デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.320-327(DK260059k) ページ画像

明治36年10月25日(1903年)

是日栄一、当社第三十一回秋季総集会ニ出席シ、「以其弊勿没其功」ト題シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第一八六号・第三六―三八頁 明治三六年一一月 ○本社第三十一回秋季総集会(DK260059k-0001)
第26巻 p.320-323 ページ画像

竜門雑誌  第一八六号・第三六―三八頁 明治三六年一一月
○本社第三十一回秋季総集会 予て前号に記載したるか如く本社第三十一回秋季総集会は、十月二十五日午前九時より向島札幌麦酒会社東京工場内の庭園に於て開かれたるか、来会者は青淵先生・渋沢社長及令夫人・穂積博士及令夫人・阪谷博士及令夫人等の名誉社員を始め、社員四百有余名出席し、非常の盛会を極めたり、幹事は会場入口にありて一々来会者を接待し、午前十時の撃柝と共に麦酒会社の工場内に
 - 第26巻 p.321 -ページ画像 
撰定せる式場に各社員を案内し、先づ同会社取締役植村澄三郎氏の麦酒談あり、次て番外として阪谷博士の煙草製造官営及醸造試験場に関する演説あり、最後に青淵先生の『以其弊勿没其功』てふ、最も趣味あり且後進の為め最も訓戒となるべき演説あり、其れより園遊会に移り、壮烈なる陸軍々楽の奏楽に亜くに、円遊一座の茶番あり、社員には各自思ひ思ひにビール店・鮨店・煮込店其他の露店に就て飲食し、又は弁当を喫して清遊一日以て能く積日煩労の鬱を去り、各員非常の歓を尽し、午後四時頃より順次散会せり、当日出席社員の芳名を録すれば左の如し
名誉社員
 青淵先生    渋沢社長    同令夫人
 穂積博士    同令夫人    阪谷博士
 同令夫人
社員(出席順序)
 青木孝     長谷川粂蔵   松平隼太郎
 上田彦次郎   野口半之助   柳田国雄
 中野次郎    若月良三    増田亀四郎
 長谷川武司   広瀬市太郎   渋沢長康
 木村清和    青木昇     石川竹次
 田島昌次    須田武雄    松永米次郎
 堀口貞     小倉直     神谷岩次郎
 橋本悌三郎   青木道     沼崎彦太郎
 岡本謙一郎   吉田久弥    坂野長吉
 大須賀八郎   八十島親徳   斎藤峰三郎
 林新右衛門   伊藤新策    川西庸也
 大塚正保    西田音吉    小財宗一
 河瀬清忠    仁瓶茂     須原徳義
 永田清三郎   樋口恭次    長谷井千代松
 原簡亮     金子四郎    竹田政智
 生方祐之    林正三     山際杢助
 内山吉五郎   中村習之    児玉忠善
 松原知房    近藤鉱之助   中村鎌雄
 成島嘉助    武沢与四郎   野島秀吉
 島田房太郎   池田嘉吉    和田巳之吉
 岡本銺太郎   本多春吉    村山革太郎
 松井方利    萩原久徴    村田繁雄
 内藤種太郎   渋沢武之助   同正雄
 阪谷希一    同俊作     山成鷲雄
 長谷川正直   坂本鉄之助   佐々木哲亮
 鈴木清彦    大庭景陽    小沢長之助
 斎藤又吉    村松秀太郎   小山平造
 尾川友輔    山内春雄    鈴木源次
 高橋波太郎   永井定治    森村要蔵
 八十島樹次郎  金沢弘     野中真
 - 第26巻 p.322 -ページ画像 
 関谷祐之助   雨宮長治郎   石井録三郎
 田口竹蔵    林興子     石川文吾
 真保総一    中村光吉    伊藤登喜造
 久保幾次郎   田中繁定    山崎栄之助
