デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
3款 欧米行
■綱文

第25巻 p.115-140(DK250006k) ページ画像

明治35年5月15日(1902年)

是日栄一、東京ヲ発シ横浜ヨリ乗船、アメリカニ向フ。二十三日ハワイニ寄港、在留邦人商人同志会ノ歓迎会ニ出席シ、翌二十四日出帆、サンフランシスコニ向フ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK250006k-0001)
第25巻 p.115-117 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年       (渋沢子爵家所蔵)
五月十五日 雨
午前六時床ヲ離レテ入浴ス、朝飧後庭園ヲ散歩シ一詩ヲ賦シ一首ヲ詠ス、七時王子別荘ヲ発シ兼子同伴ニテ八時兜町ニ抵ル、第一銀行員及家人来リテ送別ス、九時新橋停車場ニ抵リ送別ノ人ニ接ス、各大臣及政事家・学者・商工業家多ク来リ送ル、九時二十五分発ノ汽車ニテ十時過横浜ニ抵リ第一銀行支店楼上ニ休憩ス、十一時汽船亜米利加丸ニ搭ス、横浜マテ送リ来レル人ハ皆本船ニ来ルヲ以テ船頗ル雑沓ス、十二時二十分抜錨送別ノ諸氏ト分袂ス、此時雨頻リニ至ル、午後一時米国人チソン氏及浅野氏ト瓦斯会社事業等ニ関スル事ヲ会話ス、一時半船航行ヲ始ム、午飧後行李ヲ理シ、且日記ヲ調査ス
此日時々雨降リテ風強ク、観音埼ヲ超ヘテ船頗ル動揺ス、依テ船牀ニ枕籍シテ夜食ノ卓ニ出ル事ヲ能ハス
五月十六日 風雨
船ノ動揺昨日ト同シクシテ船牀ヲ離ルヽ能ハス、時々眩暈・嘔吐ヲ催フス、僅ニ果物小片ヲ以テ終日ノ食料ト為スノミ、終日牀上ニ呻吟シテ風浪ノ静穏ヲ祈ル
五月十七日 曇時々雨
 - 第25巻 p.116 -ページ画像 
船ノ動揺昨日ト同シ、此日本邦茶ヲ喫ス、夕方少許ノ肉汁ト粥トヲ飲ム、牀上ノ苦脳昨日ト異ルコトナシ
五月十八日 曇
船ノ動揺昨日ト同シキモ、数日ニ渉レルヲ以テ少シク馴レタルヲ覚ヘ苦脳昨日ヨリ減シタリ、午後高嶺氏来リテ下剤ヲ与フ、夜ニ入リテ少許ノ食料ヲ取ルヲ得タリ、船ノ動揺モ稍減スル所アルヲ覚ユ
五月十九日 曇
朝来船ノ動揺大ニ減シ心気聊回復ス、依テ牀上ニ坐シテ粥ヲ食ス、畢テ読書ヲ試ム、夕方日本料理ノ夜食ヲ為ス
五月廿日 曇
昨日ト同シク船動揺セス、始メテ衣服ヲ改メテ甲板上ニ出ルヲ得タリ且食事モ会食場ニ於テス、一行中此日ニ至ルモ尚船牀ヲ離レサルハ萩原源太郎氏トス、夜日本料理ノ食事ヲ為ス、味噌汁ノ味頗ル佳ナリ
夜ニ入テ雨アリ、船室ニテ蓄音器ノ興アリ
五月廿日 晴
此日ハ五月二十日ヲ重ヌルナリ、蓋シ本邦ヲ発シテ太平洋ヲ航スルニ於テ必スアルヘキ地球ノ数理ニヨレルナリ、朝来航行平穏ナルヲ以テ蚤起、鬚ヲ剃リテ入浴ス、朝飧後甲板上ヲ散歩シ或ハ読書ス、午後本船事務員松本氏ノ誘引ニテ下等船室及機関室等ヲ一覧ス、夜食後甲板上月明カニシテ夜色殊ニ佳ナリ
五月廿一日 晴
午前七時衣服ヲ改メ甲板ニ出ツ、読書又ハ散歩ニ消光ス、十時船客相集リテ種々ノ競技会アリ、航行昨日ト同ク極テ静穏ナリ、昨日ヨリ天気朗晴ナレトモ、水天一碧亦眸ニ入ルモノナシ、只水鳥ノ船ヲ追フテ飛行スルヲ見ルノミ、終日甲板上ノ散歩ト読書トニ消光セリ
五月廿二日 晴
午前七時入浴畢テ甲板上ヲ散歩シ、種々ノ遊戯ヲ為シ、且島田三郎氏著ノ如是我観ヲ読ム、終日風少クシテ航行平穏ナリ
五月廿三日 晴夕少雨
昨日ト同シク午前七時ヨリ甲板上ニ出ツ、午後布哇群島ノ一ナルニーホー島ヲ見ル、夫ヨリカワイ、マウイ等ノ島嶼接続ス、甘蔗田ヲ遠見ス、午後七時ホノルヽ港ニ着ス、夕餐後地方商人同志会ノ人々余カ寄港ヲ歓迎スルトテ、総代トシテ横浜正金銀行支店長今西某其他五・六名本船ニ来リテ、上陸其席ニ臨マレン事ヲ請ハル、依テ一行上陸シテ港口ヨリ馬車ニテ今西氏ノ先導ニヨリ脇木ト称スル地ニ抵リ、今西氏ノ寓ニ投ス、蓋シ同志会ノ人々ハ此家ニ開宴シテ余ノ来臨ヲ待ツヲ以テナリ、午後九時過ヨリ開宴シ今西氏総代トシテ歓迎ノ辞ヲ述フ、次ニ領事斎藤幹氏布哇移住民及同地方商業上ノ大体ニ就テ一場ノ演説アリ、余モ布哇商人同志会ニ望ムノ趣旨ヲ以テ一場ノ挨拶演説ヲ為ス、畢テ一同盃ヲ挙テ賓主ノ健康ヲ祝シ、且食卓上撮影等ノ事アリテ、宴ヲ散セシハ午後一時過ナリキ《(午前)》、宴罷テ海岸ヲ散歩シ煙火ノ余興ヲ一覧ス、時ニ天晴レテ月明カナリ、夜二時寝ニ就ク
五月廿四日 晴
午前七時朝飧ヲ畢リ、今西氏及同志会二・三ノ人誘導シテ馬車ヲ駆テ
 - 第25巻 p.117 -ページ画像 
市中及公園等ヲ巡遊ス、此地ハ熱帯ニシテ甚タ酷ナラス、寒暖計ハ七十度以上八十五・六度ヲ上下スト云フ、故ヲ以テ樹木皆黄落スルモノナシ、市中又ハ公園ノ家屋ノ庭園ニハ種々ノ花卉アリ、殊ニ扶桑花多ク開クヲ見ル、午前十一時領事館ヲ訪問シ、更ニ正金銀行支店ニ抵リ本邦ヘノ端書郵便ヲ発ス、十一時半本船ニ帰ル、同志会ノ人送リ来ル者数十人、楽隊奏楽ス、正午十二時出帆ス、午後風強ク船少ク動揺ス夜ニ入テ風弥強ク船動揺スレトモ船暈ノ感ナキハ幸甚シ
五月廿五日 晴
午前七時甲板上ニ出テ読書・遊戯ニ消閑ス、航行平穏ニシテ一行皆相集リテ雑談ス
五月廿六日 晴
午前七時甲板上ニ出ツ、航行昨日ト同シク平穏ナリ、一行時々相集リテ雑話シ、或ハ遊戯ニヨリテ消閑ス、明日ハ船中ニテ仮装会ヲ催ストノ事ニテ、一行皆其仮装ノ意匠ニ専ラナリ
五月廿七日 晴
午前七時甲板上ニ於テ船長ト談話ス、午後桑港到着後本邦ニ発スル書状ヲ裁ス、一ハ篤二ニ、一ハ佐々木勇之助氏ニ宛ルモノナリ、午後六時過キヨリ仮装会開会ス、船中ノ乗客多ク之ニ加ハル、余ハ兼子ト共ニ本邦服装ニテ出席ス、余カ一行中或ハ維新前ノ日本男子及日本婦人ニ扮スルモノ、韓人ニ仮装スルモノ、衣冠ヲ着ケテ天満宮ニ擬スルモノ、鬚長キニヨリテ関雲長ニ粧ヒ青竜刀ヲ提クルモノ、其他同船ノ外客ニシテ本邦人又ハ印度人ニ仮装スルモノ、及種々ノ仮装ヲ為シテ頗ル奇観ヲ極メ、衆皆興ニ入ル、夜七時半一同食卓ニ就キ、食後再ヒ甲板上ニ於テ舞踏ス、夜十一時寝ニ就ク
五月廿八日 晴
午前七時甲板上ニ出テ散歩ス、昨夜ノ仮装会ニ出席スル者相集テ笑談ス、此日甲板上ニ於テ一行撮影ス、終日航行平穏ナリ
五月廿九日 晴
午前八時甲板上ニ出ツ、終日散歩・遊戯ニ消閑ス、此夕ハ明日本船桑港着ノ筈ナルニヨリ、殊ニ夜食ニ注意シテ食卓上ノ飾附等ヲ為セリ、夜ニ入リテ風強ク船少シク動揺ス


