デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
25節 取引所
1款 東京株式取引所
■綱文

第13巻 p.585-596(DK130058k) ページ画像

明治21年7月27日(1888年)

栄一等東京取引所創立委員数名、創立仮事務所ニ会シ、取引所規約標準意見書ニ対スル前臨時農商務大臣榎本武揚ノ指令ニツキ逐条審議セルモ、依然トシテ峻厳タリ。仍テ意見書ノ全面的許可アルニ非ズンバ、取引所ノ創業モ到底不可能ナル旨ヲ栄一ヨリ新農商務大臣井上馨ニ答申センコトニ決ス。


■資料

中外物価新報 第一八九九号〔明治二一年七月二八日〕 ○東京取引所創立相談会(DK130058k-0001)
第13巻 p.585 ページ画像

中外物価新報 第一八九九号〔明治二一年七月二八日〕
    ○東京取引所創立相談会
昨日午後七時より銀行集会所に於て同相談会を開きしが、出席者ハ両渋沢・大倉・町野・中野・小川・朝吹の七氏にして前号の紙上へ記載せし取引所規約標準意見書に対し附箋を以て其許否のある所を指示されたるものに就き逐条審議を遂げんとしたるも、何様右附箋の旨趣ハ曩に大坂取引所へ対して指令ありしものと同様にて到底実行は覚束なきものなり、然るに此程主務大臣に交迭ありて昨今世間に噂する所に拠れば新任大臣ハ是迄の政略とハ多少異れる所の意見を持し、現立東京株式取引所に向ひ時宜に拠れば若干の延期をも与へんとの考へを抱き居らるゝとも云ふ者あり、果して噂の如くなれば今日俄に新取引所を設立するにも及ばざれば、此際新取引所創立委員の資格を以てのみ彼是論し居らんよりハ、寧ろ新旧会所に関係の者が打揃ひて新任大臣の面前に至り互に胸襟を開きて商議を為しなば何とか円滑に纏りも付くならん等の説もあり、其他色々の議論ありしも、兎に角重大の事件なるを以て容易に決議の場合に至らざりし故遺憾ながら委細ハ次号に記載すべし


中外物価新報 第一九〇〇号〔明治二一年七月二九日〕 ○東京取引所相談会の決議(DK130058k-0002)
第13巻 p.585-586 ページ画像

中外物価新報 第一九〇〇号〔明治二一年七月二九日〕
    ○東京取引所相談会の決議
一昨夜銀行集会所にて開きたる同相談会の模様ハ略ぼ前号の献上《(紙カ)》へ記載せしが、尚其詳細を聞くに前農商務大臣より規約標準意見書に対し許否のある所を示されたる附箋の趣旨にてハ、会員に制限を設くる能ハず、仲買人ハ代理者を差出すことを得ず、証拠金又は手附金ハ売買者の内より請求ありたるときにあらざれば之を差入れしむるを得ず、転売・買戻及決算方法を自由ならしむる能ハず、其他不便究屈の廉々多く到底右の如くにてハ前途充分の見込を立て新取引所を設立すること六ケ敷けれど、今度主務大臣に交迭ありて、世間に噂する所に拠れば、新大臣ハ施政上前大臣とハ多少異なる所の意見を持し居らるゝ由なれば今一応新任大臣の意見をも伺ひたる上篤と討議すべしと云ふの議あり、或ハ又現在此創立委員十五名中には新取引所党と旧会所党の
 - 第13巻 p.586 -ページ画像 
両派ありて表面は互に折合宜きが如くなれど、有の儘に其内実を説き明かせば旧会所党ハ新取引所の創立を妨げて旧会所の延期を希図する方に尽力し居れば、仮令曩に差出したる意見書にして悉く申出の通り許可となるも新旧取引所の間に於ける調和方法の整ハざる以上ハ矢張新取引所の創立を遅々せしむるの恐れあれば、旧取引所に縁故あるものハ旧取引所の資格を持ち新取引所にのみ関係のものは新取引所の資格を持ち互に打解けて先づ調和の相談より取固むる方然るべしといふの説もありしが、何分創立委員を分離するが如きハ会員一同の意見を問ひたる上にあらざれば為し能ハざるのみならず是も甚だ穏当ならざる事なりとて賛成者少なく、其他随分八ケ間敷議論あり又枝葉に渉れる弁論もなかなか囂すしかりしが、結局当日の会議ハ其筋より指示せられし附箋の趣旨に対して其可否を論究するが順序なりし故創立委員大体の意見ハ昨年来徹頭徹尾変ずることなく、去る三月三十一日付《(二)》を以て呈出したる意見書の通り許可さるゝにあらざれば実行し難しとの旨を新大臣へ向て答申することに決定し同十一時頃散会せり、右に付近日渋沢栄一氏が井上農商務大臣に面謁を請ひて其理由を巨細に口頭を以て答弁する筈なりと云ふ


