デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.271-280(DK260052k) ページ画像

明治34年1月29日(1901年)

是ヨリ先、是月二日、当社監督名誉社員尾高惇忠卒ス。仍ツテ是日銀行集会所ニ於テ当社主催ノ追悼会開カレ、栄一之ニ出席シ追悼演説ヲナス。更ニ三月ノ月次会ニ出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三四年(DK260052k-0001)
第26巻 p.271 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年    (渋沢子爵家所蔵)
一月二日 晴
○上略 九時過東京ヨリ電報アリテ、尾高老人病気危篤ノ事ヲ通シ来ル、依テ午後三時過ノ汽車ニテ大磯ヲ発シ、五時過東京着、直ニ深川宅ニ抵リ老人ノ病ヲ訪フモ既ニ死去ノ後ナリシ、家人・親戚等ト共ニ葬儀ニ関スル手続ヲ談シテ、夜一時帰宅ス
   ○中略。
一月二十九日 曇
○上略 午後五時銀行集会所ニ於テ尾高藍香ノ追悼会ヲ開ク、翁ノ経歴・性行・学業ニ関スル演説ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第一五二号・第二四―二五頁 明治三四年一月 本社監督尾高惇忠君の卒去(DK260052k-0002)
第26巻 p.271-272 ページ画像

竜門雑誌  第一五二号・第二四―二五頁 明治三四年一月

図表を画像で表示本社監督尾高惇忠君の卒去

   ○本社監督尾高惇忠君の卒去 君は本社の名誉社員にして、埼玉県大里郡八基村の人なり号を藍香と称す、我か青淵先生とは同郷にして、撃剣を善くし、漢学に達し、最も経史に精通し、詩文揮毫に巧みなり、性温厚活達にして、勤王の志深く、聖賢の道を実業の上に応用し、士風を以て工商を養はんことを務め、格物致知の学問を以て郷党の師表たり、青淵先生も少壮の頃は君に就て学ひたりといふ、先生か常に論語を以て商売を営むの説あるは、蓋し偶然にあらさるを知るべし、維新前勤王 以下p.272 ページ画像 の説を唱へ、青淵先生と共に危難を冒して国事に奔走し、君の実弟尾高長七郎・尾高平九郎の両氏は遂に国事に殉するに至れり、維新の後仕官して勧業の職に任し、富岡製糸場を創立して偉功あり、此際に於て秋蚕業を発見し、幾多の経験と困難とを経過して後ち大成し、我邦の秋蚕をして今日の如く国家の一大富源たらしめたるは、実に尾高君の賜ものなり、其後民間にり商業に《(下脱カ)》従事する傍、後進を誘掖せしか、最も水利・森林の事に通し、製藍・製糸の業に精く、其宮城県に銀行事業を執れる余暇、印度製藍の法を研究して温度藍靛の発明あり、又一種の創意を以て荒地に苗木を植へたるもの成功して地方の大利となれり、宮城植林組は即是なり、又君は群馬・埼玉・宮城・岩手の各地に居住して、到る処勧農開工・利用厚生の説を実際に施さんとして人を教へ、君の指導によりて名を成し産を興したる者尠からずといふ、君か晩年は専ら揮毫と著述とに費したるものにして、治水新策・蚕桑長策・泰東格物学の著あり、昨年一月病を得て荏苒癒へず、本月二日深川福住町の邸に卒去せらる、時に年七十二、深く惜むべきなり、君は我が社に竜門の名を命したる人にして、爾来引続き監督の任にあり、本社の今日あるを致すは君の力与つて多きに居る、此の如く浅からさる縁故あるを以て、本社は追て君の詳伝を本誌に掲けて社員諸氏に伝ふることあるべし 





竜門雑誌 第一五三号・第三二―三五頁 明治三四年二月 ○本社監督尾高藍香先生の追悼会(DK260052k-0003)
第26巻 p.272-275 ページ画像

