デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
18節 人造肥料業
1款 東京人造肥料株式会社
■綱文

第12巻 p.168-177(DK120025k) ページ画像

明治26年5月3日(1893年)

是日当会社工場焼失ス。株主中之ヲ機会トシテ会社ヲ解散セント説ク者アリ。栄一之ニ反対シ、会社存続ニ努ム。

是年商法施行ニ伴ヒ東京人造肥料株式会社ト改称シ、栄一初代取締役会長トナル。


■資料

東京人造肥料会社考課状 第一〇回明治二六年七月(DK120025k-0001)
第12巻 p.168 ページ画像

東京人造肥料会社考課状  第一〇回明治二六年七月
同○明治二六年六月五日株主臨時総会ヲ開キ、渋沢委員長ヨリ五月三日工場焼失ノ事ヲ報告シ、続テ第壱項製造場ヲ再築シ機械ヲ修理スル事、第二項金壱万五千円ヲ限リ一時借入ヲ為ス事ノ議案ヲ提出シ、議事ニ附シタルニ、出席株主一同異議ナク原案ニ可決セリ
  ○明治二十六年商法施行ニ伴ヒ、東京人造肥料会社ハ社名ヲ東京人造肥料株式会社ト改メ、委員ヲ改メテ取締役トナシ栄一取締役会長ニ就任シ、明治四十二年七月迄在任シタリ。取締役会長就任ノ日ニ就イテハ同社考課状・株主総会議事録其他書類不完全ニシテ確実ナル資料ヲ得ズト雖モ、同社ニ於テハ株主総会当日ノ日付ヲ以テ其期考課状ヲ発行スル慣例ナリシヲ以テ第十回考課状発行ノ日タル明治二十六年七月二十八日ハ、即チ第十回定式総会ノ日ニシテ、社名改称並ニ栄一ノ取締役会長就任ノ日ト推定ス。
  ○本款明治四十二年六月六日(第二四四頁)ノ条ヲ参照。


第三課文書類別 会社丁明治二十七年(DK120025k-0002)
第12巻 p.168 ページ画像

第三課文書類別 会社丁明治二十七年     (東京府庁所蔵)
当社定款別冊之通改正仕度候間、主務省へ進達方宜布御取計被成下度此段奉願候也
  明治廿六年九月廿六日 東京府南葛飾郡大島村
             大字大嶋甲拾四番地
              東京人造肥料株式会社
               委員長 渋沢栄一(印)
    東京府知事 富田鉄之助殿

 - 第12巻 p.169 -ページ画像 

第三課文書類別 会社丁明治二十七年(DK120025k-0003)
第12巻 p.169 ページ画像

第三課文書類別 会社丁明治二十七年     (東京府庁所蔵)
今般商法之規定ニ従当社定款別冊之通改正仕度候間、御認可被成下度此段奉願候也
  明治廿六年九月廿六日 東京府南葛飾郡大島村大字
             大嶋甲拾四番地
              東京人造肥料株式会社
                委員長 渋沢栄一
    農商務大臣 伯爵 後藤象二郎殿


第三課文書類別 会社丁明治二十七年(DK120025k-0004)
第12巻 p.169 ページ画像

第三課文書類別 会社丁明治二十七年     (東京府庁所蔵)
    誌
既認第六五号農商務省指令商第六八〇一号
一東京人造肥料株式会社定款改正認可指令書 壱通
 明治廿六年十月十二日附
右領収致候也
  明治廿六年十月十八日 東京人造肥料株式会社社印
    東京府御中


