デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
3節 保健団体及ビ医療施設
5款 熊本回春病院
■綱文

第24巻 p.516-523(DK240059k) ページ画像

明治38年11月6日(1905年)

イギリス人リデル嬢ノ経営セル熊本回春病院後援ノタメ、是日栄一、大隈重信ト共ニ関係者ヲ坂本町銀行倶楽部ニ招ク。大隈重信病気ノタメ来会ナキヲ以テ、栄一代ツテ演説ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三八年(DK240059k-0001)
第24巻 p.516 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三八年       (渋沢子爵家所蔵)
十一月十一日 晴 風寒シ
○上略 九時養育院ニ抵ル、十時頃英人リデル嬢・頭本元貞・金沢久・山根正次諸来会《(氏脱)》ス、共ニ各室内ヲ一巡ス、十二時頃一覧畢リテ一同ニ別レ ○下略


雨夜譚会談話筆記 下・第四五二―四五六頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK240059k-0002)
第24巻 p.516-517 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第四五二―四五六頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
                     (渋沢子爵家所蔵)
  第十六回 昭和二年十二月六日 於飛鳥山邸
○上略
一、リデル嬢の回春病院に寄附金拠集方を尽力せられしに就て
先生「リデル嬢の回春病院の事はもつと前に因縁してゐる。最初リデル嬢が来た時、よく斯んな事が出来る、成程西洋人は感心であると思つた。そこで熊本回春病院を建てる時、僅ではあるが一万五・六千円の金を寄附した。私が癩病々院の事業に関係する様になつたのは、東京市の養育院にぽつりぽつり癩病患者が這入つて来た頃からである。其頃は癩病が伝染するか何うかと云ふ事は、はつきりして居らず、一般には伝染しないものと思はれて居つた。私は幼い頃から癩病患者に接触した。血洗島の私の隣に患者の家があつた。此家では私より一つ下の息子があり、其母が癩病で私の母は大変可愛想に思つて色々世話をしてやられたので、隣からも親しく訪ねて来てボタ餅を作つたと云つては、持つて来たりしました。私は厭だつたが、私のお母さんは気がきつい人で、平気でそれを食つたりなさつた。後に息子の方は癩病の為め死んだ。そんな事も私の幼い頃にはあつたが、養育院の方では何でも明治三十年頃、廿五・六人の癩病患者が出来て、別に一室を設けた事があつた。其時光田健輔氏が癩病は伝染すると云ひ出した。何でも酒屋の小僧が来たが、それが癩病だと云ふ。其の小僧は十八の時から廿一・二歳まで酒屋に居つたが、其処の主人が癩病だつたのが伝染して癩病患者になつたのだとの事だつた。其処で私等は別に癩病収容所を東京に建て度いと思ひ此事を市会に提出したら大変反対された。其時窪田などは「東京に収容所を建てゝ全国の癩病患者を東京に集める気か」などゝ云つて反対した。リデル嬢が来たのは其頃であつた。私等せめて浮浪癩病
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患者丈けでも収容しようと思つた、で今日では全国に東村山の外大阪・四国それから九州は熊本、奥羽では青森だつたと思ふ、此五ケ所に病院を建てた。此五ケ所では五・六千人は収容が出来る。其時分日本に於ける患者の数を徴兵検査に拠つて調べたら三万五千人あるとの事であつた。尚此外に自分の家庭で自己治療して居る者があるが、それは判らなかつた。当時此自己治療患者を調べて、之れを離隔する道はないかと考へたが、遂に実行出来なかつた。私は現在でも其方法を考へてゐるが、其実行は仲々困難である。現在東村山丈けで二千人近く収容して居る。其他に全国で三百人そこそこだから、全国で収容してゐるのは二・三千人だと思ふ。斯んな訳でリデル嬢等の力で乞食的癩病患者は収容出来たのだが、今申す通り、自己治療患者並に其癩孫と云つてはおかしいが、其子孫を一ケ所に離隔して置く事は最も必要である。草津温泉は此病に善いそうで、現在では二・三百人行つて居るそうである。兎に角一つの場所より外に行けないと云ふ様にして、隔離法を完全にして置く事が必要だが未だ其処迄行かないのは私等の丹精の悪いのだ」
○下略
   ○此回ノ出席者ハ、栄一・渋沢篤二・渋沢敬三・増田明六・小畑久五郎・高田利吉・岡田純夫・泉二郎。


