デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第24巻 p.215-232(DK240029k) ページ画像

明治42年6月5日(1909年)

是ヨリ先明治四十一年七月九日、栄一、当院院長トシテ児童収容所ヲ別置センコトヲ東京市長尾崎行雄ニ上申セシガ、是日、当院巣鴨分院成リソノ開院式ヲ行フ。栄一之ニ出席シテ演説ヲ為ス。


■資料

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述 第二四―二九頁 大正一一年一一月刊(DK240029k-0001)
第24巻 p.216-217 ページ画像

東京市養育院創立五十周年記念回顧五十年 渋沢栄一述  第二四―二九頁 大正一一年一一月刊
    十二 老幼別置の必要
 本院創立当時は言ふ迄もなく、明治二十九年に小石川大塚の現在地へ移転した後ち迄も、年齢に由る収容者の別異と云ふことは殆ど行はれて居なかつたので、仮令居室は区別するも、詰まり老者も壮者も、棄児・遺児・迷児も同一構内、否な寧ろ同一家屋内に養つて居たのである、然かも大人収容者なるものゝ多くは心身共に頽癈者であつて、其日常の言語動作が幼少年者に悪影響を及ぼすこと少なからざるの虞れがあつたから、何とかして老幼を別置しなければならぬと云ふことを、泌み泌みと感ずるに至つた、此感は収容者が年と共に増加するに従つて愈々切実となり、適当なる場所を見付け且つ之れに要する資源を得て幼少年者の分離を実行したいと、種々に思案を凝らしたのである。
    十三 院資増殖会の力で巣鴨分院
 斯くて彼れ是れと思案するうちに明治三十九年となつた、別置費用の調達の為めに市経済より繰入れを仰ぐことが到底出来ないとすればどうしても寄附金に依らなければならぬ、そこで遂に決心して、同年中院資増殖会なるものを設立して大に寄附金を市内に募集し、幸に八九万円の寄附予約を得たから、偖てポツポツ候補地でも探がさうと云ふ段取りとなつた、時に恰も好し市外西巣鴨に宏文学院と云ふ学校があつた、元は東本願寺の建設に係かる真宗中学の校舎であつたのを、嘉納治五郎氏が借受け、宏文学院と名づけて支那の学生を収容教育して居た場所である、噂によれば其れが本願寺から売物に出て居るとの事であつた、そこで一応場所や建物を視察して見ると、土地は一万坪足らずあり、建物も学校と寄宿舎とに別れて居つてナカナカに立派である、唯だ寄宿舎の部屋が稍や広過ぎて幼少年の寄宿寮としては聊か不適当に感じたが、大体に於て至極手頃のものであつた、第一に場所も宜い、運動場なども充分に取つてあるからどうかして之れを買ひたいと思つて、売値を聞くと十二・三万円だと云ふことである、金は未だ出来て居ないが取り逃がしては残念だと思ふて、今は故人となつたが当時の東本願寺浅草別院の輪番大草恵実氏と交渉して兎に角も売買の内約だけは結んで置いた、夫れから余は直ちに市参事会に出頭して幼者別置の必要を丁寧に説明して、右東本願寺所有の土地建物買入れの希望を述べ、院資増殖会で寄附金を集めてから買ふ筈ではあつたけれどそれまで相手方を待たせて置く訳けに行かぬから、此際是非市より十二・三万円の金を出して呉れと申出たが、市参事会では迚もさう云ふ事は出来ないと言はれた、そこで余は然からば斯ふ云ふ方法がある、院資増殖会の寄附金は申込だけは既に八・九万円出来て居るが、既収入の金は未だ四万円内外で全部は五年の後ちでなければ集まらぬが、尚ほ精々募集を継続して十二・三万円の金は必ず拵らへるから、差向き右既収の寄附金四万円以外の不足額は之れを養育院基本財産の一部を以て充当することを承認して貰ひたい、而して斯くすれば又た基本金から生ずる利子が減少するから、勢ひ市部窮民の入院数を減ず
 - 第24巻 p.217 -ページ画像 
ることゝなるが(其頃の本院経費分割の方法は、基本財産より生ずる利子を以て市部窮民の収容費に充るものと取極めるたるに依る)それは養育院として忍びないことであるから、右の利子に該当する金額だけを市より補給して貰ひたい、其代り本院では努めて寄附金を募つて、向ふ両三年の間に必ず基本金の不足額を補充すると懇願の末、市参事会の同意を得て軈がて市会に提案し、其議決を経て始めて巣鴨分院が出来たのである、但し基本金の補充は少し遅くれて大正二年に漸やく補充済みとなつた、然かし幸なことには寄附金の集り方が意外に好成績で基本金を補塡して尚ほ残余があつた為め、後年板橋分院(板橋分院の性質は後とから申しますが)の建設に際し、敷地の買入代金参万参千余円は右寄附金の残額中より之れを支弁し得たのである。
 偖て右の買収が滞りなく相済み、一切の設備を整へて大塚の本院から児童を此所に移したのが明治四十二年の三月で、之れを養育院巣鴨分院と命名した、斯くて余が多年の希望にして然かも養育院の一大要務たる老幼別置の実を挙ぐることが出来たのである。


