デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
29節 其他
2款 渋沢商店
■綱文

第15巻 p.179-201(DK150015k) ページ画像

明治7年(1874年)

是年、渋沢喜作東京深川ニ廻米問屋ヲ、横浜ニ生糸売込問屋ヲ創始ス。渋沢商店是レナリ。栄一、喜作トノ関係ニヨリ以後援助頗ル努ム。


■資料

青淵先生六十年史 (竜門社編) 第二巻・第九〇二―九〇三頁 明治三三年六月再版刊(DK150015k-0001)
第15巻 p.179 ページ画像

青淵先生六十年史  (竜門社編) 第二巻・第九〇二―九〇三頁 明治三三年六月再版刊
 ○ 第五十九章 雑事
   第十九節 家政顧問
○上略
一渋沢喜作ハ東京深川ニ廻米問屋ヲ開キ、横浜ニ生糸売込問屋ヲ営ム其業何レモ頗ル盛大ヲ致シ(キ)ノ名声都鄙ニ聞ユ、然ルニ喜作志慮豪放商算粗大動モスレハ失敗ヲ招カントス、先生危キニ之ヲ救フコト数次、後チ喜作其業ヲ子作太郎ニ譲リテ退隠ス、先生堅ク仕法ヲ約シ業務上ノ顧問ニ備ハル、爾来(キ)ノ事業益々昌盛ニ赴キ大ニ世上ノ信用ヲ博スルニ至レリ、蓋シ先生壮時喜作ト共ニ国事ニ奔走シ死生ヲ共ニスルコトヲ約ス、故ニ喜作ノ処措時ニ先生ノ旨義ニ違フコトアルモ先生諄々トシテ常ニ之ヲ諫メテ敢ヘテ捨テス、尚ホ自ラ少カラサル資金ヲ投シテ其業ヲ補助セリ、曰ク仮令喜作予ニ背クモ予ハ喜作ニ背カスト、嗚呼先生ノ友情篤シト云フヘシ
○下略


渋沢栄一 書翰 吉田清成宛 (明治七年)二月四日(DK150015k-0002)
第15巻 p.179 ページ画像

渋沢栄一 書翰  吉田清成宛 (明治七年)二月四日
               (京都帝国大学文学部国史研究室所蔵)
奉稟頃日同姓喜作拝趨之節同人従事之生糸蚕卵売買一条及銀行願請之事共迄御懇諭之趣拝承忝奉存候、兎角毎事奉煩高慮恐悚之至ニ候得共幸ニ御垂憐夫々御示諭被下、望外之幸感謝此事ニ候
銀地金輸出一件御聞届被成兼候義ニ候ハヽ何卒願書ヘ御附紙にて御下被下度、是ハ先日も申上候内情ニ付銀行にてハさして関係無之事ニ御坐候得共、益田にも日夜御指揮を相待居候様子ニ付、何卒早く御指揮奉祈候
○中略
同姓喜作此度之見込ニ付為替相願候一事ハ、老閣之御考案御垂示も委細拝承候而、尚一時之便ニ関せす向来コルレスポンタンス等之事共迄審案いたし、書類をも取調、何れにも高慮相伺度候間、是又御含置被下度候、右申上置度 匆々頓首
  二月四日                渋沢栄一
    吉田少輔閣下


(渋沢喜作) 書翰 渋沢栄一苑 (明治七年)二月八日(DK150015k-0003)
第15巻 p.179-180 ページ画像

(渋沢喜作) 書翰  渋沢栄一苑 (明治七年)二月八日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓愈御佳勝之条奉南山候、然は横浜行之義御都合如何ニ御坐候哉、
 - 第15巻 p.180 -ページ画像 
弥明九日之思召ニ御決定被成候哉、且其節は通弁ヘ寄食罷在候書生同行可申哉、右御容子伺度奉得芳慮度 匆々頓首
  二月八日
                       蘆陰拝
    青淵老台
  二伸一昨夕数々難有深謝此事ニ候、御蔭ニて概略決定大安心仕候且昨夕大隈・吉田両氏江御面話ニ相成候哉、富丘之製糸売捌之云云は《(共カ)》御摸容是又奉伺候 已上

 渋沢栄一様    同 喜作
    乞御親督


(渋沢喜作)書翰 渋沢栄一宛 (明治七年)七月一六日(DK150015k-0004)
第15巻 p.180 ページ画像

(渋沢喜作)書翰  渋沢栄一宛 (明治七年)七月一六日
                    (渋沢子爵家所蔵)
  尚々故山に御用も有之候ば一寸御申達し祈候 以上
拝啓然者屑糸一条過日御高評相願候後浄書夫是注意、十四日古川も加印之上勧業寮江差出申候、昨日内務卿ニも面謁いたし丁寧陳述いたし御同人も至極之見込と被申、公然申立之旨趣篤と其筋とも商議之上何分之沙汰ニ可及由被申候、且今朝河瀬とも面話願面之件々相尋候処、右申立之旨趣ニも寮丈之意存も無之候間明日其筋江上申可申候と之由被申候、依而は大蔵省とも合議之事と存候間其間一泊掛ケ帰省と存候尤も右之云々も河瀬江話次及置候、何分ニも大隈・吉田両氏江も御面会之節可然御高話願候
先は様子も行留候様寮内務卿之意見ニは被察申候、且発途は昨夕歟と存候、乍去昨日今一通同様之書面勧業寮江差出し候筈ニ候間、明後朝帰省ニ可相成歟、左候得は明日之中一寸参馳可得鳳眉候 匆々頓首
  七月十六日
  青淵老閣   喜作拝
    乞親督


(西村乕右衛門) 書翰 渋沢喜作宛 (明治未詳年)一〇月三日(DK150015k-0005)
第15巻 p.180-181 ページ画像

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(永田甚七)書翰 渋沢栄一宛 (明治一三年カ)一月二〇日(DK150015k-0006)
第15巻 p.181 ページ画像

(永田甚七)書翰  渋沢栄一宛 (明治一三年カ)一月二〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
○上略
(キ)店は明日横浜ニ而三万円入金之筈ニ御座候 本日内銀仕切□□□
○下略
  一月廿日             永田甚七(印)
    頭取君閣下


(芝崎確次郎)日記簿 明治一四年(DK150015k-0007)
第15巻 p.181 ページ画像

(芝崎確次郎)日記簿  明治一四年(芝崎猪根吉氏所蔵)
第一月十九日
例刻出頭、無事、本朝支配人永田氏より、盛岡尾高惇忠殿より(キ)店と横浜小島源二郎との分界相立全ク独立之小嶋ナル哉(キ)店ヘ照会可致旨頼談ニ付、退社帰途上原豊吉殿ヘ面語候処、右躰関係無之、素尾高氏蚕種売捌方(キ)店ヘ依頼同所より小嶋ナルモノヘ売方申付直段等照会、(キ)店之名義ニテ問合可致事ニテ爾後取扱来候、口銭等も直ニ収入致し候様ニ押移リ、自然ニ(キ)名義不相記独立之姿ニ相成候事共承知致し候、夜ニ入候ニ付帰宅
○下略
  ○中略。
第六月十三日 雲炎暑
○上略 横浜(キ)店書上順四郎来邸 ○下略


第一銀行京都支店所蔵文書 青淵翁名義書類五(DK150015k-0008)
第15巻 p.181 ページ画像

第一銀行京都支店所蔵文書  青淵翁名義書類五
    甲申京摂巡回日記
六月 ○明治一七年 十九日 曇
○上略 午後二時大阪支店ニ至リテ行務ヲ撿閲ス、夜八時帰宿ス、時ニ書上順四郎来テ横浜商店ニ関スル事務ニ付テ請求スル所アルヲ以テ、書ヲ本店及横浜支店支配人ニ送致ス