竜門雑誌 第一六八号・第二八頁 明治三五年五月 ○欧米旅行途上口占 青淵先生(DK250006k-0002)
第25巻 p.117 ページ画像

竜門雑誌  第一六八号・第二八頁 明治三五年五月
    ○欧米旅行途上口占
                       青淵先生
僅理旅装意転清。欧雲米水幾行程。不嫌言語欠明解。好与江山訂旧盟。
みとりこきわかはにゆくておくられて
     紅葉のにしきいへつとにせん


青淵詩存 渋沢敬三編 第二〇―二一丁 昭和八年刊(DK250006k-0003)
第25巻 p.117-118 ページ画像

青淵詩存 渋沢敬三編  第二〇―二一丁 昭和八年刊
  航西雑詩 明治三十五年
    臨発有作
   ○前出「途上口占」ニ同ジニツキ略ス。
     太平洋航海中偶成二首
 - 第25巻 p.118 -ページ画像 
掃除塵事出京城。又試鵬程万里行。回首忙閑如隔世。船窓尽日聴濤声。火輪一路向東馳。地転天旋斗柄移。莫道青年難重遇。有斯一日再来時。
航海中重逢五月二十日、蓋航太平洋者数理上必重一日也
○下略


東京日日新聞 第九一八三号 明治三五年五月一六日 ○渋沢男一行の出発(DK250006k-0004)
第25巻 p.118 ページ画像

東京日日新聞  第九一八三号 明治三五年五月一六日
    ○渋沢男一行の出発
全国商業会議所を代表して商工業視察の為め欧米各国を巡遊する渋沢男爵の一行は、予定の通り昨日午前九時廿五分新橋発の汽車にて其途に上りたり、一行は男爵初め同夫人・市原盛宏・萩原源太郎・八十島親徳・渋沢元治・西川メープル嬢(夫人の通訳)及び梅浦精一・清水泰吉の諸氏にして、朝野に交際広き男爵のことゝて見送人の多きこと近来稀に見る所にして、芳川逓信大臣・清浦司法大臣・曾禰大蔵大臣小村外務大臣・平田農商務大臣・板垣伯、阪谷・浅田・珍田・安広の各総務長官、奥田法制局長官・千家府知事・松田市長・山本日本銀行総裁・高橋同副総裁・近藤郵船会社長・加藤同副社長・曾我日鉄会社長・各省高等官・商業会議所員・銀行倶楽部員、其他氏が関係せる各種団体・銀行・会社員等無慮千三・四百名にして、プラツトホームは殆んど立錐の余地なく、停車場の広場も亦見送人の馬車・人力車数百台を以て塡充せり、尚親戚知友の人々数百名は同列車にて横浜に至り男爵一行は十一時三十分を以て桟橋より待受け居る東洋汽船会社の亜米利加丸に乗組みたるが、同所迄の見送人は東京より来りたる大倉喜八郎氏夫妻・添田寿一・穂積陳重・阪谷芳郎・池田謙三・近藤廉平等の諸氏、及び周布知事 ○神奈川県・相馬永胤・小野光景・三崎亀之助・若尾幾造氏等を始め、銀行家・実業家・外国人・貴婦人等数百名にして同船は正午桟橋を離れて出港したり


竜門雑誌 第一六八号・第四五―四六頁 明治三五年五月 ○青淵先生・同令夫人及一行諸氏の発程(DK250006k-0005)
第25巻 p.118-119 ページ画像

