デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
3節 保健団体及ビ医療施設
4款 第一区府県立全生病院
■綱文

第24巻 p.463-515(DK240058k) ページ画像

明治37年2月17日(1904年)

是ヨリ先、明治三十五・六年頃ヨリ東京市養育院収容者中ニ癩患者漸次増加シ、是日栄一、同院院長トシテ東京市長尾崎行雄ニ同患者収容所増築ノ件ヲ上申ス。爾後、栄一同院幹事安達憲忠・医員光田健輔等ト謀リテ癩患者隔離所設置ニ尽力シ、大隈重信・山根正次・島田三郎等ノ援助ヲ得テ、明治四十年遂ニ法律第十一号ノ公布ヲ見、四十二年十月全生病院開院ニ当リ、同院収容患者ヲ悉ク移スヲ得タリ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三六年(DK240058k-0001)
第24巻 p.463 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三六年     (渋沢子爵家所蔵)
二月廿八日 曇
○上略 九時養育院ニ抵リ行路患者ノ事、鈴木病院ノ家屋買入ノ事、癩病患者処置ノ事、感化部新築ノ事、慈善会開設ノ事ニ関シ種々ノ協議ヲ為シ、十二時兜町事務所ニ抵ル ○下略


渋沢栄一 日記 明治三八年(DK240058k-0002)
第24巻 p.463 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月二十一日 晴 風寒
○上略 午後一時第一銀行ニ於テ午飧ス ○中略 島田三郎・頭本元貞来リ癩病患者ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
十二月九日 晴 軽暖
○上略 午前十時早稲田大隈伯ヲ訪ヒ、癩病看者救護《(患)》ノ方法ヲ協議ス、来会者十数名アリ、三ケ条ヲ決ス ○下略


渋沢栄一 日記 明治三九年(DK240058k-0003)
第24巻 p.463 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十四日 晴 暖             起床六時三十分 就蓐一時
○上略 午後二時銀行集会所ニ抵リ、癩病救助方法講究ノ事ヲ議ス、大隈伯・清浦・石黒其他多人数来会ス、午後五時散会ス ○下略


養育院六十年史 東京市養育院編 第三五〇―三五七頁 昭和八年三月刊(DK240058k-0004)
第24巻 p.463-465 ページ画像

養育院六十年史 東京市養育院編  第三五〇―三五七頁 昭和八年三月刊
 ○第五章 東京市営時代
    第四節 癩病者及肺結核病患者の措置
○上略
 この情勢に顧み三十七年(一九〇四)二月十七日、渋沢院長より市参事会市長に宛て左の上申を為すに至つた。
 本院に収容せる癩病患者の処置に関しては、屡々上申候も其方法未た御確定に不相成候に就ては、本院に於ける該患者月々増加し、目
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下にては少き時も二十一・二人、多き時は二十四・五人に達し候も離隔室は病人を入るゝ場所は僅に十二坪にして、十四・五人の外入るゝ能はさるにも拘はらす、現今右の如き多人数を収容致居候次第にて該患者中には身体腐爛し甚敷状態のものも多く有之、斯る者を狭隘なる場所に多数収容致候事故、其困難実に名状すへからさる次第に付、看護婦室並診察治療所を仮に別築し、現今の看護婦室と診察治療所の全体を該患者収容者に充て一時を凌き候様致度、別箋図面の通り御設計方可然御取計相成候様致度、此段上申候也
  追て本室は一時の仮家屋として、可相成費用を節候様御設計相成度候也
   明治三十七年二月十七日   養育院長 渋沢栄一
   東京市参事会
    東京市長 尾崎行雄殿
 これに対して何等の指令なく、その措置に苦しめる余り、六月に入り、これを目黒村慰癈園へ依托することに決し、渋沢院長より同月十八日付を以て左の上申を為した。
 近来本院入院者一千百余名に増加致候と共に、癩病患者も従つて増加し、僅に十二坪の離隔室に弐拾四名を収容致居候処、目下夏期に向ひ蚊帳を釣り候事も不出来状態に付、今般荏原郡目黒村私立癩病院慰癈園へ依托候事を及照会候処、一人一日金参拾銭を以て入園の儀承諾可致旨回答有之候間、凡そ十人を同園に依托致候様致度、尤も費用の儀は来る七月一日より向ふ三十八年三月三十一日迄一日一人金参拾銭とし、合計金八百拾円を本年度予算中より支出相成候様御取計相成度、曩に同病者を後藤昌文私立病院に依托致候先例に依り右御認許相成候様致度、此段上申候也
これに対し六月二十二日付を以て、左の通り指令された。
 庶乙第四二八六号
                    東京市養育院
 明治三十七年六月十八日付甲第四八号上申、其院収容に係る癩病者拾名を限荏原郡目黒村私立癩病院慰癈園へ壱日壱人に付金参拾銭を以て、三十七年七月一日より三十八年三月三十一日まて該費金八百拾円本年度予備費より補充し依托救護の件許可す
  但本文に要する費金八百拾円は、本年度経費中癩病者依托救護費の項を設けて整理すへし
   明治三十七年六月二十二日
               東京市参事会
                 東京市長 尾崎行雄
依て七月一日より十人の患者を慰癈園に依托し、以て一時を凌いだのである。
○中略
 癩病患者は養育院の創立以来、多少なりとも収容せし所、しかも明治三十七年(一九〇四)秋に至りて、漸く別棟の癩病室増築に着手するに至れる事情にて、他の収容者との関係上、その措置に頗る悩んだのであつた。且つ増築は竣工せるも右の如く狭隘なれば、外来参観者
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の眼には一層不憫に映じたことであらう。然るに明治四十二年(一九〇九)一月中旬、市より右癩病室を以て来る四月一日以後、同病者の一時救護所に充当して支障なきや否やの照会に接した。蓋し当時該病者の措置問題漸く世論に上り、これを隔離治療する施設の必要に迫つたからである。これに対し院より提出したる左の答申書は、当時の事情を明かに物語つてゐる。
 本院癩病室を来る四月一日より同病者一時救護所に相充つるに差支の有無口頭御尋合の趣了承、右は本院創立以来癩病患者時々入院し来り候処、同病は啻に伝染性のもののみならす汚穢と臭気甚敷、多数入院者を収容する本院の到底難堪処なるより、当時芝区に癩病院を設置せる後藤昌文へ依頼し同患者は悉く同院に預け来り十数年間之にて相支へ候も、去る二十五・六年頃本院者引受の事を謝絶し来り、一方には一般入院者の増加と共に同病者も又漸次増加し不一方困難を感し候為め、目黒慰癈園に交渉の上、去三十七年より同園へ常在十人を限り入院せしむる事と相成たるも、其後続々入院者増加し、十名を預けたる外尚常に三十余名の患者有之様の始末にて殆と困却致し、為めに院長は癩病隔離法案に関して不一方尽力致したる次第にて、其の原因は本院に癩病患者を差置候事は甚た危険なりとの理由に基きたるものに有之候、斯る事情に有之候間、癩病患者離隔法実施の暁、本院内に同病患者を差置候事は難堪処に有之、況や今日にては入院者年一年に増加し院内狭隘を告くるの場合に有之候間、右は到底難出来儀と信認致候、此段及御答申候也
即ち現在以上癩患者の離隔収容する施設の至難なる事情を答申した。為めに当局者間に於てこの際、新に一大病院を急設するの議を生じ、遂に同年九月全生病院の開設となり、従来本院内に収容せる癩病患者は、挙げて同院に移転せしめ、爾来これを収容せざるに至つた。又曩に岡村輝彦外一名より寄附申出たる建物は、十月十七日付を以て「明治三十九年六月三十日付養育院収容癩患者娯楽室として建物一棟寄附致居候処、今般同患者全生病院へ移転と共に、同院の都合に依り他の目的に使用相成候様致度」との申請により、これを他に利用するに至つた。
○下略


愛生 第六巻第一〇・一一合併号・第二―七頁 昭和一一年一一月三〇日 癩療養所の出来た頃を語る(園長光田健輔)(DK240058k-0005)
第24巻 p.465-470 ページ画像

愛生  第六巻第一〇・一一合併号・第二―七頁 昭和一一年一一月三〇日
    癩療養所の出来た頃を語る (園長 光田健輔)
 那威の一角にハンゼンが癩の病因たる癩菌を発見した千八百七十三年の翌年、神父ダミエンが「モロカイ」の救癩に入島した、十年経てから独逸のアルニンクがダミエンは癩に感染した事を証明した。ダミエンの癩は急速に進んで千八百八十九年にモロカイ島に犠牲の挽歌は奏せられたが、彼の死の報は世界の癩に対する関心を強めた。日本の最古の復生病院は明治廿二年富士山麓富士岡村に、仏国の神父テストウヰトによりて創立せられたが、無論同神父が布哇のダミエン神父の生前及死後に於て大なる暗示を得たと言はれて居る。此れより先明治初年癩の治療家として布哇に迄招聘せられた後藤昌文氏の如き医家が
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日本の到る処にあつたが、寧ろこれは徳川時代から大風子を主薬とする売薬者流に程遠からざるものであつた。患者の終生の友となつて、癩予防に貢献するものは尠なかつた。却て癩の部落的に蔓延せしめた恨がある。四国遍路八十八ケ所、熊本の清正公附近、身延山、草津温泉、紀州の湯の峰、羽後の湯ケ神温泉、高野山等は癩の巣窟であつて集散常なき癩群があつた。殊に東京・大阪の如き大都会には浮浪と逃避と治療の目的に集まつた。
 東京市養育院は東京市及府の棄児や行旅病人を取あつかふ東京府の唯一の機関で、明治の始めから癩病の潜入を見た。
   子二月七日入院             往還棄児 某
 右の者癩病にて相歎居候に付、起癈病院後藤昌文へ内々診察相托候処、当分の内治療相施候はゞ快癒に赴候様に申聞候間、当院より現今衣食費其儘相送り、且つ其区戸長より施療券相廻し候はゞ起癈病院へ入院可相成儀に付、右衣食費相送申度、此段相伺候也
  明治十年十二月二十二日
               養育院事務長 渋沢栄一
    東京府知事 楠本正隆殿
 後藤昌文氏は、明治六年に彼の有名なる高橋お伝の男浪之助を診療した人で、癩に関する著書あり相当有名であつた。彼れは確かに明治二十年代まで門戸を張り盛大を極めた、後藤氏の診察法は望診を主として、大小指球及骨間筋の萎縮を検査する為め手を高く挙けしめた、彼の治療は大風子丸の内服を主とし、清血薬として橡の皮の煎薬を飲ませ、橡皮の浴湯に入らしめた、所謂単寧酸の収歛療法であつた。
 後藤氏に後れて荒井作と云ふ人が駒込千駄木に開業し、後に浅草に転居した。彼れは夏期草津に出入して患者を治療したが、山師と云ふ悪評を数々聞かされた、草津温泉が癩の治療に役立つ様になつたのは明治年間であるとの事であるが、自分はモツト古くから癩が集つたと信ずる。明治三十三年頃は既に草津の湯の沢が出来て居たが、当時は二百人に過ぎない癩の部落であつた。併し癩は湯の沢以外の上町にも潜伏して居た。今の白旗の湯は専ら癩にきくとせられ当時は御座の湯と呼ばれた。即ち頼朝が富士の巻狩の後に浅間の巻狩したときに入浴したと云はれた、其湯を御座の湯と名けたのであるから将軍の威光で癩が治ると考へたか、此湯を明治三十二・三年頃のぞいて驚いた事は斑紋著しき浮きあがつた湯上り姿の癩の数人と、薄毒と患者間に云はれて居る浸潤癩が此湯に入浴して居た事である、無論其他の病者も混浴して居るので、癩が伝染病である事が小供にまで行き渡つた今日から想像が出来ぬ事である。草津は今日は癩は『湯の沢へ』と厲行されて居るが、明治卅年代は冬行けば二流三流の宿屋の廊下で癩にばつたり出逢ふ事は珍らしい事ではなかつた。殊に冬枯れの御客のないとき宿屋のつなぎにこつそり癩客をとめる事は珍らしい事ではない、今日は冬「スキー」の名所となり、冬も夏も交通が便利になり左様な醜体は見る事が出来ない、恐らく、草津の先輩黒岩山本一井日新望雲等旅館の先代程、癩の為めに心痛した部落はないであらう、明治初年には此の名湯は不治の癩にもきく、況んや其他の病には無論きくと云ふ宣
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伝が効を奏して、以て今日千客万来の繁栄を来し、遠く布哇・上海方面よりも浴客蝟集したとは云へ、眉の落ち鼻の欠けた手の曲つたお客様が店頭に横行する事は衆客に対する、脅威であらねばならぬ。それで癩は別の地区に隔離すべしと云ふ事は草津全町の輿論であつて、明治廿年の頃より湯の沢区を癩の部落と定められ、癩の御客は湯之沢へ案内する事に定められた。我邦では之れが復生病院よりも先きに癩の隔離を実現した事蹟である。湯の沢には宿屋の主人から女中に至る迄癩である。今の理想的自治村である、此処の治療は顔面及全身に幾千幾万の灸点を施す為めに其醜形は一年二年は金持客の足留めにもなり遂には終生此処に暮らす様になり、年々次第に繁盛して昭和八年草津癩療養所が出来る迄は殆ど八百人からの部落になつた、此の所の宿屋は患者の経営で其生存競走から、各自分の御客をふやすべく、東京・名古屋・新潟・京都・大阪・福岡・仙台等大学の癩外来診察所迄宿引を派遣する始末である。彼等は病客を装ふて金持の患者と見るときはこんな所で大風子注射位では治りはしない、草津では三ケ月で請合ふて治る、自分達が此位に健康になつたと云ふ、無論軽症神経癩の運動員である。此れにつられて草津に行き、灸点修行に一生を終るものも尠くなかつた。幸に草津に国立楽泉園の出来た事は癩の為めに灯台が出来た様なもので、残忍酷薄とも云ふべき火刑から免かれた。明治二十五年北里博士の帰朝は、癩患者に大なる希望を起さしめた。芝公園の伝染病研究所には癩患者が殺到した、そして「ツベルクリン」注射を受け発熱して苦んだ患者があつた事は、後年北島先生の話しに承はつた。併し、場所が目抜の公園であり、芝附近の下宿屋の恐慌等の事で、癩の治療研究は明治二十七年に目黒に出来た慰癈園でする事に特約せられた。慰癈園の大塚先生夫婦の働きは常に五・六十人から百名の癩患者を収容し、これに宗教上及肉体上の救療を行ひ、明治三十七年から東京市中に浮浪徘徊する癩患者を警視庁より依托を受け治療する事になつた、今日の所謂警視庁所管の仮収容所である。
 自分は明治三十一年から東京市養育院医局に務めた。時の医長は入沢達吉先生であつた。自分が癩に趣味を覚えたのは明治三十年伯林で万国癩会議があつて、其会議の模様が雑誌に掲載されてあつた。偶養育院から結節癩屍を病理教室に送つた時、山極先生が執刀されたのであるが自分は其介補をして、股淋巴腺の一片をもらつたが此一片こそは自分の終生を定めるの動機となつた。自分はこれから切片を造つて染色したところが、全く結核の組織に外ならなかつた、併し結節癩の淋巴腺である、それで癩菌を染色した、然る処乾酪竈の内外到る処に癩菌を見た、ラングハンス氏巨大細胞内にも亦癩菌の団塊があり、自分は癩と結核との混合伝染であると云ふ断案を下だす迄には長き間読書及思索に費した。無論当時癩会議の後であり各雑誌に癩の事を散見するので大なる興味を覚え、癩屍のある毎に細なる鏡見を続けて、西洋人の研究にも驚いたがまだ知られぬ沢山な事実がある事も知つた。明治三十一年には土肥教授も帰朝せられ、万国癩会議に列席せられて発表せられた先生の論文に啓発された事も多かつた。
 大学には別室が出来て三・四十人の癩は外来に治療に通ひ、之等が
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日暮里・田端に借家し或は下宿して居つた、又千駄木の荒井作氏の跡を木下東一先生が買取つて、専門病院が出来て二・三十人の病室があつた、先生は土肥先生とは親族関係で、随て大学の紹介で入院するものが大部分であつた。
 当時養育院には三浦謹之助教授が入沢先生と更代せられた直後であつて、癩患者が老人室・不具室に混入して入る位で、入沢先生に話したら大学生の中にも癩があつた話をされた。しかし、打捨てをけないので癩を離隔し、冬期になると続々と入院した。養育院の記録によると


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        六月末癩患者  十二月末癩患者          六月末癩患者  十二月末癩患者 明治三十四年 六月末 一八  同   一九    明治三十六年 六月末 二三  同  二四 同三十五年  同   二〇  同   二三    同三十七年  四月末 二三 



 養育院に入院した行旅病者の癩は、大抵東京市の盛り場に乞食する連中で、浅草公園の観音門の左右、浅草本願寺の路地で丁度此頃の大阪天王寺の浮浪癩を思はせる。彼等は此の門を追はれゝば他の場所に移動する、浅草に次では深川の八幡、洲崎の入口、豊川稲荷、川崎大師、大森池上本門寺、日暮里・落合の火葬場、水天宮、上野公園池の端、其他各区の縁日には彼等の姿を見たものであるが、近年全生病院の拡張以後には何処の場所にも極めて尠くなつた、彼等は寒くなると神経痛やら関節痛・潰瘍が大きくなり、発熱により動けなくなり、遂に市中に行き倒れるが、交番でも手続が面倒なので可成他区に順送りをなし、遂に小石川区から養育院に送り込まれる、養育院に入院しては石渡看護婦(現全生病院婦長)の親切なる手当により漸く治癒し、春先時候がよくなると又外に出掛け、おもらひをするのである。
 又手足の傷から創傷熱を起し切断を余儀なくされたり、癩の結節の為めに喉頭が塞がり、呼吸困難を起したりして入院し、気管切開をせねばならなかつた患者もある。又困つた事は之等の患者が何れも不潔の為めに疥癬を持つて居る事である、斯様な患者の為めに硫肝浴や@硫膏を塗布して漸く治つたと思ふて居ると逃走する。兎に角三十名の患者が冬分十二坪三室に密集するので、何等の仕事もなく雑魚寝の有様である。渋沢院長は此有様を安達幹事から聞かれて、明治三十七年二月十七日尾崎市長に建議せられた。
 本院に収容せる癩病患者の処置に関しては屡々上申候も、其方法未だ御確定に不相成候に就ては、本院に於ける該患者月々増加し目下にては少き時も廿一・二人、多き時は二十四・五人に達し候も、隔離室は病人を入るゝ場所は僅に十二坪にして、十四・五人の外入るる能はざるにも拘はらず、現今右の如き多人数を収容致居候次第にて、該患者中には身体腐爛し甚敷状態の者多く有之候、斯る者を狭隘なる場所に多数収容致候事故、其困難実に名状すべからざる次第に付、看護婦室と診察治療所の全体を該患者収容室に充て一時を凌ぎ候様致度、別箋図面の通り御設計方可然御取計相成候様致度、此段上申候也
  追て本室は一時の仮家屋として、可相成費用を節約候様御設計相成度候也
 - 第24巻 p.469 -ページ画像 
   明治三十七年二月十七日   養育院長 渋沢栄一
    東京市参事会
    東京市長 尾崎行雄殿
 所ろが有名な岡村輝彦法学博士と、令弟岡村竜彦博士は癩に対する最初の同情者であつて、明治三十九年春、院内を参観せられ、十二坪の狭隘なる建物に癩の雑居するを見て、左の書面を添へて娯楽室を寄附せられた。
 曾て東京市養育院を参観せしに、各病室中最も不幸なる癩病患者収容所の狭隘にして、重軽の患者の僅かに一室に於て起臥を与にするを見て慰藉の必要を感じ、私共申合せ別紙図面の如き家屋を其附近の地に建築し、是に遊具品を備付、娯楽所として寄附致し、該患者を慰め度候間、該建物御受領方及建築御監督方の二件とも御聞届相成候様致度、設計書・予算書・図面相添へ此段相願候也
                      岡村竜彦
                      岡村輝彦
    東京市参事会
    東京市長 尾崎行雄殿
 養育院の癩の収容所は、新帰朝の岡村博士を驚かした程みじめであつたが、日本全国の神社仏閣の縁日、名所旧跡の地には目も当てられない醜体が演じられて居る。復生病院が富士山麓、癩濃厚の駿東郡に設立せられたのも、捨てゝ顧みられなかつた癩患者の呻吟により明治廿二年設立せられたのを始めとし、英国から来た女宣教師のリデル嬢が回春病院を熊本市下立田に建てられたのも、清正公の桜花の下蔭に多数の憐れな癩の姿を発見して惻隠の情禁せざるものがあつたからである(明治二十七年)。大塚夫婦を献身せしめたのも、千葉病院に入れられて費用と信仰迫害で苦んだ癩病者を救はんとする熱心から出発した。仏人ジ・ヱムユール神父が清正公下に業を始められた待労院も、日本人が一向振向きもしない癩患者の看護治療を与へんとする動機から始まつた。身延山の深敬病院も綱脇師が富阪に出逢ふた憐れな乞食癩を見て、捨て置べからずとして、身延山の焼き払はれた癩の巣窟の跡に創立せられたのは日本人として在来の仏教徒に稀に見る事の出来た美事である、当時復生病院が七十名を最多とし、慰癈園・回春病院待労院が各六十名、深敬病院が五十名位を収容してゐた。
 又議会の運動としては、明治三十六年斎藤寿雄代議士が北里博士の激励により癩予防の建議案を出されたのを始めとし、先輩山根正次先生が数回に亘りて花柳病及癩の為めに建議せられた。
 併し当時各地に於ける浮浪癩の惨状と外国宗教家の活動は政府当局を刺戟し、又養育院には常に浮浪癩が三・四十人も集まり、逃走入院常なき有様に困りぬいて居つた幹事安達憲忠氏が、癩の伝染性である事を知り、渋沢養育院長に話し、院長は入沢医長に確められ、伝染病では打捨置けぬと云ふので、遂に明治三十七年東京市長松田秀雄氏に市の癩病院設立の必要である事を建議せられたが、松田市長は夫れは市が日本中の癩病を東京に招き入れる様なものであると一蹴したのでしばらく時の至るを待つて居つた。然るに明治三十八年日露戦役が勝
 - 第24巻 p.470 -ページ画像 
利により、従来劣等国として見て居た日本の名声隆々と上がつた、欧米諸国はそんな戦勝文明国に癩の為に喜捨する必要はないと云ふ様になり、従てリデル嬢が英国や米国での喜捨募集が思はしからぬので、嬢は余儀なく日本国内の同胞に喜捨を募るの已むなきに至つた。当時知名の士の筆頭は大隈伯で、嬢が相談されたが、社会事業の事は渋沢男に相談されたがよいと云ふので、嬢は渋沢男に相談された。渋沢男は此機会に東京市の癩で困つて居る事と、日本全国の癩問題をも解決する端緒を得たいものと、当時日本橋阪本町にあつた銀行集会所に朝野凡ゆる名士を招き、リデル嬢回春病院の後援と同時に癩国策を相談されたが、当時の富豪三井・岩崎・古河・大倉等の代表者は勿論、新聞記者の内には島田三郎・頭本元貞あり、政治家の内には清浦子爵あり、窪田衛生局長あり、輿論は渋沢男の予想通り興りて、島田三郎氏は一週に亘りて其機関紙に熱心に論議せられた。三十九年にも渋沢男は第二回、銀行倶楽部に集会し、大隈伯・清浦子も参加せられた、此れは遂に政府を立たしめた。内務省では窪田局長が主となり予防に関する法律が審議せられて、明治四十年に遂に癩予防に関する法律が発布せられ、其結果として東京・青森・大阪・香川・熊本に明治四十二年から開院せられ、東京三百人・青森百人・大阪三百人・香川百五十人・熊本二百人の収容力が出来て、其附近の浮浪者及各府県の貧困者を収容した。
 終りに私は養育院医局から全生病院(東京府外十一県聯合立)の医局に移る迄、は全生病院在職中《(或脱カ)》、始終癩に同情と理解とを以て癩の救助の為めに尽力せられた故渋沢子爵に深甚の敬意を捧ぐると同時に、明治卅四年以来今日に至る迄三十六年間、狭隘なる養育院癩病室から全生病院に、昼夜癩の看護に捧げたる全生病院看護婦長石渡琴子夫人に敬意を表するものである。