回議録 商買組合 明治一八年自一月至七月(DK150015k-0009)
第15巻 p.181-182 ページ画像

回議録 商賈組合 明治一八年自一月至七月    (東京府庁所蔵)
明治十八年二月廿日出         八等属 高瀬久(印)
              (印)(印)
 知事   書記官   (印)勧業課(印)(印)
    東京廻米問屋仲間現員届
                   年行事
                      渋沢喜作
右ハ別紙之通届出候間呈一覧候也
              東京廻米問屋仲間
                深川区堀川町弐番地
                      奥三郎兵衛
                同区佐賀町弐町目三拾壱番地
                   久佳五左衛門出店主
 - 第15巻 p.182 -ページ画像 
                      羽多野孫助
                同区材木町拾四番地
                      中村清蔵
                同区万年町壱町目弐番地
                      橋本清右衛門
                同区万年町壱町目一番地
                      池田栄亮
                同区同町五番地
                      渋沢喜作
                日本橋区南茅場町拾壱番地
                   新潟物産会社支店
                      鈴本周四郎《(鈴木周四郎カ)》
                同区兜町四番地
                   共立商社支配人
                      川原英二郎
                同区同町三番地
                   三井物産会社々長
                      益田孝
                同区本船町廿壱番地
                      江口直造
                同区西川岸町拾七番地
                   藤井能三支店名代人
                      四柳兵二
                同区上槙町四番地
                      峰須賀与平
                浅草区下平右衛門町廿番地
                      西尾喜三郎
                深川区東元町拾三番地
                      藤平重資
                日本橋区南新堀弐町目五番地
                      村越伊平
                同区小網町三丁目廿三番地
                      万代徳蔵
                京橋区霊岸嶋銀町壱町目弐番地
                      滝田栄三郎
                合拾七人
右者本月調仲間現員住所姓名御届申候也
                東京廻米問屋仲間
                   年行事
  明治十八年二月十八日         渋沢喜作(印)
  東京府知事
    芳川顕正殿


中外物価新報 第九四七号 明治一八年五月一四日 ○生糸商組合の計画(DK150015k-0010)
第15巻 p.182-183 ページ画像

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回議録 農商課 明治一八年自八月至十二月(DK150015k-0011)
第15巻 p.183-187 ページ画像

