デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
2款 京釜鉄道株式会社
■綱文

第16巻 p.355-365(DK160048k) ページ画像

明治29年6月(1896年)

是ヨリ先、大三輪長兵衛・尾崎三良・竹内綱等京釜鉄道敷設権ヲ得ントシテ秘カニ内閣総理大臣伊藤博文・外務大臣陸奥宗光ニ政府ノ賛助ヲ請願シテ許サル。依テ当会社創立発起人ノ募集ヲナシ、先ヅ大江卓ノ賛成ヲ得、大江ハ栄一ヲ初メトシ益田孝・中野武営等ヲ勧誘シ、遂ニ是月百五十五名ノ発起人ヲ募集スルヲ得タリ。


■資料

京釜鉄道経営回顧録 竹内綱著 第六―八頁(DK160048k-0001)
第16巻 p.355-356 ページ画像

京釜鉄道経営回顧録 竹内綱著  第六―八頁
大三輪○長兵衛ハ余・尾崎○三良ト相会シ、京城ノ実況ヲ報ジ、協議ノ上京釜鉄道株式会社創立発起人ヲ募集シ、発起委員ヲ渡韓セシメ、韓廷ニ特許ノ請求ヲナスベク、此ノ特許請求ニ就キ、先ヅ政府ニ提議シ、政府ノ認許賛助ヲ請願スベク相決シ、七日余ハ尾崎・大三輪ト伊藤総理陸奥外務ヲ訪ヒ、両大臣列席面会シ、交々陳シテ曰ク、我々ハ去ル二十七年以来主唱セル京釜・京仁二鉄道ノ敷設《(ヲカ)》、日韓両国ノ国防共衛経済共通ノタメ最大急務ナリトス、我政府ハ二十七年十月日清戦争中、韓廷ト二鉄道暫定条約ヲ締結セシモ工事ニ著手セズ今日ニ至レリ、韓廷ハ条約ヲ無視シテ京仁鉄道ハ本年四月米国人「モールス」ニ特許ヲ与ヘ、京釜鉄道モ亦、京義鉄道特許ヲ得タル仏国人「グリロ」ノ特許請求中ニ属ス、此大三輪ノ急速帰国シテ我々ト相議シ、京釜鉄道株式会社創立発起人ヲ募集シ、発起委員ヲ以テ韓廷ニ特許ノ請求ヲナサントス、此ノ京釜鉄道株式会社創立発起人ノ募集、韓廷ニ特許請求ニ就キ、政府ノ認許賛助ヲ請願スル趣旨ヲ具陳セリ、両大臣ハ此ノ請願ノ趣旨ニ対シ論難止マズ、其概要ニ曰ク、今日経済界恐惶ニ際シ、内国ノ有利ナル鉄道ニ於テモ株式募集ニ応ズルモノナク、殊ニ国民ハ外国ニ於ケル鉄道ノ経営ニ経験ナク、之ヲ危険視スベク、況ヤ韓国ハ人口稀薄、物産ノ貧弱ナル、鉄道営業ノ利益ハ絶無ナルベキニ於テヲヤ、此ノ如キ景況ナルヲ以テ、創立発起人ヲ募集セントスルモ之ニ応セザルベク、且ツ韓国ノ鉄道ノ経営ハ列強国ノ国際関係上慎重ノ考慮ヲ要スルヲ以テ、君等ノ提議ハ容易ニ認許シ難シト、陸奥大臣ハ余ヲ別席ニ招キ、謂ツテ曰ク、兄ハ年来理想ニ耽リ、成効ノ期シ難キ大事業ヲ企テ、稍モスレバ失敗ニ終ル、京釜鉄道ノ経営モ到底成立ノ見込ナシ余ハ兄ノ反省ヲ望ムト、余ハ之ニ対シ隔意ナキ論弁ヲナセシモ容レラレズ、当日ノ会見ハ遂ニ何等決スル所ナクシテ終レリ
余ハ翌八日伊藤総理ヲ訪ヒ、謂ツテ曰ク、会社ノ成立ハ貴説ノ如ク困難ナルベキモ、政府ニ於テ我々ノ請願ヲ認許セラルレバ、先ヅ第一経済界ノ有力者ヲ勧誘シテ相当ノ発起人ヲ募集スベク、第二ニ韓廷ニ特許ノ請求ヲ為シ、許可ヲ得ルニ至ラバ大ニ同志ヲ糾合シ、全国ニ亘リ
 - 第16巻 p.356 -ページ画像 
国民ノ愛国心ニ訴ヘテ株式ヲ募集セバ、必ズ募集シ得ベシ、万一我々ノ期待ニ反シ、第一ノ発起人募集ニ当リ、経済界有力者ガ百名ニモ達セザルニ於テハ、万已ムヲ得ズ我々ノ請願ヲ撤回スベシ、此我々ノ国家ノ為メニ尽ス所以ナリ、若シ政府ニ於テ我々ノ請願ヲ認許セズ、暫定条約ノ既得権ヲ抛棄シ、他ノ外国人ニ獲得セラルルニ於テ《(ハ脱カ)》、本年議会ノ開カルルニ当リ、貴衆両院ハ政府ニ対シ責任問題ヲ提起スベキハ必然ナリ、政府ハ之ニ対シ弁論ノ辞ナカラン、是レ余ノ閣下ノ為メニ大ニ恐ルル所ニシテ、特ニ熟考ヲ請フ所以ナリト、総理ハ暫ク沈思シテ曰ク、熟考ノ上決答スベシト、其後十二日ニ至リ総理ハ余・尼崎ヲ招キ謂フテ曰ク、相当ト認ムル発起人百名以上ヲ得ルニ於テハ、君等ノ提議ヲ認許スベシト、是ニ於テ余等ハ京釜鉄道株式会社創立発起人ノ募集ヲ開始セリ、其募集ニ当リテ最先ニ賛成シタルハ大江卓ニシテ同氏ハ当時株式取引所理事長・商業会議所副会長トシテ実業界ニ勢力アリ、同氏ヨリ渋沢栄一・益田孝・中野武営等諸氏ヲ勧誘シ、賛成ヲ得タルヲ以テ、漸次応募者増加、六月末ニ至リ百五十五名ノ発起人ヲ募集スルヲ得タリ
渋沢氏ハ大江ノ勧誘ニ対シ、京釜鉄道ノ経営ニハ賛成ナルモ、余ハ各種ノ事業ニ関係多キヲ以テ、京釜鉄道ノ発起人タルノ余力ナシト云ハレシモ、大江ハ発起人トナルトナラザルニ拘ハラス、発起総会ニハ是非臨席、発起人諸氏ニ対シ、諸氏ハ国家ノ為メ有益ナル京釜鉄道ノ経営ニ賛成尽力アリタシト云フ一場ノ演説アラレンコトヲ懇請シ、承諾ヲ得タリ


朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編 第一巻・第三―七頁昭和四年一〇月刊(DK160048k-0002)
第16巻 p.356-358 ページ画像

朝鮮鉄道史 朝鮮総督府鉄道局編  第一巻・第三―七頁昭和四年一〇月刊
 ○総説
    二、日韓暫定合同条款と鉄道敷設権
日清戦役の結果半島に於ける清国の勢力頓に退縮して、我が国威大に振ふに至れるが、当時韓国は積弊の後を承け、内政の刷新に人文の開発に施設の急を要するもの挙げて数ふべからず、就中鉄道の建設は其の最も急務とする処なりしが、財源涸渇して韓国自ら之れが経営に当るの力なく、或は其の資金を外国に需め、為めに禍因を他日に遺すの虞れがあつた。玆に於て帝国政府は国防共衛経済共通の見地より、韓国政府に代りて鉄道敷設の計画を為すを以て、隣邦扶掖上最も必要なりと認め、明治二十七年八月二十日、内政釐革に関する条款を締結するに際し、先づ京釜・京仁両鉄道を敷設するの権利を認めしめた。是れ所謂日韓暫定合同条款にして、同条款中鉄道に関しては左の如く規定せられたるが、是れやがて我が国民の海外に試みたる鉄道経営の第一歩を為したものである。
    暫定合同条款
第二項 釐正内治節目中、京釜両地及以京仁両地刱修鉄路一事、朝鮮政府顧此時庫款未裕本願与日本国政府若或日本国公司約訂合同、及時興工祗、因朝鮮政府現有委曲情節礙難照弁、但仍須妥籌良法務速克成所期為要
 (訳文)内政改革の節目中、京釜両地及京仁両地間に建設すべき鉄
 - 第16巻 p.357 -ページ画像 
道の一事は、朝鮮政府に於て其の財政未だ裕ならざるを慮り、日本政府若くは日本の或会社に訂約し、時機を見計ひ起工せむことを願ふと雖も、目下委曲情節ありて其の運びに及び難し、依つて良法を案出し、可成丈速に訂約起工の運びに至るを要す
 然るに同条款締結後我が政府は之れが細目を協定せむがため、大鳥公使在任の間に於て韓国政府に対し交渉を開始せむとしたるが、明治二十七年末同公使は帰朝し、内務大臣井上馨出でて駐韓公使となるや翌二十八年一月十七日を以て、之れが交渉開始の訓令を発するに至つた。此の条約案は全部八箇条より成り、電信及び開港に関する二箇条を除き、他は尽く鉄道敷設権を規定したるものにして、其の大要は京釜・京仁両鉄道は日本政府又は其の指定する会社に於て建設することを韓国政府に於て認諾し、其の所有権は韓国政府に属するも、建設費を償還するに至る間の運輸営業は、日本に於て之れを管理すると共に営業収益の幾分を贈与すべく、韓国政府は全線開通後五十箇年間建設費の償還を為さざるものとし、線路の詳細及び運輸営業に関する細目は別の協定に依らむとするものであつた。
 井上公使は此の草案に基づき交渉を開始せしも、容易に解決を見るに至らず、偶々前年末より京釜・京仁両鉄道の線路を踏査せし仙石技師の一行は、任務を終りて一旦帰朝せしを以て、我が政府は其の報告に基づき更に審議の末両鉄道を分別し、先づ京仁鉄道に就いて協定を遂げ次で京釜鉄道に及ばむとし、二十八年四月十三日を以て鷺梁津・仁川間鉄道敷設に関する新条約案を公使に送致し、之れに基づきて更に別箇の交渉を為さしむるに至つた。新条約案は其の規定詳細に亘りたるも、鉄道の所有権に関しては明言するところ無く、単に一定の年限を経過したる後、韓国政府之れを買収するの権あるを認め、買収価格に関し新なる規定を設けたる点を除きては、大体に於て旧案に依つた。玆に於て井上公使は本案に基づき、更めて交渉を開始せしが、暫定合同条款に拠り鉄道・電信の権利を我が国に譲与せられたるに不満なりし欧米諸国は、此の頃漸く反対の態度を明かにするに至り、五月四日英・米・独・露四国代表は外務大臣金允植に公文を致し、鉄道等の利権を専ら一国に準許するは他の各国商民に取りて不利益なりとの警告を為したるより、金外務大臣は之れに対して後日政府の行動に制限を受くるの虞れある言辞を避け、極めて簡単に其の好意を謝する旨回答し、四国公使亦別に追究することなく事件は其のまま終了せしも後日我が計画に対して少からざる障碍を与ふるに至つた。
 一方日本内地に在りては曩に日清戦役前盛んに鉄道敷設の必要を主張したる者も暫定合同条款成立の後に至りては其の事業に着手せむとするものなき状態にして、政府に於ては其の権利を確定するも、鉄道事業に着手するの望み無かりしと、韓国政府の態度極めて要領を得ざりし結果、寧ろ若干の資金を韓国政府に与へて、自ら京仁鉄道の事業に当らしむべしとの議を生ぜしが、未だ其の決定を見ざる内、韓国政府は暫定合同条款の明文を無視して、明治二十九年三月遂に京仁鉄道の敷設権を米国人モールスに特許した。由来韓国の政情は変転恒ならずして朝に夕を計り難く、又我が国は日清戦役の結果、新に帝国の版
 - 第16巻 p.358 -ページ画像 
図に入りたる遼東半島も、やがて露・独・仏三国干渉のため、我れは涙を呑んでその領有を永久に放棄すべきことを宣言し、所謂臥薪嘗胆十年の歳月を忍ばざるを得ざる苦境に陥つた。この間、韓国に於ける露・米両国の勢力は遽かに擡頭し来りて清国に代り、就中露国の如きは韓帝を其の公使館内に擁し、事として意の如くならざる無く、国際的に絶対優越の地歩を占むるに至つた。之れに反して我が国の勢力は再び急転直下して殆ど手の下さむやうも無く、我が政府は京仁鉄道敷設権に関し、駐韓公使小村寿太郎をして、韓国政府に其の条約に違反する背信的行為を責め、強硬なる抗議を提出せしめたるが、之れに対して韓国政府は「暫定」の文字に藉口して却つて反駁し来り、折衝の結果韓国政府をして兎も角謝罪状を提出せしめて局を結んだ。○下略


