デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.203-215(DK240028k) ページ画像

明治42年5月16日(1909年)

千葉県安房郡船形町ノ当院安房分院落成セルニヨリ、勝山町ノ臨海保養所ヲ此処ニ移シ、是日、開院式ヲ行フ。栄一之ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第三三―三五頁 大正一一年一一月刊(DK240028k-0001)
第24巻 p.203 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第三三―三五頁 大正一一年一一月刊
    十六 婦人慈善会の力で安房分院
 前述の如く、数年間の実験によりて勝山町の臨海保養所は虚弱児童の健康恢復に著明なる効顕あるを認めしかば、余は遂に此設備を永久的のものとなし、適当なる場所を得て養育院の分院として、之れを経営したいと云ふ希望を起こした、そこで明治三十九年度の予算中に土地買収費一千五百円を計上し、海気保養所として最も好適の地を安房郡船形町字野房に択び、敷地一千五百坪を買取つた、而して本院に此挙あるを聞き知つた養育院婦人慈善会は、右の企てを助成する為め隣地二百六十四坪を特に購入して本院に寄附したるのみならず、尚ほ引続いて工費約二万五千円を以て敷地内に新築せる三百六十坪の建物を寄附せられ、其後又た隣地六千九十三坪を買入れて保養所敷地拡張の為め寄附せられたる等、実に一方ならざる助力を同会より得て、遂に今日の安房分院なるものが出来たのは誠に感謝に堪へない次第である而して婦人慈善会より寄附せられたる右の建物は、明治四十一年の七月に起工して翌四十二年の三月に落成し、同じく五月十六日に開院式を挙げたのである、尚ほ其後橋本節斉・寺田一郎の両氏より合計四百六十五坪の土地の寄附があり、大正五年度には本院予算臨時費を以て講堂の新築及び寮舎の増築を行ひ、其結果建物の総坪数六百七十七坪敷地の面積八千四百坪に上ぼり、常に百三・四十名の健康薄弱児を巣鴨分院より交替に同所へ送つて、普通は一年、長きは二・三年に亘つて徹底的の保養を為さしめて居るのである。
 又た斯かることを申すと、養育院は転地保養などゝ言つて、収容児に贅沢でもさせて居るやうに感ぜらるゝ向もあらうが、本院は児童教育上の見地からして、決して彼等を驕奢に馴れさせるやうなことは致さない、唯だ如何なる富豪も都会に於ては得られない明媚の風光と清浄の空気とは、所謂之を取つて禁ずることなく、之を用ひて竭きぬのである、而して其経費の如きは平素百三・四十名の児童を収容しながら一切の支出を合して一年僅かに二万四千円内外で事足りて居るので廉価と云ふことが必ずしも誇るべきではないかも知れぬが、勉めて経済的に経営して居るのである。


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK240028k-0002)
第24巻 p.203-204 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年         (渋沢子爵家所蔵)
五月十六日 雨 冷
○上略 八時朝飧ヲ食シ地方人士ノ訪問ニ接ス、来客十数名ニ及フ、郡長村長町長等ノ人々多シ、正午旅宿ニテ午飧シ、午後一時人車ニテ雨中船形ニ抵リ、養育院分院ノ開院式ニ出席シ一場ノ演説ヲ為ス、来会者弐百人許リナリ、分院ハ船形観音堂ノ下ニ在リテ眺望佳絶、気候人ニ
 - 第24巻 p.204 -ページ画像 
可ナリ、入院者百名余リ収容スルヲ得ヘク、講造頗ル堅牢ニシテ且便利ナリ、式畢テ来賓ニ饗宴ヲ勧メ後兼約ニヨリテ北条ニ抵リ ○中略 再ヒ船形町ニ来リ山口某氏ノ家ニ宿ス、夜安達憲忠・正木清一郎氏・桜井円次郎氏等来話ス
五月十七日 晴風強シ 暖
午前六時起床、船形観音堂ニ詣ス、後分院ニ抵リテ各室ヲ一覧ス ○下略


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK240028k-0003)
第24巻 p.204 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年  (八十島親義氏所蔵)
五月十四日 雨
渋沢男爵ハ夫人・令嬢ヲ伴ヒ、増田明六等ヲ伴トシ、今朝八時両国発ノ汽車ニテ房州船方行《(形)》ノ旅程ニ就カルヽニ付見送リヲ為ス、右ハ男爵ノ主宰セラルヽ東京市養育院ノ安房分院(病児療養所)開院式(十六日)ニ臨マルヽ為、途中ノ風光ヲ賞スルノ意ニテ陸行セラルヽ次第ナリ、帰京ハ十八日ノ筈
○下略
   ○中略。
五月十八日 晴
○上略
渋沢男爵今夕房州ヨリ帰着 ○下略


