デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
4節 キリスト教団体
2款 救世軍
■綱文

第26巻 p.72-80(DK260021k) ページ画像

明治40年4月18日(1907年)

是ヨリ先救世軍大将ウイリアム・ブース(William Booth)渡来ス。栄一等発起人トナリ、是日東京市会議事堂ニ其歓迎会ヲ開ク。栄一商工業有志者ヲ代表シテ歓迎ノ辞ヲ朗読ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK260021k-0001)
第26巻 p.72 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年     (渋沢子爵家所蔵)
三月二十二日 曇 軽暖           起床七時 就蓐十二時
○上略
安達憲忠・山室軍平・留岡幸助三氏来リ、救世軍大将ブース氏渡来ニ付歓迎ノ事ヲ談ス
   ○中略。
三月二十六日 曇 軽暖           起床七時 就蓐十一時三十分
○上略 午前十時大隈伯ヲ早稲田邸ニ訪ヒ、近日渡来スル救世軍大将ブース氏歓迎ノ事ヲ協議ス、豊川良平・山室軍平・新戸部博士等来会ス、畢テ愛国婦人会ニ抵リ要務ヲ議決ス、清浦男爵トブース歓迎ノ事ヲ談ス ○中略 午後五時尾崎市長ヲ市役所ニ訪ヒ、今朝大隈伯ト談話セシ顛末ヲ通ス ○下略
   ○中略。
四月五日 半晴 暖             起床七時 就蓐十二時
起床後直ニ入浴シ、畢テ朝飧ヲ喫ス、食後留岡・原・安達三氏ノ来訪ニ接シ、ブース大将歓迎ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
四月十六日 曇 暖             起床八時 就蓐十二時
○上略 九時過原・安達・八十島氏等来会シ、フース大将歓迎ノ事ヲ談シ庭園ヲ一覧ス。 ○下略


(八十島親徳) 日録 明治四〇年(DK260021k-0002)
第26巻 p.72 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四〇年   (八十島親義氏所蔵)
四月十六日 晴
救世軍大将ブース氏歓迎園遊会準備ノ為、早朝飛鳥山邸ニ至リ、原胤昭・安達憲忠等ト共ニ夫々ノ手配ヲ為ス ○下略


