デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
23節 土木・築港
1款 横浜高島町埋立
■綱文

第13巻 p.67-69(DK130012k) ページ画像

明治7年7月23日(1874年)

是ヨリ先、高島嘉右衛門横浜神奈川間ノ海面ヲ埋立ツ。是日、栄一書ヲ大蔵卿大隈重信ニ贈リ、政府ニテ其費用ノ幾分ヲ補ヒ且ツ埋立地ヲ免税センコトヲ勧ム。


■資料

大隈侯爵家所蔵文書 第一七三巻 【七月廿三日○明治七年 渋沢栄一】(DK130012k-0001)
第13巻 p.67-68 ページ画像

大隈侯爵家所蔵文書 第一七三巻
粛啓愈御清暢奉賀候、然者過日拝謁之節申上候高島嘉右衛門埋地免税ニ付拝願之義、其後も同人度々罷出、実ニ困却之段切ニ申聞有之、其情亦可憐事ニ有之候間、何卒閣下出格之御仁恕を以て寛宥之御沙汰被下度奉祈候
右御処分之義、先日之高旨にてハ、同人拝借金年賦残七万円余有之、夫を御恩典ニ御免し被下候哉之由ニ拝承候得共、右ニてハ聊功賞不相償様にも被存、其上同人も右願上候御恩典を以て、銀行之借財も弁済之心組いたし候様子之処、全相反し候、旁銀行へハ遂ニ返金相滞候様可成行、然時ハ小生も徒ニ同人を眷顧いたし候婆心より、却而困却せしむる様相成、何共苦心之至ニ候間、右等之事情も御諒察被下、何卒此際金五万円ハ御下相成、其上年賦七万円余を御免し相成度、然時ハ入費高拾弐万円にも相対し、且即金五万円御下にて同人も大ニ家業相立候様可相成と奉存候、此義偏ニ奉願候、もし又即金御下之義難被成候ハヽ、右地所之税目御免除之儘、向後三ケ年も御置据被遣、且是迄県庁へ御収入之分ハ、同人へ御下相成候様仕度、右両条之中御許可被下度候、小生敢而人之為メ恩恵を願候も如何之至ニ候得共、銀行貸金之都合も有之、従来同人之心術ハ愛惜いたし居候、旁不憚申上候義ニ御坐候、御垂恕之程奉伏願候
ストツクエキスチンヂ御創立之義ハ、偏ニ急速御発令御坐候様、御配算奉祈候
兼而願置候銀行御用金之中、大坂為替貸之中を有金ニ御看做之義ハ、何分之御詮議被下度奉祈候
去年中御引受申上候新旧公債証書三拾万円宛、当七月中上納之筈ニ付卅日迄ニ取纏差上候積ニ候得共、何分東京府之書替ニ困却いたし居候併是ハ是非御違約又ハ延期等ハ不申上覚悟にて手配仕居候
品川領事より上海へ銀行出店之義見込之書面ハ拝見仕度ニ付御投示被下度候
右等数件拝趨申上度之処、御繁務中細事にて奉妨候も却而恐悚之至ニ付、失敬も不顧書中拝願仕候、何卒御海涵之程奉祈候 頓首敬白
  七月廿三日○明治七年
 - 第13巻 p.68 -ページ画像 
                      渋沢栄一
    大隈大蔵卿閣下
  尚々先頃差出候ジヤマント、高意ニ適し候品御坐候ハヽ御取置之上、余分ハ御投下之程奉願候也
  巷説にハ閣下近日大坂へ御出張云々相伺候、弥御出張にも相成候義ニ候哉、乍憚奉伺候


(熊谷武五郎) 書翰 渋沢栄一宛(年月未詳)二三日(DK130012k-0002)
第13巻 p.68 ページ画像

(熊谷武五郎) 書翰  渋沢栄一宛(年月未詳)二三日  (渋沢子爵家所蔵)
謹閲仕候
埋地ノ件ハ段々長ク相成気之毒ニ奉存候、一両日中ニ相運ひ可申是ハ段々変議ニ相成則チ御書面通りニ相運ひ候事ニ漸胸算も定り申候、此上ハ先ツ是きりニて変事無御座候哉と奉存候、御安神被下度候 以上
○中略
  廿三日                   熊谷
    渋沢老兄
        侍