竜門雑誌  第一六八号・第四五―四六頁 明治三五年五月
    ○青淵先生・同令夫人及一行諸氏の発程
青淵先生・同令夫人及一行の諸氏横浜解纜は五月十日正午の予定なりしも、同日出帆すべき東洋汽船会社汽船亜米利加丸去る六日長崎入港の際船客中に類似コレラ患者を発見し撿疫の為め五日間停船を命せられたる為め横浜出帆を十五日に延期する都合となり、従て先生及一行の発程も亦延期する次第となりしが、同日愈々先生及令夫人には随行員市原盛宏(同君は横浜より一行に加はる)・萩原源太郎・八十島親徳三君及西川虎之助君第三女愛喜子嬢(別名メープル嬢)・同行者梅浦精一・渋沢元治・清水泰吉三君を随へ、先生一家の人々を始め桂総理(代理)・芳川逓信・小村外務・清浦司法・曾禰大蔵・平田農商務の各大臣、柴田内閣書記官長、阪谷・浅田・珍田・安広の各総務長官、奥田法制局長官・肝付海軍少将・石黒軍医総監・松本作業局長・渡辺式部官・河村枢密院書記官・千家東京府知事・松田東京市長・図師経理課長・平井技師・内蔵技師・吉田外務大臣秘書官・河田逓信大臣秘書官徳川(家達)公爵・徳川(達孝)伯爵・板垣伯爵・徳川(厚)男爵・船越男爵・松平(正直)男爵・伊藤侯爵(代理)・蜂須賀侯爵(代理)・伊達侯爵
 - 第25巻 p.119 -ページ画像 
(代理)・山本日本銀行総裁・曾我日本鉄道会社長・近藤郵船会社長・加藤同副社長・園田十五銀行頭取・高橋勧業銀行総裁・添田興業銀行総裁・穂積八束・大倉喜八郎・浅野総一郎・安田善次郎・三井守之助三井養之助・益田孝・佐々木勇之助・荘田平五郎・豊川良平・仙石貢浅田正文・馬越恭平・池田謙三・今村清之助・井上角五郎・渋沢喜作中村清蔵・中野武営・雨宮敬次郎・木村清四郎・高橋是清・志村源太郎・谷敬三・福岡健良・星野錫・清水一雄・原林之助、及英国全権公使マグトナルト、米国全権公使バツク、ガスコ、ブリンクリー、グラバ、ウヱスト、スウヰフト嬢の諸氏、其他商業会議所会員・商工経済会員・銀行集会所会員・銀行倶楽部会員・市会議員・市参事会員・竜門社々員及ひ青淵先生の関係ある銀行会社員等無慮二千人許に送られて、午前九時二十五分新橋を出発せらる、尚ほ当日は甚しき雨天なりしにも拘らず横浜までの同乗見送人三百余名に上りたり、又横浜停車場に於ては周布神奈川県知事・大谷商業会議所会頭を始め、横浜の見送人及先生の一行より一列車先に横浜に来着せる人々等百余名「プラツトフオーム」に整列して先生及一行の諸氏を迎へたり、其より先生及一行の諸氏には第一銀行横浜支店に暫時休憩せられ、午前十一時四十分税関桟橋を経て数百名の見送人と共に亜米利加丸に乗込まれたるが、見送人の非常に多かりし為め船上は勿論、さしもに広大なる桟橋も全く人を以て塡められ、傘を以て掩はれたる有様にて、午砲と共に船は進行を始め、見送人は先生及一行諸氏の為め万歳を三唱し、一同帰路に着けり、船の桟橋を離るゝ際に当り烈しき降雨ありたるのみならず、之に強風の加はるありしかば、婦人方の困難誠に思ひ遣られたり、而し此雨此風も直に已みしかば、先生・同令夫人及一行の諸氏亦船中何等の困難を感することなく、今や海波洋々たる大平洋を航進しつゝあらん
○青淵先生欧米漫遊中郵便宛所補遺 紐育・倫敦・シアトルに於ける青淵先生郵便宛所は前号に記せしが、今又清国に来遊せられたる時の宛所は左の如し
 一、上海 日本領事館気付
   c/o The Consulate of Japan,
           Shanghai China.
 一、香港
   c/o Mitsui Bussan Kaisha,
           Hongkong.
○青淵先生旅行日程 は前号に記せしが、欧洲よりの帰途或は印度洋を経過せらるゝこととなるやも知れず、若し其場合に於ては前号の予定日程を変更し、上海より蘇州・杭州・漢口等を視察せられ、凡そ一ケ月を費やし十一月末又は十二月初に帰朝せらるゝ由なり


欧米紀行 大田彪次郎編 第五九―七九頁 明治三六年六月刊(DK250006k-0006)
第25巻 p.119-126 ページ画像

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竜門雑誌 第一六九号・第一九―二五頁 明治三五年六月 ○青淵先生漫遊紀行(其一)(八十島親徳)(DK250006k-0007)
第25巻 p.126-129 ページ画像

