デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.89-106(DK260025k) ページ画像

明治19年4月(1886年)

是月、栄一ノ深川邸ニ寄寓セル書生等相謀リテ一社ヲ結ビ名ヅケテ竜門社ト曰フ、尾高惇忠ノ命ズル所ナリ。爾来月次ニ集会ヲ開キ且ツ「竜門雑誌」ヲ発行ス。右月次会ノ外春秋二季ニ総会ヲ開キ、栄一毎会出席シテ社員ヲ指導ス。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第一一〇一―一一〇三頁 明治三三年六月再版刊(DK260025k-0001)
第26巻 p.89 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第一一〇一―一一〇三頁 明治三三年六月再版刊
 ○第六十章 家庭
    第七節 竜門社
青淵先生門下ニ多ク書生ヲ養フ、書生集テ一社ヲ結ヒ学業ヲ講論ス、尾高新五郎惇忠之カ名ヲ命シテ竜門社ト云フ、蓋シ黄河ノ鯉竜門ノ激流ヲ越ユルモノハ化シテ竜トナルノ故事ニ基クナリ、後チ塾舎組織ノ必要ヲ感シ、之ヲ竜門舎ト称シ舎則ヲ設ケ舎長・幹事ヲ置ケリ、而シテ一方演説討論ヲ専ラトスルモノハ依然竜門社ト称シ毎月小集会ヲ開キ春秋二季ニ大会ヲ催フシ、広ク有名ノ博士・実業家・政治家ヲ招聘シ其講談ヲ乞ヘリ、明治三十年秋ノ大会ニハ侯爵伊藤博文参会シ一場ノ演説ヲ為セリ
竜門社員ハ最初青淵先生門下ノ書生ノミナリシカ、先生監督ノ下ニアル銀行・会社其他諸般事業ニ関係従事ノ者ハ均シク先生ノ薫陶ヲ受クルモノナルヲ以テ入社ヲ許シ、又別ニ名誉会員・客員等ノ制ヲ設ケタルニヨリ、社員ノ数年々増加シ今日総数五百余人ナリ
竜門社ハ明治二十一年四月二十七日竜門雑誌第一号ヲ発行シ、爾来毎月刊行今日(明治三十二年十二月)ハ百三十九号ニ及ヘリ、此ノ雑誌ハ専ラ実業ニ関スル事項ヲ報道シ、先生一家及ヒ社員ニ関スル記事ヲ掲載セリ、竜門雑誌第一号発刊以前ニハ或ヒハ筆写ニヨリ或ヒハ「コンニヤク」版ニヨリ極メテ不完全ナル雑誌ヲ数回作リタルコトアリ
竜門社ノ今日アルハ皆ナ青淵先生ノ賜モノニシテ、社員ノ先生ノ恩沢ニ浴スルヤ深シ、依ツテ本書青淵先生六十年史ノ末章ニ其ノ来歴ヲ述ヘ、謹ンテ先生ノ万々歳ヲ祝ス
   ○竜門社ト竜門舎トノ関係ハ後掲「深川時代の竜門社と竜門舎との関係」参照。


竜門雑誌 第一二号・第四〇―四一頁 明治二二年四月 ○竜門社第二回総集会演説(社長渋沢篤二)(DK260025k-0002)
第26巻 p.89-90 ページ画像