第三課文書類別 会社丁明治二十七年(DK120025k-0005)
第12巻 p.169-171 ページ画像

第三課文書類別 会社丁明治二十七年    (東京府庁所蔵)
  東京人造肥料株式会社定款
    第壱章 総則
第壱条 当会社ハ東京人造肥料株式会社ト称ス
第弐条 当会社ハ東京府南葛飾郡大島村大字大島甲拾四番地ニ設置ス
第三条 当会社ノ目的ハ蒸滊機械ヲ以テ肥料ヲ製造シ兼テ肥料販売ノ業ヲ営ムモノトス
第四条 当会社ノ資本金ハ拾弐万五千円ニシテ、之ヲ弐千五百株ニ分チ壱株ヲ五拾円ト為シ、株主ノ責任ハ其株金高ニ限ル
第五条 当会社ノ営業年限ハ明治廿壱年五月七日ヨリ満五拾年トス、期限満了ノ際株主ノ決議ヲ以テ営業継続スルコトヲ得
    第弐章 株式ノ事
第六条 当会社ハ壱株毎ニ株券壱通ヲ作リ株主ニ交附ス
第七条 株券ヲ毀損汚穢シタル者ハ株券ニ請求書ヲ添ヘ新株券ト更換スルコトヲ得
第八条 株券ヲ紛失シタル者ハ其事由ヲ詳記シタル請求書ニ証人弐名以上連署シテ新ニ株券ノ交附ヲ請求スルコトヲ得、此場合ニ於テハ会社ハ請求者ノ費用ヲ以テ三日間新聞紙ニ広告シ、三十日ヲ経テ故障ヲ生セザルトキハ其請求ニ応スヘシ
第九条 第七条・第八条ノ場合ニ於テハ請求者ヨリ手数料トシテ株券壱通ニ付金弐拾銭ヲ徴収スベシ
第拾条 当会社ハ株主名簿ヲ備ヘ置キ株式ノ売渡及ヒ譲渡ヲ一々明瞭ニ登記ス可シ
第拾壱条 株式ノ売買譲渡セント欲スルトキハ其株券ノ裏面ニ売買譲受渡人記名捺印シ、之ニ会社所定ノ様式ノ証書ヲ添ヘ会社ニ差出シ
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登記ヲ請フベシ、会社ハ之ヲ名簿ニ登記シ取締役其株券ニ記名捺印シテ株式移転ヲ証スベシ、此登記料トシテ株券壱通ニ付金五銭ヲ請求者ヨリ徴収スベシ
第拾弐条 株主ノ死去・破産・婚姻ニ因リ又ハ其他法律ノ作用ニ因リ其株式ノ所有権ヲ得タル者其事実ヲ証明スレハ株主トシテ之ヲ登記スヘシ
第拾参条 売買譲渡若クハ其他ノ方法ヲ以テ株式ヲ取得シタル者ハ、其登記ノ了リタル時ヨリ従前ノ株主ト同一ノ権理ヲ有シ義務ヲ負フベシ
第拾四条 株主其住所若クハ姓名ヲ変更スル時ハ必ス会社ニ届出ツベシ、此届出ニ依リテ株主名簿ニ其旨ヲ記載シタル後ニ非ラザレハ利益配当ヲ受ケ又ハ総会ニ於テ投票スルコトヲ得ズ
    第三章 取締役及監査役ノ事
第拾五条 当会社ハ通常総会ニ於テ参拾株以上ヲ有スル株主中ヨリ取締役三名、監査役二名ヲ撰挙スベシ
第拾六条 取締役ノ任期ハ三ケ年、監査役ノ任期ハ二ケ年トス
  但シ其任期満了ノ後再選セラルヽコトヲ得
第拾七条 取締役又ハ監査役在職中不時ノ欠員アルトキハ臨時総会ヲ開キ其補欠員ヲ撰挙スベシ
  但シ補欠員ノ在職期限ハ前任者ノ任期ヲ超ユルヲ得ス
第拾八条 取締役ハ其所有ノ株式参拾株ヲ封シテ会社ニ預ケ、在職中ハ之ヲ引出スコトヲ得《(ス脱カ)》
第拾九条 取締役ハ会社一切ノ業務ヲ総括シ、之ヲ施行スルノ権ヲ有ス、然レトモ法律・命令・定款及ヒ総会ノ決議ヲ遵守スルヲ要ス
第弐拾条 取締役ハ同僚中ノ壱名ヲ選テ会長ト為スベシ