竜門雑誌 第二一〇号・第三一―三三頁 明治三八年一一月 ○リッデル嬢経営癩病院(DK240059k-0003)
第24巻 p.517-519 ページ画像

竜門雑誌  第二一〇号・第三一―三三頁 明治三八年一一月
○リッデル嬢経営癩病院 英人リッデル嬢久しく熊本市に在りて、癩病患者の為めに病院を設立し、其救助に尽す所あり、其人其事業夙に朝野少数者の間に知らるゝも、未だ広く同胞の賛成を受くるに至らず偶々嬢休養の為め帰国せんとする途次、京都にあるを機会とし、青淵先生には大隈伯と共に嬢の事業を助くるの主旨を以て、先づ左の如き意味の招待状を発して、此問題に関係ある人々を銀行倶楽部に招かれたり
 英人リデル嬢、先に熊本に癩病患者の施療院を設け、多年経営せられ候処、逐々収容者の増加に伴ひ、施設拡張の必要も之あり候に付幾分小生等に援助を求め度旨、来談之あり候、然る処該患者の憐むべきものなるは、申迄も之なく候へども、尚其種類に依りては、他への伝染力激甚にして、一般社会の為めに、苟且に附す可からざるものなる由、近来専門大家の唱道する所に之あり、況や外国人に於て、此の如く多年篤志の経営を見候事に候へば、小生等に於ても、向後応分の心配を加へ度存じ候、就ては本件に付、篤と各位の御高見相伺、御援助に依り、一般社会の注意をも喚起致し度云々
当日の来会者はリッデル嬢、並に嬢と最初より嬢の事業を賛助せる東京高等師範学校の金沢教授を初めとし、窪田衛生局長・山根代議士、東京養育院の安達幹事・光田医学士、其他各新聞社の代表者としては島田三郎・頭本元貞・横井時雄・田川大吉郎其他諸氏、総数二十五・六人、午餐の餐応ありて、青淵先生より大隈伯病気の為め来会なきを以て自身代り此集会を催ほすに至れる理由、及びリッデル嬢の篤志と其成功に関し、大隈伯より伝へ聞く処ありて、伯と所感を共にし、此
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会合を催ほすに至れる所以を述べられ、金沢教授はリッデル嬢に代つて熊本に於ける癩病院即ち回春病院の来歴及現状を演説し、次で光田医学士は其専攻に係る癩病の歴史、各国に於ける過去現在の状況、及癩病の遺伝質なるより寧ろ伝染質にして、我邦中三万有余の患者が自由に放任せらるゝは、益々国人中に伝染するの危険あること、及近世ノルウエイ・露国・布哇等に於て隔離主義を取りて、或は病院を設け或は癩病者永住地を特定したるの結果、年と共に著るしく癩病患者の数を減ずるに至れるを、数字を以て証明し、山根代議士は隔離法の行はれざる為め危険多きも、殊に貧困なる癩病患者の或は路傍に物を乞ひ、或は木賃宿に寄泊する等より、伝染すべき恐れの最も大なるをいひ、窪田局長は癩病予防法に付き、政府に於ても目下調査中に属し、必ず時機を見て適当の法案を提出せんとするを告げ、終に島田三郎氏は大隈伯・渋沢男に於て各新聞社・実業家及び医学界を代表すべき若干名の委員を選み、更に其委員の集会を催ほしてリッデル嬢の事業に対し募金を為し賛成を表すべき方法を講究すべきを提議し、満場一致を以て之に同意し、渋沢男の謝辞を以て散会せり、時午後三時半なりき、金沢教授の述べられたる回春病院の来歴及現状の大要は左の如し