回議録 農商課 明治一八年自八月至十二月   (東京府庁所蔵)
明治十八年十二月廿三日出 御用掛 小山譲(印)
(洪基) (印)(印) 農商課(印)
(印)知事 書記官  (印)調査課
    東京廻米問屋組合規約認可願ノ件
                  月行事
                      四柳兵二
                       外二名
右ハ前紙第百〇九号回議伺ノ如ク附箋ヲ以テ下戻候処、前紙ノ通更正ノ上差出候ニ付取調候処、最早不都合無之ト認候間、左案御指令相成可然哉、相伺候也
    案
書面願之趣認可候事
    願書
甲第弐号御布達ノ趣旨ニ遵ヒ、府下同業者四分ノ三以上ノ同意ヲ以今般組合ヲ設立シ規約相定候間、御認可被成下度、別紙規約書弐通相添此段奉願上候也
  但当仲間人員別紙規約書連印之通ニ御座候
  明治十八年八月三日
    東京廻米問屋仲間
      月行事
       府下日本橋区西川岸町拾七番地
            藤井「能三支店名代人
                    四柳兵二(印)
      同
       府下京橋区霊岸島銀町壱丁目弐番地
               寄留 愛知県平民 滝田栄三郎(印)
      同
       同深川区万年町壱丁目五番地
               本籍 渋沢喜作(印)
    東京府知事 渡辺洪基殿
右出願ニ付奥印候也
      東京府日本橋区長 中山孝麿 東京府日本橋区長中山孝麿
 (別紙)
    東京廻米問屋組合規約
東京廻米問屋仲間ハ明治十八年一月三十一日東京府甲第弐号布達同業組合準則ノ趣旨ヲ遵奉シ、従来ノ規約ヲ廃シ更ニ同業組合ヲ設ケ、本業ノ事情ヲ交通シ各自其便益ヲ謀リ進捗セントス、因テ左ニ連署スルモノニ限リ遵守センカ為メ一同協議ノ上取極メタル規約左ノ如シ
(印)
    第一章 組合ヲ組織スル業名及組合ノ名称
 - 第15巻 p.184 -ページ画像 
第一条 当組合ハ本籍寄留ヲ問ハス東京ニ在住シ現ニ諸国ヨリ廻漕米ノ売買ヲ営業トナス者ヲ以テ組織ス
第弐条 当組合ノ名称ハ東京廻米問屋組合ト称スベシ
    第二章 組合ノ地区及事務所ノ位置
第三条 当組合ノ地区ハ府下十五区六郡ニシテ、其事務所ハ当分ノ内日本橋区兜町三番地ニ仮設ス
    第三章 目的及ビ方法
第四条 当組合ハ現米ノ取扱及売買其他本業上ニ関スル諸般ノ事項ニ於ケル弊害ヲ矯正改良シ其利益ヲ図ルヲ以テ目的トス
第五条 当組合ハ本業上ノ利害ニ関スル諸般ノ事項ニ於ケル弊害ヲ矯正或ハ改良セント欲スル時ハ組合一同協議ノ上之ヲ実施スルモノトス
第六条 前条ノ場合ニ於テ若シ其事項ノ他業ニ影響ヲ及ボス等ノ件ハ之ヲ東京商工会ヘ稟議スルコトアルベシ
    第四章 役員撰挙法及権限
第七条 当組合ノ役員ハ年行事壱人、月行事弐人、会計委員弐人ヲ置クベシ
  但シ役員ハ無給料タルベシ
第八条 年行事及会計委員ハ毎年十二月ノ定式会ニ於テ組合員投票ノ多数ヲ以テ選定ス、而シテ其任期ハ満壱ケ年トシ満期ニ至リ再選スルコトヲ得ベシ
  但任期中不得止事故ヲ生シ辞職スルカ又ハ組合員協議ノ上任ヲ解カントスル場合ニ於テハ、本文ノ手続ヲ以テ代員ヲ選挙ス、而シテ代員ハ前任者任期ヲ起《(越)》ユヘカラス
第九条 月行事ハ組合員輪番ヲ以勤ムルモノトス
第十条 会議ノ録事及商況調査等ノ為メ書記壱名ヲ雇入ベシ
  但書記ハ役員ノ協議ヲ以撰定スルモノトス
第拾壱条 年行事ハ毎月定式会ヲ初メ其他本業上ニ関スル一切ノ事務ヲ総括シ、又同盟者一般ノ行為ヲ監督シ、若シ違約者アル時ハ一同協議ヲ経テ之ヲ処分スルモノトス
第拾弐条 月行事ハ常々年行事ノ事務ヲ翼賛シ、若シ年行事事故アル時ハ其代任タルコトアルベシ、又本業上ニ関スル必要ナル商況及輸出入米ノ調査等ヲナシ、之ヲ定式会ニ於テ報道スベシ
第拾三条 会計委員ハ此積立金ヲ始メ組合一切ノ金銭出納ヲ担任シ、其精算ハ毎月定式会ニ於テ詳細ナル計算表ヲ以テ之ヲ報告スベシ、若シ臨時ノ費用ヲ要スルトキハ、年月両行事ハ協議ノ上之ヲ取扱フモノトス
    第五章 会議ニ関スル規程
第十四条 当組合集会ハ当分ノ内毎月壱回トシ、初七日ヲ以テ定式会日ト定ム
  但会長ハ年行事ヲ以テ之ニ充ツ
第十五条 年行事月行事ノ考案ニ因ルカ、又ハ同盟者三分ノ一以上ノ請求ニヨリテハ臨時集会ヲ開クコトヲ得ベシ
第十六条 組合員ニ於テ事故アリ定式及臨時会ニ出席シ難キ時ハ手代ヲ以テ代理セシムルモ妨ナシト雖トモ、平素本業ニ従事セル者ニ非サ
 - 第15巻 p.185 -ページ画像 
レハ代理セシムルヲ得ス
  但代理人ノ姓名ハ予メ年行事ニ届出其承諾ヲ得タル者ニ限ルベシ
第十七条 定式集会ニ於テハ各自営業上ノ便否改良方法等ヲ協議シ、又ハ各地方商況ノ通信等ヲ談話シ、都テ無隔意同業親睦スルノ趣旨ナレバ敢テ会議ノ規則ヲ設ケスト雖トモ、席上其言論ノ讒謗罵詈ニ渉ラサル様注意スベシ
第十八条 組合員ニ於テ本業ニ関シ衆議ニ附スル事項ハ其草案ヲ作リ総テ年行事ニ申出テ毎月定式会或ハ臨時会ニ於テ之ヲ提出スベシ
第十九条 定式及臨時ニ於テ多数ヲ以テ議定シタル事項ハ之ヲ組合申合締約トシテ互ニ確守スベシ、若違背スルモノアルトキハ第三拾弐条ニ依テ之ヲ処分スベシ
第弐拾条 組合外ノ者ヨリ本業上ノ義ニ付、当組合ノ意見考案ヲ諮問又ハ照会等アル時ハ、其事項ニヨリ衆議ノ上其理由ヲ応答スルコトアルベシ
    第六章 加入者及退去者ニ関スル規程
第弐拾壱条 他ニ同業者アリテ当組合ニ加入ヲ申込ムトキハ、年月両行事ニ於テ本人ノ営業上第壱条ニ適否如何ヲ探索シ、組合ノ衆議ニ附シタル上加入ノ諾否ヲ定メ、其承諾ヲ受タル者ハ此規約書ニ署名捺印シ、而シテ年行事ハ其氏名ヲ組合員ニ通報スベシ
  但本人住所姓名及履歴ノ大要兼業ノ有無等書面ニ記載シテ本人或ハ紹介人ヨリ出サシムベシ
第弐拾弐条 組合員ニ於テ転業又ハ廃業若クハ組合地区外ヘ移転セント欲スルトキハ、書面ヲ以テ年行事ニ申出ツヘシ、年行事ハ事実ヲ調査ノ上退去ヲ承諾シ、其氏名ヲ組合中ニ報告スベシ
  但本条ノ場合ニ於テハ身元金ヲ返戻スベシ
第弐拾三条 組合員ニ於テ事業ノ規摸及趣向ヲ異ニスル事情ヲ生シ組合ヲ退去セントスルトキハ、年行事ノ加印アル書面ヲ以テ府庁ノ認定ヲ乞フベシ
第弐拾四条 組合地区内ニ於テ同業ヲ営ミ組合ニ加入セサル者アルトキハ、年行事ニ於テ加入ヲ促スヘシ、若応セサル者ハ其氏名ヲ府庁ニ申報スベシ
    第七章 積立金ノ方法
第弐拾五条 当組合員ハ其基礎ヲ確定シ之ヲ求遠《(永カ)》ニ維持センカ為メ、積立金トシテ壱人ニ付金三百円宛出金スベシ
第弐拾六条 此積立金三百円ノ出金法ハ明治十八年七月ヨリ毎月金五円宛出金スベシ
第弐拾七条 新加盟者ハ其加入ノ当月ニ於テ最初ヨリ積立金高ノ半額ヲ一時ニ出金シ、残余ハ翌月ヨリ毎月金五円宛払込三百円ニ充ルヲ要ス可シ
第弐拾八条 此積立金払込ノ時日ハ毎月定式会日ニ於テス可シ、若シ当日出席セザルモノハ代人ヲ差出スベシ
第弐拾九条 毎月集合シタル積立金ハ会計委員ニ於テ之ヲ預金局又ハ国立銀行ヘ利付額預ケ金ト為シ、其預リ証書ヲ保存スベシ
  但本条ノ利金ハ積立金三百円ニ満ル迄ハ之ヲ其積立元金ヘ繰込ム
 - 第15巻 p.186 -ページ画像 
ベシ
    第八章 組合ノ諸入費徴収及賦課法
第三拾条 当組合ニ係ル諸入費ハ積立金ノ利子ヲ以テ之ニ充ツルモノトス
  但積立金三百円ニ満ル迄ハ各員毎月金弐円宛出金スベシ
第三拾壱条 積立金ノ利足ヲ以テ組合ノ経費ヲ支弁シ能ハザルトキハ其不足額ヲ人頭ニ割合出金スベシ
    第九章 違約者処分ノ方法
第三拾弐条 組合員ニ於テ協議確定セル本規約ヲ違背シタル者ハ、其情状ニヨリ金弐拾円ヨリ少カラス、百円ヨリ多カラザル違約金ヲ差出サシムベシ
  但本条違約金ハ組合ノ諸入費ニ充ツベシ
    第拾章 報告ノ事
第三拾三条 年行事ニ於テ総テ其事蹟及ビ費用ノ決算表並ニ組合員増減表ヲ製シ翌年一月中府庁ニ上申スベシ
第三拾四条 事務所ノ移転並ニ年行事ノ進退ハ、其時々府庁ニ上申スヘシ
    第拾壱章 規約更生
第三拾五条 此規約ハ同盟者ノ協議ニヨリ改正加除スルヲ得ベシト雖トモ、東京府庁ノ認可ヲ経ニアラザレハ実施セサルモノトス
右第三拾五箇条ノ規約ハ同盟者一同議定シタル証拠トシテ玆ニ記名調印シ、追テ加盟ノ者ハ順次連署セシムベキ者也
  明治十八年八月
               深川区堀川町
                     奥三郎兵衛(印)
               深川区佐賀町
                久住五左衛門出店主
                     羽多野孫助(印)
               深川区材木町
                     中村清蔵(印)
               深川区万年町
                     渋沢喜作(印)
               深川区万年町
                     橋本清右衛門(印)
               日本橋区南茅場町
                新潟物産会社支店
                     鈴木周四郎(印)
               日本橋区兜町
                共立商社副社長
                     国米精一(印)
               日本橋区兜町
                三井物産会社々長
                     益田孝
               日本橋区本船町
 - 第15巻 p.187 -ページ画像 
                     江口真造(印)
               日本橋区西川岸町
                藤井能三支店名代人
                     四柳兵二(印)
               日本橋区上槙町
                     蜂須賀久太郎(印)
               浅草区下平右衛門町
                     西尾万吉(印)
               深川区東元町
                     藤平重資(印)
               京橋区霊岸島南新堀
                     村越伊平(印)
               京橋区霊岸島銀町壱丁目
                     滝田栄三郎(印)
               日本橋区小網町三丁目
                     万代徳蔵(印)
               日本橋区亀島町壱丁目
                     白金亀吉(印)
               深川区亀住所《(町カ)》
                     山本平七(印)
               浅草区駒形川岸
                     平岡準蔵
               京橋区南新堀弐丁目
                     今木東兵衛
               日本橋区亀島町壱丁目
                     勝島万助(印)
               日本橋区霊岸島浜町
                     礒貝和助(印)