竜門雑誌  第一五三号・第三二―三五頁 明治三四年二月
    ○本社監督尾高藍香先生の追悼会
尾高藍香先生が、本社創立以来其監督として尽力せられたることの甚だ深かりしことは、既に前号の紙上に記載したるが、我社に於ては先生の遠逝を悼み、去月廿九日東京銀行集会所に於て、先生の令嗣尾高定四郎・令息尾高次郎両君を招待し追悼会を催せり、先生の薫陶を受けたるものは勿論、未だ先生の知を辱ふせさるものと雖、其高風を慕ひ社員の来会せるもの二百余名に及びたるが、其重なる人々は青淵先生・阪谷博士・渋沢社長・佐々木慎思郎・梅浦精一・大川平三郎・市原盛宏・堀越善重郎・成瀬隆蔵等の諸氏にして、先づ本社々長渋沢篤二君立て左の挨拶ありて後、悼辞を朗読せられる
      社長の挨拶
 一言御挨拶を申上けます、今夕は故尾高藍香先生、即ち本社監督の追悼会を開きたいと思ひまして、予て申上け置きましたる所、寒気の所斯く御来会を頂きまして、発起人我々は勿論、故藍香先生に於ても嘸ぞ喜ばるゝことゝ難有御礼を申上げます、甚だ僣越の次第ではございますが、私が玆に竜門社を代表致しまして玆に一の弔辞を朗読致します
      悼辞
今玆辛丑三月二日。我竜門社監督藍香尾高先生病を以て深川福住町の邸に逝く。社を挙て痛哭哀惜の情に堪へす。乃ち月の廿九日を以て社
 - 第26巻 p.273 -ページ画像 
中相会し。清酌の奠を挙て。先生の霊を祭る。其文に曰。
 嗚呼先生。稟性温厚。賦才活達。学経史に通し。志実践に存す。深く文弱の流弊を警めて。空理の虚談を悪む。其文や達意。其詩や直情。兼て書法に精く剣術を能くす。晩年心を説文に潜めて。字義を講すること極めて審かなり。泰東格物学の近著。以て其独得の多きを見るへし。
 嗚呼先生の壮なるや。時恰も幕府の末造に際し。天下方に多事。外患忽ち迫りて。内憂漸く大ならんとす。先生身編氓に在りと雖も。憂国の熱涙自ら禁せす。兄弟相謀り。郷友相結ひ。広く天下の志士に交り。縦議横論。一に大義に基きて名分を明かにせんことを期す義旗の大挙。機に当りて譲らさるの慨あり。不幸にして事機当時に妙ならさりしも。時運果して他日に会し。先生の志終に空からす。嗚呼先生の出て仕ふるや。職を勧業に奉し。力を富岡の製糸場に尽す。学既に素脩あり。業豈に経験なからむや。果せる哉秋蚕の事業創意発明の功を奏して。国益の一源を発く。人以て先生の賜ものと為す。其退て商業に帰するや。水利に森林に製糸に。到処殖産の要を説き。以て世人を誘導す。将た彼の製藍の一事に至りては。尤も研窮の精を致して。終に温度製靛の発明を見る。其功亦偉なる哉。嗚呼先生の老退閑棲するや。玆に十年所。朱顔鶴髪。康強自ら持し書を読み文を説き。吟誦自適。悠々として閑地に在と雖も。其間亦敢て風流隠逸に伍せす。治水新策。蚕業長策。泰東格物学等の著あり。以て其精力の老て益壮なることを見るに足る。其人を誨るや。諄々して倦ます。社中の少壮も亦皆薫陶の下に在て。其講説を聞くことを楽む。先生史編を読みて。古今の治乱。及忠孝節義の事迹に及ふときは。眉颺り肩聳へ慷慨淋漓。撃節大声。傍に人無きか如し其気魄の壮なる。実に少壮者をして其後に瞠若たらしむる者あり。誰か料らん二竪の内攻遂に其膏盲に入らんとは。先生病蓐に在ること凡一年。耆扁人なきにあらす。金匱仙丹に乏しからさるも。奈何せん天之に百年の寿を仮さす。一朝溘焉として木に即き。幽明奄ち途を異にす。机上の遺文其令徳を留め。壁間の墨痕其風神を存すと雖も。温籍の容ち。活達の談。復た函丈に接することを得す。嗚呼悲哉。尚くは饗よ
                竜門社々長 渋沢篤二
右社長の悼辞朗読終るや、阪谷博士の演説(演説筆記前項に記載せり)あり、之に続て第一銀行の市原盛宏君立て左の挨拶ありて後、同銀行有志者を代表して悼辞の朗読ありたり