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK240029k-0002)
第24巻 p.217-218 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年         (渋沢子爵家所蔵)
五月二十七日 雨 軽寒
○上略 午前九時巣鴨宏文学院ニ抵リ、地所家屋ヲ一覧ス、学院ハ東本願寺ノ所有ニシテ、養育院ノ為メ之ヲ購入セント欲スルヲ以テ其内容ヲ視察セシナリ、後養育院ニ抵リ要務ヲ処理シ ○下略
   ○中略。
六月五日 晴 暖
午前六時半起床入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス ○中略 後、安達・大草二氏来リ養育院幼童別置ノ土地家屋ヲ本願寺所有ノモノニ付協議ス ○下略
   ○中略。
六月十三日 雨 冷
○上略 午前十時養育院ニ抵リ中島行孝氏ニ面会シテ院務ヲ談ス、安達・高畠・桜井三氏ト感化部拡張ノ件、幼童別置ノ方法等ヲ協議ス ○下略
   ○中略。
六月二十四日 晴 暑
○上略 四時市役所ニ尾崎氏ヲ訪ヒ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
六月二十五日 曇 暑
○上略 安達憲忠氏来リ、養育院ノ事ヲ談ス ○下略
六月二十六日 雨 暑
○上略 東京市ニ抵リ尾崎市長ト面話ス、養育院ニ関スル要務三件ヲ談ス ○中略 夜十時王子ニ帰宿ス、成瀬仁蔵・安達憲忠二氏前後来訪ス
   ○中略。
七月十日 晴 冷
○上略 安達憲忠氏ノ来訪ニ接シ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
七月十三日 晴 暑
○上略 午前十時養育院ニ抵リ安達・高畠其他ノ吏員ト児童教育ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
 - 第24巻 p.218 -ページ画像 
七月十八日 曇 冷
○上略 九時養育院ニ抵リ元良勇次郎氏ト会見シ、低能児教育ノ事ニ関シ談話ス ○下略
   ○中略。
八月三日 晴 大暑
○上略 安達憲忠氏来リ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
九月八日 曇 冷
○上略 午前九時半養育院ニ抵リ安達・高畠氏等ト院務ヲ談ス、畢テ幼童室ヲ一覧ス ○下略
   ○中略。
九月十三日 雨 冷
○上略 九時頃ヨリ養育院ニ抵リ安達・高畠二氏ト院務ヲ協議シ、十二時王子ニ帰宅ス ○下略
   ○中略。
十月四日 晴 冷
○上略 大草恵実氏ノ来訪ニ接シ、養育院幼童別置ノ家屋ニ付本願寺別院購入ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月六日 晴 冷
○上略 高畠登代作来リ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月九日 晴 冷
○上略 安達憲忠氏来リ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十月十三日 晴 冷
○上略 十時養育院ニ抵リ要務ヲ処理ス ○下略
   ○中略。
十一月十二日 半晴 寒
○上略 福島甲子三・岡崎遠光・安達憲忠氏等前後来訪ス ○下略
   ○中略。
十一月二十七日 晴 寒
○上略 安達憲忠氏ノ来訪ニ接シ養育院ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
十二月十八日 曇 強風
○上略 午後三時半東京市役所ニ出頭シ、養育院ノ事ニ関シ談話ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治四二年(DK240029k-0003)
第24巻 p.218-219 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年         (渋沢子爵家所蔵)
五月十三日 曇 冷
○上略 午前九時半巣鴨分院ニ抵リ高畠・吉藤・高田三氏ト養育院児童ニ一場ノ訓示ヲ為ス、畢テ院内ヲ一覧シ、三氏ニ処務ノ要旨ヲ示ス、更ニ養育院本院ニ抵リテ院内ヲ一覧ス ○下略
   ○中略。
六月二日 曇 暑
 - 第24巻 p.219 -ページ画像 
○上略 午前九時半巣鴨分院ニ抵リ、手島高等工業学校長ト会見シ院内ニ工業修学ノ方法ニ付種々ノ談話ヲ為シ、共院内《(ニ脱)》ヲ一覧ス、三名ノ同伴者アリタリ、安達幹事・吉藤・高田二氏等ト共ニ各室ヲ巡覧ス ○下略
   ○中略。
六月五日 曇 冷
○上略 正午銀行倶楽部ニ抵リ ○中略 畢テ養育院巣鴨分院ニ抵リ開院式ヲ挙行ス、内務大臣・逓信大臣其他、府市ノ名誉職等悉ク来会ス、祝詞数多アリ、最後ニ余ハ謝辞ヲ兼タル一場ノ演説ヲ為ス ○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第五二三―五二五頁 昭和八年三月刊(DK240029k-0004)
第24巻 p.219-220 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第五二三―五二五頁 昭和八年三月刊
 ○第六章 学校及分院
    第三節 巣鴨分院
○上略 七月九日 ○明治四一年渋沢院長より市長へ左の上申を為したのである。本院は明治二十六年入院者五百人内外の節、八百人を程度として設計建築し、二十九年三月中移転せしものに有之候処、其後入院者逐年増加し、随て女室・病室・児童室等幾分増築せしもの有之候得共近年に至りては在院者千五百余人に増加し、各室とも狭隘を告け、目今室に依りては一坪二人半を収容するか如き状態にて、衛生上被害少なからす、大に増築を要するの止むを得さるに立至り候、然る処本院入院者中、児童は病者・老癈者と全く区別して収容すへき必要有之候、何となれは病室に呻吟せる病者の外、比較的健康者と称する老癈者も、多くは将来自立の目的なく、徒食致居候もの十中八九に居り、幾分労役手工に従事し得られるへき者も、半人前の業務をも為し得る者稀なる状況に有之候、然るに児童は将来社会に立て相当の業務に就き、国民の本分を尽さしむへき者に候間、教育の傍製物の能を練磨し、勤労の習慣を養ふ様可致必要有之にも拘らす、是を一院内に差置候ては、一方に勤勉努力を教へなから、周囲に於ける怠惰徒食の実情を見聞せしめ、所謂自家撞着と申す次第にて、教育上の阻碍少なからすと存候
 右今回建築を要するに立至り候を機とし、児童収容所を別置するの要ある所以は、曩に登庁の上委曲口述致候次第にて、爾来本院近傍成へく便宜の地に於て、相当の地所を見立、購入建築方上申可致見込にて種々捜索中、真宗東本願寺所有北豊島郡巣鴨村所在真宗中学家屋地所売却の意ある趣承及候間、其向へ聞合候処、価格拾五万円位にて売却希望の由返答有之候、依て小職及市技手・本院幹事等同校内一覧致候処、同所は本院を距る僅かに八・九丁、去る三十六年中の建築にて、地所広濶、用材建方共堅牢と認られ、寄宿舎も凡五百五六十人を収容し得らるへく、校舎・炊事場・会堂・浴舎、其他の設備も完備し居り、之を購入するときは差したる手入を要せすして直ちに児童全部を移し得られ、従来の室は専ら男女老癈者・病者等の収容所に充当致候へは、各種の不便を除き可申に付、右購入方御取計相成候様致度、尤も価格の儀は別紙の通建築物は市技手の見積書に依り、地価は附近の模様を承り合せ、実価概算拾参万余円の見込に有之候、本願寺より申出価格は拾五万円と申事に候へとも、
 - 第24巻 p.220 -ページ画像 
未た価格に対する交渉を致したるものに無之候間、充分交渉を遂候へは、若干の減額を致候事と存候、該費途に就ては左記条々御採用相成候様致度此段上申候也
  一、本院基本財産を市経常費へ御繰入相成、之を購入費に充てられ、支出基金に対する利子は年々市経常費より本院経常費へ補充せらるゝ事
  一、右土地建物購入費の為めに減したる基本財産は、本院の為めに設立せる東京市養育院資増殖会より年々納入せる寄附金を以て補塡するものとし、年々該補塡額に応し市経費より本院経費補給額を減額し、増殖会の寄附金基本金全部を補充するに至りて市経常費の補給を廃止する事
  一、院資増殖会の現況は別紙(別紙省略)の通りにて、尚拡張の見込有之候に付、同会より年々寄附の金額は数年間に拾四・五万円の額に達すへしとは信認致候得共、万一同会に於て基金支出金額を塡補する能はさる場合に於ては、其基本金不足額の利子は永く市経常費より補給相成度候事


