デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 災害救恤
2款 水害救恤
■綱文

第24巻 p.574-578(DK240072k) ページ画像

明治18年8月(1885年)

是月栄一、大阪府下洪水ニ際シ、罹災者ヘ金百円賑恤ス。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK240072k-0001)
第24巻 p.574-575 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳          (渋沢子爵家所蔵)
 - 第24巻 p.575 -ページ画像 
    賞典
同 ○明治一九年十二月廿四日 明治十九年中大坂府下洪水之節罹災者《(八)》ヘ金百円施与候段、奇特ニ付為其賞木杯壱組下賜候事  同 ○内閣


東京日日新聞 第四一一一号乙 明治一八年八月一一日午前 水災救恤金募集広告(DK240072k-0002)
第24巻 p.575-576 ページ画像

東京日日新聞  第四一一一号乙 明治一八年八月一一日午前
    水災救恤金募集広告
本年六・七月ノ間大阪府下ノ洪水ハ尤モ其惨毒ヲ極メ、実ニ名状スベカラザルノ災害タリ、余輩ハ詳ニ此災報ニ接シ或ハ親シク其実況ヲ見テ、実ニ憫惻ノ情ニ堪ヘズ、微資ノ救恤ヲ致サント欲スルニ際シ、幸ニ日報社ガ率先シテ水災救恤ノ義挙ヲ公衆ニ勧告スルヲ見テ太ダ之ヲ嘉シ、乃チ聊資金ヲ出シテ其ノ募集ニ応ジ、更ニ相謀リテ其ノ救恤募集金ノ首唱者ト成リ、公衆諸君ニ対シテ、応分ノ恵贈アリテ罹災窮難ノ人ヲ救恤スルノ義挙ヲ行ハレンコトヲ切望ス
其ノ恵送金交収所ハ、日報社ニ於テハ其社ト第一国立銀行トニ定メタリト雖モ、余輩ハ更ニ之ヲ拡メテ左ノ諸銀行ニ於テモ同ジク受収ノ労ヲ執ルコトヽ定メタリ
                    第一国立銀行
                    第三国立銀行
                    三井銀行
                    川崎銀行
就テハ此水災救恤ノ挙ヲ育成セラルヽノ諸君ハ、其金ノ多少ヲ論セズ右ノ諸銀行ニ向テ御都合次第恵贈アル時ハ、其銀行ヨリ領収書ヲ出シ直ニ其旨ヲ余輩ニ通知シ、其ノ高ヲ東京日々新聞ニ記載スベシ(但匿名ノ通知アル時ハ、都テ日報社広告ノ例ニ依ルベシ)而シテ其集合スル所ノ金額ハ之ヲ大阪府庁ヘ納付シ、直ニ罹災ノ窮民ヘ普及スルコトヲ勉ムベシ
余輩ハ日報社ノ救恤募集ヲ賛成シ、更ニ之ヲ拡張シテ公衆諸君ニ勧告スル事是ノ如シ、諸君余輩ノ微意ヲ諒セラレ、共ニ憫惻ノ情ヲ拡充セラレンコトヲ冀フ
  明治十八年八月
               日本鉄道会社 奈良原繁
               日本銀行   富田鉄之助
               共同運輸会社 森岡昌純
               第一国立銀行 渋沢栄一
               三菱会社   岩崎弥之助
               正金銀行   原六郎
               三井物産会社 益田孝
               三井銀行   西村虎四郎
               第三銀行   安田善次郎
               川崎銀行   川崎八右衛門
               大倉組    大倉喜八郎
                      三野村利助
                      伊集院兼常
 - 第24巻 p.576 -ページ画像 
                      渋沢喜作
                      中沢彦吉
                      久原庄三郎
                      小室信夫