 笠原厚吉    平井伝吉    続木庄之助
 大畑敏太郎   小崎懋     木部欣勝
 浅見悦三    山村米次郎   服部巳吉
 藤井栄     横田半七    利倉久吉
 山崎鎮次    古川銀二郎   小沢泰明
 荒川謙     豊田春雄    横田晴一
 青山利恭    成田喜次    清水釘吉
 土屋藤吉    西内青藍    仲田正雄
 長尾吉平    松島金之助   西谷常太郎
 北脇友吉    粟生寿一郎   小泉国次郎
 森島新蔵    諸井四郎    高島経三郎
 平石完之    松本操     椙山貞一
 吉田国政    明楽辰吉    湯浅徳次郎
 田中太郎    戸塚武三    高橋金四郎
 下野直太郎   遠藤正朝    川村徳行
 永田常十郎   久田益太郎   恩地伊太郎
 津村甚之助   飯島甲太郎   岩崎寅作
 村井義寛    橋本明六    高村万之助
 福岡夫人    相田懋     吉田七郎
 長尾甲子馬   柴田順蔵    五十嵐直蔵
 町田豊千代   笹沢三多雄   岩本伝
 桃井可雄    鈴木正寿    小林徳太郎
 前田保雄    横田半七    山中善平
 山崎一     八杉勇次郎   金谷丈之助
 同藤次郎    阿部吾市    阿部久三郎
 中沢億三郎   浦田治平    渋沢秀雄
 塩川誠一郎   伊吹山徳司   安達憲忠
 諸井恒平    吉岡新五郎   浦田次郎
 磯野幸太郎   野村喜平    福岡健良
 山口喜三郎   八十島夫人   弘岡幸作
 植村金吾    渡辺清蔵    松村修三郎
 村木善太郎   関一      高橋信重
 坪井正五郎   家城慶助    石井与四郎
 福村福正    鈴木金平    鳥羽幸太郎
 金沢粂田    佐々木慎思郎  小林義雄
 木村弘蔵    唐崎泰介    国枝寿賀治
 河本国三郎   柿沼谷蔵    尾高次郎
 中村衡平    湯川益太郎   浦田治雄
 藤木男梢    野本庄太郎   江口百太郎
 武笠政右衛門  田中楳吉    鶴岡伊作
 - 第26巻 p.323 -ページ画像 
 田中七五郎   柳熊吉     高田乙彦
 秋田桂太郎   岡本亀太郎   大塚磐五郎
 中村源次郎   大沢佳郎    小林銓之助
 馬場録三    天野勝彦    小林武之助
 沼間敏郎    西田敬止    中村新太郎
 土山武質    木村喜三郎   市来正哉
 川口一     山中譲三    村瀬貞吉
 河南次郎    木村亀作    星野錫
 御崎教一    平沢道次    関誠三
 太田資順    河村桃三    斎藤政治
 山田昌邦    田岡健六    脇谷寛
 大熊篤太郎   横田清兵衛   大河内政一
 鈴木清蔵    福田祐二    西田順蔵
 九里誠一    尾高幸五郎   関直之
 早乙女昱太郎  清水錬     清水甚兵衛
 八木荘九郎   石井健策    松園忠雄
 八木安五郎   青木直治    堀内歌次郎
 横山徳次郎   上原豊吉    諸井時三郎
 新居良助    鈴木亀太郎   森三郎
 友田政五郎   佐野小兵衛   郷隆三郎
 米田喜作    福島甲子三   佐野善作
 原林之助    土橋恒司    南須原巻五郎
 萩原源太郎   同英一     脇田勇
 西脇長太郎   高橋俊太郎   石川道正
 塘茂太郎    麻生正蔵    吉岡仁助
 松川喜代美   堀井宗一    安藤富助
 小野正雄    山県近吉    山本千之助
 亀島豊治    高畠義夫    河合禎三
 箕浦剛     佐藤伝吾    小熊又雄
 鳥居川武次郎  山本音吉    穂積真六郎
 成瀬隆蔵    赤木淳一郎   清水泰吉