竜門雑誌  第一六九号・第一九―二五頁 明治三五年六月
  ○青淵先生漫遊紀行 (其一) (八十島親徳)
 本編は青淵先生の随行員八十島親徳氏より中外商業新報主幹野崎広太君に宛てゝ発送せられたる私信中より抜萃摘録せるものなり
    (第一信) 日本より布哇に至る太平洋上
                (布哇ホノルヽ五月廿三日発)
明治三十五年五月十五日、此日青淵先生一行を載せたる東洋汽船会社の亜米利加丸は、正午の号砲を合図に横浜港内の桟橋を離れて遥々五千余哩の大航路に就く、船上の人、陸上の人、共に雨中に佇立して別れを告ぐ、征路は長く風は冷かなり、此一刹那に於ける先生一行の感果して如何なりけん
亜米利加丸は港外に出でゝ留ること約一時間、此間水上警察署の吏員出張密航者の有無を撿す、撿査の結果男一名を拉して去る、同時に船は進航を始め薄暮東京湾外に出づ、此時雨愈々激しく風亦加はる、波浪高くして船体動揺す、此日より十八日に至る四日間は天候依然として険悪風雨益々加はり、波上甲板を越ゆ、船客孰も船室に籠居し空しく天候の回復を待つ、船員の談によれば、昨今の季節に於て此の如き長期の時化《シケ》を見るは絶て無くして稀れに有る所と、一行の困阨想ふべし、十九日に至りて天候常に復し、船体の動揺全く止む
青淵先生を始め一行は此風浪激甚の間に在りても健康常の如く、特に先生には平素の大多忙に引換へ、此水上の別天地に入りて以来は全然
 - 第25巻 p.127 -ページ画像 
俗務を離脱して心胸頓に清爽を加ふるのみならず、日夕清浄の空気を呼吸して寝食起居共に一定の時刻に於てせらるゝ事なれば、先生の健康に取りては尠からざる効果あるべしと思はる
船中の上等客九十六人、内日本人は先生の一行九名の外は高峰譲吉氏と其家族並に布哇渡航の小栗代議士、欧米視察の篠田川崎造船所技師あるのみ、他は悉く米・独・英等の各国人にして、彼等は日々甲板上に種々の競技会を催し、又毎夕翌日の航程に対して賭を為すなと船中は中々の賑ひなり、何は兎もあれ、彼等外人が老若男女を問はず其運動の活溌なると社交に熱心なるとは、到底本邦人の企て及ぶ所にあらずと思はる、此の如く船客の大多数は外国人なるも、乗船の日本船なるの一事は大に一行の意を強うするのみならず、其速力の大なると船客取扱の懇切なるとに依りて外人船客間に嘖々の好評を聞くは、一行に取りて何よりの快事にてありし
亜米利加丸は横浜出帆に於て五日間を遅延したるも、出帆以後全速力を以て進航し、平常ならば一日の石炭量百噸、速力一時間十四哩余に過ぎざるに、今回は一日百四十噸の石炭を費し、平均十六哩半の速力を出しつゝあるを以て、途中に於て三日間を短縮し、五月三十日早朝桑港に着すべき筈なり
横浜を出で是に九日、既に海上四千哩を駛走し来りて、布哇島は今や指顧の間に在り、布哇に於ける景況は第二信に譲り、今は暫らく筆を擱く
    (第二信) 布哇ホノルヽの上陸
               (布哇ホノルヽ五月二十四日発)
青淵先生一行乗船亜米利加丸は、五月二十三日午後七時を以て布哇ホノルヽ港に着す
是より先、ホノルヽ在留本邦商人同志会員諸氏は先生一行到着の二・三日前より先生の歓迎に関し種々計画する所あり、亜米利加丸の入着を見るや、同会の総代先生を同船に訪問して上陸を求む、依て一行の人々悉く九時を以て上陸し、横浜正金銀行支店長今西兼二氏の宅に到る、此処には同志会員五十余名参会し、先生の為に歓迎の宴を開く、相客としては本邦領事斎藤幹氏並新聞記者等あり、食事は総て日本料理を供せられしが、席上今西氏の歓迎の辞、斎藤領事の演説、青淵先生の謝辞ありて中々の盛会なりし、同夜は今西氏の邸に一泊し、翌朝同氏の案内にて一同ホノルヽ及近郊を巡覧し、領事館を訪問せり
亜米利加丸は同日正午出帆桑港に向ふ
    ○八十島君より渋沢社長に宛たる手翰
拝啓、過日横浜港頭に於て御別致候以来東西地を異にする既に三千五百哩、日を閲みすること九日と相成候へ共、尊台始御一統様益御清泰被為入候事と奉遥賀候、我亜米利加丸も愈々明二十三日には布哇へ入港の筈に候へば、一書を認め同地より発郵致し、以て過日出発以来男爵・同令夫人始一行の無事安穏を御報知申上候次第に御座候、偖去十五日出発の際には慮らず大雨と相成、御見送りの諸君は嘸々御往復に御難渋の事と御察申候処、我一行にも爾来引続き一通ならぬ難渋致し発途第一に於て荒胆をひしかれ申候、其次第は同日午後四時頃東京湾
 - 第25巻 p.128 -ページ画像 
外に出るや雨と風は益甚敷、浪高く到底堪へ得さるに付、流石の自称グードセーラー梅浦氏・市原氏を始め一門悉く銘々の室に閉籠り、其後十八日迄満三昼夜以上は連日の風雨にて動揺甚敷、何れも皆大病人の体と相成、甲板は素より食堂へ出るもの一名も無之(外国人は半数計出てたりとのこと)市原・梅浦及び拙生の三人丈漸く吐くことなかりしが責めてもの大出来に御座候、男爵夫人も頗御弱はりに相成「こんなことなら来るのじやなかつた、もう私は布哇から帰りたい」との嘆声を発せられし由、後より承り申候、男爵は思ひしよりは御強く、即ち萩原氏に比せは大に御強くして、元治・清水両氏と先づ伯仲の間に在らせられ、二十日よりは海の穏なると共に日々甲板へも食堂へも御出掛に相成、爾来至て御壮健に入らせられ候、何しろ前記三日間ノ時化《シケ》ハ此二・三年来珍敷と申すことにて、不負気の元治氏さへも「洋行と云ふものは思つた程楽のものでない」抔とバースの上にてかこち居られ申候、併し一同昨今は大に健気にて甲板にてShavel board,Bean bags,Rope Rings,Ping Pongなどの遊技に外国人と打交りて運動致居申候間、幸に御安神奉願候
船客は上等客九十六人、内日本人は我々一行九人の外は川崎造船所技師篠田工学士と大分県代議士小栗氏あるのみ、他は皆米・英・独等の老若男女にして、昼間は甲板又夜分は綺羅を飾りてソシアル・ホールへ出てると申す有様、此間に於て純粋の日本婦人は我男爵夫人のみに有之、身の回りから御動作に至る迄嘸々御窮屈、御困難は他の目にも相見へ御気の毒の至に堪へす候、始の三日間は殆一同絶食の体なりしも、其の以後は三度が三度がの油こき洋食に少々食飽の気味にて、時々日本食を命し我々は事務員の部屋、又男爵は御自分の御室にて召上がり、味宜しからずと雖も美味に感するは不思議に候、夜食の時は外国人の男子は皆スモーキング・ジヤケト、女子は綺羅を飾て食堂に出て候様の有様に付、男爵及夫人は夕方は大率御自室にて日本食を召上がられ申候、出立以来未た七・八日に過きす候為め差したる奇談も無之候へども、市原氏が洋食にあきて会々冷素麺の御馳走に会ひて無慮七杯を平げたるが如き、又萩原氏が見掛の関羽・鍾馗も三舎を避けるが如きにも拘はらず船には極端に弱くして、過く浪治りて後尚バースを放れす、食物を取らず何でも塩からい物のみを好み、素麺用のシダシをコツプに一杯グーと呑みて舌を打つて喜びしが如きは、稍々談柄の内と相成居申候、尚向後珍談奇声を得次第御報道相怠申間敷候へども小生自身に於ては可相成珍談奇声の主人公になりたくないものと折角戒心致居候へども、前途保証は中々仕難く心配罷在候
初の三日間は別として、廿日頃以来男爵の御日課は朝七時頃御起きに成、洗面更衣を終りデツキヘ御出掛、三度の食事の外は大率甲板にて椅子に倚り、欧米漫遊雑記・島田三郎著如是我観の類御書見等に御座候、御鬚も時々床屋にて御そりに相成、入浴も一・二回試みられ候、御腹の工合も至て御宜敷、万事誠に御安穏に候、幾重にも御安神可被遊候
先は出発以来の実況概略申上度、余は桑港着の上更に可申上候、本船も五日間後れて出帆は致候へ共、石炭を四割方も余計に燃き候て平均
 - 第25巻 p.129 -ページ画像 
十六哩半(常時は十四哩余)位の速力を出し候為、三日間は取返し、来廿九日には桑港に着すへき予定に御座候
尚此度は元方諸氏へも手紙は別に相認め不申に付、何卒宜敷御伝言被下度、其他御同族へも可然御鳳声奉願候 敬具
                      八十島親徳
    渋沢社長様

