デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.407-427(DK260069k) ページ画像

明治41年4月3日(1908年)

是日、当社名誉社員阪谷芳郎ノ欧米旅行送別会ヲ兼ネテ当社第四十回春季総集会開カル。栄一之ニ出席シ送別演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK260069k-0001)
第26巻 p.407 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
四月三日 半晴 軽暖
○上略 午前十時頃ヨリ竜門社春季総会ノ為メ来会スル者頗ル多シ、十一時開会、土岐僙氏ハ阪谷ノ洋行ヲ送別スル為メ一場ノ演説アリ、尋テ阪谷氏ノ答詞アリ、最終ニ余モ亦一場ノ送別演説ヲ為シ、午後一時ヨリ園遊会ヲ開キ午飧ヲ庭園中ニ於テス、畢テ余興トシテ支那人ノ曲芸アリ、夕四時頃散会ス ○中略 此日会スル者凡五・六百人許リナリキ
 - 第26巻 p.408 -ページ画像 


竜門雑誌 第二三九号・第八五―八八頁 明治四一年四月 ○本社第四十回春季総集会(DK260069k-0002)
第26巻 p.408-411 ページ画像

竜門雑誌  第二三九号・第八五―八八頁 明治四一年四月
○本社第四十回春季総集会 本社第四十回春季総集会は、監督阪谷男爵の欧米漫遊送別会を兼ね去る四月三日飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり、折柄陽春の好季節桜花将に綻ばんとするの候にして殊に当日は晴朗なる好天気なりければ開会前より社員陸続参集し、青淵先生・穂積博士・阪谷男爵並其家族を始とし来賓本多静六・土子金四郎・山田喜之助の諸氏、其他左に記する如く三百余名の来会ありたり
午前十時半奏楽と共に一同会場に参集、渋沢社長先づ開会の辞を述べ次に土岐僙氏社員を代表して阪谷男爵外遊に対し送別の辞を述べ、次で阪谷男爵の演説及青淵先生の演説あり、之にて式を終り、直に園遊会に移りて午餐の饗あり、同時に庭内各処に設けたる露店を開きて各人の欲する所に任せ、余興としては楽隊及清国人李彩の手品あり、各自十二分の歓を尽して散会したるは午後四時なりき(当日の演説筆記は別欄に登載すべし)
当日来会社員諸君の芳名を録すれば左の如し
 青淵先生    同令夫人
  名誉社員
 渋沢篤二君   同令夫人
 穂積陳重君   同令夫人
 阪谷芳郎君   同令夫人
  特別社員
 伊藤登喜造君  伊藤半次郎君   井上金治郎君
 石川卯一郎君  岩本伝君     犬塚武夫君
 萩原源太郎君  萩原久徴君    橋本悌三郎君
 橋本明六君   服部金太郎君   浜田善吉君
 原林之助君   早速鎮蔵君    西脇長太郎君
 西田音吉君   西田敬止君    西内青藍君 
 堀井卯之助君  堀井宗一君    堀越善重郎君
 細谷和助君   土岐僙君     利倉久吉君
 沼崎彦太郎君  沼間敏朗君    尾高幸五郎君
 尾高次郎君   尾川友輔君    岡部真五君
 岡本銺太郎君  小田信樹君    織田雄次君
 脇田勇君    柏原与次郎君   柿沼谷蔵君
 河村徳行君   金谷藤次郎君   神田鐳蔵君
 横山徳次郎君  吉岡新五郎君   田中栄八郎君
 田中元三郎君  田中楳吉君    高橋波太郎君
 高杉録太郎君  多賀義三郎君   曾和嘉一郎君
 早乙女昱太郎君 成瀬隆蔵君    仲田正雄君
 仲田慶三郎君  中村鎌雄君    奈須原巻五郎君
 村井義寛君   梅浦精一君    植村澄三郎君
 上原豊吉君   内山吉五郎君   野口半之助君
 野口弥三君   八十島親徳君   山中譲三君
 山中善平君   山口荘吉君    山崎繁次郎君
 - 第26巻 p.409 -ページ画像 
 山田敏行君   松平隼太郎君   松谷謐三郎君
 福田祐二君   郷隆三郎君    小橋宗之助君
 小林武次郎君  小林義雄君    小西安兵衛君
 寺井栄次郎君  阿部吾市君    安達憲忠君
 新居良助君   佐々木勇之助君  佐々木和亮君
 斎藤峰三郎君  桜田助作君    大本倉二君
 南貞助君    渋沢市郎君    渋沢作太郎君
 渋沢義一君   清水釘吉君    清水一雄君
 白岩竜平君   芝崎確次郎君   真保総一君
 平沢道次君   広瀬市三郎君   弘岡幸作君
 諸井恒平君   諸井時三郎君   諸井四郎君
 桃井可雄君   関直之君     鈴木金平君
  通常社員
 伊東祐彀君   伊藤美太郎君   猪飼正雄君
 飯島甲太郎君  市川廉君     石井与四郎君
 石田豊太郎君  石川竹次君    石川道正君
 磯野孝太郎君  磯部亥助君    原直君
 早川素彦君   萩原英一君    林保吉君
 長谷川粂蔵君  伴五百彦君    堀家照躬君
 堀内良吉君   堀内歌次郎君   新原敏三君
 西村直君    鳥羽幸太郎君   友田改五郎君
 東郷一気君   豊田伝次郎君   千葉重太郎君
 大西順三君   大島正雄君    大平宗蔵君
 大頃賀八郎君  小熊又雄君    小沢清君
 尾高定四郎君  岡本亀太郎君   奥川蔵太郎君
 若月良三君   和田勝太郎君   脇谷寛君
 川上賢三君   川口一君     川西庸也君
 河村桃三君   河野通吉君    河野間瀬次君
 金田新太郎君  金沢求也君    金沢弘君
 金子四郎君   笠原厚吉君    唐崎泰助君
 神谷岩次郎君  吉岡仁助君    吉岡鉱太郎君
 横田晴一君   田中太郎君    田中一造君
 田中繁定君   田子与作君    田島昌次君
 武沢与四郎君  武田仁恕君    棚瀬三郎君
 高橋金四郎君  高橋外吉君    高橋森蔵君
 高橋和足君   高島経三郎君   中村習之君
 中村新太郎君  中村留吉君    中山輔次郎君
 内藤種太郎君  成田喜次君    滑川庄次郎君
 村井盛次郎君  村山革太郎君   村田繁雄君
 生方祐之君   上田彦次郎君   野村揚君
 久保幾次郎君  久保録太郎君   八木荘九郎君
 八木仙吉君   八木安五郎君   安田久之助君
 山田仙三君   柳田観巳君    松井方利君
 松村修一郎君  松村五三郎君   松平勇君
 - 第26巻 p.410 -ページ画像 
 槙安市君    福島三郎四郎君  福田盛作君
 藤木男梢君   藤浦富太郎君   藤森忠一郎君
 小林徳次郎君  小林武彦君    小山平造君
 小島順三郎君  江口百太郎君   相田嘉一郎君
 明楽辰吉君   安藤鍫君     天野勝彦君
 綾部喜作君   阪谷希一君    桜井幸三君
 佐藤伝五君   斎藤又吉君    斎藤政治君
 木村喜三郎君  木戸有直君    北脇友吉君
 湯川益太郎君  行岡宇多之助君  宮下清彦君
 宮下恒君    渋沢長康君    塩川誠一郎君
 広瀬市太郎君  平岡五郎君    肥田英一君
 樋口恭次君   森島新蔵君    鈴木富次郎君
 鈴木源次君   鈴木旭君
  準社員
 家城広助君   長谷川方義君   富田善作君
 大庭景陽君   和田巳之吉君   武笠政右衛門君
 田岡健六君   玉江素義君    永田常十郎君
 村田五郎君   坂本鉄之助君   斎藤亀之助君
 森茂哉君
  購読者
 今井又治郎君  落合太一郎君   河崎覚太郎君
 山内篤君    遠藤正朝君    木村弘蔵君
 元山松蔵君
  客員
 本多静六君   土子金四郎君   山田喜之助君
又当日の会費中へ左の如く寄附ありたり、玆に記して其芳志を謝す
  一金参百円                青淵先生
  一金七円                 同令夫人
  一金弐拾円                渋沢社長
  一金五円                 同令夫人
  一金五円                 穂積博士