東京日日新聞 第五〇二三号〔明治二一年八月一日〕 ○東京取引所の顛末(DK130058k-0003)
第13巻 p.586-587 ページ画像

東京日日新聞 第五〇二三号〔明治二一年八月一日〕
○東京取引所の顛末 東京取引所創立委員会の相談にて、其創立の今以て確定せざるハ世上の太だ怪を置く所なり、成ほど此節ある冷評家が、取引所ハ法律に遵て創立せらるべきもの乎将た当該者の意見と都合とに依て成立つ可きもの乎と、皮肉なる疑問を設けて関係者をイヤがらせたるも全く不尤とのみは思ひ難き様なり、一体ブールス説の起原ハ今日まで未だ世上にて其事実を明白せざるに付き記者が是までに知り得たる所を披陳いたすべし
原来現存の東京米商会所ハ兜町と蠣殻町との二会所が合併したる設立なり、初め維新の後に東京商社と名けたる会社ありて、実ハ官府の誘導に由て東京の豪商等が資本を蒐集して組立てたるものなれバ、其商売も大抵通商司の差図半分にて営みたるに、数年ならずして余程の損失を受け其借財の処分方に困りたり、依て商社の損毛を補ハん為にとて大坂堂島の仕組に傚ひて米相場を兜町に初め、米商会所と名けて相場売買を為す事を許し、其手数料の上り高を以て商社の補塡とハなさしめたるに由り其頃ハ商社の米相場会所とハ世間にて唱へたり、是れ兜町米商会所の起原なり」次に蠣殻町の方ハ中行社と唱へたりと覚ゆるが、其初ハ今の米倉一平氏等が薩藩の士人有村・石原の諸氏と相談して蠣殻町に米市場を設け同じく相場売買を為したるに起原し、当時相場を以て世に聞えたる糸平・島慶・村藤・河幸の諸人主として相場を張たるに付き頗る繁昌の勢を顕ハしたり、是れ蠣殻町米商会所の起原なり」其後政府にてハ明治九年に米商会所条例を設け、此の相場に規則を建てたるに由り東京の米商会所ハ兜町と蠣殻町との二ケ所に対立し、兜町の方ハ三井を初め故の商社の連中が其株主にて、辻純市・後藤庄吉郎・荒尾亀次郎の諸氏その役員となり、蠣殻町の方ハ米倉一平・林徳左衛門・有村某・石原某の諸氏その役員となり、着実なる商
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ハ兜町にあれども活溌なる取引ハ蠣殻町の方なりとて各々相応に繁昌し、蠣殻町の会所ハ株主に向て年四割に当る程の利益配当をなし、兜町の会所とても年二割五分を下らざりき
斯く米相場の繁昌を極めたる時に当り公債の相場ハ隠然として両替屋の間に行ハれ、明治八九年の頃より人形町辺にて両替商が集会して現に取引をぞ為したりける、而して政府にても是を公然たる場所に於て取引せしむべしとありて、乃ち明治十一年に株式取引所条例を発したれバ、東京にてハ渋沢・益田・大倉の諸氏その発起人となり創立を謀り、小松彰・渋沢喜作・福地源一郎の諸氏その役員となりて現存の株式を兜町にハ取設たり、然れども当初ハ売買の出来高も少なく活溌なる相場ハ専ら米商に在て株式ハ先づ沈着したる姿にて数年を送りたりき、米商会所の極盛ハ明治九年頃より十三四年頃までに在りき、兜町の会所ハ其頭取辻純市・竹中邦香・大倉喜八郎・田中平八の諸氏を転替したれども兎角に十分の繁昌に至らず、蠣殻町の会所ハ最初より米倉氏が引続きて頭取なりしかバ専ら仲買等の便利を謀りて頗る賑なりき、但し其賑なるに列れて弊害も自から有りしが如くなれども、何を云ふにも大数の取引ハ蠣殻町ならでハ出来ざるに付き、随て無資射利の投機商ばかりにてハ無く資力ある連中も往々皆蠣殻町に売買の注文を出すに至りき」斯く両会所ありてハ不都合なり合併して然るべしと内々ハ其筋にても諭され、両会所も亦同様の望を懐きたれバ、明治十六年と覚えたり、右の兜町・蠣殻町が資本金を合せて両会所を一つとなし、乃ち兜町の家屋を株式に売渡して蠣殻町に集まり東京米商会所とハ改称したり、現存の東京米商会所これなり
扨また株式取引所ハ明治十三年に小松彰氏が頭取に再勤したれども商売は兎角に引立ずして数年を送りたるに、明治十七八年の交より漸く繁昌の運に赴き今日の隆昌を喚起したり、是れ明治十五年紙幣の価を恢復するに伴ハれて以来米も銀貨も稍々其価を低落するの一方に向ひたれバ、横浜の銀相場と云ひ東京の米相場と云ひ復た前日の如くに荒高下を為さゞるに付き、其相場も寝入りて活溌ならず、夫に引替へ株式にてハ公債相場あるが上に鉄道・郵船・銀行・其外会社の諸株券ありて高下面白きに付き、投機連中ハ皆肩を替て株式に手を出し初めたり、簡説すれバ米相場・銀貨相場が株式相場に移りたる事実なり、依て米商会所の方ハ此時よりして出来高ハ次第に減じ加ふるに深川の正米取引ありて実物ハ全く会所の手に懸らざる様に相成つたれバ、会所ハ思わく師の相場々所となりて往日の活溌ハ既に歴史上の過去に属したり、尤も其株主も次第に其人を替へ終には田中菊次郎・川崎八右衛門・中村道太の三氏にて十の七八を所有し、青木貞三氏を頭取に改選し、早川勇氏これに次ぎて改革を計りたれども、勢ひ已に去りたれバ如何ともすべき様なく、其中に去年の株騒動となりて以来、米商の株ハ全く川崎・中村両氏の所有に帰し遂に今日の有様とハなりぬ(未完)


