば左の如し
   社名       京釜鉄道       北海道鉄道
  製造年月    明治三十六年三月    明治三十五年十月
  軌条幅員    四呎八吋半       三呎六吋
  最大長さ    五十六呎九吋四分の三  五十一呎七吋半
  最大幅     九呎九吋四分の三    八呎六吋
  最大高さ 臨載の時軌条面より 十四呎  十一呎九吋四分の三
     車体外部寸法
  長さ      四十九呎九吋半     四十六呎七吋
  幅       九呎七吋        八呎
  高さ  土台下より屋上迄十呎五吋    八呎八吋四分の三
     車体内部寸法
  長さ      四十九呎一吋      四十五呎十一吋
  幅       八呎六吋        七呎二吋
  高さ 床上より天井下迄九呎六吋八分の五 七呎十一吋半
     旅客定員
  三等室     八十八人        八十人
  尚ほ二、三等合造客車は二等室三十人三等室四十四人なり
 右は凡て同社の設計にして連結機・担弾機の車輪・車軸外は自から製作せしものに係る、構造に於て著しく内地客車と異なる点は窓硝子戸装置・明り取り・連結機及二等客室の腰掛け等なりとす
 △製作せし京釜客車 客車は総数十二輛内二、三等合造車四輛、三等客車八輛にして、三十五年十二月中旬起工し三十六年三月下旬竣工せり、而して技師長は印東精一郎、設計主任は工学士藤村忠巳の両氏なり
 △重役 同社現重役は社長子爵井上勝、副社長平岡熙、監査役は青淵先生及田辺貞吉の諸氏なりと


〔参考〕日本鉄道史 下篇・第三二一―三二二頁〔大正一〇年八月〕(DK120021k-0014)
第12巻 p.143-144 ページ画像

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〔参考〕(八十島親徳) 日録 明治三九年(DK120021k-0015)
第12巻 p.144 ページ画像

(八十島親徳) 日録 明治三九年    (八十島親義氏所蔵)
一月廿六日 快晴
午後本所滊車製造会社支店ニ至リ帳簿検査ヲナス、監査役タル青淵先生ノ命ニ仍ル