デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.126-129(DK240011k) ページ画像

明治19年3月(1886年)

是月、当院棄児並ニ迷児ノ収容ヲ始ム。栄一院長トシテ之ニ与ル。


■資料

諸達上申綴(DK240011k-0001)
第24巻 p.126-128 ページ画像

諸達上申綴               (東京市養育院所蔵)
第一六一〇七号
四歳以上ノ棄児五拾人壱ケ年分養育費予算額要用ニ付、至急御取調御送付相成度、此段及御照会候也
  明治十八年八月十三日
                庶務課長 田中直達
    養育院長 渋沢栄一殿

明治十八年八月十三日             総務《(木下)》
 栄一院長
四歳已上之棄児五拾人壱ケ年分養育費予算額至急取調送付相成度旨本府庶務課長より申来候ニ付、米麦其他共現今之買入相場ニ基キ取調候処、別紙調書之通相成申候、右差出し可然哉、回答書案相添奉伺候
    回答書案
四歳以上ノ棄児五拾人壱ケ年分養育費予算額至急取調送付相成度旨御照会之趣了承致候、仍テ別紙調書差出候也
  明治十八年八月十三日              院長
    庶務課長宛
(別紙)
    四歳以上棄児五拾人壱ケ年分養育費予算調
               壱ケ年一人ニ付金弐拾七円三拾七銭五厘
一、金千三百六拾八円七拾五銭
               壱日壱人ニ付金七銭五厘
   内訳
 金九拾六円        傭壱名給料
  但壱ケ月金八円
 金百弐拾円        看護婦五人分給料
  但棄児拾人ニ付壱人宛、壱人ニ付月給弐円
 金五拾四円弐拾銭     同米麦代
  但看護婦五人、此延人員千八百二十五人、壱日四合宛、米四分此石弐石九斗弐升、代金弐拾三円三拾銭、壱石ニ付金八円、麦六分此石四石三斗八升、代金三拾円六拾六銭、壱石金七円
 - 第24巻 p.127 -ページ画像 
 金拾八円弐拾五銭     同菜代
  但看護婦五人、此延人員千八百弐拾五人、一日一人ニ付金壱銭
 金拾八円弐拾五銭     同雑費
  但同断、壱日一人ニ付壱銭
 金四百五円拾五銭     棄児飯料米麦
  但在院棄児五拾人、此延人員壱万八千弐百五拾人、壱日壱人ニ付米麦三合宛、米四分此石弐拾壱石九斗、代金百七拾五円弐拾銭、壱石金八円、麦六分此石三拾弐石八斗五升、代金弐百弐拾九円九拾五銭、一石七円
 金百八拾弐円五拾銭    同菜代
  但在院者延同断、壱日一人ニ付壱銭
 金百八拾弐円五拾銭    同雑費
  但同断、壱日一人ニ付金壱銭
 金百弐拾円        同教育費
  但紙・墨・筆・書籍・修学・試験・褒賞品等ノ費、壱人ニ付一ケ月金弐拾銭
 金六拾八円四拾四銭五厘  患者費
    内訳
  金参拾円四拾弐銭     薬種代
   但服薬日数ハ在院者延日数ノ六分ノ一ヨリ見積、即チ三千四十二日、壱日壱人ニ付金壱銭
  金弐拾弐円八拾壱銭五厘  牛乳代
   但日数同断、壱日一人ニ付五勺宛此石壱石五斗弐升壱合、壱石ニ付金拾五円
  金拾五円弐拾壱銭     雑費
 金九拾九円四拾五銭五厘  被服費
    内訳
   金四拾壱円     四ツ身綿入五拾枚 壱枚ニ付金八拾弐銭
   金拾弐円五拾銭   襦袢百枚 壱枚ニ付金拾弐銭五厘
   金弐拾四円五拾銭  単物五拾枚 壱枚ニ付金四拾九銭
   金五円       帯五拾筋 壱筋ニ付金拾銭
   金拾六円四拾五銭五厘  蒲団・蚊帳損償及洗濯代
    但蒲団・蚊帳等ハ仮ニ本院在来ノ品ヲ用、其損シニ応シテ償却シ、其他ハ洗濯費等ニ充ツ、壱ケ月壱人ニ付金弐銭九厘余ニ当ル
 金四円          埋葬費
  但死亡者拾人ト見積リ壱人ニ付金四拾銭
 右之通御座候也
  明治十八年八月