洋行日誌 (梅浦精一)(DK250006k-0008)
第25巻 p.129-131 ページ画像

    ○洋行日誌 (梅浦精一)
 本編は去五月十五日亜米利加丸にて青淵先生と共に洋行せられたる梅浦精一氏の洋行日誌にして、都新聞に掲載せるものなるが、別項八十島親徳君の紀行と併読せば先生一行諸氏の消息を知る上に於て大に好都合ならんか
(明治卅五年五月十五日、木曜日) 朝曇天微風、午後風雨、夜に入りて益々風力を加ふ、午前九時自邸を発して新橋停車場に到る、是れ予が今回欧米漫遊の首途なり、場に到れは渋沢男爵及夫人已に此に在り場内送者を以て充満立錐の地なし、九時二十五分新橋を発し横浜に到れば其雑沓更に甚しきを覚へたり、予は直ちに用意の馬車を馳せて税関楼上に到り、見送り諸氏に挨拶し、早々本船亜米利加丸に搭じたり今回は乗客定員に超過し、予が会社に申込みたる時は已に一も客室なき為め、予は不得止(セコンドオヒサアー)の室を借用することゝなれり、本船は正午纜を解て進行を始む、波戸場を発するに当り親戚故旧其他数百の送者、渋沢男爵及其一行の為め万歳を唱へ、互に帽を掲け巾を振ひ訣別の意を表す、時に雨大に臻る、本船徐行港外に於て留ること殆ど一時間余、此間水上巡査数名本船事務員を督して各室を検査す、「ストウ、ウエイ」即ち潜乗者の有無を検するが為めなり、蓋し毎航必ず数名の潜乗者あり、前航の如きは二十四名の多きを発見したりと云ふ、聞くが如くんば潜乗者の多くは水夫・人足若くは下等労働者輩にして、布哇若くは桑港に首尾克く上陸せんことを僥倖するか又は船中に於て発覚せらるゝも飲食の供給を受くべきに付其生命に危険なきと、又仮令本国へ送り還さるゝも其罰金は僅かに六円に過ぎず而して其仕払を為すこと能はざる者は六日の拘留に処せらるゝ位にして、其処罰の割合に軽きが為め近日潜乗者の多きを致すの傾きありと云ふ、法律の不完全に帰せざるを得んや、本船の港外を発するや、雨益々急に又更に風を加ふ、午後四時頃より風波殊に勢力を添へて船大に動揺す、時に一行中船暈せざるものなし、乃ち室に入り静臥して其激せざらんことを勉む
(五月十六日、金曜日) 陰晴定らず、天候極めて不穏にして巨浪船を衝て来たる、船体動揺前夜より益々甚し、渋沢男爵夫人始め一行各々其室に閉居籠城す
 昨十五日横浜港外を発してより本日正午迄の航程三百十一海里、正午本船の位置、東経百四十五度二十一・北緯三十五度〇五
(五月十七日、土曜日) 前夜来風雨交々到り、大波巨浪頻りに船体を打て動揺殊に甚し、船客殆んど船暈せざるものなし、時に渋沢男爵夫人は其船暈に苦悩する余り、前途如何なる難儀の横はるも計り難し、若かず布哇のホノルヽに上陸して帰国せんと云ふ、一行為めに呆然た
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り、男爵も亦船暈の為め其室に閉居し、一行中予を除くの外一人も室外に出づるものなし、況んや食事をや
 昨正午より本日正午迄航程三百三十海里、正午本船の位置、東経百五十二度〇三・北緯三十五度二十五
(五月十八日、日曜日) 陰晴常なく、風力更に衰ふることなし、船の動揺前日来に異なることなし、予は十五・十六両日は動もすれば船暈せんとするの恐あるを以て、故らに室内に静臥したりしが、前日来風雨を犯し勉めて甲板に出でゝ、或は椅子に安臥し、或は運動し、一行中の健全者は予一人なりと誇称せり
 昨正午より本日正午迄航程三百五十八海里、正午本船の位置、東経百五十九度十五分・北緯三十五度
(五月十九日、月曜日) 昨夜来風力漸く衰へ波次第に収まりて、午前十時東天纔かに日光を漏すを見る、蓋し横浜出帆以来風雨間断なく常に憂鬱を感じたりしが、此日始めて太陽を拝し思はず快哉を呼べり、午後細雨頻りに到り、船客皆多くは其室に退き、婦人客の如きは誠に船暈に悩める甚しきを見る
 昨正午より本日正午迄航程四百十七海里、正午本船の位置、東経百六十七度三十二・北緯三十三度四十三
(五月二十日、火曜日) 昨夜来風波全く収まり、曇天なれども前日の如く冷気強からず、寒暖計は六十五度にして誠に愉快なる天候なりし此日食室に至れば渋沢男爵已に此に在り、一行中男爵夫人及萩原源太郎君を除くの外皆食卓に就き互に快哉と称し、先づ男爵の健康を祝し万歳を唱へり、食後乗客皆甲板に集り欣然各種の遊戯を試み、男爵亦之に加はる、壮なりと云ふべし、午後四時男爵夫人料理人に命じて其齎し来たれる素麺を調理せしめ一行を饗せらる、氷冷の素麺に葱と海苔の付け合せと云ひ、汁加減と云ひ、其美味誠に賞すべく永く忘るべからず、市原君の如きは一碗一碗又一碗、遂に八碗に及んで始めて箸を投ぜり、高峰博士傍より其専売薬(タカジスタア)を分与して同く食傷予防此に在り、抑も此薬の功能は云々斯々なりと頻りに其薬効を述べ立てられたり、流石に其商売に熱心なるものと敬服千万
 昨正午より本日正午迄航程三百八十四哩、正午本船の位置、東経百七十四度五十四・北緯三十二度十三
(五月廿日) 晴天、海上頗る静穏、正午寒暖計七十二度、此日午前五時六分を以て船東経を走り過ぎて西経に入るが故に、即ち西半球の二十日を再び迎ふ、午後渋沢男爵一行船中各室を巡覧す、下等船客の労働移住の目的を以て(布哇)航する者無慮五百名、其他の目的を以て桑港に自由航海者、支那人を合して二百八十名なり、晩食後船客皆上甲板に於て談笑唱歌、各々其好む所に従つて遊戯す、今夕は正に十三夜の朗月大空に懸り、渺茫たる洋中大濤細波悉く金色を揺がし、出帆以来の無聊を一時に忘れ、人をして快哉を呼ばしむ
 昨正午より本日正午迄航程三百八十二哩、正午本船の位置、西経百七十八度十二・北緯二十九度五十一
(五月二十一日、水曜日、美晴、正午寒暖計七十七度) 午前十時より船客遊戯会を開催す、貴女も亦打ち交りて其技を争ひ雌雄を競ふ、予
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は日本人同士一組の内に編入せられ各種の技を演ぜり、即ち一組は四人にして清水・八十島・渋沢・予にして、渋沢と予は清水・八十島の対手なりしが各技とも勝利し喝采を博せり、此演技は午後五時に及んで止む、晩食後船の速力今日の正午より明日の正午迄何百哩を走行するかを賭せんとするの動議あり、即ち此勝負の仲間とならんとする者は各其姓名を周旋役に申出で、而して周旋方より先其申込みの人員に応じて鬮を出し、其鬮に就き之を競売するの仕組にして、凡そ三百八十哩を走るものとせば其前後の数程競買者多き訳にて、予が得たる籤は三百七十哩なりしが一弗のものを三弗に競り上げたるに付、予は之を売り放して二弗を得たり、然るに本日正午より翌廿二日の正午迄の航程は三百七十七哩なりしを以て、其当籤者は第一の賞金八十弗を得其上下十哩の数を得たる者即ち三百六十七哩と三百八十七哩との二者は第二の賞金として十八弗を得たり、凡そ英米人が斯る事柄に付て金銭を賭するの熱心なるは驚くに堪へたり
 昨正午より本日正午迄航程三百八十二哩、正午本船の位置、西経百七十一度三十一・北緯二十七度二十六


竜門雑誌 第一六九号・第四〇―四二頁 明治三五年六月 欧米漫遊中之青淵先生(DK250006k-0009)
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竜門雑誌  第一六九号・第四〇―四二頁 明治三五年六月
  欧米漫遊中之青淵先生
    ○布哇に於ける青淵先生歓迎会
青淵先生の一行が去五月廿三日布哇ホノルヽに到着せしことは別項にも記せるが、同地在留本邦商人同志会に於ては予て先生の来遊を聞き歓迎の準備を為し、鶴首其来着を待ち居たる折柄なりしかば、俄に勇み立ち直に先生及一行の人々を歓迎会場たる正金銀行支店長今西兼二氏の邸に招待したるが、午后十時四十分一行の馬車がワイキヽ橋に達したる頃より数十発の煙火を打揚げ、更に一行の到着を合図に庭園に装置したる仕掛煙火を打揚ぐる等歓迎到らざるなく、斯て一同着席するや今西商人同志会長の挨拶ありて日本料理の饗応に移り、席上斎藤領事の布哇に於ける本邦労働者の既往及現在の状態に関する演説に続て、青淵先生には左の如き演説を為されたり
   ○演説前掲ニツキ略ス。
最後に今西会長の発声にて先づ陛下の万歳を三唱し、次で先生一行の健康と斎藤領事及各新聞記者の万歳を祝し、更に青淵先生の発声にて商人同志会の万歳を祝し、夫より雑談に移り午前一時散会したるが、当夜今西会長よりは先生に布哇製の杖を贈進したる由なり
    ○青淵先生の消息
青淵先生及一行諸氏の消息は梅浦・八十島両君の紀行にて詳なるも、今五月十五日正午横浜解纜後重なる都会より発せられたる電報に由り其消息を見るに、風土気候の異なるにも拘らず、先生及一行の人々皆健勝に其行を前められつゝある趨き、誠に大慶の至りなり
    △布哇よりの電報 (五月廿三日布哇発)
 渋沢男及一行諸氏本日午後七時無事到着、直に同志会歓迎会に出席せられたり