竜門雑誌  第一二号・第四〇―四一頁 明治二二年四月
    ○竜門社第二回総集会演説 (社長 渋沢篤二)
明治十九年四月本社創立以来、年ヲ閲スルコト玆ニ三回、本日ヲ以テ本社第二回ノ総会ヲ曖依村荘ニ開ク、初メ本社創設ノ際ニ当リテハ社員ノ数甚ダ僅少ニシテ、社勢モ亦微弱ナリシト雖モ、爾後漸々社員ノ
 - 第26巻 p.90 -ページ画像 
数ヲ増シ、加之社員諸君ノ熱心ナル協力ニヨリ今日ノ盛況ヲ観ルニ至リシハ、余ノ深ク諸君ニ謝スル所ナリ
本社現今ノ景況ノ一斑ヲ述ブレバ、社員ノ数ハ合計二百二十余人、竜門雑誌発兌ノ数ハ毎号二百六十部ニ達シ、本社ヲ深川福住町四番地ニ置キ、毎月一回以上在京社員相集リ演説・討論若シクハ学術ノ講究会ヲ開キ、互ニ知識ヲ交換シ親睦ヲ厚フスルコトヲ力メリ
初メテ竜門雑誌ヲ発兌セシハ明治十九年四月ニシテ、当時ハ蒟蒻版ヲ以テ僅ニ数十部ヲ印刷シ社員諸氏ニ頒チシガ、其後大ニ記事及ビ体裁ヲ改良シ、現今ニ至リテハ出版条例ニ拠リテ発兌スルニ至レリ、今後社運ノ上進ト共ニ尚ホ一層ノ改良ヲ観ル可キハ、余等ノ窃カニ期スル所ナリ
本社ガ斯ノ如キ盛況ヲ顕ハシタルハ、必竟青淵先生ノ保庇ト社員諸君ノ勉励協力トニ依ルト雖モ、又穂積・阪谷両君ノ監督、及ビ委員尾高次郎・斎藤峰三郎両君ノ斡旋宜シキヲ得タルニ因ルコト尠カラズト云ザルヲ得ズ、余ハ玆ニ社員諸君ト共ニ之ヲ鳴謝セントス
余ハ此報告ヲ終ルニ臨ミ、本日青淵先生カ此会ニ臨席スルノ光栄ヲ賜ヒタルヲ謝シ、併セテ地方ノ有力ナル社員諸君ノ参会セラレタルノ労ヲ謝ス
  明治廿二年四月七日


竜門雑誌 第一〇〇号・第一六―一七頁 明治二九年九月 ○竜門社名の解釈(尾高惇忠君演説新井田次郎速記)(DK260025k-0003)
第26巻 p.90-91 ページ画像

竜門雑誌  第一〇〇号・第一六―一七頁 明治二九年九月
    ○竜門社名の解釈 (尾高惇忠君 演説新井田次郎 速記)
私は竜門社と云ふ名義に就きまして、最初御加盟の御方々は御承知でありますが、或は中には何等の訳で右様な名称があるか、既に社に加入した以上は其名義を心得たいと云ふ御方もあらつしやる趣きを承はりましたから、私より其意味を簡単に申上げる為めに此所に出ましたのでございます、然るに前席稲垣君の御説に渋沢の如き先覚――先覚と御尊称下さる程でございますが、其竜門社と云ふ名称を私が附けました当時の有様は、斯くの如く諸博士・諸学士・諸賢才の御加盟以前のことでございまして、渋沢従四位を先覚と看做し――当時の北斗と見て用ひたのであります、此段は御含みを願ひます
偖て其名称を附しましたのは、十年前でございます、渋沢青淵を泰斗と思ふ人達が其子弟を入塾至させ――寄宿致させ、図らずも其人員が数十名に及びましたから、其名前を記して置きました竜門名簿と申すのが元です、其竜門社と云ふの趣意は竜門に上ると云ふ訳で、如何なる訳であると云ふと、御承知の御方は御一笑下さるべし――竜門と云ふのは、有名なる支那の黄河の源流より少し下流に属します所に竜門伊闕と云ふ山がある、書経を読んた御方は御承知でせうが、書経の禹貢の篇に禹が水を治めるときに竜門云々とは是なり、竜門の名高きは後漢の李膺と云ふ偉人がありまして容易に逢ふことが出来ぬ、もし面会せし人は竜門を登りたる鯉の如しと評判しましたことかある、之が先つ竜門の説明でございます、然るに魚の性質たる登つて行きたいと云ふのが其性質であるけれども、数万の魚が集つても登ることが出来ないが、鯉は登ると化して竜となると云ふことである、それが即ち支
 - 第26巻 p.91 -ページ画像 
那の旧来の普通の比喩になつて居ります、因て竜門名簿と云ふ小冊子を作り、其姓名を登記し来りました義でございます、諸君右に御了承下さい、まづこれにて終ることに仕ります
   ○当社創始ノ年月ハ諸説アリテ明確ナラズ。右渋沢篤二ノ演説ニハ明治十九年四月ヲ以テ創立シタルモノトナシ、「竜門雑誌」創刊モ亦同月ト記セリ仍ツテココニハ姑ク右ニ拠リ明治十九年四月ヲ以テ当社ノ創立トス。
   ○明治十九年四月創刊ノ「竜門雑誌」第一号ハ散佚シ伝ハラズ。後掲参考資料参照。