      市原君の挨拶
 今晩は第一銀行の有志総代として、佐々木勇之助君が出席せらるゝ筈でございましたが、多分皆さんも御承知でございませう、同君は月初から病気に罹られまして、未だ全快と云ふ所まで参りませぬから、余儀なく欠席致されました、就ては私に代つて尾高先生を祭るの文を読むやうにと云ふ有志者の御頼みでございます、全体私は近頃第一銀行に這入りましたもので不幸にして尾高先生のことを余り存しませぬ、存しませぬけれども、仙台で一の私立学校の長を頼ま
 - 第26巻 p.274 -ページ画像 
れまして二三年働きました間に、尾高先生は其評議員として屡々学校の会議にも御列席下すつたことがある、其時分に尾高先生の御容子を拝見することを得、又種々御説も承りましたことでございます其後近頃になりまして竜門社の席上抔で御目に掛りました位で、例へば臥竜の一部分を雲雨の間に見たと云ふ丈けのことで、惜い哉先生の教を受けることも出来ず、又種々珍らしい御言行を見たり聞いたりすることも出来なかつた、それで今晩は実は此席に立つて、尾高先生の為めに口を開く資格はございませぬが、幸に有志中の大沢君の作られました文がございますから、諸君に代つて之を朗読致します
      悼辞
嗚呼尾高惇忠君逝く、吾輩第一銀行に従事するもの殊に追懐悲悼の情に堪へざるなり、顧ふに君は十年十二月盛岡支店の支配人に任す、当時銀行の業未だ発達せす、況んや奥羽辺陬の如き、金融の便開けすして商業振起するを得す、地方有志者ありと雖とも奈何ともすることなし、君慨然として其振作に務め、大に資本の供給を計り、地方物業の開進するもの一にして足らず、在任十年の久しきにして仙台支店支配人に栄転し、又其製糸運漕等の事業に於て間接の功を成すもの尠しとせす、是を以て其地方人士の君を欽慕信用するもの今に至り換らすと云ふ、二十四年十一月老を以て職を辞すと雖も、尚学問に倦ます後進者を誘導し、徳望年と倶に高く、更に老後の名声を博せんとするに際し溘然世を謝せられたるは、吾輩の深く惜む所なり、玆に竜門社の追悼会に臨み、恭しく哀詞を呈す
  明治三十四年一月二十九日
                株式会社第一銀行有志総代
                      市原盛宏
市原君の悼辞朗読を終るや、藍香先生の令息尾高次郎君には其妹婿尾高定四郎君を紹介して、左の答辞ありたり
      尾高次郎君の答辞
 私は久しく東京に居りませぬで、皆様の中には御存しのない御方もございませうが、尾高惇忠の二男でございまして、矢張第一銀行に居りまして、当時仁川の支店に居りますもので、尾高次郎と申します、此方に居りまするのは私の妹の婿でございまして、尾高定四郎と申します、是は惇忠の郷里の家督を相続致しましたものでございます、今晩は亡父惇忠の歿後四七日に当るので、玆に皆様が御会合下さいまして亡父の為めに追悼会を御開き下さいましたのは、誠に私共両人に取つては難有いことでございます、先刻来社長の御悼辞若くは阪谷先生の御演説、市原君の御朗読下すつた御悼辞等は謹んで拝聴致しました、亡父の生前の学業、若くは性質或は事業等に就きまして御賞賛の御言葉を賜はりまして、亡父も定めて草葉の蔭で難有存しますることでございませうと考へます、私共に於きましても誠に感激に堪へませぬ訳でございます、其御悼辞若くは御演説等を拝聴致しまして、自分共今昔の感に堪へませぬので、此御盛会に対して充分に感謝の意を申述へる言葉かございませぬ、今晩は気候
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も非常に寒うございますし、御繁用の御中斯く皆様か御来会下さいまして、亡父の為めに御追悼下さるは実に難有く存します、充分意を悉すことも出来ませぬ、何卒御諒察を願ひます