第弐拾壱条 監査役ハ取締役ノ業務施行カ法律・命令・定款及ヒ総会ノ決議ニ適合スルヤ否ヤヲ監視スベシ
第弐拾弐条 監査役ハ計算書・財産目録・貸借対照表・事業報告書・利足又ハ配当金ノ分配案ヲ検査スベシ
第弐拾三条 取締役及監査役報酬ハ総会ニ之ヲ定ム
    第四章 株主総会ノ事
第弐拾四条 株主総会ハ通常総会・臨時総会ノ二種トス
第弐拾五条 通常総会ハ毎年一月及ヒ七月ニ招集シ、臨時総会ハ取締役又ハ監査役ニ於テ必要ト見認ムルトキ、又ハ総株数ノ五分ノ一以上ニ当ル株主ノ請求アリタルトキ招集ス
第弐拾六条 総会ヲ招集スルニハ時日、場所、会議ノ目的及事項ヲ記載シタル書面ヲ以テ会日ヨリ少クモ十五日以前ニ各株主ニ通知スルコトヲ要ス
第弐拾七条 株主ヨリ臨時総会ノ招集ヲ請求スルトキハ、総会ヲ招集スル目的ヲ明記シテ会社ニ差出スベシ
第弐拾八条 総会ニ於テハ総株金ノ少クトモ五分ノ一ヲ有スル株主ノ出席ヲ要ス
第弐拾九条 総会ニ於テ出席株主議決権定数ニ充タザレハ仮リニ決議ヲ為シ、十五日以内ニ再ヒ総会ヲ招集スベシ、其通知ニハ第一総会
 - 第12巻 p.171 -ページ画像 
ノ決議ヲ明記シ且ツ第二ノ総会ニ於テ出席株主議決権ノ多数ヲ以テ第一総会ノ決議ヲ認可シタルトキハ之ヲ有効ト為スベキ旨ヲ明告スベシ
第参拾条 総会ノ議長ハ取締役会長之ニ任スベシ、取締役会長出席セザレハ取締役代テ議長ト為ル可シ、若シ又取締役出席セザレハ株主中ノ一名ヲ推シ議長ト為スベシ
第三拾壱条 総会ノ議長ハ会議ヲ延期シ会場ヲ転スルコトヲ得
  但シ延期会ニ於テ最初ノ総会ニ於テ議了セザリシ事件ノ外他ノ事件ヲ議スルコトヲ得ス
第三拾弐条 株主総会ノ決議ハ出席株主議決権ノ過半数ニ依ル、若シ可否同数ナルトキハ議長ハ自己議決権ノ外決票ヲ為スコトヲ得
  但シ定款ノ変更、解散ノ議決ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第三拾三条 株主総会ノ決議シタル事項ハ決議録ニ登載シ、取締役署名捺印ノ上之ヲ保存シ、其謄本ヲ作リテ各株主ニ送附スベシ
第三拾四条 株主総会ニ於テ其所有株式拾株迄ハ毎壱株ニ壱個ノ議決権ヲ有シ、拾壱株以上ハ毎五株ニ壱個ヲ増加スベシ
第三拾五条 株主未丁年ナルカ若クハ瘋癲白痴ナレハ、後見人又ハ其他ノ正当ナル代理人之ニ代リ出席スルコトヲ得
第三拾六条 株主自ラ総会ニ出席スルコト能ハザルトキハ、会社ニ於テ定ムル所ノ書式ニ依テ委任状ヲ作リ、株主中ノ一人ヲシテ代理セシムルコトヲ得
    第五章 計算ノ事
第三拾七条 会社ノ計算期ヲ二季ニ分チ一月一日ヨリ六月三十日迄ヲ上半季トシ、七月一日ヨリ十二月三十一日迄ヲ下半季トス
第三拾八条 計算期間ニ収入シタル総金額ノ内ヨリ営業ニ係ル一切ノ諸経費及諸損失金ヲ引去リ、残額ヲ純益金トス
第三拾九条 純益金ハ通常総会ノ決議ニ依リ、左ノ範囲内ニ於テ積立金及ヒ役員賞与金ヲ引去リ、残余ヲ以テ株主配当金ニ充ツベシ
 一利益金百分ノ拾五  積立金
 一同  百分ノ拾参  役員賞与金
 一残額        株主配当金
  但シ計算ノ都合ニ依リ利益金ノ内幾分ヲ次ノ計算期ニ繰越スコトヲ得