竜門雑誌 改号前第三号・第四―六頁 明治一九年一一月 ○社員論説 本誌発兌の遅延を弁す(東海生)(DK260025k-0004)
第26巻 p.91-92 ページ画像

竜門雑誌  改号前第三号・第四―六頁 明治一九年一一月
  ○社員論説
    本誌発兌の遅延を弁す (東海生)
我竜門雑誌は、嘗て報道せし如く竜門子弟学務余暇を以て編成する所にして、已に発兌して第二号に至れり、然に本社創立の際規摸充分ならす、組織鞏固せす、殊に主務者其人を得さるを以て、掲載する文章之より見るに足らす、所謂乳臭児の分際として社会の事に是非の喙を容るゝわ自負に過ぎたりとの叱言を蒙らんも恐れありと雖も、特に余輩の頼むて以て誇る所のものハ、他より寄送せる論説に在り、其論点わ正に世人の注意を要する重大の関係ありと認定せるを以て、記して読者の高覧に供せり、尚陸続定期発兌を要せしか、七月以降暑中に向ひ、社員諸子わ何れも学校より例を照し賜暇の令あるを以て、或ハ帰省し、或わ避暑して、適意に踵を回らし、一時ハ殆と社員の本社に止まる者無きに至れり、然るに余輩の志敢て雑誌を抛却する者に非されハ、日夜閑に任かせて己の旨向を起稿し、殊に湊集する高論卓説の机上に山を為すに至るを以て、一日も早く之を雑誌に登録して読者諸賢の高評を博せんと心玆に熱すると雖も、如何にせん此の時西方より例の虎軍なるもの襲撃を受け、忽ち府下ハ一面妖煙毒気充満し、勢ひ益益猖獗を極めたるを以て、社員の出遊せし者も容易く帰府する能ハす徒らに他郷の月を見ること月余、遂に七・八・九・十月四回の発兌を休刊するの不幸に遭遇したり
発兌遅延の次第ハ已に陳したりと雖も、人或ハ言ハん、彼等烏合の輩軽々事を創め、其初熱の熾なるや漸く二回の発兌を為したりと雖も、既に其志す所の熱度低落して氷点に下り、再ひ昇騰回復の気力なし、恰も大患者の熱度一たひ変して氷点に至れハ忽ち気息絶減するに髣髴たり、此等の輩共に語るに足らすと、嗚呼何そ其れ人を知らさるの甚しきや、彼の業ハ始るに易く終るに難しとの語ハ、無気力者の所為を評せし者なるに、之を余輩の事業に附せんとするか如きハ、鯉魚を指して鮒魚と誤るか如く、他日河を遡り竜門山の麓を登り、化して竜となるの能あるを知らさる者なり、抑も余輩の業を休め待つものハ他に非す、一時虎軍の鋭を避け一身の安寧を保護したるものにして、之を以て事業を中途に廃すると思ふハ愚なり、身を泰山の安すきに置き、以て大成を後に期し、万全の長策に因りて事を処する所以の者ハ、全く万一にも発兌全廃して愛読の君子に対し素志の貫徹せざるあるをおそるれハなり、いまや秋も半を過き、冷気諷々として已に虎軍を一掃し、漸く余輩をして従前の如く縦横健筆を揮ふて社会万般の得失を毛
 - 第26巻 p.92 -ページ画像 
頭に是非し、国家を益するを以て余輩の志を貫き本分を尽さしむるの秋に至れり、豈勉めさる可けんや、願くハ読者君子、本誌掲載の文章若しも欠点遺漏あり、又ハ反対の異説あらハ、毫も掩ふ所なく、続々高教を忝ふせんことを
   ○筆者東海生ハ尾高次郎ノ筆名ナリ。