最後に青淵先生には、藍香先生と竹馬時代よりの親友として、共に国歩艱難の際に国事の為めに奔走せし同志者として、熱情と熱誠を注きて藍香先生七十年来の経歴と性行、及其事業並に学術上の功蹟を表彰せられ、社員一同非常なる感に打たれて玆に式を終る、青淵先生の演説筆記は次号に掲載すべし、今当日出席の社員を列記すれば左の如し
名誉社員
 青淵先生  阪谷博士  渋沢社長  穂積博士夫人
社員〔出席順〕
○下略
   ○栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。


竜門雑誌 第一五三号・第七―一四頁 明治三四年二月 ○故藍香先生追悼会に於ける阪谷博士の演説(DK260052k-0004)
第26巻 p.275-280 ページ画像

竜門雑誌  第一五三号・第七―一四頁 明治三四年二月
    ○故藍香先生追悼会に於ける阪谷博士の演説
私は故尾高先生の追悼の為めに一言申述べます、今日は故尾高先生の追悼の為めに開かれました会でございますから、唯今社長の吊文と云ひ、私の演説と云ひ、又此後此演壇に登られる方々の申さるゝことも皆な同し題でございます、同し題でございますからして、勢ひ或は重複を免れませぬでございませうが、詰まり故先生の徳を慕ふと云ふ趣意でありますから、種々の点から一夕故先生の為めに、故先生の愛顧を受け、故先生と交はる人が話すと云ふことは、先生に対し又昔しの朋友に対して、我々が尽すべき義務であらうと考へますから、どうか重複の所は御容赦の上御聴取りのことを願ひます
全体穂積博士が此席で演説ある筈でございましたが、御風邪と云ふことで、急に私が代つて申上げます都合になりました、或は穂積博士の申されんとする万分の一だも悉し能はざるかも知れませぬが、それは御断り申して置きます、それから故先生と竹馬の友たる青淵先生が、最後に故先生の行状に就きましての委しい御話がございます、私の御話は寧ろ其序開見たやうなことを申上けやうと存します、それで此尾高先生は、竜門社に取りまして最も縁故が深い、即ち種々有益なる御説を伺つた点から最も縁故が深いばかりでなく、又直接に種々の教訓を受けた点から縁故が深いばかりでなく、第一此竜門社と云ふ名を附けたる人である、即ち竜門社なる名附親であるからして、最も竜門社が尊敬し、又之を追悼すべき人であらうと考へます、私は此先生とは大変な年違ひで、先生の孫位な年輩でございますから、其方の観察から致して先生をどう云ふ風に思つて居つたかと云ふ所感を述べやうと考へます
そこで此尾高先生の履歴の大略、即ち私の聞及んで居つた所の履歴の大略を申しますれば、武州榛沢郡手計村と云ふ一村落に御生れになつて、即ち千八百二十九年、此十九世紀の前半期に生れた人である、私が先生と交際の出来るやうな栄を得ましてから後、先生の御説を伺ひ又先生の学問を聴いて見ると非常に深い人である、博学多識にして種
 - 第26巻 p.276 -ページ画像 
種な事を能く研究なすつて居ります、就中漢籍に就ての智識が一番深いやうに考へました、即ち漢文学と云ふものゝ智識が非常に深い人であつたと思ひますから、どう云先生に就て教育を御受けになつた人であらうかと云ふ疑問が先つ第一に起りました、然る所段々伺ふ所に依れば全く是は独学である、武州榛沢郡に於ては是程の先生を教育するに足るの学者もなければ、学校も固よりなかつた次第である、全く農業の傍に得られた学識であると云ふことに於て、益々先生を敬重するに至つたのであります、我々は今日難有い教育を受けて居りましても薄識浅学で恥入りますが、彼の幕府時代の乱世に接して、武州榛沢郡の一村落で是程まで深い学問の出来ると云ふことは、人間の智恵も恐るべきものである、独学の力で随分高尚な所に至られると云ふ証拠になると考へました
