デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
6款 東京出獄人保護所
■綱文

第24巻 p.302-316(DK240039k) ページ画像

明治32年10月31日(1899年)

原胤昭、明治十六年監獄改良及ビ釈放者保護ノ事業ニ着手シ、同三十年一月神田区南神保町ニ東京出獄人保護所ヲ設置ス。是日栄一、原胤昭等ト会見シ爾後大ニ尽力ス。同三十五年協議員ニ就任ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK240039k-0001)
第24巻 p.302 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
十月三十一日 曇
○上略
午後五時兜町ニ帰宿、此夜免囚人保護事務ニ関シ、清浦・土方・北垣岡部長職・小川滋次郎《(マヽ)》・島田三郎・三好退蔵ノ諸氏来会ス、原胤昭ヨリ従来ノ経歴ト将来ノ企望トヲ陳述セラレ、種々討議ノ末三好・小川ノ両氏ニ於テ一案ヲ調成シ他日更ニ一会ヲ開クヘキニ決ス ○下略

渋沢栄一書翰 穂積陳重宛 明治三二年一一月三日(DK240039k-0002)
第24巻 p.302 ページ画像

渋沢栄一書翰  穂積陳重宛 明治三二年一一月三日    (穂積男爵家所蔵)
○上略
慈善之問題ニ付、先頃青年会事務視察之為米国ヘ出張せし丹羽清次郎と申人ニ、他之慈善事業之現況取調相托候処、九月下旬帰国ニ付、此程原胤昭之免囚保護之事と共ニ丹羽等も相会し、種々談話致候、米国之有様ハ実ニ規模ある仕組ニて、宏大ニ精密ニ而して敏活ニ行届候様子ニ候 ○中略
  三十二年天長節之夜
                      渋沢栄一
    穂積陳重殿
○下略


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK240039k-0003)
第24巻 p.302 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三三年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十四日 曇
○上略 更ニ星ケ岡茶寮ニ抵リ原胤昭氏設立ノ免囚人保護会ノ事ヲ談ス、清浦奎吾・小河繁次郎《(小河滋次郎)》・岡部長職・中村元雄・三好退蔵・本多庸一ノ諸氏ト協議ス、自分ノ意見ヲ以テ大ニ修正ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月十一日 雨
午前原胤昭氏来ル ○中略 午後六時原胤昭氏ヲ訪ヒ、免囚保護ノ実況ヲ視ル、現ニ寄宿スル者五十名ニシテ、大工・左官・掃除人夫・手伝ヘ等ノ職ヲ以テ各所ニ出稼シ、毎夜家ニ帰リテ寝食スル由ナリ、免囚人ハ多ク強盗・窃盗又ハ殺人犯ノ類ナレトモ、原氏此事ヲ創始セシヨリ既ニ四百人以上収養スト云トモ未タ家ニ於テ盗ヲ為ス者ナキ由ナリ、原夫妻及児女共ニ来リテ談話ス、頗ル厚情アリ、以テ此無頼ノ悪徒ヲ薫陶スルニ足ルモノナラン ○下略
 - 第24巻 p.303 -ページ画像 


青淵先生詩文雑纂(DK240039k-0004)
第24巻 p.303 ページ画像

青淵先生詩文雑纂             (渋沢子爵家所蔵)
    筆禍生福音
原胤昭君。三十年前罹筆禍。在囹圄三閲月。備嘗辛苦。因大有所感焉后乃創設出獄人保護事業。献身当之。已歴年所。頃日携此巻来乞書於余。余嘗謂凡天下之難事無難乎導人於道徳。況使刑余浮民服業反正。可不謂難中難乎哉。而君自進当之。提誨不倦。以至今日。其志也忠篤其気也勇壮。其業也慈善。恐世無匹儔。然而世無匹儔者則世必須之具也。難中難者則志士当為之業也。大禹謨曰明于五刑以弼五教。期于予治。刑期于無刑。民協于中。夫君獄裡所感不在私感在公感。公感之極通乎神明。可謂筆禍生福音矣
  大正丙辰八月十日           青淵 渋沢栄一 識


社会事業 第一一巻第一二号・第一〇二頁 昭和三年三月 子爵渋沢栄一氏を中心とする座談会(DK240039k-0005)
第24巻 p.303 ページ画像

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(原胤昭) 書翰 竜門社宛 昭和一一年一〇月一〇日(DK240039k-0006)
第24巻 p.303-304 ページ画像