竜門雑誌 改号前第四号・第六―七頁 明治二〇年二月 ○討論演説会(DK260025k-0005)
第26巻 p.92 ページ画像

竜門雑誌  改号前第四号・第六―七頁 明治二〇年二月
○討論演説会 去ル一月十六日、竜門社員演説ハ(食客ハ依頼ニ非ス)大亦信吉・(我商人ノ風儀ヲ改ム可シ)渋沢篤二・(文武ノ談)松村五三郎・(忍ハ能ク事ヲ成ス)桃井健吾・(蛙ノ子ハ蛙ニナル)尾高次郎・(交際ノ必要)須永都三郎・(務テ経済ヲ実施ス可シ)岡本謙一郎・(無形ノ資本)韮塚次郎・(公之極為私、私之極為公)尾高惇忠氏等ニテ、討論題ハ(銀行休暇ヲ廃スルノ可否)発議者ハ大亦信吉氏ナリシ、近頃ニナキ盛会ナリ、今討論ノ大要ヲ左ニ記載ス
 休暇ヲ廃スルヲ非トスルノ論者ハ、渋沢・伊藤・韮塚・桃井ノ諸氏ニシテ、其論旨ハ、銀行事務取扱ハ頗ル精神ヲ労スル者ナレハ、若シ休暇ナク毎日事務ヲ取ラントセハ、為ニ脳病ヲ発シ終身不具ノ身トナル、且ツ人ハ夫々交際モアリ又私用モアレハ、宜シク今日ノ如ク日曜ヲ以テ休養ノ時ト為サヽル可ラス云々」尾高・松村・野口・大亦四氏ハ、銀行ハ素ト商業社会ノ金融ヲ円滑ナラシメンカ為メ設ケタル者ナルニ、今日曜ヲ以テ休業スル時ハ商民ノ不都合甚シ、且人命ハ僅カ五十年ノ短キ間ナレハ、少シモ多ク富殖ノ道ヲ計画センニハ一日モ空シク光陰ヲ費ス可ラス、又事務ヲ取扱フニハ常々業ニ従事セハ、半期ノ決算ニ間近クナリテモ決シテ繁忙ノ為ニ目ヲ回ス事ナカル可シ、況ンヤ外人トノ商売取引モ盛ナルニ至ラハ、縦令ヒ日曜ナリトテ安閑トシテ休ム事能フマジ云々」甲論シ乙駁シ、互ニ竜虎ノ勢ヲ為シ、已ニ時ハ移リシモ勝敗ノ決スル限リナケレハ、議長穂積陳重氏ハ立テ曰ク、今晩ノ討論ハ甲乙共ニ論酣ニシテ勝敗ノ決スル所ヲ知ラス、因テ賛成者ノ多数ヲ以テ決ヲ採ル可シト、然ルニ甲乙ノ賛成者同数ナレハ之ヲ決スルニ由ナク、客席ニアリシ尾高惇忠氏ニ其所置ヲ托セリ
 尾高氏乃チ立テ曰ク、今晩ノ討論ハ何レモ明論卓説、実ニ諸子ノ論旨斯迄ニ高尚ノ位置ニ進歩セシハ雀躍ニ堪ヘサル処ナリ、然レトモ此論何レモ一利一害アリ、是碁ナレハ相持スル者ニシテ、彼ニモ是ニモ偏セサル者ナリ
 議長穂積氏曰ク、古ヨリ角觝ト云フ者ハ勝負ノ決セサルトキハ預ト云事アリ、然ラハ今晩ノ討論ハ甲乙勝負ナシ、即チ預トナサン(拍手喝采)終


竜門雑誌 第二三六号・第一七―一八頁 明治四一年一月 ○竜門社秋季総会に於ける演説(昨年十月二十七日)(青淵先生)(DK260025k-0006)
第26巻 p.92-93 ページ画像