〔参考〕中外商業新報 第九四六八号 大正元年九月六日 渋沢男の演説(一)(DK150015k-0012)
第15巻 p.187-188 ページ画像

中外商業新報 第九四六八号 大正元年九月六日
  渋沢男の演説(一)
    故渋沢喜作氏葬儀式場に於て
此葬儀に際し私は秀総院節誉崇義喜作大居士とは殊に深い因縁を以て居りますので此に一言悼辞を述べて置きます、同族各位御親族の皆様方にも炎暑の際長い時間を煩はしますのも深く恐縮致しますけれども痛悼に溢れて居る言葉何卒一言述ぶる事を御免しを蒙り度い、私と居士との交誼は親戚の関係は申迄もなく第一に郷里を同ふし、又年輩を一にし、嗜好に於て栄程に於て素養に於て殆ど一身分体と云つて宜しい有様で郷里に成長したのであります、時恰も時勢の変遷に遭遇し共に郷里を去て一身の位置を変更する場合に至り、又再び転じて遂に此の聖代に浴するに至りました、此経路は所謂大川もあり高山もあり高峰もあり嶮岨なる崖もありて、又或場合に於ては平坦砥の如く又春の霞の閑かな事実にも際会したのであります、居士と私の間は之を分てば三段に謂ひ得ると思ふのである、郷里に成長して共に其業を研き、
 - 第15巻 p.188 -ページ画像 
其業の間に御互に農民ながら文武の道に心掛けて、聊か社会国家に貢献せんと考へたことも亦同一であります、其初め幼少の時などを思ひ出しますと多分私が七歳の時だと思ます、痘瘡を酷く悩んだ時に、是非君が仕て呉なければ食事をせぬと云ふて、母親を大層困した事がある、左様すると喜んで参て数日私を慰めて呉れた事は今尚記臆に存じて居ります、軈て成童となりましても互に家業に従事し、父が同じ業体である所から自然同じ業に志す、同業に志せば勢ひ相親く交るは之も理の常である、共に郷里に於て業を成そうと考へたのである、然るに前申した通り世の変遷は我々の心を刺撃して、居士が廿六歳の時私が廿四歳の時遂に故郷を去らねばならぬと云ふ境遇に立つたのであります、其此処に至つたのは決して両人共に自ら求めて危道に走り、又暴挙を計つたのではなかつたのであります、居士は私より二つも上であつて身体も大きく、凡ての方面が私より長じて居る丈け発達して居りました、手を携へて故郷を去り、行末如何になるやと云ふの目的無しに京都に遊びましたのも、一つ橋に政治を執つて居る平岡と云ふ人に聊かの便りを以て参つたのであります、但し其場合に至つたのは両人共一身上の疑惧を免れねばならぬ事に接した訳であります、此郷を去る迄が一期間と申して宜しい(未完)



〔参考〕中外商業新報 第九四六九号 大正元年九月七日 渋沢男の演説(二)(DK150015k-0013)
第15巻 p.188-189 ページ画像

中外商業新報  第九四六九号 大正元年九月七日
  渋沢男の演説(二)
    故渋沢喜作氏葬儀式場に於て
却説両人共京都に着しましても官途に着く考は少しもなかつたので、お互に此頽廃した幕末を如何にしたら廓清することが出来るか、又た常に跳梁跋扈する外国を如何にしたらば掃攘する事が出来るであろう此等の事ばかり両人の胸中を往来して居つたのであります、然るに其頃の幕政は農民若くは町人の国事を談ずるを好まず、苟も左様の疑があれば速に逮捕する位でありましたから、不幸にも両人の親戚中には捕縛の憂目に遭つた者さへありました、其累が居士と私にも及で殆ど逃るに道なき場合となりました、此処に於て両人は終に節を屈して一橋の家来となりました、之が第一段の変化であります、其後国家は益益多事藩務も頗る紛乱致して参つたので居士の性質上多く軍務に従事しました、私は聊か財政上に得る処もありましたから会計事務に従事し、相携へて藩務を処理し幕末に資する処あらんと努めたのでありましたが、之も事多くは志と違ひ、慶喜公は十四代将軍の薨去に次で入つて統を紹くに至りました、此時居士と私は実に涙を揮つて止めたのであります、若し今朝廷に対抗せられたならば決して衰頽した幕府を回復する訳に行きません、飛んで火に入る夏の虫と同じ様な訳になる幸ひ他の方面では一つ橋が朝幕の間を調和する位置に立つて居るやうに思つて居る処であるから、若此際真正面に立様なことがあつては各藩の幕府を憎む情は真向に来ると申した、而して此論は特に居士の主張した処であります、私も勿論居士と同論で尚共に其要路に説きましたけれども、悲し哉居士も私も位置が低く其言が用ひられずして遂に大統を紹れたのである、折柄私は海外出張の命を受け、居士は止つて
 - 第15巻 p.189 -ページ画像 
幕府を補佐する事となつたが、其後の有様は居士も昔日の如く成り得なかつた、当時私は海外に居つて内地の事情を委く知る事が出来なかつた、兎角する中に世は王政復古となつた者ですから、武士気質に富んだ居士は一片の意気已むに已まれず、君公の謹慎恭順に拘らず其逆賊てふ寃名を解き度いばかりに彰義隊を起すに至つた者と推定します私の欧洲から帰朝したのは慶応四年即ち明治元年の冬十一月であつたが、其時は彰義隊の事柄も熄んだ後である、日本に帰つて親戚故旧等同志と居士の許を尋ねても影さへ見えない、当時居士は函館に榎本武揚子其他長井・杉平・大鳥・沢等の諸氏と盛に官軍に抗して戦争をして居つたのである、併し私が帰朝して大勢を察する所、到底其事の遂げらるべき者で無いことを知つたから大に悲嘆致しました、故郷を出る時共に袂をつらねて其死を共にせんとまで誓つた両人も、慶応四年の冬に至つて全く其所見を異にせざるを得ないかと嘆息するやうな場合となりました(未完)


〔参考〕中外商業新報 第九四七〇号 大正元年九月八日 渋沢男の演説(三)(DK150015k-0014)
第15巻 p.189-190 ページ画像

中外商業新報  第九四七〇号 大正元年九月八日
  渋沢男の演説(三)
    故渋沢喜作氏葬儀式場に於て
私が駿河に行つて他所ながら慶喜公を輔翼する事となつた際に居士は辛苦艱難残兵を集めて悪戦苦闘を続けられたが、時利あらず官軍に降服する事になり続いて陸軍糺問所に囹圄の人となつたのである、居る事三年其内私は官途に就かねばならぬ事になつて明治二年の冬大蔵省に出仕致しました、当時居士は囹圄の人でありましたが私の大蔵省在職中 聖世の余沢に由つて放免の身となり居士の身は私の宅に引取る事となつた、確か明治五年であると覚へて居ります、私は官に居つたから他方面に働くのは心苦しく思つたから居士にも同じく官途に就かん事を勧め、居士の好まないのを無理強ひに終に大蔵省へ出仕する事とした、之が明治五年であつたかと思ふ、元来農業養蚕或は実務に経験の多い居士の事であるから大蔵省に出仕するや多く其の方の事務に鞅掌された、明治五年の冬養蚕製糸及び日本の殖産興業を海外の夫れと比較研究する必要を唱へ終に海外派遣の命を受くるに至つた、十一月五日と覚へて居る、横浜に送つて送別をした事まで覚へて居ります其翌六年私は職に止まる事が出来ぬ境遇になつて居士の海外旅行の留守中に職を辞しました、此辞職は私一身に係つた事でなく当時の財政当局者と政治方面の当局者間に意見の衝突が出来たのであります、今の井上侯が大蔵省に居られて主張せられた説と太政官の意見とが一致しなかつた事に坐したのであります、居士が海外から帰られたのは明治六年の十月頃であつたと記憶して居る、当時は既に大蔵省の人も更つて居つたので、居士の気象として引続き官務に鞅掌する事を好まず七年の始め遂に官を去りました、故に政治の方面は二ツに分れるけれども一ツ橋に出て幕府に仕へ再び朝廷に出ると謂ふ此歳月は殆と十年許りであります、之が居士の経歴に於ける第二期と申しても宜い、此間居士は種々の方面に苦心された事は短い時間に拾ひ尽す事も出来ぬ程であります、其間には種々の事情もあり殊に居士の気質として所謂負けず魂の強い為め、随分此間に処して困難が多かつたらうと察せら
 - 第15巻 p.190 -ページ画像 
れます、明治七年に官を辞した居士は実業界に入られた恰度其頃から会社組織などを弗々起り始めましたけれども未だ今日の如き場合でなかつた、実業に経験はあるが文明的組織を以て経営する事となると、私も甚だ未熟であるし居士も亦左様であつたに違いない(未完)


