デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 災害救恤
5款 防疫救恤
■綱文

第24巻 p.612-617(DK240082k) ページ画像

明治19年(1886年)

是年、コレラ病流行ニ際シ、栄一、東京日本橋区ヘ予防費金百円寄附ス。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK240082k-0001)
第24巻 p.612 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
同 ○明治一九年 同 ○一二月二四日 東京日本橋区虎列剌病予防費トシテ金百円寄附候段奇特ニ付、為其賞木杯一組下賜候事    同 ○内閣


東京府史 東京府編 行政篇第六巻・第五一五―五一八頁 昭和一二年五月刊(DK240082k-0002)
第24巻 p.612-614 ページ画像

東京府史 東京府編  行政篇第六巻・第五一五―五一八頁 昭和一二年五月刊
 ○社会事業衛生財政 第二 第二章 伝染病
    二 伝染病の流行概要
○上略
 第四回の流行は先づ明治十九年春に京都・大阪及び兵庫県下に虎列剌病流行の兆があり、その侵入を防ぐ為に本府は五月三十一日布達第九十二号・第九十三号・第九十四号を以て注意を喚起し、街頭便所の存廃掃除及び臨時下水浚渫を施行し、その他臭気ある場所の消毒をなさしめた。警視庁に於いてもこれが予防に着手し、一般の清潔衛生について諭達をなし、殊に吐瀉の病に罹つた者はその何病たるを問はず主治医又は地主・差配人より届出でしめ、又検疫船を派して神戸・大阪その他よりの来航船舶については厳重な検査を施す等諸般の予防に着手したのである。
 然るに六月七日麻布区新網町一丁目に虎列剌病に罹つた男一人があつたので、即日本府の臨時病院に送つた。続いて同月十日日本橋区上槙町に一人、同十三日四谷区麹町十三丁目に一人、北豊島郡長崎村に一人の患者を出し、その容易ならざるを思はしめるものがあつたので警視庁は水陸九箇所に検疫所を設け、本府と他府県との間に該病者の出入を防止するは勿論、有病地よりの交通に対しては種々取締を厳重にした。その他危険な井戸を埋没せしめ、病家附近の交通遮断をなし劇場の如きはその興行を停止し、又祭礼に山車・踊屋台等を舁出すことを禁じ、古着及び襤褸を他府県へ輸送するを禁止する等予防に努めたが、依然として処々に新患者を出し、七月十五日頃より頓にその増
 - 第24巻 p.613 -ページ画像 
加を来たし、益々猖獗を極めんとするの状勢を示したので、遂に警視庁内に検疫本部を置いたが、それに加へて七月下旬より暑熱猛烈を極め、病勢も増進したので、遂に八月七日を以て本府下を内務省より虎列剌流行地として認定せられるに至つた。
 玆に於いて更に一層の注意をなし、患者発生止まざる地にはその一部を限つて家屋内外に一大掃除を施行して消毒薬を撒布し、就中貧民群居不潔の地は燻蒸法を施行してその予防に当つたのである。
 而して十月の中旬より病勢衰へ、同月二十八日には流行地の認定を解かれるまでに至つた。爾後日を逐ふて患者減少し十一月二十五日には警視庁内の検疫本部も閉鎖せられた。同年の患者発生月別はその資料を欠き不明なので、官報に掲載された日々の員数を累計して月別を作つた所に依れば、六月二十三人・七月千三十四人・八月六千百四十一人・九月四千九十八人・十月六百二十八人・十一月四十四人で、十二月が一人となつてゐる。この総数が全患者数と符合しないのは、その当時の官報に発表されたものを掲載したに因る。然し病勢の推移を見るには妨げないと信じ掲げたのである。尚同年の虎列剌病は府下全戸数の約三分の一に上る罹病戸数を出したことを以て、如何に猛烈であつたかが想像される。試みに一家別患者数を表示すれば次の通りである。
  一家 一名  八、七四一戸   一家 四名    四五戸
  一家 二名    九四五戸   一家 五名    一〇戸
  一家 三名    一八四戸   一家 六名     二戸
  一家 七名      一戸   計     九、九二九戸
  一家 八名      一戸   内一家滅亡    六三戸
 今次に本府の記録に依る郡区別発生状況の詳細を掲げると左の通りである。
    明治十九年「コレラ」患者郡区別発生状況