東京日日新聞 第五〇二四号〔明治二一年八月二日〕 ○東京取引所の顛末(前号の続)(DK130058k-0004)
第13巻 p.587-589 ページ画像

東京日日新聞 第五〇二四号〔明治二一年八月二日〕
○東京取引所の顛末(前号の続) 是に引替へ株式の方ハ繁昌を極めたるに明治十九年の秋に至り株主の間に両党派を生じて其結果ハ役員の
 - 第13巻 p.588 -ページ画像 
改選と相成り、小松彰氏その頭取を辞し河野敏鎌氏これに代り、谷元道之氏其副となり、肝煎・相談役・株主惣代みな其名を知られたる連中なりけれバ、一層その勢を得たる上に仲買にも歴輝たる豪富ありて前日の仲買ごときに非ず、且つ米商ハ原来空物相場より延て実物取引に入らしめんと謀りたるに引替へ、株式ハ原来実物取引より拡て転売買の自由を得たるものなれバ、両者の間にハ自然と虚実の区別ありて同日の論にハあらざりき、去れバ東京の豪商紳商が公債株券の売買を此の取引所仲買に托して為さしむるに敢て差支あるべしとハ思ハれざるなり
玆に明治十九年の秋に至りて株式及米商に向てブールス説と云へる思ハざる大敵ぞ出現したりける、抑もブールス説の起りたるハ一朝一夕の故に非ず、米商株式の期月相場ハ賭博に類する所業なり、相手の誰たるを問ハず場に向て売買するハ正当の契約に非ず商法の許さゞる所なりと云ふ理論ハ法律上の問題となりて、米商会所・株式取引所の両条例を永く実施せしむるハ不可なりと頻に立法部にても其説ありけれバ、両所の改良ハ農商務省に於て肝要なる考案と相成り寄々には主任局の相談もあつて前農商務次官吉田氏ハ為めに思慮を費されたりき」然るに此際また勢力ある紳商の間にても漸く現行の相場取引を完全ならずと思惟し別に確実なるブールスを取設べしと云ふ人々ありき、其主眼とせる所ハ云く(第一)取引所ハ重立たる商人の集りて取引を談合すべき場所なるに、今日の相場所ハ仲買など概ね今日あつて明日を知らざる相場師の寄合なれバ、紳商が親ら出入するに適当ならず(第二)今日の仲買に委托する取引法にハ種々の弊害あつて、往々紳商をして相場師の餌食たらしむる患あり(第三)利喰と云ひ履みと云ひ相場を見計ひて勝手に転売買をするに付き、誰を相手として売買する乎を知らずして其売買ハ安心ならずと云ふが如き諸点にして、要するに今日の仲買や相場師ハ紳商の相手とすべき連中に非ざるを以て我々の紳商ハ別に確実なるブールスを設けて取引を致し度ものなりとハ相談したり、右の如く農商務省の見込も紳商連中の見込も粗々出合たるに付き、意見の概略相投じたれバ其の相談ハ漸次に歩を進め、渋沢・益田・大倉・安田・川崎其他の重立たる紳商ハ吉田次官の邸に招かれてブールス設置の見込を尋ねらるゝ迄に至りき、尤もブールス設立の事ハ当時井上伯も然るべしと申され、伊藤伯も亦これを可とせられたりと云へり
右のブールス説ハ忽に世間に知れ渡りたるが、其時に当りて思ハざる損失を被つたるハ株式及米商の株主なり、右の株ハ額面こそ百円なれ実価ハ三百円乃至四百円にも及びたる株なるを、此の相場所の設立ハ大丈夫なり継続営業願も無論に聞届らるべきなりと信じて数多買入て所持したる人々もありけるに、ブールス説の盛んなるに従て両所の株ハ俄に下落し、先月三百五十円にて買たるものハ今日二百五十円と相成るが如き下落に出遇ひて其の難渋ハ一方ならず、其上にブールス説を早く伝承したる連中ハ何が扨て此機失ふ可からずと売出したるに由り、其売に煽られて益々下落の勢を増長し、早耳連に利を掬ハれて憐むべし株主等ハ実際に於て皆意外の損失を受けたりき」将た此際世上
 - 第13巻 p.589 -ページ画像 
の議論はブールス説と非ブールス説とに分れ互に其利害得失を論じたるが、其当否ハ姑く置て論ずるに及ハず(第一)株主組織を非なりとして仲買組織のブールスと為す時ハ、其表面を改正したる丈にて売買の事実に於てハ別に改良の点を見ざるべし(第二)現在の株生等ハ株式米商を廃して新にブールスを設立するが為に的面の損失を被るべしと云ふ事実に就てハ、ブールス家も非ブールス家も一人として否と明言せる者ハ無かりき
斯くて愈々ブールス説ハ立法官の考案に上り、内閣・大蔵・農商務諸省より委員を出し、顧問の学者にも其意見を問合ハせ十分の討議を尽されて即ち去年九月頒布《(五)》の取引所条例とハ相成つたり、此条例を立案せるに当り前の第一問題に対してハ仲買組織の取引所にてハ株主組織と逕庭なきを以て完全ならざるが故に、新条例にてハ商人ハ誰にてもあれ会員となる事を得ると定めたり、第二問題に対してハ株主の損失ハ如何にも気の毒なれども営業継続ハ許さるべしと見込たるハ当人の見込違なり、已に公債にてさへ七分の公債を政府ハ五分の整理を以て公債を募り其金を以てズンズンと買潰すに付き、現在百二十円に買たる七分金禄を籖当りにて百円に消却せらるゝに非ずや、政府ハ一般の公益の為にハ少数の株主が私利を保護すること能ハざるものなりと断然たる決意を示され、米商株式所在の地ハ右営業年限の尽るを待て新取引所を開くべしとハ定められたり、依て東京にてハ明治廿一年六月が株式の営業期限の尽期なれバ其後にブールスを開設する事と相成つたり(未完)


