デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
3款 日本弘道会
■綱文

第26巻 p.493-499(DK260078k) ページ画像

明治41年10月30日(1908年)

是日、四谷第二小学校ニ於テ当会勅語捧読会挙行セラレ、栄一、当会会長伯爵徳川達孝ノ懇請ヲ容レ出席演説ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四一年(DK260078k-0001)
第26巻 p.493 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年     (渋沢子爵家所蔵)
十月三十日
○上略 午後 ○中略 五時四ツ谷学校ニ抵リ、弘道会大会ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第二四六号・第七二頁 明治四一年一一月 ○日本弘道会勅語捧読会(DK260078k-0002)
第26巻 p.493 ページ画像

竜門雑誌  第二四六号・第七二頁 明治四一年一一月
○日本弘道会勅語捧読会 明治九年故西村茂樹氏に依りて設立せられたる日本弘道会にては、去る十月三十日四谷第二小学校に於て勅語捧読会を挙行せられたるが、青淵先生には同会長伯爵徳川達孝氏の懇請に依り之に臨席して一場の演説を為されたり


弘道 第二〇〇号・第四六頁 明治四一年一一月 勅語捧読会(DK260078k-0003)
第26巻 p.493 ページ画像

弘道  第二〇〇号・第四六頁 明治四一年一一月
○勅語捧読会 同 ○十月三十日午後五時、四ツ谷区左門町四ツ谷第二尋常小学校に於て、本会及び四ツ谷部会連合して開会、理事平塚睢鳩君「開会の辞」、会長徳川伯爵恭しく 勅語を捧読せられ、終て講演会を開く、男爵渋沢栄一君、評議員文学士三輪田元道君「日本善」と題し何れも有益なる講演あり、終りに信夫恕軒君の義士談ありて散会す、此日来会者三百有余名、頗る盛会なりき


弘道 第二〇四号・第四―六頁 明治四二年三月 道に就て(明治四一年一〇月三〇日於日本弘道会勅語捧読式)(男爵渋沢栄一)(DK260078k-0004)
第26巻 p.493-496 ページ画像