〔参考〕明治大正大阪市史 大阪市役所編 第一巻・第九七二―九七四頁 昭和九年四月刊(DK240072k-0003)
第24巻 p.576 ページ画像

明治大正大阪市史 大阪市役所編  第一巻・第九七二―九七四頁 昭和九年四月刊
 ○第十章 保健及災異
    八、洪水
○上略
 次ぎに十八年 ○明治の大洪水は被害の程度最も激甚であつた。同年六月中旬淫雨甚しく、十七日淀川本流俄に暴溢して北河内・東成両郡の堤防相ついで決潰し、奔流は沿岸百十数ケ町村を没した。この日大阪に於ては市中の諸川氾濫して西区一帯は泥海の巷と化した。十八日午前三時土佐堀川の水準十一尺五寸、即ち平準に加ふること実に八尺五寸である。二十四日漸く減水の兆あるを見たが、二十八日午後暴雨再び襲ひ、七月一日には市内の諸川水勢益々烈しく、翌二日より三日にかけ、天満・天神・難波の三大橋を始めとして大小三十余の橋梁は皆摧落した。この洪水のため市内は東区の全部と南区の一小部分とを除くの外余す所なく浸水し、北区・西区は特に甚しく、二日夜北区中島二・三・四丁目辺及宗是町の如きは土佐堀川の濁水楣間に及ばざる僅に五寸であつて、住民は何れも二階から救を求むる有様であつた。罹災民の救助は橋梁流失して市内の交通杜絶せしため容易でなかつたが水上警察の小汽船や淀川通ひの汽船は、危険を冒して急流を横ぎり、纔に南北の通路を開いて避難を助けたといはれ、未曾有の大洪水であつた。かくて十八年の大洪水は沿岸住民をして永久的水害予防策樹立の必要を痛感せしむることゝなり、後段に述ぶるが如く大規模なる淀川改修工事施行の運動を惹起し、終にこれが実現を見、大阪市街地大洪水の最後のものとなつたことは、本市に於ける洪水史上並に水害予防史上特筆せらる可き所であらう。
○下略



〔参考〕東京日日新聞 第四〇八〇号甲 明治一八年七月四日午後 ○大阪の洪水(DK240072k-0004)
第24巻 p.576-577 ページ画像

東京日日新聞  第四〇八〇号甲 明治一八年七月四日午後
○大阪の洪水 大和川の水増して摂泉の間に架け渡せる大和橋の落ちたるよしハ電報に得て、之れを前号の紙上に記載せしが、今朝到着したる大阪通信者の飛報に拠れバ、過日来の霖雨に大和川の水嵩も常に倍し、所々の堤防に水吹きを生じたれバ、人々油断なく堺・住吉両警察署の警部巡査ハ消防夫を率て大和橋に出張し、専ら防禦の準備をなし居たり、然るに去る三十日大和国葛上郡横岳の滝の下手なる天井川の堤防破れ、御所町外十一ケ村水となりしが、其水の一時に大和川に落ちしより、翌一日の午前二時頃に至り大和川の水嵩ハ特に高く、柏原村にて水量一丈四尺余に及びたり、去れバ摂津国住吉郡平野郷西出口字油掛地蔵より同国東成郡桑津村中央までハ堤防の上一尺五寸位の浸水となり、大和橋に隣れる住路・西瓜割の間の樋ハ今にも破れんずる有様なれバ、村民は必死となりて防禦に尽力する折りしも、海岸よ
 - 第24巻 p.577 -ページ画像 
り十町計り隔りて北側の堤防は潰裂したり、午後四時すぎとなり堺の入口なる字松の中の堤防殆んど破れんとするにぞ、此所を破られては堺市中は残らず水底となるべし、土俵よ砂よと騒ぎ廻はる中に大和橋の落ちたるこそ遺憾なれ、五時を過ぎても水は減少せず、益々其嵩を増し西瓜割・住路の堤防も今はかうよと見えたれば、住吉安達町の人人は老幼相携へて住吉神社の境内に避けしに、如何なる故にか水嵩一時に九尺余も減じたれば、扨ては上流に堤防の潰裂せし場所あるべしと思ひしに、果して河内国志紀郡国分村字ヒガン上の堤防破れたり、扨て又た淀川筋の水は弥々増し、先日までは切断して内水をはかせんものと尽力したる桜の宮の堤も、今は水中となりて何所が河とも堤とも分け難く、寝屋・鯰江諸川の水と一つになりたれば、見るうちに野田町の人家五・六軒を流し、網島片町の人々は今にも魚腹に葬らるべき有様なるにぞ其の騒動大方ならず、船にて町々を漕ぎ廻り家財を出し老幼を救ひたる位なれば、人畜にも定めし害ありしなるべし、淀川の水勢此の如くなれば牧方切れ所の修築は特に難儀にて、切れ所の深さ三丈余に及び、水の激するさま恐ろしく、土俵も石も擲げ込むに従ひて流れ、人夫も力尽きて唯だ途方に暮るゝのみなるが、此の水は大坂の市中をも浸したり、先づ第一に木津川の水押上りしより松島の花街は一面の水となり、文楽座近傍は床にまで及びたり、土佐堀筋中の島も水にて、堂島も亦た過半は水に浸さる、新川の水も亦た溢れて難波村の一部を浸し、お蔵跡町辺には高津八堀川の水上りたりと云ふ、同通信者が寄送せる地図に就て考ふれば、志紀・若江・渋川・讃良・茨田・東成の諸郡は全くの水にて、交野・河内・高安も亦た幾分の水なり、大阪の市中にて船場島の内は幸に玉造り・真田山・天王寺つゞきにて堰き止めたれば無難なるも、何にせよ希有の洪水と云ふべし



