デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
29節 其他
8款 製藍会社
■綱文

第15巻 p.316-322(DK150024k) ページ画像

明治21年3月26日(1888年)

是日栄一、渋沢喜作ト連署シテ製藍会社ノ創立ヲ東京府知事ニ出願シ、同月二十九日認可セラル。


■資料

願伺届録 会社明治二一年(DK150024k-0001)
第15巻 p.316-318 ページ画像

願伺届録 会社明治二一年         (東京府庁所蔵)
    製藍会社創立願
今般拙者共協議之上日本藍製造之改良ヲ図ルカ為メニ小笠原嶋産藍之増殖ヲ其第一着手トシ、併セテ其製藍ヲ販売スルノ目的ヲ以テ一会社ヲ設立シ、仮事務所ヲ東京京橋区富嶋町四番地ニ置キ、別冊定款ニ拠リテ営業仕度候間御認可被成下度候、依テ別冊定款相添此段奉願候也
  明治二十一年三月廿六日
                株主惣代
                府下深川区福住町四番地
                    渋沢栄一
                同深川区万年町壱丁目五番地
                    渋沢喜作(印)
    東京府知事 男爵 高崎五六殿
 前書出願ニ付奥印候也
          東京府深川区長 子爵 堀田正養
(別冊)
    製藍会社定款
製藍会社ヲ創立スルニ付其株主ノ衆議ヲ以テ決定スル所ノ定款左ノ如シ
    第一章 総則
第一条 当会社ノ名号ハ製藍会社ト称シ、東京府 区町 番地ニ本社ヲ設置スヘシ
 (付箋)[会社位置ノ儀確定ノ上御届申上候也
第二条 当会社ノ営業年限ハ明治廿一年三月一日ヨリ起リ満三十年トス
  但株主総会ノ決議ニ因レハ此年限ヲ延期シテ之ヲ請願スルヲ得ベシ
第三条 当会社ハ有限責任トシ、負債弁償ノ為メニ株主ノ負担スベキ義務ハ株金ニ止ルモノトス
第四条 当会社ハ日本藍製造ノ改良ヲ図ルカ為メニ小笠原嶋産藍ノ蕃殖ヲ其第一着手トナシ、併セテ其製藍ノ販売ニ従事スルモノナリ
第五条 当会社ノ業務ハ此定款ヲ以テ之レヲ委員ニ委任シ処弁スベキモノトス
    第二章 資本金之事
第六条 当会社ノ資本金ハ拾万円ト定メ一株ヲ百円ト為シ総計壱千株
 - 第15巻 p.317 -ページ画像 
ヲ内国有志者ヨリ募集スベシ
  但営業ノ都合ヲ以テ株主ノ衆議ニ因レハ此株高ヲ増減スルヲ得ヘシ
第七条 比株金ハ約二十四ケ月間ニ募集スヘキモノトシ、毎時三十日前委員ノ指定スル期限ニ於テ各引受高ニ応シ入金スベシ○第八条第九条略ス
    第三章 委員之事
第十条 当会社株主ノ投票ヲ以テ三十株以上ヲ所有スル株主中ヨリ五名ヲ撰挙シ当会社ノ委員ト為スベシ
第十一条 委員ハ其互撰ヲ以テ委員長一名ヲ撰定スベシ
第十二条 委員ハ少クモ毎月二回当会社ニ於テ会議ヲ開キ、其議長ハ委員長之ニ任シ、会社一切ノ事務ヲ整理スベシ○第一三条ヨリ第一八条マテ略ス
第十九条 委員ノ任期ハ満二ケ年トシ、毎三ケ年ニ株主総会ノ投票ヲ以テ二名宛ヲ順次更代セシムヘキモノトス、但再撰挙ヲ得タル者ハ重任スルヲ得ベシ○第二〇条ヨリ第六二条マデ略ス
右十一章六十二条ハ当会社株主ノ衆議ヲ以テ決定シタルニ付一同玆ニ姓名ヲ自記シ調印致候也
  明治二十一年三月
                  東京 渋沢栄一
                  東京 藤本文策(印)
                  東京 渋沢喜作(印)
                  徳島 天羽与三平(印)
                  東京 前川兼助(印)
                  東京 村上市右衛門(印)
                  徳島 堀江覚三(印)
                  大阪 藤田友三郎(印)
                  大阪 門田三郎兵衛(印)
                      代山田安之助(印)
                  東京 益田孝
                  東京 大倉喜八郎(印)
                  東京 今川粛(印)
                  徳島 宮本銀二郎(印)
                  東京 小泉泰五郎(印)
                  東京 堀江小十郎(印)
                  大阪 鈴木定七(印)
                  徳島 仁木栄次郎(印)
                  徳島 内山形郎(印)
                  東京 新井平吉(印)
                  東京 竹内万次郎(印)
明治廿一年三月廿六日受三月廿七日出
 知事   農商課長(印)
    製藍会社創立願
               株主総代 渋沢栄一
               同    同 喜作
 - 第15巻 p.318 -ページ画像 
      指令案
書面会社設立ノ儀ハ追テ一般ノ会社条例制定相成候迄人民ノ相対ニ任セ候条、其旨可相心得事
  但定款第五十四条会社及委員長支配人ノ印章ハ管轄庁ニ具申スルニ不及、又第五十六条官庁ニ対スル諸願伺届、営業上ノ証書・約定書ニハ必ス役員ノ名ヲ署シ実印ヲ押捺スヘキ儀ト心得ベシ
   年 月 日       知事