〔参考〕中外商業新報 第九四七一号 大正元年九月九日 渋沢男の演説(四)(DK150015k-0015)
第15巻 p.190 ページ画像

中外商業新報 第九四七一号 大正元年九月九日
  渋沢男の演説(四)
    故渋沢喜作氏葬儀式場に於て
私は其頃如何なる事に従事して居たかと云ふに、明治六年官を辞するや、怎うしても日本の金融を整理し金融円満の道を付ねばならぬと考へたから第一銀行の経営に従事した、明治七年居士と種々協議の末是非重なる産物に力を入れて見たいと云ふ希望を抱き、現に今渋沢の店として経営されて居る横浜の生糸売込商及東京に於る米穀委托販売商の二つに力を入れ拮据経営されることとなつた、爾来その商売には幾多の蹉跌が生じ度々倒れかゝつた事もあるが、併し刻苦経営の結果独り居士の店が盛んになつた許りで無く、東京と横浜に事業の発展を見得た功は決して没却することが出来ませぬ、居士の米穀商に携はつた当時一方に米商会社と云ふものがあつた、併し人口の繁殖は驚くばかりで常食たる米の需要甚しい都会で、只一つの投機業者に米商を委するの不可なるを看破した居士は、是非実物売買を完全にせねばならぬとし其の方法に就き深く慮つた、又横浜の生糸商売は未来に如何になるか解らぬけれ共、兎に角今日斯る優勢を見得たのも偏に居士の相当なる方法と相当なる資力相俟つた結果で、之が為地方の実務者を誘導し或は翼賛し売買宜きを得て居ると云つて宜らう、居士も始は秤さしと称ふる方法で造つた儘を商館番頭に頼んで売込んだ者であるが、玆に一つ話して置きたいのは外国商館と日本の横浜に於る売込商店との間に大きな確執の出来た事です、夫れは明治十年《(四脱)》の事で主脳者と見做すべきは居士である、斯くなると所謂商売に応ずる才能よりも義理道理に走る感情の方が強い居士であるから、畢世の力を注いで此悪風を改革したいと思ひ込まれた、其事の起りを極く簡単に申しますと、糶呉服的の糸の売込でありますから、横浜の商館に対する売買を取引ものとして売込問屋の店があつて見本によつて売買を取極めることゝなつて居た、夫れ故に引込むときは商館は其売込問屋に集つてある荷物を商館に入れるのである、其引込をしても別に其荷物に対して預りを渡しもしないし、又品物に火災保険を附しても呉れず、而して之を改める期日といふものは定つた期日がない、一週間もあれば二週間もある、事に依ると一ケ月もある、故に悪い風評をしましたならば、先づ荷をきめて引込にして置きながら海外市場に電報を打つて景気がよいと可成余計にとる、景気が悪いと荷《(マヽ)》を出すと云ふ風に一寸とも定めがない、例へば一梱の内から仮に一貫三百目《(マヽ)》の荷物として八貫目保険《(マヽ)》を出しても何故出したとは云へぬし、九貫目取つて一貫三百目《(マヽ)》出しても何故出したとは云へない、殆ど商権が彼にありて我に無いと同じである、即ち約束が双務でない片務である、結局糶呉服で小僧さんが御神さんの気に入る様に三拝九拝して始て商売が成立つ方法である、之では貴重な日本の品物を海外に持つて行けない(未完)

 - 第15巻 p.191 -ページ画像 

〔参考〕中外商業新報 第九四七二号 大正元年九月一〇日 渋沢男の演説(五)(DK150015k-0016)
第15巻 p.191-192 ページ画像

中外商業新報  第九四七二号 大正元年九月一〇日
  渋沢男の演説 (五)
    故渋沢喜作氏葬儀式場に於て
斯る事情に際すると数十年前の攘夷気骨が現れて来る、私も大に賛同して共に共に昔の攘夷家とならうと思つた、併し商売であるから左様な過激な事は勿論致しません、只外国商館が成程道理であると認めて呉れる迄売買取引を暫く見合せた、尤も其間内地の糸屋に対しては金融の便宜を付けなければならぬ、玆に至ると私の本業たる銀行業で其用を足さねばならぬ訳になつて来た、そこで銀行家が申合せ金融の便を計り、丁度八月から始めて十一月に至る三ケ月間横浜の生糸は取引を杜絶した、今日の如く大規模の者でないから左まで大きな事とは申しませんが夫れでも海外貿易に於ては一重要事件としてよいのであります、結局怎う治まつたかと云ふに、其当時日本に在留された亜米利加の公使が其の事を慨嘆されて、英吉利一番のベルケン《(マヽ)》と云ふ人と亜米利加一番のオルタ《(マヽ)》と云ふ此両人を外国側から推薦し、日本側からは私と益田孝君が亜米加利公使の望みとあつて出かけ、此四人が亜米利加公使館に数回会合し、引込んだ荷物に対しては為替《(マヽ)》・火災保険は必ず付る、是非売買の取引は双方一致した処で場所を定めて取引したいと云ふ希望を日本側から出した、併し夫を実行するにも何分場所がない為、其場所が出来た上で仕様と云ふので所謂双方折衷の調停談が成立したと記憶して居ります、此事柄は其発端から終局に至る迄居士が最も力を尽され漸く斯る結尾を見得たと申して宜い、数へ来ると幼少からして少からぬ才能を持て其極農民に安ずる事が出来なかつた事は其人の仕合であつたか其人の禍であつたか、夫は最う世間の公論に任す外ありません、之を要するに家にあつては孝悌の子、国にありては忠義の士、聖世の良民たるを失はん様に思ひます、但し居士には如何なる性質が長して居たかと云ふに、或は実業界の人たるよりも他方面に力を展ばされた方が寧しろ得策であつたかとも思へます、否な実業上に力がないとは申さんが夫れよりも以上他方面に才があつたかも知れん、今日の如き聖世であるから時非なりとは決して申されませんが秀徳院節誉崇義喜作大居士《(マヽ)》にとりて其境遇が利益な場合であつたとは申されません、若し誠に居士をして或る場合に軍務に従事し或る場合に政事に従事せしめたならば、更に大に為す処があつたかも知れません、之は只私が交を厚くし情を同ふする所から自ら信ずる処を述べて居士を慰めたいと思ふのであります、併し居士は現世に我が望を発揮したと云へなくても、生糸に米穀に孜々として其事業を経営し、其家名を落さなかつた所に居士本来の長所が発揮せられてあると云へませう、之を思へば居士亦以て瞑し得らるゝであらうと思ひます、七十年に近き居士と私との間柄を玆に弔辞として述べ来りますと感慨胸に溢れて言ふべき辞もありません、私は玆に甚だ蕪詩でございますが一絶を得ましたからは霊前に手向けて衷情を捧げたいので御座います(完)
  ○渋沢喜作ハ大正元年八月三日歿、享年七十五才。霊前ニ手向ケラレタル栄一ノ詩ハ左ノ如シ。
 - 第15巻 p.192 -ページ画像 
      哭蘆陰兄              青淵 渋沢栄一
   従此与誰談旧思 人間無復認雄姿 潸然今日炷香処 却憶高歌弾鋏時


〔参考〕竜門雑誌 第三四六号・第一四―二一頁 大正六年三月 ○実験論語処世談(廿二)青淵先生(DK150015k-0017)
第15巻 p.192-197 ページ画像

