公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第15巻 p.384-387(DK150045k) ページ画像
明治17年8月(1884年)
浅野総一郎等ト共ニ盤城炭礦社ヲ設立ス。栄一会長タリ。此後重任シテ明治二十六年十一月二十四日ニ至ル。
(盤城炭礦社)半季考課状 第一回(DK150045k-0001)
第15巻 p.384 ページ画像
(盤城炭礦社)半季考課状 第一回
福島県盤城国盤前郡上湯長谷村
盤城炭礦社
○株主集会決議之事
一明治十七年二月盤城国盤前郡上湯長谷村炭山開坑ノ挙ヲ決シ、該山ニ含有スル所ノ炭量炭質ヨリ運搬路程ノ迂捷ニ至ルマテ之ヲ審査シテ以テ営業目的ヲ確定センカ為メニ、発起人等東京ニ集会シ、工部省ニ向テ実査官及測量技手ヲ派遣セラレンコトヲ請求スヘキ順序ヲ議決セリ
一同年四月実査官工部少技長足立太郎殿ヨリ工部卿ヘ具状シタル小野田炭礦実測図及点撿復命書ヲ同省ヨリ下附セラレ、玆ニ於テ山中ニ包蔵スル所ノ炭量百七拾四万八千弐百噸ナルコトヲ確悉シ、営業ノ目的已ニ達スルヲ以テ、則資本金ヲ四万円ト定メ、一株ヲ金百円トナシテ四百株ヲ募集シテ採炭業ヲ興シ、其山元ヨリ小名浜間ニ鉄路ヲ布設シテ運搬ノ便ヲ計ルヘキコトヲ決議セリ
一同年八月株主集会ヲ以テ各自引受ノ株金高ヲ定メ、定款ヲ議定シ、株主総代三名ヲ撰定シ、及ヒ創業著手ノ順序ヲ議弁シ、又鉄道開鑿ノ工事監督ヲ東京鹿島組ニ依嘱スヘキコトニ決定シ、之ヲ鹿島岩蔵ニ照議シ、其約定ヲ訂成セリ
盤城炭礦社
支配人 遠藤致
株主総代 浅野総一郎
株主総代 須藤時一郎
会長 渋沢栄一
株主各位御中
青淵先生公私履歴台帳(DK150045k-0002)
第15巻 p.384 ページ画像
青淵先生公私履歴台帳 (渋沢子爵家所蔵)
民間略歴 (明治二十五年迄)
明治十七年
八月 磐城炭礦社ヲ起ス
数名ノ同志ト相謀リ採炭ノ業ヲ盛ナラシムベキ為メ磐城炭山ノ採掘ヲ経営シ其委員長ニ撰挙セラレ現ニ其職ニ在リ
○下略
- 第15巻 p.385 -ページ画像
(盤城炭礦社) 半季考課状 第六回(DK150045k-0003)
第15巻 p.385 ページ画像
(盤城炭礦社) 半季考課状 第六回
○株主総会決議ノ事
一明治廿年三月八日第四回定式総会ヲ東京第一国立銀行ノ楼上ニ開キ前季庶務諸勘定ノ要領ヲ報告セリ
一次ニ定款ニヨリ株主総代ノ撰挙ヲ開キタルニ、投票多数ヲ以テ従前ノ通重任スルコトニ決議セリ
(盤城炭礦社) 半季考課状 第一〇回(DK150045k-0004)
第15巻 p.385 ページ画像
(盤城炭礦社) 半季考課状 第一〇回
○株主総会決議ノ事
一明治廿二年八月五日第九回株主総会ヲ東京第一国立銀行楼上ニ開キ前季庶務諸勘定ノ要領ヲ報告セリ
一次ニ定款ニヨリ株主総代ノ撰挙投票ヲ開キタルニ、投票多数ヲ以テ前季ノ通リ重任セリ
浅野総一郎 (浅野泰治郎浅野良三著) 第三六八―三七二頁 大正一四年二月刊(DK150045k-0005)
第15巻 p.385-387 ページ画像
浅野総一郎 (浅野泰治郎浅野良三著) 第三六八―三七二頁 大正一四年二月刊
一三 磐城炭山
釜石と三池とを手に入れ損こねた惣一郎も、磐城の炭山で僅かに溜飲を下げ得た一事を玆に記して置かう。
山から掘つた黒い石が燃えると云ふて、珍らしさうに騒いでゐた未開国の明治初年の日本は、今から考へると面恥づかしい。
その不思議な石が、然かも工業立国となつた我日本の原動力であつた、この燃料原炭の豊富であつた事が、国富増進の上に、多大の貢献で、石炭は我国にとつて一の生命とも言へよう、東京では、王子の紙漉工場が、唯一の石炭使用工場で、横浜では、外人が、僅がに暖炉用として、燃やしてゐるに過ぎない頃に於いて、惣一郎は、石炭の将来に多大の期待を抱いた、そして、「開国日本の富は、山から掘り出すか海から掬ふか、それとも外国から持つて来るかの外はない」と喝破して、暗に、石炭の将来を諷刺してゐた、工場用汽船用として使はれる石炭は、其頃九州の三池外二三ケ処の炭山から、京浜へ遥々輸送されてゐた、磐城地方からも、帆船が時々輸送して、重に外人の暖炉用に供給してゐた。