青淵先生六十史 (竜門社編) 第二巻・第一九九―二〇四頁明治三三年二月刊(DK150024k-0002)
第15巻 p.318-320 ページ画像

青淵先生六十史 (竜門社編) 第二巻・第一九九―二〇四頁明治三三年二月刊
 ○第四十章 製藍及「インジゴ」輸入業
    製藍会社
製藍会社ノ起源ヲ按スルニ五代友厚ノ朝陽館失敗スルヤ、竹内万二郎ト云ヘルモノ其遺法ヲ伝ヘ業ヲ東京浅草ニ開始ス、小笠原島山藍ノ最モ製藍ニ適スルヲ考ヘ同島ノ開墾ニ着手ス、然レトモ中道ニシテ失敗ス、竹内ノ書記ニ今川粛ト云ヘルモノアリ、小笠原島藍作ノ将来見込ニ付詳細ニ調査シ其復興ヲ先生及惇忠等ニ計ル、先生依テ同志ト協議シ製藍会社ヲ設立ス
製藍会社ノ資本ハ拾万円ニシテ営業年限ヲ三十箇年トシ明治二十一年三月二十九日東京府庁ハ設立ノ認可ヲ与ヘタリ、同社ノ目的ハ日本藍製造ノ改良ヲ図ルカ為メニ小笠原島産藍ノ蕃殖ヲ其第一着手トシ併セテ其製藍ヲ販売スルニアリ、明治二十年十一月今川粛カ小笠原島ヲ巡回シテ取調タル目論見書ノ要領左ノ如シ
小笠原群島中山藍裁植ニ適スルノ地ハ、父母両島・弟島・北ノ島・婿島・嫁島・媒島等トス、而シテ現在ノ裁植地ハ父母両島ニシテ、父島ニ五町七反歩母島ニ一反歩余アリ、今之レヲ拡張シテ盛大ニ蕃殖セントスルニハ先ツ父島ヨリ始ムルヲ以テ便宜トス、依テ此ニ父島丈ノ予算ヲ掲ク
此ノ父島ニ於テ開墾スヘキ面積ハ凡三百町歩ニシテ之レヲ開拓スルニ苗木ニ限リアルヲ以テ一時ニ開墾スル能ハス、故ニ愚考スルニ地形ニ拠リテ之レヲ六区ニ分劃シ、毎区平均五十町歩トシ第一区ヨリ漸次ニ開クヘシ、而シテ其仕様ハ最初ニ勇壮熱心ノ男子百名ヲ撰募シテ終始開拓ニ従事シ、諸島ニ跋渉シ、成業ノ後ハ永遠此ノ事業ニ随従シ、其開墾地世話役トシテ奨励監守ノ任ニ当ルコトヲ堅約シ、而シテ此ノ輩ニ限リ本事業組合ノ利益ヲ配当シ、又ハ開墾地ヲ分与スル等宜ク其労ニ酬ユルノ方法ヲ設クヘシ
如斯シテ此ノ開墾者ハ一箇月一人ニテ三百坪ヲ開墾スルモノトシ、即チ一区五十町歩ノ成墾期ヲ満五箇月ト定ムヘシ(此ノ割合ハ余カ実地ニ付島民ノ開墾ニ経験アル者ニ査シタル確実ナル割合ナリ)而シテ其開墾ヲ了リタル地ハ一町五反歩ニ付一人ノ割合ヲ以テ八丈島及ヒ内地ノ男女ヲ移シ、家屋食料ヲ給与シ培養製造ノ小作ニ従事セシム可シ
