デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
3節 外賓接待
1款 アメリカ前大統領グラント将軍夫妻歓迎
■綱文

第25巻 p.507-537(DK250036k) ページ画像

明治12年8月25日(1879年)

是日、東京府民ハ上野公園ニ明治天皇ノ臨幸ヲ仰ギ、又グラント将軍夫妻ヲ招請ス。栄一御臨幸委員総代トシテ斡旋ス。


■資料

雨夜譚会談話筆記 下・第八七三―八七六頁 昭和二年一一月―五年七月(DK250036k-0001)
第25巻 p.507-508 ページ画像

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御紀資料稿本 四五七 明治一二年八月二二日―三一日(DK250036k-0002)
第25巻 p.508-510 ページ画像

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東京日日新聞 第二二八六号 明治一二年七月二一日 【○本日ハ午前八時より…】(DK250036k-0003)
第25巻 p.510 ページ画像

東京日日新聞  第二二八六号 明治一二年七月二一日
○本日ハ午前八時より東京府会(議員但十五区)同各区会の正副議長並に重立たる議員一人づゝ商法会議所委員一同とも府庁議事堂へ集会せらるゝよし、聞く処に拠れバ近日上野公園地に 聖上の御臨幸を願ひ奉るの協議なりとか云ふ


東京日日新聞 第二二八七号 明治一二年七月二二日 【○昨廿一日の雑報へ記…】(DK250036k-0004)
第25巻 p.510-511 ページ画像

東京日日新聞  第二二八七号 明治一二年七月二二日
 - 第25巻 p.511 -ページ画像 
○昨廿一日の雑報へ記したるごとく、同日午前八時を以て東京府会議員一同十五区々会正副議長並に重立たる議員・商法会議所の議員一同ハ東京府の議事堂に集会す、府知事楠本君出場ありて、衆員に向ひ今度府民より恐くも 聖上の御臨幸を上野公園に乞ひ奉り、叡慮を慰さめ奉り度と懇願の次第もあり依て其筋へ内々御都合を伺ひたるに、事もとより至尊を敬ひ奉るの美意に出て決して不相当の願ならねば勅許もあらせらるべきやの御内意のありしにつき、各員ハ府民の代議士たれバ此事を議せしめんため斯く参会を申入れしなりよろしく協議決定ありたしと演説せられけれバ、衆員みな府会議長福地源一郎氏を推て当日の議長に挙げたり福地氏ハ首座を採りて府知事の演説に亜ぎ畏こくも 聖上の御臨幸を仰ぎ奉らんと存じ立たる事ハ必ず突然に起りしにあらざるの理由を演られ、尚ほ其可否を問はれしに満場みな千歳一時の光栄とし之を賛成し、総起立なりけれバ遂に御臨幸を仰ぎ奉るの請願書を公に差し出す事に決せり、於是議長ハ各員に向ひ或る議員ハ入費に掛念せられしと雖も、聞く所によれバ此事を内奏せられしおり辱くも 聖上にハ朕この請を許すが為に細民の悩みにハ相ならざるやとの勅諚なりけれバ、さる事ハあるまじく候へども尚ほ取調べ奏聞し奉らんとて之を府知事に下問あり、知事よりハ此事たる銀行・会社或ひハ富有の者ともの篤志に出る集金にて取賄ひ毫も決して細民の難儀にハ相成申さゝるの旨を申され再び斯と奏聞せられしにぞ 聖上にハ頗る御心やすくおぼしたる御景色なりしと、入費云々の義ハ議員の掛念より前に勿体なくも 聖上の御懸念在らせらるゝ所なれバ少しも夫等の御心配にハ及バざるとの趣意を懇ろに述られたり、夫より委員選挙に付き種々の説ありしが遂に府会議長福地源一郎氏と商法会議所会頭渋沢栄一氏とを委員長とし、委員長より指名を以て定むる事に議決し其選に当る者左のごとし
府会  福地源一郎 堀田正養 山中市兵衛 丸山伝右衛門 吉川長兵衛 守田治兵衛 辻純市 安田善次郎 大倉喜八郎 橋本清左衛門 鹿島清左衛門
商法会議所  渋沢栄一 益田孝 小室信夫 渋沢喜作 成島柳北 米倉一平 中山譲治 津田仙 条野伝平 子安峻 三野村利助 久原庄三郎 朝吹英二 野村定八
特別委員  池田章政 蜂須賀茂韶 岩崎弥太郎 三井八郎右衛門
此外に十五区より一名宛を出すべく(但シ下谷・神田ハ二名づゝ)又都合によりてハ特別委員を増す事に決したり、夫より右の御臨幸委員ハ御臨幸請願書を認めの件並に御臨幸当日の順序招請すべき人名の取調べ其他種々の手続き等を議し終り、午後一時に及びて散会せられしとぞ」右に付き御臨幸委員ハさしむき商法会議所を以て其事務所と定め、近日の内に上野公園内に其出張所を設けらるべし、又諸事の相談を右の委員にて取極めたる上ハ、委員中へ夫々の幹事を定め専ら其の取扱をなさしむる積なりと聞く


郵便報知新聞 第一九四六号 明治一二年七月二五日 社説 上野公園ニ 聖駕ヲ奉迎スルノ議(DK250036k-0005)
第25巻 p.511-513 ページ画像

郵便報知新聞  第一九四六号 明治一二年七月二五日
 ○社説
 - 第25巻 p.512 -ページ画像 
    上野公園ニ 聖駕ヲ奉迎スルノ議
今般府下ノ市民ハ、上野公園ニ 聖上ノ臨御ヲ願請シテ天顔ヲ咫尺ニ拝セント欲シ、略其準備ヲ整ヘ将サニ勅許ヲ得ントスルニ至レリト、余輩ハ市民ガ此企テアルノ主意ヲ伝聞スルニ、聖上ニハ既ニ西北諸道ニ巡幸マシマシテ親シク各地人民ノ疾苦ヲ問ハセ玉ヒ、各地人民モ亦天顔ヲ咫尺ニ拝スルノ幸福ヲ得タリト雖モ、唯リ東京府下ノ人民ハ輦轂ノ下ニ棲息スルノ幸ハアリナガラ、未タ竜顔ヲ咫尺ノ間ニ拝スルノ機会ヲ得ズ、因テ今般 聖上ノ上野公園ニ臨御セラレン事ヲ願請スルニ至リシナリト、余輩ハ府民ノ此盛挙アルヲ聞キ抃舞シテ之レヲ喜ヒ府民ノ尊王ノ志ニ篤キヲ称賛シテ、且ツ其 聖上ノ臨御ヲ願請スルノ主意ニ就テモ固ヨリ理ノ当然ニシテ、所謂吾王不遊吾何以休ト云フノ衷情ニ発シタルモノナルヲ信スルナリ、是ヲ以テ余輩ハ聖上ノ臨御ヲ請フノ事ト其事ヲ企ルノ主意ニ於テハ、毫モ間然スル事ナキノミナラズ、疾クヨリ府民ノ此事アラン事ヲ希図シタリキ、啻ニ希図スルノミナラズ、宜シク此事アルベキヲ主唱セントシタリシナリ、然リト雖モ熟々考察シテ聖駕臨幸ノ時節ト事情トニ立チ入リテ愚意ヲ廻ラストキハ、今日ニ当リテ府民ノ臨御ヲ願ヒ奉ルハ、或ハ事ノ宜キニ適ハザルガ如キノ感ヲ発セサルヲ得ズ
余輩ハ今 聖駕ノ臨御ヲ請フノ事ト其事ヲ企ルノ主意トハ最モ欣喜シ称賛スル所ナリ、然レトモ唯其事ヲ行フノ時節ト事情トニ係リテ、間然スル所アルヲ述タリ、其所謂時節ト事情トハ何事ヲ言フカ、余輩ハ府下有志ノ紳士諸君ニ対シテ少シク言フニ忍ビザルノ事情ナキニアラズト雖モ、紳士諸君トテモ此事ヲ企ルハ、唯 聖天子ヲ仰望瞻慕スルノ誠意ヨリ出テタルノ盛意ニ外ナラザレバ、即チ余輩ガ此説ヲナシテ臨駕ヲ請フノ宜キニ適ハサルヲ述ルト、其意ノ在ル所全ク同一ナルヲ以テ、庶幾クハ余輩ノ言論ヲ容ルヽアラン
余輩ノ聞ク所ニ拠レバ、 聖上ノ臨駕ヲ上野公園ニ請ヒ奉ルハ米国ノ前大統領克蘭度君ヲ同園ニ招待スルト其日ヲ同フスト、果シテ然ラバ愚意ノ及ブ所此事ノ宜キニ適ヘルヤ否ニ惑ハサルヲ得ズ、克蘭度君ヲ公園ニ招請スルノ事ハ已ニ前日来世人ノ喋々スル所ニテ、天下ノ人、克蘭度君ノ為メニ府民ガ此事ヲ企テタルヲ知ラザルモノナシ、今ヤ府民ノ 聖駕ヲ奉迎スルハ固ヨリ克蘭度君ヲ招請スルノ事アル序ニ此事ヲ行フニアラズ、 聖上ヲ迎フルハ是レ特別ノ事ナリ、故ニ其費金等ノ如キモ別派ニ支出スルニ至リシカバ、其克蘭度君ノ事ニ関セザルハ余輩ノ万々保証スル所ナリト雖モ、衆心衆口ノ余輩ト意想ヲ同フセザルモノアルヲ如何ンセンヤ、此等ノ事情アルガ故ニ、余輩ハ至尊ニ対シ奉リテ府民ノ願請スルモノ或ハ至極至適ト称スルヲ得ズ、若夫レ臨御ヲ奉迎スル事ノ克蘭度君ニ関セズ全ク特別ノ事ニテ、且其費金モ市民別途ニ支出スル所ナリトセハ何ゾ全ク克蘭度君ノ事ニ関セザルノ日ニ於テ事ヲ行ハザル、臨御ヲ請フノ事モ克蘭度君ヲ招請スルノ事ト全ク別殊ニテ、其費途モ別殊ナラハ其事ヲ行フノ日モ別殊ナラザル可ラズ、是レ実ニ至当ノ事ナリトス、然レトモ余輩或ハ別日ヲ同日ト誤聞シタルヤモ計ラレズ、若シ果シテ誤聞ニテ 聖駕奉迎ノ日ト克蘭度君招請ノ日ト固ヨリ異日ナリトセバ、全ク事ノ宜ヲ得タルモノトスルガ
 - 第25巻 p.513 -ページ画像 
果シテ斯クノ如クンハ事情ニ於テハ憚ル所ナシト雖モ、時節ニ於テ少シク快カラサル所ナキニアラズ、試ニ看ヨ、今日ハ是レ如何ナル時節ゾ、酷暑燬クガ如ク実ニ堪ヘ難キ三伏ノ炎天ナラズヤ、況ンヤ悪疫流行ノ兆アリテ、市民頗ル恟々タルノ間ニアリ、此時ニ当リテ 聖駕ヲ公園ニ奉迎スルハ畏レ多キ次第ナリト言ハザルベカラズ、論者或ハ言ハン、若シ 聖上ニ忌ム所アラハ克蘭度君ニモ亦忌ムベキノ理ナリト是レ大ニ然ラズ、克蘭度君ニハ向ニ之ヲ請フテ已ニ之ヲ許シ、且其遊歴ノ時限モアレバ今日ヲ以テ此饗養ヲナサヽル可カラズ、是レ実ニ已ムヲ得サルモノナリ、唯夫レ 聖上ハ然ラズ、今日ヲ以テセザルモ市民果シテ其志アラバ、時気宜シキ時ヲ俟テ此事ヲ行フモ決シテ晩シトセザルナリ、且夫レ克蘭度君ヲ招請スルニ関セズシテ事ヲ行フノ主意ナリトセバ、何ゾ必シモ此時ヲ以テセン、我府下ノ士民、吾王不遊吾何以休ント云フノ忠誠アリ、若夫レ 竜顔ヲ咫尺ニ拝スルノ幸福ヲ得バ何ゾ其費ヲ憚ランヤ、是レ余輩ガ此盛挙ニ就テ紳士諸君ノ意ニ中ラサルノ言論ヲ呈シ、今日此事ヲ行ハサルノ宜キヲ演フル所以ナリ