又学問をするにどう云ふ方法に依てせられたかと云ふことを聴いて見ると、承ります所に依れば、此藍香先生の阿父さん阿母さんと云ふ方方は格別えらい学者を持たうと云ふ御念慮はなかつたかのやうに承りました、詰まり其百姓の一家に於て必要なる――一寸名前でも書けて請取書が出来る位な教育は御望みでありましたらうけれども、青表紙と云ふものを捻り廻すと云ふことは、寧ろ御嫌であつたかのやうに私は承りました、それ故に時勢は教育を受ける丈けの材料を与へす、而して家庭は其教育に寧ろ反対せらるゝと云ふ側から、斯の如き先生の出たと云ふことは、亦一の大に驚くべきことであらうと思ふ、承る所に依れは、故先生は田野に出て耕すときに書物を読んたと云ふことである、武州榛沢辺で用うる大なる鍬があります其鍬の上に一つの受木を置いて、受木の上に論語なり孟子なりを開いて、さうして田畑を耕しつゝ、読んで居られたと云ふことを承りました、又青淵先生抔と藍の買出し等に行かれる時分に、書物を読みつゝ道路を歩かれたと云ふことも承りました、それからして書物はどうして手に這入たかと云ふと、論語なり其他の書物は、多くは筆写に依て成つたものであると云ことも承りました、其写取を致すに就ても、御家庭には随分反対があつたと云ふことである、青表紙を捻ると云ふことは全体百姓には要らぬことである、そんな四角な文字を写す暇があらば、もつと農業に従事したら宜いではないかと云つて、御叱りを受けたこともあるさうでございます、それ故に書物を写し取られるには多く阿父さん阿母さんが御寝になつた後に――夜の中に為さつたと云ふことである、それに折角一部の書物を写し取つたものを、又阿父さんや阿母さんに見付けられて、或時は焼捨てられたと云ふことも承りました、是は私の伝聞の誤りかも知れませぬが、其当時のことですから、随分さう云ふことがあつたかも存しませぬ、決して藍香先生の阿父さんや阿母さんが之が為めに教育を嫌ひな人であると云ふ観念を諸君に喚起させる為めではない、其当時の農家に於て青表紙を捻ると云ふことに就て反対のあつたと云ふことは、別段に学問を敵視すると云ふ意味ではないのであります、併ながら御当人の履歴を挙ける上に就きましては、そう云ふ事情も忌憚なく御話致さぬと云ふと、藍香先生と云ふものを諸君の目の前に描出すことが出来ませぬからして、多少阿父さん阿母さんの挙
 - 第26巻 p.277 -ページ画像 
動に就て言ひ過るかも存しませぬ、斯の如き有様でありますから、我我の受けた教育と之を比較すると、実に六ケしい教育と言はなけなばならない、即ち我々――私の一身に就て申しますれば、政府から官費を貰ひ書物を貰ひ、殆と御客様見たやうなことをして書物を習つたのであつても、実に其学問は根つから出来ぬのでございますけれども、それと全然極端な――正反対なことで先生の如き学者が出来ると云ふことは、驚くべきことであらうと考へます、斯くの如くにして養成せられたる先生の御家庭と云ふものは随分困難な事情の多い家であつた家計が困難であつた、又御病人も随分あつたと云ふやうなことでございます、是等のことは尾高家の為めには不幸な事実を申上けるやうでありますが、先生の徳を揚ける上に就ては、却て先生をして弥よ高からしむることであらうと考へます