韓国総覧 徳永勲美著 第一二三七―一二三九頁明治四〇年八月刊(DK160048k-0003)
第16巻 p.358 ページ画像

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築京釜鉄道記 竹内綱手記(DK160048k-0004)
第16巻 p.359-360 ページ画像

築京釜鉄道記 竹内綱手記            (竹内広氏所蔵)
抑余○竹内綱ノ京釜鉄道経営ノ志ヲ起セシハ明治二十七年ニ在リ、同年韓国東岳党《(学)》ノ騒乱ヨリ、清国政府ハ俄カニ陸海軍ヲ韓国ニ出シ、我政府モ亦陸海軍ヲ出シテ相対抗ス、而シテ我国ト韓廷トノ交渉ノ談判当ニ破裂セントシ、日清ノ間交戦開始セラレントス《(ル脱カ)》ニ際シ、当時我外務大臣陸奥宗光窃ニ余ヲ呼ヒ謂テ曰ク、今日事急ナリ、和戦ノ策旦夕ニ決セサル可ラス、而シテ韓国ノ事情明カナラス、向背測リ如ル可ラス、子予カ為メニ急ニ渡韓シテ、子ノ観察スル所ヲ以テ予ニ電報センコトヲ依頼スト、余平生ノ交誼之ヲ辞スルヲ得ス、之ヲ諾ス、余曰ク、大三輪長兵衛ハ韓国ニ幣《(聘)》セラレ、在韓数年、大官ニ交際アリ、大三輪ト《(ヲ)》先導トセン、尚林有造ハ同氏ノ親戚ナルヲ以テ大三輪ヲ説クニ宜シ、両氏ト共ニ渡韓セント、陸奥之ヲ諾ス
余ハ同年七月二日ヲ以テ林ト京ヲ発シ、大坂ヨリ大三輪ヲ伴ヒ、同八日京城ニ達ス、○中略同月十二日京城ヲ発シ、十九日帰京、直ニ陸奥ニ面シテ意見ヲ述フ、是時廟議ハ殆ント開戦ニ決シ、廿一日韓国ノ我軍ニ開戦ノ命令ヲ発シ、廿三日陸海軍共ニ清軍ヲ撃破セリ
余ハ帰朝以来釜山港京城間・仁川港京城間ニ於ケル二鉄道ハ、我カ国民ノ力ヲ以テ之ヲ敷設スルノ急務ナルヲ主張セシカ、我政府ハ同年八月韓廷ト二鉄道ノ暫定条約ヲ締結ス、条約第二項ニ曰ク、京釜・京仁二鉄道ノ敷設ハ日本政府若クハ日本人ノ会社ヲシテ敷設セシムヘシト而テ日清講和後ノ我カ対韓政策ハ大ニ頓挫シ、朝野ノ間南進北守ト云一種ノ退嬰策ヲ唱ルニ至リ、二鉄道ノ経営ヲ等閑ニ付シ去リ、空シク一《(年脱カ)》ヲ経過シテ顧ミス
明治二十九年二月大三輪ハ伊藤総理大臣ノ内嘱ニ依リ、韓国々情視察ノ為メ京城ニ出張ス、此ヨリ先キ大三輪ハ予及尾崎三良ト二鉄道ト韓国中央銀行ノ計画ヲナシ、我カ政府及韓国政府ノ当局者ニ謀ル所アリシニ因リ、大三輪此般該銀行計画ニ托シテ出張セリ、大三輪ハ同年二月二十四日京城ニ着ス、此月十一日韓国皇帝ハ露国公使館ニ遷居セラレ、国情大ニ変動シ、日本排斥党大ニ勢力ヲ得テ、我カ国ニ対シ不利ナルコトノミ多シ、就中最嘆惜スヘキハ、京仁鉄道ハ米国人モールス氏ニ、京義鉄道ハ仏国人グリロ氏ニ其特許権ヲ占有セラレ、尚京釜鉄道モ亦グリロ氏ニ占有セラレントスルニ至レリ