大日本人造肥料株式会社創業三十年記念誌 第三六頁(DK120025k-0006)
第12巻 p.171-172 ページ画像

大日本人造肥料株式会社創業三十年記念誌 第三六頁
○上略 好事魔多く、翌二十六年五月偶ま祝融氏の襲ふ所となりて、為めに会社は工場の大半を烏有に帰せしめ、以て端なくも玆に事業の一頓挫を来せり。既に悲観の極に陥りたる株主等は、是れを動機として会社を解散するの議を提出するに至りたり。然るに創立当時より深く将来に鑑る所ありて当会社の為めに極力尽瘁し来りし渋沢栄一氏は、此時断乎として其提議を退け、若し多数の株主諸君にして解散を希望せらるるならば、不肖栄一一個人として此会社を経営し、其株式一切を引受くべし」と云ひ放つて声涙共に下るの慨ありたり。斯の一言実に千金に抵す、而して氏の熱誠に動され、勇気を鼓し、奮つて再び事業
 - 第12巻 p.172 -ページ画像 
を継続することとなり、玆に於て資本金を半減して、十二万五千円となし、再び工場機械の建設を決行して、営業を継続することとなりたり、○下略


実験論語処世談 (子爵 渋沢栄一著) 第四二五―四二七五頁 〔大正一一年十二月〕 【○友人等に危まる】(DK120025k-0007)
第12巻 p.172 ページ画像

実験論語処世談(子爵 渋沢栄一著)  第四二五―四二七頁〔大正一一年一二月〕
    ○友人等に危まる
 前に申し述べて置いたやうな次第で、人造肥料会社初年の成績は、散々な失敗に帰してしまつたのだが、運の悪い時には飽くまで運の悪いもので、創立の翌年には又会社が火事に罹つて皆な焼けてしまつたのである。これにも大に閉口して居る処へ、更に高峰氏の米国行問題といふものが持ち上つて来たのだ。創立以来三四年、それでも事業は亳も順境に向ふ模様無く、何事も是れからだと思つてる矢先へ、肝腎要の高峰氏に逃げられてしまつては、前途が全く暗黒になつてしまふので、私は随分酷く高峰氏に向つて苦説し、極力同氏の米国行を引き止めやうとしたが、米国との約束があるので、何うしても渡米せねばならぬといふのだ。人造肥料会社の方は二三年もしたら形が付くものだと思つて、アルコール醸造の事か何かに就ての研究を始める為め、米国への渡航を約束して居つたのだそうである。その約束の期限が近づいて来たので、同氏は愈よ出発せねばならぬ事になつたのだが、折角着手した事業を半途に棄てゝも渡米せねばならぬほどのものなら、何故当初斯んな事を始めるやうに私へ勧めたかなぞと、激しく小言を言ひもしてみたが、又退いて大局から稽へれば、同氏一身の為にも、又国家の為にも、此際、高峰氏を快く放してやつて、渡米さするのが私の取るべき道であらうかとも考へたので、私も遂に決心し、同氏の請ひを容れて渡米させ、その志す処に向つて進ませる事にしたのである。
 然し高峰氏に去られてしまへば、技師がなくなるので、翌日から直ぐ会社は困らねばならなくなる故、誰か同氏に代るべき適当の技師があるだらうかと同氏に相談すると、西ケ原の試験所に勤めて居る森氏が宜しからうとの事で、同氏を高峰氏の後任とし、私も安心して高峰氏を渡米させることが能きるやうになつたのだ。
 高峰氏の渡米後も依然として会社の事業は思はしく無い。欠損に次ぐに欠損を以てするばかりであるから、初め私と協同して人造肥料の事業を始めた友人等も、遂に会社を廃めてしまはうといふ意見になつたのである。然し私には飽くまで斯の事業を成功させねば已まぬといふ決心があつたので、協同者が皆な廃めてしまはうといふ意見なら、仕方が無いから私一人で会社を引受け、借金しても必ず成し遂げて見せるからと申出で、結局、私が一人で会社を引受けることになつたのだ。これといふのも損勘定を旨く整理し得るもので無ければ真の事業家で無いといふのが、私平素の意見であつたから、斯る難局に立ちながらも、私は奔つて殿する覚悟をきめたのである。私が愈よ一人で引受けるといふ段になつてからも、友人等は危んでいろいろと心配もしてくれたが、幸にも創立後六年目ぐらゐの頃から、会社は漸次順境に向ひ、遂に今日の盛大を見るに至つたのである。