竜門雑誌 第二五三号・第四二―四三頁 明治四二年六月 ○東京市養育院巣鴨分院開院式(DK240029k-0005)
第24巻 p.220 ページ画像

竜門雑誌  第二五三号・第四二―四三頁 明治四二年六月
○東京市養育院巣鴨分院開院式 東京市養育院は近来収容者増加するに従ひ、病者・老癈者と健全なる児童を同一院内に収容するとの相互間に不利益なるを感じ、今回巣鴨なる元真宗中学の校舎を買収して分院とし、此処に児童の全部を移したるを以て、本月五日午後二時分院の開院式を挙げたるが、当日は来賓一同着席するや、救養の児童は君が代を謳ひ、安達幹事々業を報告し、尾崎市長の式辞に次て、平田内務大臣・阿部府知事・久米中央慈善協会惣代順次に祝辞を朗読し、最後に院長たる青淵先生は、養育院現状と将来の希望に就て演説を試みられ、終て貞水の講談あり、夫れより一同は院内を参観し休憩所に於て晩餐の饗応ありたり、当日来賓は平田・後藤両大臣を始め朝野紳士数百名なりしといふ


東京市養育院月報 第一〇〇号・第三三―三八頁 明治四二年六月 ○巣鴨分院の開院式(DK240029k-0006)
第24巻 p.220-227 ページ画像

東京市養育院月報  第一〇〇号・第三三―三八頁 明治四二年六月
○巣鴨分院の開院式 六月五日午後二時五十分巣鴨分院開院式を挙行せり、当日来臨を辱ふしたる朝野知名の諸氏は
    盲唖学校教諭    石川倉次君   芝区書記       石田幸太郎君
    赤坂区書記     石渡直道君   牛込区書記      池田甚之助君
    本郷区書記    池川賢太郎君   大学教授医学博士    入沢達吉君
              飯田宏毅君   小石川警察署     飯塚斉三郎君
    市事務員     井上喜太郎君   神社局長        井上友一君
             羽島慶太郎君   東京府事務官      浜野虎吉君
    中央慈善協会     原胤昭君                原礼子君
    深川区書記     花房金吾君
    駒込病院医長    二木鎌三君   市会議員        西沢善七君
    小石川区書記    細井準次君   市会議員         細野順君
    四谷区長      星野佐昭君             保土塚ヒサ子君
 - 第24巻 p.221 -ページ画像 
    板橋警察署長    法元盛行君               穂積重遠君
              豊田作平君              外谷弁次郎君
             地城三四郎君
              奥村義一君   小石川区書記       岡田釣君
    東京市長      尾崎行雄君   同令夫人        尾崎英子君
    市営繕課長     小沢益知君               大淀兼輔君
              織田剛式君              岡山次郎作君
             岡山芳太郎君
             渡瀬寅次郎君               和田重吉君
             加茂トミ子君                河田烋君
              河治秀次君   京橋区長        川田久喜君
    大学教授医学博士  片山国嘉君              加古弥一郎君
             笠倉覚之助君              亀山忠之助君
    芝区長      風祭甚三郎君
    麹町区書記     吉田輝一君               横川全戒君
    市事務員       吉川等君               芳野世経君
              武石行正君               高木義成君
             高田小市郎君   北豊島郡長        田中端君
              田中鉄斎君   巣鴨収入役       田村綱造君
    巣鴨村長     田崎惣太郎君              谷口真次郎君
    無料宿泊所     高島健作君   下谷警察署長      宝田通経君
    新宿警察署長    高橋守雄君              高橋彦太郎君
              高木喜子君   赤坂区書記       曾谷一規君
    佃速記所      佃与次郎君                辻重郎君
    福田会理事     中里日勝君   日本橋区書記     中野程之助君
    市技師      南郎常次郎君              長島辰五郎君
    内務省嘱托     生江孝之君
              村瀬由蔵君   小石川警察署長     向井〓雄君
              浦田治平君              瓜生祐次郎君
    深川区長      植木武彦君              宇田川貴啓君
    市収入役     楳川忠兵衛君
              桑山重信君   中央慈善協会      久米金弥君
    警視庁第三部長   栗本庸勝君   市技師長      日下部弁次郎君
    本郷区書記    桑原勝太郎君   深川区書記      国枝捨次郎君
    神田区書記     屋代安平君   神田区書記     山岸袈裟五郎君
    下谷区書記      山口壮君   下谷区長        山田敬正君
    市経理課長     山県鉄蔵君              矢吹幸太郎君
    船形町長     正木清一郎君               松葉専成君
    市会議員     松崎権四郎君   市会議員       松下善太郎君
    本郷区書記     益田貫一君               増田明六君
              松田密信君   文部省普通学務局長   松村茂助君
              正木一郎君               牧野英一君
    浅草区書記    福田長一郎君   市会書記長       藤原和吉君
    日本橋区書記    藤田豊吉君   芝警察署長      古川権九郎君
 - 第24巻 p.222 -ページ画像 
    市事務員      古橋幸松君   市事務員        福永照次君
              藤井久吉君                藤波恒君
    逓信大臣男爵    後藤新平君   赤坂区長        近藤政利君
    盲唖学校長     小西信八君             幸田清左門衛君
    市会議員       肥塚竜君               後藤省吾君
    市会議員     小柴市兵衛君
    牛込区書記     手島経覚君               朝野光貞君
             朝岡与次郎君               秋保安次君
    日本橋区書記    鮎貝千矢君   内務属         相田良雄君
              青鹿秀栄君              浅野総一郎君
              浅野令夫人   市会議員        荒木重次君
             秋田又太郎君   典獄         有馬四郎助君
               安藤弘君              荒尾チサ子君
    前大蔵大臣男爵   阪谷芳郎君   市会議員       佐々木和亮君
    小石川大塚分署長  桜井誠意君   市会議員       坂入宗兵衛君
    衛生課長      佐藤三吾君   四谷警察署長     佐々木秀司君
    市浄水課長     斎藤久慎君   第四消防長       佐野盈利君
    市会議員       酒井秦君
    東京養老院長    菊池尚彦君   小石川郵便局長    喜多方善信君
              北越戒定君   小石川区書記      児島秀信君
             美名本七郎君              三島小太郎君
    神田警察署長    宮越正良君               宮田真吉君
               白井浩君   京橋区書記       清水安孝君
    市会議員       志村屯君              白井竹次郎君