(芝崎確次郎) 日記簿 明治一二年(DK250036k-0006)
第25巻 p.513 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記簿  明治一二年   (芝崎猪根吉氏所蔵)
七月廿六日 晴
例刻出頭、増田啓蔵接待方用ニ付上野ヘ罷出、本社関係不致候事 ○下略


郵便報知新聞 第一九五四号 明治一二年八月四日 【御臨幸委員並各区の…】(DK250036k-0007)
第25巻 p.513-514 ページ画像

郵便報知新聞  第一九五四号 明治一二年八月四日
○御臨幸委員並各区の委員・区長等本日府庁議事堂へ参集、別紙甲号の通り府知事より御口達に付反覆討議せし処、何分不得止次第柄に付遺憾ながら決議の次第府知事へ及上申、別紙乙号の通り各区へ御達相成候に付、甲乙号ともに明日の新聞紙へ御登録相成度、此段御依頼申進候也
  八月三日                御臨幸委員
    報知新聞社 御中
甲号
    御臨幸委員ヘ府知事ヨリ御口達之写
 聖上御臨幸奉願其誠心ノ徹スル所忝クモ 勅許ヲ蒙リ唯府民ノ幸福而已ナラス府知事ニ於テモ無窮ノ欽慶相共ニ可賀ノ至リナリ、然ル処御日取ノ儀ハ決定ノ上一同ヨリ可申立事ニ相成居候間右ニ付今日召集ニ及ヒ候次第ナリ、抑御待受ノ手順モ粗相運ヒ居候趣然ルニ生憎虎列剌病ノ顕兆モ有之懸念不尠、尤尋常集合ノ如ハ其招キニ応シ候丈ケノ人員ニテ格別ノ事モ無之候得共、抑 臨御ト相成候上ハ管下一般ノ人民喜躍ノ余リ群集奔馳形容スヘカラサル雑踏ヨリ自然病勢ヲ増ス事モアラン、兎ニ角上ノ御気色如何ト両大臣ニ依リ御摸様相伺候処何レト云ハヽ此盛暑ヲ御避ケ被成候方被為好候 思召トノ義ニ有之、右ハ全ク御内輪ノ事ニ付公然御日取上申ニ及差図ヲ可受哉御日取ノ緩急議定ノ日ニ付添テ及陳述候条衆議決定ノ上可申出事
乙号
 府下十五区ヨリ先般上野公園ヘ 御臨幸請願勅許ヲ蒙候ニ付、速ニ御日取決定ノ上可相伺筈ノ処、上ニ於テハ此盛暑ノ候御避ケ被成度
 - 第25巻 p.514 -ページ画像 
トノ御気色ヲ承リ候ヨリ、不得止御日取追テ可相定事ニ決定候旨委員一同ヨリ申出候、右ハ 玉体ニ対シ御案シ申上候処ヨリ前条ノ次第ニテ、至極尤ノ評決ニ有之候条、決定ノ次第可申諭事


郵便報知新聞 第一九五四号 明治一二年八月四日 【今般府会・区会・商法会…】(DK250036k-0008)
第25巻 p.514 ページ画像

郵便報知新聞  第一九五四号 明治一二年八月四日
○今般府会・区会・商法会議所等の議員が府下総人民の委員の名を以て上野公園地へ 至尊の御臨幸を仰き奉らんとの請願書に府知事が添願を附せられ太政官へ伺ひ奉りし処、去卅一日知事の添願に「願ノ趣聞召サレ候事」と辞令を付して下られしかハ、御日限ハ改めて出願する趣に聞及ひたり、然るに昨日更めて炎熱酷暑に際し且つ悪疫流行し益々蔓延の姿に付秋冷の候に至るまて御見合せの旨仰出されしかハ、委員等ハ府庁に集会して再願に及ハんと衆評を問ひしに、重て請願し奉るハ如何にも畏多き次第なれハとて止みたりとぞ


東京日日新聞 第二二九八号 明治一二年八月四日 【○昨三日の午前八時よ…】(DK250036k-0009)
第25巻 p.514-515 ページ画像

東京日日新聞  第二二九八号 明治一二年八月四日
○昨三日の午前八時より御臨幸委員の人々ハみな東京府の議事堂に集会して上野御臨幸御日取の事を議せられたり、其議を開きたるハ九時半過にて、府知事楠本君ハ正面に着座して左の如き口達を致されたり
 聖上御臨幸奉願、其誠心ノ徹スル所忝クモ 勅許ヲ蒙リ、唯府民ノ幸福而已ナラス、府知事ニ於テモ無窮ノ欽慶相共ニ可賀ノ至リナリ然ル処御日取ノ儀ハ決定ノ上一同ヨリ可申立事ニ相成居候間、右ニ付今日召集ニ及ヒ候次第ナリ、抑御待受ノ手順モ粗相運ヒ居候趣、然ルニ生憎コレラ病ノ顕兆モ有之、懸念不尠、尤尋常集合ノ如キハ其招キニ応シ候丈ケノ人員ニテ格別ノ事モ無之候得共、抑 臨御ト相成候上ハ管下一般ノ人民喜躍ノ余リ、群集奔馳形容スヘカラザル雑沓ヨリ、自然病勢ヲ増事モアラン、兎ニ角 上之御気色如何ト両大臣ニ依リ御模様相伺候処、何レト云ハヽ此盛暑ヲ御避ケ被成候方被為好候
 思召トノ義ニ有之、右ハ全ク御内輪之事ニ付、公然御日取上申ニ及ヒ差図ヲ可受哉、御日取ノ緩急議定ノ日ニ付、添テ及陳述候条、衆議決定ノ上可申出事
是より福地君ハ議長の座に着きて各員の意見を問ハれたるに、或ハ今一応書面を以て速に御臨幸あらせられ度と請願すべしと論じ、あるは書面にて炎暑の折ハ御避あそばされ度の御景色なれバ、秋冷の時に至りて御臨幸ならせ玉ふべしと、其筋より公に御達しあらん事ぞよかるべしと論じ、何れも今日の好機会を失ひ、外国の大賓をして我日本の国ハ君臣上下の親和ハかくの如くなると云ふ事の実証を示すあたハざるを惜み、又府下一同に取設けたる折角の用意もあだ事と成りぬべきを惜み、果ハその為に府下の人気をも幾許か損ぬべきを憂ひ、色々まちまちに評議を尽したれども、固より暑中を好ませ給ハざるとの御気色を知りながら、強に願ひ奉るハ恐れあり、畢竟 叡慮を慰め奉るの本願にも背くの事ならんとて、左の通りに決議せり
 一内々の御気色を窺ひ奉るに、此節の暑中よりハ秋涼の気候をぞ好ませ給ふとの御事なれバ、謹みて其意を体し奉り、他日季候よろ
 - 第25巻 p.515 -ページ画像 
しき時を待ちて上野御臨幸の御日取を申上、更に表向に其日を願ひ奉るべし
 一上野公園内に只々用意最中の支度どもハ、一旦これを取片付け置き、他日御臨幸の御日取り相定るを待ちて、再び其節の取設けをなすべし
 一御臨幸委員ハ、今日の如く依然これを存して事務を担当すべし、但し幹事ハ取片付を済し次第にこれを止むべし
 一上野公園ハ御臨幸までハ府民の用意中なれバ、其の用意ハたとひ目今不用たりとも之をグラント接待の為にハ流用せざるべし、且つ接待委員にて上野公園を其用に充て度しと望とも、御臨幸委員ハ之を肯ぜざるべし
右畢りて、議事を散じたるハ午後二時頃なりき、尤も此日の議事ハ信に止ん事なき訳より出たる事なれバ、委員ハ概ね失望の余りに、慷慨悲憤を感激し、一時ハ議事もいかゞ纏るべきかと案じらるゝほどにてありしと聞く
右の如き決議なりけれバ、府知事ハまた市中にて御臨幸御日延べの事を突然に聞きたらバ、失望の余りに無暗の振舞をなす事もあらんかと案じられて、即日に左の如き達を出されたり
 府下十五区ヨリ今般上野公園ヘ 御臨幸請願 勅許ヲ蒙リ候ニ付、速ニ御日取決定ノ上可相伺筈ノ処 上ニ於テハ此盛暑ノ候御避ケ被成度トノ御気色ヲ承リ候ヨリ、不得止御日取追テ可相定事ニ決定候旨委員一同ヨリ申出候、右ハ 玉体ニ対シ御案シ申上候処ヨリ前条ノ次第ニテ、至極尤ノ評決ニ有之候条、決定ノ次第可申諭事
扨て御臨幸委員の会議も既に散じたれバ、此度ハ中食後に改て接待委員の会議を開き、渋沢君その議長となりて、上野ハ既にグラント接待にハ遠慮あり度と御臨幸委員より望まれたる筋もあれバ、場所ハ如何すべき、また其取扱方ハ如何にて宜しからんと問を出し、是にも種々の評議を尽し(中にハ御臨幸御日延に付き失望の余りに、其怒を接待委員に遷したる人もありしとぞ)たる末に、左の如く決したり
 一グラント君ヘハ上野の園会と申込たれども上野の場所さし支とある以上ハ外に之に換るべき場所もなけれバ吹上の禁苑を拝借して園会《ガーデンパーチー》を開くべし、但し禁苑拝借の義ハ今朝府知事を以て両大臣へ内願せし処御聞済あるべきの様子なり
 一右園会の時刻および馳走振り等ハ、総て委員長の見計ひに任せ、委員長ハ委員中より適当の人を選びて夫々の掛りを定め、幹事を命ずべし
右にて議を畢りたるハ午後三時半すぎなりきと聞けり