日本に於るブース大将 山室軍平編 前篇・第二八―四四頁 明治四〇年一二月刊(DK260021k-0003)
第26巻 p.72-78 ページ画像

日本に於るブース大将 山室軍平編  前篇・第二八―四四頁 明治四〇年一二月刊
 ○偉人の足跡
    (七)東京市の歓迎会
 四月十八日午後二時三十分、東京市の催に係るブース大将歓迎会は之を市会議事堂に営まるゝことゝなつた。式場は杉葉を以て柱を巻き桟敷の欄干には紫の幔幕を張り、恰好の場所に、束ねたる万国旗を、綺麗に按配しあり。又議事堂車寄の辺は、同じく杉葉を以て、柱と欄間とを包み、欄間には金字を以て、十字架にSの字を現はし、入口の
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前面一帯は、紅白段々の幕を張り、蜘蛛手にかけ渡せる各国の国旗は翩々と春風に翻へり、市役所の正門及び通用門には何れも日英の大国旗を交叉して、歓迎の意を表はしてあつた。此日の来会者は、会の発起者として名を列ねたる、大隈伯・渋沢男・清浦男・千家知事・尾崎市長・江原素六・島田三郎・中野武営・豊川良平諸氏の外に、大山元帥・阪谷蔵相・出羽中将・肝付中将・井口少将・石黒男・高木男・神田男・安楽警視総監・横田大審院長・倉富検事総長・箕浦勝人・大岡育造・加藤正義・徳富猪一郎・三宅雄次郎・根本正・雨宮敬次郎其他二百余人に達したのである。ブース大将は其幕僚を随へて、二時二十五分の頃、会場に着せらるゝと、来会者は一同車寄に進み、慇懃に之を迎へたのである。大将は満面溢るゝ許の喜色を湛へ、馬車より降りて、左視右顧しつゝ感謝の意を表し、市長の案内にて、一先づ休憩室に入り、数分間の後、直ちに出て、設けの式場に、歩を移さるゝこととなつた。
 見渡せば、高壇の左側には大隈伯其他の発起者が列座し、右側には又ブース大将・大山元帥・阪谷蔵相及びレイルトン、ニコルの二少将以下が着席して居るのである。千家知事は先づ立つて、開会の挨拶をなし、引続いて、尾崎市長は大将に一揖したる後、左の歓迎の辞を述べられたのである。
  我が東京市は、近き過去に於て、屡々名誉ある偉人を歓迎したのである。併し乍ら其多くは善く謀り善く戦ふ武将にて、未だ平和の偉人を迎ふる機会を得なかつたのである。然るに今日、此席に於てブース大将の如き、平和の偉人を歓迎することを得るは、東京市の光栄とする所である。歓迎の設備・方法に不行届の所はあらんも、其精神に至りては、他の何れの都市にも譲らざる心得であれば、何卒其誠意を掬せられ度ものである。我等は又大将の日本に在留中、人道の為に有益なる教訓を、多く遣して去られんことを、切に希望するのである云々。
 語は簡短なれ共、頗る其要領を得たるものであつた。聞く、今より二十年前、ブース大将と救世軍の噂が、ちらほらと、我日本の識者の間に達し始めたる時、当時は未だ英語の“The Salvation Army”を何と訳すべきかに就き、一定の意見のまとまらぬ頃とて、或は「済度軍」或は「救民軍」等、色々の訳語を用ゐて居つたが、其際先づ「救世軍」てふ、最も適切なる訳語を発明して、英語の“The Salvation Army”に当篏めたる者は、実に今の東京市長、当時の一新聞記者尾崎行雄氏其人であつたと云ふことである、それゆゑ尾崎市長は、日本に於る救世軍の、名親と称へらるべき人である。今其の名親が図らずも東京市民を代表して、ブース大将を歓迎せらるゝめぐり合せとなつたるは、亦不思議の因縁と謂はねばならぬ。
 市長の次に、東京市商工業有志を代表して、渋沢男爵の歓迎文朗読があつた。
  救世軍大将ウヰリヤム・ブース君の来朝に際し、我東京市商工業有志者を代表して歓迎の辞を述ぶるの機会を得たるは、余の最も光栄とする所なり。
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  抑々救世軍の事業たるや、ブース大将の創始に係り、其萌芽は英国ロンドンの東隅に発したりと雖も、爾後五十年間に亘る堅忍奮闘の結果として、今や啻に一英国内の事業たるのみに止まらず、世界五十有余の国々及び殖民地に、其軍旗を翻へし、救霊救肉の為に勇壮なる活動を試むる、世界的一大軍隊となるに至れり。豈偉ならずとせんや。
  余の聞く所に依れば、救世軍は実に二様の性質を有すと。其基督の福音を宣伝するの点に於て、一の宗教的団体たり。其窮民・出獄人・堕落婦人の救済に尽すあるの点に於ては一の社会的事業たり。余は宗教的活動に対して、多大の敬意を払ふと同時に、其社会的事業に対して、更に一層感謝の念を禁ずる能はず。由来宗教の使命は神人の調和、人霊の救済に存し、道徳の進歩、社会の隆盛を以て其客観的究極の目的とす。而して其使命を完うし、此目的を達せんと欲するには、必ずや霊心肉体の両方面に亘りて、之が扶掖済度を尽さゞる可らず。何となれば、人は霊心的存在者たると同時に、亦衣食を要する肉体的存在者たるを以てなり。
  語に曰く、人はパンのみにて生くる者に非ずと。之れ精神的修養手段の必要なる所以なり。然りと雖も、人は亦パンなくして生くる能はず。之れ物質的救済手段の必要なる所以なりとす。二者其一を欠かば、人類済度の目的、夫れ或は達し難きに近からんか。