    郡区      患者      死亡者  人口万ニ対スル発生率
  東京府     一二、二二二   九、九四九    八・〇四
   東京市    一〇、七七一   八、七六二    八・八九
    麹町区      二七一     二一二   五二・八三
    神田区    一、六二三   一、三二三   一三・一六
    日本橋区   二、三三九   一、九五二   一五・一九
    京橋区    一、六〇七   一、三一四    九・四一
     芝区      八二九     六六九    七・四二
    麻布区      一五一     一二三    三・七〇
    赤坂区       六七      五五    二・五三
    四谷区      一一四      九一    三・七一
    牛込区      一六三     一一八    三・七四
    小石川区     一九六     一四七    四・八〇
    本郷区      四五三     三五八    七・二八
    下谷区      四八五     三七九    六・一八
    浅草区      九四八     七九四    七・九六
    本所区      七一八     五六二    八・三六
    深川区      八〇七     六六五   一一・一七
   郡部      一、三五九   一、一一三    四・一二
    荏原郡      五二一     四二〇    六・三五
 - 第24巻 p.614 -ページ画像 
    東多摩郡      一九      一四    一・〇二
    南豊島郡     一〇四      七一    三・八一
    北豊島郡     二五八     二〇〇    三・三一
    南足立郡      七四      六一    一・〇二
    南葛飾郡     三八三     三四七    五・八二
  監獄          九二      七四   八〇・四三

〔備考〕 本表は伝染病患者死亡者累年比較表のコレラ患者及び同死亡者の数と符合しない箇所があるが、これを訂正する資料がないのでその儘登載した。又伊豆三宅島伊ケ谷・阿古の両村に於いて発病した類似虎列刺患者八十二人、内死亡十六人・全治六十六人あつたが、詳細な資料がないので本表には算入しない。
○下略