東京日日新聞 第二三〇一号 明治一二年八月七日 【○一昨五日に接待委員…】(DK250036k-0010)
第25巻 p.515-516 ページ画像

東京日日新聞  第二三〇一号 明治一二年八月七日
○一昨五日に接待委員の人々ハ、上野の精養軒の庭にて槍術の稽古を一覧せられたり、ヘンネツシー君・井上参議・上野公使ハおのおの其夫人を伴ひ、蜂須賀茂詔君も来観せられたりと、また昨日ハ楠本府知事、渋沢・福地の両委員長並に委員渋沢喜作・条野伝平の諸君ハ吹上の禁苑を拝観せられたり、是ハ近日グラント君を迎接するの用意をせ
 - 第25巻 p.516 -ページ画像 
らるゝ為なりと云ふ


東京府布達全書 明治一二年(DK250036k-0011)
第25巻 p.516 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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郵便報知新聞 第一九六八号 明治一二年八月二〇日 社説 読東京日日新聞(前回ノ続)(DK250036k-0012)
第25巻 p.516-517 ページ画像

郵便報知新聞  第一九六八号 明治一二年八月二〇日
  社説
    読東京日日新聞(前回ノ続)
吾曹記者揚言シテ曰ク、常ニ名望ノ先進ニ帰スルヲ快トセザルノ嫉妬偏執ヨリシテ巧口簧ノ如ク、遂ニコノ盛事ヲモ尚ホコレヲ毀傷セント欲スルノ輩ナキニ非スト、識者若シ此一言ヲ玩味セバ、吾曹記者ノ胸中ハ破璃窓底ヲ見ルガ如ク、其意ノ存スル所ヲ洞観ス可キナリ、蓋シ此言ハ常ニ吾曹記者ノ胸中ニ蟠ツテ終始消散セザルノ迷霧ヨリ生シタルノ語気ニシテ、自家ノ失望ハ其原因アリテ名望ノ自已否ナ先輩ニ帰
 - 第25巻 p.517 -ページ画像 
スルヲ計算シタルナリ、事 乗輿ニ関スルヲ以テ余輩ハ敢テ之ヲ明言セズト雖モ、吾曹記者ガ此言ヲ放テ此事ヲ論ジ、以テ忌憚スルコトナキハ抑モ何ゾヤ、且夫レ 御臨幸ハ全ク廃止ニ帰シタルニアラズ、僅カニ時日ヲ延引シタルノミ、而ルニ尚ホ之ヲ憾ンデ怨語ヲ放ツガ如キ余輩ノ解セザル第四也
又吾曹記者ガ 御臨幸ヲ仰ギ奉リテ、外賓克蘭度君ヲシテ君臣調和ノ情態ヲ観セシメ、冥々ノ中ニ於テ我国権ヲ外交上ニ保タント以心伝神ノ秘訣ナリト明言スルニ至リテハ、余輩ハ 御臨幸請願ノ一事ハ実ニ不可思議千万ナル事共ナリト云ハザルヲ得ズ(此論ニ就テハ已ニ他人ノ之ヲ論シテ紙上ニ載ルアリ)若シ夫レ吾曹子ノ言ノ如クンバ 御臨幸ノ請願ハ外交秘事《ジプロマチツク》ヨリ起レルモノニシテ、所謂 御臨幸委員ナルモノハ冥々ノ中ニ外交官ヲ以テ自ラ任ズルガ如キ情態ナキニアラザルナリ、余輩ハカノ府民総代ト唱フルモノヽ願意ニヨリテ、曾テ此盛事ノ美ニシテ、唯時節事情ニ適セザルヲ論ジタルニ、何ゾ図ラン此秘事ノ願書中ニ含蓄セントハ、余輩ハ謹ンテ総代諸君ニ問ハン、諸君ハ悉ク願請書面ノ言外ニ国家ノ大勢(吾曹記者ノ語ヲ用ユ)ニ関スル事アルヲ御領知ナサレシヤ、御調印ノ其節ハ右御承知ノ上領諾シタリヤ、若シ此盛事ノ外交政略ヨリ生ジタルモノニシテ、請願書中ノ意義(天顔ヲ拝シテ歓喜ヲ尽ス等ノ事)ハ第二ニアリテ、克蘭度君ヲシテ之ヲ観セシムル如キ外交政策ノ秘訣ナル事情ニ基クモノトセハ、克蘭度君已ニ我国ヲ去ラバ、良シヤ秋涼ノ候ニ赴クモ 御臨幸ヲ願請スルノ甚ダ緊切ナラザルヲ信ズルナリ(未完)
 余輩此文ヲ草シ了ルノ時ニ当リ、来ル二十五日 御臨幸アラセラルベキノ新聞ヲ得タリ、依テコヽニ明言ス、此論ハ往日 御臨幸ノ事ニ属スル日報記者ノ文章上ニ関スルモノ也、今般 御臨幸ノ事ト全ク相聯貫セズ、読者混視スル勿レ、猶ホ続々余輩ノ意見ヲ吐露スベケレバコヽニ之ヲ記ス


東京日日新聞 第二三一五号 明治一二年八月二三日 【○一昨日上野の精養軒…】(DK250036k-0013)
第25巻 p.517 ページ画像

東京日日新聞  第二三一五号 明治一二年八月二三日
○一昨日上野の精養軒において、府知事より御臨幸委員へ口達せられたる大略ハ昨日の紙上にも掲げしが今ま其写しを左に掲録す
 昨日 ○十九日カ及布達置候通来廿五日 思召ヲ以 臨幸被仰出タリ、抑曩日御日取之儀ニ付テハ、炎暑且悪疫之顕兆有之候処ヨリ秋冷ヲ待チ再ヒ上申候事ニ相決シ、右上奏ニ及ヒ聞食サレ居候末、下情失望ヲ察セラレ前陳之通リ 仰出サレタル儀ニ恐察仕ルナリ、実ニ歓躍中恐入タル儀ニ有之、今日ハ秋暑未除悪疫モ全ク撲滅ニ不至際ナレハ最前秋冷ヲ待チ更ニ御日取上申スヘキノ衷情ヲ不失、今般之 御臨幸ニハ諸般手廻シニ相運ヒ 御駐輦モ永ク時間ヲ費サヽル様注意可致、又武技・煙火等 天覧ニ供スヘキモノハ已ニ御沙汰ニ不被及旨被 仰出タル儀ナレトモ、已ニ用意相整候分其儘ニ相成候テハ益遺憾ニ可有之ニ付、何々ノ用意相整候哉拙者迄申出候様可致候


東京日日新聞 第二三一六号 明治一二年八月二六日 ○上野公園 御臨幸の記(DK250036k-0014)
第25巻 p.517-520 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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東京日日新聞 第二三一七号 明治一二年八月二七日 ○上野御臨幸形況の拾遺(DK250036k-0015)
第25巻 p.520-521 ページ画像

東京日日新聞  第二三一七号 明治一二年八月二七日
    ○上野御臨幸形況の拾遺
○上略 此日の御先導並に奉送とも楠本知事勤めらる、委員の人々の担当ハ、装飾に大倉喜八郎・条野伝平、建築に伊集院兼常・久原庄三郎、会計・食事に渋沢喜作・小室信夫、煙花・槍剣に中山譲治・小室信夫騎射・犬追物に松浦詮・池田章政・中山譲治・伊集院兼常、案内記録に益田孝・成島柳北・子安峻と定められ、その総括を渋沢栄一・福地
 - 第25巻 p.521 -ページ画像 
源一郎の両君がせられたり、扨て御場所の便殿並に左右の桟敷の木葉葺ハ、大嘗会の折の 御座の様を摸したるにて全く我国の古法なるが今に薩州に其余風の遺りたるを伊集院君が思ひ寄して取建てられしなりと云ふ、斯く手広なる建築を十九日より始めて廿四日まで六日の間に仕上げたるハ、その担当の人の尽力想ひやるべしと拝観の人々も申されぬ、府民総代の祝詞ハ福地君が渋沢君と列坐にて読上げらる、此時 竜顔殊に麗はしくおん悦の色の御眉に溢れさせ玉へるよし 還幸の後岩倉右大臣をもて御気色を窺ひ奉りしに 朕降誕以来初遇の盛事なりと、辱なくも仰せ出されたりとか、是ハ素より此の界ならぬ雲の上のおん事なれバ正かに承ハりたるにハあらねど、たゞ風の伝へを記し奉るのみ、されど 行幸の御道すがらも人民の悦びさゞめける景色を見そなはして、御場所にても総代より万歳を祝し奉る奏状を聞し召しなば、天なす御心にもさこそハ御満足に思し玉ひけめと推察り奉るも畏こし、また聞くグラント君の一行及び外国公使も如是の盛事ハ我我の曾て見ざる処なりと讚歎し世界漫遊者の称ある英婦人某氏(英の議員にて有名なるジヨンブライト氏の姪女にて四十余の婦人なりと)も東洋の日本にして是の如きハ欧西の文明国も為に恥づべし、我が英人と雖も斯く整頓せる大会を開く能ハずと感歎せるよし、グラント君ハ当夜八時半ごろに退散ありしが頗る大得意の体なりしと、此日同君並に夫人ハ、公園内鐘楼堂の後ろなる小高き地へ手づから扁柏《ひのき》と玉蘭を植られたり、仍て周囲に埒を結ひ、其前に寒水石の碑を立てらる、銘に曰く
  ぐらんとひのき
 明治十二年八月廿五日米国前大統領格蘭徳君手植之扁柏、乃冠之以君之名 (下に横文あり略す)
  ぐらんとぎよくらん
 明治十二年八月廿五日米国格蘭徳夫人手植之玉蘭、乃冠之以夫人之名 (同上)
○中略 昨朝楠本知事ハ、福地・渋沢の両氏と共に、前日の御礼として宮内省へ参内せらる、又池田章政どのも、射手其他の技芸者総代として同じく御礼に参内ありしに、拝謁を仰せ付られ、諸技芸者の業前熟達のだん 叡感あらせらるゝ旨を仰せ出されしとぞ、実に面目ある事どもと云ふべし


