デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
5款 四恩瓜生会
■綱文

第24巻 p.298-300(DK240037k) ページ画像

明治35年11月23日(1902年)

是日、王子飛鳥山邸ニ於テ当会秋季大会催サル。栄一、一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

東京市養育院月報 第二二号・第一二頁 明治三五年一二月 ○四恩瓜生会秋季大会(DK240037k-0001)
第24巻 p.298 ページ画像

東京市養育院月報  第二二号・第一二頁 明治三五年一二月
○四恩瓜生会秋季大会 去月二十三日王子渋沢別邸に於て開会せられたり、当日は陰雲溟々天候定めがたきにも関らず、来会者六百有余名に及び、邸内には養育院収容者及び院内幼稚園生徒の製品を陳列し、曲取り粟餅店・寿司屋・飲食店等あり、又各所には休憩所を設け、以て邸内散歩の休息に便ならしめたり、午後一時瓜生祐次郎氏開会の辞を述べられ、次て棚橋女史・渋沢男等の演説ありたり、此日は本院生徒も招待を受け、邸内紅葉落翠の間を逍遥するの歓を得、殊に幼稚園生徒一群の遊戯は来会者清遊に一興を添へたり


をんな 第二巻第一二号・第を一―を五頁 明治三五年一二月 欧米諸国の慈善事業に就いて(男爵渋沢栄一)(DK240037k-0002)
第24巻 p.298-300 ページ画像