(原胤昭) 書翰  竜門社宛 昭和一一年一〇月一〇日(渋沢子爵家所蔵)
○上略 明治三十年一月 英照皇太后御崩御御大赦に際し神田神保町ニ東
 - 第24巻 p.304 -ページ画像 
京出獄人保護所を設置仕り 保護事業を経営 其後幾何もなく 渋沢先生の御知遇を蒙り候
同三十二年一月以後 事業報告年報を御送附仕り候
同三十五年 本会協議員に御就任被下 爾来特別の御指導御援助に預り申し候 ○下略


竜門雑誌 第五二三号・第二八―三五頁 昭和七年四月 特に『翁』と申上げて青淵先生を偲ぶ(原胤昭)(DK240039k-0007)
第24巻 p.304-307 ページ画像

竜門雑誌  第五二三号・第二八―三五頁 昭和七年四月
    特に『翁』と申上げて青淵先生を偲ぶ (原胤昭)
○上略
    二、翁の心事を問ふ
 翁の明治三十年代と云へば、その最も盛んな頃でありましたから、早朝よりお客が訪問して本当に寸暇もない程の有様、殆んど静かなと云ふ時はなく、後から後からの客に何時でもせかれて居られました。
 私はさうした中にあつて、後には最早客のない幾分ともに翁の悠つくりして居られる機会をと待ち望んで居りました、すると或る一日恰度私の待つて居た日が到来致しましたから、早速
 『今日は大体お客様も一段落を告げたやうに思はれます、また八十島君の日課表を見ましても、別に御用がすぐおありのやうにも見受けませんが、若しさうでありますれば、私に暫く御談話の時をお与へ下さいませんか』
と御願ひ申しました処
 『よろしうござんす、幸に今日は頗る静かな日であるから』
と御答へ下さいまして、椅子を近づけて御話申上げる機会を与へて頂きました。その時私は翁に向つて
 『私はキリスト教を信仰し、出獄人保護を天職と心得て、それを生涯の楽みと致して居ります、処で貴方の御身柄に就て親しく御様子を拝すると、各種の慈善事業に御力を尽して居らつしやいますことが誡に敬服に堪へませんが、貴方の斯う云ふ大きな公の御力を云はば小さな慈善事業に尽瘁される御志の起つた所以、其の動機と云ふやうなものを伺ひたいと存じます』
と云ふ意味を御尋ねしたのでありました、すると翁は大層御喜びの様子で、何時ものやさしいお顔を一層やさしくされて
 『よく聞いて下さつた』
と云はれまして、翁御自身の守られる儒教の骨子から説明せられ
 『人間の分限としては斯くせねばならないものである』
と前提して語られる処を伺ひますと、大要次の如くであつたと記憶して居ります
 『人の道を正しく踏むため、私は生きるも死ぬるもたゞ人の為めに心を尽して行きたいと思つて居る、従つて碁・将棋にふけつたり、酒食に意を用ひたりすることは楽みとならぬ、私の生涯は何事をも只管人のためにすると云ふにあるのであつて、其処に自ら楽みがあるのです』
と説かれ、尚ほ孔子の教に就て、その教訓や趣意を詳細にお聞かせ下さいました。私は此の時しみじみと翁は常の人の有様や、所謂権勢家
 - 第24巻 p.305 -ページ画像 
の様子とは全然違つた人であると敬服して、斯う云ふ人の世に在ることを喜んだ次第でありました。恰度その時飛鳥山のお邸には他にお客とてもなく、翁はソハアにお掛りになり、私も悠やかな気持で静かに椅子により、そのお話を伺つたのでありまして、寔に此の日の印象は今でもありありと憶へて居ります。
○中略
    六、最初の御近づき
 私は翁から随分御懇親にしていたゞきましたが、最初御近づきを得た時は、特別に人から紹介されたと云ふのでなく、他の人の経営事業の御相談などの縁からでありました。当時即ち明治三十年から三十五六年の頃の翁は、真に飛ぶ鳥を落す勢ひで、実業関係のみならず、他の社会事業、当時は慈善事業と云つたものも、一つとして渋沢男爵に援助を受けないでは出来ないと云ふ有様でありました。然るに一方私は一介の出獄人保護事業に従事して居た貧生でありました。恰度明治三十年の一月英照皇太后崩御のことがあり、特赦により何万人と云ふ囚人が許されて監獄から出たので、その中には二十年も三十年も獄中にあり、此の世に出ることは出たが、頼る処も行く処もない者が相当にありまして、之等の者は直ちに保護しなければならぬ場合に差迫つて居りました。その時私は島田三郎氏の経営して居た東京毎日新聞の事務に当つて居ましたが、その以前北海道監獄の教誨師の任にありましたので、当然私を頼つて来る者も相当にあり、これを保護しないならば、再び犯罪を起すやうなことになる憂ひがありました処から、私の手で之等を保護することになりました。