需要の少ない頃ではあつたが、明治十年の西南戦争に全ての汽船が徴発されて、九州からの輸送が杜絶した時には、噸拾円の時価であつたものが、一朝にして百拾何円に暴騰した、王手の紙漉工場が、約半歳の間、薪を焚いて凌いだ苦しい経験に遭つてから、京浜の工業家は、俄かに東京附近に炭山を求めなければ、他日工業旺盛の場合が、思ひ遣られると騒ぎ始めた、が、扨て、炭礦経営は、難業中の難業で、経験の無い人達には容易に手出し難い仕事である、口に必要は説くが、誰れあつて、手を出す者も無い、後藤象次郎が悴の名前で礦区を持つてゐたが、遂に開鑿するに至らなかつた、時に惣一郎は、同郷の人山崎藤太郎外数名と語つて、数回、熱心に磐城の山を踏査し、実地に豊富な炭脈あるを認めたので、足立太郎氏等にも相談して、計劃を進めては見たが、炭山経営は、誰れしも無経験な上に、資力の外に度胸を要する難業であるので、容易に相談に乗つて呉れを人が無い。
- 第15巻 p.386 -ページ画像
然し、志ある者は事竟に成る、石炭の将来に、志望を同じうする人に沼間守一なる人があつた、明治十五年、磐城地方の炭山を視察して惣一郎の先見の凡ならざるを看破し、磐城炭山経営の、急なるを公唱し始めたので、時は将に熟せりと、惣一郎は勇躍八方に勧説した、渋沢男を先駆に、沼間守一氏とも交渉数度に及んだ結果、明治十六年、惣一郎が一万五百円、渋沢男が六千円、渡辺治右衛門・須藤時一郎・沼間守一・大倉喜八郎・佐々木壮助の五氏が各三千円宛其他遠藤致・谷敬三・山崎藤太郎氏等外三四人の出資を得、総計四万円の共同経営となし、此処に磐城炭礦開設の第一声を挙げる事となつた、これが磐城炭礦会社である、渋沢さんが会長で、惣一郎が須藤氏と共に株主総代となり、遠藤氏を支配人とした、明治十七年二月工部省より技士の派遣を請ひ漸く採掘に着手する事となつた、其頃は鉱区などといふ定められた規程がある訳でなく、従前から同地方で採掘してゐた炭山も五千坪位の小地域であつたから、惣一郎の新炭山も、最初は同様五千坪位の採掘願を出す筈であつたが、惣一郎は炭山なるものゝ性質から将来益々拡大せらるべきものと考へたので、大きく弐百五十万坪といふ広大無類の採掘を願ひ出たいと同志に主張した、同志の人々は、惣一郎の大袈裟な言を聞いて、真面目に耳を藉さうとも仕なかつた、渋沢さんも、最初は余りに広大過ぎるとて反対されたが、終に惣一郎の主張を容れて、後日、此願書に調印を肯んぜられた。此鉱区が基礎となり、今日の九百万円の資本に到達する迄の経歴を辿つて見よう。
恁うした経歴を踏んで、愈々着手された磐城炭山は、炭脈豊富にして、堀られた炭は、日に日に山積されたが、運輸は寧ろ原始時代のように、馬と牛との力を借りる外に智慧の無い拙劣な方法で、小野浜といふ処に運搬され、そこから帆船積して、京浜に輸送された、此不完全な運輸方法が、途上のロスと賃金とで、高価な石炭をドンドン喰つた、利益を目的とした折角の炭礦も、最初は決算毎にマイナスを計上する苦境が続いた、これでは諾《い》かぬといふので、其頃出来た許りの鉄道敷設の議が出て、渋沢さん同道、小野浜から山へと視察に出掛けた結果が、時の鉄道庁長井上勝氏の智恵を借用しようといふ事となつて帰京早々、渋沢さんと惣一郎とが井上氏を訪づれた、そして事情を具して意見を叩くと「今日は余程面白い日だ、銀行屋さんとセメント屋さんとが、鉄道を敷くなんテ、それは商売違いではありませんか。」
と快活な井上氏は、仰山らしくとでも思つたか、声を挙げて嗤はれた。此一言が、躍如たる当時の面目だ。
結局、三十封度の軌条を十哩敷いて、山から小野浜迄の牛馬運搬の不便丈けは除かれた、これが明治二十年五月である。 ○下略
○当会社ハマヅ小野田炭礦ヲ採掘、明治二十九年ヲリ内郷炭礦、三十五年ヨリ町田炭礦、四十一年ヨリ長倉竪坑ヲ採掘シタリ。輸送機関ハ始メ小名浜港迄馬車鉄道ヲ敷設、船舶ヲ以テ京浜地方ニ輸送セシガ、二十九年日本鉄道磐城線開通スルニ及ビ同線湯本駅迄鉄道ヲ敷設シ陸路輸送ヲナシタリ。
○東京経済雑誌第二六七号(明治一八年五月三〇日)ニ湯本炭坑社トアルハ盤城炭礦社ノ事ナラン。
○常磐炭鉱鉄道ニツイテハ本資料第八巻所収「常磐炭鉱鉄道株式会社」明治二十二年七月二十三日ノ条(第七二七頁)参照。
- 第15巻 p.387 -ページ画像
○尚、当会社ノ営業成績ヲ表示スレバ左ノ如シ。