竜門雑誌  第三四六号・第一四―二一頁 大正六年三月
  ○実験論語処世談(廿二)青淵先生
    △渋沢喜作と私との関係
 渋沢喜作は、私の親類の者であつたから、同人と私との関係等に就き、私より申述ぶるのは、甚だ憚る処である。然し、強ひてとの事ならば談話致しもするが喜作と私との関係は、車馬衣軽裘を共にし之を敝つて憾無し以上の間柄で、喜作の為には私も、数回に亘つて随分甚い迷惑を懸けられて居る。それでも同人の相続人になつて居る横浜(キ)商店の当主渋沢義一と私との間が、今日全く実の父子の如くであつて私は義一を子の如く思ひ、義一も亦私を実の父の如くに思ひ、無上の親密を維持して居られるのは、及ばずながら私に、車馬衣軽裘之を朋友と共にすれば、仮令敝《(斃)》れても憾無しとの志があつたからの致す処であらうと思ふのである。
 喜作の父と私の父とは全く実の兄弟であつたのだから、私と喜作とは従兄弟の親族関係になるのだが、喜作は私よりも二歳の年長者であつた。何事にも私と喜作とは、幼年の頃より二人揃つて行つて来たもので、漢学も尾高惇忠先生に就て一緒に稽古し、居村の世話も二人で一緒になつて行つたものである。何か居村に事件が起つても、渋沢の二人が出て来れば話が纏まる、とさへ謂はれて居つたものであつたが漢学の造詣は多少私の方が喜作よりも深かつた。又性質の上から謂つても、大に其傾向を異にしたところがあつて、私は何事にも一歩々々着々進んで行かうとする方であるに反し、喜作は一足飛びに志を達しやうとする投機的気分があつた上に、猶ほ他人を凌がうとする気象もあつたので、まさか私に対しては爾んな事もし得なかつたが、往々私なんかをさへ凌ぎかねまじき風を示したものである。二人は幼少より何事も一緒に揃つて行つて来たに拘らず、これが私と喜作との著しい相違点であつたのである。
 さて、喜作と私とは共に埼玉県血洗島の居村に於て、尾高先生を師と仰ぎ、其子弟となつて漢学を勉強して居るうちに世の中が段々と騒しくなつて参り、幕末の時勢と相成つたので、私が廿四歳喜作が廿六歳の時に、二人とも尊王倒幕攘夷の志を起し、相携へて郷関を出で江戸に参るやうになつた次第は、既に是れまで談話したうちに申述べて置いた通りである。
    △喜作幕府の祐筆となる
 江戸に出てから幕府の詮議が厳しくなつて来たので京都へ参るやうになつた時も私と喜作とは素より一緒で、一橋家に仕へるやうになつた時も二人は猶且一緒であつた、そのうちに慶喜公が第十五代の征夷大将軍になられたところで慶応三年正月十一日私は水戸の民部公子の扈従を致して仏蘭西へ洋行する事になり幕府の臣とならずに済んでしまつたのであるが、跡に残つた喜作は慶喜公に御附き申して一橋家より幕府に入り幕府に仕へて奥祐筆を勤めるまでに出世したのである。
 - 第15巻 p.193 -ページ画像 
 当時祐筆には役向きが二つあつて、一を表祐筆といひ、一を奥祐筆といつたものだが、表祐筆は昨今で申せば、内閣書記官長の如きもので、奥祐筆は文事秘書官長と法制局長官とを兼ねたやうな要職に相当し、幕府の老中に対しては却々侮り難き勢力あり、老中たちよりは頗る煙がられたものである。斯くの如き次第で、喜作は慶喜公に重用せられ、大に出世したのであるが、其うち慶応三年の暮と相成、慶喜公は大政を奉還せられ、王政復古の御一新と共に、伏見鳥羽の戦争が起つたので、喜作は幕軍に与みし、軍目付の役で伏見鳥羽の方面へ出陣したのである。
 ところが、伏見鳥羽で幕軍が官軍を相手に盛んに戦つてる間に、それまで大阪城に在らせられた慶喜公におかせられては忽然として大阪港より軍艦で江戸に脱け出られ、謹慎の意を表せらるゝ事になつたので、伏見鳥羽で戦つて居つた幕軍の連中は、しばし呆気に取られて開いた口が塞がらず、何んとも仕様が無くなつたのであるが、喜作に於ては当時、慶喜公の御真意のあるところが解らず、猶且生命が惜しくなつて公は大阪から江戸へ逃げたものとばかり思ひ込んだと見え、伏見鳥羽の戦場より窃に直ぐ江戸へ出て、同志を糾合して官軍に抗する計劃を起したのである。之には勿論喜作の性分たる投機的気分も大分手伝つたのである。
    △喜作彰義隊を組織す
 この時に、喜作と共に斯の計劃に参与したものが私及び喜作に取つては漢学の師匠にあたる尾高惇忠で、尾高先生が参謀総長の格で、東叡山座主輪王寺宮を擁し、上野に立て籠り官軍と干戈を交ゆる事になつたのであるが、彼の有名なる彰義隊は、全く喜作が発頭人となつて組織したもので「彰義隊」なる隊名は、尾高先生が命名せられたのである。ところが、前条にも一寸申述べた如く、喜作には他人を凌がうとする気質があつたものだから、喜作は隊長であつても兎角副長の天野八郎以下と合はず、加ふるに幕府譜代の臣であるといふのでも無く慶喜公に随従して幕府に入り初めて幕臣になつたものであるなぞの関係もあつて、譜代出身側の隊員との折合を失ひ、遂に喜作は彰義隊より脱退し、新に一隊を組織することになつたのである。
 喜作が彰義隊を退いた時には、尾高惇忠も亦一緒に退き、これも尾高先生の命名した名だらうと思ふが、新に喜作の組織した隊は「振武軍」と称せられ、武州西多摩郡田無に集合して、其処で旗揚をしたのである。当時、振武軍は世間から彰義隊の別働隊なるかの如くに目せられて居つたが、実は彰義隊中の旧幕臣側の分子と相容れなかつた連中が、別れて新に組織した全然別個独立の一隊であつた。振武軍は、田無で旗揚をしてから漸次秩父方面に進軍し、同所に立て籠り最後まで官軍に抗して之を悩ましてやらうとの計劃を立てたが、進軍の途中を偶々官軍たる芸州藩の兵に阻まれ、埼玉県飯能に於て官軍と戦ふ事になつたのである。素より衆寡敵し難く、加ふるに烏合の兵であつたから、一戦忽ち振武軍の敗北と相成つたので、隊員はチリヂリバラバラに潰乱してしまひ、尾高惇忠は其儘郷里の血洗島に帰られたが、喜作のみは逃れて私に又再び江戸に出て、榎本武揚の軍に投じて幕府の
 - 第15巻 p.194 -ページ画像 
軍艦回陽丸に乗じ、函館に赴き五稜廓に立て籠ることになつたのである。
    △喜作陸軍檻倉に入る
明治四十一年十月二十六日七十三才で歿くなられた子爵の榎本武揚さんは、生つ粋の江戸つ子で、幕府の勘定役榎本園兵衛といふ方の次男で、初めお茶の水の聖堂に学び、それから嘉永六年長崎に遊学して和蘭人に就き蒸汽機関に関する学問やら航海術などを学んで、後暫く幕府の海軍操練所教授を勤められ、和蘭に留学して更に海軍に関する研究を続けて居られるうち、偶々丁墺戦争の起るに会して其戦況を視察し、慶応二年帰朝せられて軍艦乗組頭取、唯今で申す艦長に任ぜられ、次で海軍奉行に昇進し、大に新知識を発揮して居られた処へ、慶応三年大政奉還といふ事になるや、奥羽諸藩の士は之に反抗し、榎本さんは軍艦の操縦も能きるからといふので、之を大将に推し立て、幕府の軍艦回陽丸に乗組み函館へ脱走することになつたのである。当時榎本さんは北海道を日本本島から分離して一独立国を建立し、之を共和政治で治めてゆかうとの考を持つて居られたとの事である。渋沢喜作は、この一隊に加はつて回陽丸に乗込み、函館五稜廓に立て籠ることになつたのであるが、同志のうちには沢太郎左衛門なぞいふ名士もあつたのである。
 榎本さんの軍は、函館五稜廓に立て籠つてるうちに、一二度官軍と小さな戦もしたやうであるが、征討総督の参謀黒田清隆さんから、利害を説いて降伏を勧告したので、榎本さんも其気になつて勧告に応じ降伏する事となり、喜作は榎本さんと共に官軍に降伏し、その結果、三年間陸軍の檻倉に入牢申付けられ、囹圄の人となつたのである。然し、明治四年に至り赦されて愈よ出獄の事になるや、親類の者が誰か受取の為に来いといふので、私は其の時既に仏蘭西より帰朝し大蔵省に出仕して居つたものだから、私が喜作の親類として同人を受取に出頭し、伴れて帰つたのである。
    △喜作洋行して小野組に入る
 喜作が赦免になつてから、さて何うしたら可いものかと種々勘考の末、結局、私より同人の力量人物等の詳細を井上さんに談つて推薦し井上さんも、そんなら使うといふ事で大蔵省の勧業課に採用し、奏任待遇で勧業事務を取扱はせることにしたのである。然し、陸軍の檻倉から出て来て見れば、私は当時既に大蔵省の少輔格であつたものだから、喜作は私よりも二歳の年長であるのに、私の下風に就かねばならなかつたので、多少不快でもあつたらうが、一旦朝敵になつて降伏した上に陸軍の檻倉にまで入れられたのだから、之れも止むを得ない事である。さればとて、喜作は私に対して敢て反抗したといふわけでも無かつたが、元来が少し他を凌がうとする性分の男であつたから、甚だ不平らしく見受けられた。