東京日日新聞 第二三一八号 明治一二年八月二八日 【○今度の御臨幸に付き…】(DK250036k-0016)
第25巻 p.521-522 ページ画像

東京日日新聞  第二三一八号 明治一二年八月二八日
○今度の御臨幸に付き 聖上より東京府官員一同へも酒肴料を賜ハりたり、また御臨幸のせつ御手当として賜ハりし二百五十円ハ委員にて夫夫評議のうへ、騎射の者へ百円、剣槍火技の者へ五十円づゝ下付せられしと
○昨日の御臨幸形況の拾遺中、一昨朝御礼として楠本知事と共に宮内省へ参内せられしハ、福地・渋沢両氏のほかに、小室信夫・益田孝・渋沢喜作の三氏も同道なりしと、又た池田章政どのゝ拝謁ありしと記せしハ全く誤聞なりし
○また御臨幸の節、公園内の山王山に丸山伝右衛門が一手にて接待所
 - 第25巻 p.522 -ページ画像 
を設け、茶菓を供せられたり


東京日日新聞 第二三一九号 明治一二年八月二九日 【○廿五日の 御臨幸、…】(DK250036k-0017)
第25巻 p.522 ページ画像

東京日日新聞  第二三一九号 明治一二年八月二九日
○廿五日の 御臨幸、事故なく相済みたれば、委員の人々ハ云ふも更なり、目のあたりこの盛典を拝観せし衆衆の悦びハ譬ゆるに物なく、されバ廿六日にハ、委員の人人も昨日の場にて、槍・剣・流鏑馬・犬追物等を一見せられたり、府下の老若男女も御臨幸の装飾を拝見せんと公園中に群集し埒の外に充満す、此日流鏑馬はてたる後ち五つ的の騎射ありしが、射手の中にも神谷銀一郎・糟屋楊亭の両人ハ一つも仇矢なく、みな正鵠をはづさず射あてたるハ実に見物の目を驚せりと


東京日日新聞 第二三二〇号 明治一二年八月三〇日 ○天覧武伎(DK250036k-0018)
第25巻 p.522-523 ページ画像

東京日日新聞  第二三二〇号 明治一二年八月三〇日
    ○天覧武伎
去ル二十五日ヲ以テ 聖駕ヲ上野ナル公園ニ臨マセ給ヒツルニ当リ、御臨幸委員ノ計ラヒトシテ流鏑馬・犬追物ノ諸術ヲ 天覧ニ供ヘ奉リケルハ、即チ旧時ニ於テ大将軍ヲ饗ナシタル将門ノ吉例ニ拠リシ者ニシテ、畏クモ 聖上ニハ敢テ之ヲ不敬ナリト斥ケ給ハズ、其式ノ畢ルマデ愛デ見ソナハセ給ヒケルゾ、寔ニ有リ難キ事ニゾアル、是ハ吾曹ガ去ル廿七日ノ紙上ニモ申シヽ如ク、中昔ノ頃兵馬ノ権ハ武門ニ帰シテヨリ、百敷ノ大内山ニハ詩歌管絃ノ事トモヲ重ニ興ジ給ヒテ、文弱ノ風ニノミ陥リタルニ、我 大君ノ御代ニ及ビテイミジクモ中興ノ維新ヲ行セラレ、文武ノ両権共ニ 朝廷ニ帰シヌルヲモテ、偖ハ大将軍ノ武礼ヲ以テ叡慮ヲ慰メ参ラセタル事ニナンアルベシ
ソモ流鏑馬ト申ス語ハ「ヤバセウマ」(矢馳馬)ノ転語ニシテ、馬ヲ馳セナガラ矢ヲ発ツト云フ事ヲ略シテ「ヤブサメ」トハ云フナリト古人ハ申サレタリ、而シテ流鏑馬ノ漢字ヲ仮用セシハ、張衡ガ西京賦ニ流鏑雹㩧トアルヲ用ヰタルナリ、此流鏑馬ハ上古ヨリ我国ニ行ヒシ武礼タルハ古キ文トモニハ夥多見エタルニ、惜ムベシ、其作法ハ足利将軍家ニハ早ヤ絶エ失セケリ、然ルニ徳川氏八世吉宗将軍ノ時ニ至リ、流鏑馬ヲ再興セントテ、偏ク諸家諸国ニ命ジ遺事ヲ書記シテ上ラシメタルヲ、旗本ノ士浦上某コレヲ編集シテ流鏑馬類聚ト云フ書ヲ著シタリ、此書ニ就キ彼是ヲ折衷斟酌シテ、新ニ流鏑馬式ヲ定メ、元文二年武州高田村ノ馬場ナル穴八幡ニ於テ、流鏑馬ヲ射サセラレタリト聞及ベリ、然レバ上野ニテ行ナヒタル式ハ即チ吉宗将軍ノ頃ニ定マリタル中興ノ式ニテ、シカモ置キ埒ナト設ケ、且ツ礼法ナトモ省略シタル者ナレバ、素ヨリ上古ノ式ニハアラネトモ、武家ノ式法ヨリ見レバ、幕府ノ庭ニ於テハ最モ重キ大礼ト尊ヒ伝ヘタルナリ、又犬追物ノ始マリモ慥ナラネドモ、騎射秘抄・犬追物目安・高忠聞書ナド云フ書トモニハ、実朝将軍ノ時ニ始マル由ニ申シタリ、尤モ東鑑ニハ、頼経ノ代、承久四年二月六日ノ記ニ始メテ犬追物ノ事ヲ記シ、其後ハ所々ニ犬追物ノ事ヲ載セタリ、但シ其道ノ申シ伝ニハ、犬追物ハ昔シ神功皇后ガ弭ヲ以テ三韓ノ王ハ日本ノ犬ナリト石ニ書キ給ヒタルニ始マルト云ヒ或ハ書記《(紀)》ノ武烈天皇ノ紀ニ走犬試馬トアレバ、其朝ハ既ニ犬追物ノアリシトモ云ヒ、或ハ鳥羽朝ノニ三浦・上総ノ二介ニ仰セテ、那須野ノ
 - 第25巻 p.523 -ページ画像 
狐ヲ狩セラレタルニ、両介ハ狐ハ犬ニ類シタル獣ナレバトテ、犬追物ノ式ヲ以テ之ヲ狩リタレバ、当時其事アリシトモ云ヒ、又或ハ曾我物語ニ、父ダニマシマサバ馬ヲモ鞍ヲモ用意シテタビナマシ、サアラバ犬追物・笠掛ヲモ射習ヒナントアルヲ以テ、当時ソノ事アリシトモ云フナレトモ、孰レモ牽強附会ノ説ナレバ、犬追物濫觴ノ証拠トスルニ足ラズ、矢張リ実朝将軍ノ頃ニ始マルト云フヲ取ルベキ歟、ソハ兎モ角モアレ、鎌倉ヨリ室町将軍ノ頃マデハ犬追物ノ式法ハ伝ハリケルガ足利ノ末世ヨリ諸国ミナ兵乱ニ暇ナク、徳川氏ノ国初ニ至リテハ、其遺伝ダニ東国ニハ絶エ果テケリ、徳川氏三世家光将軍ノ時ニ至リ、薩摩守島津光久ソノ国ニ伝ヘタル犬追物ノ式ヲ諸士ニ演習セシムル、三年ニシテ成リ、乃チ正保三年ヲ以テ、将軍ヲ武州豊島村ナル王子ニ招待シテ、之ヲ台覧ニ供ヘタリ、是レ犬追物ノ中興ナリ(事ハ林春斎ノ犬追物御覧之記ニ詳ナリ)其後吉宗将軍マタ其絶タルヲ再興シ、夫ノ流鏑馬騎射ノ式ト共ニ、両小笠原家(平兵衛及ビ縫殿助)ニ命ジテ、之ヲ管理セシメラレタリト云ヘリ、然ハ則チ犬追物ノ今式ハ、既ニ古式ニ異ナリト雖トモ、其中世ノ遺伝ヲ其間ニ保存シ、弓馬ノ道ニ取リテハ太切ノ故事タル勿論ノ事ナルベシ
然ルニ徳川氏ノ末ニ及ヒ、世上モ漸ク穏ナラズナリシ程ニ、安政年間以来ハ此武礼モ行レスシテ打チ過キ、御一新トナリテハ、誰アリテ復タ此ノ武門ノ故事ヲ顧ミル人モ無クナリ、之ヲ行ハザル殆ト二十有余年、哀レ鎌倉時代ヨリ伝ハリタル古例モ今日ニ果テナントセシヲ、今タヒ計ラズモ上野ニ於テ之ヲ興行シ、以テ其式ヲ将ニ滅ントスルニ起シタルハ、実ニ喜フベキ事トモナリ、槍術・剣術・火伎ノ如キモ亦然ルノミ、世ニハ新奇ヲ好ムノ情ヨリシテ、斯ル武家古実トモハ今日ニ無クモガナト蹴ナシ、一概ニ之ヲ棄絶スルヲ以テ改進ノ様ニ申ス輩モアルナレトモ、古キ国ニハ古キ例アル者ナレバ、其古例ノ世道ヲ害シ改進ヲ障ヘザル程ハ、之ヲ保存スルニ争デ其妨アルベキ乎、改進ノ今日ニ当リテ特ニ此旧様ノ武伎ヲ 天覧ニ供ヘ奉リタルハ、亦或ハ幾分ノ微意ヲ玆ニ寓セシニ非ザルヲ知ランヤ
夫ノ壮士ガ引ク梓弓モ、今日ハ「スナイドル、ヘンリマルチニー」銃ト変ジ、夫ノ武士ガ打チ翳シタル竹刀モ今ハ銃剣・騎剣ト変ジ、白樫ノ直槍モ今ハ騎兵ノ旗槍ト変ジ、弓馬剣槍ノ武芸ハ一トシテ改進ニ其観ヲ改メザルモノモ無キ世ノ進歩ナレバ、斯ル業ノ固ヨリ復再ビ実用ニ供スベキ期ノアルベキ筈ハ無ケレトモ、今其ノ旧様ノ武伎ヲ演スルヲ見テ昔時ヲ今日ニ照観スレバ、或ハ開進ノ世運ニ遇フヲ喜ビ、或ハ往時ノ経過ヲ懐フニ感ジ、人情ノ常トシテ誰カ此旧例ヲ棄ルニ忍ビサルノ心ヲ起サヽランヤ、於戯武門ノ旧観ヲ保存シテ今日ノ泰平ヲ粉粧スルモ亦信ニ昭代ノ盛事ナル哉