  ブース大将玆に見る所あり。其救世軍の事業を経営せらるゝに当つてや、二者其一に偏することなく、一面に於ては、福音の宣伝に依りて霊心の慰安に努め、他面に於ては、諸種の社会的事業を営みて、以て貧者の恤救、罪囚の保護に尽す所あり。所謂左手に聖書を捧げ、右手にパンを携へ、渾身の熱血を人道の偉業に注ぐもの。勇戦奮闘五十年、南船北馬席暖まるに暇なく、今や七十九歳の老躯を提げて、我日東帝国に渡来せらる。余輩豈満腔の熱心と、敬意とを以て、此老偉人を迎へざる可けんや。
  余往年欧米諸国を漫遊し英京倫敦に留まるや、略慈善事業を観察し、其設備の周到なるを見て、転た欽羨の情に堪ざるものなりき。惟へらく、近世産業の革命、経済の発展は、勢ひ貧富の懸隔を来たし、幾多の失業者窮民を出しぬ。而して之が救済扶掖に力を尽すの慈善事業は、即ち社会の安寧、福祉を保持する一種の安全弁に外ならずと。翻つて我日本の現状を見るに、軍事・経済・科学・教育、其他諸般の施設に於て、近年長足の進歩をなしたりとの賞誉を、否む能はずと雖も、然も恤救事業の設備に至りては、尚未だ其萌芽の時代を脱する能はず。之れ余輩の深く留意せざる可らざる状態なりとす。
  蓋し本邦の習俗、家族相依り、同胞相助くるの美風に富み、郷党朋友、互に其難を救はざるを以て恥とす。是を以て社会的窮民救済事業に於て、大なる必要を見ざりしなり。其良習美俗、外に対して聊さか誇るに足るものありと雖も、輓近生存競争劇甚となるに従ひて、故旧隣保相助の風習、漸次減少の傾向を来たし、今や時勢の変遷と共に、大に公共的慈恵設備の拡張を、図らざるべからざるの気
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運に迫れり。
  此時に際し、偶々ブース大将の来朝を見る。之れ本邦慈善事業の発展に対する、有力なる一動機たるなからんや。
  君今や老体を厭はず、万里の波濤を蹴破して、極東に来らる。惟ふに皇天の加護、君が身上に豊かにして、終始健在、能く其使命を果されんことを疑はず。敢て蕪詞を呈し、玆に恭しく歓迎の誠意を表す。
  明治四十年四月十八日        男爵 渋沢栄一
 次に大隈伯登壇、大将に黙礼したる後、徐に口を開き、大要左の如く演説せられたのである。
  余は爰に、宗教界の偉人、ブース大将を迎ふることを、光栄とする者である。余が満腔の熱誠を以て、将軍を歓迎するには、左の三箇の理由がある。
 (一)余は将軍を、我が同盟国たる、英国に於ける偉人として歓迎する。
 (二)近世に於ける救世軍の、宗教的・社会的運動は、世界に偉大なる影響を与へたる者にて、其功績の赫灼たる、実に讚美すべき者がある。故に余は将軍を社会の救世主として歓迎する。
 (三)現時の物質的進歩は、総てに於て生存競争の度を増し、猛烈なる勢を以て、弱肉強食の余弊を伴随し来り、日本も其競争の渦中に投ぜむとする傾向あり。弱者が困難を訴ふるの度は、日増に加はらんとして居る。それ故、此際、此偉人を迎ふるは、余の尤も歓ぶ所である。
  抑も我日本は、二千有五百年間、島帝国として、海外諸国間の交際甚だ疎なりし為め、随つて外界の刺激を受くることなく、抑圧干渉等を受けざりし故、世界無比の楽土であつた。則ち上に帝室を戴き、下庶民相和したるのみならず、歴代の諸帝は、民の禍を以て我が禍となし給ひ、喜憂共に相分たれたるが如き、是れ我が国憲の精華にして、政治の根本主義も亦実に、爰に存したのである。故に時世に流転あるも、貧民問題を醸成する如きことなく、富の平均せる点に於ては、世界に例がない程であつた。
  翻つて世界の各国を見れば、近世に至り、貧富の懸隔、漸く多きを加へ、下級貧民の圧迫を加へらるゝ者、日に増し来らんとし、之に対する救済策に付ては、各国共に苦心して居る様子である。日本は前に述る如く、今日まで頗る安全なる地歩を辿り来り、此種の問題を惹起す如きことなかりしも、世界の大勢は之を許さぬ、日本が果していつ迄も、現時の状態を維持し得るや否やは、頗る難問題と謂はねばならぬ。
  凡そ物質的文明の進歩と、貧民の増加は随伴する者にて、世界の強大列国は皆其例に洩れなかつたのである。之を救済する新道徳の未だ出でざる限り、我国と雖も、其潮流の渦中に捲き去らるべきは明かにして、之を如何に防禦すべきかの問題に至りては、法律上よりし、教育上よりし、単に宗教上よりするも、頗る困難なることである。是に於てか、将軍の事業は時代の要求に恰致し、大に有効な
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る、成果を挙げつゝある所以である。
  弱者に対して福音を与へんとするは、是れ将軍の抱懐にて、宗教的運動は、社会的運動と相結んで、初めて効果を完うすべきものである。将軍の為す所は頗る其要を得て居ると思ふ。日本が強大国家として存在する以上は、其生存競争の避べからざる者あるが故に、将来に於て起るべく、預知せらるゝ問題を、未発に防ぐに、将軍の率ゆる、最も規律あり、而も勇壮なる軍事的規律の下に、此の世界人類の大問題を、解決すべき運動を開始せらるゝは、余の最も愉快とする所にして、日本国民の国勢として最も歓ぶ所である。則ち日本国勢の状態が、将来免れ難き生存競争の結果、貧民問題を惹起し来るやも、知るべからざるの時に当り、之を未発に預防せむとして遠く海外万里を航して来られたるに対し、余は満腔の熱誠を以て、歓迎する所以である。将軍の此行は、日英同盟の上に、更に将軍に依りて、精神的同盟の成れるものとして、余が最も愉快に覚ゆる所である。