東京日日新聞 第五〇二五号〔明治二一年八月三日〕 ○東京取引所の顛末(前号の続)(DK130058k-0005)
第13巻 p.589-591 ページ画像

東京日日新聞 第五〇二五号〔明治二一年八月三日〕
○東京取引所の顛末(前号の続)取引所条例ハ凡そ先づ東京の歴々たる紳商たちの注文の通り其会員と云ひ其売買と云ひ其転売買を許さゞると云ひ、蓋し嚮に紳商の議論に望まれたる如くなれば仮令ひ少々ハ注文以外に出たりとも世間の事十が十まで尽く自己の注文通りにハ参らざる慣なれバ大満足にて直に発起あるべき筈なりき、此新条例頒布以前ハ彼の紳商たちハ中々盛なる気組にて相場師連中ハ与に語る可からず我々自ら場に臨みて取引を約すべしと云ふ勢にて、新取引所を設立の地所ハ坂本町の地面こそ適当なれ東京府に照会して払下を請ふべしと迄に思込たるが、今や取引所条例頒布の暁に至れバ前の気勢に反対して大に趦趄するの状を現ハしたり、是れ自ら理由のある事なり
是れより先き株式取引所にてハ勿論非ブールス説を主張し、政府が一旦条例を以て許可したる株式取引所をバ其過なきに営業の継続を許さず、新取引所を設立するが為に之を全廃し株主にハ損毛を被らせ仲買には迷惑を受けしむる事ある可からずと論じ、頻に農商務省に向て営業継続を望み、若し許されざるに於てハ明治廿四年まで(是ハ桑名米商会所の期限にて現に許可を得たる中にて最長期のものなり)夫も叶ハずバ責てハ明治廿二年まで一ケ年の延期をと願ひ、河野氏及び谷元氏より吉田次官に申立たる次第もありしとぞ、扨また新取引所条例を頒布せられなバ、渋沢・大倉・益田其外の紳商連中にて発起人たらバ我々株主仲買も同じく発起人となつて出願すべし、現在商売上の関係
 - 第13巻 p.590 -ページ画像 
ハ孰に多き孰れに切なるかと云ふ議も内々ハ起つたる様子なれバ、左ありてハ紳商連中と株式連中との間に於て互角を生じて円滑ならず、寧ろ両連を調和して一纏になし以て新取引所の発起を出願せしむるに若かずとありて、吉田次官も夫と無く此の調和を謀られ、紳商連中にてハ渋沢栄一氏株式連中にてハ河野敏鎌氏が条例頒布の前に面会に及びて新取引所発起の相談と成たるに、河野氏ハ設ひ廿四年までの延期ハ叶ハずとも、責て一年の延期にても出来ざれバ余は株式の株主仲買に向て発起の事を談ずるの面なし、又彼輩も聞入れざるべしと断然申したるに付、結局渋沢氏も其延期の事ハ余が力の及バん程ハ周旋すべしと答へ、吉田次官も亦一年延期の事ハ余に於て承知なり政府に申立べしと受合ハれたりと伝承せり、斯る次第なるに付き河野氏ハ新条例頒布の当日株主仲買に対したる公然たる演説にて此の延期の事を披露したりき、但し一方にてハ条例の表面にてハ営業の期尽るを待て設立すべしと勅令にて定められ一方にてハ次官が其延期を聞届くべしと受合ハれたるも、前後辻褄の合ハざる話なれバ当時世間にて之を不審したるも尤の次第なり、又紳商連が当初ハ株主連中と与に謀るに足らず彼の連中を矯正して取引所の改良を謀らんハ其効なしと見限りてブールス説を主張しながら此場合に至りて其の連中と調和し、一ツに成つて取引所を発起すべしと思ひ替たるも亦不審千万なりき
右の如く吉田次官ハ一年の延期を承諾せられ、渋沢氏も之を周旋すべしと云ふ事にて是までハ相互に睨合たるブールス説の仲買連中《(紳商カ)》と非ブールス説の株式連中とが漸く持合の姿を現ハし、去らバ是れより両方の連中が初て一ツ所に集会する事と相成り数日の後銀行集会所に於て新取引所発起の相談会を開きたり、斯く表面ハ双方が折合たる様にハ見ゆれども株式連中は孰れかと云へバブールスの新創よりハ株式延期の事を冀望せるに相違なく、又紳商連中ハ此程まで彼の相場師輩ハ倶に謀るに足らずと脾睨したりし事なれバ、何と無く内心ハ互に奥歯に物の挿まりたる如き心地して一体にそりの合ハざるハ当然の勢なりと云ふべし、併ながら表面ハ相談も附たるに由り、是より発起人の中より創立委員数名を選挙し、其委員の中より又更に起草委員を復選したりしが、此の委員ハ彼の紳商連中と株式連中との両党より出で中立連中も交ハつたり、渋沢栄一・渋沢喜作・谷元道之・中野武営・朝吹英二・町田五八の諸氏を初として益田・大倉・河野・米倉《(マヽ)》・川崎・安田の諸氏みな其委員に選バれたりと覚えたり
斯る程に株式一年延期の事ハ随分世上の問題と相成り、勅令にて満期廃業と定められたるものを、農商務大臣が延期を許さるゝこと行ハる可き乎否と評し合ひたるに其、のち黒田伯爵が農商務大臣と成られたるを見て、此伯ならバ可否の英断を必らず速に下さるべしとて関係者ハ堅唾を呑で待たるに、果せるかな黒田伯ハ、河野氏の具申を篤と垂聴ありて後に株式の願書に対し一年延期の指令を附せられたり、是を得て株式連中ハ大旱に雲霓を得たる如くに喜び合ひたり、但し其中にハ一年にてハ面白からず二十四年までの延期を願立べしと所謂壠を得て蜀を望める人もありしかども、河野氏ハ一年の延期ハ特別の義なり株主仲買ハ先づ之に満足して新取引所の創立に従事せん事を勧告せら
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れしとぞ