             修多羅亮延君              真竜斎貞水君
              渋沢篤二君   内務大臣        平田東助君
             広瀬清兵衛君   小石川区書記      疋田盛一君
             平山壮太郎君   市事務員        平野平七君
    市事務員      森寺勇吉君              盛家亀次郎君
    小石川区書記    森佐久馬君   牛込区書記     瀬戸岡赫一郎君
    小石川区長     須崎緝作君
             読売新聞記者              日本新聞記者
             報知新聞記者              毎日新聞記者
             日々新聞記者              朝日新聞記者
             二六新聞記者              中央新聞記者
            万朝報新聞記者            中央商業新聞記者
            やまと新聞記者              電報新聞記者
            朝野通信社々員             帝国通信社々員
              電報社々員
          玉姫尋常小学校教員           鮫橋尋常小学校教員
等の諸君にして、車馬絡繹門の内外に輻湊せり、院内校舎は之れを菖蒲室・白薔薇室・菊室・石竹室・芍薬室・赤薔薇室に別ち以て来賓席に供し、其他受付・携帯品扱所・供待場・事務室・委員控室・調度室児童成績品陳列場・製作品販売場・警官控所・児童余興場等之れを各
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室適宜の場所に設け、式は午後二時を過ぐる三十分院の中央なる会堂に於て開けり、最初第一鈴の信号を以て職員及児童着席し、第二鈴に於て来賓の列席を了、敬礼の後児童の唱歌に移れり、劉喨たる奏楽は君が代の三唱を卒へて、開院の唱歌に及びぬ、次て児童退席の後に於て安達幹事児童に関する報告を為し、尾崎市長の式辞、平田逓相・阿部東京府知事・中央慈善会総代久米金弥氏等の祝辞あり、最後に渋沢院長は挨拶を兼て一場の演説を為して閉会せり、式後余興として真竜斎貞水の講談あり、併せて番外余興には児童の為め食堂に於て太神楽剣舞・自転車曲乗等ありて、何れも満場の喝采を博せり
○中略
    巣鴨分院開院式渋沢院長の演説
閣下並に紳士淑女諸君、本日は当巣鴨分院の開院式を挙行致すにつき御来臨を辱ふしたるは感謝に堪へぬ次第であります、就ては本分院を設置致しました概略を申上ぐるの職責あると心得ますから、御挨拶かたがた暫時清聴を煩はす次第であります
抑も本院が東京市の救済機関として現はれましてから、殆どここに三十八年の星霜を経過致して居ります、其間に於きまして救済したる数は二万七千余人に達し、其内自活の途が立ちました者や、養子又は雇預として退院せしめた者を合計しますれば一万三千余人であります、尤も棄児・遺児・迷児の収容依託を受けましたのは明治十八年以後の事で、其の以前に於ても窮民中に子供は居ましたが至つて小数のものでありました、然るに近年は児童と大人とが、凡そ四に対する六と申す割合になりまして、現在一千七百人足らずの内、児童がざつと千人になつて居ります、此の大人の病人とか老癈者とか云ふ種類と、児童とを同院内に一所に置きますのは、仮令其中に区劃があるにしてもよくない事は見易い事実で、学理に訴へるまでもない、第一は教育上の衝突とでも申しませうか、第二は病気伝播の虞れがあり、第三には取扱上に困難である、他にも色々あるが先づ此の三つが最も顕著なるものであります、第一の点を具体的に申せは、入院の老人・癈人は徒食者が多数で、少し位手足が動いて何か手工に従事するものがあつても半人前の働きも出来ぬものばかりであるが、子供は将来第二の国民として社会に活動すべき者で、第一に働く事を教ふべきものであるのに眼前に徒食者や病人を見せて置くのは甚だ面白くない、蓋し子供の心的状態は眼より来る感化は、耳より入れる教よりも強いからであります、是れが即ち教育上の衝突で所謂自家瞠着である、第二・第三の事は申上ぐる迄もない事と存じます、斯くては到底完全なる収容の目的を達する事が出来ぬ、此の事に就ての苦心は実に久しい前よりの事でありました、が何分児童を別置するには十数万円の費用を要するので此の金を得るは中々容易の事でない、若し基本財産から支出する事にすれば、其利子で救助して居る三百余人の窮民の入院を減ぜねばならぬ、元来此の大都会で僅々三百人位の救助では、甚だしい困窮者をすら救助し得るに不足なのは勿論で、其の元資金を減じて是れ以下に入院者を減ずるに忍びません、是が為に甚だ悪いと知りつゝも、久しく手を付ける事が出来なかつたのであります、然る処東京市の膨脹に連
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れて年一年入院者は増加の勢を示し、明治二十七年入院者常在の人員五百人位の時に、将来八百人位を収容し得らるゝを目的として、建築した本院も漸次に狭隘となり、止むを得ず次へ次へと建増を致しました、で其仕方も先づ女健康者を男子と別置し、次には男の肺結核患者の病室を別置し、次で女の肺結核患者を分け、感化部を別置し、井の頭学校を設け、其跡には十二年以上の女児を之に移し、次で肺結核に罹り易きもの及其疑ある者、病後にて結核に罹り易きもの、斯る児童を房州に保養所を設けて常に五・六十人は夫へ遣はして置く抔、必要に迫られて拡張し来りました、が此の近年は人院者が一層甚だしく増加するので、一昨年末の如きは千六百余人の多きに達し、畳一畳に一人以上と申す様の状況に差迫つて、衛生状態が甚だよろしくない、余り人員多数の結果、気管支の病に罹るものが続出する様になりましたから、是では一日も捨て置くわけに行かぬと云ふので、近所の下宿屋の空屋を買受けて五・六十人の男健康者を移して一時の急に応じたと申す始末でありました、是より先き院資増殖会と申すものを企てまして、凡そ三十万の院資の増殖を謀りて児童を別置し、前の困難を脱しようと云ふ事を各方面へ御相談致しました処、市当局の方々は固より有志の方々も大に賛同せられ、其の会が成立致した、是れは三十九年中の事で、爾来大方の賛助を乞ふて今日に及んで居りますが、なかなか思ふ様には運びません、昨年末までに四万円の金が出来ましたが、児童を別置するまでの資金は集らぬ、然るに前申すが如き状況に差迫て、最早其の金の集まるのを待つては居られぬと云ふので当局に御相談した所か、場所の相当のものがあつたら、何とか別置の運びにしようではないかと申す事に相成り、幸に本願寺の中学校の不用に帰したものが院の近所に在るとの事で、相談が整ふて十三万円の原資を割て其利子は原資を増殖会が補充し終るまで市の経常費から補充して、入院者は減ぜぬと申す方法で、斯る完全な場所へ児童を別置するに至りましたのは、私共局に当るものは欣喜に堪へぬ所であります
此の別置事項は児童を悪境から脱せしむるばかりでなく、入院者全体に其影響を及ぼしまして、現に男女健康室の如きは従来健康室で薬服して居たものが三分の一に減じたと申して居ります、僅々二ケ月にも足らぬ内に収容者の健康状態に斯る改善が見へたと申します事は誠に喜ばしい現象で、延いて本院全体、児童の上にも、病者の上にも、老癈者の上にも、容易ならぬ好影響を来す事であらうと考へられます
玆に一言致したいのは、東京市も年一年に膨脹し漸次郡部に横溢して殆ど底止する所を知らぬと云ふ状況である、が之と同時に貧民も亦夥しく、救済機関も亦各方面に於て種々なものを要し、偉大のものを要するは誠に止むを得ぬ自然の理数であります、是は何れの国も同様と見へて、二週間ばかり前の万朝報の伝ふる所に依りますれば、英京ロンドンの如きは救助を要するもの目下十三万人以上にして、昨年に比して四千四百人程の増加をしたと云ふ事です、此の救助の費用は、非常の高に上る事であらうと考へられます、元来窮民は何れの国を問はず文化の副産物とも申すべきもので、文明進歩の程度に正比例に増大するが如く思はるゝ、是に対して或は之を予防し、或は之を救助する
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機関が漸次に完備致しませんと、国家社会が非常の大害を被る事に立到るのであります、本院の如きは一種消極的の市の救済機関として、従来幾分の効果を挙げ、市の害悪を除く上に多大の効ありと信じますが、今や建築物丈は稍々完備致しましたから、当局たる我々は一層奮励して一人にても多く速に世渡の道を得せしめて、夫れ夫れ社会に立つて正業に就て働き得る人と致す様勉めまして、大方諸君の厚意に酬ゆる決心で御座ります