  一金参円                 同令夫人
  一金五円                 阪谷男爵
  一金参円                 同令夫人
  一金参拾円              今井又次郎君
  一金拾五円              山崎繁次郎君
  一金拾五円           万歳生命保険会社殿
  一金拾五円             佐々木勇之助君
  一金拾円               大川平三郎君
  一金拾円                神田鐳蔵君
  一金拾円               田中栄八郎君
  一金拾円               小西安兵衛君
  一金五円               犬丸鉄太郎君
  一金五円               岡本儀兵衛君
 - 第26巻 p.411 -ページ画像 
  一金五円                山中譲三君
  一金五円               寺井栄次郎君
  一金五円                阿部吾市君
  一露店天麩羅店一箇処          鈴木金平君
  一ビール百リーター        大日本麦酒会社殿


竜門雑誌 第二三九号・第一―五頁 明治四一年四月 ○本社春季総集会に於ける青淵先生の演説(DK260069k-0003)
第26巻 p.411-414 ページ画像

竜門雑誌  第二三九号・第一―五頁 明治四一年四月
    ○本社春季総集会に於ける青淵先生の演説
大分時間が短くなりましたから、唯一言此席に立ちました御申訳けに述べるだけに止める積りであります、此春季の竜門社の総会に、恰も好し阪谷男爵の海外行を送別すると云ふことに相成りましたのは、諸君と共に喜ばしい次第に存じます、只今竜門社を代表されて土岐君から其行を壮にし、又多分な土産を持て帰られるやうにと云ふ、最も重要なる御注文があつたやうでございますから、最早附加へて申上げることはございませぬけれども、丁度さう云ふ機会でございますで、私と雖も矢張此旅行に対して一つの感情を生ぜざるを得ぬのでございます、故に今日の御話は竜門社諸君に対してよりは、寧ろ旅行者たる阪谷男爵に対して一言を申述べやうと考へます。
人の遠方に旅行するに付て之を送ると云ふことは、知らぬ人に対しても種々なる感情を生ずるものである、況んや近親の人に対しては、其情緒の甚だ密なるものであると云ふことは申上げられますので、古人も此送別に付ては譬へば、唐人の詩に「渭城朝雨湿軽塵、客舎青々柳色新」と申して簡単な詩の句であるけれども、其情愛の深いところが見えて居る、又「丈夫非無涙、不灑別離間」是も五言の短句であるけれども、大変に留別の情緒が切実である、或る一方から言ふと欧米旅行などゝ云ふことは、私は年を取つたから其やうな勇気を蓄へては居られぬが、所謂魄飛び魂馳せると云ふやうな按排に、遊心勃々と起つて来ることもある、故にそれ等の考を以て其行を壮にし、又前に申す詩人の謳うた意味を以て此別れを惜むのが、即ち此旅行者に対する人情であらうと思ふ、そこで私は又阪谷氏が此旅行中如何なる感想を起すかと云ふことを此処で聊か予想して御話をするも、一つの興味ではないかと思ふのであります、阪谷氏は是から先づ亜米利加へ行き、欧羅巴に移り、遂に露西亜を廻つて帰つて来ると云ふから、其行程中に種々なる方面、種々なる事物に接触されるであらう、此時には必ず種種なる考案若くば感想が起るであらうと云ふことを、玆に予言したいと思ふのであります、其の事に付て先刻土岐君は、唐の郭子儀を御引合に出したが、兎角に支那人ばかり引合に出すのは、ヘボ漢学者の寄合じみて少し耳触りであるか知れぬが、私は宋の笵仲淹の岳陽楼の記に付て、此旅行者を送ることに致したいと思ふのでございます、范仲淹と云ふ人は北宋の有名なる政治家であつたやうであります、蓋し支那風の政治家でございますから、此処に御座る政治家御連中は、范仲淹糞を食へと仰しやるか知れませぬが、併しさうばかりは往きませぬ此人の岳陽楼の記に言うてある言葉は実に味ひが多い、詰り滕子京と云ふ人が巴陵郡に謫せられて、其地方の知事の如き職になつた、越へ
 - 第26巻 p.412 -ページ画像 
て明年政通じ人和し百廃具に興る、乃ち岳陽楼を重修し其文を范仲淹に託した、そこで仲淹が此岳陽楼に対して観察を下すと云ふ趣向で記文を書いたのでありますが、私は今悉く岳陽楼の記を此処で暗誦し得られませぬ、又暗誦しても面白くないであらう、其記文の大要は、先づ岳陽楼に対する山川の風景を叙し、或る場合には強い風も吹くであらう、湿めつぽい雨も降るであらう、幽鬱なる場合憂苦なる念慮が生ずることもあらうと云ふことを述べて、斯う云ふ時にはどう云ふ観想を生ずるか、又反対に天気が極く麗かで百花は咲き乱れる、海面は誠に静かで鷗も遊べば魚も躍る、斯う云ふ時にはどう云ふ感念を起すであらうか、山河草木総て感情の種となると云ふことを、工合好い流暢な文字で、深遠なる意味を書列ねて、其の末に至つて何と云ふてあるかと云ふと「廟堂の高きに居れば則ち其民を憂ひ江湖の遠きに処れば則ち其君を憂ふ、是れ進んでも亦憂ひ退いても亦憂ふ、然らば則何れの時に之を楽むか、其必ず曰はむ、天下の憂に先つて憂ひ、天下の楽に後れて楽む、噫斯人微せば、吾誰と与に帰せんや」と筆を止めてある、誠に情の深い味のある言葉である、私は常に此文を愛読致すのであります。
今阪谷氏が亜米利加へ行くでありませう、亜米利加に行つたならば、必ず彼の文物の盛んなること、又人は皆敢為な気象を持て、学問でも実務でも物事はもう殆と天工は竢たぬ、総て人造でやれると云ふ如き有様を見たならば、必ずや日本は困つたものだと云ふ観念を惹起すに違ひない、是は開けて見たより確かである、若し起さなければ人情の乏しいのである、感応力の鈍いのであると斯う論じなければならぬ、併ながら又一面から見たならば、此の如き勢に進んで往つた亜米利加の未来はどうなるだらうか、昨年の十月頃俄然大恐慌を起したのも、斯う突飛な進歩があるからだと云ふ観察も生ずるであらう、是に於て又日本の去年の株式相場が大変に昂騰して、百五拾円にもなつたものが五拾円にも足りなく下落したと云ふ故郷の有様を感ずるであらうと思ふ、是れ則ち雨の多く降つた時、又は大風の吹いた場合に、色々に悲観に傾くと云ふ、岳陽楼の記の有様が必ず繰返されるだらうと思ふのであります、或は英吉利に、若くは欧羅巴大陸に行かれたならば、又此感想が変つて来るだらうと思ふ、況んや英吉利の如きは其人格が高潔である、物事が軽躁に陥らぬ、斯う云ふ有様を見たならば、又故郷の経済界の若いこと政治界の経験の少ないこと、総て物事が所謂不堅固と云ふ有様に在ることを憂ひられるであらうと思ふ、又仏蘭西に行きましたならば総ての設備が華美であること、他所から来る客は可成愉快を与へるやうに、仕掛けも宜し事物も整ふて居る、従て来る客も自然と金を使う、甚しきは漫遊者の懐中が仏蘭西の富を増すとも言ふ程である、日本では「ホテル」も十分でない、喜賓会があつても一向働かないと人に譏られる、斯う云ふ事も亦共に感ずるであらう、さうして残念十万だと思はれるであらう、若し独逸に行くか、是は又総てが俗に謂ふ学問づくめの組立で、学校を出る人は其方面に応じてそれぞれ職に就く、政治に法律に教育に農工商業に、総ての方面に学事を奨めて、殊に近頃は独り唯だ学問と云うて道理を攻究するばかりで
 - 第26巻 p.413 -ページ画像 
なく、それを事実に現はすことに汲々として、殆と英国其他の国々が刮目して見ると云ふ有様に至つて居る、是等に就ても一見又大なる感想を惹起されるのであらうと思ふのであります、其他露西亜にあれ伊太利にあれ墺地利にあれ、何れの国々も定めてそれぞれの特長がございませうから、同じく感を増すであらう、併し私はそれ等の国々に対しては特に知悉致さぬから、前に述べたる国々の如く例証を申す訳には参りませぬ。