以上ノ外此ノ事業ヲ統轄スル為メ事務長一名掛員四名ヲ置キ、諸事ヲ管理セシムヘシ
サスレハ父島三百町歩開墾期限ハ三十箇月間ト予定スヘシ、今之レヲ六区ニ別ツヲ以テ計算上之レヲ六期ニ分チ、一期ヲ五箇月間トシ収支
 - 第15巻 p.319 -ページ画像 
計算ヲ立ルニ、父島三百町歩ノ開墾ニ要スル経費総額ハ金六万五千四百三拾七円五拾銭ニシテ、此ノ間ニ於テ青黛三十三万七千五百斤ヲ得ルノ予算ナリ、サスレハ青黛一斤ノ実価金拾九銭三厘八毛八八ト成ルナリ
又成業ノ後ハ既ニ移ス所ノ小作人二百四人ヲ使役シ一年間断ナク毎月六十町歩分ノ生葉二十七万貫、此ノ含水青黛二万七千貫即チ二万七千斤ヲ収穫スルノ割合ナリ、サスレハ一年十二箇月間此ノ三百町歩ノ藍畑ヨリ収穫スル生葉ハ総計三百二十四万貫、此ノ青黛三十二万四千斤ヲ得ルノ予算ナリトス、而シテ此ノ成墾地三百町歩ノ一年間諸掛費用ハ何程ナルヤト云フニ概ネ左ノ如シ
 一金弐万三千八百四拾四円也 総経費高
    内訳
  金四千八百九拾六円也   小作人二百四人一箇年食料
  金弐千四百四拾八円也   同上一箇年雑給
  金三千円也        諸器械農具修繕費
  金弐千四百円也      製造及小作人小屋修繕費
  金八千百円也       石灰三十二万四千貫目代但七百二十町歩分
  金三千円也        事務所給料雑費
サスレハ一年金弐万三千八百四拾四円ヲ費シテ青黛三十二万四千斤ヲ得ルモノナレハ、此ノ経費ヲ収穫高ニ割当スルニ青黛一斤ノ実価金七銭三厘五毛九三ナリ
如斯予算ナルカ故ニ此ノ山藍蕃殖ノ事業ハ須臾モ打捨置クヘカラス、然レトモ実際ニ於テハ天災又ハ地力ノ厚薄・風向・日射・乾湿ノ如何及ヒ四季降雨ノ多少等ニ拠リテ其収穫ノ割合此ノ予算ノ如クナラサルハ素ヨリ予期スル所ナリト雖モ、島中ヲ縦横ニ跋渉シ其地勢地質及ヒ樹木等ノ有様ヲ視ルニ、島勢ハ東西ニ短クシテ南北ニ長ク、其面積二千五百町歩余ナリト云(父島ヲ云フ以下同断)全島滅後火山ニシテ崖确丘