デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
25節 取引所
8款 横浜ニ於ケル商品取引所合併問題
■綱文

第14巻 p.274-277(DK140026k) ページ画像

明治32年6月21日(1899年)

是ヨリ先、日清戦後ノ不況ニヨリ横浜ニ於ケル各種商品取引所マタ衰頽ス。栄一、神奈川県知事浅田徳則ノ委嘱ヲ受ケ、是日横浜蚕糸外四品取引所、横浜四品取引所及ビ横浜米塩雑穀取引所ノ代表者ヲソノ邸ニ招キ合併談ヲ試ム。是年十一月横浜四品取引所ト横浜米塩雑穀取引所ト合併シ、横浜株式米穀取引所ノ成立ヲ見タルハ之ニヨルカ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK140026k-0001)
第14巻 p.274 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三二年
六月廿一日 雨
午前横浜五品四品米塩取引所ノ人々来会ス、蓋シ浅田知事ノ委嘱ニ依テ其合併談ヲ試ル為メナリ、此日ハ風邪気ニテ午後平臥ス
   ○「顕要職務補任録」ニヨレバ神奈川県知事ニ浅田徳則ノ任ゼラレタルハ明治三一年五月一四日。
   ○中略。
七月二日 曇
○上略 長谷川一彦来ル、横浜取引所ノ事ヲ依托ス ○下略
   ○長谷川ハ第一銀行行員、当時横浜支店長(カ)。


横浜株式米穀取引所営業報告 第一一回・第一―二頁 明治三二年七月―一二月(DK140026k-0002)
第14巻 p.274 ページ画像

横浜株式米穀取引所営業報告 第一一回・第一―二頁 明治三二年七月―一二月
                (株式会社横浜取引所所蔵)
    第一 株主総会
○上略
明治三十二年十一月四日横浜米塩雑穀取引所ノ事業合併資本増加ノ件ヲ議スル為メ臨時株主総会ヲ開キタリ、其議決事項ノ要領左ノ如シ
 一 社名ヲ変更シテ株式会社横浜株式米穀取引所ト称スルコト
 二 従前取引物件ノ外米穀・塩・雑穀ヲ追加スルコト
 三 資本金五万円ヲ増加シテ拾五万円トスルコト
 四 監査役三名ヲ五名トナスコト
 五 取引品ノ売買方法一口ノ売買数量呼直及標準米ヲ定ムルコト
明治三十二年十二月十六日臨時株主総会ヲ開キ左ノ報告ヲ為シ監査役之ヲ確認セリ
    報告案
一明治三十二年十一月四日株主総会決議ノ増資金五万円及定款第十三条ノ増資金四千円ハ共ニ明治三十二年十一月二十七日払込決了セリ



〔参考〕中外商業新報 第三五八二号〔明治二七年二月一〇日〕 ○横浜四品取引所創業総会(DK140026k-0003)
第14巻 p.274-275 ページ画像

中外商業新報 第三五八二号〔明治二七年二月一〇日〕
 - 第14巻 p.275 -ページ画像 
○横浜四品取引所創業総会 は来る十三日午後一時より横浜貿易商組合会館に於て開く


〔参考〕中外商業新報 第三七〇二号〔明治二七年七月三日〕 ○横浜 蚕糸・製茶・織物・海産物 取引所開業式(DK140026k-0004)
第14巻 p.275 ページ画像