東京日日新聞 第五〇二六号〔明治二一年八月四日〕 ○東京取引所の顛末補遺(DK130058k-0006)
第13巻 p.591 ページ画像

東京日日新聞 第五〇二六号〔明治二一年八月四日〕
○東京取引所の顛末補遺 前号に記せし東京取引所の顛末につき猶聞込しまゝ聊遺れる廉を補ハんに、前号に株式取引所が主としてブールスに反対したるやうに記せしハ稍々語の足らざるものにして、勿論株式米商両会所とも非ブールス説にて共々に働きしものなり、又明治廿四年迄延期を許されしハ桑名米商会所なりと記せしハ名古屋株式取引所及酒田米商会所の誤りなりし、又廿年五月十二三日の頃米商会所の小川・朝吹の両氏発起となり株式・米商両所の株主仲買の人々相集りて紳商連に先て新取引所創立願出の準備をなしたることありしに、かく新取引所創立の間に二党派ありては円滑ならずとの事にて、ブールス派なる両渋沢・大倉・安田・川崎・箕村・西村の諸氏と、一方よりハ又株式の河野・中野・谷元、米商の早川・小川・中村及び朝吹の諸氏と相聯合し、同年八月十八日一同の発起人集会したるとき町野五八氏をも委員に加へ、斯て願書起草委員にハ渋沢(喜作)中野・小川・朝吹・町野が当選せしなりといへり


東京日日新聞 第五〇二六号〔明治二一年八月四日〕 ○東京取引所の顛末(前号の続)(DK130058k-0007)
第13巻 p.591-592 ページ画像

東京日日新聞 第五〇二六号〔明治二一年八月四日〕
    ○東京取引所の顛末(前号の続)
却説新取引所創立委員ハ銀行集会所に打揃ひていざや創立の手続を取調ぶべしとて鄭寧に取引所条例を研究したるに、其売買取引の厳重なるハ蓋し委員の意外に出でたるが如し、其の取引実行に困難なりと思惟せる個条ハ数多あるが中にも(第一)品物の見本を示す事(第二)転売買の出来ざる事この二ケ条が尤も差支ありとする所なり、依て商務局の主任官にも伺ひ内窺を個条書にして差出し、遂に其細則の発布を待たるに細則の発布を見て益々取引の窮屈なるべきを感じたり、尤も大坂にても同様の感触を有して其発起人等より伺書を出したるに、農商務省が之に対して指令せる趣にてハ、第一の品物の見本ハ銘柄の書付にて相済むべき事と成たれども肝心の転売買ハ決して許されざる事と治定したり、依て東京の発起連中ハ転売買を禁ぜられ抜さしの懸引が出来ざる様にてハブールスの創立実施せらるべしと存じ候ハずとて各々落胆の様子にて最前の元気に引替へ委員集会の席にも追々出席その数を減じ、余程腰折れの状況を顕ハし為に相談も遅延し、明治二十年の秋も過ぎ冬も暮れ今二十一年の春もいつと無く去り夏ハはや半すぎたれども相談の纏らざるハ五月の空の陰晴を定め難きが如くなりし、直言すれバ誰も彼もブールス創立を断念したるに似たりと云ハんも不当の評言にハあらざるべし、一体紳商連中が株式米商の現制を不完全なりとしてブールスを新創するの念を発したるハ、其理由さまさまあれども其主眼ハ相場師に商場を専にせらるゝを恐るゝに在れバ転売買を許さゞるの制は紳商連中が尤も冀望する所にてあるべき筈なり何となれバ是れ即ち仲買の権謀を防ぎ冒険者流の詐術を制するにハ窟竟の関門たれバなり、然るを今日に至りて却て此の関門あるを嫌ふとは抑も何の意ぞや、転売買を要用とする程ならバ株式にて可なり米商
 - 第13巻 p.592 -ページ画像 
にて可なり何を苦しみて故さらに新取引所ブールスを創立するを要せんやと論者が疑問するハ一理あるの疑問なるべし、但し株式連中ハ初めより転売買を緊要なりとする人々なれば其取引所の新創に於ける転売買を許されずしてハ創立覚束なしと思考するハ左もあるべきこと歟其は兎も角もあれ転売買は相成り申さずと云ふ一条ハ取引所創立出来申さずと云ふ結果を喚起したるハ疑も無き事実なりと知るべし
将た株式の方にてハ新取引所創立相談の遷延して纏らざるを見て此状にてハブールス復た恐るゝに足らず、到底政府ハ転売買を許さゞるべく、其許されざる限ハブールスハ何年を経るとも創立せざるに相違なし、我々ハ左様なる迂遠の事に関係してあたら月日を費さんよりハ眼前の商業に専念従事すべしとて其命脈ハ一年未満たるを意とせず盛に取引を営なみけるが、数月前河野氏が頭取を辞職したるに付き谷元氏これに代りて頭取となり、夫よりして廿四年までの延期出願の事を相談し以て時機の来るを待たり、然るに今度井上伯爵が農商務大臣と相成られたるに付き去らバとて頃日株式より愈々廿四年までの延期願書を差出し、米商よりも同様の願書を差出したり、尤も井上伯ハ一昨年頃までハブールス説を賛成せられたりと聞えたるが、此節の様子にてハ敢て必らずしも然るに非ず、現に谷元氏に対して廿四年までの延期ハ承知なりと答へられたるに付き、谷元氏ハ其趣きを株主仲買等に伝へて安心させても苦しからずやと伺ひたるに、伯爵ハ決して苦しからずと答へられたる趣を谷元氏は株式仲買の重立たる人々に披露したりと云へり、尤も延期を許すに付てハ株式米商の結局を了する為に伯爵にハ云々取計方あり、又ブールス創立に付ても同じく云々の計画ありと伝聞せる点もあれども、其未発に属するを以て記者は敢て之を今日に言ハざるなり