 藤村義苗    早速鎮蔵    土肥脩策
 水野克譲    豊田伝次郎   河井芳太郎
 千葉重太郎   芝崎確次郎   林保吉
 槙安市     古作勝之助   金沢求也
 福田徳三    岡田半次郎   三浦小太郎
 木戸有直    横井錣次    野崎広太
 三浦小太郎   松倉長三郎   小尾桃吉
 斎藤鍫     田中栄八郎   白石元次郎
 大川平三郎   矢野次郎    笠原助太郎
 相原直孝    藤田英次郎   織田完之
   ○栄一、総集会費トシテ例ニヨリ金三百円寄附ス。


竜門雑誌 第一八六号・第一―五頁 明治三六年一一月 ○『見其弊勿没其功』の説(DK260059k-0002)
第26巻 p.323-327 ページ画像

竜門雑誌  第一八六号・第一―五頁 明治三六年一一月
 - 第26巻 p.324 -ページ画像 
    ○『見其弊勿没其功』の説
 本編は去十月廿五日の本社第三十一回秋期総集会に於て、青淵先生が述べられたる演説の速記なり
時間も大分迫つて参りましたから、短い御話に止めますやうに仕りませう、当秋期の竜門社総会は、第一に天気が宜しうございまして御互に大慶に存じます、毎度なから諸君の賑々しく御来会に相成りましたのを喜びます次第でございます、前席の植村君の麦酒に対する御演説続いて阪谷博士の醸造試験場の誤解を防く御演説も、総て有益な事であります、蓋し此有益は聴く方々の益もありませうが、言ふ御本人にも大分益がある、所謂相益すると云ふ御話と聴做して宜からうと思ふです、我々聴く方からも不利益がないけれとも、言ふ御当人は寧ろ聴く人の利益に倍した利益かも知れぬ、シテ見ると斯程有益な御話は無い、斯る有益な御話の後、申さば生麦酒の極く結構なものを味つた後に、白湯を上けるやうな御話ですから、或は諸君の口でなうて、耳が不味《まづ》い御感しを為さるかも知れませぬが、私は今日はトンと懸隔れた御話を申上ける積りでございます
玆に申上けるのは『弊を以て功を没する勿れ』といふ演題で、諸物は総て進んで参るに随て弊害が生する、其弊害を見てからに、其物の進んで来た功績を没するやうになるのが人情の常である、矢張それも均しく世の弊害でございます、何卒此弊害は、成るへく注意して免れるやうに致したい、少し支那めかしい文句になりますが、之を文字に書きますと『其弊を見て其功を没する勿れ』とも謂はねばならぬかと思ふです、試みに例を挙げて見ますると、人間万事限なく言ひ得るです先つ第一に挙けて見たいのは維新の革命でございます、長い間の武家政治、其武家政治の間に主従の関係を生し、国に国君と云ふものゝある外に、一種の頗る強い情合のありしを一朝にして打破したです、それと同時に旧事物を皆な打砕いてしまつた、千年も経過した日本の殆と第二の性質の如きものを打破ると云ふ勢であつたから玉石共に一掃したといふてもよい、右様な有様でなけれは大政復古は成遂げられぬでありましたらう、蓋し是は功である、大なる功である、けれとも其功に対して生した弊が無いかと申すと、或は旧事物の保存すへきものを打壊し、尊ふへきものを卑み、或は師弟・親子の関係まても、甚しきは取失ふと云ふやうに行趨つた有様も見えます、若し果して左様であつたならば、是は大なる弊害である、其弊害の原因を討ねたならは革命の勢から一瀉千里に旧物を打破したと云ふ強い効力が、此弊害を生したと考へねはならぬ、故に若し其最終の弊害から言ふたならは、御一新も或は害ではなかつたかと思はれる、即ち弊を見て功を没すると云ふ事になります、又今一例は兎角政治上の事をいふやうであるが彼の自治制度であります、明治二十二年に地方自治制度を布かれたがそれまでの有様は所謂官尊民卑で、地方の政治は皆な官の差図する所干渉する所、即ち秦の始皇の黔首を愚にすると云ふ有様で、民は馬鹿なもので総て主治者の差図でなけれは善い政治は出来ぬと云ふ仕来りであつた、又一方には宗教制度を厳密にして人民は各戸に檀那寺があつて、私の宗門は何々でございますと云ふ事を毎年一度調へを受けね
