デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
1款 韓国ニ於ケル第一銀行
■綱文

第16巻 p.303-306(DK160037k) ページ画像

明治39年2月6日(1906年)

元韓国総税務司ヂエー・マツク・レビー・ブラオンノ韓国ヲ去ルニ当リ、栄一第一銀行ヲ代表シテ是日同氏ヲ華族会館ニ招宴ス。


■資料

竜門雑誌 第二一三号・第三八―四〇頁 明治三九年二月 ○青淵先生のブラウン氏招宴(DK160037k-0001)
第16巻 p.303-305 ページ画像

竜門雑誌 第二一三号・第三八―四〇頁 明治三九年二月
○青淵先生のブラウン氏招宴 去二月六日青淵先生には第一銀行を代
 - 第16巻 p.304 -ページ画像 
表して元韓国総税務司ブラウン氏(英国人)を華族会館に招待し鄭重なる送別の宴を設けられたり、当日の来賓は主賓ブラウン氏を始め阪谷大蔵大臣・珍田外務次官・松尾日本銀行総裁・目賀田韓国度支部顧問・古市京釜鉄道会社総裁・添田興業銀行総裁・出座政務局長・石井外務通商局長・松井外務参事官・仁尾専売局長・萩原大使館書記官・足立京釜鉄道常務理事・市原横浜市長・佐藤顕理の諸氏(加藤外務大臣・若槻大蔵次官・水町主計局長は当日差支の為不参)にして、主人側よりは青淵先生を始め日下・佐々木・尾高・西脇・渋沢篤二の諸氏出席せられ午後七時食堂を開き、先生より左記の感謝状を布衍して送別の辞を述べられ佐藤氏之を英訳し、更にブラウン氏より鄭重なる答辞あり、同氏の発声にて先生及び第一銀行の為めに杯を挙げ、主客共に驩談に時を移し、午後十時過に至り来賓は帰途に就かれたり、尚ほ当日第一銀行より記念としてブラウン氏に贈与したる緋威甲冑一領は誠にみごとのものにして、殊に其甲は実に八百年前明珍宗介の製作に成り、精緻巧妙を極め古雅の掬すべきものあり、又と見る能はざる逸品なりといふ、ブラウン氏は非常に満足し、永く其家の重宝として子孫に伝ふべき旨語られたりといふ
当日先生よりブラウン氏に贈られたる感謝文は左の如くなりといふ
 我が敬愛する所のジヱー、ヱム、プラウン君貴下《(ジヱー、ヱム、ブラウン)》
 貴下が職に韓国財務に在る玆に十有余年、其間同国の政変一再ならずして、貴下が施為の方針を、妨碍するの多きに拘はらず、拮据励精、終始一日の如く、毅然として其志を動さず、剛直其責に任して能く財用を整理し、特に関税事務に於ては措置最も宜きに適し、業務外に張りて貨財内に裕かに、以て度支部の不足を補ふに至れるは一に貴下が経営の功に緑由せずんばあらず、夫れ良将の兵を用ふるや、勢を察し力を測り、機に乗じ変を窺ひ或は寡を以て衆を圧し、或は弱を扶けて強を挫くが如き、運用の妙一身に存して能く全勝を制する者は、要するに画策先づ定りて持重動かず、一気能く貫きて堅忍撓まざるの度量に待つあるに非ずや、故に能く危を転して安となし、替を興して隆ならしむるに至る、亦何ぞ貴下が韓国の財務を理して将に傾かんとするに回し、幾と乱れんとするに治めて之を今日に維持したる者と相似たるの甚しきや、功績の美財史に伝へて朽ちざる者と謂つべし、豈亦偉ならずや、然り而して我が第一銀行の韓国に於る中外の信用を博して、業務の拡張を奏するに至れるも、貴下が指導誘掖に由るものにして誠に感謝の至に堪へざるなり
 今や貴下身を名誉籍甚の中に抽きて脱然として高踏勇退し、将に帰りて故国の風月に嘯傲せむとす、於是乎益々貴下が去就の正順にして意志の高潔なるを欽慕すると共に、転た惜別の情に堪へざるものあり、乃ち貴下が我帝都を過るを迎へて此に祖道の宴を張り、以て貴下が前途の康安を祝し、且つ贐くるに甲冑一領・屏風一双を以てす、夫れ甲冑は武器にして人に贐するの礼に適せざるものあらん、且其物たる古制にして今日の用に応ぜずと雖も、日東尚武の風気は自から之れが養成に得る所なきにあらず、況や兵力と財政とは相待て離れず、聯鑣併進せざるべからざるに於ておや、余は信ず、貴下
 - 第16巻 p.305 -ページ画像 
は礼の適否と物の不腆とを問はず、特に微意の在る所を諒として必ずや之を甘受せられんと、聊か蕪言を陳して謹て無限の謝意を表す
  明治三十九年二月六日
                   男爵 渋沢栄一