山桜 第一一巻第九号・第二―三頁 昭和四年九月 全生病院開院前後(光田健輔)(DK240058k-0006)
第24巻 p.470-472 ページ画像

山桜  第一一巻第九号・第二―三頁 昭和四年九月
    全生病院開院前後 (光田健輔)
 玆に病院創立二十年祭を迎へた事は職員患者千有余の大なる喜びであります。其喜びの一部が山桜紙上に溢れて居るのを見るに付け上に聖恩海無量なる皇室を戴き、賢明なる政府及聯合府県の指導と職員の忠勤、患者の一致協力によりて今日あるを致した事を感謝致します。顧みますれば、明治三〇年独逸の東部海岸ロシヤに接する所に十数名の癩が発生したのに驚き、独逸政府は警鐘を乱打して『癩病来れり』『癩病再燃せり』と叫びて第一回万国癩予防会議を伯林に開きて、日本からは北里博士・土肥博士が列席せられ、論文が提出されました。爾来識者間に癩問題が漸く注意されたのであります。当時壮丁の癩なるによつて不合格となるもの毎年六百人、ソウ丁毎千の比例は、実に一・五四、此割合で全国にライがありとすれば正に七万七千の多数を有する割合である。従つて神社仏閣到る処に浮浪徘くわいのライ患者を見る有様で、殊に東京では浅草・築地・深川方面に乞食をなして居るが、傷がひどくなり乞食が出来なくなると行旅病者となりて養育院に送致せられた。併し各交番でも鼻つまみであつて、消毒するのじや
 - 第24巻 p.471 -ページ画像 
と云ふて寒中石炭酸水を頭からぶつかけられ、悲鳴を上げて甲交番から乙交番へと次第々々に追ひ払はれた者であります。養育院では六病室と云ふ離隔室に収容して、薬湯を立て治療するのでありました。
彼等は社会の虐待に懲りず、傷がなほれば又再び乞食に行くのでありました。此時幹事安達ノリ忠氏は、ライが伝染病で離隔が唯一の予防法である事を聴き、之を院長渋沢男爵に話されたのが縁となり、爾来三十年間、渋沢子爵は今尚此問題の解決に苦心される様になられました。当時内務省衛生局長窪田静太郎氏も、北里ハク士・斎藤寿雄代議士・山根正次代議士・島田三郎氏等の離隔せつに耳を傾けられ、ライ予防の法リツを設けんとせられし折柄とて、渋沢男爵等の有力なる運動を喜ばれたさうであります。
窪田きよく長の意見は、現今の日本の国力では何万と云ふ絶対隔離する事は至難であるから、先づさし当り浮らう徘くわいの徒は、東京・大阪・青森・高松・熊本の如きスウ要なる集合地に療養所をセツ立し其余の患者は自宅に於てカク離せしむべしと云ふにありました。そこで四十年に法リツが出て四十一年を準備期間として、四十二年より五箇の療養所を開所する筈になりました。私は浮らう者は島にあらざれば到底とう走を防ぐ事が困難なる事をキヨク長に進言いたしました。処がくぼ田局長の言はるゝには、癩は罪人ではないから島でなく内地を選ぶ方針である。しかし高松の大島は景色のよい処で陸地に近いから賛成したとの事でありました。併し開所以来十年間は、この難有いきよく長の方針を考へる事なしに、患者は逃走・流浪の限りを尽したので、社会の同情を失ひ、先に窪田きよく長の下にライ予防の立案者たりし、中川望氏がきよく長になられた時代には懲かい検束の法りつが追加せられねばならなくなつたので、中川きよく長は残念がられたが、此法リツが患者の自覚を促し賭博・逃走の悪癖がやみ、同病相愛の向上的精神がキフ然として起り、これと同時に社会の同情を呼び、多数の宗教家・教育家・芸術家其他の人々が遠方をものともせず慰問の為めに来て下さる事、又家族が日々慰問に来て下さる事になつたので、病院の生活を一変せしめた。
加之奉仕的の作業は、此村の生活を益々意義あらしめる事になつた。今日ではこの様子を聞きつたへて患者は我も我もと入院を希望し、門前に集り来る様になつた。往年巡査にひかれ、恰もト所の羊の如く余儀なく入院した患者の比でなくなつた。これと云ふのも窪田きよく長が絶海孤島説をはいした達見の賜物であります。
又ライ予防法に無セキ者を認めて居るが、日本に無セキ者はない筈である。しかしライ患者は家族の立場から本セキをかくさうとする。其精神を酌んで開院当時猫もしやく子も無セキ者で入院せしめたが、これがライ病院のガンとなつて暴れ回つたので、遂に此の涙ある法リツを活用する事が出来なくなつた事は、余儀ない事であつた。
次に我国の療養所が質素を旨とし作業にいそしむ習慣を作つたのは明治二十二年創立せられた復生病院の感化が大いにある事をのべたい。同院の神父、ベルトラシ氏は、患者と共に耕し患者と共に草を刈つた人である。此人も『モロカイ』の実例を挙げて、遠島離隔を排斥した
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一人である。
此人が開院のとき日本には癩の看護婦が得られまい。『ヒリツピン』・印度でも仏国尼僧を招聘したから日本でもさうしなさいと忠告して呉れたが、幸に各癩療養所共に外国人を招聘するの必要がなく、同胞相愛の道場を築く事が出来たのは、私の最もうれしい事である。


竜門雑誌 第四八一号・第一二八―一三二頁 昭和三年一〇月 社会事業と青淵先生(窪田静太郎)(DK240058k-0007)
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竜門雑誌  第四八一号・第一二八―一三二頁 昭和三年一〇月
    社会事業と青淵先生 (窪田静太郎)
○上略
 此の如く養育院は開院以来の実験に基いて種々の社会事業を創設し以て当面の需要に応ずると同時に、一般の社会事業研究の資料を供し社会的制度の参考材料となつた事は甚だ多い、自分の知つて居るもの丈でも前記の如くである。就中其一として顕著なものは癩予防の制度である、養育院には種々の重病者が収容せらるゝ中に癩患者も亦収容せられ、明治三十六・七年の頃には癩患者の数が二十人許りになつた此の種の病者の取扱に付ては他の重病者と趣を異にするので、養育院では取扱に非常に困難をしたのである。そこで癩患者を区別して収容する場所を設くべきかとの考もなされたのであるが、市参事会等に於ては此の如き収容所を設けたならば、全国の癩患者は此の収容所を目当にして、東京に入り込んで来るであらう、故に此の如き計画は不可であると云ふので、其同意するところにならない、一面から考へれば此の議論も亦必ずしも無稽とは言へないが、然らば如何にすべきかと云ふことになると頗る困難で、先生は大に之を苦慮せられ、内務当局に対して、癩患者殊に浮浪患者の処置に付て速に相当に制度を設けて貰ひたいと云ふことを屡々申出でられた。内務省に於ても癩患者の処置に付て其必要を認めないではないけれども、ペスト・コレラ・赤痢と言ふが如き急性伝染病処置とか、精神病者の保護とか、結核の予防とか種々の要急事項があるので、容易に癩患者の処置に著手するに至り兼ねて居た。時恰も日露戦役が起つて、英米等の国から資金の供給を以て癩病院の経営を為し来つた、外国人たる篤志者は、資金の供給に停滞を生じ、非常に困難をした、其の中熊本の回春病院に於ては従来英国より送付し来つた資金が杜絶したので大に困難した、夫で院長たるリデル嬢が上京して、東京に於て資金募集のことを先生及大隈伯に依頼した。然るに先生は前記の如く癩患者救護の必要を痛感して居られたので、リデル嬢の需に応じ、回春病院の為に資金を募らるゝと同時に、之を機として大に癲予防の必要、癩患者救護の急務なることを世間に宣伝せられることゝなつた、そこで先生が主となつて島田三郎氏等が之を扶け、又自分も当時内務省衛生局長を勤めて居た関係で驥尾に附して回春病院の資金募集と癩予防の宣伝とに当つた、当時の状況は左の如くであつた。
     リツデル嬢の癩病患者救療事業後援集会
           (新聞雑誌記事を綜合せしもの)
  大隈伯及渋沢男は、英人リツデル嬢の癩病救療事業を援助せんが為めに、都下各新聞社員を招待し、明治三十八年十一月六日午前
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十一時より日本橋区坂本町銀行倶楽部に集会を催せり、来会者二十余名、大隈伯病気にて出席せず、渋沢男は大隈伯の意見を併せて集会開催の趣旨を演述せり。
  次に熊本回春病院評議員東京高等師範学校教授金沢久氏、リツデル嬢に代り、同院設立の沿革を述べ、それより東京市養育院医員光田健輔氏は「学理上より癩病の恐るべき伝染病たることを、日本が世界第一の癩病国たること」を述べ、更に代議士山根正次氏は「癩病予防事業を国家事業とすべきこと」を演説し、内務省衛生局長窪田静太郎氏は「政府が大に予防方法に就て研究しつゝあること、及び私人の事業にも依頼せざるべからざる必要の大なること」を述ぶ、次で代議士島田三郎氏は癩病に就ての所感を演説し、終つて協議の結果渋沢男が大隈伯に謀り数名の委員に委託して、大に此の問題に関する世間の注意を喚起し、且つ嬢の事業に対する同情を事実に表はす方法を講ずることゝして午后四時散会せり。
右の集会に於ける先生の演説要旨は左の如くである。
      渋沢男爵演説の要旨
  本日は大隈伯爵が病気にて出席されざるにより、私は大隈伯爵の意見をも併せて玆に会同を願つた趣旨を陳述せんとす。英国の貴婦人リツデル嬢は、多年我国の癩病患者の為め私費を以て施療する所ありしも、何分将来多数の患者を救護するには相当の拡張を要するが故に、我国人の同情に訴へ相当の浄財を得んことを望む次第なり、東京市の如きも市養育院に癩病患者の収容漸次多く、実に前途の処置に苦心しつゝある次第なり、然るに余は是迄癩病の嫌忌すべきものなること、及び其の患者の気の毒なることを知りたるのみなりしが、今回其病気の実に恐怖すべきものなることを知り、之に対する予防事業の頗る重大なることを感じたり。何となれば之迄遺伝病とのみ思ひ居たる癩病は実に恐るべき伝染病にして、之れを其儘に放任せば此の悪疾は益々勢を逞ふして、国民に及ぼす害毒寔に測り知るべからざるものあればなり、而して此の恐るべき伝染病に対して我国に未だ適切なる施設なきは、国家の為めに慨歎に堪へざるのみならず、我が国民が此の恐怖すべき癩病の救護事業を外国の慈善家の手に委して、殆んど自ら顧慮せざるものゝ如くなるを見て、余は大に慚愧に堪へざるものあり然るに今回十数年間熊本に於て癩病患者救護のことに従事せらるる回春病院設立者たる嬢が其の事業の為めに賛助を求めらるゝに会し、余は大隈伯と共に大に嬢の篤志に感動し、微力を尽さんと欲し、玆に諸君の会同を得て、癩病の恐怖すべき事を大に国民に知らしむると同時に嬢の事業に賛助を与へる方法を図らんと欲するものなり。云々
 斯くて先生は主として市内の実業家等に勧誘せられた結果、相当の寄附金が集つた、リデル嬢は其の目的を達して帰院し、従来の如く其の事業を継続することが出来以て今日に至つて居る。
 前記の如く、熊本回春病院の資金募集を機として、先生が癩予防・
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癩患者救護の必要を大に呼号せられた結果、世間一般殊に内務省内の空気も癩予防救済制度の必要を認めるに至つた、其処で自分は先以て浮浪徘徊する患者に対する制度を立て、一面には其の救済、一面には公衆に対する伝染の予防を計ることに決した。依て種々局内に於て考究を遂げた結果、遂に今日の如く全国に数ケ所の癩療養所を設けて、之に療養の途なく浮浪徘徊する癩患者を救療して、其の経費は聯合府県の分担とすることゝし、明治四十年法律として発布せらるゝに至つた、今日に於ては斯くして設置せられた五箇所の療養所に合計二千百余人の患者が収容救護せられて居る、斯くてまだ充分とは言へないけれど、無資力の浮浪患者の処置は一応の方法がついたので、今後は有資力の患者に対して相当の慰安を与へ療養を受け得せしむることが緊急の必要と為つて居るので、先生は近時此の種の患者に対する措置に付て大に考究して居られるのであるが、兎も角も東京市内を初め全国各地の神社仏閣等に於て、四時常に醜骸を曝らして居た憐むべき患者が近時殆ど其の跡を収めんとするに至つたと言ふてもよい(時と処により例外の現象を見ることを免れずとするも)のは、右に述ぶる如き歴史があるので、畢竟先生の熱誠と努力とが此に至らしめたのであるが、而も養育院に於ける実験の結果が其の処置の必要なることを社会に訓へて遂に癩患者に対する制度が一部分は出来たと云ふてよいのである、此の一事に依て観ても養育院が社会科大学若は社会科学実験所であつて、先生が其主長であると私が言ふのは決して誣言でないことが解ると思ふのである、加之養育院に於ては社会事業に関する研究・修養を経たる幾多の人物を社会に送り出して居る、例へば今言ふた癩患者に付て観ても、東京府外十一県の設立に係る東京府下村山にある癩療養所(全生病院)長にして医長たる光田健輔氏の如きも、初め養育院の医師として勤めて居られた関係から、入院者中の癩患者を取扱ふことゝなり、癩に関する治療法や学理等が当初未だ内外国に於て明かならざりし結果、同氏は是等のことに付て研究するの必要を感じて遂に癩の研究家として本邦随一の学者たるは勿論、癩に関する世界的の学者となつたのである、其他現に養育院に在職せらるゝ諸氏や、前に主事として勤め今は隠退せられた安達憲忠氏の如きは暫く措き、後に大原社会問題研究所に入りて、曩に物故せられたる高田慎吾氏の如き、現に社会局に在る小沢一氏の如き、東京市社会局に在る川口寛三氏の如き、小林正金氏の如き、其の他枚挙に遑ないのである。此の如く人材養成の点のみより観ても、東京市養育院の院長たる先生の本邦社会事業に対する功績の甚大なることは言を俟たないのである。


社会事業 第一七巻第五号・第二―八頁 昭和八年八月 癩予防制度創設の当時を回顧す(窪田静太郎)(DK240058k-0008)
第24巻 p.474-479 ページ画像