 依て私は、兎に角一度洋行して来るが可からうと勧め、又当人に於ても、未だ一度も行つた事が無いから是非爾うして欲しいものだとの希望があつたところより、翌る明治五年蚕糸業取調べの名目で、伊太利へ留学仰付けられる事になつたのである。然し、蚕糸業取調は単に
 - 第15巻 p.195 -ページ画像 
名目だけのことで、実際は欧洲の状況を視察するにあつたのだが、明治六年に帰朝して見れば、私は既に大蔵省を辞して民間に下り、又井上さんも辞職してしまはれたので、栄一も井上さんも居らぬ知己の乏しい官界にあつたからとて、別に面白くも無い故、自分も官途を退きたいとの事であつた。之れには私も同感であつたから、喜作は帰朝早早官を辞することになつたのであるが、私には当時既に銀行業に従事しやうとの意志があつたので、喜作と私と同じ事を行るでもなからうと、私より喜作を小野組糸店の総管古川市兵衛[古河市兵衛]の参謀に推薦したのである。然し不幸にも翌七年に至り、小野組は破産して倒れたので、喜作も小野組を去らねばならぬやうになつた。
 今度は、独立で何か商売も営んで見たいといふのが、喜作の希望であつたので『そんなら、蚕糸と米とを営んで見るが可い。私も及ばずながら力を添へやう』と私は喜作に勧めたのである。私は、米は最も広い商売で、日本中一人として米を食はぬものなく、米商売ならば発展しさへすれば、いくらでも大きくなれるものだと考へ、又蚕糸は国内のみならず将来大に外国よりの需要もあるものと思ふたから、斯く喜作に勧めたのであるが、喜作も私の言を容れて、米と蚕糸とを商売に致すことになつたのである。目下横浜にある(キ)糸店の濫觴は実に玆にあるのである。
    △喜作相場で再失敗す
 ところで、米と蚕糸とを商売にして居る間に、元来投機心の旺んな男であるから、喜作は遂に米相場に手を出して大失敗を招き、明治十四年に至り十数万円の大損失を招いたのである。その際私は、喜作が致した借金の保証人にもなつて居つたものであるから、私が、引受けて、その損失を弁済整理してやつたのであるが以後喜作に於ては、米相場に小切手を出さずに米は現物の委托販売のみとし、専ら生糸のみを取扱ふ事を条件としたのである。
 整理をしてやつてから、三四年は神妙に穏しく慎んで居りもしたが持つて生れた投機心は却々に止まぬものと見え、明治十八年頃より、喜作は弗相場といふものに手を出したのである。当時株式会社といふものが殆んど無く取扱ふに足る丈けの株券も無かつたものだから、今日のやうに株の相場といふものが建たなかつた代り、明治十年の西南戦争で政府が紙幣の乱発を行つて以来、貨幣と紙幣との間に価格の差を生じ、その差に変動があり、又金銀貨の間に比価の変動もあつたりしたので、銀塊の相場が行はれたのであるが、之を称して弗相場と謂つたものである。
 元来相場なるものは、実物を売買するので無く、景気を売買するのであるから、その道具に使はれるものは、米と株とに限つたもので無い。品物は何んでも可いのである。依て株券の無い明治廿年頃には、銀の如き価格に変動を生じ易いものが道具に使はれて、弗相場なるものが行はれたのである。私は、相場を一切行らぬと決心して来たから今日まで相場で拾円の金を儲けたことも無いが、又損した事も無い。然し、行りはじめると却々面白いものださうで、容易に廃められぬとの事である。喜作が矢張り廃められなかつたものと見え、米相場で既
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に多大の失敗を招き、随分他人にも迷惑を懸け居るに拘らず又懲り性もよ《(な)》く弗相場をはじめたのであるが、今度の失敗は米相場で失敗した時の如く生優しいもので無く、銀行に懸けた損害ばかりでも五十万円その他にも猶ほ二十万円ばかりの借金があつたから、合計七十万円といふ大損失であつたのである。それが恰度、明治二十年の歳である。
    △十二年間一万円づゝ出金
 喜作が明治二十年の弗相場失敗で、七十万円の損失を招いた際に銀行から借りて居つた金に対して私は、別に保証人になつたのでも何んでも無い。第一銀行の横浜支店長を致して居つたものに手抜かりな不注意があつた為めで、銀が外国商館に搬入されて預けられてあるものとのみ思ひ込み、之を抵当にして貸付けたところが、一旦破綻が曝露されて見ると、外国商館には銀が預けられて居つたのでも何んでも無く、銀は既に喜作の手を離れてしまつて居たので、貸付けた丈けが銀行の損害になつたのである。私としては、其際保証人になつて居つたのでも何んでも無いから、其儘にして済ませば済まされぬでも無く、又銀行の方でも、此際喜作を潰しても可いから、取れる丈け取つて埒を明けようなぞとの意見も無いでは無かつたが、私と喜作とは幼少の頃より生死を共にして来た間柄でもあり、ムザムザ喜作の商売まで潰してしまうのも惜しい事だと私は思つたので、玆に子路の所謂『車馬衣軽裘朋友と共に之を敝りて憾み無し』の気になつて、喜作が若し隠居して店を長男の作太郎に譲り、一切家業に関係せぬといふ事ならば私に於て、喜作の失敗した跡を引受け整理してやらうと申したのである。喜作も悦んで之に同意し、自分は隠居して店を譲り、家業には一切口出しも手出しも致さぬによつて、是非整理を私に依頼したいとのことであつたので、私は二十年計劃で、七十万円の借金を返済する案を立て私より毎年一万円づゝ自分の金を持ち出し、之に糸店より年々揚る利益金の内より二万円なり三万円なりを加へて返済する事にしたのであるが、幸に喜作の隠居した跡を引継いだ長男の作太郎は、全く父と異つた性質で、店を引受けた当時は漸く三十五歳であつたが、投機心も無く、至極実着で其上相応に才もあつたものだから、家業は日増しに繁昌し、二十年計劃ではじめたものが二十年を要せず僅に十二年で七十万円の借金を総て皆済してしまつたのである。依て、私は十二年間に十二万円を喜作の跡仕末を致す為に出金したことになるのであるが、これで結局、誰方様にも御迷惑を懸けずに済んだのである。
    △結局私にも利益となる
 然し、惜しい事に作太郎は、数年前に歿してしまつたので其跡を喜作の次男義一が継いで、横浜の(キ)糸店を経営して居るのであるが、義一も亦、喜作と異り投機心等は毫も無く、至つて着実真摯で又才もあるから、作太郎の歿したにも拘らず、糸店は頗る能く繁昌して居るのである。喜作も再昨年遂に歿落《(マヽ)》してしまひ、隠居してからも自分単独で色々やつて二三度失敗し、それで又私に迷惑を懸けたりなぞした事もあるが、その都度大した事でも無かつたから、私が相変らず世話をして片付けてやり、晩年は自分の隠居してから跡の糸店が総て旨く行つてるのを見て、大層悦んで居られ、何の心配も無くなつて歿せられ
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たのである。私と今の当主義一との関係は全然父子の如くになつて、至極親密なる次第は、既に前条に申述べた通りである。
 私が、喜作の招いだ七十万円の借金を片付ける為に、論語にある子路の意気を以て、毎年一万円づゝ十二年間で、合計十二万円だけ自分の金を出した際には、全く棄てる積であつたが、今日に相成つて見れば、それが不思議に廻り廻て私の利益になつて居る。当主の義一が店主になる際、私が喜作の弗相場失敗跡片付の為に出金した斯の十二万円を今俄に纏めて御返ししやうとしても、それは兎ても出来ぬことであるから、(キ)の財産やら暖簾やらは、幾干ぐらゐになるものか、そこの処は判明せぬが、兎に角、十二万円に対する代償として(キ)の店の株を二分して其の一半だけを差上げることに致したいから受取つて呉れとの事で、私も之を承諾し、(キ)の糸店を渋沢義一と私との共同経営に成る匿名組合とし、私は(キ)の店の株を半分持つことになつたので、損をする時には其の損を半分受持たねばならぬ代り、利益があれば純益の半分が私に入るやうになつて居るのである。
 再昨年欧洲戦争の起つた際には、生糸の売行が悪くなり、一時糸の値段も非常に下つたので、地方の製糸家に卸して置いた資金が毫も回収せられて来ぬ為に、数十万円の貸越となり、或は明治二十年に弗相場で失敗した際の如き大損害を蒙るのでは無からうかと、心配もしたが、一昨年来糸価が非常に昇騰し、地方の製糸家は孰れも大きな利益を見るやうになつたので、貸越しになつて居つた製糸資金を悉く回収し得た上に、なほ(キ)の店は若干の利益をさへ揚げ得るやうになつたので、義一も私も共に悦んで居る次第である。