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大日本人造肥料株式会社五十年史 第四五―四七頁〔昭和一一年一一月〕(DK120025k-0008)
第12巻 p.173 ページ画像

大日本人造肥料株式会社五十年史  第四五―四七頁〔昭和一一年一一月〕
 ○第一編 当社の沿革
    第二章 創業時代
○上略
 然るに好事魔多く、当社は一大試練に遭遇した。即ち明治二十六年五月三日の夜、突如製造工場より発したる火は、忽ちにして倉庫に燃え拡がり、続いて事務所迄も嘗めつくして、我邦最初の人造肥料の紀念塔とも云ふべき此の工場は、悉皆焼失して終つたのである。
 この火災に依つて事業は一頓挫を来したのであつたが、委員長始め幹部は奮然起つて工場を再築し、再興を計ることに決意し、六月五日臨時株主総会を開催した。既に悲観の極にあつた株主等は、是を動機として、会社の解散を提議するものもあつたが、渋沢委員長は、「元来我々がこの事業を始めたのは、決して利益のみを目的としたのではない。其の主眼は国家の為めになる事業であり、農村振興上必要なものであると考へ、而も将来必ず有望な事業となると信じて計画した仕事であるから、如何なる災厄に遭つてもこの事業を成就させねばならぬと予てから決心してゐたのである。他日社業成功の暁には、今回の火災による損失の如きは相償ふこと容易なるは信じて疑はない。然し尚諸君が飽くまで解散を望まれるならば、最早詮方のないことである。私一人でも諸君の株式全部を引受け、借金をしても此の社業を継続経営して、必ず事業を成し遂げる決心である。」と、熱誠溢るゝ意見を述べられたのである。尚和田支配人も、会社前後の実況を詳述して、今や本事業は既に其の緒につき、一両年の内には必ず成功を見るの状勢にありとして大いに解散の不利を説いた。依つて重役、株主もその熱誠に動かされ、渋沢委員長に工場の再興を任すと云ふことになつたのである。続いて七月二十八日株主総会を開き、資本金を拾弐万五千円に減少した。其方法は一株百円の株式の内五拾五円払込済であつたので、その五円を切棄てゝ一株の額面を五拾円と改め、全額払込済としたのである。一方新築は二百五十六坪二合五勺の煉瓦石造とし、之が費用壱万五千四百参拾五円七拾五銭を支出した。而して之に伴ふ営業資金の欠乏は、壱万五千円を限度として一時借入のことゝなり、ここに火災の前後策も全く成立したのである。
 時恰も我邦に於て商法の実施を見たので、当社は新制度に基いて会社定款を作成し、農商務省に稟請した処、明治二十六年十月十二日附を以て認可せられ、同年十二月二十日設立の登記を終了した。其結果社名は「株式」の二字を加へて東京人造肥料株式会社となり、初代取締役会長には渋沢委員長が就任された。尚十二月中に再築中の工場も竣工し、こゝに当社甦生の第一歩を踏み出したのである。