前にも申しましたやうに、当時は何事も民間の仕事は渋沢氏の力に依らねば出来ぬと云ふ時でありましただけ、斯かる保護事業も翁にお話をせねば成立は難しからうと、二・三渋沢さん宛の紹介状を書いて下さつた方もありました。しかし素々私の慈善事業を行ふ精神はキリスト教の博愛から出て居りましたから、所謂事業家の慈善事業と云ふものは私の考の中になかつたのであります、故に私がこの保護事業を行ふ上に於ては、特に渋沢さんの御意見を聞く必要もなく、また金の寄附の如きに就ても御願ひすると云ふ考にならなかつたのであります、と申すのは此種の慈善事業は時代の要求によつて行はれ、博愛のため為すべしとして行ふことでありますから、必要な金ならば自然に充される筈である、何も頭を下げて金を集めなくともよからう。従つて自分だけで相当にやつて行けると考て居りました。さう云ふ観念でありましたから、その紹介状も手にしたまゝで、早速渋沢氏に懇願しやうなどゝ云ふ考へは持つて居なかつたのでありました。
 其後明治三十三・四年頃のこと、翁の心配して居られた養育院で、感化事業に手を染めやうとされるやうになりました、それは養育院で収容して居る不良少年をどうしたらよいかと云ふことが問題になつたからでありました、此の時、私が犯罪行為の予防をなす出獄人保護に当つて居たので、翁としては不良少年の感化事業の研究に頭を悩まして居られた際であり、一般的にも感化事業その事を要求する時代であつたから、私のことをお聞きになつたとかで、特に或る日私を呼んで
 - 第24巻 p.306 -ページ画像 
其の意見を徴せられたのでありました。其処で私は他の人からの紹介に依らないで、直接翁にお目にかゝるやうな結果になり、引続いて五六回も色々の御話を致したのでありました、すると或る他に客人のない時でした、突然
 『私はあなたの事業に金を出して居りましたか』
と云はれましたので、まだ御援助を受けて居ない旨の御答へを致しますと
 『それは、すまんことでした』
と仰有つて、早速八十島君を御呼びになり、金の支出を命ぜられました、その時から私は翁に毎月若干の金を頂戴することになつたのであります。
    七、二つの大なる恩物
 次に私の特別に申上げたいのは、私は翁から二つの大きな恩物を受けて居ります。即ち一つは私の仕事に対する奨励、今一つは限りない大きな援護であります。私自身のことを申すのは甚だ面白くないことでありますが、翁の御心情を尊ぶ意味に於てお話致しますと、養育院の幹事安達憲忠君が、或る時私に
 『渋沢院長が貴方の噂をされた、それは斯うである「私は今軍人になれと云はれるなら軍人になつて一方の将校として働きませう、また商工業ならば何事に就てもその先に立つてやる自信がある、更に政治家でも教育家でも人間社会の事ならば、皆相当にやれると思ふが、たゞ一つやつて見やうと思はれぬのは、原君のやつて居る出獄人保護の事業である」と云はれました』
と話されたさうでありますが、それこそ私に対して何処までも仕事に熱中してやるやうにとの意味の含まれた有難い御言葉であつて、神の力を信仰してやつて居る私を一層激励されたものと思つて、非常な精神的奨励であると感謝して居るのであります。
 次に無限の援護を頂いたと云ふのは月々経常費に頂いた若干の金の事ではありません。私の申す恩物の一つと云ふのは限りない援護を下さつた事であります、それは或日種々の御奨励のお詞のあつた時に
 『原さん、あなたの事業は真に困難な事業だ、御心労を察します、あなたのやうな方に事業で苦労をさせ、而して資金に御不自由を掛けては済みません、どうぞ金が要つたら何時でも仰言て下さい、私は大した金持で無いが、友達には金持も有りますから相談して御援護をしませう』
と熱誠をこめて云つて下さつた。
 然し今日まで四十年間に一万人からの出獄人の世話を致しましたが他の事業のやうに大して金はかけなかつたので、この翁の無限の恩物を心に銘記したまゝで遂に特別な金の御無心に出るやうなことはなくてすみました。飛鳥山のお邸へは遂に御願ひに来る必要もなく経過して、翁の御心持を最も力強く受けて今日に及びました、これ誠に多大の恩物と申さなくて何んでありませう。実際御蔭を以て私は身体も頗る頑健で今年八十歳を迎へました、そして依然同じ仕事に携り得ましたことは、寔に斯様な精神的の大なる恩物があつたからであります。
 - 第24巻 p.307 -ページ画像 
 翁の御話を申上げて居りますと限りがありませんが、私が斯かる談話を致しますことも、翁の尊い御志のほんの一部をでも云ひ現すことが出来ればと考へまして、敢て御話申したやうな次第であります。