弘道  第二〇四号・第四―六頁 明治四二年三月
    道に就て(明治四一年一〇月三〇日於日本弘道会勅語捧読式) (男爵 渋沢栄一)
会長閣下、臨場の諸君、今夕の弘道会に就きまして、私に出て一言申
 - 第26巻 p.494 -ページ画像 
上げるやうにと云ふ、此の程会長から御命じでございました、私は弘道会の古く成立して居ることは、承知して居りましたけれども、まだ会員の御仲間入りも致さぬ位ゆへに、弘道会其の者が如何なるものであるかと云ふことも、詳かに致さぬ次第でありますが、会長閣下には永く御懇命を蒙つて居る身柄でございます、又弘道会の大意は略々聞知して甚だ欣慕に堪えぬ御主意と存じますので、出席の御受けを致しました、然るに両三日前から少々風を引きまして、殊に喉を痛めて甚だ発音が不自由でございます、旁々御免を蒙らうかと思ひましたけれども、即ち道に欠けるやうになつてはならぬ、此の弘道会に対して始めて御約束をして、直ぐ欠席するのは如何にも残念と考へましたので推して参上致しました、申上げる事は値ひがなくても勤めて出席しただけは、どうぞ満場の諸君に御諒察を乞ひたうございます。
私は商売人であります、からして、余りむづかしい事は申上げられぬのであります、又嫌ひでもあります、併し唯単純に商売人だからと申して、利益とか計算とか云ふことのみが、世の中に必要だと思つて居る種類の者ではない積りでございます、此の弘道会と云ふもの即ち道と云ふ文字に就ては、実は私は多少疑つて居つたのであります、単に道を弘めると云ふも其『道』と云ふは、古来、大分広く使はれて居る例へば大学には
 大学之道。在明明徳。在親民。在止於至善。
と云ふてある、又論語には
 道千乗之国。
とあつて、千乗之国を治むる道が説いてある、それから
 邦無道。富且貴焉。恥也。
此の道は政治に属するやうに見える、又孟子に王道覇道と云ふことを差別して、覇にも道があり、王にも道かあると云ふてある、それから唐の韓退之などは、原道と云ふ文章を著して
 博愛之謂仁。行而宜之。之謂義。由是而之焉。之謂道。足乎己無待於外。之謂徳。
と云ふて説き分けて居る、甚しいのは柔道と云ふて、武術に就ての道もある、故に道といふ字は如何にも広く行はれて居る
維新前に聖堂の儒者で安積艮斎と云ふ人が、艮斎閑話と云ふ書を著したが、其の書の中にも
 道は天下に充塞する、賢者は大なるを知り、不肖者は小なるを知る
と云ふてあつた、又荻生徂徠といふ人は
 道は士大夫以上に在りて農工商には無い
と言はれたと云ふことを聞いて居る、故に徂徠の説によれば、我々商売人などは殆んど道はないのである。併し荻生徂徠と云ふ人は、享保時分に在つて日本に名だたる儒者であつたと云ふことは、どなたも十分御承知である、其の儒者の道を説くのは私どもにははつきりしない嫌があるのみならず、漢学と云ふものは、私が学問の少ない身で批評するも甚だ悪るうございますけれども、殊更に朱子の学者連中の論ずる処は、兎角に道理を闡明にするを先として、事実を行ふを後にして居る、殊に其点は朱子に於て最も強く論究されて居るやうであります
 - 第26巻 p.495 -ページ画像 
故に漢学者は商売でもする、国家の利益を図ると云ふ事は、道徳とはまるで背馳するものゝ如くに解釈して、功名富貴と仁義道徳とは両立すべからざるものゝ如くに言ひなして居る。
斯う云ふ見解から此の『道』と云ふ字を解釈して見ますと、道は所謂王道とか、覇道と云ふので、政治上に於けるものゝみに必要であつて商売人、工業家若くは農業家抔は道など云ふ高尚な烏滸ケ間敷い事を言はぬでも宜い、狙徠の道者士大夫以上のものといふも其学説は朱子と異なるも其の誤りは同様であつて、若し果してさうであつたならば漢学の弊此に至つて極るといふべして、殆んど人と道とは全く背馳して仕舞ふやうになりはせぬかと、私はさう思ひますのであります。
故に此の弘道会に対して私の希望する処は、人によりては天道もありませう又は他の道もありませうが、詰り人道である、総て人の行ふべき道であると云ふやうに解釈しても宜からうと思ふて居ります、然るに今夕此の要領を拝承致しますと、故西村翁の書き置かれた箇条は幸に私の前に申しました『弘道』と云ふ『道』は如何なるものかと胸裏に於て研究した処と適当しましたので、私の誤解でなかつたと云ふことを深く喜びました次第であります、此に於て弘道会の主旨の、私が最初余り曲説を作つて、若し此の弘道と云ふものは政治上の考でもしてゐるのか、又は深蘊なる道義でも攻究するものであるならば或研究には効能があるか、又政治上の道と云ふものには利益があるかは知らぬが一般には格別利益がない、悪くしたならば世間に害を生ぜぬとも限らぬと云ふ位に思ひましたが、今自分が理会するが如く西村翁の遺書が今日の弘道会の要領に相成つて居ると伺ひますれば、誠に安心して宜しきを得た御主義と深く御同意を致します次第でございます。
そこで今の学問と事業とが兎角に引離れ易いと云ふことは、私は漢学者ばかりの論ではないと思ふ、西洋の学問は、皆実学になつて居りますけれども、学理と実際と両方密着して居る国は甚だ乏しい、況んや漢学に於ては前に申す如き弊害がある、是は学者が言ふたなら、私が思ふ程でない、それは渋沢が書物に暗いから左様に杞憂を懐くのであると云ふ御説があるかも知れませぬが、自身の考へではどうもさうでない、漢学は、学問と事業とは全く別物の如くに解釈をされて居つたと云つて宜しい、況んや此の学問が国を治め天下を平らかにすると云ふには、稍々関係したこともあるけれども、国を富ますと云ふ方には学問は無かつたと云ふ有様である、故に学問をすれば国家は富まない国を富ませば学問は出来ないことになる、即ち
 為仁則不富。富則不仁。
と云ふ風に今日でも学理と実際を引離した弊害が頗る多い、此の弊害は縦令欧羅巴の実学が十分に注入された現今でも、尚ほ無いとは申されませぬからして、学問と云ふて、道を講じ、道を弘める間に其の道徳は何処までも利益と云ふものを取失はぬ道徳ならざれば、道徳は枯燥して仕舞ふ、道徳が国家の富裕を図るものであると云ふことは、道を弘める間に於て十分御心掛けが必要である、富と云ふ言葉は、賤しい金銭と云ふものは甚だ快くないものだと云ふことは、或場合には随分さう思はねばならぬ点もございます。
 - 第26巻 p.496 -ページ画像 
 富与貴是人之所欲也。不以其道得之不処也。
と云ふ孔子の教は尤も千万で、私共も服膺して居る、其道を以てしたならば一向差支ないと云ふことを、孔子も許して居る、若し国家が貧弱で―弱は違ひますけれども、国家が貧にして且つ強いと云ふことは言へないと思ふ、必ず貧には弱が附いて居る、富には強が附いて居ると云ふのは、争ふべからざる事実である。
果して然らば国家は総ての物質が進んでも、富が増さなければ、文明も隆盛も進まぬものである、すると、若し今の利益と云ふものを余所にして、さうして国家が富むと云ふことが出来るか、是は決して出来ない道理である、然らば道を弘めると云ふのは、即ち国を富ますと云ふ事が、最も重なる主義でなければならぬのである、蓋し西村翁の書置かれた遺書中にも節倹を守れとか、国益を図れとか、国家の経済を強く考へねばならぬと云ふことが重なる箇条になつて居る、是は西村翁は朱子学を修めて居つたかどうであつたか知らぬが、西村翁に地下に尋ねる訳に行きませぬが、恐らく維新前に於て西村翁がさう云ふ論法を開かれたかと思ふ、支那の学問は多く是と背馳したものゝやうに思ひます。(未完)