高峰博士(塩原又策編) 第三七―三八頁〔大正一五年八月〕 【日本農界の恩人】(DK120025k-0009)
第12巻 p.173-174 ページ画像

高峰博士(塩原又策編)  第三七―三八頁〔大正一五年八月〕
    日本農界の恩人
   本編は男爵益田孝氏が「日本農界の恩人―早く燐素肥料に手をつけた高峰博士の卓見」と題して中外商業新報に投稿せられたもので同紙所載の全文を玆
 - 第12巻 p.174 -ページ画像 
に掲げる。
○上略
 その後いつの事だつたか折角今まで築き上げたこの会社が不幸にも火災にあつて全焼してしまつた、会社としては全く致命傷で、やつと目鼻はついたといふものゝ見込みがあるや否やわからない、その会社が焼けたのだから新株募集をしたところで誰も手の出してはない、其時の渋沢さんだ、渋沢さんの胆力といふものは何時も見上げたものであると私は常に敬服してゐる、此時渋沢さんのいはれるのには「挫けても挫けてもたゆまず築き上げてゆく、その決心と誠実とこそは仕事の上での大事なことである、単に会社が焼けたといふだけで仕事をやめる必要はない、私共はもつと決心をしてやらねばならない」実は同じく落胆されると思つた渋沢さんがこの決心であつて、自ら百方人を説き、困難をしりぞけて専心再興のことに力を尽して呉れられた、それで再び機械も購入され、会社の仕事も順調に入つた、私は会社の事のみならず度々出会したが、常に此点で大に渋沢さんに敬服し、実に自分等の及ばぬところであると知つた、事業の不振や不遇の時こそ緊褌一番、大死一番すべき時である、まことに渋沢さんは偉い。
○下略


実業之日本 第一九巻第一号・第七頁〔大正五年一月一日〕 実業哲学(DK120025k-0010)
第12巻 p.174 ページ画像

実業之日本  第一九巻第一号・第七頁〔大正五年一月一日〕
    実業哲学
△前東京人造肥料会社が非常な非況に陥つて、殆ど挽回の途なく、株主は皆解散に決して、渋沢男へ此話を持込んだ。
△男爵は、解散に反対した『自分は日本農業の発展の為に此会社の面倒を見て居るのである。刀折れ矢尽きるまで行かねばならぬ。』
△株主の有力者は更に男を説いた『到底見込みがないのだから断念なさつては如何です。』
△男曰く『私は会社を我子と思つてゐる。我子が大病で、助かる見込がないからとて、医師にかけないことは私にできぬ。』
△そこで、第一銀行から四万円を貸してやつた。会社はそれで助かつた。


渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛(明治二九年)六月二日(DK120025k-0011)
第12巻 p.174 ページ画像

渋沢栄一 書翰  八十島親徳宛(明治二九年)六月二日
                   (八十島親義氏所蔵)
明朝之肥料会社重役会ハ承知仕候、必す出席可致ニ付竹田氏へ御申通し置可被下候、新築之模様も其節篤と承合候様可致候
○中略
  六月二日                   栄一
    八十島殿



〔参考〕東京経済雑誌 第六〇巻第一四九八号・第六二―六四頁〔明治四二年七月一〇日〕 東京人造肥料株式会社(上)(DK120025k-0012)
第12巻 p.174-177 ページ画像