竜門雑誌 第二五三号・第四二頁 明治四二年六月 ○東京市養育院船形分院開院式(DK240028k-0004)
第24巻 p.204 ページ画像

竜門雑誌  第二五三号・第四二頁 明治四二年六月
○東京市養育院船形分院開院式 青淵先生の院長たらるゝ東京市養育院にては棄・遣・迷児の収容後肺患等に斃るゝもの多きを憂ひ、去三十三年八月安房国勝山に児童保養所を仮設して之に病児を収容したるに成績頗る良好なりしかは、曩に同国船形町に土地を購入し此処に同院婦人慈善会より寄附せられたる建物の新築成りしを以て、之を船形分院と名つけ、児童の虚弱者、肺病其他呼吸病者及病後の衰弱者等全部を移したるに付き、去五月十六日午後一時開院式を挙られたり、青淵先生には之より先き本誌前号所載の如く陸路同地に到着、当日は令夫人と共に之に出席し、安達幹事の事業報告・来賓の祝辞・尾崎東京市長の式辞等に次きて、一場の演説を為されたり


東京市養育院月報 第一〇〇号・第二九―三三頁 明治四二年六月 ○安房分院開院式(DK240028k-0005)
第24巻 p.204-210 ページ画像

東京市養育院月報  第一〇〇号・第二九―三三頁 明治四二年六月
○安房分院開院式 五月十六日房州船形町に於て安房分院開院式を挙行せり、先是安達幹事は事務員四名と共に渡房し開院式に関する準備を整理し、次て尾崎市長は事務員吉川・古橋二氏と来会し、渋沢院長は慈善会長たる同夫人同伴にて陸路を迂回して船形に着せり、当日来臨を辱ふしたる諸氏は
                           (いろは順に因る)
              石井佐一郎君           石井常吉君
               石井熊吉君  小学校長    岩崎近太郎君
     中央慈善会      原胤昭君         長谷川辰五郎君
     水産講習所長技師 堀江銀之助君           鳥居貞子君
              長森庄三郎君           大谷清海君
 - 第24巻 p.205 -ページ画像 
     安房郡長      太田資行君           小川房吉君
               大山友吉君         大和地卯之助君
              岡本国太郎君           大山惣助君
     八束村長      忍足政暢君           岡本鉄郎君
               小沢清七君           渡辺豊蔵君
     大学教授医学博士  片山国嘉君  安房中学校長   狩野鷹力君
     船形町助役     加藤信明君           加藤芳郎君
              加藤兼太郎君           川田惣爾君
     北条町長      加藤音城君  富浦村長    川名正吉郎君
     勝山町長     亀島金之助君           川名貞蔵君
              神田辰太郎君           吉田亀吉君
              吉野吉太郎君           吉田謹爾君
               高木久平君          武田喜三郎君
               武田秀子君           醍醐吉蔵君
              醍醐新三郎君           田村秋松君
               竹山久吉君           武田芳松君
              辰野安五郎君           田中巡査君
     千葉県事務官    田中喜助君            田谷英君
                高木修君          津村金之助君
               辻八十吉君  安房郡書記    中安太平君
               中村亀七君  那古町長    長井慶次郎君
              熊沢ウタ子君           籔崎京治君
              山田仙太郎君          山口弥惣吉君
              安田峰三郎君           正木貞蔵君
              正木保三郎君  船形町長    正木清一郎君
             前川鯉亀太郎君            藤波恒君
     市会書記長     藤原和吉君          藤田亀太郎君
     市技手       小林鶴吉君           小林三要君
               小宮由松君          海老原書記君
               明石重平君  市会議員     秋虎太郎書
     市会議員      荒木重治君          青山武一郎君
     北条警察署長     足立斐君          安西信次郎君
               安西安蔵君  前船形町長    相川織江君
     千葉県属      安部庸三君  市会議員    佐々木和亮君
             佐々木久米吉君           桜井亀吉君
               斎藤竹松君            木村茂君
     那古郵便局長   宮地平三郎君          三平カツ子君
              光田鹿太郎君           満井武平君
               志村亀吉君          庄司健太郎君
              近馬初五郎君          庄司熊次郎君
              志村菊次郎君           志村音吉君
              志村伊兵衛君           平野明雄君
              平田庫次郎君          平野巳之吉君
               広瀬部長君           檜垣直右君
 - 第24巻 p.206 -ページ画像 
              関谷熊次郎君         鈴木善右衛門君
              鈴木勝太郎君           鈴木部長君
              鈴木清次郎君          鈴木清三郎君
               鈴木善記君          海国日報記者
              日本新聞記者        東京二六新聞記者