 - 第26巻 p.325 -ページ画像 
は、一人として国家に立て居られぬと云ふ処置であつた、或は又旱魃とか風災とか洪水とか云ふやうな、農業を大に害する場合があると、農具其他の物を官から貸与へて維持を図るといふやうな制度であつたそれを打破つて、人民は皆な自治し得るものである、但し国家必要な制度は政府の指定めた所に従はなけれはならぬ、けれとも其他は多く自ら治める、一地方に相当なる団体を立て、それに対する組織を定め其組織に随て自ら経営するものであると云ふので、其論理、其趣意は甚た美です、誠に喜はしい、併し其実況を今日に見ますと、人民の智識の未た進まぬとか、総ての事物の実験が乏しいとか云ふ有様から、其結果は寧ろ議論が多いとか、費用が増すとか云ふことになる、或場合には生活の程度が進んだと喜ふかと思ふと、生する物が少ふして費す物が多く、一方から見ると、国の貧民は是よりして生しはせぬかと憂へられる点もある、斯く算へると、此自治制度も或は其弊を以て其功を没せねはならぬと云ふ非難の声も生するやうに思はれます。
又教育の点から観察を下しますと、此席にも年を取つた御方も在《い》らつしやいますが、昔しの教育と云ふものは極く荒つぽいものであつた、又甚だ行き届かぬものであつた、斯く申上ける私抔は、実は親からして費用を給されて教育を受ぬ身であつた、其教育は殆と自教育である自教育と云ふ語は熟字を成しますまいけれとも其通りである、然るに今日は小学にも尋常・高等があり、尋常中学があり、高等学校があり大学があり、他の方面には商業教育・実業教育、又近頃は女子に対する教育も各種の設備が整ふて殆と至らさる所なし、是も甚た喜はしい訳で、以て国の進歩を徴するに足るが、偖て一方から考へて見ると、此の教育が果して此の国に十分適応するものであるか、又事実日本の富且つ力を増すに満足であるかと云ふと、是も疑ひ無きにしもあらす其中には教育を誤つて、寧ろ教育無くもがなと云ふやうな人物を往々見ることもございます、然らは則教育の弊も、或場合には其功を没することが無いとも謂はれぬであらう
又経済上の点に就て一の例を申しますと、彼の合本法である、是も維新以後の出来事で、斯く申す渋沢抔は、此合本方法に就ては先つ創業者の位置に居ります、多少与つて力ありと申上け得るです、日本の事物をして大に進ませるには、是非共物質的進歩を図るより外ない、唯た智識とか議論とか云ふ方にのみ進ませると云ふ事は駄目である、而して物質的進歩を図るには第一に其物質を進歩させるものは何であるかと云ふと、智恵も必要であらうが、資本も必要である、金が甚た肝腎である、其金が一個人の力で出来るか、一個人の力は甚た小なるものである、殊に其当時の日本の商売社会と云ふものは、其力が甚だ細くあつた、此細いものが個々別々に仕事をして居た日には、迚も海外諸国と肩を列へることが出来ぬのみならず、内地すら如何にすることも出来ない、然る上は、相当なる方法に依て資本を合せる、即ち会社組織が甚た必要であると云ふので、是に於て会社制度と云ふものが生れ出ると同時に、大に発達して来たのです、銀行会社の資本を近時の計算に徴して見ると、既に八億円以上に上つて居りませう、之を明治の初年、三・四の国立銀行が僅に数百万円で創設された当時に顧みま
 - 第26巻 p.326 -ページ画像 
したならは、三十年の間に左様に進歩して来たと云ふ事は、其功実に大なりと謂つへし、然るに又是にも大層なる弊害がある、甚しきは合本法、国を誤るとまて評論する人があります、私抔は成るへく其弊を以て功を没したくないけれとも、或る場合にはもし此合本法と云ふ事が無かつたならば、斯る煩しい、斯る恥かしい事は、聞かぬであらうとも思ふ事が往々耳朶に達するです、斯く考へて見ると、合本法も亦弊を以て功を没したくなるやうに思はれる