弘道 第二〇五号・第三―六頁 明治四二年四月 道に就て(続)(男爵渋沢栄一)(DK260078k-0005)
第26巻 p.496-499 ページ画像

弘道  第二〇五号・第三―六頁 明治四二年四月
    道に就て(続)(男爵 渋沢栄一)
斯様に申すと、私は弘道会で、唯「道」と云つて、徳義にのみ拘泥して、利益を失つてはいかぬと云ふ、反対意見を申上げるやうになりますが、更にモウ一歩進んで私が申上げることは、如何にも利益に関係する事業であるから、此の事業上に於ける道徳が肝要であると云ふ事を、思案をせねばならぬ訳である、然るに今日のやうに進んで参りますと、前に申上げる漢学などは、殆んど地を掃らうが如くに廃たれて唯物質的発達、政治の向上、実学の進歩是等は甚だ宜しい事ではあるが、併し総ての事は、皆工夫によつて進むもので、道徳に近い事を重なる学科として輸入されたものは甚だ少い、勿論国の富を図るには物質的進歩が頗る肝要でございますから、蒸気船もなければならぬし、鉄道も造らねばならぬ、銀行も、会社も、工場も造らねばならぬ、併ながらさう云ふものに就ては、唯単に其の者ばかりが進んで行くものでございませぬ、それに対して相当の心理学問もなければならず、其連絡も取らねばならず、随つて之を拵へて行く方針がなければならぬ四十年の今日に於て、其進歩は稍々見るべきものがあると申し得られるやうになりましたけれどもが、それと反対に今の心神に属する学問の進歩は如何であるかと云ふと、恰も前に朱子学派の人が賤むが如き有様で、唯利是れ馳るで、金の多い者が一番世の中の成功者だと云ふやうになつて来る、此に至つて、前に弘道会に対して利益を除いてはいけませぬと申上げると同時に、利益の為に道理を忘るゝ様に成り行きはせぬかと、反対に深く憂ふるのであります。或る雑誌、其の他の新聞などで見ましても、近頃のあらゆる言葉に「成功」と云ふ事がある、何事かと云へば、金を儲けた事が成功だ、富を増す事が成功である、失敗と云ふのは貧弱に陥つたり、財産を失つたと云ふ事でありま
 - 第26巻 p.497 -ページ画像 
す、失敗の中には、随分天災もございませうけれども、併し成功と失敗とは、さう簡単に判断すべきものでなからうと、私は始終思つて居る、失敗者の例は採れませぬけれども私は常にさう信じて居ります、少し政治家理窟になりますが、元弘建武の頃の、足利尊氏と、楠正成と何れを成功者と云ひ、何れを失敗者と云ふか、若し前の論法で言ふならば、尊氏は成功者で、正成は失敗者である、果して正成が失敗者であるならば、正成を戴く人は大馬鹿である、尊氏さへ戴けば宜い、金を儲けた人が成功者で、金を失つた者が失敗者であるならば、馬券を買つても富めば宜い、相場をしても宜い、盗賊をしても宜い、唯金を儲ければ宜いと云ふ極端になつて来る、故に事業其の者の国家に対して如何であるか、どれ程の効能があつたかと云ふ事を以て、始めて成功を論ずべきものではなからうか、今日の如く利益を競ふて、富裕に馳ると云ふと、前申上げるやうな注意は、自然と踈くなつて、富を得る者が成功者で、貧しい、苦しい者が、失敗者なるが、全くさう言へぬ事が沢山あります、それ故に漢学者は富は困つたものである、富むからあの通り徳義と背馳するのであると云ふので、利害と道徳とは両立せぬやうになるのみならず、孔孟時分にもさう云ふ弊害が有りでもしましたか、それ故に漢学は頻に功名富貴と道徳とを同視せぬやうに論じたのでないかと、斯う思ひますのでございます。
斯様に考へますと、弘道会の如きものが、どうだ公利と云ふものを貴んで、弘道の為の公利を図る、さうでなければ、弘道会が悪るくすると、今私の申した如く、朱子学の弊を生ずるやうになつて来る、さうはなつて戴きたくない、併し此の弘道会に依つて大に人の心を正理に導き、道義に拠つて苟くも曲つた事は致さぬ、即ち人道を履むと云ふものにして、而して己れの富、人の富、世の益、我れの益を図り、道理の正しきものは、総て進めて行くと云ふ様になつたならば、今の物質的に馳る世の中の弊害をも、此の弘道会の力に依つて十分矯正し得るであらうかと、頗る翹望に堪へぬのでございます。