米仏人ノ二鉄道特許占有ハ、大三輪着京以来ノ出来事ニシテ、其特許運動ノ開始ラ《(セ)》ラレントシ、又開始セラレタル後ニ於テ、韓人ヨリ其内容ヲ探知シ、当時我ガ駐在ノ公使小村寿太郎ニ時ニ之ヲ報知シ、其事ノ進行未前ニ之ヲ予防セラレンコトヲ勧告セシモ用ヒラレス、モールス氏ノ特許契約既ニ成ルヲ聞クヤ、彼ノ暫定条約ニ依リ韓延ニ抗議セラレンコトヲ請求シ、且ツ又我居留民数名ヲ説キ、京釜鉄道会社発起請願書ヲ我カ領事館ニ提出シ、小村公使ニ韓延エノ申請ヲ請ヒ、或ハ余及林有造・尾崎三良電報《(ニ脱)》ヲ以テ之ヲ報シ、又密カニ韓廷ノ内部ニ交渉シ、米仏人ノ要求ヲ拒絶セシメンコトヲ謀リシカ、当時農商工部大臣趙秉式ハ大三輪カ嘗テ明治廿七年増田信之ト壱百万円ノ会社ヲ起シ京仁鉄道建設ノ特許ヲ宮中ニ請願セシコトアリシヲ記臆シ、米人ノ要
 - 第16巻 p.360 -ページ画像 
求ヲ拒ム方策トシテ、韓廷ニ於テ京仁鉄道建設ノ為メ九十万円ノ借款ヲ日本ニ求メントシテ、之ヲ大三輪ニ依頼シ来ルニヨリ、大三輪ハ之ニ対シ、九月迄ニ借款ノ確約ヲナサンコトヲ承諾セン等、百方尽力シタルモ更ニ其効ナシ、是ニ於テ大三輪ハ速カニ帰朝シ、同志ニ謀ルノ外ナシト決心シ、京城商業会議所ニ謀リシニ、会議所ハ居留民惣代トシテ山口太兵衛・松本武平・玉井重次郎三氏ヲシテ、大三輪ト共ニ東京ニ派遣スルニ決シ、五月廿日京城ヲ出発ス、大三輪ハ出発ニ先タチ窃カニ外部大臣李完用ニ対シ、其親密ノ交際アル金宗源ナル者ヲ以テ本年九月中ヲ期シ、京釜鉄道会社発起請願ヲナスヘケレハ、其迄クリロ《(グリロ)》ノ要求ヲ遷延シ、而シテ我カ請願ヲ容レ特許ヲ与ヘラルヽニ於テハ金五万円ヲ呈スヘシト云秘密ノ契約ヲナセリ、(大三輪カ二月著京以来発京迄ノ事実ハ、別ニ大三輪ノ日誌アリ、故ニ爰ニ其概略ヲ記ス)○下略
  ○右ノ「築京釜鉄道記」ハ竹内綱ノ手記ニシテソノ著書「京釜鉄道経営回顧録」ノ草稿トモ見ラルベキモノ、但シ記事多少ノ相違アリ。


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治二九年)一月二二日(DK160048k-0005)
第16巻 p.360 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治二九年)一月二二日  (八十島親義氏所蔵)
    口上
別紙小村氏来状ニ対する回答ハ写を取り来状及其写とも京釜鉄道之書類綴込ニ差加ひ、書状ハ外務省ヘ向ケ御遣シ可被成候事
  一月廿二日
                        栄一
    八十島殿


京釜鉄道ニ係ル彼我公文写(DK160048k-0006)
第16巻 p.360 ページ画像

京釜鉄道ニ係ル彼我公文写         (竹内広氏所蔵)
(別筆)
四月廿六日我ヨリノ昭会ニ対スル回答文
昭会事照得本月二十六日接准
貴来文内開京城釜山間所関鉄道敷設之件去明治二十七年貴我両政府締結暫定合同条款中有約定若由貴政府右敷設之事勿論許可之時対該線路或其生妨碍害利益南方線路一切未経我政府承諾不可許他等因准此査京釜間鉄道一節暫定合同迄経三載尚未及更作条約此次貴文内義亦無指的之期多恐虚□歳月為妨碍我従他施措之時請煩貴公使査照可也
  四月二十九日
               朝鮮外部大臣 李完用
    日本全権公使 小村寿太郎 閣下