沼間守一 石川安次郎著 第三六―三七頁 明治三四年七月刊(DK250036k-0019)
第25巻 p.523-524 ページ画像

沼間守一 石川安次郎著  第三六―三七頁 明治三四年七月刊
    四十三 東京府民総代とは何ぞや
明治十二年八月、米国のグラント将軍我邦に来遊しければ東京府会議員・区会議員・東京商法会議所議員等相謀り、自ら東京府民の総代となりて、歓迎の宴を張らんと欲し、其当日天皇陛下の臨駕を上野公園
 - 第25巻 p.524 -ページ画像 
地に請へり、沼間は之は見て奮然として曰く、外賓を歓迎し聖駕の臨幸を請ふは其事美なりと雖も、彼等が自ら府民の総代なりと称するは何事ぞ、夫れ府会議員は府県会規則に依りて地方税の収支等を議決するに過ぎず、決して府民の総代と謂ふ可からず、区会議員・商法会議所議員が自ら府民の総代と称するの理由なきも亦勿論なり、彼等が自ら僣して府民の総代と称するは、是れ東京府民の名称を濫用したる者に非ずや、東京府下八十万の人民中一人の非難を此間に容るゝものなきは、其の事の美なるが為めに、其名称の濫なるを弁ぜざるに依るなり、我れ不肖と雖も公衆の前に於て、此名義の分界を明かにし、彼等が府民総代の名称を濫用するを責めんと、乃ち先づ本所の共立学舎に於て演説を為すことを決す ○下略


竜門雑誌 第四七四号・第一―五頁 昭和三年三月 グラント将軍の歓迎会を回想して(青淵先生)(DK250036k-0020)
第25巻 p.524-526 ページ画像

竜門雑誌  第四七四号・第一―五頁 昭和三年三月
    グラント将軍の歓迎会を回想して (青淵先生)
 米国の元大統領グラント将軍が我邦に来遊してから丁度五十年になると云ふので、記念の催の計画もあるから、此際当時の想出話をするのも無用ではないと思ふ。
 明治十二年頃になつてから、単に政府の外交関係の人々のみならず民間の識者は勿論、国民の多数は、当時存在した偏頗な外国との条約が国家の体面に関するばかりでなく、幾多の不利を与へるやうになるので、速かに国家の維持発展上、対等のものに改訂しなければならぬと考へ、且つこれを主張するやうになつて来た。然しながら諸外国としては、条約の改正に中々同意しなかつた。考へて見ると僅か十余年前には、外国人と見れば之を斬ると云ふ殺伐極まるものであつたから諸外国の態度も或は無理からぬ点もあつたと云へるのである。
 斯くて当時日本人としては、出来るだけ外国の事情にも通じ、其の風俗習慣を見て之に倣ひ、近く公平なる条約の締結を行ふことにしたいと努力した。彼の明治四年に政府の大官高官が大挙して海外視察に赴いた如きも、さうした目的に出でたものである。私は明治六年官を辞して、第一国立銀行の経営に任じたが、役人であつた時から大隈・伊藤・井上などと云ふ人々と懇親にして居たので、時々会見して色々の事を話し合つた。中にも明治十一年に商法会議所(現在の東京商工会議所の前身)を創設した如き、私が主として尽力した処で、これも条約改正上に必要であると切に云はれたからであつた。井上さんが外務卿になられたのは明治十二年九月であつたが、井上さんとは特に親しい間柄であつた。と云ふのは明治四年から六年まで、共に大蔵省にあつて事務を採り、多少議論をしたこともあり、叱られたり逆つたりして、真の兄弟同様にした仲である。三宅雪嶺氏の主宰する「我観」と云ふ雑誌に、同氏が明治五・六年の頃のことを書いて居るが、それに「当時の政治は大蔵省で行つて居た観があり。其実権者は井上馨で渋沢栄一が之を輔佐した、そして井上は癇癪持であつたから、渋沢がよく調和してやつた」と云ふやうなことを書いて居る。実際其の通りであつたので、井上さんと私とは袖を連ねて官を辞してからも、そのやうな間柄であるから、お互ひに蔭日向なく交際し合つたので、明治
 - 第25巻 p.525 -ページ画像 
七年第一国立銀行の大株主であつた小野組が破綻した折など、井上さんは深く心配して大いに力添へをして呉れた。斯かる関係にあつたから、外交のことなどに就ても、単に私的に話し合ふばかりでなく、公の問題として話す場合も度々あつたのである。
 グラント将軍の来遊を、我々民間に於て歓迎したことに就ても、井上さんは大いに後援して呉れた。其の民間の歓迎と云ふのは、皇室なり政府なりの歓迎以外、人民が打寄つて米国に何か記憶に留めるやうなことをしたいと云ふ趣旨であつて、其の手続や当時の事態を話すと長くなるが、要するに民間として大いに歓迎する要がある、それには商法会議所が主として事に当るのがよからう、而も商法会議所では会頭であつた私も、副会頭であつた福地源一郎氏・益田孝氏も、共に海外の事情を知つて居るから、好都合であると云ふことになつたのである。そこで一つの歓迎会の団体をつくり、寄附金を募集した処三万円ばかりも集つたので、愈々グラント将軍の歓迎を商法会議所が中心となつて、大々的に西洋式を以て行ふことにした。そして私は嘗て徳川民部公子のお伴をして欧洲諸国へ赴き歓迎振りの実際に接したが、福地氏は外国の書物を読む上に海外に遊んで居り又益田氏も外国の事情をよく知つて居たから、両氏は何かと私より巧者に其の手続きをした兎に角歓迎の方法を協議した末、先づグラント将軍が東京へ到著すると同時にこれを迎へて、新橋駅頭で私が歓迎文を朗読した。此の方法は民部公子が英国を訪問せられた時、ドーバーで斯様な待遇を受けたので、それを思ひ出して行つた訳である。それから将軍は芝の延遼館に入つたが、夜は虎之門にあつた工部大学校で夜会を催うした。当時のことであるからさぞ滑稽に類することもあつたらうと思ふけれども総てを西洋式にするやうにしたのである。尚ほグラント将軍に因んだ福地氏の新作を新富座で団十郎に演ぜしめたり、日本の尚武の国であることを現した劇を見せたりした。又上野に 天皇陛下の御臨幸を仰ぎ国民的歓迎式を催うすやうにした。それは八月の廿五日で最終の催しであつたが、其の時折悪くコレラの患者が出たので政府筋殊に岩倉さんなどが非常に心配し、御臨幸を取止めた方がよいと云ふ意向になつた。我々団体としては既に御臨幸を仰ぐことゝし、米国からの貴賓を厚く待遇しやうとして居た矢先であつたから、誠に困つたことであるとして、直ちに府会議事堂に集合して協議をした。時の府知事は楠本正隆氏であつたが、私が諄々として米国と日本との関係を説き、米国の将来に就て述べて、御臨幸が御取止めにならないやうにと力説したのを聞いて、同氏は感極つたと見えて、泪を流し「それは尤もな説である。御臨幸を阻止するのは一寸考へると道理らしいが、余りに狭量である、而もコレラが猖獗であると云ふのでもないから、御臨幸になるやう、私が極力心配しよう。貴方方は直接の関係者であるから今強く其事を主張するのは面白くないであらう。然し私は一向差支ないから身命にかけて御希望を達するよう努力するであらう。只今の貴方のお話は私の肺腑に徹した」と云ひ、大いに運動されたので、都合よく成功して、当日は 明治大帝の御親臨を辱ふしたのである。そして催物として、今日では行ふ人もなく又道具もなくなつて居るであらう
 - 第25巻 p.526 -ページ画像 
が、日本に古くから行はれて居た流鏑馬・母衣曳・犬追物等の武術を見せた。更に又西洋では賓客を個人の家で招待する習慣があると云ふので、それを此の私の宅で行つた。勿論現在の家ではなく至つて粗末な上に極めて手狭であつたが、出来るだけの饗応をし、日本の武術を見せると云ふので、撃剣・柔道・鎖鎌等をそれぞれやらせた。然し術のみでは面白くないからと云ふので、柔道家磯又右衛門の弟子で目録以上の者と、柔道の心得のない庭師の三五郎と云ふ腕力の強い男とに仕合ひをさせた処、長い間揉みあつた末遂に三五郎の方が勝つたのでグラント将軍は感興を惹いたやうであつた。そして此時将軍は夫人は伴はれなかつたが、お子さんを伴つて見えたのであつた。
 蓋し私等がグラント将軍の大歓迎会を催うしたに就て、之を西洋式にしたのも、日本の国情が西洋諸国に劣らないと云ふことを示さうとしたからで、外国人をして、日本の国力を覚らしめようとした訳であり、且つ米国は与論の国であるから、将軍を我が国民が挙つて迎へて彼に応じたのである。其の実行は我々数名の者の考へであつたから、或は馬鹿げた事柄もあつたであらうが、伊藤・井上等の人々もよく注意してくれたので、私自らは国民外交の端緒が此処に開けたものであると思つて居る。誠に五十年以前の此の事柄を顧み、今日に於ても同様国民外交の一端として日米関係委員会を組織して努力しつゝあるを想ふと、無限の感慨に打たれるのである。而して爾来私が継続的に日米の国交に関してどう云ふ考へで居るかと云ふことは、此の事実で明かであらう。従つて私は此等の実行して来たことを、効果は少なかつたにしても無用の働きであつたとは思はず、何れも必要なものであつたと信じて居る。
 扨て其の時上野でグラント将軍が自ら植ゑられた記念樹があるので此の樹を永く保存し、当時の歴史を明かにする為の建碑を計画し、先日中から私の処へ相談に来て居る人があるが、私もタウンセンド・ハリスの記念碑を建設したと同じ意味に於て、我が外国関係の歴史を明瞭にする上に必要なことであらうと考へて居る。誠に斯様な事項が詳しく後世に伝はらないのは文明国として最も恥づべきであるから、私も此の建碑の成就することを希望して居る。殊に当時グラント将軍を歓迎した当事者の一人であつた私は、進んで其主唱者となり、適当な方法で此の事柄が湮滅しないやうにしたい、と尽力して居る次第である。(三月六日談話)