竜門雑誌  第二三六号・第一七―一八頁 明治四一年一月
    ○竜門社秋季総会に於ける演説(昨年十月二十七日)
                      (青淵先生)
○上略
竜門社の成立に就きましては私が主唱者といふ訳でもなく、又発起者
 - 第26巻 p.93 -ページ画像 
の一人といふ訳でもありませぬから、詳しい事は存じて居りませぬ、併し私が深川に住つて居つた頃であるから、多分明治十七八年頃であつたらうと思ふのです、今回が三十九会の総会といひます処から、年に両度総会を開くものとすると三十九回は即ち十九年半になる、さすれば二十一年頃に始めて本会の総会を開いて、順を追うて今日に至つたものと思はれる。竜門社といふ名を命けたのは故尾高藍香先生であると聴いて居りますが、私が深川の家に住つて居ります時分に五六の書生が居りまして、或は学校に、或は銀行、若くは会社に通つて居つた、其書生等が代り代りに追々殖えて来るに従つて、時々相会して智識の交換をしやう、又懇親を厚くしやうといふやうな事が遂に一の団体になつたのでありまして、此竜門社と云ふ会合は殆ど主義もなければ目的も甚だ茫漠たる有様に成立つたと申して宜からうと思ひます、当時の有様を回想しますると、十人か十四五人打寄つて雑談致したに過ぎなかつたのが、世運の進みに伴はれて二十年の歳月を積みました今日は、殆ど準会員といふ御人まで数へると、七百八十人の多数になつて居るといふことを先刻承りましてございます ○下略