東京経済雑誌  第六〇巻第一四九八号・第六二―六四頁〔明治四二年七月一〇日〕
  東京人造肥料株式会社(上)
    一、我邦人造肥料業の代表者
 - 第12巻 p.175 -ページ画像 
我邦の肥料界に於ける各種肥料の勢力消長は前号本欄に記述したり、之に就き最も注目す可きは人造肥料が駸々として其勢域を拡張しつゝあることにして、農業は肥料なりとの西人の言が一面の真理たることを承認せざるを得ざる吾人は、更に進んで肥料は人造肥料なりとの時代ある可きを予想せずんばあらず、さて我邦に於ける人造肥料業経営の事蹟は一言にして之を言へば惨澹たる歴史なり、今後とても余り楽な事業にあらざる可し、其内情に暗き者は斯業を以て極めて利益多きものにして、所謂、濡手に粟を攫むが如き事業なりと思考せるが如きも、其実決して爾かく容易なるものにあらざるなり、蓋し其原料たるや悉く之を海外に仰がざる可からざるが故に関税其他国際経済の関係は其事業の経営に至大の影響あるのみならず、大豆粕其他の販売肥料との競争を免れず、加ふるに内部に於ける同業者間の競争は外界の想像に及ばざるほど激甚なるものあればなり
抑々維新以来新文明を採用するに汲々たりしとは云へ、最も保守的なる農業に対し化学的応用の人造肥料を施用するに至るは極めて困難なる事と云はざる可かりしなり、然れども嶄新の科学に眼を開きたる識者は其実用の困難なるが故を以て之を黙止するものならんや、明治十八年前後に至り、人造肥料の我邦農業に必要なるを説くもの漸く顕はれ、遂に小規模なる製肥工場の設立を見るに至れり、即ち当時農商務省特許局長兼分析課長たりし、現今化学界の泰斗高峰譲吉氏等之を首唱し、現に多木肥料を以て有名なる多木久米次郎氏は同年三月兵庫県下に於て初めて燐酸肥料の製造に着手するに至れり、是れ実に我邦に於ける人造肥料業の萌芽と云ふ可し、尤も之より先十三年五月に現今の大阪アルカリ株式会社設立せられたるあるも、こは人造肥料を以て其主なる目的とせるものにあらずして、寧ろ之を副業と為せるものなりしが故に専門の人造肥料業は多木肥料所を以て嚆矢とせざる可からず、次に起れるは東京人造肥料会社にして其誕生は二十年二月に在り尋で摂津製油会社(二十二年五月)起り、大阪硫曹会社(二十五年九月)起り、日清戦争後に於て硫酸肥料会社(二十九年三月)、新潟硫酸会社(二十九年九月)、関東酸曹会社(二十九年十月)等相継で起り、日露戦争後更に著しく増加したり、而して其中には単に戦後の事業熱に浮されて勃起せし所謂泡沫会社も少からず、又各会社に就て見るも営業の盛衰隆替素より一ならざる可しと雖も、其設立の由来久しく其営業方法が着実にして斯界に於ける信用の大なる点に於て吾人は先づ東京人造肥料会社を挙げざる可からず、惟ふに同社営業の趨勢は具さに我邦人造肥料業の起伏消長に並行せるもの、同社の事業は間接に我邦人造肥料業の歴史を語るものと云ふも敢て過言にあらさる可し
    二、創業時代の困難
同社の設立に就ては前にも言へるが如く高峰譲吉氏唱道の力に依ること頗る多く、氏は此時農商務省の特許局長の職に在りしが、同社設立の為め官を辞して同社の技術部長となり事業経営の衝に当れり、当時発起人として創立事務に斡旋したるは蜂須賀侯・大倉喜八郎・安田善次郎・益田孝・馬越恭平・三井民之助・渋沢栄一・渋沢喜作及び高峰譲吉の諸氏にして、就中渋沢男の尽力は最も大にして、男爵が今日ま
 - 第12巻 p.176 -ページ画像 
で同社との関係を絶たざるも之に因由せるなり、斯くて明治二十年二月二十八日に創業総会を開き、資本金を二十五万円とし、内払込十三万七千五百円を以て翌二十一年五月七日創業届を政府に差出して其許可を受け、府下葛飾郡大島村即ち深川釜屋堀に本社及工場を設け、同年十二月二日に至り初めて機械の運転を開始し製造に従事するに至れり、当時同社の重役及び幹部は左の諸氏より成れり
 社長   渋沢栄一   重役  渋沢喜作
 重役   馬越恭平   同   浅野総一郎
 同    益田孝
 技術部長 高峰譲吉   支配人 和田覚太郎
最初は過燐酸肥料、完全肥料の二種を製造販売したるが、当事者中高峰氏を除くの外は人造肥料業に就ては全くの素人にして智識経験の以て営業上に確乎たる自信あるにあらざりしなり、加ふるに之が需要者たる農家は旧慣を守りて容易に新奇の肥料を施用するを肯ぜず、故に会社員は地方に出張して農家に勧誘するの必要あり、高峰氏の如きも自ら栃木・群馬・茨城等の関東各地に演説講話を試み、東奔西走頗る努めたり、然れども当時の農家に化学上の智識なきは勿論なれば、高峰氏の熱心なる勧誘に耳を傾くる者極めて少く、多くは之を以て砂か灰かの如く思惟し、会社を以て一種の詐欺者の如く言ひ做し、容易に買入れんとするものあらざりき、去れば創業二三年間は販売高も僅に六万余貫即ち六千叺に過ぎず、会社は損失を免れざりしなり、今二十年の創業より二十六年に至る、同社創業時代の営業一般を示さんが為め、左に一表を掲ぐ可し
    自二十年至二十六年営業成績