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東京経済雑誌 第四五巻第一一三三号・第九六四頁 明治三五年五月二四日 ○渋沢男の外遊(DK250006k-0010)
第25巻 p.132 ページ画像

東京経済雑誌  第四五巻第一一三三号・第九六四頁 明治三五年五月二四日
    ○渋沢男の外遊
渋沢男爵には夫人の外随伴員市原盛宏・萩原源太郎・八十島親徳・西川メープル嬢(西川虎之助氏の令嬢にして、男爵夫人の通訳として随行)を始め、渋沢元治・梅浦精一・清水泰吉諸氏を伴ひ、愈々去る十五日午前九時二十五分新橋発の列車にて発程、更に同日正午横浜出帆の東洋汽船会社船亜米利加丸にて、海外漫遊の途に上りたり


竜門雑誌 第一七〇号・第八―九頁 明治三五年七月 ○青淵先生漫遊紀行(其二)(八十島親徳)(DK250006k-0011)
第25巻 p.132 ページ画像

竜門雑誌  第一七〇号・第八―九頁 明治三五年七月
  ○青淵先生漫遊紀行 (其二) (八十島親徳)
    △布哇より米国桑港 (第三信)
                    米国桑港六月二日発
五月二十四日正午布哇ホノルヽを発して桑港に向ふ、爾来好天気打続き、海上平穏にして一碧瑠璃を布きたらんが如し、別して今回の航海は船客無慮九十名の多数なりしかば船中種々の催あり、夜に入れば有志相会して翌日の航程に就て賭を為し、昼間は甲板に出でゝ種々の競技会を催ふせしも、遣憾なから男爵一行中には一人の優勝者も無かりき、二十八日夜には仮装舞踏会(フワンシー・ドレツス・ボール)の催あり、男爵の一行並一行以外の邦人も三・四十名の外人に打交りて出席したるが、青淵先生及同令夫人は孰れも和服の盛装を為し、他は左の如き仮装を為したり
 菅原道真   梅浦精一氏  関羽      萩原源太郎氏
 朝鮮の官人  市原盛宏氏  米国令嬢の盛装 八十島親徳氏
 日本の古武士 清水泰吉氏  日英同盟の仮装 西川アキ子嬢
 日本娘風俗  渋沢元治氏
一行以外の邦人にして仮装したるは左の如し
 日本芸妓   高峰譲吉氏  黒奴の娘    同息エビル氏
 黒奴の小供  同息譲氏   支那婦人の盛装 篠田工学士
斯くして船中の日本人は一人も残らず出席したるが、此の如き多数の日本人が外人の催にかゝる遊戯会に出席したるは未曾有の事なりといふ、外人の仮装は流石に其本国程ありて孰れも趣向を凝らせしが、中には我国の人力車夫又は娘姿に打扮したる向もありたり、夕刻一同甲板に集りて撮影を為し、夫より二列を作りて食堂に進み、食事後甲板上定めの場所に舞踏会を開きしが、本邦人は何れも唯だ見物したるのみなりき、日本本国にて之を見れは真個に狂気染たる沙汰なれとも、船中といひ外人間に打混じたることゝて一行は思はずも一日の快楽を沽ひ得たりといふ