(東洋生命保険株式会社) 社報 第二八号 大正四年四月 竜門社の起源(尾高次郎)(DK260025k-0007)
第26巻 p.93-96 ページ画像

(東洋生命保険株式会社) 社報  第二八号 大正四年四月
    ○竜門社の起源 (尾高次郎)
             大正四年四月四日大阪ホテルに於て
 諸君、私は竜門社員中最も古いところの一人で、尾高次郎と申す者で御座います、此御席で仰々しく名乗りを上げますも、異なものでありますが、大阪にての竜門会は今日が始めてだと云ふやうな訳で、等しく竜門社員であつても、東西相懸隔して居るために、御互に相見る機会が甚だ乏しく、今日始めて御目にかゝる御方が大分多い、夫故に先づ我名を劈頭に申上げたのでございます。
 私は此度、大阪に於て竜門会が催さるゝと云ふことを、東京にて承はつて、それは珍らしいことである、万障繰り合はせても出席すべきであるが、幸ひ自分は出雲の大社に参拝の用事があつて、丁度旅行に出立の折柄で、誠に好機逸すべからずと存じて、昨日当地に参り、今日此光栄ある席上の一人となつたので御座います。私が此年になつて出雲の神様に何事を御願ひ致すかと、御笑になる御方もありましようが、参拝の目的は自分の経営して居りまする東洋生命保険会社の被保険者、八万余人を代表して、其人々の家内安全・無事長久を祷る為めで、予て青淵先生の教に因り、其保険会社が普く社会的縁故に結び付きます様に、其縁結びの御願掛けに参るのでございます。
 只今私は、竜門社員中最も古い者だと申しましたが、実のところ此竜門社は、不肖私の発企で成立致したものでありますから、私より古い社員はどこにも無いと申しても差支ないと思ひます。先刻幹事の御話に因りますと、此食堂の済み次第、別席に於て個々卓子を囲んで、打解けたる御話が会員諸君の間に交換される御趣向だそうである、それは会員相互の意思疏通に最も善い方法でありますから、早く左様な御席へ座を替へるが宜しい。就きましては今私が此席で長談を致して居りますと、右の御趣向の妨げとなりますから、成るべく簡単に、竜
 - 第26巻 p.94 -ページ画像 
門社の起原に関し述べる様に致します。
 先刻来竜門社の起原に関して皆様から御話も御座いましたが、詳しいところが欠けて居た様に思ひます。云はゞどうでも宜しい様なものの、是れ程盛大に相成つた竜門社の起りに付て、今尚何人も詳しく御承知がないといふは、甚だ遺憾と存じますから、今夕の機会を捉へて確乎と一言致して置きます。
 抑々、斯る立派の団体に対して、どう云ふ訳で竜門などゝ云ふ、変な名前を附けたのであるか、もつと気の利いた名称もあるべき筈と、今更私が後悔しますが、今となつては変更する訳にも参りません。ところで諸君は、竜門社の事務所が渋沢男爵邸内にあり、年々開かるゝ大会小会が、多くは男爵邸内に於て催され、且つまた毎月発行する竜門雑誌には、必ず青淵先生の御講話が掲載されるのを見て、竜門社なるものは青淵先生の御発起に因て設けられたかと、御想像なさる御方もあらうと考へますが、それは大なる間違でございます。否、竜門社は青淵先生の少しも御存知のない間に成立し、そして或る程度まで発達した後、始めて先生の御承認を乞ひ、毎会御講演を下さる様にも相成たものであります。それは今より二十八年も前のことで、大分古い御話でありますが、其頃私は東京深川なる渋沢家に御厄介になつて、日々東京高等商業学校へ通ふて居りましたから、無論今より年も若かつたのであります。今は御覧の通り甚だ老けて参つた、斯様に先生の御側に席を列して居ると、私の方が先生よりも却て年寄りに見えるのは、先生に対して誠に申訳が無いけれども、非凡の御方と平凡の者との比較対照でありますから、如何とも致し様もありません。そこで、当時私は昼は学校に通ひますが、朝夕は御邸に居つて偉大なる先生の謦咳に接し、且つ常に御薫陶を蒙つて居りまして、同じ様な書生仲間八九人の中で、私が年長であつた為に塾頭の位置に立ちましたから、色々いたづらも致しましたが、また善いことも致した積り、此竜門社の基礎を作つた事などは、其善いことの一つだと思ひます。
 申上るまでもなく、我青淵先生は明治の初年より已に天下に大名を馳せられて、特に書生を愛されましたから、其徳望を慕ふて御邸には常に多数の食客が絶えませなんだ。先生は諸君御承知の通り公私多忙の御方でありますから、先生に字を教へて戴くことは出来なかつたが時折御訓話を拝聴いたす度びに、書生はいづれも感奮興起するのが常でありました。而して其書生が銘々通学して居ります学校を卒業する時は、先生の御関係ある銀行なり会社なりに其職を求めることが出来た。私の御厄介になつて居つたのは明治十八年より二十三年頃までゞありましたが、其頃には最早前々より先生の御蔭で人となつた者が同門中五六十人もありまして、其中で社会の表面に活動して居る者が三十人位もあつたのです。故に当時我々青年の考へた所では、実業界の人材は皆渋沢門下から輩出するかの様にも思ひました、就ては同門の先輩と後輩との連絡を附けて置く必要がある、先輩の方には其必要は無かろうが、我々後進の方には大に其必要を感ずる、而して其連絡の方法は一の雑誌を作つて後進の事情を先輩に知らせ、先輩の事情を後進が知る様にするが善かろう。其雑誌には同門生等の議論を載せるこ