就きまして、こゝにこの院資増殖会なるものを更に益々拡張せねばならぬと申す第二の原因とも見るべきは、今日社会の現状より観察致しますに、彼等児童が他日自活すべき途は、平易なる工業学校を起し工業素養を与ふるの一事にあるかと考られます、こは多年の宿題であり又宿望であります、仮令如斯宿望を抱きましても経済の薄弱なる為めには、到底多望なる彼岸に達する訳にはまいりませぬ、甚だ以て礼を欠かとは恐れますが、此機会を持まして、聊か御願致して置きたいのは、前にも申上げました院資増殖会の事であります、本会の趣意は余り皆様に御迷惑を懸けぬ程度に於て、多数の御方から賛助を得て院資を増殖したいと申す精神から成立したものでありますので、今日御来会下された諸君の中には既に已に御願も致し、又疾くに御賛同下された御方々多数お居であることゝ信じますが、ツマリ一口一ケ月五銭として御希望に依りて幾口でも持つて頂く組織なので、仮に東京市及其接続町村の人口二百万と定めて、其十分の一の二十万口を得る事は難事ではあるまいとの考へから割り出した事であります、若し二十万の口を得らるゝとすれば一ケ月一万円、一ケ年十二万円、此会の経費を一年一万円と致しても、十一万円は年々院資へ寄贈が出来る訳でありますから、願くば御自身の御加入下さるゝのみならず、東京市の窮民の為めに此趣意が徹底する様他へ対しても御尽力下さる様深くお願申上げたいのであります
    安達幹事の報告
本日は、当巣鴨分院開院式を挙行致すに就きまして御光臨を辱ふしたるは誠に感謝に堪へません、従来児童と老癈病人等を一院内に置てありまして、一方ならぬ困難を感じましたるは久しい間の事でありました、が此分院が設置されまして、雑居上から生ずる困難と狭隘とを免かれました事は喜びに堪へません、此段は市政に御関係の方々、及本院同情の各位に厚く感謝仕ります、就ては二・三、児童に対する事柄を報告申上ます
 元来精神上に属する事は別と致しまして、設備とか経営に関する事は金を掛けますれば如何様な事も容易に出来るのでありますが、本院の児童に関しましては一人一日十七銭が予算の基礎となつて居りまして、即ち一ケ月五円十銭で、職員の俸給及び衣食住教育費・諸修繕費死者の埋葬費迄も此中に籠て居るのであります、昨年内務省に感化救済事業の講習会が催された節、全国の重立た孤児院に就て糺しましたが、一人一日二十銭より少い所は唯の一ケ所外ありません、何れも本院より多額を費して居りました、此物価の高い東京市が、児童の救助費に就ては、全国最低の費用で済で居るのであります、そこで院の設
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備、児童の発達の状況、管理の状態、教育の有様等御覧下さるに就ても、費用に比較しては批判を煩はしたいのであります、尤も玆に付け加へて申上置は、行旅病人費は大人・小児とも二十五銭で、是も全国最低度の費用であります、次に児童は如何に取扱ふか、退院の状況は如何と申す事を概して御報申せば、児童の種類は大体は棄児・遺児・迷児でありますが、窮民の中にも又行旅病人の中にも、準行旅病人或は行旅病人携帯児なるものがありまして、棄児・遺児・迷児三種類の者が、本年五月三十一日の調査に依りますれば五百五十九人、窮民一行旅病人中に三百五十人内外居るのでありまして、惣員が九百九人と外に井の頭学校に百十余名を収容してありますから、即ち合計しますれば千二十人となつて居ります、而して一ケ年の入院児童が四十年度に於て六百七十五人あります、此多数の児童を如何にして出院せしむるかと申すと、先づ養子縁組、雇預けと申して種々な職業の徒弟として出だすのであります、遺児・棄児は無論此二種の方法で出します、又迷児も一ケ月経過して親元判明せざれば棄児に編入するから、是も此方法で出院が出来ます、窮民も其通りで出来ます、唯準行旅病人又は行旅病人の携帯児であります、元来準行旅病人なるものは、病人でなくとも、行旅病人取扱法中一時救護を要するものと云ふ条項に依りて送られたもので、固より病気でない、児童故に飢渇に迫りて居る者であるから、何とか身の振方を付けて遣らねば退院の出来ぬ者であります、行旅病人の携帯児も左様のもので、哺乳児があるとか、女の手一つで二人も三人も子供があつては奉公も出来ず、衣食に窮する、夫故に一時救護せられた者が多い、是等も子供の道を付けて遣らねば、親子とも退院の道のないものである、斯る者も種々の方法を講じて、夫れ夫れ出院の途をつけて遣るのであります、概して出来得る限り速に退院の道を講ずると云ふ事にして取扱て居ります、退院の容易に出来ぬものは不具・癈疾者であります、併し盲人でも唖人でも少しは白痴でも、皆夫れ夫れ退院せしめ得らるゝのであります、之が為に創立以来出院の出来ぬ為め残留して居る、即ち本院で児童の時から成長して残て居るものは僅々二・三の甚しい白痴者のみであります
今日は雇預けとなつて居る者の中で、東京市中及此附近町村に居るものゝ中百余人を招いて置きました、即ち此席に居ります人たちが夫であります、が皆夫れ夫れ相当の業務に就て居るとか、或は修業中のものであります、尤も養子に参た者は招く訳にも行きませんから参ては居りません、中には学問がしたいとの望みで、今日は臨席の有力の御方々の御引受けで早稲田大学とか、女学校抔へ入学して勉強中のものも居ります、又雇預になつて居ります児童の成績品の一部分も、此先の突当りの一室に陳列してありますから、御一覧を願ひたいのでございます
次は学校教育でありますが、目下尋常小学校に於ける教育と、盲人・唖人の教育をも致して居り、幼稚園も置てございますが、凡ての就学児童は三百五人であります、前にも申上た通り、何つ何時にても雇預又は養子として退院せしむるのですから、大概は中途退学者が多いのであります、盲人とか唖人とか不具・癈疾の児童のみは卒業致します
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学校卒業後は工場へ通勤をさせて、行く行く引取て貰ふとか、盲人は鍼治按摩の芸を習はせ、得意を取て後退院すると申す始末であります又盲唖学校とか、高等工業学校附属の徒弟学校或は本所の東京府立職工学校抔へ入学を願て、卒業せし者も数人ありまして、今は夫々就職して居ります
児童の居所は当分院に凡四百人、里預けに四百余人、是は乳飲子ばかりでなく、従来居所狭隘の為め引取るべきを其儘に置きたる者が沢山あります、が是等は漸次引取る手続を履行しつゝあるのでございます次に安房分院に病弱児五十余人、巣鴨分院に十余名、是は盲唖生及び其他の十六・七歳位の者であります、次は本院の病室で、入院者の携帯児及び里に出すべき童等四十余名、外に井の頭学校が百十余名、合計千二十名程であります
次に教育の主義に就て一言こゝに申述ぶれば、本院に於て多年窮民・行旅病人に就き貧窮原因を調べて見ますると、其通有性とも申すべきは、自分さへよければ人は構はぬと云ふ事と、不正直・怠惰と云ふ事である、故に正直と、人の為にも働くと云ふ事を実行さす考で、単に学校教育のみでなく、院内外の掃除其他教員が先棒になつて、児童を引連れ課業として草取をする、掃除をする、花畑を作ると申様に実行を致して居ります
次は児童の手工教育であります、是は前申述べる如く出入頻繁でありますから、到底完全な工業素養を与へて出す訳には参りません、目下の処女子には裁縫・造花・編物を、又男子には状袋・麻裏・草履の様なものを学校の余暇に課してあります、が其一ケ年の仕事の出来上りは、四十一年度の調べに依りますれば売上高凡そ三千四百六十円余にして、之れに対する賃金は五百円十九銭であります
終に臨み児童の入出院に関して一言申述べて置きますが、創業以来窮民・旅行病人内にて、児童の入院致したる数は四千四百五十二人、棄児・遺児・迷児の収容総数は三千五百九十二人で、其合計数八千四十四人となります、其内窮民・行旅病人中の児童の退院したるものが三千六百四十四人、棄児・遺児・迷児中より退院したるもの二千百二十九人、総員六千七十三人、是等は皆前申述べたる方法に依て出院せしめたものであります、先大体右様の状況でありますが、今般斯る設備が完全になりましても、自然的には良成績は挙がると申す次第はありませんから、職員一同一致協力して、誠意尽力致して御委任に背かぬ様心掛けますに依て、各位閣下よりも直接間接に御指導又は御助力を懇願仕ります次第でございます、以上謹て報告旁申上ます