東京日日新聞 第五〇二八号〔明治二一年八月七日〕 ○正誤(DK130058k-0008)
第13巻 p.592 ページ画像

東京日日新聞 第五〇二八号〔明治二一年八月七日〕
○正誤 去る四日の紙上東京取引所の顛末と題せる項中「尤も井上伯ハ一昨年頃までハブールス説を賛成せられたりと聞えたるが、此節の様子にてハ敢て必ずしも然るに非ず」と記せしが、尚ほ能々当時の事を聞き質すに全く誤聞にて、当初ブールス説の起りし時も井上伯ハ之れを賛せず、内閣に於ても其必要なき旨を痛論せられたりと聞けり、然れバ伯は当初より非ブールス説なりしことを知るべし、事実を記して正誤に代ゆ


東京日日新聞 第五〇三六号〔明治二一年八月一六日〕 ○藤田伝三郎氏とブールス(DK130058k-0009)
第13巻 p.592-593 ページ画像

東京日日新聞 第五〇三六号〔明治二一年八月一六日〕
○藤田伝三郎氏とブールス 大坂紳商にブールスの首領と云へバ、誰れ知らぬ人なき藤田伝三郎氏ハ、ブールス説主張貫徹の為めに上京して、新農商務大臣井上伯に迫らんとのよしハ予ねて聞及びしが、弥よ去十三日上京あり、十四日の夕井上伯の邸に伺候せられたるよし。聞く処に拠れバ、大坂にても一時ブールス説ハ同氏の勧誘にて気炎熾にて、米商株主も多く之れに加入したるが、近頃に至りて追々退去(自ら)する向もあり、又た此頃の雲行にては米商会所延期の摸様も見ゆるにぞ、打捨て置きなバ国家の一大事(と思ふたか)、一身の面目と覚
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悟せられけん、氏ハ自ら上京して主任大臣に情を陳べ、ブールスの実行を促がし、米商会所の延期を聞き届けられざらんことを乞ハんと思ひ込まるるよし、大坂の或る新聞にも見えたるが、若し之れを事実なりとせバ、同氏が説の井上伯に容れられざる時ハ、随分大坂ブールス党に対しても面目なき次第なるべし、爰に又た去る十二日の東雲新聞に、商人大臣を指揮せんとすと題し、同氏が上京の事を記し、且つ氏ハ其出発の前日即ち十日に井上伯へ宛て電報を発して「予の着京せざる中ハ仮令へ如何なる事情ありとも、米商会所及び株式取引所に対して、延期を聞届くる事丈ハ、見合せありたし云々」と申送りたりとあり、果して氏ハ左る電報を送りたるにや、若し真なりとせバ之れを受け取られし井上伯ハ定めし一笑に附せられしならん、又た延期を聞届くると否とハ大臣の意見にありて、何人の差図をも受くべき次第ならねバ、よし斯る電報を百通発したれバとて効なきハ明かなるべし、左る浅墓なる事情も知らざる藤田氏ならねバ、此報ハ但し誤聞なるべしとして、我々も一笑に附し去らんのみ」扨て又た同氏が一昨夜井上伯に伺候して、如何なる明説を演ぜられしやハ漏れ聞かざれども、何か主人公が滔々と演説せらるゝを、折々は御尤と云ふ挨拶の仄かに聞えしのみと云へバ、トウトウ井上伯の非ブールス説が御尤と相成りたるにてハなき歟と臆想するものもありとかや、何れ事実ハ遠からず判然するならん


東京日日新聞 第五〇四四号〔明治二一年八月二五日〕 ○藤田伝三郎氏(DK130058k-0010)
第13巻 p.593-594 ページ画像

東京日日新聞 第五〇四四号〔明治二一年八月二五日〕
○藤田伝三郎氏 熱心なるブールス家藤田伝三郎氏が、目下請願の次第ありて上京中なるハ普く人の知る処なるが、今回氏が希望する処の要旨と云ふを仄に聞くに、決して旧来の株式取引所又ハ米商会所の延期を許可せられざるやう請願するにハあらずして、相成るべくハ新取引所設立の為に今迄費消せし一万五千円余の損害を農商務省より賠償し貰ひ、其上断然新取引所設立の義を思ひ止らんと云ふにあり、斯の如きハ農商務省にて決して為し得らるべき義にあらざれバ責てハ新取引所をも旧取引所と同じく営業の出来る様、規約其他の変改を求めんと欲するにありとか
○藤田氏と榎本大臣 右希望の筋ハ、同氏よりして先づ榎本大臣に逼り、是非とも顔の立つ様取扱ひを願ふとの由なるが、元来榎本子爵の農商務大臣たりし節、柳谷謙太郎氏を以て藤田氏に其意を伝へしめられし事あり、其義に拠れバ、旧取引所の延期等ハ中々思も寄らぬ事にて、万々気遣ひ無く、新取引所の設立に尽力あるべしとの事なりしかバ、藤田氏も安心して、過般取引所創立委員の総会を開きたる節にも衆員に其の書面を示したる程なりき、然るに図らずも農商務大臣の交迭に遭ひ、政略の頓に一変せしこと、氏の為にハ返す返すも気の毒の次第なりとて、花房次官なども氏が希望の理由、一応尤もの義なりと応ぜられ、去る二十二日榎本大臣と花房次官と、目下鎌倉滞在中なる井上大臣の許に同道にて赴かれ、藤田氏の為に願意取次の労を採られしとの事なるが、其節にも榎本大臣ハ藤田氏に対し、此事ハ到底閣議に附せざれバ決断する能ハざるべく、然する時ハ予ハ長大の意見書を
 - 第13巻 p.594 -ページ画像 
呈出し飽まで尽力する所あるべく、されど多数決の事なれバ、或る場合によりてハ又如何とも為し難き故、今より其辺の用心が肝要なるべしと語られたるやに漏れ聞たり