 是に於て、当日の主賓ブース大将は起たれたのである。拍手は再び堂を震ふ許りに起つた。大将は山室少佐の訳を以て、東京市民の丁重なる歓迎を感謝することより説き起し、世界の救世軍に対する輿論の一変したる次第を叙し、それより救世軍とは何かといふ問題に入り、縦横自在に、其四十年間の経験と、世界的大軍隊の事情とを演述せられたのである。其筆記は後篇の始に掲げてあれば、就て見られよ。
 此歓迎会の席上に於る、ブース大将が、如何なる感動を、其会衆に与へたるかは、左に掲ぐる二・三の評論を見て、其一班を察することが出来ると思ふ。
 ◎只今東京府議事堂に於ける、ブース大将驩迎会より帰来、直ちに編輯机案に対し候。
 ◎来会者は東京のあらゆる精粋を集め候。大山元帥・大隈伯・渋沢男・清浦男・阪谷蔵相、其他あらゆる方面、特に実業方面の諸紳士の群集したるは、実に世運一転の徴候と認むるも、決して異論なかる可く候。
 ◎記者は実物のブースを、初めて見物致候。其の陸軍元帥大山侯と救世軍総督ブース大将と、両々相並びたる、何となく面白き対照、且つ趣味ある比例を与へ申候。而して我が偉大漢なる大山元帥と接して、其の身材の聊さか高きを覚へたるが如きを見れば、ブース大将の長身や、察するに足る也。
 ◎ブースは充分に年齢の重担を負へり。彼が四十余年来の辛苦を想へば、其の七十九齢を、斯迄に保持したるは、寧ろ異常なる可く候痩躯鶴の如く、髯髪仙の如し。
 ◎大隈伯の驩迎の辞は、先づ其体を得たりと申す可し。今日以後に社会問題の続発するを予想して、その解決機関として、救世軍を驩迎したるは、お世辞にあらず、全くの実情也。此点に就ては、吾人も同感也。
 ◎ブースの答辞は、約一時間を超へ、聊か公会の答辞としては、長きに失したるが如きも、其の寧ろ感動し易からざる来集者を、感動
 - 第26巻 p.77 -ページ画像 
せしめたるや、記者の識認する所也。
 ◎要するに救世軍の何物たる、其の目的、其の方便、其の現状、其の抱負等、殆んど、挙げて、漏らす所なかりき。ブース大将の演説は音吐差低《やゝ》く、少しく聴取り難かりしも、中頃よりは、其の熱情愈よ王《わう》し来りて、一言一句、悉く中心の奥底より出で来りたるが如く覚へ候。通訳者の使用に熟せざるが為めに、少しく整調を欠きたるが如きも、山室少佐が、最善の力を竭したるは、争ふ可らず候。通訳には先づ不足なし。
 ◎其の旨趣は、極めて明白、極めて平易、而して極めて剴切。更らに人を驚かすの奇論も、創見もなけれども、四十余年来献身的の行径は、其の一言一句を透して、聴者の胸臆に徹し候。彼は大学の教育を受けざるも、人生大学の大なる卒業者ならむ。
 此は其翌十九日の国民新聞「東京だより」欄に於る、徳富蘇峰氏の評論である。
  救世軍のブース大将は、東京市会議事堂で、大山元帥と相並んで居たが、其容貌風采より言へば、先づ元帥の顔は円く、身体は肥満して、何となく寛仁な所が見えるが、大将は痩顔長身、眼光も亦人を射るの風がある。故にブース氏は精悍なる武将の如く、大山元帥は却つて博愛の恩人の如くで有つた。若し強て我武将と似た人を求むれば、其容貌より、性行の上までが、乃木将軍に近い所が多い。ブース氏の演説振の如き特に然りだ。彼は其始は処女の如く慇懃に説き起し、次第に其精気を現はし、我目的を発揮するに方つては、満面に朱を灑ぎ、四肢に力を込め、身を挺して救世軍に捧ぐる所抔は乃木将軍の攻囲軍行動に比することが出来る。
 此は中央新聞「筆のしづく」欄の記事である。蓋し其主筆記者、大岡硯海氏の筆と、察せらるゝ。而して、万朝報の社説欄には、又左の如き短篇を見たのである。
      ◎また一世の偉観
  市のブース大将歓迎会に、ブース大将と我大山大将と椅子を並べて着席す。一は是れ人道平和の凱旋将軍、一は是日露戦役の凱旋将軍、共に其名の世界に喧伝せらるゝ名誉の将軍也。今此二将軍を一堂に会す、また一世の偉観にして、歴史的の一事実たるを失はず。(下略)
      ◎呼吸の吻合あり
  大隈伯、ブース大将を歓迎するに三個の理由を挙ぐれば、ブース大将亦、世の貧窮者に対する三種の態度あるを説明す。政治界の弁者と、宗教界の弁者が、両々相対して、其弁力を闘はす所、自然に呼吸の吻合あるに似たり。
 大将の演説終りて後、一同市庁玄関前に出で、大将を真中に取囲みて撮影し、それより二階の応接間にて、茶菓を喫しつゝ主客打解けて暫時閑談したのである。
 其席上、尾崎市長は紀念の為め、玉宝堂製の戦利銃弾にて造りたるペン軸・ナイフ等若干を、大将に贈ると、大将は「人を殺す為の弾丸が、此の如く平和の道具に造り直さるゝは、面白き趣好である」とて
 - 第26巻 p.78 -ページ画像 
之を喜び、軈て市長の需に応じ、左の一語を白紙に手書せられたのである。
  余は喪はれたる者を尋ねて救はん為に、神の召を受け、且救を得たる者なり。
 かくて散会したるは、午後五時三十分の頃であつた。