〔参考〕大三輪長兵衛渡韓日記(DK160048k-0007)
第16巻 p.360-365 ページ画像

大三輪長兵衛渡韓日記           (竹内広氏所蔵)
二十九年一月六日、伊藤侯ノ命ニテ林有造氏ヨリ至急東上セヨトノ電信着ス、朝鮮銀行ノ件云々、翌日七日出京ス、即日新橋ヨリ直ニ伊皿子ノ伊藤邸ニ出席ス、則日韓銀行ノ件ニ関シ相談、之ヲ設立スル事決シ、政府ニ前以我々ヨリ差出有之該定款等ニ大修正ヲ要スルニ付、大蔵省打合ニ決ス、銀行局長添田氏ト協議、条例等一切同局ニ相托ス、方法ハ別ニ有之
二月四日伊藤邸ニ於テ尾崎三良・添田局長等同席ス、仮ニ総裁ヲ尾崎
 - 第16巻 p.361 -ページ画像 
三良・副総裁ヲ大三輪ト仮定セリ
二月十一日新橋着ノ報知有之、朝鮮度支部顧問仁尾氏着ノ筈、同人着ノ上万事相談スル事ニ決シ、来着ヲ待ツ
二月十一日仁尾顧問着京ス、十四日迄休暇ヲ乞フ、又決ス
十四日以後場所ヲ取極、創立ノ事従事《(ニ脱カ)》スル《(ニ脱カ)》決ス
十二日麹町区永田町大蔵大臣官邸ヲ問フ、仁尾顧問同邸ニ在リ、ヒソカニ大三輪ヲ一席ニ招キ、京城ヨリノ電報ヲ示ス、曰ク十一日韓国皇帝及皇太子ハ露国公使館ニ宮城ヲ逃ケ出ス云々、京城ノ混雑メイゼウスベカラズ云々
仁尾氏曰、今回ノ計画皆々当分ダメナリ、如何トモ不相成候云々
大臣面語、此件ニ関シ種々談話ス、伊藤侯ヨリ電話ニテ呼フ、京城始末談ノミ五日成行ヲ見ル事ニ決ス
二月十八日帰坂セントスルニ際シ、伊藤侯曰ク、如斯朝日新聞ノ号外ト公使館ノ報告同一ニ有之、如斯云々ト、京城電報数枚ヲ出ス、如斯ニテハ如何トモ不相成候
韓廷ノ内部ニ通スル不能候
《(伊藤侯曰ク脱カ)》名ヲ日韓銀行創立ノ為ト称シ、京城ニ出張事情通信ヲ依頼シタシ、是非出張アリタシ云々、承諾ス、則外務大臣ノ添書ヲ請求ス、承諾、則之ヲ請取候事ニ相成、自己用向等ヲ仕舞、三月十七日大坂ヲ出発シ、二十四日京城ニ着ス、五十八銀行支店ヘ止宿スル事取極メ、京城ノ事情ハ林有造氏ニ通信スル事ニ決ス
二十四日着金家源来訪ス、又外韓人四五人日々出入ス、事情甚タ面倒日本人ハ多ク排セキノ者ノミ、着早々小村公使ヲ訪問ス、京城ノ事情ヲ問フモ、一月以来数回外部ニ談判ヲ請求スルモ、未タ承諾ヲ得ス、困却ナリ云々
京仁鉄道二十六年ニ一百万円ノ設計ヲ以テ宮中ヘ差出有之、名義人日本人増田信三・大三輪長兵衛両人、若シ米国人等ニ許可相成候ハヽ甚タ残念ニ有之、外部大臣季完用《(李完用)》ニ御照会否、京仁鉄道許可ニ相成候様御請求ニ相成度云々申入候、公使ハ承諾云々、乍去未タ一回モ外務大臣ニ面会セス、種々国際上ノ用向多山成居候間、承リ置候云々
三月二十九日農商工部大臣ヨリ使者来ル、至急面会ヲ望ム云々、他ニ無之、先年来京仁鉄道設立ニ尽力、且百万円ノ資ヲ投シ候云々、目下本国ニテ設立いたし度候、日本金九拾万円年六歩位ノ利子ヲ以テ融通ヲ頼ム云々、是非面語ヲ要ス云々、明日面会スルニ決ス
三月三十日午後七時農商工部大臣チヨウ氏○趙秉式面語ス、左右ヲ払ヒ、密談トナル、大臣曰ク、米国人某ヨリ同公使ヲ経テ京仁鉄道ノ許可ヲ出願シ、宮中ニ金十五万弗ヲ献納ス云々、外部大臣等モ多少収入有之我々モ或ハ多少ヲ得ラルヽナラン、乍去此事ハ始メヨリ京仁間ハ政府ニ於テ工事起スノ精神ニ有之、大臣中ニモ半々位ニ有之、今日金策ニ困居候、幸ニ大人来韓ハ我国ノ幸福、是非トモ九十万円丈尽力有之度云々、即席ニ承諾いたし、日本ノ金主ニ申送ル抵当ヲ問フ、抵当鉄道及関税云々、速ニ四月八日迄ニ確答有之度云々、尤米国公使ハ四月五日ニ宮内府ヘ献納金ス云々、条約ハ五日ノ夜ニ取結度云々申出居候
陛下ノ御進メニ依リ、調印セル大臣モ二三人有之由云々、実ニ切迫セ