                        養育院
年齢満四年以上ノ棄児ハ、本年九月十六日以後区役所・戸長役場ヨリ其院ヘ送致セシメ候条、養護方取扱フヘン、但該児死亡ノ節ハ当庁及関係ノ区役所・戸長役場ヘ報告スヘシ、此旨相達候事
  明治十八年九月八日
              東京府知事 渡辺洪基

第八一一〇号
                        養育院
 - 第24巻 p.128 -ページ画像 
棄児並迷子ハ、自今総テ其院ニ於テ救護セシメ候条、従来ノ者ハ来ル四月三十日限リ区戸長ヨリ送付スヘキ筈ニ付養育方取計フヘシ、尤乳養ノ都合ニテ止ムヲ得サル場合アリ、是迄ノ預リ人ニ於テ乳養方ニ差支ナキニ於テハ当分ノ内其者ヘ更ニ相預ケ候儀ハ妨ケナキ儀ト心得ヘシ
  明治十九年三月十六日
               東京府知事 高崎五六



〔参考〕養育院六十年史 東京市養育院編 第二五〇―二五二頁 昭和八年三月刊(DK240011k-0002)
第24巻 p.128-129 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第二五〇―二五二頁 昭和八年三月刊
 ○第三章 東京府営時代
    第一〇節 棄児及迷児の収容開始
 明治初期の頃、東京府内に於て迷児ある場合は一定の掲示場、又は「道しるべ」碑へ張札を為し、三十日を経過して尚ほ見当らざる際はこれを家出同様に取扱つて捜索したものである。明治三年(一八七〇)六月、市在区戸長へ左の通り達してゐる。
 迷子有之訴出候はゝ、其町並芝口掛札場、又は道しるべ碑へ張札致し候旨庚午九月中相達置候処、今後迷子不見当分共可訴出候、取調の末総て各区掲示場へ張出可申、尤三十日相立迷子不見当候得は家出訴同様月限尋可申付候条、此旨更に相達候事
明治七年(一八七四)六月九日、警視庁より迷児を棄児とする手続に付、左の照会があつた。
 迷ひ子有之節、住所心当無之者、其年齢・恰好を認め掲示致、日数十五日に及て尋出る者無之候はゝ捨子と見做し、其区扱所へ引渡可申候、此儀差支有無至急御回答有之度、此段及御掛合候也
依て六月十三日付を以て、左の通り回答してゐる。
 迷子有之節御処分の儀に付、御掛合の趣致承知候、右は従来迷子有之節は、其区役所並四方迷子道しるべに三十日間形状表掲示致し、尋出し候者無之候へは棄児と見做し候儀に候間、此上とも本人は直に扱所へ御引渡相成、御庁に於ても三十日間御表掲有之候ては如何可有之候哉、御掛合により御回答旁猶打合及ひ候也
即ち三十日間掲示するも尋出づるものなき場合は、これを棄児と見做し、各区の扱所に収容したのであつた。
 養育院は在来主として窮民を入院せしめたりしが、明治十六年(一八八三)一月より行旅病人を収容する場所と指定せられ、こゝに収容者の種類を増すに至つた。棄児及迷児の収容も従来より多少づゝあつた。現に明治十六年七月、府知事より左の達しに接し、一迷児を収容してゐる。
                        養育院
 神田区内に迷子有之候処、年齢十二歳にも相成候ものにて、差向預け方に差支候を趣以て其院へ差置度旨申立聞届候条、此旨相達候事
  但本人に属する実際の費用は、毎月取調の上区役所へ対し請求可致事
   明治十六年七月九日
                東京府知事 芳川顕正
 また、明治十七年(一八八四)四月二十五日付を以て、府知事より
 - 第24巻 p.129 -ページ画像 
「浅草区浅草小島町迷子谷口常太郎儀、該区長申立に因り其院へ送付すへき旨指令候条、救護方可取計、此旨相達候事」とある。斯かる例は素より二・三にして止まらぬ。棄児も亦同様の趣きあり、現に十八年(一八八五)八月、十七年度の棄児及迷児入院料として、区部より受取りたる金参拾壱円六拾四銭七厘を府会計課へ上納してゐる。
斯かる事態の続出せる為め、十八年八月府庁より棄児養育費に付、照会する所あつた。
○中略
叙上棄児及迷児の全部を本院へ収容することゝなれるは、明治十九年(一八八六)四月以降である。


〔参考〕青淵先生公私履歴台帳(DK240011k-0003)
第24巻 p.129 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳           (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
同 ○明治一九年 同 ○一二月二四日  東京府養育院ヘ金拾円寄附候段奇特ニ付為其賞木杯壱個下賜候事              内閣