竜門雑誌 第一七〇号・第一七―二二頁 明治三五年七月 ○洋行日誌(其二)(梅浦精一)(DK250006k-0012)
第25巻 p.132-137 ページ画像

竜門雑誌  第一七〇号・第一七―二二頁 明治三五年七月
    ○洋行日誌 (其二) (梅浦精一)
(五月二十二日木曜日、晴天) 海上静穏、此日午後船中下等客に麻疹患者を発し、船の検疫掛最も其防禦に勉むと雖も次第に蔓延して、其午後十一時には已に六名の新患者を出せり、夕食後船客各自随意の申
 - 第25巻 p.133 -ページ画像 
込に依り船の速力に就き抽籤を為し、此各籤を競売すること前夜の如し、而して高峰譲吉君は三百六十四哩以下の数に就き前日の勝者某氏と相争ひ、一弗より終に二十一弗迄競り上げたるに其結果は三百六十三哩なりしが故に終に全勝を博し、頗る得意の色あり
 航程三百七十七哩、西経百六十五度十一・北緯二十四度四十七
(五月二十三日金曜日、晴天) 風力頗る強く船の動揺甚だし、為めに船客中船室に閉居する者あり、此日午前九時頃より布哇群島の一なる「ニーハア」島を右に臨み、又暫くして右に(カワイ)島を見る、此島は山高く聳へ、山麓より海岸に至るの平地は大抵耕地にして、所々人家と煙突の散在するを見る、午後三時遠く(オハア)島を見る、此島は(ホノルヽ)府の在る所にして、山色風光極めて佳なり、午後六時三十分船港外に入り投錨す
 航程三百六十一哩、西経百五十九度三十一・北緯廿一度四十
五月廿三日午後六時三十分 本船布哇ホノルヽ港外に投錨、検疫官の到るを待ち受けたり、やがて七時三十分頃小汽船に六・七名の検疫掛を乗せて本船に来り、本船前後の下等室に充満せる移民渡航男女凡そ四百名計りを一名宛検疫したる結果、上等及中等船客は随意に上陸を許すことゝなりたり、前日来我々船客は船中下等客に麻疹患者を発生したるが為め、或は本船の此に数日間拘置せらるゝことなきやを掛念したるに、今や検疫の結果を聞き一同安堵の思ひを為したり
やがて本船の検疫結了するや徐々に港内に向て進行を始め、午後八時頃には桟橋に繋留するに至れり、此時ホノルヽ商人同志会を代表して正金銀行の支店長今西兼二君外四名本船に来訪して曰く、今回渋沢男爵の欧米漫遊の途次此に寄港せらるゝの報を聞くや、此地の商人同志会に於て歓迎せんとて三・四日前より其準備をなしつゝあり、依て男爵及其の一行に直ちに歓迎会に臨まれたしとて馬車数輛を用意せられたり、男爵及我々一行は其厚意を謝し、其会場に充てられたる今西正金銀行支店長の邸宅に赴く、時に午後九時三十分なり
今西君の邸宅はホノルヽ府の東南に当り、市街を距ること凡そ二哩許所謂ホノルヽ府ワイキキ公園の傍らにして、有名なる(ダイヤモンドヘツト)と唱ふる山岳の下に在り、沿道樹木鬱蒼・空気清涼にして神気転々爽快を覚ゆ、御者に導れて其邸第に入れば、同志会員無慮数十名皆礼服礼帽を着けて我等を迎へられたり、玄関入口の室には土人男子六名頻りに奏楽して余興を添へたり、其音楽唱歌は欧米の唱歌に似て非なるものあり、其意味を問へば曰く是れ恋愛の歌なりと、静かに其音調を聞くに少くも多少悲哀の音を含み、彼の朝鮮人の唱歌の如く亡国民の兆なきやとの感を生ぜり、今西君男爵及一行を導きて食堂に入り、席定まるや今西君は立て、男爵は日本商業界の泰斗なり、殊に日本銀行業の今日あるを致したるは男爵の力多とする所なり、今や欧米漫遊の途次此地に寄港せらるゝに当り、我々ホノルヽ日本商人同志会は此偉人に向て聊か航海中の労を慰する為め此に歓迎の宴を開きたりとて開会の趣旨を述べ、次に斎藤領事は布哇貿易の近状を述べ、且つ男爵の演説を促がしたるを以て、男爵は日本人の当布哇各島に移住する者六万余人に及ぶと聞く、然るに土地開墾其他の事業に向て主権
 - 第25巻 p.134 -ページ画像 
を握る者は米国人にあらざれば支那人なりとは甚だ遺憾ならずや、願くば将来日本人が此等事業に向て使役せらるゝの地に立たずして之を主宰するの地に立つ様、同志会諸君に於て益々率先他を掖誘せられんことを望むとの意を以て演述せられたり
今西君は同志会が渋沢男爵の欧米漫遊を健全に果されんことを望む為め、一条の杖を贈呈することに決せりとて恭しく之を捧げて男爵に呈し、男爵は諸君の厚意を感謝する旨を述べ、之を受納せられたり
食事了るの後、会員の一人我々一行の正面に写真機を据へ賓主一同を撮影せり、即ち曰く、此写真は之を太陽記者に送りて日本に此歓迎会を紹介すべしと、時に十二時を過ぐること二十分なり、主客充分の歓を尽して解散せり
我等一行は望月及東陽館に三人宛分かれて投宿し、渋沢男爵及夫人は今西邸に宿泊せられたり、此望月と東陽館は日本人の旅館にして、共に今西邸を距ること一町余、乃ち其家屋は海に面し眺望最も佳なり、其邸宅の面積共に六・七百坪余にして園中各種の樹木繁茂し樹間点々小亭を設く、其趣向愛すべきものあり、東陽館主人は秋田県人にして少年水夫となりて北海道に彷徨し、終に横浜に到り、明治廿三年外国船に乗り込み当ホノルヽに上陸し、爾来四・五年間労働の結果多少の貯蓄を為し、今は妻子を安楽に養ひ得るに至れりと云ふ
東陽館に三十坪内外の建物三棟あり、今の主人は一昨年之を二千円にて購ひ求め、地面は一ケ月米金七十五弗にて賃借せりと云ふ、然るに毎月の収入金百五・六十弗に下ることなしと云へり、其収利の多くして生活の容易なる推知すべきなり
本日正午より(ホノルヽ)港迄航程九十八哩
五月廿四日(土曜日) 午前八時一行皆今西邸に会し、朝餐を喫し了るや用意の馬車を駆て市中を巡覧す、今西兼二・塩田奥造・井上敬次郎の三氏同乗、案内の労を取られたり、巡覧の後日本領事館に立寄り斎藤領事に面会し、此地の主なる産物、砂糖・コーヒー・米の三種に就き詳細なる報告を本国に致されんことを望み、一同本船に帰れり、時に午前十一時三十分なり、同志会諸君桟橋に我等を見送り、楽隊は君が代を奏して我等一行の送別を壮にす、其厚意永く記臆すべきなり、本船正午解纜、更に桑港に向て進行を始む
前夜本船のホノルヽに着するや驟雨ありたれども、僅かに一時間にして晴れ、本日は朝来好晴、本船より市街の山色を望めば其風光絶佳紙筆の尽すべからざるものあり
此日午前七時頃より移民渡航者をして検疫所に移さしむ、此所に於て五日間検疫すと云ふ、今回渡航男女の服装は区々にして殊に婦人は最も不体裁を極む、移民会社たるものは勿論、当局者に於ても多少の注意なきを得んや
 以上横浜出帆よりホノルヽ迄航程三千四百〇一哩
五月廿五日(日曜日) 晴天 前夜来風力稍々加はり、海上波浪高く、船為めに動揺甚だし
 昨廿四日正午ホノルヽ解纜より本日正午迄航程三百六十一哩
 本日正午本船の位置  北緯二十四度四十九 西経百五十二度四十九
 - 第25巻 p.135 -ページ画像 
五月廿六日(月曜日) 曇天 海上静穏船客皆甲板に於て遊戯を試む
 本日正午迄の航程   三百七十七哩
 本日正午本船の位置  北緯二十八度二十一 西経百四十七度四十五
五月廿七日(火曜日) 午前曇天、午後に至り日光を見る、朝来風力強く船の動揺極めて甚だしく、殊に寒気を増し寒暖計は正午六十二度に降下し、「ホノルヽ」に比すれば十五六度の差あり、船客皆俄に夏服を脱して冬服の用意するに至れり
此日午後七時に於て「フハンシイドレスボール」即ち仮装踊会を催すべき事を船長より兼て乗客に触れたれば、乗客は各々其姓名を署して出席すべき旨を申込み、我々一行も亦出席すべき事を諾せり、即ち我等一行の仮装は
渋沢男爵夫婦は 日本服
高峰譲吉君は 日本芸者、京都の舞子に似たるもの、眼鏡を掛け、鬚あり、一種の怪物と評すべし
清水泰吉君(第一銀行文書課長) は日本老紳士を仮装し、其上下は日本・米国・布哇の三新聞の古紙を以て作り、其紋章は前面左右に日英の旗章を付し、脊には米国の旗章を付し、大小を差し、髱は麻にて白髪を仮装して作りたるものを着け、顔は皺だらけに絵取りたり
八十島親徳君(渋沢男の秘書) は西洋の少女に擬す
渋沢元治君は 日本令嬢に扮装して人形を抱く
萩原源太郎君(商業会議所書記長) は顔を赤く色どり、持前の鬚を利用し青竜刀を提げて、関羽を擬装せり
拙者(即ち梅浦君) は天神様を仮装したり、頭には黒き草紙にて作りたる冠を戴き、手に御膳杓子を持ち、羽織を前後に着し、其正面に白紙にて梅鉢の紋章を貼り付け、袴は飯島かね子夫人の長袴を借用し、窓掛けの六尺余の長きものを袴腰に挟みたり、顔は赤く色どり所謂化粧眉毛を黒く画きたり
市原盛宏君(第一銀行横浜支店長) は白の筒袖寝衣を着し、朝鮮人の常に着用する帽子の如き冠をブリツキにて作り之れを戴き、ステツキの先きにブリツキにて大なる煙管の首を付けたるものを持ち、乃ち朝鮮人に扮せり
篠田恒太郎君(神戸川崎造船所の技師) 欧米八ケ国工業視察の為め我等一行と同乗せらる、即ち当夜は我等と共に仮装会に臨むこととなり、即ち同君は支那古代の貴女に扮装せり
日本人同士にては我々こそ今夕第一の喝采を博すべしと各々勇んで時刻遅しと会場に臨みたるに、豈図らんや外国の貴女紳士は中々我々の及ばざる考案と扮装とを以て我々に一驚を喫せしめたり、其扮装中或は黒奴或は日本人力車夫、又は布哇の婦人若くは古代英国の武士抔、種々の仮装中貴女の一人は髪をイテウに結び日本の待合女中風に擬したる者当日投票第一の高点を博したり、而して此投票は我々一行の投票のみなりし
午後七時三十分より一同甲板に整列、八時三十分より食堂に入り、食事の間にも談笑諧謔、恰かも狂する許りの有様なり、此間に船長は立て渋沢男爵及夫人の健康を祝し、或は乗客中船長の健康を祝し、此亜
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米利加丸の無事航海を果さんことを祈ると発言するものあり、或は乗客一同の万歳を唱ふる者あり
食事了りて一同甲板に至れば直ちに奏楽と共に舞踊に移り、十一時に至りて漸く止む
蓋し此仮装会の如き、冷語を以て之を評すれば稍々狂気の沙汰と云ふが如しと雖ども、船中数日の無聊を慰し、又想郷病を医するの一助としては、如此諧謔的の挙動も亦必要ならんか、他日此点に就ては更に詳論する所あるべし
此に補遺すべきは、渋沢男爵夫人の通弁兼腰元として日本より同伴せられたる西川令嬢は僅かに日本語を解する迄にて、服装・言語総て米人に異ならず、此令嬢当夜の扮装は日米の国旗を交叉して頭髪に挿み亦日米の国旗を被服とせり、此意匠の外国の紳士に適したる故にや、当日投票第二の高点を得たり
日本の女中に扮したる米国貴女は我々日本人の為めに高点を博し、西川令嬢は外国紳士の投票に依りて高点を得たり、以て彼我見解批評の別、人情風俗の異なる知るべきなり
萩原君関羽の仮装に付更に説明すべきものあり、其装束は更紗風呂敷又は窓掛け等を以て支那古代の武勇を表する丈けに仕組み、其頭は先生日本出立の際特に妻君より恵まれたる越中犢鼻褌を以て包みたるは当日悴の代はりに大切なる頭脳を保護するものならんと思ひきや、是れ船暈を予防するの呪ならんとは、而して其の冠は先生乗船以来昼夜身辺を離さず携帯せる唾壷ならんとは、先生用意の周到なる我々一行をして敬服せしむると同時に、亦以て先生が其顔色の勇壮なるに似ず船中第一の弱虫なるを証すべきなり
 本日正午迄の航程   三百七十九哩
 正午本船の位置    北緯三十一度四十五 西経百四十七度五十二
五月廿八日(水曜日、曇天) 昨夜来冷気益々加はり、更にオバーコートの必要を感ぜり、船中新聞の発行あり、即ち昨夜アンシイボールの景況を細かに述べ立て批評する中にも、ポンチ絵を添て暗に仮装紳士貴女特得の品性を諷するものあり、其ポンチ絵の内に胃袋を画き其下に高峰博士の発明専売薬タカジアスデイの効能を書きたるが如きは、暗に同博士が乗船以来痛飲暴食を諷したるものならんか
午後十時より食堂に於て絵画の陳列会を催すに付き来観あるべしとの広告に依り、我等一行も陳列場に入りたるに、食卓の上に破皿、葡萄酒の明瓶、靴、鶏卵、蝋燭、杖、角砂糖、新聞の古紙等其他種々雑多なるもの三十六・七点に、一・二・三と番号を付したるものを陳列し入場の際来観人に渡したる目録に記したる三十六・七点の陰語に対し此等陳列物品の謎を解せしむるの趣向にして、来観の貴女紳士は熱心に各小首を傾け考案に余念なかりしが、やがて一時三十分計りを過ぎて各々考案の了りたる時刻を計り、催主は声高に何の陰語は何番、何何は何番と読上げ、誰某は高点、誰某は次点なりと宣告せり、是れ又船中の無聊を慰するの趣向としては誠に面白し(即ち我福引の類ならん)右陳列会の了りたる時、渋沢男爵夫人は貴女紳士より予ての約束に基き日本服にて食堂の正面に座し、極めて高調子にて長歌の鶴亀を
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奏せられたるに、満堂の喝采は耳を聾する計りなりき、独り我々一行日本人は貴女紳士より、其歌の何たるや、且つ其技の巧拙迄も問ひ詰められ、之に向て満足なる説明を与ふること能はざりしは甚だ遺憾なりき
 本日正午迄の航程    三百七十哩
 本日正午本船の位置   北緯三十四度二十三 西経百三十五度三十七
五月廿九日(木曜日、快晴) 昨夜来波濤高く、本船の動揺甚だしかりしも、数日間の経験に依り船暈を感ずることなかりし、只一行中カビンを出でざりし者は萩原君のみ
船の桑港に近くや仮令風なくも船の動揺を感ずること甚だしきは毎航其例なりと云ふ、蓋し潮流上下の作用ならんか
明朝桑港着の故を以て祝意を表する為めか、本船食堂に巾二三寸の色紙を天井より釣るし、其間に米日両国の国旗を交叉して高く掲げて装飾し、晩食は殊に珍味佳肴を撰みて、献立は通例よりも遥かに数多かりし、而して銘々の食卓に「ポンポン」一個宛を備へり、「ポンポン」とは各種の色紙にて作りたるものにて、之を左右に強く引くときは其分裂すると共に轟然音を発して、其中より紙製の帽子若くは翫弄物を出現す(即ち祝意を表する時に用ゆるもの)
食後各々其ポンにて中より得たる各種の色帽を被むり、互に打興じて目出度明日の安着を祝せり
 本日正午迄の航程   三百七十七哩
 本船の位置      北緯三十六度三十三 西経百二十六度五十
○下略