東京日日新聞 第五〇四七号〔明治二一年八月二九日〕 ○藤田伝三郎氏出京の詳報(DK130058k-0011)
第13巻 p.594-595 ページ画像

東京日日新聞 第五〇四七号〔明治二一年八月二九日〕
○藤田伝三郎氏出京の詳報 同氏が上京に付有する所の希望の要旨ハ前号の紙上に記載せしが、今其の当初よりの事実を得たれバ左に報道すべし、元来藤田氏が今の米商会所・株式取引所ハ不完全にして弊害あり、商業上に改良を得せしめ商人の位地を高むるにハ西洋のブールスに傚ひて組織する所の取引所たらしめざるべからずとの意見を有したるハ数年前よりの事にて、大坂一手にてもこれを組織せんと思ひ立ちし事ありしと云へり、然るに政府にても今の米商会所・株式取引所ハ営業満期と共にこれを停止し新に取引所を設立せしむべしとの議ありし頃、当時の農商務次官吉田清成君が関西地方へ出張の序を以て大坂へ立寄り藤田氏に面会して取引所の設立を謀られたること大坂取引所の計画を促がせるの端緒なりとす、当時吉田次官と藤田氏との談話の次第を聞くに、吉田君ハ取引所条例の草案を藤田氏に示され此儀に付てハ東京の紳商輩にハ何れも異存なし政府にして条例を発行せらるる以上ハ率先して条例の下に営業するの取引所を設立すべしとの事なり、足下にし異議なくバ直に電報を発して此案を元老院に下付せしむべし、尤も東京に於てハ新に取引所を設立するに付てハ種々の苦情あるが如くなれども大坂ハ却て然らざるべし、故に大坂ハ取引所の摸範たるべきの地にしてこれを成立せしむべきものハ即ち足下なり、願くハ奮て其設立を計画ありたしと申されたり、藤田ハ暫く思案して、取引所設立の事ハ兼ての素志にて大坂一手にても設立したしとまで思立ちたる事もある程の次第なれバ大体に於てハ異存あるべくも候ハねども、今の米商会所・株式取引所ハ営業満期と共にこれを停止し直に取引所を設立するといふ事ハ難事なるべし、其故ハ政府よりこれを見れバ其年限を定めて米商・株式両所の営業を許されたるものなれバ其期限の満ると共にこれを停止せらるゝとも一向に差支あるべからざる筈なりと雖ども、米商・株式の営業者に於てハ左ハ思ハざるべし、現に其期限ハ一期と見做し永遠に保続せらるゝものと思ひ居ること何れもの情態にて其株券の市場に価を有するも亦た其為めたること申す迄もなき次第なり、故に取引所を設立せらるゝ事ハ勿論同意にて飽まで力をも尽し候ハんが、其設立の順序に於てハこれを急にするハ宜しかるまじと思ハるれバ、更に米商会所・株式取引所に向て一期即ち五ケ年の延期を与へ、其期限の尽る時ハ取引所を設立するに付き予め其覚悟を為すべしといふが如くに達して今日より五ケ年の後にハ復た其営業を為すべからざることを承知せしめ、然る上にて取引所を設立するといふことにせられたし、然る時ハ取引所設立の為に米商・株式の営業者に急激の変動を及ぼすこともなく大なる損失をも与へずして事円滑に行ハるべしと雖どもこれを急激にする時ハ種々の障礙あるべしと申されたるに、吉田君ハ左れバなり、其事ハ井上外務大臣ハ足下と同一の見込にて、五ケ年と申す年限こそ申されざれこれを急激にするハ宜
 - 第13巻 p.595 -ページ画像 
しからずとの論にて異議を容れられたれど、閣議ハ米商・株式両所の営業満期に至る上ハ直にこれを設立すべしとの事にて井上大臣ハ其の主務にも非ざれバ復た其事を議せざる程の有様なり、左れバ足下が如何様に申立るとも閣議を翻へすことは出来ざるべし、依て米商会所・株式取引所ハ営業満期を限として停止する事、これと共に取引所を設立する事と云ふ処にて計画ありたしと申さる、藤田氏ハ斯く急激に米商・株式の両所を停止して取引所を設立せん事ハ随分困難なるべしと思ハるゝが果して其通りに実行せらるべしとあらバ其積りにて力を尽し候ハんが愈々間違なく行ハるべきにやと問ハれたるに、それハ必らず実行すべきに付き十分に尽力ありたしとの事にて夫れより藤田氏にも同意の旨を電信にて東京の其筋へ通ぜられたりといへり(以下次号)


東京日日新聞 第五〇四八号〔明治二一年八月三〇日〕 ○藤田伝三郎氏上京の詳報(昨日の続)(DK130058k-0012)
第13巻 p.595-596 ページ画像