               都新聞記者          時事新報記者
              読売新聞記者          報知新聞記者
               朝報社記者          朝日新聞記者
              国民新聞記者         やまと新聞記者
            東京日々新聞記者        東京毎日新聞記者
            毎日電報新聞記者       日本電報通信社々員
等の諸君にして、午後三時より左の順序によりて開院式を結了せり
    敬礼
    児童唱歌
    同退席
    幹事報告
    院長演説
    市長式辞
    千葉県知事代理田中事務官祝辞
    正木船形町長祝辞
    光田育成団主事祝辞
閉会後来賓一同へ晩餐を供し、歓を極めて散会せしは同午後五時にてありけり
○中略
    渋沢院長の演説
 臨場の閣下及諸君、本日東京市養育院安房分院の開院式を挙行するに当りまして、私は本院々長として、本日は雨天殊に風波荒きにも拘りませず東京より遠路態々御来臨下され、当地方より特に御列席下されたる諸彦の御厚意を感謝致します
 抑も本院の創立は明治五年頃にして、爾来専ら鰥寡孤独、又は貧病者中の頼るべき所も無く自活する能はぬ人を救助し来りたるものにて、星霜を経る事玆に三十八年、其間種々の変遷を経て今日に至りましたが、目下窮民救護の傍、市より行旅病人の依託、棄児・遺児迷児等の養育、及浮浪悪化の傾向ある児童の感化教育等をも取扱ふ為めに本分院と共に四ケ所に分置するの必要を生じ、目下四ケ所に収容する総人数は千七百人程に相成つて居る次第であります
 斯く年所を経るに従ひ種々なる事柄に遭遇して、其時々相当の方法を講ぜざるを得ぬ事が出来るのである、回顧すれば今より十年ばかり前入院児童が他の児童に比し死亡の割合も多く、又結核性の病気で死亡するものが多数である、其割合は幹事の報告致した通りでありますが、何とか之れを救済する道はなきものかと種々憂慮の末、時の医長たりし医学博士入沢達吉君に相談せしに、博士の言はるゝには、夫は空気の清き森林の中か、又は海水の清潔なる沿岸に保養所を設けて、結核其の他の虚弱なる児童、又は病後の者とか或は結
 - 第24巻 p.207 -ページ画像 
核の疑のある者を其所へ遣り、健康になつた者は連れ帰り、之れと交代せしむる様にしたならば、総体の児童の健康状態を改善する事が出来るであろうとの事であつた、其処で東京附近では山林地は稀なり、又運輸も不便であるから、房州地方で運輸の便利の処へ借家をして試みたが宜しからんとて、市参事会の認可を得て勝山町の法福寺と申す古寺を見附けて、児童二十名ばかりを移したるは三十三年八月でありました、夫れより満五年を経て三十八年に調べて見ると、保養所創立前五年と創立後五年とは一般の児童の健康上に驚くべき相違を生じて来た、前五年は百人に対し死亡九人以上であつたものが後五年は三人余となつた、結核性の病気も三分の一以下になりました、そこで永遠に継続する必要があると云ふので、更に市参事会に申立、市会の協賛を得て土地を探査するに至たのは四十年でありました、其際相州三崎から安房沿岸を調べて七ケ所の候補地を得、其第一等と認めたのが即ち当船形であつた、それは後に山を負ひ前に海を抱き、大武岬は西にありて西風を防ぎ、風景もよろしく土地も高燥なり、物価も廉に、特に現町長正木清一郎君・前町長相川織江君等殊の外此挙を賛成せられて、土地購入の事は一切引受けられ、院の為めに尽力せられ、遂に千五百坪の土地を得て愈々分院敷地と定めたのであります
 爰に院の為めに基本財産を作つて下さる婦人慈善会と云ふものが、明治十八年より東京に於て組織されてあつて、会員も殆ど千人余にして年々開会して、今日に至るまで十余万円の金額を寄附されて居る、此婦人慈善会で此挙を聞かれて、甚だ結構な事であるから其地均し・建築等の費用を会から寄附しようと云ふ事になりて、終に総会で議決して建築寄附を申出でられ、其筋の承認を経て地均しを始めたが、土地の形状が悪いと云ふので更に七畝余歩の畑地をも購入して寄附せられ、地均・建築・畑地等総ての費用二万四千余円を投じて此完全なる家屋が出来たのであります、扨此保養所と申すものは元来肺病を治療すると云ふのが目的であつたが、其結果を見ると肺病が減ずるばかりで無い、全体の死亡率百人に対し九人のものが三人になつたので、今仮に養育院の児童が凡そ八百人あるとすれば此の内四十八人の生命が助かる勘定になる、独りそればかりでない総ての児童の健康状態が宜しくなるから、薬代を減ずる、保母・看護婦の手を減ずる、其他の費用を減ずる、児童の貰受け人が多くなる抔と、色々の点に思ひ設けぬ利益を生じて来る、一人の生命を助くると云ふ事も実に大なる慈善である、況んや此の多数の者を助けて之れが他日健康なる良民と為つて生産に従事し、其利益は延て国家に及ぼすのであるから、私は爰に入沢博士の御教示を謝し、婦人慈善会の御同情を感謝し、併せて当地の前町長及現町長の御尽力を謝し、市当局諸君の御高配を謝するのであります
 更に当地方の諸君に一言するは、此分院には肺結核と確定したものは遺はさない、結核に罹り易いと認める児童、又は病後の児童、結核の疑ある児童の三種である、結核患者は本院に特別の病室ありて之に収容する事となつて居て、当地へは仮令疑のあるものを送りて
 - 第24巻 p.208 -ページ画像 
も之等の児童は直に病室に収容し、白衣を着せしむる事になつて居りますから、病毒を他に散布するが如き恐れは決して無いから、御安心ありて向後ともに相当の便宜を与へられ、同情を寄せられんことを希望します
 尚一言致すは本建築は地均・石垣工事・井戸木柵等を除ては、建家は三百五十五坪余で、総額一万七千六百円にて一坪四十九円余の割であるが、該金額に対しては実に堅固にして行届きたる工事と見へる、予て幹事よりの報告に依れば、受負の方々は皆土地の人にて、正木町長より此工事の性質を懇々話されたる結果、損益の念を離れ誠意を以て監督の人と協力同心して従事せられた故、仕様書にも設計書にも無い所まで充分に行き届たとの事でありましたが、成程今日私も一覧して、幹事の言葉が事実である事を認めました、此慈善と云ふ精神が受負人・監督者等の人々を通じて建築の上に顕はれたと申す事は何より喜ばしい事であつて、斯の如き精神であれば、百般の事業は皆成効する次第である、此点に就て私は監督者及受負人の方々に厚く謝意を述べ、御来臨の諸君へも此事を御披露致すのであります、云々