社会事業  第一七巻第五号・第二―八頁 昭和八年八月
    癩予防制度創設の当時を回顧す (窪田静太郎)
 先日宮内大臣より癩予防協会役員及関係者を招かれて、其の際に入江皇太后宮大夫が出席せられ、沼津御滞在中癩患者に付いて御軫念の程をも伺つたのであるが、御滞在中特に附近の神山復生病院に大夫を差遣はされて御慰問の御沙汰を賜り、御歌六首をお詠み遊されて、患者を御慰安遊された由である。その節に予ねて御培養になつてゐた楓
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樹の若木を多数御持たせになり、同院の庭内に植ゑつけて、生長して秋の頃にもなれば患者の慰めともなることを望ませられる、と言ふ御趣旨の御歌も賜つた趣である。誠に難有き極で患者等も感泣したことと思ふ。
 同招待会の席上には清浦会長・山本内務大臣等も居られて予防事業の将来に対する希望意見等も述べられた。その節はしなくも自分は予防事業草創の事情等を回顧して、渋沢子爵の斯業に対する功績を窃に追懐した事であつた。
 それで当時の事情を雑誌に記載しておいたならば、後年に何か参考になることもあるかと思つてこの記述を試みる訳である。
 由来老人は既往の手柄話のみを為して若者を苦しませるものだと言ふことは、自分もつい近頃まで冗談半分に言つたりしたのであるが、近年自分が老人となつて見ると、敢て手柄話をする意味ではないが、(手柄と認むべき程の事績もないが)自分の関係したる事、自分が最もよく知つてゐると思ふ事情・事柄は何かの機会に話して若い人の参考にして貰ひ度いとか、それ程までゞなくとも、話して雑誌に書いて置いて貰ふたら後年に至つて関係事項の歴史を調査する篤志者等のあつた時に役に立つかも知れないと言ふ老婆心から、話したり書いたりする気になるのであつて、或は手柄話をするものゝ様に解せられて迷惑であつても(その点では幾分の犠牲を払つても)後年にのこして置き度いと思ふに外ならぬのである。斯くの如く今に至つて始めて往年酷評した老人の心理が解つた心持がする。
 癩予防について明治三十八年十一月に熊本回春病院の経営者であるリデル嬢が出京して、大隈・渋沢両氏に依頼し、回春病院の資金を募集したのが、劃期的の事跡と言ふてよい。これより先き渋沢子爵は永く養育院長として行旅病者等を取扱はれる中に、癩患者があつて、段段に救護して居られたのが当時二十人許りにもなつて来て、その救護については非常に苦心して居られた際であつた。子爵は幼少の頃近所の子供の中に癩患者が一人あつたので大に同情して、他の子供は嫌つて共に遊ばなかつたのを、子爵は却つて気の毒に思つて共に遊び等をせられてゐたさうである。その頃から癩患者に対して特に同情を有して居られた故に、リデル嬢の申出に対して即時に快諾せられ、当時夙に社会問題に注意を払ひ言論を試みてゐた島田三郎氏を誘ひ、又自分が当時衛生局長であつたので自分にも相談せられて、一夕府下の新聞記者其の他有志者を集め、リデル嬢の事業を援助する事を第一の趣旨とし、之に次いでは我国の癩患者を外国人の手に委して居ると言ふ事は出来ないではないか、これが救護・予防の方法を講ぜなければならぬではないかと言ふ事を相談せられ、来会者一同もその趣旨に賛同して、夫等の人が主となつて先づ回春病院の為に資金を集める事に着手してその目的を達した。斯くの如く回春病院の急を救ふ事は一応目的を達したのであるが、子爵は之に甘んぜず、引続いて一般の癩患者の処置、殊に差し向いては道路に徘徊し、仏閣の門前に患部を曝らして憐みを乞ふが如き頼る辺なき患者の救済を速かに実行せねばならないと言ふ事を、衛生局長たる自分に申出でられ、又朝野に向つて之を高
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唱せられたのである。
 元来癩患者の処置と言ふ事には二様の意義方面がある。一つは伝染病と確定した癩の公衆に対する伝染の予防事業たることと、一つは癩患者その人の保護救済と言ふ事である。其処で自分の衛生局長としての立場からは癩の伝染を予防する方面を主管せるもので、而して公衆衛生と言ふ見地からすれば、癩の予防は当時未だ第一に着手しなければならぬと言ふ様な場合に到つて居なかつた。と言ふのは自分は明治三十六年から四十三年まで衛生局長をつとめたが、自分の前任者、殊に長谷川局長在任の明治三十二・三年以後、阪神地方から京浜地方等に屡々ペストの流行を見て、防疫官吏は殆ど寧日なき有様であつた。赤痢・腸チブス等の急性伝染病も又猖獗を逞うして、衛生当局者は、主として急性伝染病の予防に力を尽さねばならぬ状況で、各地方の官吏・吏員の人手から言つても、又経費の負担から言つても、未だ慢性伝染病の予防に大に力を用ひる事は許されなかつた実状であつた。等しく慢性伝染病と言ふ中にも、性病の予防、トラホーム、其の他必要と言ふ点から見れば結核予防が第一に手をつけなければならぬ事は、衛生関係者間に於て議論の無い処で、衛生学者等も未だ癩予防を絶叫する迄の進運に達せなかつたのである。従つて医学者としては養育院に於て癩患者の治療研究に当つてゐた光田健輔君、多年警視庁警察医長の職を奉じた山根正次君あたりが、癩予防の必要を唱へた先覚者と言ふてよいと思ふ。この様な情勢であつたから、自分も衛生局長たる見地からは、当時先づ癩予防の制度に着手すべきものとは考へなかつた。当時癩菌は既に発見せられ、癩の伝染病たる事は明になつてゐたが、覿面に伝染に依つて癩患者となつた事の明かなる実例は極めて稀であつた。故に自分の考へでは、伝染病には相違ないが、思ふに体質に依つて感染する差異を生ずるので、在来遺伝病と考へられたる所以も又その辺にあるであらうと思ふたのである。
 然し救済の対象としては、癩患者は最も緊急の必要あるものに相違ない。殊に資力乏しく自宅に於て相当の療養を為し難き患者は、速に之が救済を為すべき必要があると思つたのである。然し救済と言ふ意味に於ては内務省中で之を主管すべき局は地方局であり、又風紀上取締りを要すると言ふ意味に於ては警保局の主管である。故に自分としては前申したる如くに当時先づ癩患者救護に着手する事には躊躇してゐたのであるが、渋沢子爵の熱誠なる勧告、殊に渋沢子爵の主唱に依つて世論も亦自ら放浪癩患者の救護の必要を認むるに至つた様であるから、自分は衛生局長としては癩予防を主たる理由とし、傍患者其人の救護も必要なりと云ふ理由として、先づ放浪患者を一定の場所に収容して、救護を公費を以て与へる方針を定めて着手する事にした。
 斯様な趣旨であつたから、当初自分の立案したのは各府県に必要に応じて適宜の救護場を設け、府県費を以て支弁する事に立案したのであつた。そして明治三十九年始の帝国議会に提出する心算を以て法案を内務省内関係局に協議した。然るに当時地方局長であつた吉原三郎氏が之に反対して何うしても同意しなかつた。その理由は元来同氏の議論は、癩なるものは如何に学者が之を論ずるも決して伝染するもの
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ではない。遺伝に相違ない。故に伝染を予防すると言ふ意味に於ては癩患者の救護は緊急の必要はない。地方公費の負担既に軽からざる現状に於て、如斯事業に着手する事は緩急の順序を過れるものである。仮に一歩を譲つて収容所を設けるものとするも、各府県に救護場を設けて不潔なる患者を収容する事は面白くない、又其の必要もない。収容するならば島嶼か遠隔の地一ケ所に収容すべし。然らざるも、全国数ケ所位に止むべきであると言ふのであつたが、此の一歩譲つてと言ふのは議論の余波で、実は収容の必要なしと言ふ説であつた。
 如斯地方費の負担に関する事務を主管する地方局長が反対するので遂に其の年は間に合はぬ事になつた。止むなく暫らく延期して、尚衛生局に於て局議を尽した。而して当時伝染病研究所技師で内務技師を兼ね衛生局に勤務してゐた北島多一君に相談したところが、北島君も各府県に収容所を設ける事は、何れも設備不完全なるものとなつて予防上宜しくないと言ふ事を主張した。その他色々の説もあつたが、衛生技術官の意見は、第一は遠隔の島嶼に収容所を一・二ケ所設けて全国の患者を収容すべしと言ふ主張であつた。之れは癩が伝染病たる以上その伝染を予防すると言ふ見地のみからすれば、最も合理の説であつたが、自分の考へでは、予防と言ふ見地は暫らく第二に廻し、先づ浮浪患者の救済と言ふ意味を以て収容所を設ける趣旨であつた。専ら予防上の見地からすれば、全国に当時四・五万と推測せられた患者の中から、数百か千人位の浮浪患者を収容するも、伝染予防上の効力は大して見るべきものはない。故に他年有資力の患者をも処置すると言ふ場合に於ては、十分伝染予防の目的に重きを置くべきであるが、当時の処置としては救済の目的に重きを置いて、之に適する様なる施設を為すべしと言ふのが自分の考であつた。故に島嶼に患者を送るが如き、患者の精神上に大打撃を与ふる如き処置は全然目的に反するもので、自分の極力反対した所である。自分はなるべく患者をして余生を楽しましめ、楽しむと言ふまでに到らざるも、収容の為に悲観せしめない様に施設すべきであると言ふ方針を取る事にした。
 この見地よりすれば、島嶼でなくとも余り遠方へ送ることは避け度いが、さりとて、各府県に不完全なる収容所が出来ても患者の慰安にならず、又外観上も宜しくない故に、やむなくんば各府県共同して全国に数ケ所の収容所を設けて、各府県の共同の負担を以て設立経営すべしと言ふ事に決定したのである。各府県数ケ所とする以上は国費の負担を以てするのが相当であるが、国事多端の際、全額国費の負担を以てしては何時になつて予防法の制定を見るに至るか期し難い。故に基本としては府県共同の費用を以てして、国費では急性伝染病予防の例に準じて経常費の六分の一を補助し、当初の建設費及び初度調弁費は二分の一を補助する事にしたのである。而して各府県共同して一ケ所の収容所を建設維持するに付ては、費用分担を定める方法を如何にすべきかと言ふ事が法制上の難問であつた。当時未だ府県の組合を設ける制度がなかつた。種々考案の末に、取敢へず所在府県の知事が主となつて予算を作り、関係府県から警察部長等を集めてその会議に於て予算を定め、関係府県ではその会議の決議したる金額を当年度の予
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算中に編入して府県会に附議すると言ふ事にしたが、如斯方法に依る以上、府県会に於ては事実上之を修正する等の余地がない訳で、余り適当なる分担の方法とは言へないのである。故に先づこれは二・三年乃至四・五年の間、仮りにかゝる不自然なる方法によるので、追つて費用分担に関する適当なる法制を定められる事にしたいと言ふ考へを持つてゐたのである。然るに図らざりき今日に至るまで、尚右の方法が襲用せられてゐて、実際上困難なる点もある由ではあるが、当初思ふた程ではなく、大体に於て比較的円滑に行はれてゐる趣で、自分としても寧ろ意外に思ふと同時に、比較的に結果がよかつたのを喜ぶ次第である。而して今日の如く聯合府県の費用で全国五箇所に取纏めて収容することになつたのは、各府県に設置したよりも大に宜しかつたと自分も満足して居るのであるが、此の如くなつたのは前に陳べたやうに吉原局長の反対の結果此に至つたので、吉原君の期待した所ではなかつたけれど、同君の功与つて力ありと云ふてよい、又北島君の功労をも認めねばならぬ。
 右に述べたる如く、今日の癩予防法は患者の救済を事実上主としたるものであるので、当初設立の際収容所の設備等に付いてもこの趣旨より割り出したのである。例へば療養所の周囲に厳重な隔壁を設ける等も直ちに監獄の如き感じを生ぜしめる故に不可である。然し又自由に外部へ飛び出す様では収容の目的に副はざるのみならず、附近の村落に迷惑を及ぼす事があつてもならないと言ふので、周囲に飛び超えられない程度の幅と深さとを有する溝渠を設ける事にしたのである。又当初男女患者の区別を如何にすべきかと言ふ事が困難なる問題であつた。一方から考へれば男女の収容所を別に設けるとか、全然区別を厳重にする時は非常に男性の気を荒くして、或は乱暴の挙に出でる様な事があるかも知れないが、又一方から考へれば、男女間の風紀が乱れて患者の子供が続々出生するが如きに至つては面白からず、又或は男患者の力の強い者等が暴力を以て女患者の居室に襲ひ至る様な事があつては、女患者の迷惑此の上ない。これをも保護せねばならない。扨て如何にすべきかと言ふ難問があつたのであるが、之も大体に於て寛容の方針を取つた。隔壁等を設けないで、成可く患者相互の監視等に依つて風紀を維持すると言ふ様にした訳で、又外出等は自由に許すことは無論出来ないけれども、余り苛酷の取扱にならぬ様に、又療養所内に於ける慰安・娯楽の設備等に及ぶ丈の力を用ひ、患者をして外に出でて放浪徘徊するよりも所内に於ける生活が楽であると言ふ様に感ずる様にすべきだと言ふ方針を取つたのである。
 で、必ずしも全国五ケ所の療養所に於て、当初から細目に至るまで最初の方針そのまゝ実行さるゝには至らなかつたかも知れぬが、例へば東京府下の全生病院に於ても、当初は男女の住宅の間に板塀を以て隔離してゐたのである。然しその後の経験で今日は最早撤去されてゐる。唯言はゞ男患者の住宅部落が或程度の距離を以て置かれてゐると云ふ位である。又当初は全生病院の周囲に溝渠を設けたのであるが、次第に患者が喜んで所内に安住する様になつたのでその必要もないことになつて、今日では普通の別荘等に見るが如き生垣を周らしてゐる
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に過ぎない。で今日では当初の方針以上に患者の幸福・慰安の実が挙つて、逃走の惧なきのみならず、寧ろ外部に居る知り合ひの患者を入れてもらひ度いと希望するに至つた。故に全生病院の定員千名に対し千数十名の患者を収容してゐると言ふ状況である。尚同じ構内に癩予防協会で設けたる住宅に、有資力の患者が進んで来住してゐる様な訳である。
 之を要するに当初自分が予想した以上の成績を挙げてゐると言つてよいと思ふ。その故は勿論、自分の後をうけた代々の内務省当局者の施設が宜しきを得たるによるであらうが、主としては当初療養所の当局者、殊に医長・医員等にその人を得た、それ等の人の熱誠に依つて誠心誠意癩患者の為めを計るその誠意が、自ら施設に現はれて患者の心に通じたと言ふ事が今日ある所以であると思ふのである。
 就中渋沢子爵の養育院で養成せられたる医長、今日の国立愛生園長光田健輔氏の如き、癩予防制度の健全なる発展上に多大の功労があると言ふてよいと思ふ。又同氏の下に養成せられたる医員、又位置は低いけれども養育院当時より今日に至るまで、一身を擲つて癩患者の看護に当れる石渡こと女の如き、その功労は特筆に値ひし、永世に没せぬものと言つてよいと思ふ。
 其の他設立当時より引き続き青森の療養所に勤務せる中条資俊氏、其の他一々氏名を急には思ひ出せぬけれども熱誠家が少からずあつたことは、非常に癩患者の為に幸であつたと言ふてよいと思ふ。
 尚渋沢子爵は放浪癩患者に対する制度が一応確立したに引続き、是非有資力の患者に療養・慰安の道を与へたいと言ふ事で、非常に熱心に焦慮尽力せられた。歴代の内務大臣更迭する毎に、自分は前から癩患者救護に関係があると言ふので子爵に誘はれて、内務大臣を訪問して癩予防制度の拡充、有資力患者の処置に就て子爵が懇請せられる事を見聞してゐたのである。安達謙蔵氏が内務大臣になるに及び例により子爵が面会せられてこの問題に就いて説かれたのであるが、安達氏は予ねて考慮するところもあつた趣で、子爵の提議に対して満腔の賛意を表された。有資力患者の救護の事も漸くその曙光を見るに至り
皇太后陛下の深き厚き御恵に依つて癩予防協会の設立を見、着々業績を上げるに至つてゐるので、癩予防に関する子爵の御尽力は漸く報いられんとするに至つてゐるのである。
 以上癩予防制度創設当時の実情を記して、後年癩予防救済制度史を研究する特志家のあらば、その参考に資し度いと思ふと同時に、渋沢子爵等のこの制度の創設発達に関する功労を一般に伝へ度いと思ふ次第である。(完)


東京市養育院月報 第一二号・第三―五頁 明治三五年二月 ○癩病離隔所設立の必要に就て(養育院医員光田健輔)(DK240058k-0009)
第24巻 p.479-483 ページ画像

東京市養育院月報  第一二号・第三―五頁 明治三五年二月
  ○癩病離隔所設立の必要に就て (養育院医員 光田健輔)
    序言
癩病、一名天刑病なる名称は如何に患者自身に絶望を与へ、吾人をして其醜貌を憐ましめしぞ、蓋此名称は支那人の呼唱に出でしものなるべし
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本邦に於ては古昔より此病を以て子々孫々に遺伝するものとして癩系統と呼び、一般に之を擯斥して婚嫁を敢てせざりしを見る
然るに学問の進歩に伴ひ、其病原たる幺微体を発見し、尚歴史的事実に鑑み或は地理的分布に拠り、其極めて慢性の伝染病なるを証明するに至りしを以て、従来世人が天刑病とし遺伝病と為たりし旧時の観念を去て、伝染病として本病を処置せさるべからざるに至りしなり
    (一)歴史的事実
癩病は最古代より知られたる疾病の一にして、埃及及印度に於ては西暦紀元前一千年の昔既に癩病に関する記載あり、支那に於ては西暦紀元前四百年に同しく本病の記載あるを見る、実に埃及及印度は古今に亘りて本病の根拠地にして、西暦紀元の前後には欧洲に入り、紀元百年羅馬軍隊に由りて独逸・仏蘭西・西班牙の地に蔓延せり、それより中古に至るまて絶へず増加し、十字軍は益其増加の範囲を拡めて、社会の各階級を通じて本病の為めに犯さるゝに至れり
是に於てか時の各政府及宗教家、熱心に是が離隔・看護に従事し、六世紀にはツールのグレゴル僧正癩病院を建立したるを始めとし、七世紀にダコデルト王政府はフエツン・メッツ・マストリヒトに癩村を建て、八世紀にはハイリッヒヲトマルがセントガルレンの野に癩病院を設け、十世紀にはジーグフリト伯爵エヒテルナッパ寺院に癩病者を収容したりし以来、他の寺院の是に傚ふもの続々起りたれども、如何せん癩病者の増加力劇烈にして遂に都府自身が癩病院を経営せざるべからざるに至り、ブレーメン・ユルツブルヒの二市先づ之を起し、尋て他の諸市亦之に傚へり、而して此等の癩病院は大概ね廓外に在りてゲオルゲ病院・ヨハンネス病院・ラツアルス病院の名あり
十三世紀の初に於ては癩患者増加の頂点に達し、各基督教国の癩病院の数総計大約一万九千、其内仏国のみにても尚二千の癩病院あり、而して其蔓延は独り社会の下層に止まらず、延て宮廷及貴族界にまで侵入し、ダウセーネに於ては貴族のために、巴里附近には宮嬪のために癩病院の設ありしといふにても、いかに其病勢の猖獗なりしかを想像するに余りありといふべし
以上の如く隔離法の普及は十五世紀・十六世紀と漸次癩患者数減少して、十九世紀の調査に依れば各旧離隔所には殆と本病者なく、現今に於ては堂々たる医科大学教授すらも本病を知らざるものありといふ、これ蓋し政府・貴族及宗教家の熱心に本病の為めに尽力せし結果なりといふべし(以上ベルグマンの癩病論より抄録)
我国も亦癩病の古国に属し、其記載ありてより殆ど千年を経たり、其間歴史上の人物の屡本病に罹りたるものあるに徴するも、本病の全国に蔓延せしを窺知するを得べし、就中史伝の最も著明なるは、光明皇后が癩病者に浴を賜ひたる御事と、鎌倉時代に於て釈忍性師が伽羅疾(伽羅疾、本朝高僧伝第六十一巻に癩病とあり)の人一万余人を救助したる事なりとす(本誌第五号参照)
    (二)地理的分布及蔓延
癩病の地理的分布を調査するときは既に歴史に於て述べたるが如く二大根拠の今猶存在するを発見し得べし、第一は印度・支那及日本にし
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て、之れよりして東印度諸島・濠洲・西比利亜及サンドウヰツチ群島に蔓延せり、而して英領印度は一一四、二三九人の本病者を有し、住民一〇、〇〇〇に付五の割合にして実に世界中最大多数を有す、支那後印度は統計不明なりといへとも、其数また甚少なからざるべし、日本に至りては内務省の簡単なる統計に依れば二二、〇〇〇人にして、即ち住民一〇、〇〇〇に付五の割合を算し、英領印度と伯仲の間に在りと雖も、更に其実際の数を撿すれば十万以上に及ぶべしといふ
第二の根拠地は埃及にして現今二、二〇四を算し、之れより亜弗利加の全海岸・欧羅巴の南部・亜刺比亜・ペルシヤ・小亜細亜・南北阿米利加・中央阿米利加等に蔓延せり、而して南阿米利加・コロンビヤは一八、〇〇〇を算し、ブラジルは五、〇〇〇を算す
北米合衆国には現に二〇〇の癩患者あり、ルイジアナ・テキサス・フロリダ・カリフホルニヤ・オレゴン等に分布す
欧洲に於ては英吉利・和蘭・白耳義・丁抹・独逸・澳太利には殆ど癩なく、之れあるは癩病国にて伝染し帰来したるものなり、即ち独逸に於ける癩患者総数五〇、内二〇は外国より帰来せるものにして、三〇はメエメル区に在るものなり、又仏国巴理には二〇〇の該患者あれとも、是亦外国より帰来せるものなりといふ、其他の諸国はバルカン半島・露西亜三、〇〇〇、希臘四〇〇、那威三二一、西班牙一二〇、葡萄牙三〇〇等なり
此等地理的蔓延の状態を精査すれば、交通によりて其旧き病地より新しき地へ蔓延したるものなるを認め得べし、今其好適例として布哇を挙げん、布哇にては千八百五十三年一人の本病に罹りたる支那人渡来したるより、僅かに二十年間に二、〇〇〇の癩患者を見るに至り、現今にては住民の三〇‰に達し、其離隔所たるモロカイ島には千八百六十六年より千八百九十五年迄三十年間に六、〇二五人の癩患者を収容せり
独逸のメエメル区は露国との境界に在り、従て交通頻繁なるがため近年此地に於て三〇人の癩患者を発見せり(前出)
南米コロンビヤのアンチクイアは嘗て癩なき地方なりしが、其土人の一人久しく癩病地に住居し、之れに感染して故郷に帰り、始に其娘に次に其親友に伝染して、今は全村四〇人の癩患者を発生したリ
エゼル島民は経験により(一)癩と接触すること(二)臥床を同ふすること(三)衣服を共にすること(四)交接することを以て癩伝染の機会と信せり
    (三)本邦に於ける癩病蔓延の状況
本邦に於ては全国到る処に本病を見ざることなし、明治三十二年一月予暇を得て熊本に遊び、癩患者の集合地なる清正公の堂に詣づ、時に寒風肌を裂く朝なりしにも拘はらず十余の癩患者は石段の両側に蹲踞し口に題目を唱へ頻りに銭を乞ふを見たり、堂の右方数丁にして矮屋茅舎数十一小村落をなす、試に其家に就て之を見るに一室中に五・六の癩患者と癩患者に非る二・三の病人(梅毒乎)雑居し宿主等は他の一室に起居せり、其汚穢名状すべからす、而して彼等の一泊に要する所の金銭は四・五銭にして、大概粟を常食とし平均七・八銭を費すと云ふ、而して此費用は終日石段にて乞ひ得たるものか、若くは市にて乞
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ひ得たるものなり、然れども雨天連日に亘るときは彼等は飢餓に瀕せざるべからず、又此地にては近年癩患者の取締厳重になりて、石段に群をなせば警官に追はれ、諸方を徘徊すれば査公に叱せらる、彼等の境遇実に憐むべきものなり
熊本の外、癩患者の集会地は、四国に於ては金比羅附近、甲斐の身延上野の草津等にして、自然に癩離隔所を形成するを見る、然れとも此離隔所たるや神仏の信仰に由り、霊泉の効顕に依り、若くは同病相憐の情に因りて、数月或は数年間多大の安慰を彼等に与ふるとはいへ、疾病終に治癒せす、信仰に疑惑を生じ、加之金銭の欠乏するに至りては勢ひ彼等は流浪の境遇と化し、病躯を駆りて東西に奔走し、社会の冷酷を恨み、天然の気候と戦ひ、精神は益懊悩し、疾病は一層増劇して、終に起たざるに至るまでは流浪して已まさるなり、然らざれは彼等は非命の死を遂くるの外なし
予か五年来我養育院に於ける経験に拠りて是等の浮浪癩病者の東京附近に潜伏するもの甚た多く、板橋・新宿・深川・本所等の木賃宿に宿泊し、市内及市外の神社仏閣の開帳・縁日ある毎に甲地より乙地に転じ、時々汽車・汽船の便を借りて出没自在なるを確め得たり、而して彼等の中金を得るの道に甚巧なるものあり、其身体の自由を失ひ本院に収容せらるゝの日尚数円を貯蓄せるものあり、是に由りて東京近在は彼等の生活甚容易なるを証すべし、然れとも又疾病の故を以て親戚故旧の保護を失ひ、急に浮浪の身となりたる患者にありては乞食甚拙くして只管其身の不幸を歎じ、将に最後の手段を執らんとして其目的を達せすして入院したるもの亦少なからず、要之流浪せる癩患者が社会に病毒を蔓延せしむること多大なるは論を俟たざるも、尚恐るべきは彼等にして乞食をなすを肯せず、職人となり舟子となり飲食物製造者となり、甚しきは其両親癩にして其子をして理髪人たらしめ、或は其夫癩にして其妻に飲食物を鬻がしむるの類に至りては、実に危険極まれりと謂はざるべからす、然れとも若し此等をして其職業を廃せんか、忽ち糊口の途を失ひ浮浪の境遇に陥りて、同じく病毒を社会に伝播するを奈何せん
    (四)癩病に対する処置
本病の伝染病たるは前述の如し、然れは是に対する処置如何といふに彼の急性伝染病若くは慢性伝染病たる結核に於けるか如く、先つ離隔法を行ふの適当なるは論を須たず、中古に於ける欧羅巴は此方法を採り殆と本病を撲滅しき、現今世界各国は皆熱心に此方法を講じつゝあり、那威は千八百五十六年より九十五年に至る四十年間に此方法に由りて二千三百七十人より三百二十人に減じ、独逸のメエメル区亦三十余人より十余人に減じ得たり、其他露西亜・英領印度・蘭領印度・亜米利加諸国・布哇島の如き皆此法を採らざるはなし、本邦の如きも維新前は社会の秩序整然として癩系統は衆人の擯斥する所となり、自然彼等をして一村落の形成を促し従て其蔓延著しからさりしが、維新後旧物破壊の余波此癩村も漸く衆人の脳裡を去り、加ふるに交通機関の進歩と共に病勢次第に旺盛となり、其数実に十万を下らさるべしといふに至りては、豈寒心すべきの至りならすや
 - 第24巻 p.483 -ページ画像 
然るに政府未た癩離隔の方針を執りたるを聞かず、民間慈善家の奮て癩隔離所を創立したるを聞かさるは、社会一般か尚未た癩病の遺伝病たるの旧思想に支配せられ其伝染の恐るべきを知らさるに由るか、抑亦其天刑の名に拘泥して病毒の侵入に放任せんとするに由る歟、而も輦轂の下に於て此厭ふべく恐るべき疾病の横行するを見て尚冷然として之を看過するに至りては、吾人の怪訝に堪へさる所なりとす、我東京市たる者宜しく先つ癩病離隔の問題に注目し、速にこれか適当の設備を施し、以て一には首都の体面を全ふし、一には輿論の先鋒となりて、政府をして本病離隔の大方針を確立せしむるの端緒を開くを要す之れ豈に市当局者の責任に非ずとせんや(本篇を草するに方り、医長入沢博士が必要の参考書を貸与せられたるを謝す)