出獄人保護 原胤昭著 第一―六頁 大正一四年五月刊(DK240039k-0008)
第24巻 p.307-308 ページ画像

出獄人保護 原胤昭著  第一―六頁 大正一四年五月刊
    沿革
 『己れ共に囚るゝものゝ如く囚者を念へ』との神の教を体し、囚者に同情し、出獄人の保護に手を染め、明治十六年より胤昭の家庭を開放して之を収容し、起居を共にして保護善導を試みた。始めは東京に於て、次いで神戸・北海道釧路・樺戸に、再び東京に帰り事業を続行しつゝ明治二十九年に至つた。全然私設経営で此の間十四年、保護人員三百五人、前科を見れば、強盗・窃盗・殺人・放火等の重罪犯人であつた。
 英照皇太后崩御大赦御施行に際し、特に赦免囚保護の必要到来し、急遽東京神田南神保町に保護所を設置し、東京出獄人保護所と名称し明治三十年一月より公に起業し、恩赦の恵沢に浴せし免囚者を収容保護した。
 明治三十六年国有地を貸与せられ、保護所を神田元柳原町に移す。此の建築は、嘗て当所に保護した出獄人で改善し、夫々清き生涯に居る職工等の手に由て造らせた。其費金は故大隈侯の援助によつて集められた浄財を以て竣成した。
 婦人出獄人の保護を開始したのは明治三十六年である。
 保護所設立より、明治四十四年までに、収容した被保護人は一千二百六人で、前科は強盗・窃盗・殺人・放火・賭博・浮浪・売春其他であつた。
 それより犯罪防遏の一義である児童虐待防止事業に着手し、明治四十二年より収容した保護児童は六十四人であつた。
 其後法律の進歩改善に伴ふ必要に応じて、大正元年より起訴猶予並に微罪不起訴処分釈放者の保護を開始し、大正十二年に至る収容人員六千十七人。犯由は、窃盗・詐偽・横領其他であつた。
 創業明治十六年より大正十二年に至る四十一年間の被保護人員は、総計七千五百九十二人である。
 神田元柳原町に在つた保護所建物は大震火災により全部焼失した。家具・什器の搬出には、頗る力を尽し三度まで置き場所を移したが、終に焼き尽されて了つた。併し事業唯一の財産であり生命である七千五百有余の被保護人身分カード緊要書類は、猛火に戦つて防禦し安全に保持し得ました。故に其後も事業執行には、些の支障無く職責を尽して居ります。
    経営
 当事業は胤昭之を創始し、独力以て経営に当り、明治三十年東京に保護所を設置し、それより公的事業として経営するに至つた。
 最初の協議員は、事業協賛者にて基督教信仰の友たる本多庸一氏・鈴木真一氏であつた。
 現在の協議員は
 - 第24巻 p.308 -ページ画像 
    子爵 岡部長職 閣下
    子爵 清浦奎吾 閣下
    子爵 渋沢栄一 閣下
である。事業は、終始一貫、所謂穿井主義を取り、個人経営を以て執行した。故に道途極めて狭隘、加ふるに胤昭の微力、事思ふに任せず上は聖恩に対し奉り、下は広く同情者諸氏に対し、恵沢芳志に充分副う能はざりしは、慚愧に堪へない次第である。
 然るに幸にも協議員諸氏の厚き協賛援助によつて、事業は逐年進捗し遂に今日有るを得た事を思ひ、深く其高庇を拝謝し、玆に物故せられた協議員諸氏の尊名を記上し、厚き感謝を以て、謹んで敬意を表します。
 本多庸一殿(美以教会監督神学博士)  小河滋次郎殿(法学博士)
 中村元雄殿(内務次官)        島田三郎殿 (衆議院議長)
 三好退蔵殿(司法次官)        土方久元伯 (宮内大臣)
 鈴木真一殿(九段写真館主)
    成績
被保護者総員  七千五百九十二人(内男六、九二一人・女六七一人)
 成績表示に便利のため収容年月に従ひ之を三期に分つ、外に虐待児童の一種あり
  第一期    三〇五人 自明治十六年至同二十九年
  第二期  一、二〇六人 自明治三十年至同四十四年
  第三期  六、〇一七人 自大正元年至同十二年
    計  七、五二八人
  虐待児童    六四人 自明治四十二年至同四十四年