(杉浦譲) 書翰 渋沢栄一宛(明治七年)一二月一三日(DK130012k-0003)
第13巻 p.68 ページ画像

(杉浦譲) 書翰  渋沢栄一宛(明治七年)一二月一三日
                     (渋沢子爵家所蔵)
拝復
高嶋生一条ハ兼而御高示之趣も有之候ニ付、取急キ議案為取調上局議ニ出シ、夫より大蔵会議ニ供シ正院上陳之積ニ付、本省ハ相済本日大蔵省ニアリ
 但高嶋屋申立金子ハ大蔵省見込を以相当下渡之積
瓦斯会社之義ハ勧業寮扱ニ付河瀬江促シ候処、既ニ上属廻議ニ差出候趣ニ而、本省ハ相済本日大蔵省ニアリ、右高嶋急迫ニ不至様との取調ニ而此二件ハ大隈公邸ニ而先頃会議有之、金子等之義も治定いたし居候哉之由ニ有之、右ニ基キ取調候ものニ有之趣
 右者各主任紛議も有之候へ共到底分散等不致候様保護いたし候筋ニ而、其間聊ツヽ之見込違有之候事ニ而、廻議ハ既ニ一決相成候間
 行先ニも本日督促速ニ上陳正院可取計正院江も至急御指揮相成候様精々可申遣置候
○中略
  十二月十三日


(杉浦譲) 書翰 渋沢栄一宛(明治八年)三月三日(DK130012k-0004)
第13巻 p.68 ページ画像

(杉浦譲) 書翰  渋沢栄一宛(明治八年)三月三日  (渋沢子爵家所蔵)
○上略
高嶋埋立地一条ハ既ニ正院伺済神奈川県江達相成申候、右金額ハ同県より大蔵省江申立受取も例之手続ニ而渡、日限之義ハ出納寮より通達可有之義ニ付、左様御承知□渡□□仕渡リ置御座候方と奉存候
○中略
  三月三日


呑象高島嘉右衛門翁伝 第二〇三―二〇五頁〔大正三年八月〕(DK130012k-0005)
第13巻 p.68-69 ページ画像

呑象高島嘉右衛門翁伝  第二〇三―二〇五頁〔大正三年八月〕
 - 第13巻 p.69 -ページ画像 
    第三十三章 翁が鉄道敷設の発意
○上略 其後、当時の外務少輔上野景範氏は翁の家に来り『京浜間鉄道敷設の件は政府に於て計画することに確定せり、就ては曩に貴下よりの請願もあることなれば、之を政府と合同にて経営せらる可し。此議大隈大輔の意を承けて貴下と協議せん為に来れり』と述べたり。而かも翁は資金借入手筈は既に夫の如く齟齬したる折なれば、到底政府と合併経営するの資力あるにあらざれば、即ち敢て之を辞したり。而かも上野氏は尚ほ頻に勧めて止まず。依て翁は官設にて鉄道計画の成立することは、下拙の最も喜ぶ所なるも、今更ら其の間に割り込み、官民合同の経営とすることは下拙の好まざる所なれば、下拙は別に横浜神奈川間の海面埋立を請願し、幸に認可を得ば、直ちに埋立工事に着手し、竣工の上は鉄道敷地と国道とを政府へ御祝儀として献納することとすべし。左すれば国道は十三町の路程を短縮し、鉄道敷設の為にも好都合なるべし。而して、其鉄道に沿へる附属地を下拙の所有とす可し。就ては此地に対しては地租の外他の税金は永久之を免ぜらるゝの特許を得んことを希望すと述べたれば、上野少輔は翁の意の存する所を諒として帰京したり。
斯くて翁は制規の手続を履んで、右の海面埋立の議を政府に出願せしに、政府は此事業を単に一個人に特許するときは、異日世の非難を受けんことを虞れ、表面上先づ公衆に向つて埋立希望者の有無を問ひたり。而かも其頃は斯かる大事業を企画せんとするもの一人もなく、是を以て該事業は翁の一手に落ち、翁は晴天百四十日間の約束命令にて横浜石崎より神奈川青木町まで一直線に海面の埋立てに着手し、遂に明治四年二月竣工を告ぐるに至れり。されば鉄道敷地と国道とを政府に献納し、自余は之を翁の所有とせり。是れ今日の高島町なり。
翁が此工事に着手せる当初、政府は約束命令を下し、若し成工期限を誤ることあらば、一日に付六十間幅五間、此の価格凡そ四千両に相当せる埋立地を、其償として政府に差出すべきことを以てせり。加ふるに此工事たる当時幼稚を以て邦人を嘲笑せる外国人の目前に於て為す所なれば、其困難なること予想の外にあり。されど翁の敢為にして精悍なる、毫も之に恐るゝ所あらず。先づ大綱山の頂上に見張所を設け翁は之より望遠鏡を以て海陸人夫数千人の勤惰を一目に見渡し、専心奨励に努力し毫も怠ることなかりき。而かも其頃は人智尚進まず。鉄道を敷設するは是れ外敵の侵入を便にするものなりと唱へて、之が中止を廟堂に建白し、其議容れられざるを見るや、慷慨して切腹せし者ありし程にて、翁の此埋立事業に就いても、亦妄りに公道を奪ふものなりと誤解し、附近の住民は翁の通行するを見るや、瓦礫を投ずる者あり。翁は為に屡々危険に遭遇せし事ありしも、幸ひに身に過ちなく遂に期日内に見事に此工事を竣へたるは、翁の幸運の然らしむる所なるも、抑も亦其敢為の精神の煥発したるものあるに因れり。