 リッデル嬢は英京倫敦の人にして、今より十四年前宣教の為めに熊本市に来りしが、一日加藤清正を祭れる本妙寺に至り日本全国より来集せる癩病患者の惨状を見て、深く之を救助すべき病院の必要を感じ、直ちに本国の友人等に書翰を以て其計画を告て送金を乞ふに着手し、一年有余の後を以て癩病院設立に着手、明治二十八年十一月十二日を以て開院式を挙げたり、地所は熊本市近郊立田山の麓にありて四千坪を有し、建坪約三百坪、病室十五ありて四十余人を納るべく、其他隔離室・浴室数箇・薬房・施薬所・主医舎宅等あり、之を名づけて回春病院と云ひ、東京高等師範学校金沢教授其他邦人二・三氏の組織せる財団法人の所有に属し、主医三宅俊輔氏、他に石黒男・土肥・岡田両博士之が顧問たり、赤十字社岩井貞三氏亦初より大に賛助の功あり、此外本妙寺前に施療所ありて一箇年中に施療せる新患者約五・六百人あり
 入院患者 目下の入院患者は四十二人にして、此以上一人も納るゝの余地なし、入院患者は熊本県のもの少なく多くは上州又は四国辺より来集せるものにして、熊本県の患者は去りて他県に飄流し、癩病者の常として其恥辱を親戚に蒙らしむる勿らん為め郷里を去ること多しと云ふ、亦た悲惨の事なり、入院患者は多くは中以上の社会に属し軍人・学者等あり、一青年の如きは高等学校を過ぎ大学に入らんとするに際し、身癩病に罹れるを発見し直に帰郷し一人の妹に其事を告げ、家産を二分し一分を妹に与へ、他の一分を売却して以て各地に飄流する中其財を尽し去りて乞食の状態に陥り呻吟する中熊本に救療所あるを聞くも其名を聞くを得ず、東京より徒歩乞食して熊本に到り、終に回春病院に救養せらるゝに至れりと、又一人は唖者にして京都盲唖院の画工科を卒業し、更に師に就き四年の研究を積み、長崎に於ける盲唖院の教師たりしものあり、貧民患者にしては甚だしく堕落したるものは入院を好まず、却て路傍に乞食して
 - 第24巻 p.519 -ページ画像 
時に飲酒の快を貪ぼるを好めり
 院内の気風 は家庭的にして、成るべく慈善的のものなるを知らしめず、リッデル嬢の如き常に患者と交はり時に五目並べの遊技を試みることあり、文字あるものは文字なきものに教へ、院内の事務亦た患者中に之を手伝ふものあり、因て主医の外一人の助手・事務員一人・看護婦二人・賄方一人・小使一人を以て事足れり
 費用 は一年約五千円にして多くは英国篤志家の寄附に因るも、一昨年東京に慈善演劇を開きて助力されたることあり云々
我邦は癩病患者の数に於て印度に次ぎての多数を有し、人口の割合を以てすれば世界第一の癩病国なり、此れ実に国家の恥辱なり、而して此等患者を収容すべき病院の如き僅かに指を屈するに過ぎずして、其多くは主医を置かずと云ふは最も歎息すべし、回春病院の如きは本邦にありて最も完全せる癩病院と謂つべし