故先生が青淵先生と共に国事を憂へられたと云ふことは、青淵先生六十年史の上にも現はれて居ることである、青淵先生・渋沢喜作、其他の人々が、幕府を倒し維新を図らなければならぬと云ふ事業を計画された時分に於て非常に奔走せられて、所謂孔明とか張良とか云ふ御役目を御勤めになつた訳で、今日の参謀総長として働きを御務めになつた訳である、それから安藤対馬守が坂下に於て襲撃せられた時分に、大橋先生と尾高先生とは御交際があつた為めに、随分危険な境遇に遭つたこともあるさうであります、固より襲撃すると云ふことは御承知である、けれども先生は襲撃に関したと云ふ事実は毫もない、併し対馬を狙つて居ると云ふことは先生確に御承知であると云ふ位な、危険なことに迫つて居られたと云ふことを以て見ても、幕末に当つて天下の志士が国家の為めに奔走したことに於きましては、先生の奔走も亦非常なことであつたと云ふことを我々は謝さなければならない、先生の奔走は今日難有い御一新の出来た原素の一部であつたと云ふことを認めて宜い、素より如何にして此御一新を担出したかと云ふと、今日の元勲と云はれる人ばかりの力ではない、然らば尾高先生と云ふものも之を担出した確に一人であると云ふことは、歴史が覚えて居て宜いことゝ考へます
それから青淵先生は洋行せられたり、其後御一新になりましてから、例の上野の彰義隊を組織すると云ふことに就きまして、尾高先生といふのは其参謀長であつた、彼の明治元年に浅草の本願寺に旧幕府の志士を集めて、さうして一篇の誓約文を書かれた、其誓約文の起草者は誰あらう即ち尾高先生である、尾高先生が此誓約文を書かれたのである、他日彰義隊と云ふものゝ歴史を書く人があつたならば、尾高先生の名前は決して没することは出来ない、彰義隊に取つて憲法とも云はなければならない誓約文を書いたのは此尾高先生である、彰義隊のことは後世歴史家が何と論するか一の疑問であると思ふ、徳川家の為めには迷惑な挙動であつたかも知れない、王政維新になつて考へると無謀の挙であつたに相違ない、又当時の将軍たる慶喜公の御趣意を誤つたものとは想像せられますけれども、其時勢として考へて見たならば彰義隊の挙動は一の疑問として攻究して宜い事である、況や今日になつて見れば上野寛永寺の一戦と云ふことは寧ろ御一新の際に於ける歴
 - 第26巻 p.278 -ページ画像 
史上の一波瀾と称しても宜いかと考へる、其出来事に就ての参謀長は此尾高先生であるのであるから、此事は諸君は御記憶なさらなければならない
其後彰義隊は二派に分れました、天野八郎と云ふ人の率ゆる隊と、それから今麻布の白銀に居られる渋沢喜作氏の率ゆる隊と二派に分れました、其隊が二派に分れましたに就きまして組織せられたのが、即ち振武軍と称する一の軍隊でございます、振武軍と称する軍隊は渋沢喜作氏が総大将、尾高藍香先生が参謀長、さうして青淵先生の御養子たる渋沢平九郎氏抔が即ち士官であつたのである、此振武軍と云ふものは第二の彰義隊であつて、彰義隊と相応して一旗揚けやうと云ふ計画であつた、振武軍の歴史も随分面白い歴史であります、其大要は六十年史の渋沢平九郎氏の伝の所に掲けて置きました、其参謀総長は尾高藍香先生でありまして、初め振武軍が組織せられた時分鉄砲がなくて困つた、其鉄砲をどうしやうと云ふときに、尾高先生は私が一晩の中に取つて来てやらう、受合つて取つて来て見せると云ふので、所謂孔明が魏の軍から矢を取つたと云ふやうな話に似たことですが、先生直ちに錦の片を肩に着けて装を官軍に変へて、麹町の番町に旧幕歩兵の屯所がある、此所に兵器弾薬を貯蔵してあつた、それへ先生が這入つて私は官軍の何藩のものである、兵器弾薬入用に就て早速御引渡を願ひたいと言つた、其時に応接した幕府の官吏が此人を官軍と信して居なかつたらうと考へる、併なから当時の事情から推すと、寧ろ幕府の役人は兵器弾薬を幕府党の方へ引渡したかつたに相違ない、其機を見ることが早いに依て官軍の扮装をして、兵器弾薬を御引渡し下さい、宜うござると云つて渡した、直ちに其振武軍の武器と云ふものが出来まして、それから今の堀の内の信楽亭に軍議を開き、軍隊を組織して飯能に立籠つた、それから飯能の戦争となつた、彼時飯能を攻めたのは備前の兵隊と広島の兵隊で、備前の兵隊と戦つて破れて、尾高先生と渋沢喜作氏は山を越へて草津の温泉に暫く隠れて、さうして世が静つてから出て来られた、渋沢喜作氏は江戸へ出て開陽丸に乗つて函館へ逃げ、彼地で榎本氏の軍に投せられた、尾高先生は自分の村へ御帰りになりましたが、先生の令弟で青淵先生の養子なる平九郎氏は広島兵と戦つて討死せられた