東京市史稿 東京市役所編 変災篇第三・第一一三五―一一四六頁 大正五年三月刊(DK240082k-0003)
第24巻 p.614-617 ページ画像

東京市史稿 東京市役所編  変災篇第三・第一一三五―一一四六頁 大正五年三月刊
 ○第四章 第二節 本記 帝都時代ノ疫癘
    明治十九年虎列剌
○上略
明治十九年虎列剌 ハ、流行系統欧洲ヨリ印度支那ニ移リ、進テ長崎 ○肥前国(以下原註)。ニ入リ、以テ明治十八年 ○紀元二五四五年。十九年 ○明治 ○紀元二五四六年。ノ大流行ト為リタル者ノ如ク ○中略
東京府下ニ於ケル流行ハ
 ○上略。横浜 ○武蔵国。ノ病毒ハ遂ニ東京ニ侵入シ、是ノ月 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。九日、日本橋区浜町三丁目 ○市内。ニ発スルモノト、同 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。十三日、本所区緑町一丁目 ○市内。又浅草区今戸町 ○市内。ニ発スルモノトハ、触接交通及ヒ飲食物贈答等ノ媒介ニ依リ、病毒ヲ各所ニ散乱セシメ、実ニ今年 ○明治十九年(紀元二五四六年)。東京大流行ノ基ヲ為スモノナリ。然レトモ是等ハ流行ノ始ニ於テ其証跡ヲ認メ得タルモノナルノミ、其他横浜 ○武蔵国。ヨリシ、或ハ他ノ地方ヨリスルモノヽ如キ、素ヨリ多カルベシト雖、今之ヲ知ルニ由ナシ。中旬 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。先ツ京橋区 ○市内ニ於テ流行ヲ始メ日本橋区・本所区・深川区・浅草区 ○市内。ニ移リ、日々益々悪兆ヲ呈セリ。 ○中略。
 八月 ○明治十九年(紀元二五四六年)。ハ、本年 ○明治十九年(紀元二五四六年)。中、最モ流行ノ酷烈ナル時ニシテ、全国ノ病勢一斉ニ増進シ、日々新患者千以上ヲ出タシ其十一日間ハ二千以上ニ上リ、十九日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。ヨリ廿五日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。ニ至ル一週間ノ患者ハ壱万五千ニシテ一ケ月五万七十余人ノ患者ヲ出タシ、三万七千余人ノ死亡アリ。而シテ東京ハ三日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。ヨリシテ十五区内患者百名以上トナリ、十八日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。ヨリハ二百以上ニ上リ、三十一日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。ニハ終ニ三百以上ニ達シ、翌九月一日・二日 ○明治十九年(紀元二五四六年)。ノ三日間ニ渉レリ。此三日間ヲ以テ患者最多ノ極点トス。東京ニ於テ一日三百以上ノ患者ヲ出タセシハ実ニ未曾有ノ事ニシテ、五所ノ避病院ハ既ニ悉ク充満スルモ、患者ヲ送クルノ輿ハ相連絡シテ殆ント人ノ往来ヲ妨ケ、各所ノ火葬場ハ、日夜火ヲ絶タサルモ、旧棺未タ尽キス、新棺早ク山ヲ為シ、其惨状実ニ言フニ堪エズ。 ○中略。
 九月 ○明治十九年(紀元二五四六年)。ニ入ルモ、全国ノ病勢ハ依然トシテ猖獗ヲ逞ク
 - 第24巻 p.615 -ページ画像 
シ、日々ノ新患者尚ホ千以上ニ在リテ、月末二日間始メテ千位ヲ下リ、一ケ月ノ総患者四万四千ニ超ユ。 ○中略。東京ハ依然トシテ其兇暴ヲ逞クセシガ、中旬 ○明治十九年(紀元二五四六年)九月。ニ至リ始メテ百名以下トナリ漸次患者ヲ減少ス。 ○中略。
 十月 ○明治十九年(紀元二五四六年)。ニ入リ、時季ノ稍秋冷ニ傾キタルニモ拘ラズ、東北寒地ノ青森ハ病勢依然其猖獗ヲ逞クシテ、新患者日々百名以上ナリシガ、漸次減少シテ、中旬 ○明治十九年(紀元二五四六年)十月。ハ大ニ衰ヘ、下旬 ○明治十九年(紀元二五四六年)十月。ニ至リ終ニ熄ム。其他ノ地方ハ多クハ減衰シ、東京ハ、中旬 ○明治十九年(紀元二五四六年)十月。以降、新患者十名以下トナル。 ○下略
○中略