渋沢栄一 日記 明治三九年(DK160037k-0002)
第16巻 p.305 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三九年 (渋沢子爵家所蔵)
一月三十一日 晴 風ナシ 起床七時三十分就蓐十一時三十分
○上略 十二時第一銀行ニ抵リ、韓国大使一行ノ来訪ニ接ス、行内ヲ一覧セシメ、畢テ午飧ヲ共ニシ、食後種々ノ談話ヲ為ス、午後四時頃事務所ニ抵ル、是ヨリ先英国人フラオン氏来訪ス、氏ハ従来韓国ニ在テ税関総務タリシ人ナリ、依テ種々ノ談話ヲ為シ、再会ヲ約シテ去ル○下略
   ○中略。
二月二日 雨夕方歇ム 風ナシ 起床七時就蓐十一時三十分
○上略 十二時半外務省ニ抵リ、珍田氏ニ面話シ、直ニ大臣官舎ニ抵リ、フラオン氏招宴ノ午飧会ニ出席ス、伊藤統監・英国大使来会ス、午後三時散会、王子別荘ニ抵リ、韓国大使完順君及其一行ヲ招宴ス○下略
   ○中略。
二月四日 晴 風寒シ 起床八時就蓐十二時
○上略
江間政発ト共ニ英人ブラウン氏ヘ送ルヘキ謝状ノ文案ヲ協議ス
二月五日 晴 風強シ 起床七時就蓐十二時
起床後書斎ニテ英国人ブラウン氏ヘ送ルヘキ謝状ノ草案ヲ調査ス○中略午後帝国ホテルニ於テ英人ブラオン氏ヲ訪問シ、少時ノ談話ヲ為ス
二月六日 晴 軽暖 起床七時就蓐十二時
起床後書斎ニテ英人ブラウン氏ヘ送ルヘキ感謝状ヲ浄写ス○中略十一時第一銀行ニ抵リ、今夕招宴ノ順序ヲ協議シ○中略六時華族会館ニ抵リ、英人ブラウン氏招宴ノ席ニ列ス、食卓上一場ノ謝辞演説ヲ為シ、食後種々ノ談話アリ、賓主歓ヲ尽シ夜十一時帰宿ス
二月七日 晴 風ナシ 起床七時就蓐十二時
○上略 午前○中略外務大臣官舎及英国大使館ニ名刺ヲ通シテ頃日ノ饗宴ヲ謝シ○下略
二月八日 曇 風寒シ 起床七時就蓐十一時三十分
○上略 午前十時半兜町事務所ニ抵リ、数多ノ来人ニ接ス
英人ブラウン氏○中略等来話ス○下略



〔参考〕林権助述わが七十年を語る 岩井尊人編 第二四四―二五〇頁昭和一〇年三月刊(DK160037k-0003)
第16巻 p.305-306 ページ画像

林権助述わが七十年を語る 岩井尊人編 第二四四―二五〇頁昭和一〇年三月刊
    第六十七話 朝鮮財政のぬしブラウンを送る話
 日本が朝鮮の財政に口をさしはさむ事になつて以来、税務総司のブラウンの好意によつて、ひどく遣りよかつたものだ。
 日本の政策に対してフランスが何んと言はうが、ロシアが何んと言はうが、そんな事は一向お構ひなしに、ブラウンは頑張つて万事日本側と打合せて着々事を運んだ。
 一時、ロシアが王様にうまく取り入つて、人を本国より呼びよせて朝鮮の財政顧問にしたことがある。その男が顧問を振りまはして、税
 - 第16巻 p.306 -ページ画像 
金を押へてしまはうとしたが、ブラウンは頑として諾かなかつた。やがて、日本が財政の権を握るといふ段取になつて目賀田○種太郎が来たらう。ブラウンとしては目賀田の下に働くといふ事も何だか潔よく思へなかつたらう。せめて、自分が手塩にかけて守りたてて来た関税だけは、自分の差配として残しておきたいといふ希望をもつてゐたらうと思ふ。
 わたしとしてはブラウンの気持を汲んでやりたいが、日本の立場上それは許されない。わたし一個人としてはよく気心を知り合つた間柄でもあり、色々の事を相談してやつた相手だらう。そこでわたしは当人のブラウンに言ふ前に、ブラウンの処置につきイギリスの公使と相談してみた。
○中略
 それで先づ、ブラウンの朝鮮を去るといふ事は決定した。
 そのときブラウンといふ奴は偉い奴だと思つたことがある。ブラウンがわたしの許へ来ていふには
 『今、此の度日本から勲章を貰ふと云ふ事になると、何か賄賂でも貰つて退くやうに変に見られる。それは自分は嫌だ。それで今、貰ふのはお断りする』
 かういふから、わたしは其の言葉をうけていつた。
 『それなら宜しい、朝鮮の方からは、先づ金の報酬を取ることにしよう』
 するとブラウンは
 『それも自分は困る』
 と言ふ。さりとて金は欲しい、だから、そこで一寸悧口な事を考へよつたよ。
 『自分は元々どほり、支那の税務司として在任し、朝鮮に来なかつたとすれば、斯くかくの収入があつたものである。それが朝鮮の税務司となつて来た為に、朝鮮の俸給は国情によりこれこれであつて、これだけ少ない。この差は朝鮮政府のお情けでなしに、自分は当然の主張として請求できるやうにも思ふ。だから、其の差額を貰ひたい』
 それでわたしは
 『それならさうしよう』
 といつて、そのとほりに決めた。日本の勲章の方はブラウンが遠慮するといふことだから、そのままにしておいた。かくしてブラウンはイギリスに帰つていつた。
 ブラウンが帰英するといふとき『イギリス政府からも君に何か遣つたら宜しいだらうとことづけしておいたよ』と知らしてやつたが、ブラウンが帰国後もイギリス政府では、ブラウンに何も遣らなかつたらしい。それでブラウンが本国に帰つてから、
 『何んとか一言、言つて見て呉れる訳には行きませぬか』
 とわたしのところへ言つて来た。
 それでもう一応イギリス政府に言つて遣るやうに手配した筈だ。それからまもなくナイトになつてサア・マツクレデー・ブラウンと長い名をつけて手紙をよこしたよ。