デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
5款 四恩瓜生会
■綱文

第24巻 p.292-298(DK240036k) ページ画像

明治34年4月19日(1901年)

是ヨリ先、明治三十二年二月土方亀子等ノ発起ニヨリ、故瓜生岩子銅像建設ノ儀起リ、翌三十三年一月委員ヲ選定シ、栄一其委員長ト為ル。是日、浅草公園ニ於テ銅像建設除幕式行ハレ、栄一之ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

故瓜生岩子銅像建設寄附勧誘状(DK240036k-0001)
第24巻 p.292-293 ページ画像

故瓜生岩子銅像建設寄附勧誘状     (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、愈御清栄奉賀候、陳者別紙趣意書に有之候通故瓜生岩子の善行美徳を頌し、聊か仁慈の志に酬ひ、永く婦女子の亀鑑となさん為め、今回銅像を浅草公園に建設致度、爰に此挙を公表して汎く同情を仰く
 - 第24巻 p.293 -ページ画像 
事と相成候に付、何卒御賛成の上応分の御寄附被成下度、此段及御依頼候 頓首
  明治卅三年七月廿七日
          故瓜生岩子銅像建設委員長
              男爵 渋沢栄一故瓜生岩子銅像建設委員長之印
    江間俊一殿
  追て事務員差出候間、委細御聞取被下御承諾相願候


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK240036k-0002)
第24巻 p.293 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
四月四日 雨
歯痛昨日ヨリ大ニ減却セシニヨリ、午前十時浅草公園ニ抵リ瓜生岩子銅像建設場ヲ一覧シ、当日ノ準備ニ関スル評議ヲ為ス、後藤新平夫妻及箕浦・松平諸氏来会ス、十二時兜町ニ帰宅ス ○下略
   ○中略。
四月十九日 晴
○上略 午後一時浅草公園ニ抵リ瓜生岩子銅像建設除幕式ヲ開ク、発起人委員悉ク来会シ、寄附者来会スル者約三・四百人許リ、藤沢遊行寺上人・浅草伝法院等ノ読経アリテ儀式盛観ヲ極ム、除幕ニ当リテ一場ノ演説ヲ為シ、除幕畢テ後読経回香等アリテ午後五時散会ス ○下略


竜門雑誌 第一五五号 明治三四年四月 ○故瓜生岩子銅像除幕式(DK240036k-0003)
第24巻 p.293 ページ画像

竜門雑誌  第一五五号 明治三四年四月
    ○故瓜生岩子銅像除幕式
浅草公園に建設せる故瓜生岩子の銅像除幕式は本月十九日午後二時より執行されたり、位置は観音堂の西、第四区の広場にて周囲に竹柵を構へ、場内の装飾充分に尽されしが、来会者は朝野の紳士貴婦人等五百余名に達し、先づ奏楽の了ると倶に委員たる青淵先生の式辞あり、夫より銅像の幕を撤すれば二間四方の鉄柵の中に花崗石にて高さ五尺許りの台石あり、其上に故岩子刀自の坐像安置せられ、羽織を着して双手を膝に載せ正しく坐して在す、姿宛然活けるが如く見られたり、除暮了つて大僧正覚阿遊行上人は三十余名の僧侶を随がへ開眼供養を修し、続いて権大僧正修多羅亮延師の追善読経あり、尚来賓河野広中氏の演説、瓜生家総代の答辞ありて四時頃閉会せしが、右銅像は土方伯・故後藤伯及び板垣伯等の発起により、大熊氏広氏の手にて昨年十月起工し本月落成したるものなりと