而して総ての各地を回つて見らるゝに就て、殊に私が注意をして欲しいと思ふのは、只今土岐君からも述べられましたが、此実業界の主義が果して私の常に論じて居る仁義道徳、即ち――王道で以て行けぬものであるか、或は行けるものであるかと云ふ考察を、十分にして戴きたいと思ふのであります、既に阪谷男爵は、政治上も経済上も追々の進歩が孤立を許さぬ、否許さぬと云ふ言葉は穏かでないか知らぬが、孤立は不利益である、追々に公共的に傾いて行くと言はれた、若し果してそれが事実であるならば私は王道で以て商工業が立派に営まれて行けると云ふことを、明言して憚からぬのであります、昔の漢学説は仁を為せば富まず富めば仁ならずと云つて、富貴功名と仁義忠孝とは全く種類違のやうに考へて居つた、是は決して孔子の教の間違ひではない、其後のヘボ漢学者の誤解である、蓋し朱子なども此ヘボ漢学者の一人かも知れない、朱子学は徳川時代に於ては非常に尊重されたものであるから、朱子の註で論語を読むだ、渋沢などもヘボ漢学者の一人かも知れませぬが、ヘボ漢学者が、功利と云ふものと仁義と云ふものが、まるで別物と考へたのは抑々間違いである、私は世の中の事はどうしても、此利益とか功名とか云ふことは離るべからざるものであると思ふ、人の生存はそれに依て発達するものであると、斯う考へて差支ない、但しそれが道理と云ふものと、公益と云ふものを失つては往かぬ、利己と云ふことは、決して功利を満足に保つべきものではない、故に曰く王道で政治も十分出来るし、実業も十分に出来るものである、之を唯だ己だけと考へるから、甚しきは人を倒さうと云ふことになつて来る、己と云ふものだけを論じて往けば、己に対する他であるから、己だけを富まさうとするならば、他を貧しふすると云ふことになる、若し果して世界の経済事情も、公共的に進歩するのが利益であつて、孤立が不利益だと云ふ論を拡充して往つたならば、必ず私の王道論は欧羅巴までの攻究に及ばず、此竜門社の席上で判断されるであらうと思ふのであります、但し是は所謂我田引水の論たらざるを得ますまい、幸に欧羅巴殊に英吉利などに於ては、私の所謂王道たることは未だ許せぬか知れませぬが、王道に近き行為を為す所の人が多いと思ふのであります、斯る場所に於て攻究されたる御土産話は、私の最も希望して止まぬのでございます、私は不断に此事を青年の人々には申して居りまするが、此王道を奨めて行く根本が玆にある、即ち論語に何と云うてあるか「君子は本を務む、本立つて道生ず、孝悌は其れ仁を為すの本か」と云うて居る、誠に卑近な語である、今の実業に王道と云ふたならば、独り日本ばかりを富ます、日本ばかりを盛んにするのではない、全世界を盛んにすると云ふ程になる、是は大きなる
 - 第26巻 p.414 -ページ画像 
希望であるが、之を小さく纏めて言うたならば僅に一人の孝悌を務めるのが其根本である、仁と云ふものは殆と功徳限りないものである、此仁を為すの本は即ち孝悌である、幸に阪谷男爵は深切なる攻究をして、他日此竜門社に於て、如何にも渋沢の申す通り王道で実業は発達すると云ふことを、多分半年の後には言うて呉れるであらうと思ひます、併し是が一つの問題となつて、或はさうでないと云ふ議論が出たならば、竜門社の大討論会を開いて、諸君と飽までも論弁して見たいと思ひます、何れに致せ、遠からず、金箔の附く説にならうと思ひますが、先づそれまでとても孝悌は仁を為すの本でございますから、何処までも諸君、殊に青年の人々は孝悌の道を御守りなすつて仁義道徳の基を立るやうに御勉めなさる事を祈ります、之を以て今日の送別の辞と致します。(拍手)


竜門雑誌 第二三九号・第二一―三九頁〔第二一―二八頁〕 明治四一年四月 ○春季総集会に於ける阪谷男爵の演説(DK260069k-0004)
第26巻 p.414-419 ページ画像

竜門雑誌  第二三九号・第二一―三九頁 明治四一年四月
    ○春季総集会に於ける阪谷男爵の演説
閣下貴婦人及び諸君、今日は私が近々洋行致しますに付きまして、折角の休日を御割愛下されまして、斯く多数御多用の諸君が御集りになりまして竜門社の春季総会を開き、私の洋行を御送り下さると云ふことでありまして、誠に有難く存じます、又唯今渋沢社長並に土岐君からして御鄭重な御言葉を賜はりまして深く光栄の至りに存じます、洵に土岐君の御言葉に対しましては、少しも当ることが出来ませぬのを恥入りますのでありまして、是は到底私の及ぶ所ではあるまいと考へます、且私は僅に六箇月の旅行でございまして、又浅学短才の者でございますから、別段御土産を持つて帰ることは出来難いと云ふことを申上げて置きたいのでございます、唯だ無事の身体だけは是非持つて帰りまして、諸君の御厚意に対する御土産と致したいと考へます。
さて私の此度の洋行を御送り下され、又此以前に於きましては或は大臣の就職、又授爵の御祝等、段々の御厚意に接しまして誠に有難うございます、又長い二十五年の在職中ではございましたが、何等諸君の為に此竜門社の声誉を発揚することの出来なかつたのは、甚だ恥入ります次第でございます、殊に此最後の十年間は或は日清戦争又北清団匪の事件、此度は日露の戦争と云ふやうに随分国事多端の際でございました、殊に最後の日露の戦争は、殆ど此日本の国がどう成行くことやら分らぬと云ふ大困難の戦争でございまして、其戦争中戦時財政の一部分を担任致し、戦後の始末を担任致しまして、唯々其材の足らず学の浅きを嘆じて居りましたのでございまして、深く恐縮致して居りましたが、如何なることでございまするか、此の三月十九日に宮内省より御召しに預りまして、多年の勤労を御思召して特に御紋章入の銀製の花を盛る器を賜はるゝと云ふ、厚い御餞別の御言葉を宮内大臣から頂戴致しました、斯く許り不肖の者をさう御思召被下かと云ふことは、深く肝に銘じました次第でございます、此度の旅行は唯だ漫遊ではございまするが、及ぶ限りは国家の為に尽しも致しますし、亦諸君の御厚意に対しましても酬ゐらるゝ限りは酬ゐたいと心に期して居りますが、何分前申す通りの浅学短才の身でございますから、其万が一
 - 第26巻 p.415 -ページ画像 
も実効を挙げることは出来ぬであらうと考へます。日露の戦争中は非常に困難でございましたが、是は先づ財政に於きましても、ゑらい困難なしに経過致しまして、三十八年の「ポーツマウス」の条約を以て愈々平和に局を結びましたのでございますが、此時に於て、詰り此度の戦争の費用は、日露双方各々分担すると云ふことに極まりました、即ち露西亜は露国の戦費を負担し、日本は日本の戦費を負担する、斯う云ふことに極つたのでございます、それで是は二十億に近い金を費し、四十万に近い死傷を出し、二箇年に亘つての大戦争でありましたから、是が為に我日本国は非常な経済上に影響を被つて居ると云ふことは論を竢たぬことでございます、デさう云ふ跡を私が引受けましたのでございまして、甚だ前途を気遣ひました次第でございます、併しながら大地震の跡片附をするにも、亦大火事の跡片附をするにも、さうどうも何もかも整然と一時に皆整へると云ふことは出来るものではない、故に先づ第一に此借金の始末と云ふことに着手致しまして、即ち此十数億の国債を三十箇年の間に償還すると云ふ計画を立てゝ、それで以て三十九年の議会は終りましたのでございます、而して四十年の議会に於きまして、兎に角此跡の垣根を作る、即ち満韓に対する勢力範囲と云ふものが殖えた以上は、どうしても之に対する国防の計画と云ふものが定まらなければならない、併しながら借金の始末を附けずに国防の始末を附けると云ふ訳にはどうしても往かない、そこで満韓に対する国防の計画は第二に着手せられて、四十年の議会に於て此事が極まりました、即ち此借金の始末と国防の計画と云ふものは出来ました訳でございます、之に就きましても唯今土岐君の御話の通りに国家は軍備と云ふものがないならば大変に経済上の楽を得ると云ふことは論を竢ちませぬ、又各国共に此軍備の負担と云ふものが非常に重くなつたが為めに経済が苦しくなる、又銘々の生活も多少圧迫を受けると云ふ所から、軍備を縮少し、若くは制限し、経済上の余裕を得る工夫をすると云ふ考が段々現はれて参りました、即ち近来に於きましては所謂同盟協約、或は仲裁裁判の条約と云ふやうなことが段々行はれるやうになつて来たのでありますが、併しながら今日までの所ではどうしても軍備を忽せにした場合には、いつも戦争が起る、即ち戦争の起ります部分と云ふものは、いつも此軍備の平均を失した場合に於て生ずると云ふ傾向になつて居りますので、到底今日の場合に於きまして、軍備を非常に縮少すると云ふことは困難なことになつて居ります、併しながら土岐君の御説の通りに、是は非常に注目研究を要する問題であらうと思ふ。