過去りました話ですけれども、私は或る外国人の質問に対して、答弁した時に深く脳裡を刺激した話がありますで、其の事を玆に申添へて丁度此の弘道会が追々に進んで参りましたならば、私の従来の杞憂をして、唯杞憂に終らせるであらうかと存じますから、其の古い談話を申述べて見やうと思ふのであります。
明治二十年頃でもありましたか、独逸の人が私の宅に参つた、左まで立派な人格のある人、又博く学識あると云ふ程の人でもなかつたやうですが、其人は何か事業の為に亜米利加に参つて居つて、亜米利加で私の世話をして居る男と懇意になつて其男が亜米利加から帰ると云ふ時に、同伴して日本に廻つたと申して、私に会見を求めて来た、私は其独逸人と二三度面会しまして、面白い人のやうでありますから、一日昼飯に招いて共に食事をして、色々談話をした事があります、まだそれ程の年寄でもなく、又学者でもありませぬ、併し独逸人でありますから、一通り政治、文学、其他哲理も心得て居るやうでありましたが、其人が日本の維新の時の有様を論じて言ふには、殆んど七百年も続いた、武家天下が俄に滅びて、王政に変更した、其の変更の為に戦
 - 第26巻 p.498 -ページ画像 
争が甚だ少なくて、血を流し人を殺すと云ふことが、殆んど無いと云つてよい位に直ぐ一変して、俄に物質的の進歩に汲々として努力すると云ふことは、どうも外国人には合点が往かない、元来日本人は感情に馳り易い性質と聞いてゐる、若し感情に行き馳るならば、所謂維新からして数年の間は、諸方に戦争が起るとか、各藩は各地に割拠して兵乱は久しくあるべきことゝ思ふのにさう云ふ事はなくして無事に済んだ、其跡は一変して直ぐに開国論になつた、実に日本の帝室は万歳だ、どうも斯様に無事な政変と云ふ事は、何処の国にも無い、是は如何なる理由かと云ふて、私に尋ねたのであります、其問に私は答へて欧羅巴の風習から推考せられたらさう云ふ疑ひが生ずるかも知れぬけれども、日本は源平と云ふ頃から、武臣が国家の政治を執行した、それが伝つて足利に、織田に、豊臣に、徳川と、斯う云ふやうに、継続した年代で云ふと、七百年も過ぎて居るけれども、併し帝室が国家の総元首であると云ふことは誰も能く呑込んで居つた、殊に徳川の末代の将軍は政権を返上すると云つて、皇室に返したのであるから一向差支ない、それは外国の如き万世一系の元首の無い国では分らないのである、それ丈は日本人にして始めて解釈が出来るので、外国人には細かい処は分らぬ、会得は行かないかも知れぬが、それが日本の日本たる処だと答へるより外はない、元来徳川氏の倒れたと云ふものは、外交の関係が重なるものである、重もなんであるけれども、徳川氏の外交は、詰り開国であつた、処が之を倒した方の主義は鎖国であつた、鎖国たる各藩が開国であつて、開国たる幕府が寧ろ鎖国であつたかも知れぬ、若し強い心を持て開いたならば血が出るかも知れぬが、弱い心を持つて開いたのであります、強い心を持つて鎖国した人は、終に変つて真正の開国にした人であるから、跡では総元首を戴いて変化して宜いぢやないか、だから別に御疑ひなさることはなからうと思ふと答へた、すると彼の言ふには、一通り分つたが、併ながら世の中が左様に変れば今迄君主と思つたのが、同輩になり、累代の主家が何でもなくなると云ふ如く、俄かの政変が格別の騒動なく行はれて行くと云ふことはどうしても人の心を平生修養して居つて、匆創の場合にも是非曲直を正しく判断するものがなければ出来ぬのである、其の教育と云ふものを、日本では何を以て今まで涵養して居られたか、其の点に就て聴いて見たいと、斯う云ふ問があつたのであります、私は教育家