出獄人保護 原胤昭著 第二七〇―二七三頁 大正二年八月刊(DK240039k-0009)
第24巻 p.308-309 ページ画像

出獄人保護 原胤昭著  第二七〇―二七三頁 大正二年八月刊
 ○第十章 事業経営
    第二節 役員
○上略
 (3) 協議員
現在の協議員諸氏左の如し
     伯爵 土方久元殿    男爵 渋沢栄一殿
     子爵 清浦奎吾殿       島田三郎殿
     子爵 岡部長職殿  法学博士 小河滋次郎殿
    第三節 事業維持法
前文述ぶるが如く本事業には、何等の規定を置かざれども、単に事業維持のために左の一法を協定し置けり。
    東京出獄人保護事業維持法
 一原胤昭は東京出獄人保護事業を主管す
 一原胤昭は本事業の賛成者六名を定員として協議員を嘱託す
 一原胤昭は本事業の方針及会計に付ては協議員の協賛を経て施行す
 一小河滋次郎・子爵岡部長職・子爵清浦奎吾・島田三郎・男爵渋沢栄一・伯爵土方久元は、原胤昭の嘱託により協議員たることを承諾せり
 - 第24巻 p.309 -ページ画像 
 一協議員は、本事業の方針及会計に関する協議に与かり、会計を監査す
 一協議員は、原胤昭の本事業を主管すること能はざる場合又は其他の事故ある時は、寄附出金者の意見を聴き相当の処置を為すことあるべし
 一協議員に欠員を生じたる時は、原胤昭は協議員の同意を得て補欠をなすものとす
 一原胤昭は、協議員の検閲を経て毎年一回事業成績及会計決算の報告を為すものとす


出獄人保護 原胤昭著 第二八四―二八五頁 大正二年八月(DK240039k-0010)
第24巻 p.309 ページ画像

出獄人保護 原胤昭著  第二八四―二八五頁 大正二年八月
 ○第十章 事業経営
    第五節 経済
○上略
 (2)寄附者 経費を寄附せられし重もなる方々の氏名左の如し、内月月予約して寄附せらるゝ向きの金高は一ケ月一円以上十円にして各家各々多少あり。
○中略
 南部 北垣 松平(檜町) 浜尾 千家 菊池 高木 石黒 波多野 渋沢 阪谷 佐藤 小早川 毛利 三井(麻布) 長松 各男爵家
○下略
   ○尚、原胤昭ノ事業ニ対シ、明治三十八年五月十三日天皇皇后両陛下ヨリ金一千円ヲ下賜セラレ、又大正元年十一月二十八日各皇族ヨリ金五百円寄贈サル。(原胤昭著「出獄人保護」第二八五―二八七頁)