〔参考〕東京日日新聞 第四〇八一号乙 明治一八年七月七日午前 ○大坂洪水詳報(DK240072k-0005)
第24巻 p.577-578 ページ画像

東京日日新聞  第四〇八一号乙 明治一八年七月七日午前
○大坂洪水詳報 昨日大阪より得たる報道に拠れバ、該地の洪水ハ実に予想よりも甚しき事にて、本月二日に及びてハ前日まで濁浪の間に隠現したる野田村・網島・桜の宮等の堤防も全く水中に没し、益々激浪暴漲し、備前島橋ハ二日の午前八時に流失し、水面にハ唯樹梢のあらハるゝのみとなれり、川崎の造幣局も桜の宮より押出す淀川の水と切れ処より流出する水と湊合して局内に浸入し、北区今井町川崎町辺一面の水となり、午後九時ごろには天満橋筋一丁目南北の通りも往来の止るほど押出し、天神橋北詰西より東菅原町辺ハ三尺余も出水し太平橋ハ水橋上にまであがり、北の新地ハ蜆川と堂島川との水にて深さ四尺余に及び、水ハ追々汎濫して梅田停車場の乗車切符売下口より濁流滝の如く浸入したる程なりしハ見るもすさましかりし、栴檀木橋ハ同き午前十一時三十分ごろ上流に繋ぎありし船の流れ出して衝突せしため北詰の方過半流失し、その落たる橋の流れ当りしため淀屋橋も続て流失して肥後橋を流せり、その下手の橋々も将棋倒しとなるべき模様なれバ、西国橋ハ通行を止めたり、筑前橋・常安橋・越中橋・湊橋等いづれも同時午後に至りて落ちたり、中の島より土佐堀辺も水ならざる所なく、東区にてハ安堂寺橋も流失し、西区川口居留地外人の難
 - 第24巻 p.578 -ページ画像 
を避くるも少なからざれバ、数十名の巡査出張し予防中、南区ハ幸町通・西道頓堀通ハ日吉橋まで、両岸とも水ハ地上三尺余もあがり裏川の堤防ハ決壊の摸様ありとて百余名の水防夫防禦に尽力し居れり、難波遊連橋も通行を止め流失の防禦中なるか多分危なかるべし、又西横堀西川岸も西国橋より南道頓堀まで一円の水となり、京町堀筋ハ午後三時ごろ紀の国橋北詰とも地上に二尺も水を押上げたり、之を概言すれバ大坂四区中船場島ノ内(上町ハ勿論)を除くの外水を押上げ、或ハ深さ二尺・三尺に及び、少きも床下を浸さゞるハなきほどなり、又天満橋と天神橋ハ大坂鎮台工兵隊より百余名出張し種々尽力せられしが其の甲斐なく、午後四時三十分頃流失したる淀の小橋の衝き当りしため、天満橋の中央を押流し、続て天神橋も中央の落込しが遂に午後十時に至りて悉皆流失せり、浪花橋ハ憲兵及び巡査・水防夫の尽力ありしかども、午後十一時ごろに至り中央に一ケ所のへこみを生じ往来止まりしなれバ多分流失したらん、淀川筋にハ一橋も見ずといふありさまとハなりぬ、右の大水につき京坂間の汽車ハ一日の朝より通ぜず坂神間も同様午後より停止せり、堂島の米相場ハ五日まで休業、株式取引所も同様と申すこと、委細ハ次報に譲る云々と見えたり