東京市養育院月報 第一四号・第四―六頁 明治三五年四月 ○再び癩病離隔所設立の必要に就て(前号の続)月報子(DK240058k-0010)
第24巻 p.483-486 ページ画像

東京市養育院月報  第一四号・第四―六頁 明治三五年四月
    ○再び癩病離隔所設立の必要に就て(前号の続)
                        月報子
ハンゼン氏は、終りに四箇条の結論を為せり
 一、一国を大なる一家と心得て清潔法を励行せは、癩病の伝染を防き得べし
 二、癩病患者の隔離は其故郷に於て行ひ得へし
 三、多数の貧乏なる癩病患者ある地方には、政府の費用を以て避病舎を設け以て隔離者を育療せさる可らす
 四、避病舎に収容するには、其事情により強制するか或は随意に任すか随時取捨せさる可らす
    独逸国癩病予防法案
第一、癩病患者・疑似患者又は其死者あるときは、所在警察官署に届出ること
第二、右の届出は主治医、病人の看護に従事したる者又は戸主より為すへし
第三、右届出を受けたるときは警察医に之を通知し、警察医は現場に臨み患者の症状を診断し、其結果を報告すること
 症状を確認したるとき蔓延の恐あるときは、警察医より下級官庁に事実を報告す
第四、警察医には、患者及患者の症状を審査するに要したる費用を弁償すへし
第五、警察医の診断に依り癩病の患者若くは其疑似患者たること明瞭となりたるときは、警察官は直に必要なる予防法を実施すること
      予防法
 癩病の予防法としては、以下の手段を命令することを得
第六、患者及疑似患者か一定の住所を有せす若くは営業的に又は習慣的に浮浪するものなるときは、本人の滞在地若くは就業地に於て予防上必要の処置を為すこと
第七、患者の隔離を行ひ且患者の衣服・飲食器及洗濯器、其他患者の身体に触れたる物品は、健康用者のものと隔離すること
第八、病毒に触れたる物品及場所には消毒法を施行すること
 - 第24巻 p.484 -ページ画像 
 消毒法を行ひ難き物品若くは其価値の些細なる物品は之を滅却すること
其他賠償及罰則の規定を要す
    ケープ、コロニーの癩病隔離法
 一、癩病患者ある場合には其戸主・家主又は投薬者より必す届け出つ可きこと
 二、隔離すへき場所は避病舎、政府公認の住屋・私宅又は癩病村及び癩病地の内とす
  患者は其身分により相当の階級を付す
 三、必要なる場所に一箇或は一箇以上の避病舎を設く
  政府公認の住屋は細則を以て取締るものとす
  私宅住居を赦すものは該当局にて特に如何なる方面に於ても隔離の意味を充分に備ふる者として承認せられたる時に限る
  癩病村及癩病地は該当地方に指定す
 四、癩病患者は公衆に関係ある職業に従事する事を赦さず
  又た癩病患者の製造せる物品は売買を赦さず
  癩病患者 公会又は集会に加ふるを赦さず
      政府公認の住屋
政府公認の住屋に抑留せらるゝものは左の条件に従ふ
 一、地方長官(区長・村長等)の証認を要す
 二、此住屋は一戸に二人―四人を収容することを得
   但し地方長官にて四人以上を認可したる場合を除く
 三、特別なる場合の外老夫婦の患者は別々に収容し同居を赦さず
  政府公認住屋は随時閉鎖する事ある可し
      私宅
私宅居住を赦さる可き場合は左の条件を参酌して判決す
 イ、家の位置、他住屋との関係、其他一般周囲の模様
 ロ、家の大さ・構造及び職業・年齢、同居者の老若
  其家若しも商売パン焼き・飲食店等に使用せられ居る時は絶対に不適とす
  其他小供あるや否や
 ハ、患者の居住に用ゆへき室(完全に本家と離れたる)を必ず備へざる可らず
  且つ少くとも一箇の開通窓を有せさる可らす
 ニ、寝具・衣服・食器等は厳重に患者用を区別し伝染の患ひなからしむるの実行出来るや否や
 ホ、結婚と出産児例之妊娠し得へき年齢なるや否や
 へ、患者に要する費用は自弁たるへし
以上の条件よりして患者を私宅に住居せしむるは危険なりと認むる時は避病院へ移転せしむることあるへし
  一八九七年ベルリンに開会せる癩病会議の席上多数の希望は左の如し
 一、癩病の予防は隔離に依るを最も確なりとす
 二、隔離法を制定するには国々にて多少趣きを異にすへきも、必す
 - 第24巻 p.485 -ページ画像 
しも一箇の場所に収容するを要せす、患者発生の地方々々にて隔離するも目的を達し得べし
 三、隔離法実行について要する費用は元より多額なれとも、無為有害なる癩病患者の不生産的消費額と比すれは常に夫れに及はさるを以て決して憂ふるに足らさるなり
 四、地方の衛生機関をして各々其任に当らしむ
    癩病血統及患者表
                 (明治三十三年十一月調査)

            癩病ノ血統家系ヲ有スル者
                        人口                   現在癩病患者
  道庁及府県   戸数     男       女       計       男     女      計
  北海道    五一八   一、四三五   一、四〇三   二、八三八    一四六    五九    二〇五
  東京   一、七〇二   五、二〇七   五、〇五九  一〇、二六六    一七二    七三    二四六
  京都   三、三八三   九、二〇九   九、〇七一  一八、二八〇    一五八   一〇九    二六七
  大阪   二、五三二   三、一六〇   一、〇六一   四、二二一    四一七   一〇八    五二九
  神奈川  三、六五三  一〇、〇五四   九、四二八  一九、四八二    二四四   一一五    三五九
  兵庫  一三、三三七  三二、五八九  三〇、〇九七  六二、六八六    七二一   三三三  一、〇五四
  長崎   二、五三八   五、九五二   六、一二六  一二、〇七八    五六四   三〇九    八七三
  新潟   五、八三五  一四、〇一三  一八、七五〇  三二、七六三    四二八   二〇八    六三六
  埼玉   三、五四七  一〇、二三五  一〇、三三八  二〇、五七三    二一七    九八    三一五
  群馬   三、五三九   九、二〇一   九、一三四  一八、三三五    四一七   二三〇    六四七
  千葉   二、三五六   八、六六〇   七、〇九〇  一五、七五〇    三八五   一六二    五四七
  茨城     五八四   一、九八〇   一、九三七   三、九一七    二七九   一二五    四〇四
  栃木   四、七八八  一二、六五七  一二、七六〇  二五、四一七    四一九   二〇二    六二一
  奈良   一、七三八   四、七五七   四、六七三   九、四三〇    二七二   一〇五    三七七
  三重   五、九五九  一三、〇四七  一二、六四九  二五、六九六    四七六   一七二    六四八
  愛知  一一、一七九  二四、一五七  二五、一八三  四九、三四〇    七八四   三二〇  一、一〇四
  静岡   九、九五五  二六、五四二  二六、六〇一  五三、一四三    五七九   二四四    八二三
  山梨     三三七     八九一     九〇〇   一、七九一    一七一    七三    二四四
  滋賀   二、六二八   六、六一七   六、九五二  一三、五六九    二五〇    八四    三三四
  岐阜   九、六〇六  二四、八二七  二三、九六九  四八、七九六    五六六   二四七    八一三
  長野   四、一二七  一〇、八四五  一〇、五〇二  二一、三四七    三三三   一七五    五〇八
  宮城   七、一九七  二五、五〇一  二五、〇三八  五〇、五三九    四二〇   二〇八    六二八
  福島     六一六   二、〇一八   一、七六九   三、七八七    四四六   二〇三    六四九
  巌手       ―       ―       ―       ―    三七二   一九一    五六三
  青森   三、〇六七   九、八四六   九、二九二  一九、一三八    四四七   二二二    六六九
  山形   五、三六八  一六、一四三  一五、二一八  三一、三六一    三〇六   一七二    四七八
  秋田   二、六二二   八、三九五   七、四四〇  一五、八三五    二三九   一〇七    三四六
  福井   一、八二四   三、八三九   三、五五四   七、三九三    二二四    八三    三〇七
  石川   二、一四三   五、四六六   五、六〇九  一一、〇七五    一五二    五一    二〇三
  富山     七七六   二、一〇三   一、七〇六   三、八〇九    一一五    四九    一六四
  鳥取   四、〇五八   九、八五七   九、七二六  一九、五八三    一八一    八三    二六四
  島根   一、七五五   四、一一一   四、〇九三   八、二〇四    二七九   一一一    三九〇
  岡山   七、一一三  一六、八二四  一五、四八九  三二、三一三    四一五   一四七    五六二
  広島   六、三九三  一六、八一四  一六、一六七  三二、九八一    四一三   一三五    五四八
  山口   六、六八四  一五、四七八  一四、四六八  二九、九四六    五八一   二二二    八〇三
  和歌山  七、四五二  一七、三六六  一七、九〇七  三五、二七三    二六八   一一七    三八五
  徳島   二、三七三   六、三七五   六、三三七  一二、七一二    四五〇   一八〇    六三〇
  香川   五、五五七  一二、四六二  一一、四五五  二三、九一七    三一六   一二九    四四五
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  愛媛   五、五九四  一三、九一四  一三、三七〇  二七、二八四    五八八   二〇〇    七八八
  高知   二、一九一   四、八〇四   四、六二〇   九、四二四    三五一   一五九    五一〇
  福岡   五、一八六  一二、九一九  一三、〇八五  二六、〇〇四    九八〇   四五五  一、四三五
  大分   二、四一六   五、五九二   五、五〇〇  一一、〇九二    九一三   四〇九  一、三二二
  佐賀   八、九二七  二一、四四八  二一、〇八二  四二、五三〇    五六六   二六七    八三三
  熊本  一〇、四〇五  二五、四七一  二六、五七四  五二、〇四五  一、八〇七   九五八  二、七六五
  宮崎   一、八六三   四、二三七   四、一八四   八、四二一    六三八   二八三    九二一
  鹿児島  二、七五二   五、五一五   五、四五四  一〇、九六九  一、一二一   五三三  一、六五四
  沖縄     八五五   一、九二四   二、〇二三   三、九四七    三六八   一七九    五四七
  合計 一九九、〇七五 五〇四、四五七 四九四、八四三 九九九、三〇〇 二〇、九五五 九、四〇四 三〇、三五九
                                                 (終り)



東京市養育院月報 第五九号・第三―一二頁 明治三九年一月 ○癩病患者に対する処置に就て(養育院医員光田健輔)(DK240058k-0011)
第24巻 p.486-498 ページ画像

東京市養育院月報  第五九号・第三―一二頁 明治三九年一月
    ○癩病患者に対する処置に就て
                 (養育院医員 光田健輔)
疫病史を繙く者欧洲中古時代に於ける二箇の伝染病の全欧土の各階級を通じて猖獗を極めたるを見ん、其一は急性伝染病たる黒死病にして多大なる犠牲を奪ひて一時に熄滅しき、其一は慢性伝染病たる癩病にして、上古より漸々蔓延を極め殆ど其頂点に達しき、当時各国の政府公共団体・慈善家及宗教家は長き経験により姑息方法は到底此の悪むべき慢性病を根絶するの手断にあらざる事を知り、盛に各地に癩病離隔所を設立し、絶対的の離隔を企て全力を傾注して、此の疾病の予防撲滅の方法を講究したりき、其結果遂に全欧洲より癩病を撲滅して其の跡を絶つに至らしめたり。
近世に至りては、学者癩病の名を知りて其患者を見るの機会無く、或る者は歴史的の事実を全く誇張の言となし、一般世人の脳裡には全く癩病の記憶注意の消失し、警戒の弛みたるに乗じて死灰再燃し来り、北欧洲の一角那威西海岸に於ける生活程度の下等なる漁民間に蔓延し来り、年々猖獗の勢を示すに至り、露西亜のバルチツク海岸に浜せる諸州、コーカサス地方・ドン河地方に於ても又続々本病の見はるゝに至り、千八百七十年来独逸の東境メエメル地方に又癩病者現はれ、九十年代には十数名の患者を出だすに至れり、玆に於て注意深き独逸の朝野は、中世の歴史を顧み頗る恐慌の念を発し、政府は委員を病竈地に派遣し伝染の原因を調査せしめ、之れが予防撲滅の方法を講究するに至れり、其結果として千八百九十七年各国の学者を伯林に集め第一回の万国癩病会議を開設するに至れり。
此会議に於て癩病患者の処置に関し、多数の学者の決議したる要点は
(一)癩病の多数に発生したる邦国にありては其蔓延を防ぐため予防するの最良法は離隔法を施すにあり。
(二)離隔法中最も奨励すべきは、那威式の届出・看視及離隔の系統にして、独立の思想ある人民を有し、医師の数充分なる邦国には実行し得べし。
(三)此法の実行は、一は衛生上の識者に諮問し、一は司法庁の議定を経て各種の社会的関係に適合する法律によらざるべからずと。
吾人は此決議の趣旨に基き速かに離隔法の実行せらるゝ事を希望するものなり、而して諸国の風俗習慣の異なると離隔法実行の時代の異な
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るに従ひ、多少趣きを異にするものあり、今其大略を述べて国家的離隔法の最も可なる所以を説明せんと欲す。
    第一 国家的事業として癩病患者を離隔したる邦国
那威は近世に於て尤も古き経験を有するの邦国なり、此国は十九世紀の始より漸次に癩病増加して、千八百五十六年には二千以上の数に達せり、此に於てか首府ベルゲンに三病院を、モルデー及ドロンドゼエムの二地に各病院を建て、始めは先づ貧困なる癩病者を収容し、国費を以て之れを救養し、別に富者は自宅に於て離隔治療することを許し看規の機関を設けて之れを監督せり。
然るに五十年間年々癩病患者は減少して、新患者《(マヽ)》を発生し又著しく減少し、同地の学者の言に従へば近き将来に於て全那威より癩病を消滅し得る見込なりと云へり。
而して自宅患者と病院収容患者の割合、及患者減少の割合は次の如し(次の表はアルマウエルハンゼン氏千八百九十年度の報告に従ひ、千八百九十五年の報告に従ひ之れを増補せり)

      年号   院外患者  院内収容患者    合計
    一八六〇年  二二一八    五三九    二七五六
    一八六五年  一九一〇    七七二    二六八二
    一八七〇年  一七六二    七六四    二五二六
    一八七五年  一四九九    六二三    二一二二
    一八八〇年  一一七八    六一七    一七九五
    一八八五年   八八三    五二二    一三七七
    一八九〇年   四四七    五〇七     九五四
    一八九五年   三二一    三八〇     七〇一

以上の表の記す処に拠れば、離隔法実施の初年と今日の数とを比較すれば、約四分一弱に減少して、又離隔の初年に於ては年々二百人の新患者を出せしが、千八百九十五年には只た僅かに十四人の新患者を出だすに止まる。(後表参照)
又離隔の初年にありて入院患者は全国全患者数の五分の一に過ぎざりしが、近年に至りては入院患者数は院外者の数を超過するに至れり。
而してノルドメエレと称する一地方は院外患者は遥かに多くして、院内の患者は只だ十三「プロセント」に過ぎざりしが為め、此法律の実施以後も尚ほ久しく比較的多数の新患者を出だせり。
    ノールドメエレ

      年号 新患者   死亡 避病者収容 年末患者数
           人    人     人     人
   一八五一年
        ……五四    ―     ―   一〇七
   一八五五年
   一八五六年
        ……八一   三二    一四   一一九
   一八六〇年
   一八六一年
        ……八八   四三    四五   一一七
   一八六五年
   一八六六年
        ……九二   四〇     ―   一二〇
   一八七〇年
   一八七一年
        ……五七   四二    四〇    九二
   一八七五年
   一八七六年
        ……四六   三〇    二二    八一
   一八八〇年
   一八八一年
        ……三〇   二四    二二    六〇
   一八八五年
   一八八六年
        ……一六   一五    二八    三一
   一八九〇年

之れに反してゼンドフヨルト地方にありては初めより患者の入院を励行し、四十九「プロセント」に達せしめし結果、著しく新患者の数を減却せしめたり。
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    ゼンドフヨルド