    安達幹事の報告
 本日は生憎風雨荒く、特に海陸ともに一方ならぬ御困難なりしにも拘らず、御光臨を辱ふしたるは本院の光栄にして、感謝に堪へませぬ次第で御座ります
 本院には目下千余人の児童を収容して居りますが、玆に報告を致すは便宜上、棄児・遺児・迷児の三種の児童の統計調査を元として報告申げます
 本分院は児童の健康状態を改善するのが目的であつて、明治三十三年八月に仮保養所を設立する事になりまして、最初は勝山町広田松太郎なるものゝ家を借受け、十六名の弱い児童に保母・看護婦を付して移したのでありました、後一ケ年を経て同地の法福寺と申す寺を借り受けて移転し、本年で足掛十年、満八ケ年余に相成ります
 其後満五年を経過して、去る三十八年十二月迄に交代に派遣した児童の人員が二百四十四人、帰院の者が百八十九人、残員が五十五人ありました、其時保養所の創立前の児童の健康状態と、創立後の状態とを死亡率と病類別とに依りて統計調査しました、此調査には絶対に保養所の恩沢を蒙らぬ満三年以内の死亡者と、入院後五ケ月以内に死んだものは除きて、満三年以上にて入院五ケ月以上にて死んだものばかりに就て、創立前五年と創立後五年とに区別して調べましたのでございます
 創立前五年は百人に対し死亡率が五人七分五厘であつたが、創立後五年は二人五分四厘になりました、即ち此保養所の為めに、百人に対し三人六分一厘の児童が助かる事を証拠立てました
 又結核性の病気で死だものに就て、前五年と後五年を比例致すと、年齢三年以上、在院五ケ月以上で死だものに付て見ると、創立前五年は結核で死だものが二十九人、創立後五年は十二人であつた、前五年の在院人数は七百十三人で、後五年が千二百二十三人であるか
 - 第24巻 p.209 -ページ画像 
ら、前五年の百人に対するものは四人〇六厘で、創立後五年は百人に対し一人〇六厘であります、左すれば百人の内三人は、結核性で死ぬるのを免かれるのであります、是は単に死を免かるゝのみではありません、病気伝染の機会を少くし、他の健康状態を保全する上にも大影響があるのであります
 右の事を当時逐一其筋へ報告した結果、保養所は永遠に継続すると申す事に確定して終に此の分院の成立を見るに至りました、此間又三年を経過しました、こゝに又創立前八ケ年と創立後八ケ年との比例を取りました、即ち二十六年から三十三年まで創立前八ケ年が人数が七百三人、死亡者が六十五人、百人に対しては九人二分四厘の割合でありました、又同三十四年から四十一年まで即ち創立後八ケ年の人員が千八百九十三人、死亡が六十人で、百分比例が三人一分余で、此差が百人に対し六人一分余助る事が明になりました、目下棄・遺・迷児の外に窮民にも準行旅病人にも児童がありましてざつと千人余ありますから、此分院の為めに四十四人だけは死ぬべきものが助るのみならず、何れも健全に発育し早く世の中へ出づることも出来、従て伝染の機会も減じ他の者の健康をも保全する次第であります、玆に取別け申上たい事があります、之は黄癬と申す病気が全治する事であります、是は病気の事でありますから本来ならば医員の口からいづべき事で、光田副医長に報告せられたいと申ましたら、未だ学理上の研究の出来ぬものを学者として申す事は出来ぬと申されますが、私は素人でありますから、学理上分らぬ事でも事実を事実として申上る事は容易な事でありますから、素人の私より申上る事と致します、黄癬と申すのは頭部の毛髪の中に出来ます白癬の様なもので、白癬は全治しますが黄癬は全治せぬもので、毛髪を一本づゝ抜き取りて殺菌薬を塗り込んで治療をするものだそうでありますが、其毛髪を抜くと熱度が高まつて中々苦しいそうであります、中には全治しても髪が生へぬ様になります、男子はまだよろしいが女子が髪の毛がなくては甚だ困るのであります、院児に代島雪と申す女児がありまして、是が黄癬で治療にかゝりましたが、熱が出るので忌やがつて中止したのがあります、処で十六・七の女子でありましたから偶然炊事婦の手伝として保養所へ遣はした、すると一年ばかり経ていつとはなく黄癬が全治して、毛髪がのびて普通の通りに髪を結ぶ様になりました、是は不思議であると云ふので、河辺もとゝ申す黄癬の女児を又送りまして、尚当所に居りますが是も全治しました、其弟に河辺長次郎と申すのが感化部生で、是も黄癬で苦しんで居ましたから是も送りました、半年ばかりになりますが是も殆ど治りました、斯る事実がありますので、其理由は分りませぬが黄癬が空気療法で全治するのは事実であります
 話しは自然枝葉に亘りましたが、元来勝山町の仮保養所は六間四面の堂でありますから、肺病の疑あるものも、病室から出て回復期に在るものも、弱い児童も一所で居たので、保養所といふ事は或る場合は無意味になるのでありまして、此点に付ては屡々医員の注意も受けましたし、苦心致した事であるが、今や病室もあり、健康室も
 - 第24巻 p.210 -ページ画像 
十室に分れて、百人までは各種類に分けて収容が出来ますから、此点には少しの遺憾もありません
 併し家屋が結構に出来たからと申して、自然に成績を挙る事は出来ませぬから、自今一同誠意を込めて尽力致しましたならば尚一層の成績を挙るかと考へられます、十分心力を尽して御委任に背かぬ心得であります、尚殊に申上るのは、当地では費用が二割以上安価にあがる事でありますから其点も大なる利益となるのであります
 終に臨み仮保養所設置以来の成績を一括して申上ぐれば、三十三年八月より同四十二年三月末日までに、三百四十四人の児童中、全治帰院したるものが二百九十八人で、残り四十六人は勝山町保養所から此分院へ移したる児童であります
 尚一言申上げねばならぬことは此分院建築に関する決算であります建築費は、総体に於きまして二万六千四百七十五円五十二銭一厘にて、内訳千九百四十二円九十七銭は三十九年本院臨時費より支出致しました、之れは土地買上代と雑費とであります、二万四千五百三十二円五十五銭一厘は婦人慈善会より御寄附に係る土地建物等の支出費であります、即ちこれが内訳を申上ぐれば、三百四十円四十一銭は接続地買上代にして、二千八百二円二十銭六厘は地均し費、七百三十六円十六銭は土留工事費、一万七千八百十九円五十二銭三厘は建物築造費、二千八百三十四円二十五銭二厘は附属工事費であります、如斯次第で其大部分は全く婦人慈善会の厚意に成立致したものであります、以上長時間清聴を煩はした段は恐縮に堪えませぬ