〔参考〕東京市会史 東京市会事務局編 第三巻・第四四〇―四四二頁 昭和八年三月刊(DK240029k-0007)
第24巻 p.227-229 ページ画像

東京市会史 東京市会事務局編  第三巻・第四四〇―四四二頁 昭和八年三月刊
 ○明治年間 第四章 明治四十一年
    第弐拾四節 養育院所属幼児収容所土地建物購入ノ件
 第二百四十号
    土地建物購入ノ件
 北豊島郡巣鴨村九百七十九番地所在(宏文学院)
 一 土地壱万五百参拾六坪四合七勺
 - 第24巻 p.228 -ページ画像 
 一 建物千弐百八拾坪弐合六勺
   価格金拾参万円
 右養育院所属幼児収容所ニ充ツル目的ヲ以テ、購入スルモノトス。而シテ之ガ会計ハ、左記方法ニ依リ整理スルモノトス。
 一 土地・家屋購入代及修繕費、其他移転ニ伴ヒ要スル費用ハ、養育院資増殖会ヨリ其現在金ヲ提供セシメ之ニ充テ、尚不足額ハ、一時養育院基本財産ノ内ヨリ組入レ支弁ス。
 一 前項養育院基本財産ヲ補塡スル為、年々養育院資増殖会ヨリ其集金ヲ編入セシム。
 一 養育院基本財産一時支出ノ結果、養育院経済歳入利子収入ノ減少ト為ルヲ以テ、其減額補充ト、購入家屋ニ於テ特ニ要スル経費トニ充ツル為、毎年市経済ヨリ補給ス。
    明治四十一年十二月十四日提出
 説明 現在養育院建物ハ明治二十六年ノ設計ニ係リ、当時ノ入院者五百名内外ナリシニ鑑ミ、八百名ヲ収容シ得ル程度ニ建築セリ。然ルニ爾来逐年入院者ヲ増シ、右程度人員ヲ超ユルニ至リ、多少ノ増築ヲ加ヘテ之ニ応シタリシカ、現今ハ既ニ在院者千五百名ヲ算シ、従テ各室狭隘ヲ告ケ、室ニ依リテハ一坪平均二人半ヲ収容スルカ如キ状況ニテ、衛生上看過シ難ク、拡張ノ已ヲ得サルニ至レリ。而シテ尚現在設備ニテハ、収容児童ヲシテ日常収容老癈者ノ動作ヲ見聞セシムル嫌アリ。是レ将来相当業務ニ就カシムル為常ニ勤労ノ習慣ヲ養成シツヽアル者ヲシテ、不知不識ノ間ニ、悪感化ヲ与フルノ虞アリ。依テ右建物拡張ノ運ニ至リタルヲ機トシ前記ノ通購入シ、多少ノ改造ヲ加ヘテ、幼児収容所ニ充テントシ本案ヲ提出ス。
    (内訳省略)
尚ホ本案ノ附帯議案トシテ、本案ト同時ニ他ニ三案ノ提出アリ、其一ハ第二百四十一号養育院歳入出追加総計予算ニシテ、其内容ハ、養育院資増殖会ノ寄附金四万円、及ビ養育院基本財産繰入金九万参千四百八拾九円拾弐銭、会計金拾参万参千四百八拾九円拾弐銭ヲ以テ歳入トシ、歳出ニ於テハ経常費金九百七拾七円四銭(養育院費即チ俸給・需用費・収容費等)臨時費金拾参万弐千五百拾弐円八銭(養育院費即チ巣鴨分院新設費)通計金拾参万参千四百八十九円拾弐銭ヲ計上セリ。其二ハ第二百四十二号寄附金受領ノ件ニシテ、前記東京市養育院資増殖会長渋沢栄一ヨリ申出デタル寄附金四万円ノ受領ヲ承認スルノ案ナリ。又其三ハ、第二百四十三号東京市特別基金歳出追加予算ニシテ、即チ前記養育院基本財産ヨリ金九万参千四百八拾九円拾弐銭ノ繰入支出ノ件ナリ。
上記ノ四案ハ、十二月十八日ノ会議ニ於テ、一括議題ニ供セラレ、野野山幸吉君ガ、七名ノ委員附託説ヲ提唱シタルニ対シ。尾崎市長ハ、若シ即決不可能ナレバ、委員会ヲシテ本年中ニ本会ニ報告セシメラルル様、議長ノ尽力ヲ望ム旨ヲ述ベ。青木庄太郎君ハ、二十五日迄ニ調査終了ノ条件ヲ附シテ、委員ニ附託スベシト説キ。江間俊一君之ニ賛成シタルガ。黒田綱彦君・佐々木和亮君・肥塚竜君等ハ、年内ニ買収
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ヲ終ラザレバ、価格其他ノ点ニ就キ如何ナル変化ヲ起スヤモ予測シ難シトノ理由ヲ以テ、即決ヲ主張シ、採決ノ結果、委員説敗レテ、四案共ニ原案通可決セラレタリ。