 
    年号  新患者   死亡 避病者収容 年末患者数
           人    人     人     人
  一八五一年
       ……一八三    ―     ―   四三三
  一八五五年
  一八五六年
       ……二一四   八三   二一一   三〇六
  一八六〇年
  一八六一年
       ……一五六   六一   一四四   二五〇
  一八六五年
  一八六六年
       ……一四六   五九   一三七   一九〇
  一八七〇年
  一八七一年
       ………八二   五〇    八六   一三〇
  一八七五年
  一八七六年
       ………六三   三四    五〇   一〇四
  一八八〇年
  一八八一年
       ………二七   三六    二六    六五
  一八八五年
  一八八六年
       ………一七   一五    二九    二八
  一八九〇年

以上の成績に拠れば、絶対的離隔に接近するに従かひ、新患者の発生を予防し得ること毫も疑ひを入れざる也。
『那威に於ては益々入院を奨励せんが為めに千八百八十五年衛生組合を設け、自宅に離隔せられたる患者を監督し、若し自宅離隔の不完全なるを認むる時は、該組合は患者をして離隔病院に入院せしむ可き権利を附与せられたり、之れにより院内患者の増加し、院外患者も消毒清潔法の行届き、伝染の機会は益々減少せるにより、早晩本病の根絶するを得べしとの予言は決して過言にあらざる也』。
那威の学者ハンゼン氏は極めて寛大なる意見を有し、癩病会議の際提出せし論文に次の如く云へり。
(一)癩病は一般清潔法の普及により其伝染を予防し得可し。
(二)癩病の離隔は故郷に於て充分に行はれ得可し。
(三)貧民の癩病に罹りたるものにして自宅の離隔不完全なる時は、国立病院に救助離隔せらる可し。
(四)癩病院に入院せしむる事は場合によりては絶対的とすべく(貧民・浮浪者等)或は任意的とす可し(富者)
布哇国 那威に次ぎて国費により癩病を離隔したる邦国は布哇となす元来サンドウヰチ群島は千八百五十年代に諸国に交通を始め各島の交通も亦頻繁となりたり、此以前には癩病患者は甚だ少数なるにより一般の注意する所とならざりき、爾来二十年間漸次に猛烈の勢を以て蔓延し全島四万の土民間に二千の癩病患者を出だし、之れが為めに、住民の減少を来すの傾向あるを察し、政府は絶対的離隔の方針を確定し千八百六十五年法律を発布し、布哇母島の附近にある一小島モロイカ島を以て癩病離隔所と定め、群島の各所に散在する癩病患者を此地に移住せしむることゝせり。
其送附の手続は各島の長官及び衛生局の吏員は癩病患者及び癩病疑似患者を発見するときは、此れを定期の特別船舶に載せて先づ布哇島に送附し、ホノルヽ府附近約三哩のカリヒカイの予診所に致し、数名の医師立会の上真性の癩病なるや否なやを調査し、若し癩病患者なれば之れをモロカイの離隔所に送る。
モロカイ離隔所は癩病村落にして現今千余人の患者を入れ、皆官費を以て衣食住を供給せられ、壮健なる者は農業に従事し、労働に堪へざる者は附添人と同居して家族的の生活をなす、此附添人はコクアスと呼び親族故旧若くは夫婦の如き親密なる健康者にして、官の許しを得て此の島に入り来る者也、元来政府健康者の出入を厳禁し、家族中殊
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に幼児は此地に入るを許さず、然るに官許を得て入り来りたる附添人は、其受持患者の死亡せる後自己の郷里に帰らずして又他の患者の附添人となるもの多し、勿論彼等は官又は患者より給料を受くるにあらず、只た郷里に帰りて劇しき労働を為すことを厭ひ、日々患者に寄食して安楽に生活せんことを冀ふのみ、又此等怠惰の徒輩は官費の恩恵に浴せんが為に癩病に感染せんことを冀ふありと云ふ、而して此法律の発布以来時代によりて執行の緩厳一ならず、近年毎年百人の新移住者を出し尚ほ精細なる検査を施しなば一時に数百人の患者を検挙し得べしと云ふ、翻て那威を見れば同年代に離隔法を行ふて着々其効蹟を挙げ、千八百九十五年には新患者僅かに十四人を出たすに過ぎざりしに、布哇に於ては同年百〇六人の患者を移住せしめたり、斯の如き差異は如何なる理由の存在するに因りて然るや、吾人の怪訝に堪へざる処なり、蓋し、左の諸件は主要なる原因なるが如し。
 第一 サンドウヰチ群島の住民は癩病に対し感受力極めて強大なること
 第二 人民の生活程度低くして衛生の何物たることを解せず、病者と雑居交通して飲食起臥を共にするが如き蛮風の行はるゝ事
 第三 癩病患者は故郷を去て遥かに離隔所に送致せらるゝことを嫌厭し、家族は可成患者を隠蔽し、或は患者を伴て山間無人の地に遁逃するが如き悪僻あり、一方当該吏員には各島に散在する癩病患者を一々捜索検挙の困難なるが為めに、離隔の充分に行はれざること
モロカイ島住民の数は左の如し

     年号     入所   死亡  放免及不明  年末総数
   一八六六年   一四一   二六     一〇   一〇五
   一八六七年    七〇   二五      七   一四三
   一八六八年   一一五   二八      二   二二八
   一八六九年   一二六   七九     一一   二八四
   一八七〇年    五七   五八      四   二七九
   一八七一年   一八三   五一      九   四〇二
   一八七二年   一〇五   六四      四   四三九
   一八七三年   四八七  一五六     二一   七四九
   一八七四年    九一  一六一      八   六七一
   一八七五年   二一二  一六三     一四   七〇六
   一八七六年    九六  一二二      三   六七七
   一八七七年   一六三  一二九      一   七一〇
   一八七八年   二三九  一四七      〇   八〇二
   一八七九年   一二五  二〇九      一   七一七
   一八八〇年    五一  一五一     一〇   六〇六
   一八八一年   二三二  一三二      ―   七〇六
   一八八二年    七一  一二一      六   六四九
   一八八三年   三〇一  一五〇     一五   七八五
   一八八四年   一〇八  一六八      八   七一七
   一八八五年   一〇三  一四二     二六   九五五
   一八八六年    四三  一〇〇      八   五〇〇
   一八八七年   二二〇  一〇八      四   六九八
   一八八八年   五七〇  二一二     二八  一〇三五
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   一八八九年   三〇八  一四九      七  一一八七
   一八九〇年   二〇二  一五八     一八  一二一三
   一八九一年   一四三  二一二      二  一一四二
   一八九二年   一〇九  一三七     一九  一〇九五
   一八九三年   二一一  一五一      ―  一一五五
   一八九四年   一二八  一五五      三  一一二四
   一八九五年   一〇六  一二八     一五  一〇八七

独逸 先に述べたるが如く独逸に於ては千八百九十七年の癩病会議後間も無く癩病を伝染病規則中に入れ、其病竈地たるメエメル地方に一箇の癩病院を新築し千八百九十九年開院式を挙げたり、此病院はメエメル附近の森林中に位し僅々十六人の患者を収容する小規模の病院なりと雖も、諸般の設備完全し将来癩病院を建築する人に向て模範となすに足る、先づ中央には医局細菌研究室・厨・食堂・洗濯室・看護尼室等あり、右翼は女病室とし左翼は男病室なり、寝室は各一室に二人を容れ各翼四室あり、各人に向て三十七立方迷の空気容積を有し昼間図書を見或は遊戯をなすの室あり、洗濯室・看護婦室・湯呑室・浴室及便所あり、廊下を以て中央室に通ず、病室の壁は油剤を塗り一切の器具は鉄と硝子とによりて製作せられ消毒に便ならしむ、又庭園・家畜小屋・菜園・消毒所等あり、永住の患者に対する鬱散方法治療の具共に完備せりと云ふべし。此の病院は郡長及郡医の指導の下にあり、尚ほ患者の遺族は毎半年一回郡医診査を受くることゝなり居れり。
蓋し癩病の如き慢性の国民疫に対し、国家は衛生行政の必要上法律を設けて之れが取締をなし、自ら支ふる能はざる患者に対しては国費を以て之れを救養し、病院内に離隔することは当然の義務なるが如し、而して布哇の如き絶対的離隔法は未開専政の時代の事業に属し、国民に適合せざるにより、一方に離隔を施して、人民は却て蔓延を助長するの結果を来すが故に、吾人は那威の離隔法を以て何れの邦国にも行はる可き良法なるを信じ、年と共に人民に癩病の伝染病なることを教へ、自ら完全なる絶対的離隔法に到達することを期せざる可からず。
    第二 非国家的離隔法
露西亜政府は近年バルチック海岸及裏海・黒海の沿岸及びコーカサス地方に於て癩病増加の勢を示し、ペーテルゼン氏の概算に拠れば大約三千人の癩病患者ありと称するにも拘はらず、政府は之れに対して毫も設備を施さゞりしが、バルチック海沿岸の諸洲に有志家大に奮起して癩病撲滅会なるものを組織し、続々病院を設立するに至れり。
就中最も卒先して病院を設立したるはリガ市の市立癩病院なりとす、此の病院千八百九十一年に開院し八十人の患者を容る可く、二階建翼状の家屋にして、其設備の完備せること独逸メエメル癩病院と共に模範病院と称せらる。此病院には富者には一箇月一「ループル」を徴収し、貧者には四十「コツペク」以下を徴集す、経費の不足を告ぐるときは市費を以て之れを補充す。
次にワーレス氏の尽力により組織せられたる癩病撲滅会は、リーブラント・ヱストランド地方の癩病者を救助する目的を以て会員を募集し資金を徴収せり、其会員は主として騎士団体及貴族より成り、ムヒリー・ネンナル・ウエンデンに三箇の癩病院を立て総計百八十の病牀を
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有す、其の費用は市民よりは徴集すること無く、地方より入院するものは人別一箇月八「ループル」を支払はしむ。
クルランドには三箇の癩病撲滅会あり、四箇の癩病院を設立し、(タルゼン・ツクム・バウスク・クートネカルレン)の病牀総計八十二、地方患者は一箇月五「ループル」を上納し市民は無料にて治療せらる。
次にセントピータスパアク府の附近クルチヤルチエに二十五箇の病牀を具ふる癩村式の癩病院あり、其敷地は皇室の寄附にして一万「ループル」の下賜金あり、入院患者の経費は此地の癩病撲滅会の支出により、富者より入院料を徴集す。
以上露国の諸癩病院は大概市民有志家の設立にかゝはり、政府は之れに関係せず、キルヒネル氏の報告に従へば各病院の経済は毎年不足を訴ふると云ふ、斯の如く貧民より治療を請求し、一方には慈善家の救助金を仰ぎて此れが撲滅の方法となさんことは困難なる事業と云はざるべからず。
玆に附記すべき露西亜領土耳古斯坦に於ては、此地の総督は赤十字の一事業として癩病院を設立せんことを計画し、フエロウナ女王を総裁に戴き資金を集め、病院を設立せり、我が日本の赤十字は此種の事業に着手するの余裕を有する事を聴かずと雖も、赤十字の如く私立にして、政府及地方官の有力なる助力により癩病院の資金を募集するは又一方法なりと云ふべし。
印度 印度は世界最多数の癩病を有する邦国にして、露国の諸会に先ちて一会の組織せられたり、此会の目的とする所は第一に印度の癩病の原因を調査し、第二国債を募集して其利子を以て印度区民の癩病に罹りたるものを救助せんとするに在り、此会を印度癩病調査会と名づけウエルス親王を総裁として推戴し、千八百九十三年を以て開会式を挙げ、今や着々として健全なる発達をなせりと云ふ、此会の調査に拠れば英領緬甸と前印度とに十万人の癩病者あり、而して千八百九十七年頃の調査によれば全国僅かに二十三箇の癩病院あり、ペンガール一洲のみにても七万六千人の癩病者あるに拘はらず、離隔所は漸く三箇の癩病院あるに過ぎず、千八百九十六年発布せられたる印度癩病取締規則によれば、貧民の結節癩に罹り潰瘍あり若くは神経癩にして外観甚だ醜悪なる者は、之れを癩病院内に拘置し、軽度の癩病者は措て問はざるが如し、又同法律には公衆に関係する職業をなす事を禁じ、若し犯したるものは罰金を科し、再三禁を犯したるものは又病院に抑留せらるゝことを規定しあり、兎に角斯の如き寛大なる処置と、少数の癩病院にては大数の癩病者を撲滅するの期前途遠しと云ふべき也。
    第三 慈善的事業
癩病の伝染を防ぎ長く子孫をして、之に罹らざらしむる目的によりて設立せられたる隔離所の外、癩病患者が社会より遺棄せられて饑餓凍餒に苦みたる悪運命を見ては、人誰か同情の念を催さゞるものあらんや、マルスデン嬢の窮北ヤクック地方に徘徊する癩病者を救助せる事蹟、欧洲人間に喧伝する所也。
本邦に於ても此慈善博愛の主義に基き設立せられたる四箇の病院あり熊本の回春病院は四十人を容れ、清正公附近の仏国宣教師の設立した
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る癩病収容所も亦四十人を容れ、静岡県御殿場の仏国宣教師の設立にかゝる癩病院は七十人を容れ、翼状の建築なり、又府下目黒に慰癈園と名づくる癩病院は六十人の患者を容るべし、熊本の回春病院及び目黒の慰癈園は共に英国宗教家の資金を拠出して、維持せらるゝ者にして、本邦人の設立したるものとては一もある事なし。而して此等の病院は精神上の慰安を与ふるのみならず、回春病院・慰癈園の如きは日進の医術により治療を施すは多とすべきなり。
此等の諸癩病院の監督は将来発布せらるべき癩病取締規則に従はしむべきは勿論なり、本邦の如き多数の癩病者の存在する所にては、単に国立離隔所を以て社会の階級癩病を網羅すべきにあらず、一は此等の癩病院に無料にて国立癩病院附近の土地を貸与し、若くは治療上の便宜を与ふる等、可成的之れを保護する方に出でざる可からず。
    第四 自費的患者
癩病の忌む可き疾病は患者自身を焦心苦慮せしめ、資力ある患者は効能ありと称する方法手段は尽さゞること無く、潜かに医師の治療を乞ふもの少なからざる也、東京帝国医科大学皮膚病科教室の統計によれば明治三十二年より三十五年に至る四年間に治を乞ふもの六百八十七名に達せり、患者は大概地方より上京したるものにして、大学には彼等を入院せしむるの室無きが為め彼等は知己親戚の家に同居し、或は下宿屋に止宿す、彼等の治療は一朝一夕に其効を奏す可からず、又多くは経済上の関係の許さゞるものありて久しく治療を受くること能はず、大抵数年、数月若くは数週にして帰国せざる可からざる也。
大学の外一・二の独立病院ありと雖も患者は又移動常無きなり。
蓋し、現今に於て治療法は大概無効なるが故に治療を施すの医師は研究の時代にあり、然れども此危険多き慢性伝染病を帝都の下に散在せしめて、此れが治療を研究するが如きは甚だ不徳義の事と云はざるべからず、大学若くは爾余の医学研究所は此興味多き癩病に対しては、大なる病院を設立して、患者には永久の官費入院を許し之を治療研究せざる可からず、彼の外来患者として本病を取扱ふが如きは、黒死病患者を外来患者として取扱ふと其理に於て大差なき也。
本邦に於て稍々離隔所に類する設備あるは上州草津温泉となす、此の熱泉は古来癩病に効験ありと云ひ伝へ近県の患者遠きは九州地方或は布哇の癩患者は此地に集合し来る、明治二十年迄は癩病は他の浴客と浴場を同ふし客室も他の浴客と異ならざりしが、之れにては他客の来るもの減少するを憂ひ宿屋組合は規約を設けて之れを湯の沢の一所に離隔して此処に癩病宿屋を設けんことを規定せり、爾来湯の沢の地は草津の上町に対し下町と呼び一箇の癩村を作るに至れり、現今其家屋二十五箇と一箇の浴室とあり、此等の家屋には癩病家族等住居して最も多く宿屋を営み遠来癩病客を宿し僕婢に至る迄一切癩病者を使用せり、其他雑貨・日雇・農業・大工・建具・理髪・灸点・金貸・綿打・売薬・医師・駄馬・炭焼・農僕等を営むものあり、一家屋を建築するに当りても他の健康者を累はさず大概癩病患者にて事足る有様也。
明治三十五年四月の調査によれば浴客七十三人住民百二十六人あり、浴客は去来常無くして、其散ずる宿料によりて住民は生活し得る仕組
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なり、又住民間公然夫婦となり居る者三十二組、子孫を挙げたるもの十家族、子十二人生存せり。
一たび草津を経過したる癩病患者は草津滞在の日を回想して癩病の楽天地となす、此れ同病者間遠慮有る無く、自由に行動を為し得ればなり、然れども此地は金銭を要するが為に、充分に身体健全にして労働に堪ゆる者にあらざれば長く滞在する事能はざるなり。
草津は冬時寒気強し、此点に於ては癩病患者の離隔所として一欠点なり、蓋し癩病の為に痳痺したる四肢は酷寒に遭て益々痳痺して用をなさず、若し暖室法にして施すを得べくんば、離隔地として最も適地ならん、古来より此熱泉と癩病との関係浅からず、現今学問上よりするも皮膚の清潔適当の保護は癩病唯一の対症療法なれば、熱泉療法は決して非合理的療法にあらず、且つ草津の地たる上毛山間の一僻村なるが故に、他の健康者の入るを禁じ、此の地に現存する客舎を買収して公立の一大離隔所を建設せば、よく関東数千の患者を収受するに足る可く、若し適宜の方法を設けて、実費若くは其以下の費用を以て患者の終生を預り得べくんば富者の癩病者は好で此の地に集まるべきを予想するものあり、此の空想の実行は容易の業にあらざる可し、刻下の急務は此地に集まり来る貧窮の癩病患者を救助すべき模範的国立癩病院を設立するにあり。
    第五 行旅病者としての癩病患者
癩病患者の重症となり世人に嫌厭せらるゝに至れば、潜かに郷里を出で浮浪者の群に入りて諸方を徘徊し、或は熊本の清正公或は四国の八十八箇所を巡歴し、或は木賃宿に宿泊し、或は神社仏閣の軒下に露宿し、日々市に乞ふに至る、平日は各所に散在すると雖も、弘法大師の縁日、日蓮上人の縁日乃至は成田の不動の縁日に当り各所より集合し来り其多数なるに一驚を喫せしむることあり、吾が東京市は本所・浅草・新宿の木賃宿、是等の行旅者は常に出入する者少なからず、彼等は病症重劇となり、平日の貯蓄を消費したるのときに於て路傍に倒れ遂に本院に送らる、明治三十一年以来本院に送られたる者左の如し。

     年号        入院  死亡  出院   逃走 年末総計
   三十一年         一   ―   ―    ―    ―
   三十二年         八   三   四    ―    二
   三十三年         五   二   三    ―    二
   三十四年        一三   四   三    ―    八
   三十五年        一八  一〇   五    ―   一一
   三十六年        二八  一三   五    ―   二一
   三十七年        三〇  一三   六    二   三〇
   三十八年十一月迄    一九  一三   三    九   二四
     合計       一二二  五八  二九   一一