養育院六十年史 東京市養育院編 第五〇九―五一六頁 昭和八年三月刊(DK240028k-0006)
第24巻 p.210-213 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第五〇九―五一六頁 昭和八年三月刊
 ○第六章 学校及分院
    第二節 安房分院
○上略 而して明治三十三年以降三十八年末に至る過去五ケ年余の保養成績に徴し、寧ろこれを永久的施設たらしむるの勝れるを認め、三十九年(一九〇六)七月、渋沢院長より尾崎東京市長に対し左の上申を為した。
 房州勝山町に設置有之候本院児童保養所の儀は、本院創立以来児童の死亡者肺結核に斃るゝもの甚た多く、三十一・二・三年間惣死亡者の百分の五十七は同病者なりしより、之を救済するの方法を講し当時医長医学博士入沢達吉の意見を徴し、沿海々気清潔の地に療養所を設るは最も好適なりとの事に付、当時御認可を得て試験の為めに創始致したる次第にて、開設以来満六ケ年に相成、実験の結果別紙報告書の通非常の好成績にて、又保養所に於ける費用の如きも本市に於けるよりも低廉にして、且滋養分に富めるものを得る事も容易なるのみならす、之か為めに児童病者の減少を来し、間接に全院費を減少し、年々少からさる予算残額を相生候様相成、児童の幸福本院の利益不鮮次第に有之候、斯の如く実験上充分の目的を達し候上は、将来永遠に継続致すへき必要有之と信認致候、然る処現今の場所は市街に接したる寺院を借用したるものにて、毎月八円つゝの家賃を要し、且寺院なるか故に家屋の構造不適当にて空気の流通、
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光線の射入等不宜、剰へ同地は冬季西方の烈風砂塵を飛し、小児の如きは家外に出る能はさるの日多く、保養所として甚た不適当に有之候間、之を継続致候上は、右等の憂なき相当の場所を撰定し、廉価なる地所を購入して適当の家屋を建築するか、又は幸に適当の地に適当の家屋有之候はゝ借入或は購入候か、両様の内相当の方法相設申度候間、御庁に於て右係員御撰定相成、本院幹事と共に派遣せられ、沿海地海水清潔運輸不便ならさる地に於て、相当の場所撰定方御取計相成候様致度、此段上申候也
  明治三十九年七月十八日
              東京市養育院長 渋沢栄一
   東京市参事会
    東京市長 尾崎行雄殿
市長は右の上申を是認し、こゝに移転地捜索の為め八月庶務課長山崎林太郎へ出張を命じ、本院よりは安達幹事出張し、九月に入り両名より詳細の復命報告を市長へ提出したるが、その結果として、安房国船形町に安房分院を建設することに決したのである。而して右分院の建設費に付き、慈善会長男爵夫人渋沢兼子より左の申出かあつた。
    寄附願
 第十四回本会収入高金六千五百余円有之候処、本会議定員会に於て御市養育院安房分院御建設の費用に可投事に決定仕候、就ては同分院敷地々均し御着手の順序に相成居候趣に付、本会決定の趣旨貫徹の第一着手として、該工事は御市監督の下に、御指定の方法により本会に於て執行寄附仕度候間、御許可相成度、此段奉願候也
  明治四十年三月七日
           東京市養育院慈善会長 渋沢兼子
   東京市参事会
    東京市長 尾崎行雄殿
この寄附出願は許可せられ、市会の議決により安房分院建設敷地にこれを充当することゝなつた。斯くて同年五月該敷地々均しに着手し、次で新築工事を起したるが、四十二年(一九〇九)四月建築落成したるを以て、同十二日九名の職員及院児四十六名を勝山より移転せしめた。五月十三日に至り、該分院の名称を「東京市養育院安房分院」と称し度旨上申せるに、同十九日付を以て尾崎東京市長より認可の指令あり、こゝに名実とも安房分院の完成を見たのである。
 依て同月十六日を以て同分院開院式を挙行した。渋沢院長は慈善会長たる同夫人同伴にて陸路を迂回して船形に着、来賓百二十余名に上り開式、席上先づ安達幹事の報告、渋沢院長の演説に次ぎ、尾崎東京市長の式辞、有吉千葉県知事の祝辞、正木船形町々長の祝辞等ありて式を終り、来賓一同へ晩餐を供し午後五時散会、その際院長並同夫人には当日の式を寿ぎて次の歌を読まれた。
  うつし植えし人の心を身にしめて