〔参考〕明治四十四年度東京市養育院第四十回年報 第八五―八九頁 刊 各分院の状況附保育預並に工業(DK240029k-0008)
第24巻 p.229-230 ページ画像

明治四十四年度東京市養育院第四十回年報  第八五―八九頁 刊
 ○各分院の状況附保育預並に工業
    二、巣鴨分院
     甲、沿革
巣鴨分院の所在地は、東京府北豊島郡巣鴨村字巣鴨九百八十番地にして、(本院を距ること十町余)敷地九千二百八十三坪・家屋建坪一千九百六十七坪八合七勺(二階坪数をも含む)を有し、中に学校・寮舎・食堂・浴室等を区劃す。
抑、本院が同分院を新設したる所以のものは他なし、元と本院の建物は八百人収容の見込にて築造したりしに、都市の膨脹と共に入院者日に月に増加し、過去十箇年間に約三倍し、即ち明治三十一年度末収者現在数五百七十五人なりしが、去る四十年度末現在数は千五百六十人を算するに至れり。如斯状態にして建築物の原状維持到底容すべくもあらず。女室・病室・児童室等漸次増築したりと雖も、何れも一時の弥縫的窮策にして、廊下を以て各室を接続しある為め、或は老廃者と幼少年者と接触し、或は病者と健康者と逢着するが如き場合少なからず。前者は児童の向上心を殺ぎ、後者は病毒の伝播を来たし、其の有害実に寒心に堪へざるものあり。要するに老幼病者の同区画内に同棲するは仮令棟屋を□《(別カ)》にせるにもせよ、過去の経験として相互の不利益たるは言ふまでもなし。折角の事業も却て害毒を醸生するの媒たらざるを保すべからず。於是か、本院は老幼分離の目的を遂行せんが為め四十一年八月北豊島郡巣鴨村に元と真宗中学の校舎にて当時宏文学院と称して支那学生を教育しつゝある土地及建物一切を譲与すべき意志あるを聞き、所有主たる大谷派本願寺に対し、数回交渉の結果、遂に同年十二月二十六日価格拾弐万参千四百九拾五円参拾六銭にて購入し四十二年一月三十一日其の引継を了し、三月児童全部(乳児を除く)を此に移転せしむ。土地閑静にして気澄み、花晨月夕、常に此清境に遊び、児童心身の発育亦昔日の比にあらず。見るとして聴くとして精神の爽快を感ぜざるはなく。本院多年の計劃、玆に漸く完成を告ぐる事となれり、之同分院設置の由来なり。
     乙、院児の状況
○学校 巣鴨分院に収容する者は、年齢四・五歳より十七・八歳までの児童なり。蓋し乳児は本院より直に里預となし、身体虚弱の者は、安房分院に転養し、不良の少年は、之を井之頭学校に入れて感化教育を受しむるが故に、巣鴨分院に在る者は、普通教育を施し得べき者なり。従て満六歳以下のものには、幼稚園の設けあり、学齢以上の者に対しては、小学教育を施す。幼稚園・小学校とも、其学級の編成、授業の方法は、普通のものと異る所なけれども、収容児童の状態普通児と聊か相違する点あるを以て、多少他と同一ならざるものなきにあらず、幼稚園は午前二時間・午後一時間開園するも、我が院児は身体に
 - 第24巻 p.230 -ページ画像 
特別の注意を払ふべき必要あるが故に、雨天其他特殊の事情あるにあらざれば室内に入らしむることを避けて、野外に出で新鮮なる空気を呼吸し、日光に浴せしむることに勉め、小学校は午前八時若くば九時に業を始め午後二時に終る。小学校を卒へて猶院内に留まる特別の児童は、終日院内の工業に従事し、男子は麻裏草履の作製、女子は収容者の被服裁縫を為す者ありと雖も、是等は真に少数なり。一般の小学児童は八・九歳の者を除きて、放課後男子は状袋若くは麻裏草履の製作、女子は裁縫と編物に従事す。是等の児童も亦殊更体育を奨励する必要あるが故に、朝食後は悉く運動場に出でゝ種々の遊戯を為し学校の始業を待ち、夕食後も亦点灯までは室内に帰らず、屋外に出でゝ遊ぶことを奨めつゝあり。小学校の附属として特志家の寄附によりて成れる図書館の設けあり、児童の読物として適当なる書籍・雑誌を備へて随意に閲覧せしむ。
○寮舎 児童の居室として三寮あり、南寮・中寮・北寮と名く、一寮階上・階下に廿一畳敷十八室を有す、各室に保姆一人つゝ附き添ひて児童と起臥を共にして之を監督す。児童は時候に依り朝五時若くば六時に起き順番を以て室の内外及び庭園を掃除し、七時に食堂に入り、食後登校の準備を為して運動場に集合し点検を受け、其日の心得を訓諭されて学校の始まるを待ち、正午十二時昼食す、幼稚児には特に午前午後各一回「おやつ」を与へ、夕食は午後五時なり、夜に入りて一時間自修時間を設けて其日の課業を復習せしめ、九時寝に就かしむ。
○寮舎立志会 職員生徒聯合の会にして、一個月一回開くを常例とす此会には職員及び選出されたる児童の談話あり、或はお伽噺等あり、余興としては児童の詩吟・唱歌、若くば対話あり、時には又活人画を演ずる事もありて児童の最も悦ぶ処なり。該会は一面児童の娯楽なれども、亦精神教育を以て主眼となす。他日出院の後人に仕へ業を習ひ立身出世するには、克く苦楚艱難に堪え得べき堅固なる志を養はざる可からざるを訓ゆるに在り
年長の女児に炊事を教へ、作法を習はしむる為めに家庭教場の設けあり、附近の商店より材料を購ひ来り、教師監督の下に料理を為し、他の児童を案内し賓客として食膳を供し、以て他日家庭を作るの予習を為さしむ。
     丙、院児の将来
収容されたる院児は、義務教育を卒へて出院せしむるを本則とすれども、養子の貰受けある場合には、児童将来の為めに幸福と認むる時は何時にても之を出す。幼稚の頃より養子に貰ひ受けられたる者は、成績最も良好なり。児童十二・三歳に達し職業を学び家事を習ひ得る者は、申込人の家庭を調査し、差支へなければ雇預けとして差遣はす。但し斯の如くにして出院したる者と雖も丁年に達する迄は、院は直接に間接に児童の将来を慮り幸福を計れり。院児も亦院を我か家として慕ひ、平常音信を断たざるのみならず、盆・正月の籔入に来る者は、毎回必ず百を降らず、石工の徒弟あり、染物屋の弟子あり、或は商店の小僧あり、各種の職業に従事し、各々其業を修めつゝあり。