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リ云々、内情能承知ス、夫ヨリ承諾尽力、可相成ハ日本人ニ許可相成候様、献納金等ハ出来得ル限リ宮中ニ献納スヘシ、堅ク契約シ、九時過キ帰ル、帰路公使館ニ立寄面語ヲ乞フ、不在トノ事ニテ帰宿ス、翌日四月一日早天小村公使ヲ問フ、昨夜ノ内情ヲ明細ニ物語スト雖信セス、恐クハ事実ハ夫丈ケハ運ヒ居ラザルベシ云々、殊合同条第二条《(約脱カ)》モ有之、即日本政府ニ無沙汰ニテ契約ハ他ノ国ニハ出来不申云々御安神被成候云々《(度脱カ)》、大三輪曰ク事実ハ左ニアラズ、大ヰニ進ミ、既ニ契約モ成サントス、既ニ五日ニハ公使ノ尽力ニテ金十五万弗献云々、一時トセザレハ手付トシテ五万弗、調印ノ上十万弗、必四月十日迄ニハ悉皆契約済ニ相成候云々、速ニ尽力相頼ム云々、農商工部ハ外人ニ許サス自国ニ於テ此鉄道ヲ布設スルノ方針ニ決シ居候得共、十中八九ハ米国人ノ手入ノ模様云々、段々相迫リ候得共、前文ノ如ク合同条約ヲ以テ安神セヨト小村氏ハ主張ス、段々切込請求セシニ、大ヰニ迷惑ノ模様ナリシモ、来ル四日ニハ数十件ノ交渉用向有之、外務大臣季完用《(李完用)》ニ面会ノ契約有之、其席ニ於四日ニ必ス京仁鉄道ノ事ヲ照会スヘシト、漸ニ小村氏承諾ス、四日ノ夜公使ヲ訪問ス、小村氏曰ク、本日ハ一月以来始メテノ面会、国交ノ大切ナル条件数多有之、中々京仁鉄道ノ咄ニ迄ハ至ラス、明日モ面会ノ契約ニ相成居候故、失念不致候様注意可致候云々、不得止引取候、五月五日夜公使ヲ訪問ス、公使曰ク本日ハ京仁鉄道ノ件ヲ持出シ候云々、如何ノ答ニ御座候哉ト問候処、小村氏曰ク季外部大臣《(李)》ハ□ニタンタンニテ是ハ韓国政府ノ自由ニいたし候様ノ口気唱候故、二十七年合同条約ヲ持出シ候処、彼レ曰ク、夫レハ馬関条約ニテ消減致《(滅)》シ居候、況ンヤ三ケ年モ相立候得共、何ノ着手モ無之弊国ノ自由ニ御座候云々ト、相手ニ不相成候様ノ口上フリ故ニ、篤ト研究ノ上ニ無之テハト存、其儘中止セリ云々、大三輪曰ク、夫レ御覧可被成候、如斯全ク米国之ヲ掌握セラルヽナラン、速ニ大運動相成度云々、其夜ハ其儘引取、金宗源ヲ以テ外部大臣季完用《(李完用)》ニ運動ヲ始メタル処、金曰ク京仁ハ昨夜手付金五万弗上海ヲリンタルバン《(ヲリエンタルバンク)》ノ手票ヲ以テ宮中ニ上納シ、契約書ハ農商工部大臣ノ外ハ悉ク調印済ニ相成居候云々、外相モ一二万円位ハ米人ヨリ収入セシナラン、最早六ケ敷云々段々一方ハ公使ニ迫リ、一方ハ韓官ヲ運動セシ末、四月十日ノ早天農商工部鉱山局長孫鵬九ナル者、午前七時前五十八支店ニ来リ大三輪居ルカト問フ、在宿ト答タル処、大声ヲ以テ大三輪馬鹿馬鹿ト三声大声ヲ発シ、真赤ノ顔ヲ以テ入リ来ル、漸々寝床ヲ去リタル処ナリ、彼ヲ居間ニ通シ曰ク、今ノ大声ハ何タル事ゾヤ、彼レ曰ク精神ゲキ動ノ為メニ不知不知大声ヲ以テ大三輪馬鹿ト三呼セリ云々、何故ナルヤト問フ、彼レ曰ク年来ノ宿志京仁鉄道ハ米国人ノ手中入《(ニ脱カ)》リ、昨夜調印ノ後凡三十分間ノ間ニ、仏国公使館ヨリ北京駐在公使ヨリ米国ト同一ノ条件ヲ以テ京釜京義間ノ鉄道ヲ許可相成度、本公使ハ今日ホンコンニ着セリ、四月二十七日ニ仁川着ノ予定ナリ、入京ノ上、本手続書差出候云々、夫々代理書記官ノ附書有之云々、如斯ノ有様、日本人ハ何ノ為メニ生命ト財産ヲ捨テ我国ノ独立ヲ謀リシヤ、大三輪ノミ馬鹿ニアラズ、日本人大馬鹿云々、自分ハ伯父ノ為メ恐ルヽ事有之、辞表ヲ出シテ慶尚道ニ外出ス、途中南大門ニ輿ヲ置キ此事ヲ知シメ、直ニ下仁、
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出帆ノ船ニ乗込釜山ニ航行ス、時間ナシトテ速ニ明法ヲ立回復ヲ謀ルヘシ《(ト脱カ)》言捨テ孫氏出行、是則二十九年四月十一日朝七時五十分也