それから故先生には、王政維新となつて大蔵省へ出られて、富岡製糸場の成立に付て大に与て力がある、又た種紙の貿易に就きましては種種奔走せられたことであります、其の後第一銀行の役員となり、東北の支店に勤務し、職を辞されてから深川福住町九番地に老を養つて、享年七十二歳にして此の世を辞された訳である
故先生の歴史の大要を見て考へましても、其出生から終りまで、実に驚くべき人であると云ふことは諸君の眼前に浮ぶであらうと思ふ、私の訥弁を以てしても、必ず諸君は左様御考下さるだらうと信します、此人はもう少し時勢の工合が宜かつたならば、余程出世の出来る方であつたらうと信する、我々が今日難有い教育により学問をしてすら碌に出来ぬものを、教育には反対を受けなから是れ丈け学問のある人になるならば、今日の教育を受けるならばどれ程の人になるかと云ふこ
 - 第26巻 p.279 -ページ画像 
とは、想像し能はぬのでございます
それから我々か尾高先生に接して最も感します性質は、先生の怒られたと云ふことは私は嘗て聞いたこともなければ見たこともない、随分世の中には寛仁大度の人もあるものですけれども、怒るへきときには怒ることがある、然るにそれを聞いたことも見たこともない、総て人を恕して行くと云ふ御性質の高いことゝ云ふものは、実に驚くべき方であります、それから行状の正しいこと、議論の公平なること、是等のことは申すまでもなく苟も先生に接した方は皆な御承知のことゝ思ひます、で病に臥されてから私は度々見舞に参りましたけれども、病を憂へられたことを見たことはない、病が苦になると云ふことを見たこともない、是も出来ぬことで、一寸頭痛がしても、物に当つて見たいのが人情であります、気分が悪るい時に人が来ると、小言を吐かなくても宜いことも小言を言ふ、是は人情免れぬことゝ考へますが、尾高藍香先生は三十三年一月中旬から御病付になりまして、寒さを凌いで春となり、夏の暑さを凌いて今年の一月二日に御逝去になつた、一年余の御病気で、後には蒲団の上に寝た切りで一寸も動れぬやうになりましたけれども、それすら病を苦にする為めに人に怒を遷して見ると云ふことは、八百倍の顕微鏡を掛けても千倍の顕微鏡を掛けても見ることの出来ない、実に驚くへき忍耐力の御方であつたと云はなければならない、恐くは私一人ではありませぬ、藍香先生を見舞に参られし御方は此御席にも沢山御在になりませうが、それはそれははどうも実に感心なものであつて、人間と云ふものはせめて先生の百分の一でも彼の真似をしたならば、此世の中を余程幸福に暮らすことが出来ると思ふ、自分達で考へると少し気分が悪るくても、人に対して甚だ失礼な顔付をすると云ふことは免れぬけれども、あゝも出来るものかと感じ入りました、先生の病を見舞に行くのは先生の病を見舞ふのではなくして、私は先生を見習はうと云ふ考へで行くのであります、即ち先生の謦咳に接するは、先生の無言の教訓を受けると云ふ意味でありました、それは言を飾るのでも何でもない、恐くは一年間の先生の御様子を見た人は、皆な左様であつたと云ふことを証明し能ふのであります、先生の幼き時の教育のことから考へて見ても、成程是程の耐忍力是程の勘忍力のあつた人だから、是程の病気にも堪へる人であると云ふ考が、諸君にも御浮ひになるだらうと存します、凡そ人間には一言一行でも宜いことがあれば随分人の手本となり、又歴史に残す丈けの価値はあるのでありますが、藍香先生のことに就きましては、私は実に数多の教訓となることがあらうと考へます、先生の学問をせられた有様から、其勘忍強いこと、其他の言行録と云ふものを編纂したならば、小学校の修身綱領と云ふものゝ中に書くやうなことが幾個もあるだらうと考へます、又それ丈けの価値ある人と私は堅く信ずるのであります、是程の先生であるからして我々が藍香先生を慕つたと云ふことも無理のないことで、今日諸君が多数御集りになつて一夕先生の逸事を語つて散すると云ふのは、亦無理のないことゝ私は信するのであります、是程の聖人であるから――私は藍香先生に向つて、其既徃の行ひと云ひ総ての点に於きまして聖人と云ふ名前を下しても一向差支
 - 第26巻 p.280 -ページ画像 
ないと信します、若し孔子や孟子の言ふ聖人と云ふ意味が、行状の方正にして純粋にして、さうして忍耐力あつて、国家に忠義に事業に熱心な人に下すへき名であれば、此人は聖人と云つて宜い、賢人と云つて宜い、斯の如き人はどうか後世に伝へたいと考へます、此竜門社の幹事諸君に私は謹んで忠告致すが、どうか今夕の会の議事を別冊に竜門雑誌の附録として御編纂なさるが宜からう、又故先生の肖像を御加へになるも宜からう、又先生の逸事を成るべく広く御集めになりたいと云ふことを希望するのである、又先生の詩文と云ふものもございませうから是も集めて、一冊の竜門雑誌の附録として御配付になつて永く先生の遺徳を天下後世に伝ると云ふことをせられんことを偏に希望致します
即ち穂積博士に代りまして、竜門社の社員の一人と致して、故先生を追悼する上に就て如何なる所感を持つて居つたかと云ふことを陳述致して、先生を祭るの意を謹んで表する次第でございます


(八十島親徳) 日録 明治三四年(DK260052k-0005)
第26巻 p.280 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三四年    (八十島親義氏所蔵)
一月二日 晴
○上略 予ハ尾高惇忠氏危篤ト聞キ見舞ニ至ル、穂積・阪谷・大川・田中其他親戚諸氏集リ居レリ ○中略 尾高惇忠老人遂ニ今夜六時十七分永眠ノ報ニ接セシニ付、帰路又尾高宅ニ立寄リ悔申述 ○下略
   ○中略。
一月廿九日 晴
○上略
午後五時ヨリ銀行集会処ニテ、竜門社ガ故尾高先生ノ為ニ追悼会ヲ催スニ付出席、社長ノ追悼ノ辞(江間作)、阪谷博士ノ同先生性行履歴ニ関スル談話、市原氏ノ第一銀行員有志代表ノ追悼文朗読、夫ヨリ尾高次郎氏ノ謝辞、次ニ青淵先生登壇、故藍香翁ノ履歴・性行・学業ニ就キ一時間ニ亘ル長演説アリ、九時帰ル
○下略


渋沢栄一 日記 明治三四年(DK260052k-0006)
第26巻 p.280 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年    (渋沢子爵家所蔵)
三月九日 晴
○上略 夜餐後銀行集会所ニ抵リ、竜門社月次会ニ列ス、夜十時帰宅ス


竜門雑誌 第一五四号・第三九頁 明治三四年三月 ○本社第五回月次談話会(DK260052k-0007)
第26巻 p.280 ページ画像

竜門雑誌  第一五四号・第三九頁 明治三四年三月
    ○本社第五回月次談話会
本社月次談話会は、例の如く三月九日(第二土曜日)午後六時東京銀行集会所楼上に於て開会せり、当夜は事故の為め社長出席せられざりしも、青淵先生・阪谷博士の出席せらるゝあり、博士には一時間に余る有益なる演説あり、先生には種々なる面白く且つ有益なる座談等あり、午後十時散会せり
当日の出席者左の如し
 名誉社員 青淵先生  阪谷博士
 社員(出席順) ○下略