それで或る意味から言うたならば、国と云ふものゝ堺が無くなつたならば軍備は要らぬ、即ち盗賊を押へるとか或は一揆を鎮めるとか云ふことであれば今日の軍備は要らない、今日の軍備と云ふものは皆国と国との関係を定める為のものである、若し国の境が無くなれば跡は巡査とか憲兵で事が足るのである、成程さうには相違ない、併しながら国の境を廃すると云ふことが、果して人類の為に利益あることであるや否や、マア段々国の境は近年大きくなりつゝあることは論を竢たぬ次第々々に一箇国の勢力範囲と云ふものが大きくなりつゝあるから、
 - 第26巻 p.416 -ページ画像 
新たなる独立国の生ずると云ふことは、近来は殆ど無い、亜米利加の「パナマ」にパナマ共和国と云ふやうなものが近来出来たやうでありますけれども、是は即ち亜米利加政府が彼所に堀割を作る為に、色々「コロンビヤ」の政府と議論の一致せぬ所から、彼の国が分離せられて独立国が出来たと云ふやうな訳で、さう云ふ極端の取除けはありますが、どうも近年に於きまして国は次第々々に大きくなりつゝある、小さく分裂すると云ふことはマア無いと見て宜い、それで大きくなるのには従つて段々と人種に依て又区別されると云ふ傾きも見える、尤も英吉利の勢力範囲の中には各種の人類が包含されて居ると云ふやうな話で、一概に申すことは出来ませぬけれども、段々此傾きは人種に依て国が一塊になつて、それが大きくなると云ふ傾きを持つて居るのである、結局どう云ふ形にまで国がなつて行くものやら、是もナカナカ未来の話で分らない、さうして見ると今日国の境を撤すると云ふことは、先づ誰もさう云ふことの実行を考へると云ふ時期には、未だ無論至つて居らぬのであります、さうして見れば即ち、国の境と云ふものはどうしても必要である、国の境が必要である以上は国の境を防禦する、即ち垣根と云ふものがどうしてもなければならぬ、デ近来の垣根と云ふものは、昔のやうに竹槍を削つて直ぐ出来ると云ふ訳のものではない、平日に於て非常な準備を要すると云ふことになつて居りますから、余程此軍備の問題に就てはむづかしいことでありませうが、併しながら前に申す通り平和会議・同盟協約・仲裁裁判条約と云ふやうな色々なる制度の発展の上から世界の議論が如何に傾きつゝあるかと云ふことも亦大に考へなければならぬ、斯う云ふ次第であります。
それで詰り私の在職中に於きましては、此借金の始末、並に満韓に対する国防の問題は片が附いたのでありまして、今後に於きまして私の考へて居りますのは、経済上の問題に於て大に注意を要するものがあるだらう、即ち貿易の輸出入の不平均、若くは外国債の元利に対しての正貨収支の平均を保つ為に、如何なる工業及商業の政策を立てゝ往かなければならぬか、又鉄道が国有になりましたに付きましての此公債の処分、並に今後の経営の方針、又鉄道を将来建設改良して往かなければならぬ、又拡張して往かなければならぬ、其費用の支弁の方法固より私の在職中に於きまして今土岐君の述べられた通り、神戸横浜港湾の改築、其他諸般の経済上の事も着々歩を進めてやつたには相違ありませぬが、何分火事場の跡片附でありますから、一時に物を皆片附けると云ふ訳には往かぬ、まだ重大なる問題の今後実行を要するものが残つて居ります、併しながら是等は即ち経済上に関します問題でさう解決上に心配なことはあるまいと考へます、兎に角国家の歳計と云ふものが、即ち国家の日々の会計と云ふものゝ収支平均と云ふものを保つと云ふことは一段落を告げたのでありまして、是から先は即ち此経済問題・財政問題――狭い意味に於ての財政問題は既に結了して是から先は経済問題の区域に這入つて居るのでありますが、丁度今年は或は米国の大統領の選挙、又昨年の紐育の恐慌の結果からして生糸が売れぬとか、又支那の方は銀貨の下落とか、又近年支那に於きまして頻に銅貨を造り紙幣を濫発致すと云ふ所から、大変に支那の経済状
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態が悪るくなつて来た、それ等の関係よりして支那向きの貿易品が売れない、又世界の商工業が一時非常な繁栄の反動を受けて、銅の値段が下落して居ると云ふやうなことが加はりまして、貿易上に多少不景気を見ると云ふ有様になつて居る、而して又内地の方は戦争後に免るることの出来ない即ち株券熱――此株券熱に付きましては、其当時日本に於て戦後の株券熱を防いで見やうと云ふ考を持ちましたのでありますけれども、ナカナカ其大勢当るべからずで、不幸にして矢張日本は戦争後避くべからざる株券熱に遭遇致した、又戦争後にもう一つ避けることの出来ないのは需要供給の不平均、是は即ち戦争中に於きまして百万の軍隊が外に出て居ることでありますから、陸海軍の準備と云ふものは、一年若くは一年半先きに品物を仕入れて置かなければならぬ、従て日本の経済社会に非常な変調を惹起して居つたのである、それが戦争の終了と共に動員を解き、壮丁は家に帰り、陸海軍の需要は減じて来ると云ふ有様でありますから、それ迄のところ一方に於て非常に工業家は器械を殖して注文に応じて居つたのが、忽ち需要が減つて来たと云ふ有様であるから、どうしても需要供給の不平均と云ふことを免れない、さう云ふ出来事と貿易の多少不景気と云ふことが綜合して、今年は多少困難の状態を示して居るやうな訳であります、併しながら生糸のことゝ云ひ、銅のことゝ云ひ、又支那に対する貿易品のことゝ云ひ、是はそれそれ一時の現象から来るものでありますから段々物が順潮に向ふ以上は、去年まで売れた生糸が今後売れなくなると云ふ道理はない訳で、亜米利加の人口が俄に半分に減つたと云ふやうなことがあるなら兎も角も、亜米利加の人口や支那の人口と云ふものが変らぬ以上は、一時の不振と云ふことは、決して憂とするには足らないと思ふのであります、今後に於ての日本の経済上の政策如何と云ふことの方針が能く定つて往きさへすれば、貿易上の問題も段々と解決を見ることであらうと思ひます。
それで此の如くに私の在職中の仕事は、戦後経営に於きましては、財政上の方面に付きましての仕事の決了は見ましたのでございますが、是より進んで大に経済上のことに着手するの考を持つて居りました際に、政治上の理由よりして職を引くやうになりました、是は自分の甚だ遺憾とするところでありまする、併ながら此度の好機会に欧米各国の事情を視察致しまして、多少たりとも益を得ることを得ましたならば、又自分の考を諸君に訴へて、之を実行することを努めて見たいと思ふのであります、私の出立は来る十五日に横浜を出帆致しまして、米国を経て英国に渡り、それから欧羅巴各国を回りまして、露西亜に出て、さうして西比利亜鉄道を経て満洲・朝鮮と斯う云ふ風に巡回致しまして、此秋帰りたいと考へて居ります、約そ六箇月の予定でございます、併し是は大体の極めでございますから、或は存外早く帰つて来るやうになるか、又多少日子が延びますか、それは旅行の都合に依りまするが、大体はさう考へて居ります、それから私の同行者には、丁度此処に御出でなつて居る堀越善重郎君も御出で下さいまするし、又馬越恭平君、台湾銀行の柳生頭取、其他日本銀行・第一銀行等の役員の方々も御出で下さるので、丁度私と併せて十一名に今日なつて居