年々行旅癩病患者の東京に潜入するの傾向あることは此表によりて分明也、彼等の乞食に興味を有する者は、愈々死に頻するにあらざれば本院に入院するに至らず、故に彼等の死亡数は殆んど半数(四七、五%)に上る、之れ他の癩病院に決して見ざる所の死亡率なり。
而して其死因は勿論重症癩病の衰弱に陥りたるに由来すれども、其直接の死因と見做すべきは癩病性潰瘍に他の創傷性伝染病を合併したる
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とき、営養不給の為に併発したる肺結核、雨露に曝露したるが為めに発する腎臓炎・脚気等也。
彼等の幸に治癒に向はんか、単調にして狭隘なる養育院の癩病室に安居せんより、社会的活動を目撃し、自由に市中を乞丐するの愉快なるを思ひ、出院を強請し、逃走を企つるに至る。
然れども寒気甚だしく、病症増劇するに当りては、再び市に病倒して本院に送附せらる、百二十二人の入院者中十九人は再三入院せるものあり。
彼等の出院及び逃走を企つる第二の原因は行旅病者費用の負担に堪へざるにあり、即ち養育院に行旅病者として入院するものは他の普通患者と同じく行旅病者費として一日二十銭宛の費用を請求し、原籍の不明のものは東京府の公共団体より支出し、原籍判明したるものは救養義務者の負担に帰し、扶養義務者なき者は各府県の公共団体の負担に帰す、今入院者の実数百〇三人に就きて各府県及扶養義務者の有無を挙ぐれば
(一) 窮民      四人
(二) 原籍不明の者  六十七人
(三) 原籍明瞭せる者 三十二人
   内訳
  東京   三人      神奈川  二人
  静岡   二人      千葉   二人
  茨城   一人      山梨   二人
  群馬   二人      長野   二人
  愛知   一人      岐阜   二人
  三重   二人      和歌山  二人
  福島   二人      岩手   一人
  富山   一人      新潟   一人
  愛媛   一人      熊本   一人
  鹿児島  一人      大分   一人
窮民四人は養育院の基本金の利子により養はれ、原籍不明の行旅病者六十七人は東京府の公共団体の費用により、原籍判明の三十二人の中十二人は扶養義務者無きにより地方の公共団体より費用を徴集し、爾余の二十人は扶養義務者より費用を徴集せらるるにより、癩病患者にして数年間養育院に救助せられんか、扶養義務者たる父兄は費用の請求に堪へず、遂に破産するに至る、故に父兄たる者は勢ひ患者をして早く出院して累を自己に及ぼさゞらんことを切望せざるを得ず。
行旅病者規則を適用して癩病患者を離隔し、扶養義務者に癩病患者の費用を弁償せしむることは一見甚だ可なるが如きも、慢性伝染病者たる癩病患者を離隔するに当り、上記の如き不都合に遭遇する場合多きが故に此法の不便は少々にあらざること、吾人が久しき経験によりて固く信ずる所なり。
  全国の癩病者を如何なる方法にて処置す可きか
上来説述したる各国に行はれたる離隔所の制度は、其風俗習慣により甚だしき差異あれども之れを二種に大別せば可ならん。
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(一) 院制度
(二) 癩村
此の両者は各得失あり、而して本邦に於ける癩病患者は三万以上あり其所在は社会の各級に通じあるが故に、決して短日月を以て単純なる方法を以て離隔すべきにあらず、然れども本邦に於て目下採用す可きは院制度を最も宜とす、只だ其短所とする所は生活の単調にして永住患者の倦厭し易きにあり、然れども之は適宜の職業若くは娯楽若くは宗教の慰藉等により緩快せらる可し、其長所とする所は、清潔・消毒医療等の実行は容易にして、又男女の区劃を厳にし之れによりて直接に健康なる周囲の人々に危険を及ぼすこと少なく、又間接には子孫をして不幸なる運命を得せしめざるの益あるなり。
癩村の制度は布哇・草津の如く家族的の生活を遂げしめ、此癈疾の患者をして幾分か生産的事業に従事し得るが如き外観ありと雖も、其益たる損失を償ふて余りありと云ふ可らず、之れを従来の歴史的事実に照らして考ふるに、欧洲に於て全く癩病者の跡を絶ちたるは中古時代に行はれたる院制度の離隔法を用ゐたるにより、本邦に於て病毒の固着して荏苒今日に至れるは癩病患者を浮浪せしめ、癩村若くは癩血族なりとして警戒するに止まり、離隔法の不完全なりし為めに来りしことを推測するに難からず、而して世人の空想する所によれば全国の癩病者を網羅して、之れを一大島に移し大々的の癩村を結成し、生産的事業を起し収支相償はしむべしと、此事或は厳重の監督制度の下に実現し得べけんも、困難にして不確実なる事業と云はざるべからず。
吾人は寧ろ始めは少数の患者にても院制度によりて比較的確実なる国家的離隔の行はれんことを望まさるを得ず、而して長日月の後ちに漸次に患者を増収して、全国の癩病患者を悉く癩病院裡に収容するの方針に出でんことを希望せざるべからず。
若し夫れ今日三万の癩病患者の取締法として刻下の急務は左の如し。
 A 浮浪癩病患者の強制的収容
 B 貧民癩病患者の収容
 C 富者の自宅療養
(A)浮浪癩病者は已に社会より離隔せられたるものなり、古来人の癩病患者を嫌厭し此れを公衆より遠からしむる事は東西共に符節を合するが如し、今尚ほ蘭領印度には癩病患者を森林中に追放し此に漸く食物を施与し、小亜細亜には癩病を癈屋土崖に離隔して癩病患者は互に結婚し、癩患者は数健康婦人を離隔所に誘拐するが如きの記事は世界の学者をして其不都合を嘲罵せしめき、此の如き浮浪者は公衆を遠かりたるが故に伝染の機会を滅せしめしか、然り昔時にありては本邦に於ても幸に此方法が与て大流行を来さゞりし唯一の離隔方法なりしならん、然れども現今の如き交通機関の頻繁なる社会にありては浮浪者は癩病伝染の一大原因をなすべきなり、見よ行旅病者として東京に移流して病倒する患者の年々増加するにあらずや、見よ熊本県の如き浮浪者の徘徊する所は二千七百人(人口一万に対して二十二人の割合印度の英領緬甸は印度中癩病の割合最も多き所なるに、熊本県の半数一万に付十一人八分の割合)の大数に達し、更に全国中最多数の患者
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を出だしつゝあるにあらずや(徴兵検査の成績によれば二十六年・二十七年・三十年・三十一年の四年間に、肥後の壮丁百五十二人は癩病の為めに不合格となる)。
浮浪者の危険なるは四肢に生じたる潰瘍を治療するに由無く、此の傷より周囲に放散する無数の病毒乾燥して結核菌の如く周囲に飛散す、独り潰瘍のみならず、不潔なる衣服に附着する病毒患者の動作により又周囲に飛散し、咯痰鼻汁の乾燥したるもの又結核患者の喀痰と同一の危険物にして、此病毒の種々の機会を待ち、癩病に犯され易き体質に発育して数年の潜伏期を待ちて之の人を癩病たらしむ、而して此危険現今本邦の至る処に散乱しあるを以て何人と雖も癩病となる可き機会を有するなり、決して古来より云ひ伝へたるが如き遺伝病にして其系統にあらざる者は癩病に犯されずとは限らざるなり。
而して此の恐る可き病毒の散布者たる浮浪癩病者は諸国の到る処に徘徊し、殊に神社・仏閣・名所・旧跡の地にして人の集合する所は彼等の生活に尤も便宜なる所として群集するを見る。
此の如きは一国の体面乃至一家の恥辱の如き無形的損害のみに止まらず、実に公衆衛生上の有害物にして、国家にして離隔所を起し此等の患者を強制的に収容するにあらずんば、国家は罪悪を行ひつゝあるものと云ふべし。
而して此等の浮浪患者は院制度を以て離隔すべし、其離隔所の位置たる此患者の最も徘徊する地の附近を撰み可成温暖なる島嶼を卜すべし
而して癩病患者集合の要地たる九州・四国・中国・畿内・濃尾地方・両毛地方・東京附近・東北地方等に各一箇所の大離隔所を設立するを可とす。
此離隔所たる近世衛生上の智識を応用し研究上の便宜、患者の娯楽・職業・慰安の具悉く備はり、所謂模範的癩病院なるを要す。
(B)浮浪に次て危険なるは貧民癩病患者なり、彼等は浮浪者の前階級にして危険の度に於て之と多く区別無し、只だ生地に固着して扶養義務者を有するの差あるのみ、然して此扶養義務者たる家族は一人の患者を看護するは極めて重き負担なり、故に此を公費に養ふことは家族の負担を軽からしめ、一方より云へば間接若くは直接に周囲に及ぼす危険を少からしむるなり、此等の患者を収容するに当りては前記五六の離隔所にては不足を感ずるに至る可し、故に別に第二期の事業として各府県に各一箇所の離隔所を設立するを可とす、蓋し各府県は悉く二百以上の患者を有すればなり、西洋の学者は離隔所は遠隔の地たるを要せず、各人の郷里に於て離隔せられ親戚・故旧は折々之を訪問し慰藉するを得る様にす可しと云へり、人情左も有る可き事なれども離隔の真意義よりすれば却て交通不便なる島嶼も可なるべし、又本邦の風俗習慣も之を冀ふもの多かるべし、故に彼の大離隔所附近の各府県は此れを大離隔所に致す可く、之れに遠隔せる府県は又た一箇所離隔所を設立し、之れに貧者を収容するの方針を取るべし。
以上の如く貧民及浮浪者を国費を以て救助するに於ては始めは之を嫌厭するも漸次に入院者を増加すること那威・布哇・喜望峰殖民地の如くなる可し、若し夫れ扶養義務者に重荷を負担せしむる如き諸方法は
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患者隠蔽の事件を続出して、離隔の事業を一層困難に陥らしむる者なることを考へざるべからず。
(C)富者の自ら好んで離隔所に至るを希望するものは之れを認可すべく、又他の私病院に入院し若くは自宅に治療することを希望するものは、其設備の充分にして離隔の実あるや否なやを検査して、尚ほ半年毎に巡視監督を附して之れを許し、若し離隔到底不可能と認むるときは強制的離隔の法に従ふべし。
以上の三級の取締により大体を尽せりと雖も、次の諸項も亦必要なる事項なるを以て附加す。
(D)若し離隔せらる可き患者が一家の家長にして、家族の生計の道を失ふが如き場合には、其遺族は公費を以て救助すべき者とす。
(E)癩病者は公共と数々交渉を営むが如き職業、例之ば飲食物製造販売業・洗濯・理髪・医師・調薬師・弁護士・官吏、運輸交通・出納に関係する公私役員等は其職業を停止せしめ(B)若くは(C)に従はしむべし。
(F)公共の機関、例之は舟車・宿屋・学校・図書館・温泉場・理髪場・劇場等に出入することを禁ずべし、(B) (C)の処置中にあるものは罰金を科し、再三聴かざるものは懲罰に附し、未だ処分を受けざるものは適宜の処置に従ふべし。
(G)此法を実行するに先づ必要を感ずるは精細なる患者数及身分の調査也、従来の調査は只だ患者の数を示すに止まり其社会的及病状的方面は不明なるを遺憾となす、故に更に厳重なる調査を施すを必要とす、之れを調査するには癩病患者及疑似患者若くは癩病死亡者は主治医・戸主・学校校長及患者の親近の者に届出の義務を附し、此れを市町村及警察署に届出しめ、市町村医及警察医は現場に臨検して精細なる検査を施す可し。
而して調査項目に就きては(露西亜帝国に於ける千八百九十五年乃至九十七年に行ひたる事項を参照)左の如くなるべし。
 (一)診査年月日(二)診査の場所(三)患者の原籍(四)族籍(五)姓名(六)年齢(七)教育(八)宗教(九)地位(十)住所(何年より何処に転居せしや)(十一)職業(病前病後)(十二)結婚若くは独身(十三)家族(十四)両親及祖父母の癩病の有無、若し有れば患者の生前なるや生後なりや(十五)同胞の年齢、癩病に罹りたるもの無きや否、其の罹病の年齢・順序(十六)血族に癩病なきや(十七)患者の近親に癩病なきや(十八)患者の初期の症状は何時に始まりしや、其の形位部位(十九)現症(二十一)特別なる注意(二十二)診査医師の名
尚ほ市町村役場は左の調査を附記。
 (一)患者の財産能力(二)地位(三)離隔難易の理由
之れにより自宅にて離隔せらるべきや或は公費にて離隔すべきや等の諸項を明瞭にすべし。
    結論
全国一般に通じて癩病患者を厳重にし、医師及び癩病者と関係する人人に届出の義務を附加し、患者の処置に就ては浮浪者と貧者と自宅療
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養者とに分ちて之が取締方法を定め、前二者に付ては国費・地方費を以て相当の設備をなし孜々怠ることなくんば幾年の後終に此病毒を駆除し得可し。若し今日の儘にして之れを抛棄せんか多年の後、国力全く衰耗するに至る可し。