故瓜生岩子銅像建設報告書 第一―二四頁 (明治三四年)刊(DK240036k-0004)
第24巻 p.293-298 ページ画像

故瓜生岩子銅像建設報告書  第一―二四頁 (明治三四年)刊
    ○故瓜生岩子銅像建設主意書
貧しきは子なきばかり貧しきは無し「しろかねもこがねも玉も何せんに、まされる宝子に如かめやも」と詠けんも亦た宜ならずや、悲しきは親なきばかり悲しきは無し「しなてるや片岡山の飯にうえて臥せる旅人あわれ親なしに」愍れませたまひしは、実に聖人の御心ぞかし、然るに世には幸ひに懐妊したる子宝を産みも落さで、冥より冥にかへすも有り、既に産み落しはしつるものゝ、育つること叶はずして棄るも有り、又は幼なくて不幸にも親に別れたるも有り、貧しき中の貧し
 - 第24巻 p.294 -ページ画像 
さ、悲しき中の悲み之にますもの無かるべし、然れば斯る有様を見るにつけ聞くにつけ、己が苦みをば打忘れ、之が救ひの道にのみ一身を委ぬる人あらば、此れをこそ活ける神とも名くべきなれ、爰に岩代の国会津の人にて、瓜生岩子といへる婦人あり、幼なき頃より其国に堕胎といへる恐ろしき悪弊多きを歎き、三十四歳の時に夫を喪ひたる後は、四人の孤児を育くみつゝ、専ら其悪弊を救はんことにのみ身を委ね、学者を頼みては書を著して之を誡め、高僧を請しては屡々戒を授けて之を諭し、家毎に説き人毎に勧めて、千々に心を砕きたる効ありて、遂に其悪弊をば除き得たれども、貧しくて子を育つること叶はざるもの多くなれるを憐れみ、万延元年の頃より多くの貧児を其家に救養したりしが、明治元年の戦争にて父母を喪ひ夫に別れ子におくれたるなど、生活に困しむ者いよいよ多くなりしかは、益々救養の道に心を尽し、会津地方のみならで、福島あたりにまで、処々に教育所を建てることゝなり、且つ政府にも未だ小学校の設けあらざる頃より、早く学校を起して貧児を教育し、之が為めには己が最愛の一子をさへ犠牲にせんとしたることも有りしとかや、偖又かくも多くの人々を救はんには廃物を利用して食料を増すに如かすとて、世の人の皆棄てゝ顧みざる飴糟、または甘藷の切屑など多く貰ひ集めて、葛を取り焼酎を造り、又は種々の菓子などを製して貧児の食料ともなし、又は之を売らせて多少の利益をも得させたりと、又各地に洪水・噴火などの災害ありて、人々の困しむと聞けば必らず措かずして、己が力の限り人をも勧め、其救済に尽さゞるは無く、又た瓜生会といへるを組織し、殊に日清戦争の時には郷里の間を奔走して会津あたりの雪国にて用ふる雪鞋といへるもの数千万足を募り集めて、軍隊に献納し、遼東の野の雪中に戦ひ悩める兵士たちに力を添へて、国恩に報ひたるなど、其辛苦艱難三十余年おこたらさる慈善報効、かしこくも 皇后陛下の御聞に達し、屡々御物を賜はりしのみならず、宮中にも召させたまひ、彼の飴糟などにて作りたる貧児の食料さへ進献することを許させたまひたる、畏こしとも恐れ多しとも、心言葉の及ぶべきかは、然れば陛下の御手つから軍用の繃帯を製らせたまひし糸屑をば悉く賜はりしを、工夫をこらして一種の布を織出し、記念織と名けて戦死したる人々の寡婦、および世の常々に操正しく婦徳ある人々に頒ち贈りて、心を慰め行ひを褒め、陛下洪大の慈恩をも感戴せしめたる、昔より聞きも及ばぬ美事にこそ、然れば二十余年前に民政局より褒賞を賜はりし以来屡々地方官などの賞与も多く、別けて明治二十九年の五月、賞勲局より藍授褒賞を賜はれる、微々たる寡婦の身としては世に其比なしとかや、仍てをのれらも亦た深く其志に感じ其行を嘉みし、聊か慈善の業を助け、大に其功を完たうせしめんと思ひたりしに、ゆくりなくも病に罹りて今は頼み少しと、皇后陛下の聞し召されて、御菓子など賜はりたる畏こさ身に余りたる大御恵に感泣しつゝ「老の身の長からさりし命をもたすけたまへる慈悲のふかさは」と一首を辞世として、遂に三十年の四月十九日といふに、六十九歳を一期として、世に亡き人の数に入りしぞ、甚惜き、嗚呼岩子は其身いやしき片田舎に生れ、財産ありしにも非ず学識ありしにも有らで、只真心の一筋に比類まれなる
 - 第24巻 p.295 -ページ画像 
慈善の行ひあり、国母陛下の大御心にさへ懸けさせたまひしを、如何で等閑に見過ぐすことを得べき、仍て広く世の心ざしを同じうする人人に語らひて、応分の義金を請ひまゐらせ、岩子の銅像を作りて公衆に示し、其善行を不朽に伝ふるのみならず、長く婦女子の鑑となさしめ、且つは彼の遺業を継きて、益々瓜生会を盛んならしめて、普ねく功徳を社会に及ぼさまほしく思ふになん、嗚呼世の慈恵の心に富める人々よ、幸ひに此挙を賛助したまひて、多少に拘はらず資財を喜捨して、速かに成功せしめたまはゞ、啻に瓜生岩子の栄のみならず、又貧民窮児の幸のみならず、国の慶福ともなりぬべく、人の亀鑑ともなるべし、あなかしこや
  明治卅三年三月一日        発起人
                 伯爵夫人 土方亀子
                 伯爵夫人 板垣絹子
                 伯爵夫人 吉井静子
                 子爵夫人 三島和歌子
                      岩佐徳子
                      後藤和子
                      河野関子
                      原礼子
此の挙たる故瓜生岩子の善行を表彰し、以て婦女子の亀鑑とするにあり、抑も岩子女性の身を以て畢生育児窮恤の事に任し、苦心百端、三十余年一日の如し、其性行に至ては爰に絮説を須ゐすと雖も、岩子か艱難経営の状を観れは実に感歎に堪へさるものあり、其仁慈の深き以て人心を感化するに足り、才徳の高き以て弊風を矯正するに足る、巾幗社会に此人ある我国の為め真に慶すべきにあらすや、今や岩子と相知るの各夫人相図て、岩子の銅像を建て其淑徳を不朽に伝へんとす、某亦た曾て岩子と相識るもの、依て此美挙に同じ其成功を期せんと欲し、即ち爰に図案方法を具す、希くは世の慈善家諸君、此の挙を賛せられ、多少の資財を義捐せられんことを、懇請の至に堪へさるなり
            故瓜生岩子銅像建設
               委員長 男爵 渋沢栄一
               委員  伯爵 吉井幸蔵
               同      三島弥太郎
               同      後藤新平
               同      箕浦清四郎