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ります、旅行中は甚だ賑かに考へますのであります、デ私は此前に申します通りに浅学短才の者でございまするで、格別御土産を持て来ることは出来ぬ、ホンの無事の身体を持て帰るだけでございますが、此同行諸君には、右申述べました如く実業界に有力なる諸君が加はつて居られます、それに政府の方に長く居りました私も加つて居ると云ふやうな訳で、謂はゞ朝に在つて財政に従事したところの一人と、民間の有力なる実業家とが一緒になつて旅行をするのでありますから、双方の側を見ることが出来るであらう、又外国資本家に接遇して話をするにも、色々政府の方針は斯うである、民間の実業家の希望は斯うであると云ふやうな話が、却て別れ別れに旅を致しますよりも余程親切鄭寧に出来ませうと考へます、それで政府は斯う云ふ考を持つて財政をやつて居る、例へば麦酒会社の問題は斯うしたい、台湾の事業に付ては斯うしたい、貿易のことは斯うしたい、と云ふやうな話合よりして、意外に相互に英仏米独、其他各国の資本家との結合を見ると云ふやうなこともあらうかと考へられます。
詰り私の考へますには、今後日本が段々列国の間に挟つて国を立てゝ往く上に於て、孤立と云ふことは到底いかぬと考へますので、政治上に於ても「アイソレーシヨン」即ち孤立と云ふことは到底今日は出来ない、即ち今日は同盟協約の時代に移つて居るので、此同盟と云ふことは能く相手を選んで親密に同盟を固ふし、協約を固ふして、さうして之に対する反対の同盟や協約に対して往くと云ふことを考へて往かなければならぬ、独相撲と云ふことは余程危険で到底むづかしい、即ち政治上におきましても今日孤立の政策と云ふことは許さぬのでありますが、経済方面に於きましても孤立と云ふことは到底宜しくないと考へて居ります、即ち朝鮮に対しましても、亦清国に対しましても、満洲に対しましても、日本が独り利益を壟断すると云ふ考であつたならば、是はどうしても経済上の孤立主義になつてしまう、矢張満韓清等の国々に対する日本人の仕事、亦日本の内地の仕事に於きましても我国と親密なる外国の資本家とは提携して往くと云ふ考を持たなければならぬであらうと思ふ、即ち経済上の孤立も不可なれば、政治上の孤立も亦不可なり、言葉を換へて言へば、経済上の提携も宜しければ政治上の提携も益々宜しい、即ち「アイソレーシヨン」と云ふ思想は到底日本の人が一掃せねばならぬ、鎖国攘夷と云ふことを唱へて居つた時代の愚を学ぶ人は、既に今日無い筈でありますけれども、併しながら日本の政治家並に実業家、若くは言論に従事する人の言葉の端より、動もすると此孤立主義に陥ることがある、孤立に陥るならばどうしても世界の同情を失ふ、世界の同情を失ふならば、即ち政治上に於て孤立しなければならぬ、政治上に於て孤立するならば、即ち此日本の勢力が墜ると云ふことになる、それで是はどうしても政治上の同盟なり又協約なりが、経済の同盟協約を基礎としたものでなくては、永遠に維持の出来ぬものであらうと考へられます、それで日本に於きましては、長い間尊王攘夷の議論を以て一時日本の思想社会を支配した時代は過ぎ去つて、開国王政復古となり、又廃藩置県となり、自由平等の説となり、立憲政体の議論となり、遂に日清・日露の戦争となる
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まで、マア色々な思想を経来つて居りますけれども、今後日本人が大に必要なる思想として発展して往かなければならぬのは、即ち此経済上の同盟、経済上の協約と云ふことであらうと思ふ、若し清国にあれ満洲にあれ朝鮮にあれ、日本人が独で利益を壟断すると云ふ考があつたならば、日本国が世界の人類の幸福を妨げると云ふ疑を受け、遂に政治上に於ても亦孤立に陥りはしないかと云ふことを憂ふるのであります、是等の事情、又此説の当否と云ふことを見るには、此十人の同行者の諸君と共に私が参ると云ふことは、非常な仕合と考へて居ります、私一人の眼で――殊に浅学短才の私一人の眼で判断するよりも、此十一人の中には、即ち老練にして有力なる実業家諸君が三名も加つて居られると云ふ、此同行者の眼で見、又向ふの有力者と語ると云ふことは、非常な好機会であると思ひます、是等の点から考へますと云ふと、甚だ此六箇月の旅行は短きを私は歎息致します、併ながら何分同行諸君も非常に忙がしいので、馬越君の如きは七月の麦酒会社の総会迄には帰ると言つて居られるのでありますから、私よりは一層時日が短い、併ながら短いながらも、私に取りまして誠に好き同行者を得て居りますので、私は何等有形又は精神的に、社長並に土岐君の希望せらるゝ御土産を持参することは出来ませぬにしても、此同行者の御方々より多少福音を得られると云ふことを、私は考へて居るのであります、今日は諸君の御厚意に対しまして、自分の旅行致しまする次第を一言申上げて置きます。(拍手)

竜門雑誌 〔第二三九号・第二八―三九頁 明治四一年四月〕 ○阪谷男爵閣下を送る辞(DK260069k-0005)
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    ○阪谷男爵閣下を送る辞
         本社春季総集会に於て 土岐僙君 演説
閣下、貴婦人、満堂の諸君、本日は此御目出度い日を利用しまして、竜門社の春季総会を兼て、我が阪谷男爵閣下の御送別会を開かれますので、唯今社長は殊に社員を代表しての送別の辞と云ふ御言葉がございましたが、それには私は甚だ当らぬ者でございます、唯男爵閣下とは明治十三・四年からの交りもあり、又竜門社に入つたことだけは閣下より一日古く入つたと云ふだけのことで、一向値打も無いのでありますが、併し我が阪谷男爵閣下は、此竜門社には今日迄沢山御尽し下さいました、就中六十年史の編纂に付きましては、御忙しい中に非常に御骨折下さつたことでございますから、竜門社員の一人として何か申上げたいと思ひます、凱旋の将軍が古郷を過つたときに、賤の老媼が馴々しい言葉を掛けて将軍の従者を驚かした例もあるのでございますから、甚だ当らざる私が此光栄を荷ひますのを、我が阪谷男爵閣下の仁愛の厚きと、青淵先生並に満堂の諸君が雅量海の如く深き為め、御宥し下さることゝ深く感謝致します、但竜門社を代表すると申しますのは甚だ難有ふございますけれども、唯どうか竜門社員の一人の蕪辞として、御聴きを願ひたいと思ふのであります。
先達て閣下が大蔵大臣と云ふ名誉ある地位を御退きになりました時に人が閣下の為めに之を残念だと云ふたやうな模様は見えなかつたやうにもあります、別けて閣下に親しい人々は之を愁嘆する様ではなかつたと思ふのであります。
其理由は色々ありませうけれども試みに一つ申上げて見ませう、阪谷
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男爵閣下が大学を御出ましになりましてから廿五年間、専心一意身を官に奉じて殆と御欠勤も無いと云程に国家の為に御尽しになつた、それで所謂一気呵成にズツト大臣まで御進みになつてしまつたのであります、其間少しも緩みがなく御進みになつたのは誠に結構なことであります、併ながら何時迄も其儘で御居でになると云ふことは或は望ましい事かも知れませぬが、唯吾人の身体を養ふと云ふだけでも、医者に言はせば一週間に一度位、一箇年に二十日や三十日位は、必ず居所を換へて空気の良い処へでも行くのが宜いと申すのでありますが、廿五年間少しも休無し欠勤無しに身を奉じて、一ツ事をズツトおやりなさると云ふことは如何なものであらうか、真に閣下の身を念ふ者は多少の心配を感ずるのであります、尤も是は戦場か何かであつて休んで居る暇の無い位地であるとか、或は又古稀以上の老年の御方であつて今働かなければ働く時期が無いと云ふことであれば格別でございますが、我が阪谷男爵閣下は春秋将に盛にして、是から益々働いて戴かなければならぬと云ふことは、皆人の認めて居るところであります、今日迄二十五年間官に身を奉じて居られて、大臣迄バタバタと御進みになつたのは、二十五年と云ふと随分長ふございますが、是はほんの小手調、前芸と思ふのであります、是から以後本芸として益々国家の為に尽して戴かなければならぬと思ひますれば、此処で一時閑地に御就きになると云ふのを、皆が喜ぶのは無理のないことであらうと思ひます、殊に此際閣下の御精神を新にし御身体を養ふには、欧米を御巡遊なさると云ふことは最も望ましいことで、最も適当なことであらうと思ふのであります。