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〔参考〕東京市養育院月報 第九五号・挿画 明治四二年一月刊 東京市養育院巣鴨分院全図(DK240029k-0009)
第24巻 p.231-232 ページ画像

東京市養育院月報  第九五号・挿画 明治四二年一月刊
      東京市養育院巣鴨分院全図
地所総坪数    一万五百三十六坪四合七勺
建物総坪数    千二百七十九坪九合一勺
     内訳
  イ 二階建    二百十六坪
  ロ 平家     四十五坪
  ハ 同上     四十五坪
  ニ 同上     二十一坪
  ホ 同上     百九坪三合五勺
  ヘ 同上     九坪五合
  ト 同上     二十八坪五合
  チ
  リ 二階建    三百五十二坪
  ヌ
  ル
    平家     百五十七坪五勺
  ヲ
  ワ 平家     十四坪
  カ
    平家     九坪
  タ
  ヨ 七ケ所平家  三十九坪六合一勺
  ツ 三棟平家   六十七坪
  ネ 平家     六坪
  ナ 平家     六坪五合
  廊下       百五十坪四合
  井戸屋形     二坪
  外平家      二坪
東京市養育院巣鴨分院全図
   ○明治十九年当院ハ第一回考課状ヲ発行シ六回ニ及ビ、同二十五年第七回分ヲ発行スルニ当リ年報ト改称シ、当院創立ノ明治五年ヨリ数ヘテ之ヲ第二
 - 第24巻 p.232 -ページ画像 
十一回年報トシ、爾後続刊ス。尚明治三十四年三月当院ハ月報ヲ創刊ス。



〔参考〕竜門雑誌 第二二七号・第二一―二二頁 明治四〇年四月 ○北国慈恵院誌序(青淵先生)(DK240029k-0010)
第24巻 p.232 ページ画像

竜門雑誌  第二二七号・第二一―二二頁 明治四〇年四月
    ○北国慈恵院誌序 (青淵先生)
  此編は青淵先生が金沢市六斗林北国慈恵院主真柄貞氏の需に応じ同氏編纂同院誌の序文として同氏へ交付せられたるものなり
夫れ社会に窮民あるは人の疾病あるが如し、医術衛生の重んずべきを知る者誰れか恤救慈善の必要を認めざらん、宜べなるかな輓近慈善事業の本邦各地に勃興するや
凡そ世運の進歩は競争に因り、競争の結果は一方に於て成功得意の人を作ると共に、他方に於ては敗残失路の民を生ず、之れ数の免かれざる所、優勝劣敗の理法亦如何ともすべからずとは云へ、然かも此劣敗者の日に月に増加の傾嚮に赴くは国家の不祥と言はざるべからず、夫れ人窮すれば則ち乱す、故に困憊無告の窮民を救ふ所の慈善事業なるものは、啻に惻隠の情を満たすが為のみに非ずして、同時に又社会の危険を未然に防遏し、其安寧福祉を保維せんとするの目的に外ならず医一日もなかるべからず、而して救貧事業亦一日もなかるべからざるなり
回顧すれば今より三十有五年の昔、予輩が我東京市養育院を興して都市救済機関の先駆をなせし当時に在りては、世上未だ慈善の必要を説くの声高からずして、斯業に思を潜め志を注ぐ者甚だ多からず、予輩をして転た寂々寥々の感に堪えざらしめしが、今や時勢の進運に伴ひ公私各慈善団体の全国到る所に設立せるゝを見る、仮令之れ一面社会に於ける貧民増加の反暎たるの憾なきを保せずと雖ども、然かも其救済的設備の稍や具はれるに近づきし一事に至りては又聊か欣ぶべき点なきに非ざるなり
然りと雖も予輩は玆に一言すべきことあり、蓋し慈善事業は鰥寡孤独頼る所なきの窮民を恤救し、彼等をして其生を得せしむると共に社会をして其安寧秩序を維持せしめんと欲するに在れば、須らく周到の注意と綿密の措置とを以て其施設の上に毫も遺算なきを期せざるべからず、若し然からずんば救済の事業なるものは徒に惰民発生の誘因となり、反つて社会の幸福を害ふの具となるに終らんのみ、之れ慈善事業家の特に留意すべき点なりとす、古人曰く、規矩を以てせざれば方円を作す能はずと、蓋し之れを言ふなり
頃者金沢の人真柄貞氏「北国慈恵院誌」を編みて自家の経営する慈善事業の沿革を世に示めさんとし、遥かに書を寄せて予に序言を需む、予未だ其人を知らず其事業を覩ずと雖ども、斯業同労者の一人を得たるを喜び、乃ち玆に所感の一端を述べ以て之に応ふと云爾
  明治丁未三月
                   青淵 渋沢栄一識