時事新報 第七九一八号 明治三八年一一月六日 ○リツデル嬢の事業(DK240059k-0004)
第24巻 p.519 ページ画像

時事新報  第七九一八号 明治三八年一一月六日
○リツデル嬢の事業  熊本に癩病患者の施療院を設け多年経営せる英国人リツデル嬢は、施療院収容の患者年を逐うて増加せるに随ひその施設拡張の必要を感じ、今回上京、大隈伯・渋沢男の援助を求めたる由にて、両氏は広く世間篤志者の同情に依て斯の篤志なる同盟国一婦人の大業を成就せしめんことを切望する由


時事新報 第七九五三号 明治三八年一二月一一日 ○癩病予防調査委員会(DK240059k-0005)
第24巻 p.519 ページ画像

時事新報  第七九五三号 明治三八年一二月一一日
○癩病予防調査委員会
熊本回春病院の経営者たるリツデル嬢が先頃上京して篤志家の間に援助を求めたる結果、癩病に関する調査委員を設くるに至りたるが、同委員の諸氏は九日午前十時より早稲田なる大隈伯邸に集会せり、参会者は大隈伯を始め渋沢男・岡部子・添田寿一・島田三郎・山根正次・窪田静太郎・石河幹明・頭本元貞諸氏にして、癩病予防の方法及び熊本回春病院補助の件に就て協議の結果、左の諸項を議決して散会せり
一 第二十二議会に政府をして癩病予防法案を提出せしむること、但し各地方団体をして予防の手段を採らしむる方法に依ること
一 第二十二議会に癩病研究費を国庫より支出せしむる策を政府をして提出せしむること、但し右は彼の北里博士の伝染病研究費として三万円支出したるに做ひ、重に病理及治療法の研究を為さしむること
一 此際一般民衆をして癩病の恐るべき性質のものたるを知らしめ、且つリデル嬢の経営に係る熊本回春病院に補助を与ふるの目的を以て一大集会を開くこと
但し当日は内閣諸員・貴衆両院議員の有力者、及び医学衛生に関する朝野人士を網羅すること


中央社会事業協会三十年史 中央社会事業協会編 第二八―三〇頁 昭和一〇年一〇月刊(DK240059k-0006)
第24巻 p.519-521 ページ画像

中央社会事業協会三十年史 中央社会事業協会編
                        第二八―三〇頁 昭和一〇年一〇月刊
 ○第一部
    第二章 協会創業時代の活動
 - 第24巻 p.520 -ページ画像 
○上略
 協会発会式前に於て同会の同人等が尽力した事業の他の一つに癩病予防に関する施設を挙げねばならぬ。癩病は我国に於ては寧ろ眼慣れた病気であるので、その悲惨な状況は知りつつも、其の儘に放置して何等手を附けることをなさず、患者も亦業病と諦めて摂養の方面には毫も意を用ゐす、貧困患者の如きは神社仏閣に群をなし、醜態を暴らして憐みを乞ふを常とした。処が未だ曾て此の種の事を目にしたことのない外国人は、一は惻隠の情に動かされ、一は国恥を我が為に掩はんとし、目黒の慰廃園の如き邦人経営の療養保護施設と力を協せて、幾多の外人が神山復生院・回春病院・待労院等の事業を経営し、病者の其の恵みに浴するものが頗る多かつたが、一方では保護救療の徹底伝染予防の必要と他面に於ては国家の体面上、社会的・衛生的の立場より何んとか処置をしなければならぬことに心付いた。夫の一代の政治家且評論家として其の名の高かつた島田三郎氏の如きは夙に之を高呼提唱された一人であつた。渋沢子爵の社会事業施設に於ける体験は殆と其の一生を傾倒された東京市養育院の事業より得られたるものが多いのであるが、行旅病人として癩患者が院の収容を受くるものが多くなるのを見て、平素尠らず心を悩まれて居つた。偶々明治三十七・八年の交英国人ハンナ・リデル女史の経営に係る熊本回春病院が経費に不足を生じ、女史の本国よりの送金のみでは之が支弁に苦しむに至つたので、先づ財界の巨擘であり、社会事業にも多大の関心を有する渋沢子爵に援助を求め、島田氏にも衷情を披瀝する処があつた。窪田氏は氏の著「我が国に於ける社会事業統制機関」中に此の間の状況を細叙し、左の如くいわれて居る。
  当時私が衛生局長であつたので、渋沢子爵の口添に依りリデル女史は私に其の窮状を訴へて来たのであつた。斯くて渋沢・島田等の諸氏が発起してリデル女史の為に義捐金を募ることゝなり、種々の催しを計劃した処、幸に相当の効果があつたので女史は満足して熊本へ帰り、回春病院の事業も中廃すること無きを得たのである。併しリデル女史の事あるにつけても癩の対策は大局より之を纏画措置するの必要を痛感し、何等かの制度が実現するに非れば、差当り養育院に於ても困難を感ずることが尠少でないといふ処から、渋沢子爵は私に対し速かに癩患克伏の大計を確立する急務を勧説されると同時に、子爵自身主唱者となつて朝野の有志を提携し癩に対する運動を開始されたので、同人等は歩調を一つにして之に声援したる結果、先つ以て療養の途を有せず且何等救護者の無い癩患者を収容救護し、併せて伝染の虞れなからしめる為に、全国に数ケ所の療養所を設け、府県共同の費用を以て之を維持するといふ趣旨の法律を制定廃布《(発)》するに至つた。時は実に明治四十年三月のことであつた。
 とあるは、実に癩予防法制定当時の事情を詳にするものである。本法に依つて施設された第一の療養所は東京府外附近数県の聯合立に成る東京府下北多摩郡東村山村に於ける第一区府県立全生病院である。癩予防法の制定は、我国に於ける癩患者の処置に対して国家が手を着けた始めである。それは協会々長たる渋沢子爵が協会の創立前の主張
 - 第24巻 p.521 -ページ画像 
と我等同人との協同工作であつたが、協会発芽時代に於ける数へ挙ぐべき功績の一つとして長へに伝へらるべき筈のものである。治癩の対策が確立したのは爾来何十年を経ての事ではあるが、其の萌芽が玆に在つたことは返す返すも忘却してならぬことである。