                ――明治十九年虎列剌病流行紀事
此疫東京区部ニ於ケル患者及死者ハ、東京府統計書言フ所左ノ如シ。流行紀事ノ統計ニ比スレバ、多少ノ出入有リ。未ダ孰カ是ナルヲ知ラス。
   麹町区   二七三。  神田区  一六二一。 日本橋区  二三六三。
   京橋区  一五九四。   芝区   八三六。  麻布区   一五一。
   赤坂区    六七。  四谷区   一一五。  牛込区   一六三。
  小石川区   一九七。  本郷区   四五六。  下谷区   四九三。
   浅草区   九五三。  本所区   七二三。  深川区   八〇八。
   区部計 一〇八一三。  郡部計  一三六三。   合計 一二一七六。
                         ――東京府統計書
 ニシテ、之カ死亡ハ、総計千四十二人也。
 之ニ対スル東京府警視庁ノ施設、左ノ如シ。
 東京府ハ、五月十日 ○明治十九年(紀元二五四六年)。私有地内下水・塵溜・総雪隠・井側、並ニ其周囲等ノ掃除修理ヲ令シ、其執行手続ヲ定メ、巡査ヲシテ郡区吏ト共ニ臨検監督セシム。又同日 ○明治十九年(紀元二五六五年)五月十日。以前ヨリ、溝塹池沼等、其官ニ係ルモノハ、浚渫修理ヲ必要ト認ムル毎ニ、各其負担官衙ニ照会ス。十五日 ○明治十九年(紀元二五四六年)五月。ヨリ、京都大坂両府ヨリ来ル船舶・旅客等ニ対シ、水上警察署ニテ予防上視察ヲ加ヘシメ、又投宿ノ旅人等ニハ、一層健康上ニ注目セリ。十九日 ○明治十九年(紀元二五四六年)五月。京都・大坂ノ二府、及ヒ兵庫県下ヲ、虎列刺病流行地ト認定セラレタルニ由リ、同地方ヨリ来ル船舶ニ対シテ、船舶検査規則ヲ実施ス。廿二日 ○明治十九年(紀元二五四六年)五月。警察署ニ令シ、魚腸樽等不潔ノ物品ハ、速ニ之ヲ人家遠隔ノ地ニ運搬セシメ、畜場・牛馬小屋・魚市場・青物市場等ハ、清潔ニ掃除ヲ為サシメ、下水其他ノ汚水ハ、之ヲ街路等ニ撒布セス、又未熟ノ果物ハ、之ヲ販売セサル様厳重視察ヲ加ヘ、昨年 ○明治十八年(紀元二五四五年)。虎列剌ノ発生セシ場所、及ヒ貧民群居ノ場所ハ、一層其清潔ニ注意シ、神仏祭礼等、多人数群集ノ場所ニハ、販売セル飲食物・厠場ノ清潔等ニ注意ヲ加ヘシメタリ。廿九日 ○明治十九年(紀元二五四六年)五月。暴瀉及ヒ吐瀉患者ノ届出ヲ達ス。三十日 ○明治十九年(紀元二五四六年)五月。舗店ニ露陳シ、又ハ行商スルモノニシテ、直ニ食用ニ供スヘキ販売飲食物ニ、覆蓋ヲ設ケシム。六月四日 ○明治十九年(紀元二五四六年)。虎列剌患者ノ処置及ヒ消毒法ヲ一定センカ為メ、該患者処置ノ手続及ヒ消毒法ノ程度ヲ定メ、主務員ヲシテ各警察署員ニ施行方ヲ伝習セシム。七日 ○明治十九年(紀元二五四六年)六月。警視庁内ニ検疫事務所ヲ置
 - 第24巻 p.616 -ページ画像 
キ、専ラ予防消毒ノ事ニ従事セシム。又同日 ○明治十九年(紀元二五四六年)六月七日。ヨリ患家及ヒ其比隣ノ者ト雖、病者ニ親接シ、或ハ病者ト同一ノ便所ヲ使用セルモノハ、五日乃至一週間隔離、若クハ交通ヲ遮断ス。同 ○明治十九年(紀元二五四六年)六月。廿六日吐瀉病ニ罹リ医薬ニ就ク能ハサル貧困者ノ為メ、施療券ヲ発ス。七月二日 ○明治十九年(紀元二五四六年)。横浜港 ○武蔵国。ニ発病者アルヲ以テ、汽車停車場ニテ陸上検疫ヲ施行ス。三日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。消毒所ヲ鈴ケ森・品川沖第二砲台ニ設ケ、尋テ新橋停車場構内ニモ之ヲ設ク。六日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。火葬ハ日没後ニ之ヲ行フノ成規ナルモ、流行熾盛ノ傾キアルヲ以テ昼夜之ヲ施行セシメタリ。九日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。隔離法・遮断法ノ区域ヲ定ム。十一日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。病症ノ如何ニ拘ハラス、死亡アルトキハ、郡区役所ニ於テ実況ヲ査察ス。