東京日日新聞 第一〇八九〇号 明治四〇年四月一九日 市の歓迎会(DK260021k-0004)
第26巻 p.78 ページ画像

東京日日新聞 第一〇八九〇号 明治四〇年四月一九日
    ○市の歓迎会
市内朝野有志の発起に係るブース「大将」歓迎会は、昨十八日午後二時より東京市会議事堂に開かれ、主人側には演壇を右にして千家府知事・尾崎市長・渋沢男爵・大隈伯爵・清浦男爵・中野武営・島田三郎江原素六氏居並び、左は来賓席にしてブース「大将」・大山元帥・阪谷蔵相・ニコル「少将」・ヒギンス大佐等着席し、招待員中には肝付・坂本・相浦・出羽の各海軍中将、横田大審院長を始めとし、在朝在野の紳士約百五十名あり、傍聴席は立錐の地なきまでに聴者を以つて満たされたり、定刻を過ぐる十分、千家知事の開会の辞に次いで尾崎市長の簡単なる迎辞、商工業者総代渋沢男爵の迎辞朗読、在野政治家総代大隈伯爵の歓迎演説ありて、ブース「大将」は堂を揺がす拍手の裡に起立し、丁寧に歓迎の誠意を謝し、尋いで救世軍の目的・事業及び日本に於ける将来の企画を述べて、一時間余に亘り、四時五分千家知事会終了の旨を告げ、夫より別室にて茶菓の饗応あり、衆散じ尽したるは午後五時頃なりき
    渋沢男の歓迎文 ○略ス。