中外商業新報 第三七〇二号〔明治二七年七月三日〕
    ○横浜 蚕糸・製茶・織物・海産物 取引所開業式
同取引所は予記通り一昨一日を以て開業式を挙行せり、当日同所表裏の両門には丸の中に「取」の字を染出したる旗章を交叉し、楼上楼下には形の如く数百の球灯を掛け列ね、同所近傍の各商家は何れも国期軒提灯《(旗)》を掲げて祝意を表せり、斯て午前十時を報するや来賓一同式場に臨み、理事長原善三郎氏先つ開業の祝詞を朗読し、次て金子農商務次官・中野県知事(代理)・若宮商工局長(代理)・東京商品取引所理事長銀林綱男・木村利右衛門・株主総代大谷嘉兵衛・仲買人総代池田浩平諸氏の祝辞あり、最後に原理事長の答辞あり、終て本場の初立会を為し、先づ蚕糸より始め織物・製答《(茶)》・海産物と順次に立会ひし処、初手合丈けあり何れも相応に売買あり
蚕糸の部に於ては
 器機太糸一番        三期合計 百二十九枚
 座繰太糸一番        同    百二十七枚
 折返二番(岩代磐城二番糸) 同    百六十八枚
 上州熨斗糸         同    七十六枚
 奥州熨斗糸         同    十三枚
 器械生皮苧         同    三十一枚
織物の部に於ては
 尺八巾八匁付        三期合計 三十八枚
 尺五巾八匁付        同    二十八枚
 込巾八匁付         同    五枚
海産物の部に於ては
 鰯再製油          三期合計 五枚
製茶の部に於ては
 三等茶           三期合計 一枚
 六等茶           同    二枚
売買出来したり
右の立会終るや来賓一同を横浜貿易商組合会館楼上に案内して立食の饗応を為したり、此日の重なる来賓は金子次官・斎藤修一郎・農商務及神奈川県庁の官吏・各取引所重役・京浜の紳商・新聞記者等にて無慮二百名許りなりしといふ
又同所は昨今両日は臨時休業して明四日より引続き立会を行ふ由


〔参考〕中外商業新報 第三七九八号〔明治二七年一〇月二六日〕 ○横浜三品取引所開業の景況(DK140026k-0005)
第14巻 p.275-276 ページ画像

中外商業新報 第三七九八号〔明治二七年一〇月二六日〕
    ○横浜三品取引所開業の景況
横浜綿糸棉花金属取引所の開業式は予報の如く昨廿五日午前九時より開会、当日の来賓は中野神奈川県知事以下県官・蚕糸外三品取引所役員・市内の紳士・豪商・新聞記者等にして、理事長木村利右衛門氏式を挙るの詞を演べ、次に中野知事・若尾・中村・黒部・森本・矢野諸
 - 第14巻 p.276 -ページ画像 
氏の祝詞あり、木村理事長更に答辞を演じ、其れより初立会を始めたるに棉花・綿糸等順次活溌の取組みありて場況も別項に記す通り可なり賑ひ、午前十一時四十分全く閉会を告げ、其れより貿易商会館楼上に於て立食の饗応あり、農商務省よりは電報を以て祝詞を申来るなど中々盛んにして、殊に場の内外より仲通遠近は日章旗を出だし何となく勇ましく見え、見物人も山を築きたる程なりき


〔参考〕銀行通信録 第一六〇号・第四七五頁〔明治三二年三月一五日〕 ○会社彙報(DK140026k-0006)
第14巻 p.276 ページ画像

銀行通信録 第一六〇号・第四七五頁〔明治三二年三月一五日〕
    ○会社彙報
△横浜四品取引所の増資 横浜四品取引所に於ては去る六日午後四時より臨時株主総会を開き資本金九万六千円を四千円増加し十万円となす事に決せり