十二日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。本所避病院ヲ開ク。十六日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。病勢益々猛劇ノ勢アルニ依リ、曩キニ設置シタル検疫事務所ヲ廃シ、更ニ検疫本部ヲ置キテ、一層其事務ヲ拡張シ警視総監ヲ委員長トシ、警視以下、並ニ東京府書記官ニ検疫委員ヲ命ス。廿一日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。横浜港 ○武蔵国。虎列剌流行地ト認定セラレタルニ依リ、品川沖第二台場・上総澪、及ヒ金杉沖ノ三ケ所ニ検疫所ヲ置キ、流行地ヨリ来ル船舶ヲ検査ス。廿二日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。虎列剌死体及ヒ排泄運搬人夫ヲ其運搬先ニ於テ消毒セシムルカ為メ、火葬場及ヒ排泄物焼却場、並ニ浴場蒸薫室ヲ設ク。廿六日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。日本橋区坂本町 ○市内。ニ臨時避病院ヲ設ク。三十日 ○明治十九年(紀元二五四六年)七月。三上水路取締ノ為メ、巡査三十名ヲ増員ス。八月四日 ○明治十九年(紀元二五四六年)。再ヒ清潔法ヲ施行ス。七日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。当府下 ○東京府。ヲ流行地ト認定セラル。依テ古着襤褸ノ輸出ヲ禁ス。此日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月七日。駒込避病院ヲ開ク。又各検疫所ヲ廃シ、要所ニ検査所ヲ置キ、患者・死者ノ出入ニ注意セシム。九日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。行旅船舶ノ検査ヲ止ム。十日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。火葬場ノ不足ヲ告クルヲ以テ、更ニ本日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月十日。ヨリ千住・落合・砂村 ○武蔵国。ノ三火葬場ニ野天焼場ヲ設ケ、夜間ニ限リ、其使用ヲ許シ後桐ケ谷火葬場 ○武蔵国。ニモ亦之ヲ許シタリ。十一日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。以降、祭礼ニ山車・踊屋台ヲ舁出スルヲ禁シ、劇場・道化踊等ハ、説諭シテ其興行ヲ停止ス。十二日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。日々夥多ノ排泄物等ヲ出タシ、火葬場ノミニテハ焼尽シ難キヲ以テ、南葛飾郡永田新田 ○武蔵国。ニ排泄物焼却場ノ設置ヲ許ス。十七日 ○明治十九年(紀元二五四六年)八月。大久保避病院ヲ開ク、九月九日 ○明治十九年(紀元二五四六年)。避病院入院患者附添人ハ、老幼ノ外一人ニ限リ之ヲ許シ、食料一日金十銭ヲ給与ス。九月廿九日 ○明治十九年(紀元二五四六年)。予テ府会ノ決議ヲ経タル検疫医雇入ノ期限、本日 ○明治十九年(紀元二五四六年)九月廿九日。ヲ以テ満チ、一旦総員ヲ解キタリシカ、仍ホ日々五・六十名ノ患者アルヲ以テ、十月一日 ○明治十九年(紀元二五四六年)。同会ノ可決ヲ経テ、更ニ臨時検疫医十二名ヲ雇入ル。其後病勢漸次縮退セルヲ以テ、二十一日 ○明治十九年(紀元二五四六年)十月。祭礼ニ山車・踊屋台ヲ舁出スルノ禁ヲ解キ、劇場・道化踊ノ興行ヲ解停ス。廿八日 ○明治十九年(紀元二五四六年)十月。当府下 ○東京府。流行地ノ認定ヲ解カレタルヲ以テ、翌廿九日 ○明治十九年(紀元二五四六年)十月。他府県ヘ古着襤褸輸出ノ禁ヲ解キ、三十一
 - 第24巻 p.617 -ページ画像 
日 ○明治十九年(紀元二五四六年)十月。検疫医ヲ解雇シ、十一月廿五日明治十九年(紀元二五四六年)。検疫本部ヲ閉ヂ、各検疫所ヲ閉鎖ス。
               ――明治十九年虎列剌病院流行紀事
○下略