 - 第26巻 p.95 -ページ画像 
とにすれば、自ら塾生の文学を鼓舞奨励する助けにもなる、又月に一度例会を開いて、先輩の人にも出席して貰ふて、討論会をやるならば自ら後進の弁論を練る利益があると、斯様に私は考へました。そこで取敢へず同門出身の名を帳面に書き附けました。其時私の親父で尾高惇忠、藍香翁と申しました、此親父が其名簿を見て、噫々これ竜門名簿であると云ふて、我々書生に竜門の故事を演説して呉れましたが、その話は大略斯ふであつた。昔、後漢の世に李膺と云ふ名高き大学者があつて、其の御方の門下生は幾千人といふ多数で、追々世の中に出づれば皆高位高官に登る、それ故に当時李膺先生の塾生が学業成りて卒業することを、人呼んで登竜門と云ふて祝したそうである、恰も今日渋沢先生の塾生が世の中に出るのは、其登竜門と同じことだ。抑も竜門とは山の名で、支那の黄河の上流に竜門山といふのがあつて、河は其山麓を瀑布の様に流れて居る、下流より泳いでくる鯉が、此竜門山の麓まで達し一躍滝登りをして、更に上流に進めば化して竜となり天に昇るといふ古譚がある。故に竜門といふ名は、人の立身出世を形容する時に用ひられ、極めて目出度い文字だが、李膺の門下生が卒業する時に登竜門と呼んだのは、殊に適切の感があると、故藍香翁が申しました、且其時親父は筆を取りて其名簿へ、竜門名簿と題書して呉れました。
 諸君よ、竜門の名の起りは斯様な訳で、其後我々は弥々雑誌を発行するに当り、私は無造作に竜門雑誌と題号を定め、また其雑誌を発行するには、発行所を明記せねばならぬが、矢張り竜門社といふたら善かろうと、何等前後の考も無く命名致したので御座います。然らば其社は何所にあつたかと申すと、問ふまでもなく、渋沢家の書生部屋でありまして、其事務室はと云へば私の机の抽出の中であつたのです。当時私は其書生部屋を竜門塾と呼びまして、塾則をも定めました、則ち勉強せよ正直にせよ、品行を正ふして徳義を守れ、人物を磨け、苟も青淵先生の薫陶を受けた者は、終始論語と算盤と云ふ事を忘れてはならぬと云ふ様なことを書いたので、此塾則は同時に竜門社則の骨子とも相成て居りました。
 斯の如き次第で竜門社は出現しましたが、別段先生に申上げて御許可を受けたのでは無く、全く我々書生の学業の余暇に於ける、一つの慰み事たるに過ぎなかつたが、それでも感心に其面倒なる仕事は立消えとならず、継続して後には同門間の必要なる連絡機関となり、何時ともなく青淵先生の御目にも触れ、御耳にも入る様になつたのであります。其後私共も最早河中の鯉ではなく、竜とまではなれませんが、小蛇位にはなつて世の中の事も少しは解かつて参つて、扨て思ふに、今迄は竜門社員は、渋沢門下生のみを以て組織したけれども、それでは範囲が狭まくして面白くない、青淵先生の薫陶を受けて実業界に大名を成した者は同門以外に却て多いのであるから、其人々をも等しく社員に加へたが善かろうと云ふので、玆に社則を改正し規模を拡張し同時に門下生にも追々手腕家が参加して、益々此事業に尽力されました為に、爾来二十八年の歳月を経過したる今日、遂に千名と云ふ多数有力なる社員が出来て、今では実業界に於ける一大勢力なりと、世の
 - 第26巻 p.96 -ページ画像 
中から認識せらるゝに至つた、誠に目出度いことでございますが、其始を考へますれば、僅に盃を浮べる程の小さな泉が、今では大船巨舶を浮べる大河となつたのでございます。
 然るに竜門社は東京に在ります為め、関西方面の社員は、東京に於て春秋二季に開かれる大会へ、御出席になることが出来ない、これは当社の欠点でありましたが、今度図らず大阪に於て、此臨時大会といふ新例が開かれ、青淵先生も御出席下さつたのは誠に目出度いことであると考へます。如何となれば、此大阪の地たるや、日本商工業の中心で、都会の繁栄は日進月歩と云ふも中々愚かなことで、諸工業の発達は最も顕著でありまして、己に東京の工業を凌駕して居るのであります。即ち物質的の大進歩はたしかに日本一であつて、今後更にどれ程其物質的の進歩があるか、計るべからざる次第と存じます、左様に物質の発達する大阪に於ては、一面大に商業道徳の鼓吹と云ふことが必要であろうかと考へますが、それには道徳と経済とを合せ論じられる、青淵先生の主義を奉じたる、我竜門社の大会を時々御開きになつて、そして先生の御講話を承はるのが最も結構でもあり、また急務でもあろうかと思ひます。


竜門雑誌 第五二七号・第六二―六九頁 昭和七年八月 深川時代の竜門社と竜門舎との関係(割子沢生)(DK260025k-0008)
第26巻 p.96-101 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕竜門雑誌 第六〇〇号・第一二四―一三〇頁 昭和一三年九月 竜門雑誌五十年小史(DK260025k-0009)
第26巻 p.101-106 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。