東京日日新聞 第五〇四八号〔明治二一年八月三〇日〕
○藤田伝三郎氏上京の詳報(昨日の続) 斯て藤田氏ハ米商会所・株式取引所の重立ちたる株主を集め、吉田次官が語られたる次第を述て取引所設立の事を謀りたるに、右両所の株主も少数の損益ハ商業全体の上にハ替へ難しとて直に同意を表したり、依て又鴻池善右衛門・住友吉左衛門の諸氏に面会し、貴家ハ従来商業に従事せられずと雖ども取引所設立の事ハ商業の改良商人の位地に大なる関係を有すれバ共に同心して其事に尽力ありたき旨を謀りたるに、これも異議なく同意したり、其外取引所設立の上ハ取引所に出でゝ営業すべき業体の中にて重立ちたる商人に謀りたるに、是も同意したりけれバ、北浜に仮事務所を設けて専ら其準備に取掛れり、然るに其後数月を経れども取引所条例ハ未だ発布せられざれバ政府の摸様を聞んと思ひ居たる折柄、其年の冬主上京都へ行幸ありて伊藤総理大臣にも供奉にて大坂へ立寄られたれバ、親しく其摸様を伺ひたるに、来年(即昨年)四月の頃にハ発布せらるべしとの事なりしかバ其時を待ち居たれども尚発布せられざれバ、斯てハ何時の事やら分り難し暫く其計画を見合すべしとて委員を解き其費用ハ藤田氏の一手にて支弁して北浜の事務所を鎖したり、然るに五月十四日に至りて取引所条例を公布せられたれバ再び其計画に取掛りたる中に細則を定められ、次で準則を発せられたるを見るに其通にてハ迚も実際に行ハれ難けれバ審議の上にて其筋へ申立つべしとて、委員を撰びて取調を為し居たる折柄、黒田伯爵農商務大臣となられ、間もなく東京・大坂等の米商会所・株式取引所に一ケ年の延期を許され、最初とハ追々に雲行が変り来りしかども、大坂にてハ取引所の設立に熱心なれバ更に躊躇する所なく、実地営業上に差支なき様に条々の意見を立てゝ農商務省へ差出したり、然るに其後内閣に更迭ありて、黒田農商務大臣ハ内閣総理大臣に任ぜられ、榎本逓信大臣農商務大臣を兼任せらるゝに至りて大坂より差出し置ける意見書ハ悉くハ許容せられざれども十中の二三ハ許さるゝ事と相成りたり、是にてハ十分とハ申し難けれども必ずしも行ハれ難しと云ふにも非ず、又農商務省よりの口達にも先づ是れにて行ひ見るべし如何にも実際に差支ふる廉あらバ其時の事にすべしとの沙汰もありたれバ、左らバとて大坂にてハ愈々取引所設立と云ふの運びに至りたり、然れども一方にハ
 - 第13巻 p.596 -ページ画像 
米商会所・株式取引所延期の事もありて何となく摸様の替り来りたる折柄なれバ一年の後に又延期と云ふ様なる次第にてハ折角に取引所を設立するとも其甲斐なしとて、出京の委員ハ書面を捧げて其辺の事を伺ひ出でたるに、右ハ指令すべき限に非ずとて其書面を却下せられ、別に農商務大臣秘書官より手紙を以て何《(マヽ)》くまでも取引所条例の精神にて実行する筈なれバ掛念に及バざるべしといへる意味を申通ぜられたり、因て大坂にてハ取引所の建築をも取急ぎ、愈々九月一日より営業を始むべしと取極めたる折柄、井上伯爵農商務大臣となられ、将来農商の諸業に関して、大に方針を異にする所あるべしと思ハれたると共に、米商・株式にも延期を与へ、取引所ハ其設立を急がざるの見込なりと聞えたり、然るに大坂にてハ已に十分に其準備を為して九月よりハ其営業をも始むるといふまでの運びとなりたる場合なれバ、今度ハ藤田氏自ら上京して親しく大臣の意見をも聞き具申すべき丈の事ハ具申せざるべからずとて扨こそ上京せしなりと云へり、斯て藤田氏が井上大臣に面会しての談話ハ如何ありしか詳細の事ハ知らざれども、大臣ハ当初より米商・株式の営業満期と共に取引所を設立するといふ事ハ不同意にておハしたるなれバ其辺の趣意を細かに演述ありしなるべし、又藤田氏の申立ハそハ一個の華族たる井上伯爵の御意見を一個人たる藤田伝三郎が承ハるならバ誠に御尤千万なり、伝三郎も其意見なれバ当初吉田次官にも五ケ年の延期を与へて其後に取引所を設立せらるべし急激の事は宜しからずとハ申述て候へ、併しながら農商大臣たる井上殿と大坂取引所理事長たる藤田伝三郎との間の話にてハ御尤とハ承ハり難し、其故ハ設令農商務大臣たりとも勅令の下に立て事を行ハせらるゝの外あるべからず、然るに勅令にハ取引所ハ米商会所・株式取引所の営業満期を期して設立すとあれバ此の勅令の在らん限りハ長く延期を米商・株式の両所に与へらるゝ事ハ相叶ふまじ、一方にハ米商会所・株式取引所にハ延期を与へ置き、一方にハ取引所を設立することハ実際に能ハざる事にて候、伝三郎ハ勅令に基づきて取引所設立を計画せしものに候へ、此義ハ如何に御処置あるべきやと云へる趣意にて随分激論に及びしとハ聞えし、併し藤田氏の趣意ハ必ずしも米商・株式に延期を与へらるゝを拒まんとにハ非ず、一方に延期を与ふれバ一方にも細々ながら営業を為し得べき様にせられたしと云ふに在るが如し、若し是をも構ハずといふ事ならバ氏にも自ら覚悟あるべしとの事なり、兎に角大臣ハ目下不在中にて藤田氏にも其後ハ面会なけれバ如何なる処に帰着すべきや其辺ハ何とも測り難し、其歩み合ひの付くとも付かざるとも大臣帰京の後にあるべしといへり、右の次第なれバ井上大臣が急激の変動を商業上に与ふるハ宜しからずと思ハるゝも尤もなる意見なるが、左れバとて藤田氏が困難の位地に立て苦情を訴ふるにも道理あり、唯だ何事にも政略の一定せざる現政府の組織の不完全なるより斯る事あるに至れるものなりといふに外あらざるのみ