竜門雑誌 第五〇九号・第二八―三四頁 昭和六年二月 グラント将軍歓迎の追憶(青淵先生)(DK250036k-0021)
第25巻 p.526-530 ページ画像

竜門雑誌  第五〇九号・第二八―三四頁 昭和六年二月
    グラント将軍歓迎の追憶 (青淵先生)
 明治十二年の夏、グラント将軍が我が日本へ来訪せられたに就て、私共はその向々の意見を聞いたり助力を受けたりして、聊か歓迎のことを心配したのでありまして、取立てゝ申す程有効な働きをしたと云ふ訳ではありませんが、恰度大久保画伯の作品が出来たのを機として御話して見ませう。一般に古いことを話す時には、兎角事柄を誇大に云ふ傾がありますが、私は其弊に陥らぬよう、努めて有りの儘に話したいと思つて居ります。
 - 第25巻 p.527 -ページ画像 
 明治十二年の夏、グラント将軍は欧洲各国を巡遊の上、支那を経て日本へ立寄られたのであつて、米国へ帰途であつたと思ひます。将軍の人と成りはよく知らぬが、何んでもリンカーンが大統領の時の南北戦争にて功を立てた人で、平和克服の後大統領に選ばれ二期も続けたと云ふことで、米国人中の第一人者であつたようであります。私は日本とアメリカとの将来の関係、太平洋に於ける両国の接触、また特に支那に対してお互ひに力を入れて居るから、其間に行違ひの起らぬやうにしたいと予て思つて居たので、グラント将軍の如き米国の有名な人には、国民として親しくして置いた方が、日本の将来のためにもよいと考へ、福地源一郎氏・益田孝氏等実業界の有力な人々に相談して大歓迎会の計画をしたのであります。そしてそれは恰度商法会議所の組織された時分で、福地・益田の両氏がその副会頭であり、私が会頭であつたからでありました。其処で斯様な歓迎会の中心となつた商法会議所の成り立ちに関し一応お話して置く必要があると思ひます。御承知の通り明治の初年横浜は開港場となり外国人が沢山住居して居たから、それ等の人々によつて商業会議所様のものが組織されてありました。それを見て、好いことであると思つて居たが、まだ東京にそれを創設するまでの考へは持つて居なかつたのであります。すると政府では大蔵卿が大隈重信、工部卿が伊藤博文などゝ云ふ人々で、嘗て私が大蔵省に出仕して居た時分は、勿論私の方が地位は低く、使はれる身分でありましたけれども、お互に懇意であり、大蔵省を辞めて銀行者になつてからも、平常から行き来をして居た人々であります、すると或る時大隈大蔵卿であつたと思ひますが「会ひたい」と云つて来たので早速行つて見ると、今の商業会議所の如きものの必要なことを懇切に説かれて「君の手で組織して欲しい」と希望せられました。大隈さんはさうとは云はなかつたが、聞く処に拠ると、英国の公使パークス氏と関税改正に就て引合つて居た時、大隈さんは物事を誇張して云ふ方の人ですから、先方の説を却ける積りで、自分の主張は単なる個人の考へでなく、国民の意向であるとの意味で「日本の輿論が承知しない」と云つた処が、パークス氏は「輿論と云ふのは御出入の町人などの云ふことでありませうか、一体日本には輿論がありますか」と、程合は知らぬが、さう云ふ意味の反問をしたそうであります。何分パークス氏は旧幕時代から日本駐在の英国公使として永く居た人であるから、右のやうに云はれると、流石の大隈さんもその返答に困り、何か輿論を造る機関を拵へねばならぬやうになつたのださうで私に対する希望が出た訳であります。そこで私は「外国には商法会議所と云ふものがあり、多数の人を寄せてそれ等の意見を纏めて居りますが、之がよからうと思ひますから、銀行者ばかりでなく、他の商工業者をも加へて商法会議所と云ふものを組織することに努力して見ませう」と答へると「それは結構なことである、政府も折角助成するから、大にやつて貰ひたい」と云ふことになり、益田孝・福地源一郎両氏と共に廿五人ばかりの人を集め、商法会議所なるものを作り、まだ法律などは全くなかつたので、東京府の許可を受けて成立たせたのでありました。従つてそのため私は福地・益田氏等と打寄つて、いろいろのこと
 - 第25巻 p.528 -ページ画像 
を相談する関係になりまして、グラント将軍を歓迎するに就ても、此等の人々と協議して之を実行することになつたのであります。で歓迎会を開催すれば金が必要である処から、寄附金を三万何千円か集め、特にこれと云ふ計画も立たなかつたが、明治天皇の御臨幸を仰ぎ、併せて将軍を歓迎する大規模の会を、東京府民が主催して上野で開き、日本の古武術を御覧に入れることにしました。またそれだけでは満足でないからと云ふので、工部大学で夜会を催し、更に福地氏の発意であつたと思ふが「芝居を御覧に入れやう、それには新らしく建築した新富座で、脚本をグラント将軍に因んで新らしく書下して演ずるのがよいであらう」と云ふので、専ら福地氏がその方の心配をしました。又私が曾て徳川民部公子に随つて仏国へ赴き、且つ西洋の各地を訪問した時、特に記憶に残つて居るのは、ドヴア海峡を渡つたとき、ドヴアの市民の総代が、日本の貴人を迎へると云ふので逸早く町の入口で歓迎文を読んだことであります。何んでも西洋の此の風習は、町の入口で、そのは入つて来る人に敬意を表し、町を自由に視察するための鍵を与へると云ふやうな意味で、尊い人に礼儀を尽すものださうでありますが、地方団体として有名な人を接待するのによい仕方である、結構な風習であると感じて居ましたから、当時グラント将軍を歓迎するに就て之を行ひたいと云ふので、益田・福地等の人々に諮つたところ同意を得ましたので、先づ新橋駅へ着いた時、此の方法を採つて歓迎文を読んだのであります。
 斯くの如くして大歓迎の意志を表したのでありましたが、八月廿五日上野での国民大歓迎会では陛下の御臨幸もあり、将軍も頗る満足せられたらしく、各種の催物を終りまで見物されました。此時日本の古武術として催したのは撃剣・槍術・流鏑馬《やぶさめ》・犬追物・母衣引《ほろひき》などで、その道の人々が奮て出たのであります。右のやうな事情で形式は整つて居ないが、東京府民の大歓迎会と云ふので一般の人気も引立ちました。併し私達が東京府民の代表であると云つたに就て、報知新聞関係の人々から福地氏が東京日々を経営して居つたためか「渋沢・福地等は府民の代表と称するのは怪しからぬ」などゝ論じて問題となりました。又一方歓迎の方法も慣れない人達のみであつたから、不行届の事も沢山ありましたが、大体に於て都合よく運び、グラント将軍は日本国民の誠意のある所を汲み取つて呉れた様子でありました。尚ほ西洋では家庭へも招待するものだと云ふので、私が主として心配した関係から、当時碌に庭も出来て居ない有様であつたが、飛鳥山の家へ御案内したのを憶へて居ります。
 私等の歓迎した場合には、グラント将軍は政治上の意見や外交上の思入等に関する事柄は、あまり話さず、たゞ我々の歓迎を快く受けられたのであつたが、明治天皇陛下に拝謁の折には、いろいろのことを申上げられたと、もれ承つて居ります。私は銀行者であつたから 明治天皇陛下との御会見のことは直接は知らないのでありますが、仄聞しました処によれば「国家の発展を急ぐ時にはどうしても外国から公債を募らうとするものであるが、徒らに巨額の外債を募集することは国家として採るべき方法でないから、日本でもその点は十分考慮され
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たがよいでせう」といふ意味のことを申上げたさうでありまして、陛下もその忠言を御嘉納になつたと申すことであります。グラント将軍の此の言は、実際苦労した人の言葉として価値があるものと思ひました。
 処で此の時上野へ 陛下御臨幸のことが定つて居たのに、折悪くコレラが流行しましたので反対する人があり、その日が近づいてから中止になりかけたことがありました。それは主催者たる私達の面目が潰れるばかりでなく、朝廷と国民との間に距りがあると、外国の人々に思はせるのは頗る遺憾であるとして、その残念である旨を協議会の折私が強く主張した処、当時の東京府知事であつた楠本正隆氏は、之れを聞いて大いに同感しました。即ち楠本氏は予て私と懇意な間柄でありましたから、百事相談して居りましたが、私が「陛下の御臨幸が御沙汰止みになることは実に遺憾である、聞けば岩倉さんが流行病などがあるのを御懸念になると云ふが、それは尤ものことである、とは云へ昔流の考へから此事が実行せられぬやうになるとは情けない、私達は国を思ふから、国民として米国との親善に尽したいと期し、斯うしたことに身命を惜まず、かうしてやつて居る、それを徒らに旧習に囚はれ反対されるとは残念至極である」と云ふ意味を声涙共に下る有様で演説をしたのに、楠本氏が感動して「実に東京府民が斯くまで心配して居るのに知事として努力せずには居られぬ、渋沢君の心事には同情に堪えぬから、自分が一身に引受けて成功するに努力しやう」と断言してくれました。その尽力によつて、事なく此の企ては実行されたこと前申述べた通りであります。此時の事情を後で聞くと、楠本氏は伊藤・井上等の人々へ喧しく云つて、岩倉さんの方の説得を引受けしめたとのことでありましたが、兎に角日本人がグラント将軍を迎へるに就て大さう力を入れたと云ふことは、米国に好感を与へ、日米両国の国交に相当よい結果を与へたと思ひます。また日米両国の国民的外交の端緒となつたとさへ思ふ位であります。
 私が特にグラント将軍来訪の折 明治天皇陛下に拝謁した処の絵画を 明治天皇陛下の御盛徳を後世に遺さうとする絵画館へ奉納した縁故は、東京府民を代表して同将軍を歓迎したことがあるからでありますが、更に日本の地位を安固ならしめ、世界の平和を図るためには、問題の起り易い太平洋に眼を注がねばならぬ、そして米国とは支那の関係もあることとて、殊の外親しくして置かねばならぬ、と云ふ根本的の考慮も含んで居るのであります。一体米国人に限らず、外国人には相当の礼儀を以て親しむのが、国民の勤めであると思つて居ります思ひ返しますと嘉永年間ペリーが我国に初めて来つた当時、私は年少であつたが、国の内外に喧しい「外夷打つべし」と云ふ強硬論に依つて、西洋人は悉く我に仇を為すものであると思つて居りました。彼の英国と支那との間に起つた阿片戦争の有様を「清英近世談」と云ふ書物などで見て「成る程西洋人は無茶なものだ乱暴なものだ、それを敵とするに善し悪しを考へる余地などはない」とさへ思つて居たので、米国も亦外国の一つとして同様に考へて居りました。併し其後海外へ赴くことになり、慶応三年正月民部公子に従つて横浜を出帆したので
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あるが、その時には余程外国の事情も判り、新らしい科学は西洋に学ばねばならぬと考へて居ました、而も船中で田辺太一とか杉浦愛蔵とか云ふやうな人達から、西洋人を殊更に敵視すべきでないことを聞かされ、中にもハリスの公平な行動を知つて、仁義道徳が西洋人にないと信じて居たのは過りであつた、見聞が狭かつたからであると覚つたのであります。実際ハリスが、その秘書官ヒュースケンが殺された時に、英仏の公使の強硬な言を却け、公使館であつた善福寺から一歩も去らず、日本の為めに死を睹して図つてくれたことを知つて、真に敬服した次第で、その人に就てその国を思ふ、と云ふ言葉の通り、西洋人が夷狄である野蛮であるとして居たのは間違ひであつたとの悟りが開けた訳でありまして、その観念からグラント将軍歓迎のことにも、特に一層の力を入れたのであります。
 其後日米の関係は円満に進んで居たが、彼の移民問題では面白からぬ感情を生じました。多くの識者はさうではなかつたけれども、日本の移民を嫌ふ向では大変日本人の排斥に力を注いだから、此方でも好い感じを持たなかつたので、私もそれにはかなり心配して、道理正しく相互に譲り合つて行かねばならぬと考へ色々尽力したのでありました。そしてたゞ政治上の親善のみでなく、民間同志の接触が必要であるとして、自ら大いに努力して居ります。斯く申すと我が効能を喋々しく述べるやうであるが、実に米国は日本にとつて大切な国であり、且つ先進国として見倣はなければならぬ点も沢山あるのであります。左様にして自然と両国の感情を柔かに進めるべく、私も幾度か渡米しその大統領であるルーズヴエルト氏、タフト氏、ウヰルソン氏、ハーヂング氏等にも親しく面接し、又日本を訪ねる有名な人達をも歓迎して、親しく意見の交換を行ひ、国交に疎隔のないやうにして居ります或は斯く云ふことは我田へ水を引くやうであるが、私は常にさうした観念で居るのであります。従つて米国には知人が沢山ありますが、何分何れも老境の人々とて順次逝去して行くので、若い米国人に、そのことを話して斯く友人が亡くなるのは遺憾である旨を申しますと「では若い我々を友人にして下さつたらよいではないか」と答へますが、私本人が若くなれない以上、これも致し方のないことでありませう。
 余談が長かつたやうでありますが、グラント将軍は元来余り感情を表面に現はさぬ方の人で、此の大歓迎にも特別に喜悦に堪へぬと云ふやうな態度はせられませんでした。寧ろ夫人の方が如何にも喜ばしさうに、いろいろ感謝して居られたのを記憶して居ります。
                      (二月六日談話)