    ○銅像建設略記
銅像建設の発起は明治三十二年二月にして、同年中は各発起人募金に尽力せられしが、同三十三年一月委員長及委員を選定し、左記の主意書を以て四方有志の賛同を求めたり、其区域は重もに東京にして、続いて瓜生氏の郷里なる福島地方へ事務員出張し、及ひ仙台・横浜等へも出張をなし勧誘に尽力せり、台湾地方よりも送金あり、其他の各地方へは勧誘をなさゝるも建設の挙を聞き伝へ、間々送金者あり、寄附人数は合計一千六百十一人にして、金額は四千参百参拾円八銭なり、
 - 第24巻 p.296 -ページ画像 
細別は別記の如くにして、其決算書は別紙の通りなり、三十三年一月神田区錦町三丁目二十一番地に事務所を開き、事務員五名を以て勧誘のことを勉め、同年十月金員定額に達せしを以て、十月十二日帝国ホテルに於て発起人会を開き
 銅像を座像とし、及其台石・鉄柵等のことを議定し、設計及工事監督は都て大熊氏広氏に依頼し、除幕式の日を三十四年四月十九日と定め、其他諸般の事を評決したり、残務取扱所は三十四年四月迄麹町区飯田町五丁目三番地に設けたり
三十四年四月四日浅草公園内御供所に於て発起人及委員会を開き、除幕式の順序を評決し、四月十九日左の順序に依り除幕式を挙行したり
 (1) 奏楽
 (2) 委員長より除幕の式を述ふ
 (3) 除幕式
 (4) 大僧正覚阿遊行上人供養
 (5) 権大僧正修多羅亮延師読経
 (6) 来賓演舌
 (7) 瓜生家惣代の答辞
 (8) 閉会を告く
当日来会者凡そ五百人にして午後一時集合午後五時散会せり、当日来会者へは菓子折を配付したり、銅像建設地は浅草公園第四区にして東京市役所の承認を得、建設願は内務大臣より許可せられたるものなり
    ○委員長渋沢男爵の演説大意
今日故瓜生岩子刀自の銅像除幕式を挙行するに臨み、此挙を賛成せられたる諸君の此くも奮て御来臨を辱し、非常なる盛会を見るに至りしは発起人・委員一同の実に感謝に堪へざる所なり、不肖は委員長として玆に岩子刀自が生前に経営せられたる事蹟の要を述べて、以て式辞となさんとす
抑々刀自は会津の僻邑に生れ、天性温良にして才智人に勝れ、十四才の時伯父山内春竜に就て教を受けしが、此時より既に種々の慈善事業を企図せられ、其性質の遠く常人に勝れたるものあり、其後数十年間刀自が履み行ひし善行美蹟は、思ふに当時既に芽さしをりしならん
刀自は不幸にして早く夫を失ひ、尋て慈母に別れ、孤児を育て世を渡りし惻隠の心は益す深く、鰥寡孤独を見ては之が救恤に余念なかりき此頃会津地方には堕胎の悪風ありしかば、刀自は深く之を歎き東奔西走之が矯正の法を講し遂に此の悪風を一掃したるは全く其熱誠の致す所なり、次て貧児養育所を設け貧民の子弟を収養し、又学校を立て貧児を教育し、或は病院を設け、其間自己の艱難辛苦を顧みず、又世の特行の人を見れは物を送て其行を励まし、或は時に供養法会を営み以て戦死者・罹災者の亡魂を慰むる等、実に枚挙に遑あらす、其後明治廿四年三月東京市養育院の聘を受け東京に出でたるが、予の刀自に面会したるは蓋し此時にありき、爾来刀自は同院の為め深く力を尽されたり、実に刀自の一生は善行美蹟を以て終始一貫せしものにして、而して其善行美蹟は、決して勉め之を行ふに非ずして、真実天性に出て止めんとして止む能はざるものゝ如し、嗚呼刀自の如きは実に一世に