斯の如きは、蓋し皆な中庸を得ぬから起つた事であつて、詰まる所之を行ふ人の智識に欠ける所があるとか、実験に乏しいから起る事と考へねばなりませぬ、而して弊を以て功を没すると云ふ場合は、多くは此世の中を悲観的に観察し、且つ警醒的に物を言ふ人に多く生する議論である、大勢の人が社会の各般の事物を観察しますと、支那人の所謂象を見て種々の解釈を為すが如く、世の進む有様の善い事だけ、即ち功だけを見る人は之を楽天主義と唱へ、又其弊を生する、其弊たけを見る人を悲観主義と唱へる、悲観主義と云ふのは、果して楽天主義と相対する言葉になるかどうか分りませぬが、弊害を見て警醒的に物を言ふ人は、どうしても根本に立入つて、或は其効能までも没すると云ふ順序に行趨る、是は蓋し世間を警戒する必要上止むを得ぬのであります、例へは木の枝の傾いて居るのを矯めやうとする場合に、中正にては迚も矯め得られない、右に傾くものならは強く左に矯めねばならぬ、是を以て警醒的に事を為すものは、悪るくすると弊を以て功を没することに行趨るのであります、想ふに是等の弊害の生するのは、其功を能く観察し尽さす、其弊を能く調査し了らぬからであります、故に是は均しく中庸を誤つて居るものと謂はなければなりませぬ、是に於て乎中庸と云ふ事が、世の中の事物に甚た肝要に相成つて参ります、蓋し支那の学者の唱へた中庸と云ふ学問、然もズツと昔しの孔子の唱へた中庸と云ふものに至ては、此二つの文字に、殆と世界万国をも治め得へき大なる意味を含んで居るやうに思ひます、よくは記臆致しませぬが、中庸の一番首めの子程子の言に、『不偏之謂中、不易之謂庸』、又其本文に、『致中和天地位焉万物育焉』とあつて、中庸といふものは、殆と総ての事を網羅して居るやうに見える、又中庸の難い事を述へて『天下国家可均也、爵禄可辞也、白刃可踏也、中庸不可能也』と云ふ言葉もあつたやうに覚えて居りますが、成るへくたけ中庸と云ふものは御互心掛けて置いて、弊を以て功を没し、功に誇つて弊を生すると云ふ事を防くやうにありたいと、私は懇望して止まぬのであります、斯る経書の講釈をする際に、翻て卑俗な事を申上けるやうになりますが、私は諸君の極く手短に理解し得る言葉を以て此局を結はうと思ひます、それは何かと云ふと、世の中に『ぶるナ』『らしく』と云ふ極く単純な言葉があります、一寸分りますまい、英語のやうであるが私は英語を話すのではない、『ぶるナ』と云ふのは、何ぶるナ、役人ぶるナ、銀行頭取ぶるナ、竜門社員ぶるナ、『らしく』と云ふのは丁度其反対で、役人らしくせよ、女らしくせよ、『ぶるナ』『らしく』至て簡単な言葉ではありますが、私は此間に中庸を含んで居ると思ふです、若し御互に真にらしくして、其『らしく』が徹頭徹尾宜を得て
 - 第26巻 p.327 -ページ画像 
事に当りては十分なる機智もあり、又堅固なる守る所もあつたならは『らしく』の三字で天下国家が治る、所謂『爵禄可辞也、白刃可踏也らしく不可能也』と云ふかも知れない、故に中庸を解釈する為めに極く手短に諸君に向つて『ぶるナ』『らしく』と云ふ事を申上けるのであります、何卒御失念の無いやうに致したうございます、此弊が功を没ると云ふ事は、殊に今日に甚しく在るやうです、併し其功や亦甚た弊を生し易い、故に弊を以て功を没するは、詰まり吾人の心掛の悪るいのと謂はなければならぬです、それを防かうと云ふのは六ケしい事であるから、中庸を御覧なさるが宜い、若し忙しくて中庸を読むことが出来ぬとあらは、今の『ぶるナ』『らしく』の御心掛を願ひたいと思ひます、是で御免を蒙ります。