〔参考〕竜門雑誌 第五〇九号・第五〇―五八頁 昭和六年二月 グラント将軍歓迎の思ひ出(穂積歌子)(DK250036k-0022)
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竜門雑誌  第五〇九号・第五〇―五八頁 昭和六年二月
    グラント将軍歓迎の思ひ出 (穂積歌子)
○上略
 八月五日 ○明治一二年渋沢別荘に来臨が有つた後、同月二十五日までの将軍一行の御動静は私共に直接の関係が無かつた故覚えて居りません、此時より後の時代の観光の外賓ならば必ずこの間に京阪地方の見物に参らるゝ筈ですが、其当時汽車は横浜限りで東海道線は無かつたので
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すから、短時日に陸上の長途旅行は不可能なのでありました。御一行は印度洋経由で来朝せられたのでありますから、或は御出でがけに神戸か大阪に一旦上陸せられて京阪地方の見物は済まされたのかとも存じます。多分この二十日ほどの間に日光などへ参られたのでありましたらう。其中に段々御帰米発途の期日が近づくのでありました。
 接待委員会に於ては、当初から歓迎の催しとして夜会・観劇会など勿論であるが、猶より以上国民を代表すべき大々的歓迎会を催す必要が有るといふ議が出て居たのです。又一方新開国の日本はもはや、天皇を現つ神として遥拝し奉つるのみであつた往昔の状態ではなく、上陛下は万民を赤子としていつくしみ給ひ、下万民は陛下を慈父として敬愛し奉るだけに進歩して居るのであるから此有様をば世界的の識者に了知して貰ひたいものである。且東京遷都後の各地方に御巡幸遊された故地方の人民には拝謁を賜つた次第であるのに反し、輦轂の下たる東京府々民は却ていまだに其光栄に浴して居らぬのは誠に遺憾の次第であるから、かたがた此度の機会に東京府々民の名に於て 天皇陛下の臨幸を奏請し奉り、同時に米国前大統領たるグラント将軍を請待し新興国日本の君民親睦の有様を御知らせ申したいといふ議が出て、東京府知事楠本正隆氏は熱心に此企てに賛同せられ、井上・伊藤両参議の賛成を得、両参議から岩倉右大臣を説いて、終に岩倉公から奏請し奉つて、臨幸御許可の綸言が下されるに至つたと申すことでした。それで主催者の人々は優渥なる御恵に感激し、国賓にも御臨幸の趣を御話して御請待を申し上げ、日取は八月二十五日、場所は上野公園に於てと決定しそれぞれの準備を急いだのでありました。
 副委員長たる福地源一郎氏は東京日日新聞の社長でありましたが、臨幸奏請の理由と国賓歓迎の挙を新聞紙上で発表するに当り、或は福地氏自己の働きを吹聴する気味の言葉が有つたかも知れませんでしたすると某新聞の社長某氏は常に日日新聞の説に反対説を取ることが多く、且其社長と福地とは個人的にも仲が悪かつたのでありましたが今度の挙に大々的な反対説をとなへ出しました。其所説は臨幸奏請などとは下として上を動かし奉らんとするものにあらずや、いとも恐懼の至りなり。又渋沢・福地・益田等の諸氏は東京府民の代表と称すれども、東京住民一人一人彼等に代理を委任せるにはあらず、されば名称濫用なりと云ふのが重もな理由でありました。随分な暴論でありますけれど極めて鋭いしかも巧みな某氏一流の一種の名文で書き立てるのでありますから一寸人を動かす力が有つてそれに雷同する一・二の新聞紙もありました。其上生憎にも先頃からぽつぽつ噂のあつた虎列刺病の流行が終熄に到らず此頃日々東京に三・四人づゝの新患者が出るといふことが報道せられました。すると彼の反対論者は得たりかしこしと云ふ語気で、さればこそかく帝都内に悪疫流行の折柄猶も己のが非を悟らず、御臨幸御取止めを奏請し奉らざるは天意を畏み奉らぬ不臣の行ひなりとまでの烈しいことを云ひ立てましたし、福地氏の許へは多数脅迫状が舞ひ込み父上の許にも二・三通は参つた様でありました。私共は毎日其新聞の反対説を読んでは憤慨して居ましたが田作の歯ぎしりと云ふのでありませう、反対論のあまり喧しいのを顧慮して
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居られた岩倉公はかてゝ加へて悪疫流行の折柄といふ非難には少し動かされなされたと見えまして、今度の御臨幸一たび勅許に相成つたのではあるが何とか然るべき理由の許に、御取止めを願ひ奉ることに致したいものとの意向を漏らされたよしでありまして、驚き憂へたのは委員一同でありました。渋沢委員長は楠本府知事に対して、「今度の挙を非難する者の弁論は動機不純の反対説で勿論取るにも足りませんが、悪疫流行の折柄といふに就ては懼れ畏む所で御座ります。然し悪疫と申しても東京の一隅に日々僅少の新患者を出すのみで未だ流行と云ふ程度には到りませぬ。且此病ひは伝染の経路もたしかめられて居りますから御警衛上十二分の設備が施し得らるゝことであります。然るにこの些細なる支障の為に御臨幸御取止めに相成りましては、日本国君民親睦の間にはやはり昔のまゝの広い隔りが存在して居るといふことを国賓の目前に暴露することになりまして、皇国の威信にも関はりませう、渋沢等委員一同の面目丸潰れになりますことなど、此際云ふにも足らぬ些事であります」と云ふ意味を熱誠を籠めて論じられたので、楠本知事は大に感動して、「御所説一々同感であります、楠本の身命に懸けても必ず御臨幸を仰ぎ奉る様に尽力致します」と云ふて終に感極つて涙を流されたと申すことであります。この事は父上が御話しなされませうから、私までが付け加へるには及ばぬ訳でありますが、何しろ其当時私の小さな胸の中は御臨幸事件で一ぱいでありまして、脅迫状が来た時などあまり父上の御身辺を心配するので却つて母上から叱られたりしたことなど思ひ出されますので、御話し致ます。
 楠本府知事と渋沢委員長の熱誠が終に届きましていよいよ来る八月二十五日上野行幸との仰せ出しが有りましたので、一同歓喜しましたのですが責任は益々重大になつたのでありました。万々手落ちのない様にと準備に心を配られまするので常に繁忙な父上の其頃の日常は目も廻る様で傍で拝見して居る者の気も痛む程でありました。
 さていよいよ当日の八月二十五日になりました。例年ならば残暑の最も烈しい時節でありますのに此年の暑気は厳しくない方でありまして、ことに同日は快晴清朗でまづは御めでたいと思ふたのでした。心の緊張からでもありましたか、苦熱など少しも記憶に存じては居りませぬ。
 父上は連日の通り早朝に会場の方へ御出ましになりまして、母上は私・琴子・篤二と付添ひ一・二人と馬車に同乗して家を出たのでした其の日の衣服は母上始め私琴子のまで新たに染めさせた礼服が出来て居ましたが今から思へばそれ等も御話にならぬ程色も模様もじみなものでありました。
 さて家を出ると田舎道に点在の家の軒にも国旗がかゝげてありましたが、本郷通りに差かゝると町家の軒端一斉に掲げ連ねてある日の丸の旗が微風にひらめいて居りますし、上野に近い家々では日の丸と星条とが交叉してありました。此時ほど街頭の国旗が美しいものに見えたことは再びとはありません。それは彼の反対論者が、此度の挙の委員等は東京府民を代表してと云ふけれど誰も此挙に賛同はせぬ、府民が一人一人渋沢等に委任もせぬのに東京府民の名を以て事を行ふは名
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称濫用であると云ふたのを、真から口惜しく思ふて居た反動からでありましたらう。それ故、これ此通り府民は一同日の丸をかゝげて歓喜の意を表して居るではないかと云ふてやりたい気もし、又車から降りてよくマア私共の父上等の挙に賛成の意を示して下さりましたと門並一軒一軒に礼を申したい様な気が致したのでした。
 さて上野に着きますと広小路一面から山へかけ行幸の道を除いて立錐の隙もない程の人出でありますが、一同静粛にして居る様子でありますのを見ると嬉しさに涙がにじむ程でした。上野公園の入口にはこの外大きな緑葉のアーチの奉迎門が建てられてありました。
 上野に於ける御臨幸奉迎場は、博物館前の広場に設けられたのでありまして玉座、請待の方々、参集の人々の桟敷、演武場、一般府民の参集場、高齢者の奉迎の場所、其外種々設備の模様は、別紙図面 ○次頁の通りであります。この図面の一面には当日の演武の番組が印刷されてあります。半世紀を隔てゝ保存されたこの印刷ものを見て誠になつかしく一層当時追懐の情が深くなりました。
 私共が同所に着したのは二時頃でもありましたか、案内せられた座席は、玉座右方雛段桟敷の上段の方でありましたので、さほど遠くはないのに玉座を拝し、国賓の座席等を見ることが叶ひませんでした。桟敷は玉座を中央に左右に延び、両端折曲つてしつらへられ、前の広場が御覧に供へ奉るべき演武の場所であります。やがて一時間程して天皇陛下着御、便殿に御休憩の上こゝの玉座に出御ならせられました君が代の奏楽とゝもに桟敷に居る人々一同起立最敬礼致しました。グラント将軍・同夫人・令息一行にも前に御着になつて居られ、続いて玉座の次の座席につかれたのでありましたらう。