〔参考〕竜門雑誌 第四七五号・第九八―九九頁 昭和三年四月 生糸経済座談(DK150015k-0018)
第15巻 p.197-198 ページ画像

竜門雑誌  第四七五号・第九八―九九頁 昭和三年四月
    生糸経済座談
 ○上略
 今横浜で(喜)と申して、渋沢義一さんの経営した生糸問屋がありますが、義一さんの父喜作さん、これは私○栄一より二つ年上で、二人が一緒に百姓をやめて国事奔走のために世の中に馳け出した。それは迚も出来さうにないので私達は一ツ橋の家来になつたのでありますが、それからいろいろ変化して私はヨーロツパに行く、帰つて来ると大蔵省に出るやうになり、喜作さんは函館に行つて賊軍に入つて力を入れて居つたが、到々榎本などと一緒に降参して三年ばかり牢に入つてゐましたが、明治四年か五年に引出されて私に引渡されたので、こゝに初めて明るい体になつて大蔵省の役人となり、その翌年ヨーロツパへやつて貰つた。丁度その翌年私は辞した。その時帰つて来たが喜作さんは仕事がないので、私とは死生を共にした間柄であり、私が銀行屋になつてゐたので、銀行から金を貸さうからお前は生糸の荷為替の取扱をするやうにして、生糸の輸出に対する内地から横浜に出る一つの取扱ひを商売とし、そればかりでは困るから冬は米と二つの商売をやつたらよからう。金は私の方で考へるからどうかといふので、利益を一緒にするのではなく別にして取引をやらうといふ事になつて、第一銀行から私が金融して始めたものでやり損ひもあつたりしたが、到々悴
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の作太郎さんが暫くやつて、今では義一さんが問屋を専心やつて居ります。今ではどうやら相当な店になりおはせたのであります。私と喜作さんは従兄であります。
○下略
  ○右記事ハ「生糸経済研究パンフレツト」ヨリ転載セラレタルモノナリ。


〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第一七七―一七九頁 昭和三年一〇月 青淵先生と生糸売込及廻米問屋(渋沢義一)(DK150015k-0019)
第15巻 p.198-199 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第一七七―一七九頁 昭和三年一〇月
    青淵先生と生糸売込及廻米問屋(渋沢義一)
 私は現在横浜に於て、生糸売込問屋を営んで居ります。尚ほ震災前には東京の深川で、廻米問屋もやつて居りました。此二つの問屋は私の父喜作が開いて、其後を私の兄の作太郎が継ぎ、作太郎が明治四十三年に歿するに及んで、私が引承けて現在に至つた次第であります。而も父喜作は此二問屋を開く糸口を青淵先生に受けたのであります。当時父が如何にして青淵先生から教を乞ふたか、其仔細に就ては、未だ生れて居なかつた私の知る所ではありませんが、青淵先生や父から伝へ聞いた私の記憶を申せば、斯うであります。青淵先生と父とは郷里を同じふし、一度は同じく国を憂ふるの志士となり、転じて徳川幕府の人となり、次で明治新政府の役人となる等、影の形に添ふ如く其経路を一にし非常に親密なる御交誼を受けて居つた関係上、青淵先生が役人をお罷めになり野に下り第一銀行を経営さるゝに到つた後、父も役人を罷め一旦小野組に入り、此小野組が破産した為め、今度は自分で何か商売をやつて見る気となつて青淵先生の御考を敲いたものであります。此時先生は日本産業の将来と云ふ広い見地から必要にして且つ大きい仕事として、生糸と米を父にお薦め下さつたと聞いて居ります。此青淵先生の御意見に拠つて父は明治九年に米の店を、同十三年に生糸問屋を開業した次第であります。指南車の示す処は確実であります。爾来国運の伸張、産業の進展は米の店にも生糸問屋にも反映して逐年繁昌を加へて参りました。但し米に在つては、近来交通機関の顕著なる発達の為めに、其取引関係に変遷を生じたのであります。蓋し交通機関の完備は、生産地と消費地の距離を非常に短縮し、東京に於て従前程大取引を行ふ大問屋の必要を、大いに減じたのであります。勿論東京の人口激増に応じて、米の需給が繁忙を加へた事は明かであります。此点に於て青淵先生の予言の価値を、損ずるものでない事を確信致します。斯くて深川の廻米問屋は、明治四十年前後を全盛として、其後は往年の取引高を維持すると云つた塩梅でありましたが大正年間に入つて取引漸減の兆を示しましたので、大震災を機として中止した訳であります。一方生糸即ち蚕糸業に於ては、青淵先生の因縁浅からぬものがあります。明治初年先生が大蔵省に出仕なさつて、日本産業の発展奨励の為めにお竭しになりました際、蚕糸業に著眼し種々画策なさつたと聞いて居ります。在来の座繰りを改良して欧羅巴の機械製糸の方法を輸入し、上州の富岡に政府の手で機械製糸場が出来たのも、青淵先生の御尽力に依るものであります。現在輸出貿易高の半分は、生糸及絹織物が占めて居ると云ふ事は、先生の先覚者的御考を証明するものであります。先生は斯る理由から、父に生糸問屋の
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業をお薦めになつた事と思ひますが、此生糸業こそは小にしては私一家を支へ、大にしては日本産業に大いに寄与したものでありませう。唯遺憾な事にも、青淵先生が斯る深いお考を以てお薦になつた此大きい仕事に従事し乍ら、私の店が現在の如く小さいものに過ぎないで、先生の理想と遠ざかつて居るだらうと云ふ事は、それは父兄及び私の微力の致す所だと慚愧に堪へぬ次第であります。父が此店を開いてから、最早五十有余年になります。此間非常に御迷惑を御掛けしたこともあり、又御心配を煩はしたこともありますが、常に御親切なる御助力を下さいまして、今も先生は非常に御忙しい身であるにも不拘、直接関係のない此渋沢商店の仕事に就ても、前述の関係からでせう深き御同情と深き趣味とを持たれて、熱心にお聴き下され、篤い御指導を受けて居る事は常に深く感謝して居る次第であります。
  ○右ニ米店ヲ開キシヲ九年トシ、生糸問屋ヲ十三年トナセドモ、他ノ資料ニヨリ姑ク渋沢商店ノ創始ヲ七年トセリ。



〔参考〕東京日日新聞 第三〇〇〇号 明治一四年一二月一〇日 ○横浜渋沢商店十二月八日報(DK150015k-0020)
第15巻 p.199 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕東京日日新聞 第三〇〇三号 明治一四年一二月一四日 ○横浜渋沢商店報(DK150015k-0021)
第15巻 p.199-200 ページ画像

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〔参考〕東京日日新聞 第三〇〇八号 明治一四年一二月二〇日 ○横浜渋沢商店十二月十七日報(DK150015k-0022)
第15巻 p.200-201 ページ画像

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