〔参考〕横浜市史稿 産業編・第四八五―四八九頁〔昭和七年一一月〕(DK140026k-0007)
第14巻 p.276-277 ページ画像

横浜市史稿 産業編・第四八五―四八九頁〔昭和七年一一月〕
 ○第二期 明治大正時代 第一章 商業
    第十六節 横浜取引所
○上略
 然るに二十六年三月、取引所新法の発布と共に、我国重要輸出品中の大宗たる生糸標準相場の激変を阻止し、且つ需要供給の円滑を図るを以て主要目的とした取引所設立の議が、横浜の蚕糸貿易商有志の間に起り、原善三郎・若尾幾造・大河原英次郎・飯島勇蔵・大友政之丞の五名が創立委員に挙げられ、組織方法を委嘱されて、創立事務所を本町一丁目五番地の蚕糸貿易商組合内に設けられた。其時の発起人連名の中には、横浜の代表的実業家六十名を網羅し、取引商品は蚕糸・製茶・織物・砂糖及び海産物の五品なるが故に、之を蚕糸外四品取引所と称へ、同年十月、発起人総会を開いて設立認可の申請を為したところ、翌二十七年三月十九日、農商務大臣より設立認可の指令に接したので、同年五月、南仲通三丁目五九番地の新築営業所に移転し、同年七月一日から定期売買取引を開始した。当時資本金二十万円であつたが、実際の払込額は僅に五万円であつて、理事長には原善三郎が推され、原氏歿後は若尾幾造が之を継いだ。これが現在の横浜取引所の前身である。
 二十七年、綿糸・棉花・金属の三品取引所は、木村利右衛門・佐藤政五郎などの発起に依り、定期売買取引を為すべく出願に及んだ。当時の資本金は五万円、最初の理事長には木村利右衛門が推され、同年十月、南仲通四丁目に営業所を開始した。超えて翌二十八年に至つて前記の物件中に株式の一項を加へて、四品取引所に改め、資本金を八万円に増資した。時恰も日清戦役中のことゝて、軍事公債の発布と共に、局面展開し、二十九年下半期には、定期売買取引の盛況其極に達し、取引所の配当は実に七割と云ふ好況を示し、最初五十円払込の株券は一時一千二百七十円と云ふ高値が現れた。併し其後経済界の不況を受けて、営業不振に陥り、三十二年には、遂に米塩雑穀取引所を併合して、株式米穀取引所と改名した。
 是れより先き明治六年、田中平八などは、金穀相場会所より分離し
 - 第14巻 p.277 -ページ画像 
て、高島町八丁目に米穀相場会所の営業所を移し、洋銀相場会所と相並んで繁昌したが、横浜に米穀取引所の設立計画のあつたは《(の脱)》、二十六年で、率先して之が発起申請を為したのは黒部与八なとで、次いで横田文右衛・田代市郎次などの一派も設立認可を申請した。然るに同一地区内に同種の取引所を二箇所以上設立するは取引所法の許さざる所であつたから、時の神奈川県知事は願書を発起人に返附し、合同を勧告したところ、出願者は容易に応ぜず、極力競争して願意を達せんとし、認可申請を提出すること三回に及び、軈て大谷嘉兵衛が出でて居中調停の労を採り、玆に始めて三派の合同と為つて、発起申請を提出したのは二十八年であつた。而して出願後間もなく設立認可を得、同年十二月、黒部与八が理事長に選ばれ、資本金九万九千円を以て尾上町六丁目に開業し、之を米穀取引所と称した。同二十九年五月、取引所物件中に更に雑穀・食塩を追加すべく主務省に申請に及んだ。偶々神奈川雑穀取引所発起人よりも同業の申請があつた為め、両者共設立認可を得ることが出来ず、結局両者合同の上更に申請を為し、三十年一月、之が認可を得て横浜米塩雑穀取引所と改称し、資本金を増加して、同月開業した。是れより先き二十七年、綿糸・棉花・金属・株式の四品取引所と米塩雑穀取引所との両取引所を合併した株式米穀取引所は、三十二年十一月を以て成立を告げ、取引物件を内外有価証券・米・大麦・大豆と為し、資本金は漸次増資して八十万円となつた。而して四品取引所以来の理事長は木村利右衛門に次ぎ高梨哲四郎・佐藤政五郎・平沼延次郎・渡辺貞次郎などが歴任し、最後に佐藤政五郎が再任した。其後四十三年三月に至り、又もや蚕糸外四品取引所と合併となり、玆に始めて横浜取引所と改称され、南仲町三丁目及び本町三丁目に跨る地区に移り、現時の如く蚕糸・米穀・有価証券の三品を取引し、資本金も次第に増額し、目下六百五十万円全額払込済を擁し、主に蚕糸の取引が行はれ、其公定相場は世界に於ける生糸市場の標準として大勢を左右するの力を有し、今や此点に於ては、神戸と共に全日本に於ける唯二箇所の生糸取引所として世界に匹儔稀なるものと為つてゐる。