 府民に対して優渥なる勅語を賜はらせられ、楠本東京府知事謹んで奉答文朗読を致されました。右等の御式が相済んで演武が始められました。第一が撃剣、次が槍術でありました、当時はまだ徳川時代の武術者の錚々たる者が大勢生存して居たのでありまして、其人々は今日を晴れ、又再びとは遭遇し得られまじき一世の光栄に感激し、各々其技の秘術を尽したのでありますから、いづれも目覚しい仕合で有つたとのことですが、仕合は玉座の正面で行はれましたので私共の席からはよくは見ることが出来ませんでした。
 さて次には前々から私共まで楽しみに致して居た流鏑馬であります先づ烏帽子小素襖を着た人が三人的を持つて出て来て場の中央へ一列三ケ所に的を立て其的番はその傍地上に座して居ます。的は五・六寸の薄い木片に黒星を書いたもので、それを六尺程の棒の先に付けて立てるのであります。たしか騎射手出場の合図は太鼓の音で有つたと思ひます。騎射手の出立ちは現今では昔絵か遊就館の武者人形で見るばかりですが実に優美で且凛々しいものであります、頭には綾藺笠を頂き身には水干を着け行縢《むかばき》を穿き馬手には弓懸をかけ、蒔絵の鞍を置いた馬に打乗つて出て来ます。水干は木賊・鬱金・薄紅・勝色・藤色、色とりどり、行縢は鹿皮・熊皮、弓懸は紅・緑・紫地の錦、或は金欄で実に美しいものであります。此装束は本郷の前田家の蔵品であると聞きました。又射手は当時既に其人が少数になつて居たので広く募集
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[img地図]明治十二年八月廿五日上野御臨幸御@@之図 博物館 清水谷 玉座 サシキ 入口 食堂 山下通り 皇族クラント氏@立 梅園 不忍池 花火打場@ 上野元黒門丁 三ハシ
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して漸く腕に覚えのある人々を二・三十人集め得たと申すことであります。先づ馬を乗り出し、やがて弓に矢をつがへ的をねらひながら馬を走らせ的の前を行き過ぎ振りかへりざまに丁とはなします。矢が的のまん中にはつしと当ると、的はくだけて木片が翻つて落ちます、続いて第二、第三の的を射るのであります、次々に出て来る射手の水干の色々、乗馬の葦毛・栗毛・鹿毛などの毛色との配合もよく実に優美な武術であります。射手の中まれには的を射はづした人もありましたが大抵は美事に的中して喝采を博したのでありました。的番は次々にあとの的をつけかへます。其次が犬追物《いぬおふもの》であります。犬追物は旧幕府時代大諸侯の嗣子加冠の祝ひの儀に演ぜられたものであります。其濫觴は三浦千葉両介が那須野が原の九尾の狐退治の官命を受けた時狐狩の練習の為に催ふしたものなどゝいふ伝説もあります。犬追物に用ひる矢には、鏃の代りに鶏卵大の木の玉が附けてあります、射手は流鏑馬のと同様のいでたちで五・六人一方に馬をひかへて居りますと六・七疋の大犬が放たれて馳け出しました、斑・黒、其外立派な犬ではありますがいづれも耳の垂れた雑種犬でありまして、其時にはもはや耳を立て尾を巻いた純粋の日本犬は東京附近には居らぬ様になつて居たのであります。射手のいでたちと調和せぬけれど犬には昔様の服装をさせる訳に行かないのでありました。
 さて馳け出した犬は射手に追はれて一・二遍場内を走り廻りましたがやがて銘々向ふの矢来のもとだのこちらの桟敷の下などにかゞみ込んで仕舞ひ、係りの人が鞭で打つても走り出さうとはせず隙間を求めて逃げ出さうとする様子が至つて笑止で、これは失敗に終つたのでした。訓練の時日が足らなかつた為でありましたか、或は犬の性質によるものでありましたらうか。犬の不成功は予期されて居たものと見えやがて牛曳といふものが三つ四つ出ました。牛曳は四斗樽程の大きさの橢円形の竹籠に鼠色の紙を貼つたものに紐を付け、射手とほゞ同じ服装の騎士がそれを曳いて走るのを射手が追ひかけて射るのであります、其牛は三本も四本も矢を立てゝ走るあり、終には紙が破れて竹の骨もあらはになるのもあり、なかなか面白い見もので、犬追物の不成功を償ふに足りました。
 番組にはしるしてありませんが、終りに母衣引の騎馬術が演ぜられました。騎士は当時名代の馬術の達人草刈・伊集院両氏でありました両人共紅白段々の四・五間もあらうかと思はれる母衣の吹流しの末が高く翻るほど疾風の様に馬を馳せて場内一ぱいに大きく円を描いて何回となく馳せ廻り、且玉座の御前を過ぐる度に馬上に頭を下げて敬礼を致すほどの余裕を見せて、誠に立派なものでありました。かくて演武天覧も果てまして暫くして君が代の奏楽中に 天皇陛下には還御ならせられました。還御の後、グラント将軍・同夫人・各宮殿下方招待の方々等を御案内申上げ食堂が開かれたのでありますが、今日は非常な多人数で混雑故、委員の夫人たちはそこへは出るに及ばぬことにしてあつたのでありませう、母上は私共三人を連れて会場を出られました。委員の家族たちの座席は皆一つ所でなかつたので桟敷では御見かけしなかつた福地さんの夫人と令嬢とに、場の出口でお目にかゝつた
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のでした。
 それから新富座の俳優たち、団十郎・菊五郎・宗十郎・半四郎・仲蔵・左団次、其外何人かの俳優と守田勘弥とが参集して桟敷では私共の座席の近辺の下段の方に皆燕尾服で並んで居ました。当日男子の服装は一同燕尾服でありました。日中しかも室外で燕尾服はをかしいとおつしやるかも知れませんが、燕尾服は通常礼服と定められて居たのですから礼式がゝつた会合の服装は必ず燕尾服でありました。現に近年まで帝国大学卒業式御臨幸の節など午前の集会でも燕尾服と定められて居たのでした。母上が私共を連れ会場から出て広小路の松源(当時有名な料理屋)に来て、不忍の池に面した座敷で休息しましたのは夕方六時頃でありましたらう。その時刻には各宮様方還御ならせられグラント将軍一行も退場せられ今日の盛儀少しの支障も無く完全に結了に相成つた由でありました。一般府民参集場の方に於ても喧噪なことなど少しも無く、設けられて有つた救護所に一人の収容者も無かつたさうであります。母上はあまり口にはなされませなんだが、今日の盛儀にいさゝかの故障も無い様にと深く気遣ふて居られましたので、この時真に重荷をおろしたと御欣びになり、私共もほんとうに胸を撫でおろしたのでした。池の端では昼の中から煙火が打揚げられて居ましたが、日が暮れては殊更に美しい花火が絶間なく揚がりました。当時の煙火は旧大名諸家の砲術家が烽火製作《のろし》の余技として競ふて作つた名残りが猶消え果てずに有りましたもので、現今招魂社の御祭りの時に揚げる花火より遥かに優つた立派なものであつた様に思ひます。ゆるゆる夕食をたべ花火を見て帰途に就いたのは九時頃でありましたらう。公園の入口・三橋辺・広小路等には酸漿提灯の町飾りが美事でありました。父上の帰宅せられたのは十二時近くでもありましたらうか連日の繁忙でさすがの父上も少く御疲労の様には見えましたが、御心の満足で御機嫌が上々でありました。私の記憶して居るのはこれ丈けであります。
 さて今に到り考へて見ますのに、後年追々に欧米各国から皇族方名士方、多数の方々が来朝せられまして、米国からはタフト氏等も日本を訪問せられましたが、其節はまだ未来の大統領であられましたから既に元首の位に就かれたことのある人物としては、五十余年間にグラント将軍只一人であります。それ故その歓迎に父上の率先で非常な尽力の末、御臨幸を仰ぐまでの盛儀が行はれましたことは、半世紀を隔てた今日になつても意義が薄くはならぬことゝ存じられます。但し其後明治十三・四年の頃、ハワイの元首カラカワ殿下《(陛)》が来朝せられ布哇皇帝と云ふ称号でありました。飛鳥山邸に御請待申したことを思ひ出しましたから附け加へます。
 昨年の夏、上野公園にグラント将軍植樹の記念碑が建てられ、その除幕式が行はれたと聞き、よそながら私まで深く欣ばしく存じて当時の追懐に耽つたのでありました。将軍と夫人とが植樹せられましたのは八月二十五日御請待の当日、式場へ出られる前に御植ゑになつたのであります。上野に於ける盛儀をまのあたり見聞き、今も猶生存して其当時を追懐する人々の数も段々僅少になりましたが、将軍の植ゑら
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れた扁柏と夫人の植ゑられた玉蘭との二木は常盤堅葉に枝は栄え葉も繁つて、日米親善の好記念をつぎつぎの新時代の人々に物語るでありませう。



〔参考〕天業民報 第二八四三号 昭和五年六月一五日 明治天皇とグラント将軍〔下〕(星野武雄[星野武男] 欽稿)(DK250036k-0023)
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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。