それで洋行と云ふことは維新前後からして余程日本人は重んじたことで、殊に学生上りの青年には洋行と云ふことは非常に大切なことになつて居りました、然るに閣下は今日迄未だ曾て欧米の地を御踏みになつたことはないのであります、そこで洋行にも色々種類があつて、或は留学生、或は視察員、唯洋行と云ふことさへして来れば月給が増すとか、何処かへ人が用ゐて呉れると云ふので洋行をする人があるし、又何んとなく自分の貫目を附ける為に洋行するのもあり、色々ありましたが、今は最初程には洋行を重んぜぬことになつて参りました、然らば此洋行と云ふことは全然値打が無くなつたのかと云へば決してさうではない、矢張欧米の地を踏むことの値打のあることは以前の通りであります、唯学生でも官吏でも商人でも、洋行さへすれば宜いと云ふ、単一のことではないと云ふことが分つただけで、我が阪谷男爵閣下の如く二十五年間も一つの事に就て昼夜精神を籠めて実務に立たれたと云ふ、斯う云ふ御方が洋行なさると云ふことに付ては、其値打がどの位か分らぬと思ふ、殊に今日迄閣下が欧米の地を踏まれなかつたと云ふ理由は如何なる理由であるか、それは巡遊することが出来なかつたからである、巡遊の出来ないのにも色々ありますが、我が阪谷男爵閣下は同じ政府に居る人の中でも、人物養成には最も心を用ゐられた人であると申して宜からうと思ふ、閣下が大蔵省に御這入りになつてから学校出の人がどの位大蔵省へ這入つたか分らぬ、這入つた人は無論百人が百人、二百人が二百人、一人も屑が無いとは申されますま
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いが、他に比較して余程好い結果であつたと私は信じて居ります、それ等の人々は皆閣下の部下となり門下となつて奉公せられますが、其内既に洋行をした人がどの位あるか分らぬ、中には二度も三度も洋行した人がある、自分が養成した部下に洋行した人が数十人あるのに、閣下御自身に至つては未だ曾て欧米を御巡遊なさらぬと云ふのであるから、同じ洋行が出来ないと云つても余程趣が違ふのであります、何故洋行が出来ないのでありますか、阪谷男爵閣下は一日も役所をあけることが出来ない、一日も去ることが出来ないといふ要職に就て居られるからである、欧米へも何処へも行くことが出来はしない、大阪の造幣局へ検査に行かれるにも余程前後を考へなくちや役所をあけることが出来ないと云ふ枢要の位地に居られるのです、斯様な方が洋行せられるやうになつたのは、実に吾々は喜ばねばならぬことで、さう云ふ点から考へれば、皆が欣喜雀躍するのは決して無理ならぬことであります、それ故に我が阪谷男爵閣下が今度洋行なさると云ふことは、一国を挙げて皆望んで居るであらうと思ふ、イヤ一国を挙げてではない、欧米人と雖も非常に歓迎するであらうと思ふのであります。
吾々は財政の事に付ては一向不案内であります、けれども二十五年も一つ事を鞅掌してゐらしつたならば「此事はどう云ふ具合か」「先進国ではどう云ふ風に扱つて居るか」と云ふやうなことにて、或は報告を見ても本を読んでも分らぬことが沢山あらうと思ふのです、それだからして今閣下親ら実地にそれを見聞なされ、又多くの人に会つて御話になつたならば、大変に様子が能く分り来つて、公私の便益尠なからぬことであらうと愚考いたします、けれどもそれは日本人の側の考でありますが、欧羅巴でも亜米利加でも阪谷男爵閣下のやうな方の見えるのを非常に待つて居るかも知れない、我が日本国は今世界の問題になりつゝあるのである、日本国は如何なる国であるか、日本人民は如何なる人民であるか、或は誹る者もあり或は褒める者もあり、或は非常に之を猜み嫉む者もある、日本国民は戦に強いが其他の事には駄目であらうか、日本の財政はどうなつて居るか、経済はどう云ふ有様であるか、日本の為に肩を入れやうとする人でも、日本の実際の今日の有様を知らぬ者が非常に多いだらうと思ひます、成程日本の新聞雑誌を翻訳すると云ふこともありませう、又日本人も彼地に沢山行つて居る、殊に阪谷男爵閣下の門下の人で閣下の御配慮に依つて財政の事其他の事の為に態々人を派遣し、又今でも派遣されて居る人がありますが、併し是はさう云ふ人より聞くよりも、現に其事に与つた人が来て其事を話して呉れゝば宜いと云ふ念慮を持つて居る人は、欧米に於ても必ず少からぬことであらうと思ふのであります、私はまだ望みがあります、どうか彼地にゐらしつたならば、唯今社長からも御土産を持つて御帰りになる様にと云ふ御話がありましたが、其御土産をどうぞ日本の有力の人に話して戴きたいと思ふのであります、他の人が話してはさうかと納得しない人も、現に財政の事に与つた人が先進国の情態を実地御見聞の上御話をなされたならば、始めて納得することがあらうと思ふ、是は独り吾々の為ばかりではない、御土産として要路の方々へも話して戴きたいと思ふことが沢山あらうと思ひます。
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就ては彼地へゐらしつたならどう云ふ風に此方の事情を話して戴きたいか、どう云ふ御土産を戴きたいかと云ふことに付ては、私は玆に之を述べるの力も無い、又其人でもありませぬが、併し此の如き光栄を荷ふた以上は阪谷男爵閣下並に満堂の諸君が此処で私が多少の御注文話又拙ない愚見を披攊しても御咎はなからうと思ひまするので、是から少し申上げ様と思ひますから御許を願ひたいのであります、話が少し余事に亘る様でございますが、昔の武士の模範として佐々主殿の話を一寸申上たいと思ふのであります、佐々主殿と申しますのは加賀の藩の人でありまして、禄高千石を食んで居つた、此人が延宝六年の九月に罪あつて自裁をしたと云ふ話があります、それを申上げるのには加賀の松雲公の事を一口申上げなければならぬと思ふのであります、吾々が常に松雲公と申しますのは綱紀と申す御方であります、綱紀卿は世界の君主@若し加賀百万石の領主を君主と称し得べくんば、君主として世界に於て多く得難き賢君で、目出度い御方であられる、位に居ること七十九年、将軍で申せば家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗の六代の将軍に仕へ、皇室で申せば後光明・御西・霊元・東山・中御門天皇の五代に続いて、加賀の君主をして居られた方でありますが、唯だ在職が長いばかりでない、其間には非常に善政を布き又改革をした方で、それ故に将軍家からも非常に優遇をされて、就中明君と称された八代将軍の如きは、御三家に対しても、此綱紀に見習つたが宜からうと仰せられたことがある、且又八代将軍は此加賀の綱紀公の御政治を重に採つて政治の御改革をなすつたと云ふ位の方でありますが、此松雲公が色々断然たる政治をなされた中で、領分内に乞食を置いてはいかぬ、乞食を無くしてしまはなければならぬと云ふので、丁度我青淵先生が御世話を長くしてゐらつしやる養育院のやうな非人小屋と云ふものを拵へて、領内の乞食を残らず是に収容したのであります、加賀へ御出でになつた御方は御存じであらうと思ひますが、其非人小屋は維新後迄遺つて居りました、それを断行なさると同時に、自分の家来で苟も士たる者は士たるだけの威厳を具へなくちやいかぬ、それに付ては第一借金をしないやうにしろ、借金のある者は金を貸してやるから種々の借金は返せ、斯ふ云ふ御沙汰を断然藩中一般に下した、其時分に佐々主殿と云ふ人がありまして、此人の性質は察する所真に武士気質の朴訥な人であつたらうと思はれますが、家を治むることが甚だ拙なかつたと見えて、始終貧乏で家の修繕が行届かないがために、雨の降る時に家の内で傘をさして居たと云ふ、さう云ふ風に家の修繕も捨てゝ置くのに、それでもやつて往けないために非常に借金があつて、銀二百貫目の借金になつた、それでさう云ふ正直な武士気質の人であるために、殿様から借金をしてはいかぬ、借金のある者は金を貸してやるから返せと云ふ御触れが出たから、実は拙者は銀二百貫目の借金がありますから貸して戴きたいと云ふことを願出した、所が其願書を出す手続順序を誤つたり何かしたために大層組頭などの御機嫌を損じ、武士たる者が借金をするのみならず家の修繕も行届かないと云ふのは、家を治むるに拙ないからだ、左様な不心得な者は其儘に差措かれぬと云ふので、遂に佐々主殿(当時五十七歳)は人持組頭