をんな  第二巻第一二号・第を一―を五頁 明治三五年一二月
    欧米諸国の慈善事業に就いて (男爵 渋沢栄一)
  本篇以下二篇は去にし十一月廿三日、四恩瓜生会大会に於ける演説の大要なり文字の責は記者にあり。
 予は欧米視察として先頃旅行を試み、此程帰朝(本年五月十五日発程十月卅一日帰朝)せしが、其視察の目的は主として商工業のことにあれども、多少慈善事業に就いて観察せし所もあれば、欧米の慈善事業の一班を陳べて諸君の参考に供ふべし。
先づ米国より述べんに、紐育は米国の首府ともいふべき地にて、商工業の盛大なる事国中に冠たる処なるが、此処より三・四里を距る費府といふ所にジラルト・コレツヂと云ふ学校あり、コレツヂは大学と云ふことにて、ジラルトは人名なり、即ちジラルトと云ふ人に由て建てられたる学校にて、千八百七十八年(廿四年前)の創立に係れるものなり。此ジラルトと云ふ人は仏蘭西人にて、十五・六歳の頃に米国に帰化して事業を起し、其一生に於て大身代を作りしが、元来妻子を持たざりしにより、死に臨みて自己の財産を挙げて、費府の貧窮人の為に教育事業を起して其費用に投ぜんことを遺言したるを以て此大学を立てたるなり。其財産は六百八十五万弗にして、之を邦貨に換算すれば千三百五・六十万円となる、此莫大の財産の全部を出し、貧民教育事業に投じて起りたる学校にて、其収容の生徒も現に千六百三十人ありと云ふ、其建築物の如きも甚だ宏大なり。元来米国は極めて地価の
 - 第24巻 p.299 -ページ画像 
高き処なれば、通例は余程の富者にても決して広き屋敷を所有する者無し。然るに此学校は其校内甚だ広く、講堂・寄宿舎・教室・工場等いづれも宏壮にして能く完備し、其教育も深切に能く行届けり。生徒は六・七歳より二十歳位迄教育され、其れ以上になりても、種々適当なる事業に従事せしめて以て社会に立たしむ。尚ほ其他に志ある者の為に軍人教育を施せり、其教師としては目下現役にあらさる将校之に当れり、予は同校参観の折柄、其対抗運動など目撃せしが、甚だ美事なりき、兎角資金も十分なれば其事業も亦盛大なり。此他米国の救助事業は尚ほ多けれども、玆には予の目撃せし一端を示すのみ。独逸に於ては労働社会に対して大に力を尽し、其保護法頗る完備せるものあり。彼の名高き錬鉄会社を有せるクルツプ氏の慈善事業の如き、大なる寄宿舎を設けて、多人数の労働者を収容し、安価なる寄宿料を賃銀の中より引去りて、其剰余の金円は或は適当なる方法を以て貯金を為さしめ、以て将来の用意に充つるなど注意頗る深し、此寄宿舎の方法は宛然たる一の町を為し、学校あり、教会あり、倶楽部あり、家屋の構造は長屋造なれども、九尺或は六尺位に区劃せり。而して若し老人あれば、それには年金的の方法にて、其者の死する迄世話をすることとせり。又鰥寡孤独の者には、其れ相応なる養ひ方あるなど、其注意一として至らざる処なし、故に労働者は十分安心して其業務に従事し得るなり。独逸皇帝は大に此事業を賞揚遊ばされ、曾て此寄宿舎に臨御あらせられ、其倶楽部に於て種々御見分あらせられたる末、労働者が如何なる物を食するかを知ろしめさんと思召し、折柄竈に掛けて食物を煮つゝある鍋の蓋を御手づから取らせ給ひて食物を見そなはし、同時に皇太子も亦一方の小さき鍋の蓋を取らせ給ひたりと。扨此大小二個の鍋蓋は、皇帝及ひ皇太子の御手を触れ給ひしものなりとて、其名誉を紀念せん為に装飾を施して室に掲げあり。又皇后陛下も臨御あらせられ、諸所を御覧ありて、二階に御上りになり、一の窓より外方を御眺望ありて、其景色を御賞讃あらせられ、其窓に命名せられしものあり。予も其窓に行きて、景色を眺め、舎内の老婢より事の次第の物語を聞きたり。実に畏くも一国の皇帝を始め、やんごとなき方々の優渥なる御辞を賜はりたること、難有かぎりなり。
英国には滞在短かりしを以て、慈善事業に付き深き観察を遂ぐること能はざりしは遺感とする所なり。倫敦に於て労働者の多くは東倫敦と称する辺に居住する者にして、此地方にアレキサンドラーツラストと称する者あり、労働者に向つて最も安価に食物を供給する処にして、職工等が平日の物よりも稍美味を欲する時は、都合よく此処にて供給せらるゝなり。日本の貨幣に直して僅に六・七銭を投ずれば、其切符を得て立派に此処にて食することを得る仕組にて、以て平日の労苦を慰めしむるものなり。予が旅行中に戴冠式を挙行せられたる英皇帝エドワード第七世が、未だ皇太子にてプリンス・オブ・ウエールスと称せられし頃は、時々此処にて貧民と共にスープを喫し給ひしとの談あり。総べて英国の救護法は個人的の傾向を有すること、此一事を以ても知るべきことにて、斯くすれば救護を受くる方にても、兎に角価を払うて之を購ふことなれば、人より物を貰ふとは大に感情を異にし、
 - 第24巻 p.300 -ページ画像 
乞食の様なる考を持つことなく、双方の感情甚だ宜しかるべしと思はる。仏国にては感化事業大に発達して種々のものあれども、就中有名なるはメツトレーと云ふ所の感化院なりと聞きしが、汽車の都合にて行程悪しかりし為遂に行くことを得ざりし。巴里より二里許隔りたるガイヨンといふ所にも感化院あれば、是に就いて観察したり。東京市養育院にも感化部を置きしが、予は之に付いて感ずる所ありて、此事業は余程心を用ゐざるべからざるものなることを常に考へ居る所なるが、人々不遇なる時は其不幸なる境遇の為に、遂に其意思の上にも大に変化を及ぼし、益々不良なる境遇に陥ること往々あり。俗にカツパライなど云ふ者は、其始めは名のあるものにして、且つ悪性あるにあらざれども、境遇の如何に由りて遂に其性を異にし、悪性を生じ不幸なる境遇に陥るなり、故に是等は小児の時より感化せざるべからず。仏国の感化院は六歳の頃より之を収容して、二十歳に至れば之を出院せしむることにて、人数は三百人程もあり、家屋職業の有様は極めて行届きたるものなり。以上米国・独逸・英吉利・仏蘭西の四個国は、共に商工業の盛大なる国にして、又之等の慈善事業も疾くより発達せり。元来如何に富みたる国と雖も、美なる都会と雖も、貧民なきはあらず、故に是等の事業盛大なるは其都会の全備せるの一班を証するを得る。顧みて本邦に於ける是等救済之業は、以上四ケ国と比肩し得るまでに至りしや否や、予は之を知らざれども、労働問題・慈善事業に頗る改進を要するもの甚だ多からんと信ず、此四恩瓜生会の本旨とする処は、故瓜生岩子刀自の宿志を継続することにして、此事業に向つて、精励尽瘁し、其発達を期するに在れば、玆に海外見聞の有様を陳べて諸君の参考に供す。