愛生 第七巻・第四号 昭和一二年四月一日 救癩事業に点火したリデル嬢(長島愛生園光田健輔)(DK240059k-0007)
第24巻 p.521-522 ページ画像

愛生  第七巻・第四号 昭和一二年四月一日
    救癩事業に点火したリデル嬢 (長島愛生園 光田健輔)
○上略
      青淵子爵と大隈伯爵と清浦伯爵
 渋沢子爵の癩予防救済に向て努力を惜まれなかつた事は、再三此の紙上にも山桜紙上にも書いた。子爵の終生関係せられた養育院の開院以来、癩は行旅病者となりて数人は常に養育院に収容せられ来たのであるが、之れが伝染である事を明かに子爵に説明したのは明治卅五年の或る日の事である。渋沢院長が養育院の癩病室を視察せられたときに、片寄甚之助当年十八歳の磐城平の産の結節癩の身の上話を聞かれた。同人は酒店に十二歳で奉公し、樽拾ひをやつて居たが其酒屋の主人が癩であつた、無論小僧であるから最後のしまい風呂に入浴せねばならなかつた。十六歳になつて上股下股に赤いふき出物が出たり、手足がしびれたりする様になり、其酒店から出されたときは顔は主人の様に膨れ上がり癩としか思はれぬ様になつた。それから流れ流れて東京にたどり着いた。此話を院長の耳に入れて本人に逢れて以来、癩の伝染に就いて疑ひを挿まれなかつた。それから癩に対する救済に尽力されたのであるが、或る時に子爵の話された事は、幼時子爵の同年の友が癩になつて、誰も遊ぶものがなく寂しく独りぽつちで家にばかり閉ぢ籠つて居つた。処が子爵の母堂は時々菓子や牡丹餅を子爵に持たせて、其隣の病者の友と遊んでやる様に勧められた。此のやさしい母堂の御気持は、後年二千有余の養育院入院者の父母として六十年に亘りて奉仕せられた生涯と、又晩年癩予防協会を発起し、老躯を物ともせず、安達内相を再三訪問せられ遂に協会の成立を見、第一代の会長となられ、協会の礎石を築かれた事等は、幼少の時に於ける母堂の教訓の深厚なりしに由来するものではないかと推察するものである。
 明治四十三年であつたと記憶する。リデル嬢が英国に帰省せられ再び我国に来て見れば回春病院留守中に大分財政上困難になつて居たので、第三度目に渋沢翁を訪問せられて募金を依頼せられたのである。ところが渋沢子爵の申さるゝ事は、先年二度財界の有力者を頼んで回春病院を後援したのである、目下自分も養育院事業の為に寄附を募集中で、困難して御不自由は御察するが再三再四同じ顔振れを招いて寄附せしむる事は私も困る、我が国には仏の顔も三度と云ふ事がある、実は先年政府に建議して癩予防法が発布せられ熊本にも九州療養所が出来た次第である。若し今後に於て御困難の事があるならば、回春病院の患者を九州療養所に収容する様に私から政府に運動してあげませうかと云はれると、流石の女丈夫であるリデル嬢も貴下は無情の事を云はれる、私の病院の入院者は九州療養所の様に浮浪者ではありません、大学専門学校から出た身元の確かな人達であります、私は此患者