岡相率イテ群ヲ為シ峻嶮各々差アリ、遂ニ堆載シテ数尺《(マヽ)》ノ高山ヲ為ス、其稍々著大ナル者ヲ三日月山・大根山・旭山・鐺山・振分山・棚挽山・初子山・夜明山・飯盛山・野牛山等トス、此ノ内最モ峻秀ナル高嶺ハ夜明山ニシテ、海面ヲ抽クコト実ニ一千三百尺ナリ、又川ノ稍々大ナルモノハ北袋沢ニ在ル八ツ瀬川トス。其幅員凡ソ十間余アリテ水深ク、之ニ亜クモノ南袋沢川トス、其幅員前者ノ半ニ過キス、此ノ他渓水滾流シテ小溝ヲ為スモノ少カラス、而シテ高岳ニ登リ一望スレハ地勢恰モ怒濤ノ参互錯激シテ出没定メナキカ如シ、故ニ将来開墾スヘキ地ハ斜面ナラサルハナク、而シテ其斜度ノ緩急一ナラス
地質ハ上層植物化土ヲ以テ堆包サルヽモ元来古期火山石灰ヲ以テ全島ヲ組成シタリ、又此ノ土ニ生育スル樹木ハ針葉樹ハ絶テ無クシテ全地濶葉樹ヲ以テ蓋ハレ「ヘコ」竜鱗木椶櫚《ジヤボク》「タコ」「ビンロー」ノ類殊ニ多ク中ニ就テ真正喬木ト称スヘキモノハ「シマグハ」「ヰチビ」「レツドアイロンウード」「ホイソンウード」「アレキサンドルウード」「ブラツキアイロンウード」「シートリマーナ」「マウテンハアヲ」「シーダア」センダントモ云フ「テーウード」「アツプルウード」ウドノキトモ云フ等ニシテ大小各々雑生シ、其他種々ノ喬灌木密生シテ殆ト寸地ヲ残サス(尤モ海
 - 第15巻 p.320 -ページ画像 
岸傍近ノ地ハ否ラス)数年間落葉腐木堆積シテ養土ニ化シ、満地ノ蘚苔ハ巧ミニ水湿ヲ涵養シ、加之ニ気候ハ一年間ノ極冷六十度ヲ降ラス極熱九十度内外ニシテ平均六十七八度ニ居ルコト多シト云フ
殊ニ又此ノ藍草ノ本土ニ裁植シテ利益多キハ、他ノ甘蔗・綿等ノ如ク風害・虫害・鹿害ノ憂ヒ更ニ無ク、其製造ニハ火力ヲ用ヒス、故ニ薪炭ヲ消耗スルノ恐レナク、又本草ハ殊ニ日光ヲ必要トスルモ甚タ水湿ヲ好ムカ故ニ、之レヲ開墾栽植スルニ当リテハ点々樹林ヲ存在シ予テ水湿ヲ給スル覚悟ナカル可ラス、故ニ此ノ山地開墾ハ学理ニ背戻シテ彼ノ全山ヲ裸禿トスル等ノ大害ヲ後来ニ遺スノ杞憂ナシ、然レトモ将来盛ニ裁植スルニ至ラハ地力ヲ消耗スルノ恐レアリ、宜シク今日ヨリ之レカ肥培ノ要ヲ講究セサル可ラス
○下略