〔参考〕前科者はナゼ又行るか 原胤昭著 第一二―一三頁 昭和八年六月刊(DK240039k-0011)
第24巻 p.309-310 ページ画像

前科者はナゼ又行るか 原胤昭著  第一二―一三頁 昭和八年六月刊
  第二答 この保護所は自然に成立
    解説(1)英照国母陛下の御恩赦
 私の犯罪行為は、あんな事であつたが、矢張、準国事犯に並べられ在監中囚徒からも官吏からも特に優遇された、又出獄後は、更に分外な尊敬を受けた。それは私の業務絵草紙屋、其頃は地本問屋と称へた江戸絵版画通俗書物商(今で云へば、絵画雑誌屋)仲間では、之を商売上の間違ひだと云つて、罹災者私を悉く叮嚀に待遇し、盛んな送迎を致し、又私の為に世話人を置き、留守宅の処用、及び毎日牢内への見舞物の差入等をして呉れた。尤も私は当時新顔ではあつたが、仲間の、幹事に挙げられ、尚今の商業会議所の前身、商工会議員に公選され、東京府知事より任命を受けて居た。
 その後私は在監中の大患と、衰弱疾瘡の伝染、全身の腫物で、殆んど半ケ年は苦しみぬいた。
 此の病気中にも、尚其れより先き、未だ私の在獄中にも、石川島の牢内で、私から話を聞いたと云ふ触れ込みで、神田の宅へ、出獄人の訪問を受け、就職、又は帰国旅費給与或は一時宿泊などの労を取つて遣つた事が数回あつた。実に私の保護事業は、此の際、既に種子を蒔かれ、追時萌芽し、自ら成立したものである。然る後私の疾瘡も漸く
 - 第24巻 p.310 -ページ画像 
愈へた。
 さて其後は、引続き出獄して来る者から、牢内の実話を詳く聴き取り、更に憤慨の熱度を加へたので、口舌に筆硯に、無闇矢鱈に監獄改良の道へと、突進した。やがての終りに、囚状考査、犯罪研究の道程に登つた。其頃、恰度私の意見書、又は獄舎報告等を手に執られた、土方久元氏は内務少輔在官、石井邦猷氏監獄局長たりし時代、私は新設の兵庫仮留監に教誨の職を奉じ、其後北海道釧路監獄署に転じ、重罪囚の教誨且つ囚情考査に心を砕いた。此の在職十四年の間には、来りて乞ふ出獄人又は重罪犯仮出獄者等を保護した。後、典獄の交迭、治獄意見の衝突により、当時共に北海道に在職せし我が基督教界の牧野虎次君・水崎基一君等々と共に連袂辞職をした。私は帰京、直に島田三郎先生主筆の毎日新聞社の事務長に任用された。其の折柄明治大帝皇母英照皇太后陛下の崩御により大赦御施行の宣旨あり、明治維新以後三十年間、天恩優かに、何事もおはさざりし雲の上に、恐れ多くも今や御大喪の御儀あり、万民挙げて悲痛号哭。此の間に於ても長き年月鉄窓に鎖され、蠢動きつゝありし囚者は、やがて恩赦放免青天白日を頂くの歓喜あるに至つた。此の殊恩を蒙る重罪長刑期囚人の多くは先きに我らが教誨した終身懲役無期有期徒刑流刑等の囚人で、彼らは二十年乃至三十年にも近い年月を、偏境北海道の獄舎に呻吟し、内地の土を踏むを予想せず、従つて近親の現住をも知らず、親子兄弟の間にも音信途絶したるもの多く、故に、彼等は獄屋の戸の開くを待ち一時に大数群つて東京に舞ひ寄するならんと、想像せられた。之を警戒し、之を保護するは、折節在京して居た胤昭の、進んで其任に当らざるを得ぬ事態となつた。依つて私は之を島田先生に、設計組織に就ては土方伯、清浦伯、三好退蔵先生、法博小河滋次郎先生に、また教導収容所に就いては、神田神保町所在基督教会牧師本多庸一先生に図つて、会堂の一隅を借用した。爰に於て当出獄人保護所は斯く、自ら成立した。依て当保護事業は、個人経営を以て組織し、原胤昭之を主管し、清浦奎吾伯爵殿、現に協議員として在られ、原泰一は常務理事に列し、胤昭を補佐して居ります。
○下略