     仇になさきそ河原なてしこ     渋沢院長
  たゝよひしよるへの岸は船形の
     うちの情けにおほしたつらむ    男爵夫人 兼子
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  皆人の恵みの露を力にて
      やかて咲かなん撫子の花     男爵夫人 兼子
この分院所在地後部の山林には二ケ所の石材採掘場あり、山腹に土砂堆積し、雨天毎に境内に流出するのみならず、他日樹木を濫伐さるゝに至れば、井水枯渇の虞あるを以て、これが買収を画策せる際、慈善会長男爵夫人渋沢兼子より該地購入寄附の申出があつた。
 安房分院将来の御経営に関し、別紙地主等承諾の分に対し不取敢購入御寄附申上度、追て諸工事に関する費用も本会に於て負担可致候間、右御受領方可然御取計相成度、此段奉願候也
  明治四十三年三月二十一日
           東京市養育院慈善会長 渋沢兼子
    東京市養育院長 男爵 渋沢栄一殿
     (別紙地主等承諾書省略す)
この寄附申出により、渋沢院長より市長へ左の上申を為した。
 安房分院後部山林に石材採掘場二ケ所有之、為之山腹に土砂堆積し雨天毎に境内に流出するのみならす、該山は船形町区有及私有林にて、将来濫伐候時は井水枯渇の憂有之候、又両袖地は一方同所大福寺所有地にて茅屋二戸、西側袖地にも亦一戸の民家有之、不便不少候、就ては後山の一部及袖地とも之を買収し、袖地は事務所敷地同様の高さに之を埋立、其埋立用の土砂は後山堆積の土砂を使用致し土砂採取跡は之を平均せは凡四・五百坪の平地を得らるへく山林の分は枯損木の外は永遠に之を伐採せさる事とし、樹木之なき場所は幼樹を植付け候はゝ水源涵養林とも相成、一方には風致も増し可申将来分院の経営上必要の事と被存候処、今般養育院婦人慈善会長渋沢兼子より、安房分院将来の経営上必要の費途有之候へは寄附致度旨申出に付、前述の趣申伝候処、前記の場所所有主に交渉の末不取敢東袖地(百八十七坪)西袖地(四十二坪)後山区有の分(千坪)買収の交渉に応し候趣にて、別紙写の通り寄附受領方申出有之候、尚左記石垣地均し・土砂運搬費用も支出可致旨に有之候間、夫々設計方御取計相成候様致度、此段上申候也
  明治四十三年三月二十二日
            東京市養育院長 男爵 渋沢栄一
   東京市参事会
    東京市長 尾崎行雄殿
越えて七月二十二日付を以て、左の寄附願が提出された。
    寄附願
 安房郡船形町船形八百参拾弐番の壱字堂の下
 一、山林弐段歩
     此売買価格金参百円也
 安房郡船形町大字船形字野房千参百七拾五番の壱
 一、山林五畝参歩
     此売買価格金参百八拾弐円五拾銭也
 安房郡船形町大字船形字野房千参百七拾五番の弐
 一、宅地壱畝四歩
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     此売買価格金八拾五円也
 安房郡船形町大字船形字野房千参百七拾八番の五
 一、畑壱畝拾弐歩
     此売買価格金百五拾円也
 安房郡船形町大字船形字野房千参百八拾九番の弐
 一、原野壱段参畝拾歩
     此売買価格金弐百八拾円也
 一、病室敷地々均及石垣新設工事
 安房分院も漸次拡張せられ候に就ては、敷地として後山なる区有地を購入寄附仕り候はゝ好都合なる旨院長の御内意も有之、又同分院東西の袖地は啻に境界の錯雑なるのみならす同所には茅屋数戸有之火災等の憂も可有之、又後山なる原野は同分院用水の水源涵養上、常緑樹を植付け其他必要の施設を為す等の必要も可有之、依て今般拙者の名義に於て本会に買取り七月十五日付所有権移転の登記も終了致候に就ては右所有並に敷地々均工事共本会に於て寄附仕り度候条、御受領の上工事御監督方可然御取計相成候様致度此段奉願候也
  明治四十三年七月二十六日
           東京市養育院慈善会長 渋沢兼子
   東京市参事会
    東京市長代理東京市助役 原田十衛殿
八月二十四日この議市会に提出せられ、市会はこれを受領することゝ議決した。斯の如く安房分院は、養育院慈善会の寄附によりて開設せられたのである。爾来病弱児の療養を兼ね小学教育を授くる所となり海浜療養所、又今日の所謂臨海学校の先駆を為したのであつた。
○下略