でないから明答は出来ませぬけれども、元来日本の昔の教育法は何であつたかと云ふことは、細かい穿鑿はしないが、徳川氏三百年は上流の人の教育は漢学であつた、しかも朱子学であつて、君に忠に親に孝に朋友に信に、夫婦相和しと云ふやうな五倫五常が最も守るべき道として来た、併し是は数で言ふと甚た少数の人員である、一般の人民はどう云ふ教旨に依つたかと云ふと、先づ仏教と云はぬければならぬ、此の仏教は外国伝来のものであるが古来より我国に広く行はれたものである、独り終身上《(修)》のみならず、例へは演劇とか、若くは謡曲とか、講釈とか、義太夫とかいふやうな、総ての娯楽に属するものまで、多くは孝貞忠信義烈忠愛と云ふやうな事に、始終教へを採つて居つたのである、殊に勧善懲悪と云ふ仏教の大主意が、最も広く伝つて居つた
 - 第26巻 p.499 -ページ画像 
それは極く簡単に面白く教へると云ふ方法であつたのだ、故に上流社会をば儒道を以て人心を維持し、下流社会をば仏教の中に或娯楽を加へた一種の教旨に依つて人心を修養して居つたと申して宜からうと思ふ、それが今日大変化に遭つても余りさう聴くを厭ひ、視るを嫌ふと云ふ程の行為のない所以であつたらうと思ふ。
と云ふ答をした、此の第二問に対して私の答へた主意が彼も稍々了解したと云ふことでありましたが、更に彼が問を起した、貴説の如く左様であるとすれば、其の活動と云ふものが、日本の未来に段々拡張して儒教も仏教も進んで参りますが若し聞くが如く、儒教も次第に衰へ仏教も追々廃れて行くやうに承知して居りますが、一方には物質的の事物は頻に海外から輸入すると云ふことになりますれば、未来の人心は何れに帰するでありませうか、そこに至つての将来の御高説は如何であるかと云ふ、第三の問を受けました、是は大層憂ひます処であつて、如何にも貴説の如くで、或は将来の日本には別に大宗教でも起るか、どうぞ貴問に答へるやうな教法を作らぬならぬと、攻究しつゝある処であるけれども、未来如何に成行くであらうかと云ふことは、我我が玆に明答はし得られぬ、若し貴下の言ふ如くにもなくて《(脱アルカ)》、唯公利公利《(功)》と、利益のみに趨りて行つたならば、人心の維持は如何であるかと云ふ虞れは、決して無いとは申されますまい、自分もそれを虞れて居ると、斯う云ふ答へをしたことがあります。是は丁度二十年ばかり前の外国人との談話であつたが、爾来は必ず道徳を重んじて、公利を嫌はぬ一つの宗教が是非成立つやうに致したいと云ふことを深く希望致して居るのであります、若し道徳と云ふ方にのみ帰着すると云ふと富と云ふものは不必要のものに思ふて来る、又富と云ふ方にのみになつて来ますと、道徳はそれ程大事のものでなくなる、人の物を横奪しても富さへすれば、宜いと云ふことになる。
 飯疏食飲水。曲肱而枕之。楽亦在其中矣。不義而富且貴。於我如浮雲。
と論語に書いてありますが、飯疏食飲水。曲肱而枕之。楽亦在其中矣と云ふと、朝鮮人と何ぞ撰ばぬやうになる、道徳と云ふことを重んずると云ふは宜いが、道徳と富貴とは、引離すべきものだと言ふのは、大問題である、併しながら功名富貴だけがあるならば、道徳は棄てゝ宜いかと云ふと尚ほ其の害が甚しい、故にどうしても此の二つは離るべからざるものとして、進んで行かなければならぬのである、独逸人の私に対して我が邦の将来を尋ねたのは、誠に頂門の一針で、今でも記憶して居りますが、必ず是から先きに進んで行けば行く程、物質的の進歩と倶に道徳が進歩するやうにしたい、又道徳の進歩と倶に富を増すやうに致したい、富と道徳とが引離れて
 為仁則不富。富則不仁。
といふは、大間違だと云ふことを、此の弘道会に向つて、特に申上げて置くのであります、私の道に対する解釈と又弘道会の将来に期待する事も、上段に申述べた通りでございますから、どうぞ会員諸君に於ても御研究の上、尚此道を拡張なされる様希望致します。(完)