〔参考〕前科者はナゼ又行るか 原胤昭著 第二―九頁 昭和八年六月刊(DK240039k-0012)
第24巻 p.310-312 ページ画像

前科者はナゼ又行るか 原胤昭著  第二―九頁 昭和八年六月刊
  第一答 予が保護事業、その発端
    解説(1)筆禍繋獄、牢死の屍
○上略 西暦一八五三年即我が嘉永六丑年、此の年の二月二日に、私は今の東京、江戸の日本橋茅場町に生れた。明治元年には十六歳、最も血の気の多かつた頃が明治十五・六年。其頃我が日本帝国は、鎖国攘夷の迷夢を破り、文明開化の黎明に臨んだ。
 時に欧米文化の基礎は、まさしく基督教に在る事を仄聞し、所由も解らないが、開国主義に熱狂してゐた我等青年は、キリシタンを探究したいと、身を忘れてもがきにもがいた。然し私は宗教家にはなれもしないが、ならうとも思はなかつた。けれども、明治七年に洗礼を受けて、ヤソ教に入り、布教伝道には聊か力を致した。政党には加盟し
 - 第24巻 p.311 -ページ画像 
なかつたが、民権自由の伸張には、生意気に、筆に口にいささか。
 そこで当時著名な国事犯政府顛覆事件、福島の河野広中氏等の壮挙に共鳴し、その電波で宣伝の資料に出版した、河野広中・田母野秀顕花香恭次郎氏其他志士六名の肖像画に、顛覆をもぢつて天福六家撰と題し、其の頭書にチヨイと筆を走らせた。其れが現に刑法に触れたるものを曲庇するの論文と認められ、大した文章の如うになつた。
        (原文のまゝ)
     田母野秀顕君の肖像
 河野君と同く三春町の平民なり、去冬(明治十五年)縛につき福島警察署の訊問に艱難を極め、三日間食さへ絶ちしと云ふ、之れ比しく自由熱心の導く処にて、天より賦与せられし人民の自由の権利を伸張するの結果は、我々が幸福の基なれども、之に依て罪を得、六年の永日を獄裏に消光さるゝとは、嗚呼。
此の版画は六枚一組のものなるが、当時政府の圧制甚しかつたので、怖々先づ試に三枚を売り出した。すると忽ち発売禁止。即夜警視庁に召喚、直ぐ私は裁判所に廻された。
画作は今日も版画界に尊重されて居る方円舎小林清親翁の筆である。刊行当時の雲ゆき険悪であつた為め、或はと体刑を覚悟して清親翁の名を隠しておいた、果して其れが斯んなわたしの体験になつた。
     裁判言渡書
             東京府下神田区須田町廿五番地
             士族 錦絵売買渡世
                   被告人 原胤昭
                        三十年八月
 被告人原胤昭ニ於テハ、天福六家撰ト題スル田母野秀顕外二名ノ肖像ヲ著シ、明治十六年九月中出版シタリ、而シテ秀顕ノ肖像ニ河野君ト云々、去冬縛ニツキ福島警察署ノ訊問ニ艱難ヲ極メ三日間食サヘ絶チシト云フ、之レ比ク自由熱心ノ導ク処ニテ天ヨリ賦与セラレシ人民ノ自由ノ権利ヲ伸張スルノ結果ハ我々ガ幸福ノ基ナレドモ之ニ依テ罪ヲ得、六年ノ永日ヲ獄裡ニ消光サルヽトハ嗚呼云々トノ論文ヲ記載シ、其秀顕等ガ天賦ノ自由権利ヲ伸張セント欲スル手段其当ヲ得ザリシヲ以テ遂ニ国家ノ罪人ト為リタルコトヲ掲ゲズ、単ニ其罪ヲ得タルノ原因ト結果ノミヲ挙ゲタル文字ニ就テ視レバ、則チ該論旨ハ田母野秀顕外五名ノ者ヲ曲庇シタル者ト認定ス、其証憑ハ被告ガ出版セシ天福六家撰ト題スル田母野秀顕外二名ノ肖像画ニ徴シテ充分ナリトス、其所為明治八年第百三十五号公布出版条例罰則第五条、明治十六年第十二号公布改正新聞紙条例第三十八条末段ニ該当スルヲ以テ、軽禁錮三月ニ処シ罰金三十円ヲ附加スルモノ也
  但シ刻板及ビ肖像画ハ犯罪ノ用ニ供シタル物件ニツキ、刑法第五条第二項ニ基キ、同第四十三条・四十四条ニ依リ没収ス
   明治十六年十月一日東京軽罪裁判所ニ於テ
   検察官検事補 千葉小佐平立会宣告ス
                  判事補 倉本半太郎
                  書記  神谷敏行
 - 第24巻 p.312 -ページ画像 
 斯く断ぜられ、私は東京石川島の監獄、昔から在ツた佃島の人足寄場を繕ツた牢屋へ投り込まれ、散々に究苦を嘗めさせられた ○中略
  第一答 予が保護事業、その発端
    解説(2)田母野秀顕先生の早桶葬
○中略
 さて私は此の牢囚生活で、すつかり囚人の惨苦を嘗め、囚状を推察した。泥坊と云ふ者は、決して天然自然に湧き出るものでは無い。それだのに、前科者は、ナゼ、又、行るか、再犯するか、それは諺にも云ふ、血《(朱)》に交れば赤くなる、あゝしておいては、社会自ら再犯者を作るやうなものだ。と、其実状をつくづくと覚つた。それで私は心から気の毒に思ひ、囚人にすつかり同情して仕舞つた。
○下略



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第五巻・第三五九頁 昭和一〇年八月刊(DK240039k-0013)
第24巻 p.312 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第五巻・第三五九頁 昭和一〇年八月刊
    河野広中等の絵草紙発売を差止らる
〔九・二六 ○明治一六年朝野〕河野広中以下五名の絵草紙は、不都合の廉ありとて一昨二十四日其筋より発売を禁ぜられ、絵草紙数百枚木版六枚を没収せられたりとのこと



〔参考〕東京日日新聞 第三七八五号 明治一七年七月二二日 ○原胤昭氏(DK240039k-0014)
第24巻 p.312 ページ画像

東京日日新聞  第三七八五号 明治一七年七月二二日
○原胤昭氏  同氏ハ神田鍛冶町に十字屋と云ふ書肆を開店し、先年中福島事件の河野広中外五名を六歌仙に擬したる錦絵を出版せし科にて軽禁錮に処せられしが、元来同氏ハ耶蘇の信徒にして学問もある人なれバ、服役中暇ある時ハ一般の囚徒に勧懲の道を説聞せけるに、其教に化せらるゝ者鮮なからず、看守人も常に賞し居たるに、先達て満期放免となりたる所、此度兵庫県御用掛りに命ぜられ、監獄署の教諭の事を担任せらるゝとか云ふ