東京市養育院月報 第一〇三号・第三―七頁 明治四二年九月 ○癩問題の今昔(癩療養所医長光田健輔氏談)(DK240058k-0012)
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東京市養育院月報  第一〇三号・第三―七頁 明治四二年九月
    ○癩問題の今昔 (癩療養所医長 光田健輔氏談)
本年より癩病予防規則実施せられ、全国五箇所の癩療養所は開所せられ、為めに貧困浮浪の該患者に対しては救養の道開けて、吾人宿年の希望は其一部分なりとは云へ実行せらるゝに至りしは一大痛快事にして、又我衛生史上の誇りたらずんば非ず、併し此処に収容され治療を受くべき患者は全国二万の患者中僅に二千人に過ぎざるなり、爾余の患者は如何なる状態ありや、是れを仔細に観察せば衛生上及び社会上の一大問題たるを認め得べきなり。
△癩の家族的伝染 本邦に於ては久しく癩病は遺伝病にして伝染病にあらずとの説普く上下に信せられ、平常は何の介意なく交際する人々の間にても、結婚等の場合には厳に其血統を穿鑿し、第一祖先及び親族に癩病・癆瘵なきや否やを確むる次第なるが、癆瘵は多く普及せる病疾なれば深く之を問はず、本人の健康如何を重視すれども、若し血族中に一人癩病者を発見すれば当人の美醜・賢愚は問ふ処にあらず、折角の縁談は直に破談に終るを常とし、該血族の人は一人の癩患者の為めに癩病家族なりとの汚名を受け、代々他との縁組一切を遮断せらるゝなり、天下斯の如き惨酷なる社会的制裁他に之れありや、徳川時代には斯の如き制裁により処々に癩村と唱ふるもの生じたり、是れ惨酷なる如上の社会的制裁を受けたる同病家族等が任意相集り、或は官府の強請的制裁によりて形づくりし村落なり、斯る不幸の家族は社会的制裁を恐れて久しく一患者を隠蔽したる結果、遂に甲より乙に伝染し為めに一家族内に数名の患者を続発せしむるに至りしの例決して珍らしからず、当時は之を家族の血統に帰したるも、現今の進歩したる学理より観れば、家族間の触接によりて家族伝染をなしたるのみにて若し甲なる一人を発病後速かに離隔したらんには、乙丙等には伝染せざりしならん、然らば本邦に於て伝染の実例ありやと云ふに、是迄癩病者を出せることなき家族間に成長したる人にして、至る処に散漫せる癩菌の為めに感染したるもの決して尠からざるべしと思はるれども此際遺伝論者は之に対して其純潔なる血統なりやを疑ひ、直に之を癩系統中に数へ入るゝならん、故に本邦に於ては伝染の実例を挙ぐるは論拠薄弱なれども、独仏英の如き癩患者の殆んど之れなき国々に決して癩病を新生せざることにて明かなり、遺伝論者は此等の国民は已に数百年前癩病消滅して今に至つては遺伝病系の断絶せしに帰せん、然れども此等の国民も亦他の癩病国に移住或は旅行したる為に、数年の後癩病に感染したるの実例は枚挙に遑あらず、彼の有名なる宣教師タシエン氏は其一例なり、氏は癩系なき白耳義に産れ、千八百七十三年布哇「モロカイ」の癩島村に至り伝道に従事し、親しく癩患者に接触したりしが、一千八百八十二年より癩病の初徴を発し、一千八百八十
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九年七月遂に逝けりと云ふ、其他欧洲中古に蔓延したる癩病は隔離法によりて消滅し、現時諾威国は又之によりて好結果を挙げつゝあるは後に説く所の如し。
△離隔の後れし訳 癩病の伝染病たるは、諾威の学者ハンゼン氏が千八百七十四年、即ち三十五年前に発見したる癩病菌に因ることは一人の異議を唱ふるものなし、然れども此の疾病の慢性にして潜伏期甚だ長く、通常感染後三年乃至五年の後ならざれば発病せず、且人々の感受力に甚だしき相異ありて、同一家族にても其兄弟姉妹には悉く感染して其両親に感染せざることあり、或は反対に両親癩なるも健康なる子を産むものあり、故に急性伝染病の如く皮膚の創傷より、或は悪き食物より伝染したりと云ふ其系路を追及することの困難なるが為めに感染の事実を目撃する能はず、且是の病菌を動物に移植して同一の疾病に罹らしむることの困難なるが為めに、古来の遺伝説を根本より覆へするに至らず、加之ならず日本医学の大恩人たるベルツ氏は本邦の世説にかぶれ、癩病伝染の説を疑ひ、其例証として監獄内に癩患者ありしも、之と同室にありたる他の囚に該病の感染せざりしこと、并に前に述べたる如く同一家族中に本病に犯されざるものありとの例を引証して、寧ろ遺伝説に加担したるの傾向あり、爾来此の流れを汲む者の中には有名なる大家もありて、中心癩菌の病原たるを信じながらも是が隔離法を談ずるものあれば机上の空論なりとして、進んで之れを断行するの誠意を欠きたる為め、恐るべき癩問題は忽諸に附せられ、其隔離法の如きは漸く今日に至りて着手され、非常に後れたる一大原因なり。
△癩病の伝播力 去らぬだに家族伝染によりて続々同病者の伝染しつつあるに加へて、交通機関年々整備発達し、両度の戦争は国民的移動を増進し、癩病は其伝染に大なる便利を得て隠然其勢ひを逞しくしつつあり、此事実は壮丁検査に現れ、年々癩の為めに兵役を免除せらるるもの六百人に達すと云ふにて知るを得べし、之に準じて計算せば二十年の女子にも該患者は少くも四百人はあるべければ、合計一千人の癩患者は年々増加しつゝありと云ふを得べく、国民の活力は歳々之に比例して奪ひ去られつゝあるなり、豈寒心すべき事実に非ずや、翻つて二十年以前に国民及び政府が諾威乃至布哇の離隔法に則り癩病の離隔法を断行したりとせんか、数万の生霊は此の活地獄より救済せられしなるべし、余は二十歳前後の癩病患者を見る毎に、常に先覚者の施設の及ばざりしを長歎せざる能はず、二十歳前後は最も多く発病するものなり。
△予防規則の発布 予曾て之を維新の先覚者に聞く、本邦文明の急劇なる進歩は常に外勢の圧迫に因る、馬関の砲撃は維新の革命を来したる始めにして、万の進歩は悉く外国の刺戟に適応したる結果なりと、癩問題も亦然りしなり、初め欧洲に癩病の蔓延するや十二世紀は蔓延の極点に達し、全欧洲に一万九千の癩病院起り、仏国のみにも二千の癩病院ありたり、以て如何に之を隔離するに腐心せるかを知るべし、其結果十四世紀に至りては欧洲の中原殆んど癩病の跡を絶つに至り、往時の癩病院は化して空屋となり、遂に各種の伝染病を隔離するに用
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ひられたり、今吾人の使用するラツアレツト(病院若くは軍病院)なる文字は、癩病院に祭れる神の名にしてラツアレツト、セントグオゲスと呼びたるに初まれりと云ふ、斯くして癩病は欧洲の中原に絶熄せしが、前世紀に至り諾威の辺陲に再び癩患者現れ、其世紀の中頃に諾威政府は数個の癩病院を起して著るしく好結果を挙げ、千八百五十六年には二千八百三十三人の患者あり、新発患者も年々二百人を下らざりしが、離隔法の普及すると同時に千八百九十五年には七百一人に減じ、新患者は漸く十人以下に減少し、今後十数年にして全く跡を断つに至るべしと云ふ、此諾威隔離法は本邦現今の予防規則の模範となり居るものゝ如し、諾威の外西班牙・伊太利・澳地利・洶牙利・露西亜にも多少の癩患者ありしが、欧洲中原、英仏独等には自発する患者なかりき、然るに独逸の東境メーメル区に三十名の癩患者を発見し、漸く増加せんとす兆あるを以て政府・人民は一時に悪夢に襲はれたるが如く驚き、捨置く可らずとなし是が伝染系統を研究したりし結果、該病原は露西亜より輸入せられたることを発見し、千八百九十七年第一回癩病予防会議を伯林に開き、各国の学者を招待して決議したるは、癩病は慢性伝染病にして、是を予防撲滅するの道は只往時の欧洲及び現時の邦域に於て有効なりし離隔法にありとなし、輿論の帰向する処を示せり、此論旨に基き直にメーメル区に壮大なる離隔所を建て、患者を収容せり、然るに本邦に於ては此の前後、外国の宗教家により設立せられたる熊本二ケ所・御殿場一ケ所・目黒一ケ所の癩病院ありしが、本邦人の設立にかゝる癩病離隔所は一ケ所もなかりき、然るに東京市には年々治療の為めに若くは潜伏に便なる為めに入り込み来る該患者は日々増加する傾向あり、されば識者にしても苟も世界学者の輿論のある所を知り、外国人の奇特なる慈善的の行為を目撃し、尚輦轂の下に癩患者の蝟集して其魔窟たらんとするを見るに至つては、奮然蹶起し之が予防の策を講ぜざる能はざりき、果然明治三十五年の議会には斎藤代議士の提案となり、翌三十六年以下年々の議会には山根代議士の提案ありて、遂に三十九年の議会には政府自ら予防案を提出し満場の一致を以て此法案は通過し、以て今は全国五箇所の癩療養所を見るに至りしなり。
△予防法の精神 玆に於てか多年我邦人の頭脳に印刻せられたる癩遺伝説は漸く其勢ひを失ひ、伝染に都合よき機会と素因だにあらば何人にも伝染する疾患なることを一般国民に知悉せしめ、各自の警戒を促さんとせるは蓋し癩予防規則の大眼目なり、次に自ら治療する能はざる貧窮者及び浮浪者は官費給養せしめ、自ら治療をなし得る患者には自宅に於いて他に伝染せざる様注意して療養せしむるの規定なり、而して此法の出づるや、政府は全国五箇所の癩病集合地に療養所を設立したりしが、単東京の選定地のみは初め目黒、次に田無、最後に東村山と転変せしが、彼等村民は何れも此危険なる疾患の自村に集合するを聞き各反抗運動を企てたり、是れ単に政治的・利害的の問題にあらず、一面癩病は伝染的疾患なりと宣告されたる反応とも見るべし、吾人は暴動は歓迎せざるも、為めに該法律の精神が漸く一般人民に普及せるを知るを得たり。
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△恐るべき非収容者 東京府外十一県の全生病院に入院を申込める人員は放浪の徒のみにて已に二百六十人なりと云ふ、されば貧民は僅に四十人を容れて大約予定の三百人に達するの理なり、他の収容所も大概三百人の予定なれば、収容所以外の慈善的癩病院をも合して漸く二千人足らずの癩病者を容るゝに足るのみ、残余二万の癩患者は依然尚家族内にあり、是等の患者は医師の通知なき限り、或は患者の潜伏せる限りは家族と触接し伝染の危険あるなり、且仮令医師・家族の届け出あるにもせよ、家族に於て完全なる離隔法及ひ治療法が実行さるべきか頗る疑問なり、玆に於て此法律を空文視する学者あり。
△予防規則は空文か 論者は云ふ、本邦古より癩病遺伝説を信じ其系統に対して極端なる社会的制裁を加へつゝありき、之れ其実一種の離隔法にして、徳川時代には癩病血族を一所に集合せしめ癩村を作らしめたる所ありたり、或は家族中に該患者を生じたる時は家系を汚すものとして深く之れを隠蔽し、因果を含めて四国巡礼等浮浪乞食の群に投ぜしめたり、此等の徒は路傍に徘徊すれども衆人に接触するにあらずして、感染の機会は甚だ少なくして離隔法は自然に行はれ居りしなり、本邦に於て癩病の大流行を見ざりしは斯の如き間接予防の結果なり、されば今回殊更に浮浪者を収容所に集めたるは愚の極にして、真に伝染の恐れあるは家族と共に在るものなり、而して斯の如き患者の常として一は家系を傷つけんことを恐れ、一は消毒等の面倒を避けん為めに隠蔽潜匿して踪跡を晦ますの傾きありて、仮令医師に診察を乞ふ場合にも偽名するが故に、警察は医師の届出に接するも其正態を認むる能はず、斯る次第なれば本法は空文なりの言の如く、全患者の一割にも足らざる二千人の患者を病院に収容したりとて其効果して幾何ぞ、然れども此規則の精神益民間に普及するに従ひ、貧困者の続々病院に入院を請ひ来るは必然の結果にして、当局者が療養所を増設するの已むなきに至るも亦自然の勢ひなり、余は当局者の施設の可なるを是認せざるを得ず。
△不正なる広告 多くの場合癩病患者は如何なる方法を以てしても此の天刑的疾患を治癒せしめんと計り、人肉人胆の斯疾に有効なりとの迷信を耳にして往々殺人の惨劇を演じたるものさへあり、斯る次第なれば富有なる患者は該病の根治剤ありと聞けば金銭を惜しまず直に之を購ひ試用せざるもの殆ど尠し、然れども未だ是によりて全治したるものあるを聞かず、斯くの如き患者は畢竟山師の術中に陥りたるものにて悔ゆと雖も詮なし、而して斯かる売薬師・医師等の広告は屡々新聞紙上に見る処なるが甚だしき不徳漢なりと云はざるべからず、若し果して斯る霊薬霊術を発見せしものあらば宜しく之を公表して天下幾十万の生霊を救ふ可し、富と名誉とは招かずして自ら集まらんなり。
△癩病菌の培養 結核・梅毒・癩の三種の慢性伝染病中、梅毒は其病理の未だ闡明せられざるに先だち水銀剤なる天与の特効薬の発見し治療甚だ容易となり、結核はコツホ氏の研究により人工的結核菌を培養し、此の菌体を以て『ツベクリン』結核血清を製し、結核に罹りたるものに自働的若くは他働的免疫を与へ、未だ充分成効せざるも所謂特異療法は其緒に就きたりと云ふべし、然るに癩病にありては其病原体
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の発見は結核の発見(千八百八十二年)に先立つこと八年なりしが、未だ其培養法は成効の境に達せず、されば之に依りて癩菌を撲滅すべき特殊の製剤製出せられず、此難関あるが為めに結核の研究に比すれば遥に後れ後の雁が先に飛ぶの観を呈せり、故に学者研究の中心たり目的物たるものは、癩菌の生物学的の性質殊に其培養法の案出にして人智の不可思議なる早晩発見さるべきは疑ひなき所なれど、今日にては如上の有様なり、是れ癩患者に富める本邦学者の発憤を要すべき所ならずや。
△癩病の治療 右の次第にて細菌免疫病的の治療製剤は癩病に於て未だ発見せられず、凡そ人の身体は疾病に対して多大の抵抗力を有す、「ヂフテリヤ」天然痘の如きは其最も著しきものにて、結核菌にすら此性あるにより、細菌免疫的の治療製剤を発見するに努力せざる可らず、癩病にありても病症常に多少進退変動あり、病初と末期と病種とは常に千差万別なり、此点に於て学者の大に乗ずべき所なりとす、されば細菌学的免疫の成就は今後数年の研究を要するも、結核患者に今盛に試みられつゝある如く、癩病にも薬剤的及気候・栄養・清潔・消毒等の関係に就ては忽諸に附すべからず、先づ薬剤としては大楓子油及び其製剤は普通一般に使用せらるれども、短時日之を内服したりとも何等の効験なきが故に、数年に亘り、時機を見、病勢を察し、医師及患者の耐忍を要す、其他亜砒酸及び銀の製剤たる「アトキシール」「クロラルゴール」昇汞等も、又是を特長応用すれば初期の患者にありては病勢頓挫して外見上全治に近きものあり、然れども之れを全治するには十年の歳月を通じて観察するにあらざれば軽々しく明言する能はず、又独り内部より疾病を攻撃するのみならず、外部より皮膚を清潔にするの必要あり、毎日の規則的温浴は気血の循環を能くし大効を見ること尠からず、加之現今嶄新の治療と称せらるゝ「レントゲン」「ラジウム」光線療法等皆応用すべきなり。
△食餌療法 食餌法に就て吾人の屡目撃する事実は、肉類及び酒類を濫用し放漫の生活をなすものは病症の進行著しき速度を示し、之に反して禁慾的生活をなし粗食に甘んずるものは進行性の疾病も治癒に向ふこと多し、是他の疾患と少しく趣を異にするが如きも事実にして、本邦に於ける日蓮宗信者が信仰の行者となり癩の治癒したるを語るは強ち虚言にはあらざるべし、癩療養所は独り薬剤的療法のみならず、諸般の衛生的設備に注意して彼の結核転地療養所に対する用意を参酌せざるべからず、加之癩病の皮膚粘膜に広汎蔓延する病変は容易に他の病毒及び外傷によりて侵害せられ、之が為に起る不慮の合併症により死期を早むること少からず、是が予防は常に精細なる医療注意を要す、されば療養所は患者の楽天地にして是れ以外に癩病者安住の地はなかるべし。
△患者の状態 療養所内の患者の境遇に就て楽観したる吾人は、療養所以外の患者に就き悲観せざるを得ざるなり、如何に富貴にして衣食住に不自由なき身にもせよ、真の骨肉にも疎んぜられ常に悲哀の児たらざる可らず、若し公に癩病と認定せらるゝ時は各種の消毒・離隔の注意を受け、且累を血族に及ぼすを以て寧ろ自殺を希はざるもの幾何
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ぞ、故に衆人の耳目に上らんとする患者は早く逃れて都門に入り治療家の門を叩く、然れども此病の慢性なる容易に治療の効果を見ず、十年の歳月を空しく薬餌に委ぬるもの尠からず、されど中流以上の産を有するものにあらざれば遂に一人の為めに破産の運に至らざるもの稀なり、斯の如き患者にして我東京下谷根岸一円に潜匿せるもの三百人の多きに達すと云ふ、彼等は衆人の眼を掠めん為めに昼は寝ね夜陰に乗じて附近を散歩し、恰も身を天地に容るゝ所なきものの如しと云ふ豈悲惨なる境遇にあらずや。
△理想の癩村 余一日上州草津の癩村湯之沢を過ぎり、其三百の癩患考が皆生気あり頗る楽天地の観あるを見き、蓋彼等二百の土着癩患者は宿屋業・雑貨・大工・左官・下男・下女・運送業に従事し、客となりて入り来れる百人の癩患者が費す費用によりて生活するものなり、是れを彼の都会の一隅に屏居して辛くも生を偸む者に比すれば意気の旺盛霄壌も啻ならざるなり、加之彼等敗残の体躯を労して幾分なりとも生活の資を得るが如きは、此種慢性病者に対して無限の慰藉たり、然るに此地が草津の健康なる町民に接触し、町民及他の浴客に対して危険少からざると、土地極めて狭隘にして今日より多数の患者を容るるに足らざると、治療・慰安・娯楽・消費組合・郵便・電信等の設備に欠くるとを以て改善の余地少からずとなし、之を下方滝沢尻の平原に移し是等設備を完全にせんことを町民に謀りしに、町民及び癩患者には異議なかりしも、単に経済的関係ある故を以て是を実現するを得ざりき、而して癩患者と因縁浅からざる此温泉は早晩癩の蝟集を見るや必せり、是れ啻に草津一箇所の問題にあらずして国家の問題なり、政府及び地方庁は決して之を軽視すべからざるなり、政府は宜しく癩予防規則を発布し、癩収容所の制度を確立したると同様に、此既に歴然として存在せる草津の癩村を認承し、是れに相当の設備をなし癩村の制度を設定すべし、又之と同時に全国適当の温泉島嶼を選びて癩患者をして容易に入つて治療するを得せしめ、土地を下附し納税を免じ医療機関を備へ、倉庫を設けて低廉なる物品を供給し、防寒家屋を建てゝ之を貸与し、郵便局を設けて信書を消毒し以て生活の便を与へんには何を苦んで家庭に潜匿するの愚をなさんや、患者は喜んで自ら此地に移転し余生を楽まんなり、是れ余が胸底に来往する理想の癩村なり、若し政府にして之を断行する能はずんば癩村丈にても是認せんことを要す、されば民間の有志者は赤十字社の如き組織となして基金を募り、上記の公共設備を調ふべきなり、是れ豈彼の義勇艦隊や愛国婦人会や赤十字病院に劣るの事業ならんや。
△結論 余は世界の輿論たる癩病離隔法は今日の学理進歩の程度にては必要欠くべからざることと思ふなり、故に政府は盛に隔離所を各地に建設せんことを希望す、然れども財政上の事情にて二万の癩患者を一時に収容すべき設備をなす能はずとすれば、先づ浮浪者より癩療養所に収容して漸次現今の制度を拡張し、尚政府若くは民間有志の補助を以て癩村を設定して、中流及び富有の患者を収容せんことを切望して止まず。(終)

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東京市養育院月報 第一〇三号・第一五一七頁 明治四二年九月 ○光田氏の送別会(DK240058k-0013)
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東京市養育院月報  第一〇三号・第一五―一七頁 明治四二年九月
○光田氏の送別会 十年一日の如く本院医務に鞅掌せられ、殊に収容の癩患者に対して全力を傾注し、癩研究に於て造詣尤も深かりし副医長光田健輔氏は、今回東京府立全生院(癩患者収容所)医長に栄転せらるゝに就き、九月十一日午後二時送別会を本院集会所に於て開催せり、参会せしは事務員・医員・看護婦等百有余名にして、香西事務員の発会の辞に次で、安達幹事の送別の辞、光田氏の答辞あり、快談数刻にして同四時三十分散会せり
    光田副医長を送る (安達憲忠)
  左の一文は、本院副医長たりし光田健輔君が曩に一府十一県の設立に係る癩療養所たる、府下東村山村全生病院医長として赴任せらるる事となりし節、本院の全職員百六十余名が同君の送別会を開きし席上に於て安達幹事が演説ありしを、記者が筆記せしものなり
此度光田副医長が全生病院へ御栄転相成るに就まして心ばかりの送別の宴を張る事となりまして、私が諸君に代りまして送別の辞を述るの光栄を有すると信じます、光田君には本院へ御就職になりまして既に十一年、其間公私に就て一方ならぬ御尽力を煩した事で感謝の言葉がない位に考へます、随て袂別の情に堪へません事は全院の方々何れも同感同情の事と信じます、併し乍ら公命は如何とも致し難きのみならず、全生病院医長として御赴任になる事は今日に始た事でない、是には長き歴史のある事で、今日本院を離れらるゝは誠に当然のことでありますで私情を雑ゆべきではありません、就ましては光田君が今日まで医学以外に癩病者の為に御尽力になりました私が知て居る丈の事を述べまして、光田君に向て聊か希望の点を申上げまして、別を送るの言葉に代へ様と心得ます
光田君が本院へ御出になるまでは私は癩病は遺伝病即血統病であると心得て居りました、是は私ばかりではない、多くの人は皆左様に信じて居たのであります、医学者社会では無論疾より伝染病であると分て居たのだ相でありますけれども、素人は伝染病と知て居た者は至て尠なかつたのであります、夫故に本院にては癩病の五・六人位は常に居りましたけれども、唯不潔の病気であると思ふのみでありますから、癩病者も普通の病室へ入れてありました、特に神経癩の如き外部に甚しく見へぬ者は、男子も女子も夫々の健康室へ雑居させて在た様な始末でした、光田君が御就職後此有様を見て、癩病は伝染病であるのに他の病者と同室に入れたり、健康室へ雑居させたりしては危険であるから速に離隔せねばならぬと申出された、私どもは之を聞て驚いて一日二階の一室で其伝染の理由を伺ひました処が、委曲其伝染病たる病理とか事実とかを話されて、然らば是非とも離隔所を設けて普通入院者と隔離せねばならぬと申事になり、現在の室へ同病者を移して回春病室と名くる事に相成、光田君は自ら進で癩患者の治療を引受けらる事となりました、然るに年一年癩病者の入院が多数になりまして、少き時も三十五・六人、多き時は四十五・六人に達する勢となりましたから、終に慰癈園に相談して同病者十人丈を同院へ依托する事になり
 - 第24巻 p.505 -ページ画像 
今日に及んだのであります
お話は跡に戻りまして、光田君から伝染病と伺ひました時に此事を院長に話し、一日光田君から直接に癩病に関する談話をお聞き下されたいと申した処が、院長も耳諾ありて早速あの多忙の時間を割て光田君と会見せられ、委き伝染性たる所由を聞かれた、一旦斯と信じた上は其処置を等閑にして置くと云ふ事は決して為さぬと云ふ院長の気質でありますから、愈伝染性とある以上は癩病者を現今の状態で放任する事は出来ぬ、第一に東京市内に浮浪する所の病者を収容する場所を設置して伝染の媒介を絶つと同時に、院の現在の者も普通患者と隔離するの道を講ずるの必要がある、速かに光田君と相談して其設備に関する考案を立る様にすべし、予は市長に其事を相談すべしとの事でありましたから、早速光田君と相談致して前に申した如く一方には院内に取敢へず該病者を隔離すると同時に、東京市内に浮浪せる該患者凡そ百名と見積り、之を収容すべき場合の土地建物等の考案を立てゝ愈市参事会市長に提出致しました、然る処が市に於ても種々評議があつた趣でありましたが、一日院長が本院へ来りて云はるゝには、市長も彼の申立は尤もではあるが全国に浮浪せる該患者は定めて多数であらうが、東京市が該患者を収容すべき無料の病院を設けた為めに、各地の浮浪患者が東京に流れ来ると云ふ様な状況になつたらば容易ならぬ事である、若彼病が伝染するとしたならば是は東京市の問題でない、実に国家問題である、斯る理由の下に癩病院問題は容易に決定しさうになひと申さるゝ事でありました、且曰はるゝには国家問題として解決するより外致し方がない、夫までは院にも彼等を収容せぬ訳にも参らぬから、先づ出来る丈の離隔の設備をして、一方には大ひに輿論を起すより外手段はなからう、就ては光田君が主動者となつて有力者間に大に癩病伝染説と離隔問題とを皷吹して貰ひたい、予は出来る丈の尽力をするからとの事で、早速市参事会で其講話をして貰ひたいと、院長自ら市に至りて其交渉をせられ、何年何月であつたか忘れましたが光田君は癩病患者より切取た足をアルコール漬にした大瓶と顕微鏡とを携へ、市参事会で同会員一同列席の処で一席の講話をせられ、院長も私も同行しました、此時に単に伝染病たるの理由のみではない、其以前に調査せられた熊本・草津・金毘羅など同患者の集合せる場所の状況、東京市の浮浪者の状態より年々徴兵検査の節壮丁が同病の為に落第する状態、交通便利になるに従つて愈々蔓延すべき次第等を委しく述べられ、一同該黴菌抔を見られましたが、此時余程市参事会の方方の感情を動かした事と思ひます、御承知の通り市の参事会員の方々は多数は国会議員をも兼て居らるゝから、輿論を作る上には余程有力のものであつたらうと考へます
此前後に於きまして光田君が自ら奔走せられ或は研究せられて、癩病に関する調査又は輿論を作る事に尽力せられたるは私の与り知らぬ事が沢山にあり升が、夫は素より私が述る事は出来ませぬ、併し東京市内を彷徨せる患者の状態の取調べを致されたとか、草津へ行れたとか身延へ登られたとか、熊本・四国を巡廻致されたとか屡聞及ひましたし、又本院の月報にも幾度となく議論や其状況など書かれたものが載
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て居ります、又入沢博士から承た所に依れば学問上の御研究は一方ならぬものであつたそうであります、其後院長と光田君との御相談の結果有力者の集会を乞ひて、光田君より講話をすると申事になり、院長より各有力の人々数十人を銀行倶楽部に招待して光田君から一場の講話がありました、其講話の後で種々の協議がありまして、最近の議会に癩病予防法を政府案として提出を願ふと申事を満場一致で議決に相成りました、私が与り知りて居ります事柄は唯是丈けでありますが、其他の運動も余程あられた事と考へますが、其翌年即翌年《(三十九)》の議会へ政府案が提出になりまして法律が出来、其結果全国五ケ所の癩収容所が設立せられ、東京にも一府十一県の聯合立全生病院が建設あり、開院の間際と相成りて光田君が医長に任命あるに至つた次第であります
光田君には前にも申上た通り、十一年の久しき間公にも私にも一方ならぬ御心労を掛け一方ならぬ御懇意に致して居りますから、一個人から申せば実に離るゝに忍ひぬ、是は院の職員諸君が皆御同様の事と考へます、併しながら癩療養所に関しては光田君は実に火元である、大坂の火元も罰金を科せられた、どうしても責任がある、今度全生病院長の任命は畢竟癩病離隔問題の火元たる光田君が罰金を科せられた様なものです、勿論政府案が提出せらるゝ前に山根代議士外一名から両度建議案が提出になりました、皆根元は光田君であると信じます、最初始めて市参事会で癩病伝染の講話がある前に、是が輿論となるには誰が主唱者か分からぬ様にならねば到底駄目であると申した事でありましたが、今日では恐くは癩病離隔の主唱者が光田君であつた事と知る人は恐くは少なひであらうと信じます、素より光田君に於ても私共の考でも、癩病離隔問題が御自分の主唱であらうがなかろうがソンナ事は如何でもよろしい、要する所は我帝国から此癩病と云ふ恐るべき病気を根絶するのが大主眼である、又現在該病に罹て居る人を慰藉する事も副目的である、兎にも角にも今日我帝国の輿論として離隔を実行するに至りた事は、やがて我国から此病気を駆逐し去るの第一歩でありますから誠に慶賀すべき次第であります、光田君も久しひ間病理の研究から輿論の製造から色々御尽力になりました事は、其甲斐ありて愈着手実行と申す暁になりましたから定めて御愉快なり御満足であらうと考へます、斯る次第でありますから此度光田君が全生病院医長として行かれます事は、誠に至当の事で又責任であらうと考へます
光田君の意見が輿論となり、法律となり、愈実行と成たのであるから定めて御愉快であると同時に大責任と感ぜらるゝ事でありませう、素より今日は光田君の意見ではない、国家の意見である、政府は申に及ばず国民全体が此病気を我国から根絶すべき義務を持て居るのではあるけれども、其主唱者たる光田君は一層深く其責任を感ぜらるゝと思ふ、曾て光田君から承る所に依れば癩病の治癒すべき適当の薬剤は未だ発見せられぬと申事です、果して治癒せぬものとせば、欧洲に於て奏功した如く離隔法に依りて該病を根絶するより外に方法はないのである、左れば今日全国五箇所の病院で果して悉く離隔し得るかと云ふと夫は兎ても出来ぬ、現今の法律では自宅療養を許してあるから資産ある病者は強ては病院へ入れぬのである、五ケ所の病院へ強つて入院
 - 第24巻 p.507 -ページ画像 
せしむる者は先浮浪患者だけであらう、左すれば此法律の実行の結果が、果して光田君が始めから望まれた如く、離隔法に依て該病を根絶すべきものとは考へられぬ、唯従来は浮浪患者が四方八方に病毒を撒布して歩たのが少くなると申迄の事である、此事に就ては光田君は十分の御考案がある事と承知して居りますが、是れは中々の大事業である、癩病根絶論の火元たる光田君は此点に関して矢張主唱者となられねばならぬ順序である、次に癩病治療である、此の点にも定めて御苦心がある事であらうと考へます、幸に此病気が治療に依りて全快する様の事になりましたら其恩恵は限りもない事であります、光田君の送別に当りまして私の知れる事丈を委しく述まして其行を送るの辞に代へます