 - 第24巻 p.297 -ページ画像 
比類なき人なり、之を後世に伝へて亀鑑たらしむべき人なり、是に於て有志者相謀りて銅像建設の事を企図し、広く世間の賛同を仰きしが幸にして無慮千六百有余君の賛同を得、其寄附せられたる金額は実に四千三百有余円の多きに至り、玆に計画を完成するを得たるは発起人委員一同が感謝措く能はさるなり、且此銅像の設計は大熊氏広氏奮て之に当られ、爾来着々工を進め、又鉄柵・台石等も総て予期に違はす完備するを得たり、依て本日即ち刀自が忌日を卜し除幕式を挙行するに至りしなり、云々
    ○河野広中氏ノ演説
今日の式は実に悦ばしき事の限りなり、近来ダン々々銅像が出来すれども、婦人の銅像はこの岩子刀自のか嚆矢なる故、誠に珍らしき事なり、刀自が存世中藍綬褒章を賜はりしも、婦人として最も珍らしき事にて、この珍らしき人の功績に酬ゆるに珍らしき銅像を以てするは偶然ならずして、実に刀自の光栄なり、而して独り刀自の光栄なるのみならず、実に社会の為め甚た喜はしき事なり、今日以後この銅像の存在する限り、幾百千年の間日々この公園に来る幾百千の人々がこの銅像を観て如何なる観念を起すへきか、誰しもこれに鑑みて善を為さゝる可からさるを期せん
サテこの銅像建設の事は、最初故の土方伯爵夫人より同志の夫人方に謀られて発企され、広く世の博愛家に義捐金を募られたり、然るに中途不幸にして土方夫人は逝去せられしに依り、一時はこの銅像もドーなるかと憂ふる人々もありし程なりしが、幸にして渋沢君か代て建設の任を負はれ、委員長となられて御多忙の身をも厭はれず非常の尽力を執られし結果、寄附金も相応に集まり、銅像も立派に出来上り、今日この盛大なる式を挙ぐることを得るに至りしなり、こゝに私は発企人一同に代り、渋沢委員長を始とし委員諸氏及ひ此挙を賛成せられし千六百余の博愛家に向ひ、深く多謝するものなり
○中略
    ○寄附金人名
○中略
 金百円          男爵 渋沢栄一
○中略
    ○瓜生岩子銅像碑銘
嗚呼刀自は菩薩の化身なりき、刀自会津の避邑に生れて身は寡婦となれりき、然るに其功績の偉大なる枚挙に遑あらす、学校を建て、仏教を弘め、堕胎の蛮風を一掃し、育児会を興し、病院を設けて、幾多の窮民を救ひ、或は兵士を恤み、戦死者の遺族を慰め、或は廃物利用の法を工夫して世を益するなど、刀自の一生は殆んど矯風慈善の業に尽し終りぬ、されは官よりも屡々賞せられ、殊に勅定の藍授褒賞を賜はれり、明治三十年四月齢六十九にて逝きぬ、然れとも其善行美蹟は玆に不朽の紀念碑たらむ
                正五位   下田歌子 撰
                      土肥直康 書
委員長 男爵 渋沢栄一  発起人 伯爵夫人 土方亀子
 - 第24巻 p.298 -ページ画像 
委員  伯爵 吉井幸蔵           板垣絹子
同   子爵 三島弥太郎          吉井静子
同      後藤新平           三島和歌子
同      箕浦清次郎          岩佐徳子
                      後藤和子
                      河野関子
                      原礼子