〔参考〕前科者はナゼ又行るか 原胤昭著 第三一―三二頁 昭和八年六月刊(DK240039k-0015)
第24巻 p.312-313 ページ画像

前科者はナゼ又行るか 原胤昭著  第三一―三二頁 昭和八年六月刊
  第四答 業無く、食なく、眠むるに家無く
    解説(3)保護所の昔の家主は、蘭方医伊東玄朴先生
○上略
 神保町に胤昭が保護所を構えた後、此の座敷で蘭学を玄朴先生から教授を受けたものだよと、昔を語られた方々は、津田真道・杉亨二・津田仙先生等であつた。伝記にある如く、此の屋敷は貫斎先生の拝領地で、玄朴先生の別邸で蘭学の教授所、高野長英などの出入した家なのだよ。とは津田仙先生のお話。
此邸も御徒町の邸に等しく宏荘な構え、少し狭くは有つたが立派な旗本屋敷。
 先づ表は西に向つた白壁塗りの長屋門、欅の太柱、幅板の扉、赤銅の釘隠、門内は小松の敷石、敷台高く、欅の羽目・椽板、拭き込んだ欅の照り、黒塗桟の檜のまいら戸。玄関一席の左右仲ノ口は、病人の待合室。奥に通れば、表広間、中広間、之を通して南面の入側、表庭から奥の茶席を見通す中抜きガラスの檜の障子。此の建物には、まだ三
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階にも一枚ガラスの障子が数本使用してあつた。当時は之をガラス障子とは云はなかつた。ギヤマン障子、竜宮の都へでも往かずば見られない絶景。ギヤマン障子の内から、向島すみだの雪を詠めやうかなど橋場今戸の粋に歌つてある。さうであつたらう。舶来品の大破損物、馬鹿な高価、でも玄朴先生の台所へは、ふんだんに来たらう、だからこそ、此の建築に豊に使用してあつた。私が宮本君から僅か数百の端した金で譲つて頂いた時は、現今九段坂上に聳て居る基督教の仮会堂に使つてあつた、旗本屋敷の遺物三階建も危くなつて、警官立会で突き代へ棒、漸くさゝへて教会の青年部屋に使つてゐた、畳は破れ、建具は損した真のあばらや。



〔参考〕同方会報告 第三号・第九頁 明治三〇年三月刊 【会員原胤昭氏 は今回の…】(DK240039k-0016)
第24巻 p.313 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕同方会報 第二二号・第七一頁 明治三五年六月刊 【会員原胤昭氏の出獄人…】(DK240039k-0017)
第24巻 p.313 ページ画像

同方会報  第二二号・第七一頁 明治三五年六月刊
○会員原胤昭氏の出獄人保護事業 は卅年一月英照皇太后崩御に際し大赦若くは減刑に依り出獄して、都下に散乱し寄辺なき者を保護するか為に、当時創立せられたるものなるが、今や五年を経過し、其成蹟良好にして追次収容したる者五百二人に達したり、殊に市内在住者の八割許は妻帯して一戸を構えたるものとす、氏が慈善なる特志なる事業を進行したるの成蹟を左に挙示すべし
  保護所に寄宿就業の者      四十六人
  東京市内に独立自活の者    百四十五人
  地方に転住独立自活の者    百六十一人
  死亡の者            二十五人
  転住後所在不明の者       五十八人
  保護所より逃亡したる者     二十六人
  再ひ罪科を犯したるもの     四十一人



〔参考〕社会 第一巻第二号・第七五―七八頁 明治三二年三月 東京出獄人保護事業概見(DK240039k-0018)
第24巻 p.313-316 ページ画像

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〔参考〕渋沢栄一伝 幸田露伴著 第一四一―一四五頁 昭和一四年五月刊(DK240039k-0019)
第24巻 p.316 ページ画像

渋沢栄一伝 幸田露伴著  第一四一―一四五頁 昭和一四年五月刊
○上略
公子一行は ○中略 正月十一日 ○慶応三年を以て日本の地を離れ万里鵬程の首途に上つた。
○中略 香港に著きては ○中略 囚獄を見、罪人をして自ら新にせしむる為、神の道を教ふるの施設あるに感じ、当時我邦に於ては未だ是の如きことあらざるに痛く刺激されたことは言ふまでもない ○下略