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の村井豊後守親長と云ふ者へ御預けになりました、長男孫助(三十二歳)は人持組の前田万之助へ、次男左平次(二十二歳)は同藤田虎之助へ、季子の平五郎(十一歳)は同葛巻十左衛門の家へ何れも御預けになつた、さうして「月を越へて皆死を賜ふ、各々自裁す」と書いてあります、さて自殺をしてから家を没収して係りの役人が倉の内を検めて見ると「刀槍甲冑鞍鐙諸武器燦然畢く備はり、正に其禄に称ふ」とある、弓矢・鉄砲・槍・長刀一切の武器が千石取り相応の数を揃へ且さびたり損じたりせず燦然光を放て居る、加之具足櫃を啓けて見ると、主殿自身の櫃の内には黄金五拾両這入つて居つた、尚外の具足櫃にも夫々黄金五両づゝ這入つて居つたとある、外の具足櫃と云ふのは幾箇あつたか分りませぬが、千石取の武士で子供が三人もありますから、少くも二十やそこらの具足櫃はあつたらうと思はれます、それに皆五両づゝ這入つて居つたとすれば大したものである、然るに銀二百貫目の借金をして申訳が無いと云つて切腹してしまつた、今の時世に在て斯様の事を考へて見れば殆んど怪しからぬ様で、実に昔の武士は驚くやうな律義ではございませぬか、さう云ふ次第でありましたから松雲公も後にお聴きになり、幾らか御悔ひになつたと云ふことでありますが、後文政中に村井又兵衛が気の毒に思ふて、主殿の自裁した遺址に碑を建てたと云ふことであります。
是は昔の武士の話でありますが、此話は私等の為に教訓になることだと思ひます、殊に日々証券や貨幣を扱ふ者などには考へやう次第で大に益のある話だと思ひますが、さう云ふ事は差措いて、抑々此日本国は皆平和を愛好する所の人民であるのであります、又多少の犠牲を供しても文明と人道の為には援助を与へんとすることに付ては、余り他の国民に譲らぬところの国柄であると思ふのであります、然れども私共の玆に最も考へねばならぬことは、此平和を愛好すると云ふことに付ては如何致したらば宜いか、我青淵先生の如きは最も平和を愛好し文明と人道の為には、又経済上の進歩発達の為には何程の困難をしても厭はぬと云ふ御方であることは分つて居る、けれども日露戦争前は是非共此の戦争を避けねばならぬと云ふ御考でもなかつたやうであります、此戦争は世界の平和の為に余儀なく致した戦争である、武は戈を止む、弋を止むと書いて武と云ふ字になつて居ります、刀は容易に抜くものでない、成るべく刀は抜かぬやうに、事を治めなくてはならぬ、そこで東洋の盟主たる我が国民は、同盟なり協約なりを保持するの道如何と云ふことに付て、吾々には常に心を悩ましつゝある次第であります、昨年海牙に於て平和会議がありましたが、其平和会議に於て何をしたか、平和会議と云ふものゝ問題は、重に戦の時に捕へた船はどうするとか、潜航艇はどうであるとか、風船はどうであるとか、爆裂弾を投げるのはどうであるとか云ふことを論じて居ります、然るに又一方独逸のウルデンブルヒのスツットガルトに於ては廿五箇国を代表したる九百名計りの会衆ありて、此の平和会議を評して盗賊の晩餐会なりと称して居る、是が非常に問題になつたと云ふことでありますが、此方に於ては「戦争は有らゆる手段に訴へて是が終局を早めしむ」と云ふことを論決して居ります、是は欧羅巴に於ても非常にむづ
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かしい問題ではないかと思ふのであります。
それで我が阪谷男爵閣下は、無論文明の為め人道の為め又平和の為には最も御熱心で、従来其方針で御尽力になつたことは、是亦申上げるまでもないことゝ思ひます、神戸の港はもう少し発達させやう、いくらか港らしうしたい、横浜はどうしたら宜からう、其他日本の道路は斯う云ふことではいかぬ、交通機関もまだ不完全であると云ふことに頻に御心配をなされて居られます、で今度彼地にゐらしつたならば果してテームス河畔の倫敦を御覧でありませうが、其港はどう云ふ設備を為して居るか、日本と比較してどうである、紐育はどうである、ハンブルクはどうであると云ふ、それらの違ひと云ふものは、必ず親しく御覧になりましたならば、明かになるであらうと思ふのでありますが、尚其他諸学校の有様を申しましても、我邦に於ては海陸軍の学校はなかなか設備が届いて居るやうでありますけれども、他の日本の学校はどうであるか、皆足らず前でやつて居る、此方でも足らず彼方でも足らずと申して居るやうであります、理化学の研究所も日本には無い、それでは理化学は海陸軍に要らぬかと云ふと、御承知の通り田中館博士は今度の戦争で勲章を賜はりました、田中館博士は平素は陸海軍に関係の無い人である、けれども田中館博士を要することが出て来る、又理化学を始め凡ての学科に於ては、我が大学に於て万国に秀でたる人才、世界の「リコード」を破るに足るだけの人才は随分あるやうでありますが、如何にせむ設備が足りない、諸事設備が足りないが為に、まだ世界の「リコード」を破るに足るだけの仕事が十分に出来ない、併し其出来ない中に於ても猶ほ世界の「リコード」を破る程のの仕事を研究して居るのは頼母しい、どう云ふ研究をして居るかと云へば、先づ金の要らぬ事に心を用ゐてやつて居るので、例へば磁石学などは理化学の中で一番金が要らぬ、それですから磁石学に於ては世界の「リコード」を破るだけの仕事をして居る、詰り金の要らぬ方面に発表して居るのであります、して見れば武備と他の文明の設備とはどんな釣合であるか、此日本が東洋の盟主となり世界の平和を保たんとするには、どの位の程度にまで軍備と云ふものをして宜いか、是非とも諸の武器が燦然として光を放つて備え附けて置かなければ、英国との同盟は保てないものであるか、露仏との協約は保つことが出来ぬものであるか、是れが非常に私共の迷うて居るところであります、団十郎は昔始終貧乏で、塩湯計りにも毎月弐拾五両の借金があると云つてこぼして居つた時の方が、却て芸が能く出来た、所が段々莫大な報酬を取るやうになつてから、どうも芸が良くないやうになつたかと思ふ、私共は昔贔負か知りませぬが、今の若い俳優は中々沢山給金を取るそうである、而して芸は如何であるかと思ひます、国家が海陸の軍備の整へるのも実は戦をするのが目的でない、平和でありさへすれば宜いと云ふことであれば、実際武士道が盛んでなくとも、又兵が強くなくても、其処に燦然と光を放つだけのものを備へて置けば宜いのであるか、是等が私共の最も解決に苦む所でございます、是等の事に付て阪谷男爵閣下は二十有余年の間国の財政を料理なさつた御方であるから、或は吾々と同じやうな御苦心のあつたことかも知れない、故に
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欧米を御巡りになつたならば、如何なる御感想があるか、之を是非伺ひたいと思ふのであります、独り吾々が伺ひたいのみならず、我が要路に当る当局者も、閣下の御覧になつた通りのことを明に伺ひたいと望んで居るに相違ない。