〔参考〕東京市会史 東京市会事務局編 第三巻・第六四七―六四八頁 昭和八年三月刊(DK240028k-0007)
第24巻 p.213-214 ページ画像

東京市会史 東京市会事務局編  第三巻・第六四七―六四八頁 昭和八年三月刊
 ○明治年間 第六章 明治四十三年
    第弐拾壱節 救育事業
▽養育院安房分院ヘ土地其他寄附受領ノ件
 第百六十二号
    土地其他寄附受領ノ件
 千葉県安房郡船形町大字船形字堂ノ下八百三十二番ノ一
 一 山林弐段歩
    此見積価格金参百円
 同県同郡同町大字船形字野房千三百七十五番ノ一
 一 山林五畝参歩 (立木共)
    此見積価格金参百八拾弐円五拾銭
 同県同郡同町大字船形字野房千三百七十五番ノ二
 一 宅地壱畝四歩
    此見積価格金八拾五円
 同県同郡同町大字船形字野房千三百七十八番ノ五
 一 畑壱畝拾弐歩
    此見積価格金百五拾円
 - 第24巻 p.214 -ページ画像 
 同県同郡同町大字船形字野房千三百八十九番ノ二
 一 原野壱段参畝拾歩
    此見積価格金弐百八拾円
 一 敷地地均及石垣新設工事
    此工事費見積価格金四百四拾六円四拾銭
    但工事ハ本市ノ指揮監督ノ下ニ施行スルコト
右東京市養育院慈善会長渋沢兼子ヨリ、左記ノ通寄附申出アリタルヲ以テ、之ヲ受領スルモノトス
  明治四十三年八月
(左記略ス)