中外商業新報 第七六二二号 明治四〇年四月一九日 ○武大将歓迎会(DK260021k-0005)
第26巻 p.78-79 ページ画像

中外商業新報  第七六二二号 明治四〇年四月一九日
    ○武大将歓迎会
大隈伯・千家男・渋沢男・清浦男・豊川・中野・尾崎・島田・江原諸氏の発起に係るブース大将歓迎会は、予報の如く十八日午後二時東京市議事堂にて開かれたり、開会先づ尾崎市長起ちて開会の趣旨に兼て大将の来朝を謝したる歓迎の意を述べ、次に渋沢男は商工業者を代表したる歓迎文を朗読し、次に大隈伯は大要を三段に分ち、先づ此同盟国の宗教家を迎へたる喜びを陳し「日本は久しく貧富の懸隔無かりしに、文化の開発と共に次第に其勢を増し、前途之を防遏せんには、法律・教育・宗教の力を以てするも尚難しと為す、若し救世軍の如き規律あり統一ある宗教の力に依りて、此目的を達するを得ば頗る喜ばしき事なり、余はブース大将及び其軍が大に奮ふて此救霊の目的を達せられん事を熱望す、日英両国は既に形に於て攻守同盟を締結せり、今後此目的にして成は即ち更に精神的同盟を鞏固にする者也、之に拠りて両国々民を結びつくるのみならす、又実に世界をして平和と幸福を享しむる者也」と述べ、熱心に大将の来遊を歓迎せり、右終りてブース大将は起立し、先づ六十年前一度心を救世の業に注ぎ、四十年来救世軍を組織したる後、終始一貫遂に今日の大団体を組織するに至りし其間の事歴を概言し、更に各国到る処歓迎され、上帝王より下賤民に及ぶ迄、善く救世軍の趣旨を解し救世軍の勢之が為に次第に昂るを説
 - 第26巻 p.79 -ページ画像 
き、最後に余は日本に於ても亦同じく此目的を貫徹せん事を決意し来朝せり、本日社会の各階級を通して多数の紳士会せられ、余の為に歓迎会を開かれたるは感謝の外なしとの意を述べ、斯て市庁前にて撮影し、茶菓の饗応あり散会せり、当日の来会者は発起諸氏の外
 大山元帥 阪谷蔵相 広沢伯 後藤男 石黒男 高木男 近藤廉平 原六郎 馬越恭平 渡辺専次郎 末延道成 箕浦勝人 岩出惣兵衛 雨宮敬二郎 浅田正文 飯田義一 岩永省一
其外貴衆両院議員・陸海軍人・商業会議所議員・新聞社長等にて、議事堂の階上・階下に遍ねく、頗る盛大壮厳なる歓迎会なりき



〔参考〕社会事業 第一一巻・第一二号 昭和三年三月一五日 子爵渋沢栄一氏を中心とする座談会(DK260021k-0006)
第26巻 p.79-80 ページ画像

社会事業  第一一巻・第一二号 昭和三年三月一五日
  子爵渋沢栄一氏を中心とする座談会
       ―昭和三年二月二十三日午後三時より同六時まで社会局分室会議室に於て―
            出席者  子爵 渋沢栄一
                    窪田静太郎
                    安達憲忠
                    原胤昭
                    山室軍平
                    生江孝之
                    桑田熊蔵
                    原泰一
                    長岡隆一郎
                    大久保利武
                    有馬四郎助
                    相田良雄
○上略
山室 明治四十年にブース老大将が来朝した時に、島田三郎さんの紹介で渋沢さんのお邸へ御伺ひしましたが……。
窪田 山室さんには異議があるかも知れないが、私は社会事業講座に少し書いたんだが、その中に私の見解として、協会殊に子爵がブース大将を歓迎され、救世軍を後援されたことは、その後救世軍の立場を光明に導いて呉れたと云へるであらうと。之には救世軍の方面から何も聞いたことはないのだけれども、子爵がよく了解された上にあゝして下さつたのです。救世軍が日本に来た初めは随分迫害されたものですからね。
山室 それは確かにそうです。あの渋沢子爵がブース大将を歓迎して下さつたことは救世軍をどのやうに救ふて下さつたか判りません。大将が日本を去る時に、将来の救世軍のために日本の名士に頼んで行き度いと云はれたので、私共は九人のお方を選んでブース大将から頼んで貰つたのですが、あとから私共が参りましてお願ひしても皆逃げてしまはれて実に困りました。
窪田 ブース大将を飛鳥山の邸に招待したのは私共がお願ひしましたので、その時の使者は留岡さんと原さんであつたと思ひます。
 - 第26巻 p.80 -ページ画像 
桑田 ブース大将が日本を去る少し前に、何処かでなさつた演説の中に「私は遠からず天国に行くので、もう再び日本に来られない。私は天国から日本の社会事業の発達を眺めて居ります」と云はれたのが、今も耳に残つて居ます。あの時は妙な気がしたけれど……。
○下略
   ○ウイリアム・ブースWilliam Booth(一八二九―一九一二)イギリス人。軍隊的組織ノモトニ民衆伝道ト社会事業ヲ行フ救世軍ノ創設者、初代総司令官。明治四十年四月十六日来朝、五月二十四日離日ス。我国救世軍ハ明治二十八年開始。