竜門雑誌 第一七四号・第五八頁 明治三五年一一月 ○青淵先生令夫人の和歌(DK250006k-0013)
第25巻 p.137 ページ画像

竜門雑誌  第一七四号・第五八頁 明治三五年一一月
  ○青淵先生令夫人の和歌
    ○亜米利加へ赴く途上布哇に上陸したる夜、今西氏の邸にて在留日本人の厚きもてなしを受けゝれば
みな人のあつきこゝろのけふの席
     布哇の国にあかす夜半かな


竜門雑誌 第五四二号・第四七―五一頁 昭和八年一一月 太平洋上船中の仮装会(明治三十五年五月)(渋沢元治)(DK250006k-0014)
第25巻 p.137-140 ページ画像

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〔参考〕東京日日新聞 第九一七六号 明治三五年五月八日 送渋沢男爵与夫人游欧米列国(DK250006k-0015)
第25巻 p.140 ページ画像

東京日日新聞  第九一七六号 明治三五年五月八日
    送渋沢男爵与夫人游欧米列国
                    雲心大庭景陽
 何須把酒説離群。此去観光手暫分。湖海声誉誰肯敵。
 邦家経済独推君。蒲帆穏渡束瀛水。鉄路遥連大陸雲。
 料識名都花若錦。冠裳裙衩並芳芬。
  詞達意鬯、而不肯降格、結響自高、未旬帯叙夫人、完題周密。
                      菊地澹人