〔参考〕竜門雑誌 第二五二号・第七九―八〇頁 明治四二年五月 ○青淵先生の総房地方旅行(DK240028k-0008)
第24巻 p.214-215 ページ画像

竜門雑誌  第二五二号・第七九―八〇頁 明治四二年五月
○青淵先生の総房地方旅行 青淵先生の院長たらるる東京市養育院の安房分院は、此度新築落成を告げ、本月十六日開院式を挙行せらるゝに付き、先生には令夫人と共に之に出席の序を以て、是迄旅行せられざりし総房地方の古蹟形勝の地を探らん為め令嬢を伴ひ、渋沢事務所員増田明六君を随ひ、去る十四日午前八時廿五分両国を発車せられたり、玆に右旅行の経過を簡単に摘録すれば左の如し
 十四日雨 午前八時廿五分両国を発し正午大原に着し同地竹屋に小憩、午食の後一行馬車に乗じて太平洋沿岸の壮大なる景色を賞しつつ午後七時小湊に到り清海楼に投宿せらる、本日の行、勝浦小湊間道路険悪、加之連日降雨の為め崖崩等ありて困難を極められたり
 十五日雨 早朝雨を衝て日蓮上人出生の誕生寺に詣で、現住職金塚日梵氏と語られ、夫れより鯛の浦に出遊し、返りて馬車に乗じ、途中小松原に日蓮の遭難を偲び、鴨川に至りて午食を為し、午後沿岸の景色を賞しつゝ進み、仁右衛門島に渡り、頼朝の古蹟を観、再び沿岸の道路を進行して御前村に到り、安房郡長太田資行氏(代理)船形町長正木清一郎氏の出迎はれたるに遇ふ、夫れより松田に到れば、東京市養育院安達憲忠・桜井円次郎の両氏出迎はる、此日午後八時十五分北条に着し、吉野庵に投宿せらる
 十六日雨 午食の後吉野庵を発して船形町に到り、午後二時東京市養育院安房分院開院式に臨まれ、一場の演説を為し、式終りて先生には午後五時より北条中学校に催ふされたる講演会に臨み、経済上に関する演説を為し、船形に帰りて一行の旅宿と定められたる山口弥惣次氏方に投宿せらる
  因に安房分院は、青淵先生令夫人の会長たらるゝ養育院婦人慈善会に於て、建築費二万余円を投じ新設の上回院に寄付せられたるものにて、院児の虚弱者・肺病疑似者其他主として呼吸病患者を玆に収容して、其保養に充つる目的なりと云ふ
 十七日晴 午後六時四十分馬車に乗じて船形を発し、東京湾沿岸の道路を進み、富浦に於て同村長川名正吉郎氏の案内にて枇杷酒製造株式会社を一覧し、勝山・保田を過ぎ、鋸山を望み、湊町に到りて午食を為し、此地に於て尚馬車一輛を雇ひ、一行之に分乗して総房第一の高山(千五百尺)と称する鹿野山に登り、頂上の薬師如来に
 - 第24巻 p.215 -ページ画像 
詣で、九十九谷の勝景を賞し、夫れより再び馬車を駆りて午後九時木更津に到り、鳥飼に投宿せらる
 十八日晴 午前八時木更津を発し、途中八幡に於て午食を為し、夫れより千葉町を一見して午後四時二分同地発汽車に搭じ、五時四十五分両国に帰着、直に飛鳥山邸に帰館せらる



〔参考〕明治四十二年度東京市養育院第卅八回報告 挿図 刊(DK240028k-0009)
第24巻 p.215 ページ画像

明治四十二年度東京市養育院第卅八回報告  挿図 刊
    安房分院
  一敷地       千七百六十四坪
  一総建坪      三百五十九坪二合一勺九才
      内訳
   一校舎(に)         四十二坪七合五勺
   一同附属便所         二坪三合三勺
   一同附属廓下         二坪
   一児童居室 (二棟)(ろ、は) 百四十四坪
   一同廓下           三坪
   一同便所           六坪五合
   一事務室(い)        七十三坪五合
   一同附属便所         四坪五合
   一火夫便所          一坪六合七勺
   一病室(へ)         十九坪二合
   一同附属便所         一坪八合一勺
   一役宅(と)         二十七坪四合一勺六才
   一食堂浴室渡り廊下(ほ)   二十六坪五合四勺三才
   一井戸上家          四坪
   一木棚            百八十九間
   一表門            一箇所
   一裏門            一箇所
挿図
   ○本款明治三十三年七月二十四日及ビ明治十九年七月三日ノ各条参照。