東京市養育院月報 第一〇四号・第一二頁 明治四二年一〇月 ○癩患者の全生院送り(DK240058k-0014)
第24巻 p.507 ページ画像

東京市養育院月報  第一〇四号・第一二頁 明治四二年一〇月
○癩患者の全生院送り 従来行旅病人として収容し来りし癩患者は、癩病者収容法に依り解除すべき処、都合上本年四月一日より更めて市の委託患者として取扱ひ居りしが、一府十一県の設立にかゝる癩患者収容所なる全生院竣工に就き、十月十八日警視庁の手に依りて該院へ送致したり



〔参考〕小林正金氏談話筆記(DK240058k-0015)
第24巻 p.507-508 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕東京市養育院月報 第一〇四号・第七―八頁 明治四二年一〇月 ○癩患者の友石渡女史(巣鴨生)(DK240058k-0016)
第24巻 p.508-509 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕全生病院婦長石渡コト女史談話筆記(DK240058k-0017)
第24巻 p.509-510 ページ画像

全生病院婦長石渡コト女史談話筆記   (財団法人竜門社所蔵)
                     昭和一一年一二月二日 於全生病院
 私が養育院に看護婦として入つたのは明治三十三年でした。当時に於ても行路病者として収容される者の中に、ぼつぼつ癩患者が出る様になり、私は光田先生の御指導の下に、此等患者のお世話を引受けました。
明治三十五年頃から明治四十二年頃迄の光田先生の御努力は実に涙ぐましいものでした。私は毎晩徹夜で書き物をして居られる先生の傍で蚊を追つて差上げました。ほんの下働きだつた私には詳しい事はわかりませんでしたが、今でも目に浮ぶのは、かうして調べられたものやぶよぶよと腐れた手足の標本などをお持ちになつて、光田先生と渋沢さんと安達さんの三人が、三台の腕車を連ねて議事堂へ度々行かれた時のお姿です。そこで渋沢さんが主として大隈伯や山根・島田両代議士等を動かして、遂に明治四十年の法律が出来た様に聞いて居ます。
そして四十二年には全国に五つの癩療養所が出来ましたが、此の事は一重に光田先生・渋沢さん・安達さんの三人のお力だと今でも信じて居ります。
 - 第24巻 p.510 -ページ画像 
○中略
渋沢さんのおなくなりになる時の御病気の容態や、薨去の後に出た御伝記の新聞記事は、切り抜いて今でも大事に持つて居ります。……
私も今年で六十三になりました。満三十六年間癩患者のお世話をして参りましたが、もう近い中に辞表を出して岡山 ○国立癩病院愛生園あり、光田氏其院長たり。の子供の許で余生を送らうと考へて居ります。



〔参考〕東京市養育院月報 第五九号・第一三―一四頁 明治三九年一月 ○癩病予病法案(DK240058k-0018)
第24巻 p.510 ページ画像

東京市養育院月報  第五九号・第一三―一四頁 明治三九年一月
○癩病予病法案 癩病予防法制定の噂は予て聞く所なりしが、数年来内務省に於ては同病に対する予防法に就き種々の調査を重ね、或は本期議会に同法案の提出を見るに至るべき運となり居れる由にて、其内容は世界の癩病国として名ある布哇の予防規則に則とれる所多しと云ふ、而して布哇の同規則は主として患者を離隔するにありて、一朝同病患者の発生を見たる時は地方官は直ちに其患者を一定の離隔所に送致し、患者の状態如何によりては隔離所に於て相当の業に就かしむることを得さしめ、隔離所には同病患者にあらざる者は如何なる事情あるにも関せす訪問し若くは留まることを許さず、若し訪問を要する場合は、衛生局長又は同局長が附与せる特別の権能を有する官吏の許可証を得たる上ならでは近接することを許さず、万一許可証を有せずして隔離所に入りたる者、及び患者と知りて自己の家屋に入れたる者は罰金に処し、罰金を支払ひ得ざる者に対しては相当の禁獄に処し、指定以外の船車等に患者を搭載したる者も亦た相当の刑に処する等の定めあり、而して我国現在の患者総数は従来隠蔽等の弊ある為め正確なる統計を得難きも、知り得たる所に於ては男患者約二万、女患者約一万、合計三万余人なりと云ふ。



〔参考〕東京市養育院月報 第七四号・第八―九頁 明治四〇年四月 ○癩予防法の公布(DK240058k-0019)
第24巻 p.510-511 ページ画像

東京市養育院月報  第七四号・第八―九頁 明治四〇年四月
○癩予防法の公布 這般第二十三帝国議会の協賛を経たる癩予防に関する法案は、愈々法律第十一号を以て公布せられたり、其概要左の如し
 一 医師癩病患者を診断したる時は、三日以内に行政官庁に届出づべし(違反したる者は五十円以下の罰金)
 一 癩患者ある家又は癩病毒に汚染したる家に於ては、医師又は当該吏員の指示に従ひ、消毒其他予防方法を行ふべし(違反したる者は二十円以下の罰金)
 一 癩患者にして療養の途を有せず且つ救護者なき者は、行政官庁に於て之れを療養所に入れ救護す
 一 主務大臣は二以上の道府県を指定し、其道府県内の救護を要する患者を収容する為め療養所の設置を命ずることを得(但し私立の療養所を以て之れに代用せしむることを得)
 一 被救護者又は其扶養義務者より弁償を得ざる救護費、検診に関する諸費及び其他癩予防上の施設に関する費用は、道府県の負担とす(但し沖縄県及び東京府下伊豆七島・小笠原島の分は国庫の負担)
 - 第24巻 p.511 -ページ画像 
 一 前記道府県の支出に対し、国庫は其六分の一乃至二分の一の補助をなす
 一(附則) 本法施行の期日は勅令を以て之れを定む
○癩患者療養所と患者数 前項の癩予防法施行の暁は、全国に四箇所の療養所を設立する筈なりとか、又た最近内務省の調査に依れば、神社・仏閣、其他路傍等に徘徊漂泊する患者の数は三万七千四百三十一人、一定の居所を有するも療養の資力なしと認めらるる者六千八百七十七人ありと云ふ



〔参考〕東京市養育院月報 第七六号・第一四頁 明治四〇年六月 ○癩患者療養所の設置(DK240058k-0020)
第24巻 p.511 ページ画像

東京市養育院月報  第七六号・第一四頁 明治四〇年六月
○癩患者療養所の設置 曩に法律第十一号を以て公布せられたる癩予防法実施に伴ふ療養所設置の場所に付ては夫々詮議中なりし所、此程愈々東京・青森・大阪・香川・熊本の一府四県に設立することゝなり各療養所の配属地方も左の如く決定し、本年十月一日より施行せらるべしと云ふ

 療養所設立地       療養所設置区域
 東京  東京・神奈川・新潟・埼玉・群馬・千葉・茨城・栃木・愛知・静岡・山梨・長野
 青森  北海道・宮城・岩手・青森・福島・山形・秋田
 大阪  京都・大阪・兵庫・奈良・三重・岐阜・滋賀・福井・石川・富山・島取・和歌山
 香川  島根・岡山・広島・山口・徳島・香川・愛媛・高知
 熊本  長崎・福岡・大分・佐賀・熊本・宮崎・鹿児島

因に其設備は一ケ所四百余人を容るゝに足るの規模にして、職員は院長一人・医師一人・薬剤師一人・書記若干名を置くことゝし、其建築費は一ケ所平均二万八千余円、初年度の調弁費四千余円、合計三万二千余円にして、内二分の一は国庫より補助し、年々の維持費四千余円も幾分は国庫より補助する筈なりと云ふ



〔参考〕東京市養育院月報 第八〇号・第一二頁 明治四〇年一〇月 ○癩患者療養所経費分担協議会(DK240058k-0021)
第24巻 p.511 ページ画像

東京市養育院月報  第八〇号・第一二頁 明治四〇年一〇月
○癩患者療養所経費分担協議会 癩予防法に依り来四十一年四月一日より開始すべき癩患者療養所設立に就き、其経費分担額を定むる為め此程東京府会議事堂に於て、第一区域に属する東京・神奈川・新潟・埼玉・群馬・千葉・茨城・栃木・愛知・静岡・山梨・長野の一府十一県の事務官相会し協議会を開きたるが、其経費予算は左の如くにして一日の平均施療患者を三百人と見積り、各府県の分担割合は、其人口を標準として之れを定むることに決したりと云ふ。
  予算総額 金十九万四千六百六十五円十四銭三厘


図表を画像で表示予算総額 金十九万四千六百六十五円十四銭三厘

    経常部 療養所費金  五万五千二百一円五十九銭三厘 内訳    臨時部 建築費金   十二万二千二百七十三円八十銭        初度調弁費金 一万七千百八十九円七十五銭 



尚ほ設立地は東京府下何づれの場所を選定すべきか未定なれど、敷地は約一万坪の予定なりと。



〔参考〕日本社会事業名鑑 中央慈善協会編 第二輯・第一四〇頁 大正九年五月刊(DK240058k-0022)
第24巻 p.511-512 ページ画像

日本社会事業名鑑 中央慈善協会編  第二輯・第一四〇頁 大正九年五月刊
 - 第24巻 p.512 -ページ画像 
 ○関東方面 東京府之部 施療救療並妊産婦保護事業(イ)施薬救療之部
    第一区府県立全生病院  北多摩郡村山村南秋津開発(代表者 東京府知事)
 事業 施療(癩病)
    明治四十年法律第十一号に依りて癩患者を療養す
 組織 聯合府県立、内務大臣の指定したる府県〔東京(伊豆七島・小笠原島を除く)神奈川・新潟・埼玉・群馬・千葉・茨城・栃木・愛知・静岡・山梨・長野の一府十一県〕を聯合区域となし、経費は法律及勅令の定むる所に依りて聯合府県之を負担し、国庫は其府県の支出精算額に対して補助をなす。職員として医長兼院長一名・医員三名・調剤員二名・書記五名・機関手一名・看護人十六名を置く。
 沿革 明治四十二年九月、前記聯合府県に於て設立す。是より先明治四十年十月、東京府は内務大臣指定の療養所所在地たるを以て、府知事に於て創立費予算を編成し、聯合府県の各代表者を会して費用の支出分担の方法等を議定したるも、予防法実施期日改正の為之が実行を見るに至らず、四十一年三月更に之を議定し、翌四十二年四月現在の地に建築工事を起し、同年九月諸般の準備略成るに至りて之を開院せり。
 現況 大正七年十二月末日現在収容患者四六一名、前記一府十一県下の癩患者にして療養の途を有せず、且つ救護者なき者を収容して治療を加へつゝあり。右に該当する患者ある時は各府県より同院に送致し、直接個人の申出を受理することなし ○下略



〔参考〕法令全書 明治四〇年 内閣印刷局編 刊 【朕帝国議会ノ協賛ヲ…】(DK240058k-0023)
第24巻 p.512-513 ページ画像

法令全書 明治四〇年  内閣印刷局編 刊
    ○
朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル癩予防ニ関スル法律ヲ裁可シ、玆ニ之ヲ公布セシム
 御名 御璽
  明治四十年三月十八日
             内閣総理大臣 侯爵 西園寺公望
             内務大臣      原敬
法律第十一号(官報三月十九日)
第一条 医師、癩患者ヲ診断シタルトキハ患者及家人ニ消毒其ノ他予防方法ヲ指示シ、且三日以内ニ行政官庁ニ届出ヘシ、其ノ転帰ノ場合及死体ヲ検案シタルトキ亦同シ
第二条 癩患者アル家又ハ癩病毒ニ汚染シタル家ニ於テハ、医師又ハ当該吏員ノ指示ニ従ヒ消毒其ノ他予防方法ヲ行フヘシ
第三条 癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ、行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ、但シ適当ト認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ
 必要ノ場合ニ於テハ、行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者ニ対シテモ一時相当ノ救護ヲ為スヘシ
 前二項ノ場合ニ於テ行政官庁ハ必要ト認ムルトキハ、市町村長(市制・町村制ヲ施行セサル地ニ在リテハ市町村長ニ準スヘキ者)ヲシ
 - 第24巻 p.513 -ページ画像 
テ癩患者及其ノ同伴者又ハ同居者ヲ一時救護セシムルコトヲ得
第四条 主務大臣ハ二以上ノ道府県ヲ指定シ、其ノ道府県内ニ於ケル前条ノ患者ヲ収容スル為必要ナル療養所ノ設置ヲ命スルコトヲ得
 前項療養所ノ設置及管理ニ関シ必要ナル事項ハ主務大臣之ヲ定ム
 主務大臣ハ私立ノ療養所ヲ以テ第一項ノ療養所ニ代用セシムルコトヲ得
第五条 救護ニ要スル費用ハ被救護者ノ負担トシ、被救護者ヨリ弁償ヲ得サルトキハ、其ノ扶養義務者ノ負担トス
 第三条ノ場合ニ於テ之カ為要スル費用ノ支弁方法及其ノ追徴方法ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第六条 扶養義務者ニ対スル患者引取ノ命令及費用弁償ノ請求ハ、扶養義務者中ノ何人ニ対シテモ之ヲ為スコトヲ得、但シ費用ノ弁償ヲ為シタル者ハ、民法第九百五十五条及第九百五十六条ニ依リ扶養ノ義務ヲ履行スヘキ者ニ対シ求償ヲ為スコトヲ妨ケス
第七条 左ノ諸費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス、但シ沖縄及東京府下伊豆七島・小笠原島ニ於テハ国庫ノ負担トス
 一 被救護者又ハ其ノ扶養義務者ヨリ弁償ヲ得サル救護費
 二 検診ニ関スル諸費
 三 其ノ他道府県ニ於テ癩予防上施設スル事項ニ関スル諸費
 第四条第一項ノ場合ニ於テ其ノ分担方法ハ関係地方長官ノ協議ニ依リ之ヲ定ム、若シ協議調ハサルトキハ主務大臣ノ定ムル所ニ依ル
 第四条第三項ノ場合ニ於テ、関係道府県ハ私立ノ療養所ニ対シ必要ナル補助ヲ為スヘシ、此ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分担方法ハ前項ノ例ニ依ル
第八条 国庫ハ、前条道府県ノ支出ニ対シ勅令ノ定ムル所ニ従ヒ、六分ノ一乃至二分ノ一ヲ補助スルモノトス
第九条 行政官庁ニ於テ必要ト認ムルトキハ、其ノ指定シタル医師ヲシテ癩又ハ其ノ疑アル患者ノ検診ヲ行ハシムルコトヲ得
 癩ト診断セラレタル者又ハ其ノ扶養義務者ハ、行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ヲ求ムルコトヲ得
 行政官庁ノ指定シタル医師ノ診断ニ不服アル患者又ハ其ノ扶養義務者ハ、命令ノ定ムル所ニ従ヒ更ニ検診ヲ求ムルコトヲ得
第十条 医師第一条ノ届出ヲ為サス、又ハ虚偽ノ届出ヲ為シタル者ハ五十円以下ノ罰金ニ処ス
第十一条 第二条ニ違反シタル者ハ二十円以下ノ罰金ニ処ス
第十二条 行旅死亡人ノ取扱ヲ受クル者ヲ除クノ外、行政官庁ニ於テ救護中死亡シタル癩患者ノ死体又ハ遺留物件ノ取扱ニ関スル規定ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
      附則
 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム



〔参考〕法令全書 明治四〇年 内閣印刷局編 刊 【朕明治四十年法律第十…】(DK240058k-0024)
第24巻 p.513-514 ページ画像

法令全書 明治四〇年  内閣印刷局編 刊
    ○
朕明治四十年法律第十一号施行期日ノ件ヲ裁可シ、玆ニ之ヲ公布セシ
 - 第24巻 p.514 -ページ画像 

 御名 御璽
  明治四十年八月三日
             内閣総理大臣 侯爵 西園寺公望
             内務大臣      原敬
勅令第二百八十四号(官報八月五日)
明治四十年法律第十一号ハ明治四十一年四月一日ヨリ之ヲ施行ス



〔参考〕法令全書 明治四〇年 内閣印刷局編 刊 【朕明治四十年勅令第二…】(DK240058k-0025)
第24巻 p.514 ページ画像

法令全書 明治四〇年  内閣印刷局編 刊
    ○
朕明治四十年勅令第二百八十四号中改正ノ件ヲ裁可シ、玆ニ之ヲ公布セシム
 御名 御璽
  明治四十年十二月二十五日
             内閣総理大臣 侯爵 西園寺公望
             内務大臣      原敬
勅令第三百五十一号(官報十二月二十六日)
明治四十年勅令第二百八十四号中「明治四十一年」ヲ「明治四十二年」ニ改ム
   ○明治四十年法律第十一号ニヨル癩予防法ハ後ニ左ノ改正ヲ経タリ。
    大正五年三月十日 法律第二十号
    昭和四年三月二十七日 法律第十号
    昭和六年四月一日 法律第五十八号
   ○昭和六年法律第五十八号ニヨツテ、明治四十年法律第十一号ハ第二条以下第十二条迄ニ大改正ヲ加ヘラレ、正式ニ「癩予防法」ノ題名ヲ附セラレタリ。
   ○昭和六年法律第五十八号ハ、昭和六年勅令第百八十号ニヨツテ其ノ施行期日ヲ昭和七年八月一日ト定メラレタリ。



〔参考〕第一区府県立全生病院年報 第一―二頁 昭和一一年七月刊 第一 沿革(DK240058k-0026)
第24巻 p.514-515 ページ画像

第一区府県立全生病院年報  第一―二頁 昭和一一年七月刊
    第一 沿革
 開院当初
一本院ハ、明治四十年法律第十一号ニ基キ同年内務省令第二十号ヲ以テ東京府・神奈川県・新潟県・埼玉県・群馬県・千葉県・茨城県・栃木県・愛知県・静岡県・山梨県・長野県ノ一府十一県ヲ聯合区域ト定メ創設シタルモノニシテ、時ノ東京府知事阿部浩ハ療養所所在地ノ故ヲ以テ、本院管理知事トシテ明治四十年十月創設費予算ヲ編製シ、聯合府県ノ各代表者ト会合シテ費用ノ支出分担方法ヲ議定シタルモ、予防法実施期日改正ノ結果遂ニ実行ヲ見ル能ハサリシヲ以テ、明治四十一年三月更ニ之ヲ議定スルニ至レリ
 明治四十二年
一越エテ明治四十二年二月ニ至リ、東京市ヲ距ル西方八里十五町、所沢町ヲ離ルヽ東南方約一里、田無街道ニ沿ヘル東京府北多摩郡東村山村大字南秋津字開発地内ナル林野三万七百八坪ヲ敷地ニ選定シ、
 - 第24巻 p.515 -ページ画像 
同年四月工ヲ起シ、建築ニ着手セリ、同月東京府属大野徳太郎ハ本院長事務取扱ヲ命セラレ、次テ各医員・調剤員・書記等ノ任命アリ同年九月光田健輔ハ本院医長ヲ命セラレタリ
一同年九月設備セシ建物左ノ如シ
○中略
一明治四十二年九月二十八日諸般ノ準備略ホ整理ヲ告ケタルヲ以テ開院式ヲ挙行セリ、然レトモ其ノ設備未タ全タカラサルヲ以テ、一時東京府荏原郡目黒村私立慰癈園ノ一部ヲ借リテ仮収容所ニ充テ、其ノ間ノ事務ハ東京府庁内ニ於テ処弁セラレタリ、越エテ十月十八日ニ至リ始メテ本院内ニ於テ事務ヲ開始シ、収容患者ヲ移スト同時ニ聯合各府県ノ送致ニ係ル患者ヲ順次収容スルニ至レリ