図表を画像で表示自二十年至二十六年営業成績

   決算期     販売高          利益金         損失金         配当率                 貫           円           円        割 自二十年二月 至二十一年十二月  四八、五一〇、三〇〇           ―   五、二二七、一二四     〇 二十二年上半    六二、二六一、二〇〇           ―   三、九九八、四〇九     〇 二十二年下半    六二、〇八二、〇〇〇           ―     七五三、七九六     〇 二十三年上半    六一、二七三、〇〇〇   二、六三四、六三四           ―     〇 二十三年下半   一〇四、一六五、六〇〇     七六八、五一四           ―     〇 二十四年上半   二六一、八一二、八五〇   四、二三三、九九一           ―     〇 二十四年下半   一五三、七三六、〇〇〇   一、二九五、七〇一           ―     〇 二十五年上半   三一六、三六九、〇〇〇   六、〇七九、九三二           ―   〇・四 二十五年下半   一七七、六八二、〇〇〇   三、九七三、八八六           ―   〇・二 二十六年上半   二九一、一四五、五〇〇   五、〇六六、九五三           ―     〇 二十六年下半   一二七、九二一、〇〇〇           ―      三六、四九〇     〇 


上表の如く二十五年上半期に於て初めて四歩の配当を為したるも三期を待たずして再び無配当となり、剰へ二十六年五月三日火災に罹り工場の大半を烏有に帰せしめたれば会社は一大打撃を蒙り、且つ営業の成績も著しく不首尾となり、同年下半期に於ては更に損失を生ずるに至れり、是に於て数年来隠忍して事業の発展を期待せし株主も其前途の希望を失ひ、解散論頗る盛となり、遂に二十六年下半期株主総会の議に上りぬ、然るに社長として最初より尽瘁せる渋沢栄一氏は断乎として之に反対し、本事業は他日成功するの時ある可し、若し多数の諸君が解散を希望せらるゝならば不肖ながら栄一に於て此会社の株式全
 - 第12巻 p.177 -ページ画像 
部を引受申す可しと断言して其決心を示しゝかば、多数株主も其熱誠に動かされて解散論も立消となり、継続に決するに至れり、若し此瞬間に於て渋沢男が事業を愛護するの念なく短見なる株主多数の意見に委して顧みざりしならば、同社の命数は既に此時に於て終りを告げたりしならん、思へば当時に於ける同社の運命は風前の灯火に似たりしと云ふ可し、然れども人の禍福吉凶は其間一髪を容れざるか如く、事業の盛衰興亡も亦之に異ならざるなり、同社か纔に此難境を通過するや、玆に初めて社運の光明を認むるに至れり