中外物価新報 第一七九五号 明治二一年三月二八日 ○製藍会社の設立(DK150024k-0003)
第15巻 p.320 ページ画像

中外物価新報 第一七九五号 明治二一年三月二八日
○製藍会社の設立 今度府下の紳商渋沢・益田・大倉の三氏其外藍玉問屋諸氏が協同し資本金十万円を以て一の製藍会社と云ふを設立し、専ら小笠原島の山藍を裁培製造するの目的なる由、右に付京橋区霊岸島富島町四番地(旧東京電灯会社跡)へ創立事務所を置き、昨今其筋へ設立願書を差出す都合なりと聞く、尤も株金ハ創立発起人及当業者中にて悉皆受持ち他より株主を募らざる筈なる由



〔参考〕渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(明治未詳年)七月二五日(DK150024k-0004)
第15巻 p.320 ページ画像

渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(明治未詳年)七月二五日
                   (斎藤峰三郎氏所蔵)
○上略
別紙製藍会社評議書ハ小印返上仕候、今川へ御遣し可被下候、且明日ハ出勤いたし居候間、午後ニ来行候様御伝声可被下候
○中略
  七月廿五日               渋沢栄一
    斎藤様
   ○今川ハ今川粛ナリ。



〔参考〕渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(明治未詳年)三月一五日(DK150024k-0005)
第15巻 p.320 ページ画像

渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛(明治未詳年)三月一五日
                   (斎藤峰三郎氏所蔵)
別紙製藍会社之廻議書ハ御返付可被下候、海福より之来状ハ増田太郎氏へ御遣し可被下候、是ハ明後日浅野氏と相談之上何とか工夫可仕と存候
○中略
  三月十五日               渋沢栄一
    斎藤様
○下略



〔参考〕執事日記 明治二二年(DK150024k-0006)
第15巻 p.320-321 ページ画像

執事日記 明治二二年 (渋沢子爵家所蔵)
二月九日 雨
 - 第15巻 p.321 -ページ画像 
一君公○栄一ニハ十時三十分ヨリ製藍会社集会ニ付同社ヘ被為入、夫ヨリ他ヘ御回リノ事
   ○中略。
七月二十六日 晴
一君公ニハ午后一時製藍会社委員会ニ付同社ヘ被為入候事



〔参考〕中外商業新報 第二七二五号 明治二四年四月二二日 ○山藍製の藍靛(DK150024k-0007)
第15巻 p.321 ページ画像

中外商業新報 第二七二五号 明治二四年四月二二日
○山藍製の藍靛 近来印度藍の需用大に増加するに至りしより我邦製産の藍玉は著しく其需用を減殺せられ、竟に我製藍事業の本場とも称すべき阿波地方に於ては意外の影響を被り、漸々衰退の悲境に陥落せんとする傾向あるより、其地方庁に於ても大に之を憂慮し其救済策に就て種々計画する処ありとは屡々耳にする処なるが、原来我製藍の質は外品に比して優るあるも劣ることなけれど、其製造法を一変し価格も亦印度藍と匹適する程に安く仕揚ざれば、到底其勝を制する能はざるべし、現に印度藍は其使用法最も簡便なるのみならず運搬上の点に至りても大に其利便なる処あり、仮令へば価格百円の物を運搬するにも印度藍は漸く二十貫目位に過ず、然るに我藍玉は殆ど七十貫目に及ぶがゆへ此点よりいふも亦大に損得あり、況んや其使用方法の簡便なる価格の低廉なるに於ておや、自然に其需用を増加せしむるに至りしこと実に偶然にあらず、左れば近来製藍事業に従事するものは漸く彼の印度藍に注目し其製法に做はんことを黽めんとするか如き意向あるに至り、地藍等にも是迄の製法を一変し彼の印度藍の如く乾燥せずして水分を含ましめたるものを製出するものあるに至れり、中にも近頃小笠原島に於て製造する山藍製藍靛は其製法印度藍に傚ひ、且つ使用上一層の便宜を与へんため水分を含有せしめあるを以て追々其需用を増加し、新潟地方等へ向ての販路漸やく広まらんとするに至りたれとも、彼の印度藍の勢力漸く熾なるに至りし折柄なれば中々容易の業にあらず、此山藍といへるは我邦に於ける藍草とは大に異なり、其性全く一種の灌木にして古来琉球に於ても此山藍を以て藍を製造せり、而して其製造方法の如きも殆ど印度藍に相似たるものにして、其生育は小笠原島の如き炎熱の地に最も適し一ケ年殆ど二回の収穫あり、之を以て製造すれば印度藍と敢て格別の相違なく、殊に価格も幾分歟低廉なるを以て将来印度藍と競争し得らるべきの見込なきにあらず、同島なる製藍会社製造の藍靛は、其相場目下上等日印一箱二十斤入二十六円、月印廿五斤入二十二円五十銭、星印廿五斤入十五円の三等に分てりといふ



〔参考〕染料と薬品 第七号・第五七六頁 昭和五年一二月 明治時代の精藍事業について(山川隆平)(DK150024k-0008)
第15巻 p.321-322 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。