それと同時に願ひ度のは、我 陛下は「四方の海皆はらからと思ふ世に、など波風の立ちさわぐらん」と云ふ御製があります、我 天皇陛下は世界の平和を愛好する上に於ては、他の各国の君主に少しも譲る所は無い、否世界の君主中最御仁徳の高き事は申す迄もない、況んや又国民は皆甚だ平和を愛好する、且つ又我が国民は明治二十七・八年の役と僅か十年距つて三十七・八年の役が起つても、是に堪ゆるだけの進歩発達の力を持つて居ります、此後も十分進歩発達の力を持つて居るだらうと思ふ、其進歩発達と云ふことは豈独り日本国民の利益を計るのみでない、正に人道の為め文明の為に貢献する所ある積りで進歩発達するのであります、是等は十分に先方の有力者に機会があつたならば御話を願ひたいと思ふ所であります。
まだ一事申上げたいことがございます、今度は支那人の郭子儀の話でございます、私は郭子儀と云ふ人を非常に尊崇して居りますから、斯う云ふ機会を利用して申上げるのは甚だ自分の好きを申上げるやうで相済みませぬが、暫く御許を願ひたい、此郭子儀と云ふ人の絵は世間に沢山ありますが、何でも非常に肥つた人が大勢の女やら子供やらに取巻かれて居る図でございます、それで大抵の人は郭子儀と云へば単に長寿な福の多い人であると云ふことを知つて居る、私も単にさう思つて居りました、所が段々調べて見ますと、此人は単に寿福に富んだだけでない、ゑらい豪傑であるのです、其豪傑と云ふことが其福の為に蔽はれて、唯子孫の多い福者であるとのみ世の中の人が信じて居る様であります、郭子儀と云ふ人は、唐の末粛宗の代に当つて世が甚だ乱れてしまうて仕様のない時分に安禄山が乱を為した、其時に非常な功を樹て、粛宗が「国家再造卿之力也」と仰せられた、それから、代宗の代になつて吐蕃が入寇し国が危いと云ふ時にも度々功を樹て居ります、其位の人でありまして、其事を褒めてある言葉を一寸申して見ますと「以身為天下安危者三十年、功蓋天下而主不疑、位極人臣而衆不疾」又通鑑綱目に「号官爵謚具前乎此未有也後乎此无有也、終綱目千三百六十二年一人而已矣」とある、綱目の作者朱子と云ふ人は点数の辛い人でナカナカ八十点は附けない、大抵五十点か六十点位でありますが、然るに是は九十五点を附けてある、殊によれば百点の褒辞と云ふてよいかも知れない、此位の人でありましたから、郭子儀は八十五で亡くなりましたが、亡くなつた時に国葬で非常な入費を出して、立派な御葬式を営んで太師号を贈つた、此人の伝を見ると身の丈が七尺二寸あつたと云ふ、何千人と云ふ吐蕃が郭子儀の風を望んで唯頭を下げて黙つて平服してしまふ、それ位の人である、それで「八子七婿皆貴顕、諸孫数十不能尽識」余り孫が大勢で誰が何やら分らない、それで孫が来ると唯おじぎをして居つたと云ふ、通常此点に於て郭子儀と云ふ人は知られて居りますが、さう云ふ功労のあつた人であると云ふことは、余り世間で知らないやうであります。
 - 第26巻 p.426 -ページ画像 
そこで此事を申上げたのは何の為であるかと云ふと、今度我が阪谷男爵閣下が欧米に御出ましになりましたならば、此竜門社の事を一つ御紹介を願ひたいと思ふのであります、我青淵先生が実業界の泰斗としては事業の人である、仕事をする人であると云ふことは世界に知らぬ人は無い、併ながら青淵先生が主義の人である、予言者である、国を警醒する人であると云ふことはまだ知らぬやうであります、一方の事のみを知つて一方の事を忘れて居る人があると思ふのであります、我が青淵先生もハリマンやモルガンのやうな人であらうと思うて居るかも知れぬと思ふのであります、彼地でも随分政治家には政治の局に当ると同時に筆の人もあり口の人もある、随分数千人を相手に立派な論を吐き又椽大の筆を揮うて一世=一世のみならず数世を大に警醒するやうな論文を書く人もあります、例へば今の亜米利加のルーズベルトなども筆に口に立派な人であります、其他まだ沢山ありますが、併ながら民間の事業家としてはさう云ふ人に甚だ乏しいと思ふ、日本に於ては我が青淵先生が仁義道徳を以て各業に就け、王道を以て実業を営めと云ふ、玆にチヤント主張があるのであります、此仁義道徳を以て業に就けの、王道を以て実業を為せのと云ふことは、元来昔の政治家の政治を為す儀表であつたのである、然るに今日の政治家で人に向つて仁義道徳を以てどうの、王道を以てどうのと云ふことを言ひ得る資格の存する政治家がありますか、あつても甚だ僅少であらうと思ふ、其中で我が阪谷男爵閣下の如きは政治家として仁義道徳を以てと云ふことを御講釈なすつても、政治は王道で以て為すべきものであると仰しやつても、決して恥かしからぬ方であらうと思ひます、此の如き高潔なる人格の存する事は、殊に今の政治界に於て最も貴しとせねばならぬ所であらうと思ひます、故に私は此席で之を一言申上げねばならぬと思ふのであります。
我が青淵先生が吾々後進に向つて言はるゝ此論は、政治に就てならば新らしくないか知りませぬが、実業を為すに王道を以て為せの、仁義道徳を以て商を為せのと云ふことは従来余り聞かない、実業は利益である、利益さへあれば宜いぢやないか、それで国が自然と富むではないか、利益を営む実業に道徳も仁義もありはしないと云ふ論は、今でも沢山あらうと思ふが、青淵先生と同じ論を為して居る人が果して高るか無いか、欧羅巴でも英吉利のロバート・ヲーウエンなどは寛仁有潔の偉人にして、実業をやるに主義を立てた人でありましたが、旨くいかなくて成功をしなかつたのであります、独のカール・マークス是亦純正なる高徳にして、十九世紀後半の思想家として世界の人を驚かすところの議論を唱へた人でありましたが、之を事業の人と云ふことは無理であらうと思ひます、又ジエンニー・ラサールなどは快活熱誠なる天才でありましたが、豎子惜むべし我が高杉晋作の如く三文の値打も無いやうに世の中を見棄てゝ早く亡くなつてしまつた、此人が生きて居つたならば必ずや何か事業を起す人であつたらうと思ひます、其他実業経営の上に新主義を有する有力家にフエルヂナンド・アウグスト・ベーベルと云ふ人が生きて居りますから、我が阪谷男爵閣下が御会ひなさらうと思へば御会なさることが出来るだらうと思ひますが
 - 第26巻 p.427 -ページ画像 
王道を以て実業に従事すると云ふ主義を唱へる人はマアあるまいと思ひます、而して王道を以て実業に従事すると云ふことは、今の所謂国境を亡ぼし国家を破壊すると云ふ主義とは無論全く違つては居りますが、之等の事は吾々不肖ながら此後益々研究して、我が青淵先生の主義の旗色を明かにして社会に呼号したいと思ふ念慮は十分持つて居ります、殊に此頃深く其事を思うて居るのであります、是迄竜門社とは御関係の厚い我が阪谷男爵閣下が、今度彼方に御出でになりましたならば、青淵先生の主義と云ふものを西洋の大家が何と考へるであらうか、今の西洋の社会の有様、又新らしい主義論説と如何なる交渉を持つか、此事を何処か御心の隅の方に置かれて、其感想を御土産の中に加へて戴きたいと思ふのであります、或は政治・国家と云ふことになりますと戦争とか平和とか云ふことがありますけれども、実業と云ふものは平和の戦争である、休戦の無いものである、何時が戦と云ふことも無く、何時が休戦と云ふことも無い、もう実業と云ふものは世の有らん限り人生の有らん限りは競うて行かねばならぬものである、さすれば実業を営むと云ふことは、自ら国境を定め国家を画立してやつて居る政治論とは異る所がありはしないか、若しさうであれば、其実業と云ふものを王道を以て営むと云ふことは、或は世界の実業を風靡するに最も良い主義ではありはせぬかなどと云ふことを思はぬでもないのであります、此点を我が阪谷男爵閣下の御心に御懸け下さるやうに御願申したいと思ふのであります、尚伺ひますれば六箇月やそこらの御旅行と云ふことで、短かい間で嘸御忙がしうございませうが、端書でも宜うございますから、竜門社に宛て閣下の御消息を御通信を願ひたいと思ひます、極短信にても願ひ上げます、二十五年も欠勤無しに御勤めになるやうな、御壮健な阪谷男爵閣下でゐらつしやいますから、御丈夫は勿論御丈夫でありますけれども、御旅行の哩数も余程長うございまするし風土も違ひますから、彼此れ十分自ら重んじ自ら愛せられて「吾奴不識錦嚢重、裏得青山暮色帰」と云ふやうに錦の嚢に沢山御土産を入れて御帰りなることを、吾々今から御待ち申して居ります、長い間諸君の清聴を汚しましたことを感謝致します。(拍手)