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達を見捨てるには忍びませんと泣かれたので、子爵は困られた様である。其後に私が御目にかゝる度毎にリデル嬢の事が気にかゝると見え聞かれた。殊に四十四年頃であつた、生江さんがリデル嬢を訪問せられ腕に神経痛があると聞き、癩が伝染したのではないかと、大阪朝日新聞記者に話された所、リデル嬢が癩にかかつたと早合点して報告せられ、満天下を驚かせたが、此際に渋沢子爵は最も驚かれて、先年ああ云ふてからリデル嬢が見えない、もし罹患せられた事が事実とすれば打ち捨てゝは置かれぬ、何とか最善方法を講ぜねばならぬ、実否を知る方法がなからうかと私を呼んで御相談があつたので、回春病院の三宅院長に聞いてやつたら、癩に罹つたと誤解せられたのは腕の「リウマチス」の為めであるから御心配ならぬ様にとの報告を得たので子爵も安心せられたのである。子爵がリデル嬢に云はれた事は、子爵は常に社会事業は公共団体たる市とか府とかの経営すべきものであつて個人が永久に亘つて世話するべきものではなからうと云ふ信念から出発したもので、決して無情でも冷酷でもなかつたのであるけれども、リデル嬢の身になつて見れば、身命を賭して万里の波濤を往復して手塩にかけた大事業をみすみす政府事業に引渡す事は屈辱と感じたのである。英国婦人の「プライド」を堅持して居られたリデル嬢としては当然である、私は両先輩の心情を思ひ出す毎に感慨無量禁ず能はざるものがある。
 大隈伯が存命中リデル嬢が屡出掛けて援助を乞はれたが、伯は政治家であるから社会事業の事は常に渋沢子爵(当時男爵)に相談せられた。遂に子爵の発起により催された銀行集会所に於ける三十八・九年二回の回春病院後援会のとき一回列席せられ例の通り座談せられた。其一節にリデル嬢が我同胞の嫌がる癩の世話をせられる事は感激すべき事であつて、我が国の人々が坐視するに忍びない、諸君が応分の尽力せられん事を要求する。話はちがうが、我が国の維新が英米仏蘭四国の聯合艦隊が下関砲撃に端を発した如く、我が国の社会事業も外国人の啓発によるものが多い、殊に癩の事業はリデル嬢によりて点火せられる事であらうと陳べちれた。次に伯は其当時公判中であつた野口寧斎の事件に就ても、癩の遺伝思想を我国から容易に取り去る事が出来ないと云はれた。伯は佐賀藩の関係で寧斎の父松陽先生と懇意の間柄で、松陽先生も寧斎氏と同病であつたと話された、其後大隈邸で癩予防会の会合を催された。此会合には土肥教授が臨席せられて、自分は行かなかつたのであるが、此会合でも政府に癩予防法を発布せしむる様の会合であつたと記憶する。大隈伯が癩の運動には常に渋沢子爵に依託された形ちで、伯としては主働的に働かれた事はなかつた。
 清浦伯爵は熊本出身の関係上、リデル嬢後援会には常に出席せられた。昨年社会事業協会の総会の際岡山に於て二時間に亘りて癩運動の近状を御話した。伯が会長として故渋沢子爵の跡を嗣がれ、癩予防協会が益斯道の為めに貢献せらるゝ事も回春病院創立以後四十余年に亘る因縁からであらう。我等は地に落ちたる一粒の麦としてのリデル嬢の不断の努力の大さを偲ぶものである。

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日本社会事業大年表 社会事業研究所編 第一七九頁 昭和一一年三月刊(DK240059k-0008)
第24巻 p.523 ページ画像

日本社会事業大年表 社会事業研究所編  第一七九頁 昭和一一年三月刊

図表を画像で表示日本社会事業大年表 社会事業研究所編  第一七九頁 昭和一一年三月刊

 明治 伊藤博文 2555     十一月     二八  乙巳      ○英国婦人ハンナ・リデル、回春病院(熊本)ヲ設立ス、二十三年伝道ノタメ来朝シ、本妙寺ニ癩患者ノ蝟集スルヲ見テソノ保護ヲ決意ス