二十九年四月十一日早朝公使館ニ出頭ス、時于午前八時、小村公使ニ面語、九日夜米国人ト条約調印済、京仁鉄道ハ全ク米国人ノ手中ニ帰シ、夫ヨリ凡三十分ノ後、仏国公使館ヨリ北京駐在仏国公使電報ヲ以テ照会シ来リタル始末、一口ニ小村氏ニ物語候処、孫氏ハ農商工部鉱山局長ニテ旧来ノ知人、同氏明治七八年比我政府ノ雇トナリ、朝鮮語教師トシテ東京ニアリシ人ナリ、日本語ヲ覚エ居リ正直ノ人物ナリシ小村君ニ曰ク、小生ハ如斯ノ切迫ノ場合ニ及候故、迚モ書面ニテハ事情通セス、況ンヤ仏国人クリロト申者ハ長々京城居、鉄道布設権ヲ得ント謀ルノ噂高シ、速ニ帰国いたし、政府ニモ事情ヲ知ラシメ、有志等ト相謀リ、京釜鉄道会社ヲ創立いたし、日清役ノ精神ヲ貫徹セシメ《(ン脱)》トス、此際油断セハ国権ヲ損スルノミナラス、東洋第一ノ権利ヲ失スル恐レ有之云々、速ニ本日出立帰朝いたし度候間、何卒外部大臣ヘ京釜鉄道布設ノ申込ヲ被成下度候云々ト迫リ候処、夫ニ就テハ種々議論起リ、終ニ一己人ノ小村ハ賛成ナレトモ、公使トシテハ京釜鉄道布設抔申込候事ハ、内閣ノ許可ヲ得サレハ出来不申云々、夫ハ万々御尤ナレトモ、是ハ責任ヲ負フテ日本帝国ノ為メニ尽サレンコトヲ切論セシモ承諾ナラズ、小村氏曰ク、仏国公使ハ二十七日ニ仁川着云々、今日ハ京城釜山間ノ電報モ切断相成、未修繕不相成、是ヨリ御用船ヲ以テ仁川今夜出帆、釜山ヨリ東京ヘ発電いたし、同船ニテ東京ノ返事ヲ請取帰航セシメバ、十四日ニ京城ニ返事着いたし候、来十八日ニハ玄海丸出帆日ニ有之、此玄海丸ニテ帰朝スル事ニ決シ、十二日外務省ニ委敷公使ヨリ発電シ、返事得テ処分スルニハ都合ヨカラン、又貴殿大三輪ヨリ有志者及其筋或ハ知人等ニ発電シ返事ヲモ請トルヘシト云々、之ニ承諾シ、直ニ東京ハ竹内綱・林有造等ニ大略事情ヲ述、速ニ京釜鉄道会社創立手続致呉候様、詳細ノ事情ハ外務省ニテ聞キ取ルベシト発信セリ○中略夫限リニ打捨置クヘキニ無之故、一策案出シ京城ニ於テ京釜鉄道株式会社ヲ創立いたし、資本金ヲ一千五百万円トナシ、創立スル事内談決シ、十二日朝早天ヨリ五十八銀行支店ヘ山口太兵衛・古城梅渓・松本武平・淵上休兵衛・和田常一・玉井栄次郎等ヲ招待シテ此始末ヲ演説スルヤ、一同大ヰニ驚キ、速刻一モ二モ無之大ニ賛成、直様仮規則ヲ作成シ、同十二日中ニ出来候故、之ヲ領事館ニ届ケ出、一冊ハ公使館ニ持来シ、如斯御座候間、創立中ニ御座候間、成否ノ責任ハ我々発起人ニ於テ責メヲ負フ故、京釜鉄道線ハ他国ニ許可セザル様、速ニ此願書ヲ添ヘ、韓国外務部ヘ御照会被下度旨小村氏ニ申入候処、一両日中ニハ電報ノ返事モ可有之、其上ノ事ニ可致候云々
十四日正午ヨリ公使館ニ出頭待受ケ居候処、午後五時比過キ着、返事ハ極メテタンカン、外務省ハ韓政府ニコヲギヲ申込ムベシトノミ云々他何用モ指揮無之云々、又自今発電《(分カ)》ノ返事ハ竹内一人丈ケ(デンミタイサイフミ)林有造ハ返事ナシ、如何トモいたし方無之、色々様々ニ小村氏ニ迫ルト雖モ承諾ナラズ、又一己人ノ小村ハ御同意云々ノ一点張リ、夫ヨリ山口嘉兵衛《(山口太兵衛)》・松本武平等ヲ以テ色々手ヲ替品ヲ替、小村氏ニ迫ル、左右ニ言ヲ振リテ、朝鮮外務部ヘハ申込ミヲ承諾セス、不
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得已一策ヲ施シ、外部大臣季完用《(李完用)》ニ運動ヲ始メ、彼レ《(ヲ脱カ)》説キ立相応ノ謝礼ヲ成ス故我々発起人日本ヘ株主ヲ募集ニ出張ス其間仏国人ヨリ申込候モ延期スル事ニいたし呉度云々、金宗源ヲ以テ申込候末、謝礼ノ高ニ関シ交渉ノ末、五万円ヲ季完用《(李完用)》ニ遣ス事ニ相談相調、然レトモ公使館ヨリ其ユウヨヲ申込候様ニ可致候、左候得ハ、直ニ認可ノ証ヲ渡シ候、凡三ケ月九月三十日迄トスベシ云々、夫ニ関シ如斯ノ文面ニテ公使館ヘ《(ヨリカ)》外務部ヘ渡スベシ云々ト、別紙ノ如キ草案迄モ受取候テ、段々ト小村公使説立候末、小村氏曰ク左候ヘハ一応季大臣《(李)》ニ面会直接ニ応接ノ末御尽力ノ如ク承諾スルヤ否ヲ調査的ニ致シ度云々、聊モ相違無之、拙者直接ニ数回ノ応接ノ末ニ有之云々、段々時日切迫いたし、四月二十四日ニ相成申候、同日ハ土曜日二十五日ハ日曜日、仏国公使ハ二十三日長崎着セリ、或ハ二十六日ニ仁川着スルヤモ難計云々ノ報アリ、公使季氏面会云々《(李)》トノ事、殊ニ時日ニ切迫ナルヲ以テ、公使館ヨリ直ニ自分ハ季完用《(李完用)》ノ邸ヲ訪問ス、午後五時ナリ、季氏直《(李)》ニ面語、小村公使面会ノ事談ス、快ク承諾ス、殊ニ時日切迫故、明二十五日日曜日ナレトモ会見ヲ依頼ス、是亦快諾ス、明二十五日午後正一時ニ外務部ニ於テ面会スベシ云々、幸ニ日曜日ナルヲ以テ密談等ニハ便利ナリ云々、大ヰニ其厚意ヲ謝シ、堅ク約束シテ直ニ帰ル、帰途亦公使館ニ立寄リ、明二十五日午后一時外務部ニ於テ会見ノ約出来候旨ヲ述テ帰宿ス、翌日二十五日日曜日正午比ヨリ公使館ニ出頭シ、小村氏ノ出張ヲ謝スルカ如ク催促スルカ如ク、十二時三十分ニ国分通訳ヲ同道、小村公使外務部ニ出張ス、二時比帰館、之ヲ待受ケタル季外務大臣《(李)》トノ対談一々物語ノ末、季《(李)》ノ請求ニ依リ本公使ヨリ書面ヲ出ス事ニ決定ス云々、其大略左ノ如シ
 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ○原文案ヲ不載
外務部ヨリハ左ノ如キ返事出ス事ニ決ス
 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ○原文案ヲ不載、前掲(第三六〇頁)四月二九日付文書ヲ見ヨ
是ニテ先ツ仏国ノ書ヲ除ク事ヲ得テ大ヰニ安堵ス○中略
二十九年四月二十六日発起人ノ内山口太兵衛・松本武平・古城梅渓氏等打寄相談ノ末、本国政府ヘ京釜鉄道会社創立願人上京費ヲ請求ノ為メ、民役所ヘ万事照会手続等ニ及、仁川・釜山・元山居留民ニ同会社創立賛成尽力セラレンコトヲ、京城民役所則民長ヨリ照会状ヲ出ス事等、即刻居留民会ヲ開承諾、京城居留民ハ一同主トナリ尽力スル事ニ決ス
上京委員ヲ撰挙ス、山口太兵衛・松本武平・玉井栄次郎ノ三名ト決ス此三人大三輪ニ随行セシメ、東上ノミナラス仁川・釜山等ニ於テ賛成者ヲ説立加入者ヲツノル事ヲモ托セラル、本会社ノ事業ハ一己人ノ営利ノ為メニアラス、国家ノ事業ナル事等ヲ、大意説明賛助セシメル事等決シ、東上旅費金五百円也此人《(々脱カ)》ニ支出ス事等ヲ決定ス、夫ヨリ民役所ヨリ仁川・釜山・元山等居留地ニ出来《(張カ)》スル事ニ相成、夫ヨリ仁川・釜山居留民ノ内上京城種々事情等ニ《(ヲカ)》聞キ、仁川ハ不賛成、理由ハ尚早シ、況ンヤ内国ノ鉄道サエ未タ完全ナラヌ今日、外国ニ於テヲヤ云々第一船行支配人西脇・郵船会社ノ支店長東条某等ナリ、故ニ一人モ賛成者ナシ、釜山ハ京城民長ノ書面ニ接シ大賛成ナリシ、京城ニ来リ小
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村公使ノ意見ヲ聞クヤ、賛成ヲ取消シ、篤考中云々ト申立、出張員ハ其儘帰釜、不得止京城丈ノ有志ヲ同行東上ニ決シ、五月二十日頃京城出立、仁川ニモ一二泊いたし、種々賛成者ヲ求メタレトモ即答者小数、不得止、釜山ニ五月二十四日商業会議所ニ於テ開会ヲ為ス事ニいたし、大阪五百井長支店長大ヰニ尽力、来会者ハ大小数九名《(イニ脱カ)》ヨリ無之外ニ秋月領事ト書記二人位、本日会社創立ノ主意等山口太兵衛氏演舌ス、其論中京仁線ハ既ニ米国人ノ手ニ帰シ、京城義州間ハ仏国人クリロノ手ニ帰シ、未ノ線ヲ争ヒ居候ハ、此京釜鉄道ノ一ツアルノミ云々ト、日本国ノ為メ日本国民ノ為メ東洋平和ノ為メ云々ト、痛歎スルガ如ク説立候処□ノ面白キ一□有之、臨場ノ秋月領事立テ曰ク只今山口君ノ口演中、京仁鉄道線ハ既ニ四月十日頃米国人ノ手ニ帰候云々、右ハ新聞紙等ニテ噂ハいたし居候事ハ承知セリ、夫ハ事実ニ相違無御座候哉云々、釜山港ノ日本領事ノ言トハ信シカタキ次第、其実ハ京城ノ内田領事ノ言ト謂、秋月領事ノ問ト言フ《(ヒカ)》、十年前ノ我外交家ハ如斯モノ御座候、二十七日釜山出発、四人同行日本ヘ出立ス
  ○右ノ「大三輪長兵衛渡韓日記」ハ京釜鉄道株式会社用箋ニ浄写シアルモノ書名亦コレニ拠ル、行文難渋誤脱頗ル多シ、蓋シソノ自筆日記ヨリ竹内綱京釜鉄道沿革史編纂資料ノタメ写サシメシモノカ。