デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
3款 高等商業学校
■綱文

第26巻 p.602-613(DK260098k) ページ画像

明治31年6月(1898年)

是月当校生徒、新校長清水彦五郎ノ就任ヲ懌バズ排斥運動ヲ為ス。栄一、同窓会ノ懇請ニ因リ前校長小山健三ト共ニ斡旋、静穏ニ帰セシム。


■資料

竜門雑誌 第一二一号・第四―八頁 明治三一年六月 ○高等商業学校紛議の顛末(島田三郎君)(DK260098k-0001)
第26巻 p.603-605 ページ画像

竜門雑誌  第一二一号・第四―八頁 明治三一年六月
    ○高等商業学校紛議の顛末 (島田三郎君)
 小山氏の高等商業学校長時代の言動に就ては今多く云ふを要ひず、商業大学、勅任校長は数百の学生が夙夜念頭を去らざる所、これ氏か校長として学生を督励し、学生の頭脳に深刻したるの言なれはなり、然るに一朝文部次官に陞進するや、学生は突如として大学の一書記官を校長として戴かしめられたり、学生の憤懣は其所なり、新校長排斥運動は幾多の同情を惹けり、其顛末に就て沼南島田三郎氏自ら筆を執て記述せられたる所頗る事情に精通し、殆んと漏す所なし、依て本誌に採録し、吾人の不文を以て読者を累することを敢てせざるを得たるは、深く光栄とする所なり
                          記者識
校長小山健三氏が文部次官に転任せし後は、教授神田乃武氏が校長心得として一時を維きたり、氏は英文学に長じ英語に熟せる良教授なるも、校長として校務を管するは其器に非ず、特に商業学校は学理・実務を調和して卒業後直ちに実業を執るの人物を養成する場所なれば、自ら他の諸校と趣を異にして校長の撰も頗る意を此点に注がざる可からず、良教授必ずしも良校長ならずとの評ありしかど、神田氏は仮摂の事と云ひ、多年教授たりし間柄と云ひ、師弟の情誼あるを以て校中に風波起らざりしに、頃日清水彦五郎氏が突然大学書記官より一転して校長たるに至り、校中に不服の気満ちて、多年生長せる商業教育に一頓挫を来さんとする形勢あるこそ痛ましけれ、原来商業を社会の下層に置ける故態を一変して、世界の商界に駆馳せんことは容易の事業に非ずして、其成否は国際の関係、国力の盛衰にも影響あることなれば、大に教育の基礎を立てゝ学理・実利兼ね収めざる可からずとの主義により、国家が特に此教育を奨励するなるに、何故か一種の旧思潮が社会に横流し、商業教育を他の教育より卑視するの風ありて、唯無識社会の間のみならず、文教の枢機を執る者も亦此旧想を脱せざるコソ奇怪なれ、工業・商業の学は卑く、哲理・詩文の学は高きが如くに感じ、有形を卑み無形を尊む、東洋の旧風未だ教育界を去らずして、実業教育を卑視するは今尚ほ然り、但工業は曾て工部大学なる者移り入りて工科大学となり、農林校も亦農科を以て大学に組入れらる、国家民人の必需利益より観れば農工商の間豈軽重あらんや、而かも商業の国際的性質あるは開国の一大機能として其程度を引上げ目下国家の急要に供すべき必要あり、又教育は商業に縁故無しと思ひし従来の陋見を一掃せんとせば、商業教育を重視するの方針を取ること今日の急務なるに、当局は意を此に用ゐずして商業教育を冷遇し、工業教育と同視せざるの傾向あるは斯学の為めに不幸なりといふへし、是れ高等商業学校が原来民立にして、工部大学が大学の名称を有して官立たりし者と履歴の異なるに由来するに過ずして、他に故あるに非るなり
商業教育主張者・商業学校教授及び同校出身者並に生徒は、常に此履歴と旧思想より来るの迷誤を破らんとするの志あり、加之時勢の進歩と必要は商業教育の程度を高むべしとの説を強め、前校長小山健三氏も其長たる間盛に此説を主張したれば、氏の入りて次官となるや、商
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業学校の人々は氏が其持論を提げて文部省に入り、之を内部に主張すべしと信じ、商業教育振起の機会之より発せんと大に望を氏に属したるに、意外にも大学の一書記たる清水氏の校長たるに至たれば、校員満腔の翼望は転じて絶大の失望となれり、是れ近日紛擾の原因なり
外山氏は多年大学に教授たり、其受持以外の事務に通ずる人に非ず、又終始大学の範囲内に身を置きたるの結果、大学系統以外の教育を軽視する傾あるは自然の偏情にして、今回の事亦其一端を事実に現はせしなり、抑大学に於ける清水氏の位置は極めて軽く、識見の人に過ぐるなく、又学問の素養なく、其人物は書生の取締を為し、ポート会の世話役となり、公職の暇に大学総長の家事を手伝ふが如き走り回りの使用に適すべきも、学校の品等を高め、社会をして自己与かる所の教育を重視せしめ、教員・書生をして心を寄せ、信を集むるの中心たるべき校長適任の人に非ずとは、大学中にも文部省中にも定評あり、まして多年商業教育を進め、学校の品等を高めんと熱心せる在校生は勿論、卒業生の組織せる同窓会員も亦、清水氏校長とし商業校を大学附属の寄宿舎然たらしむるは如何なる挙ぞと、囂然として不満の声を発するに至れり
清水氏の校長たらざる前に此任命の風聞ありければ、生徒は意外の感を懐き前校長小山氏を訪問して其実否を質したるに、氏は恐くは左ること無かるべしと答へたり、原来氏は商業教育の大切なることを生徒に教へ、商人の徳義信用を唱道して止まざりし人なり、此人にして文部の枢機に参し、校長任命の議に与からば、必ずや其持論を述べて自説を曲げざるべく、此人にして清水氏の任命なかんといへり、生徒は氏の此一言に信用を置き不安の念を絶ちたるに、何そ図らん数日の後現校長の任命あらんとは、是に於て校員の驚駭憤懣は一層の度を加へたり
商業学校は一種の経歴ある者にして、一方には文部に継児視せらるゝの不利あるも、一方には文部の吏員が徳義として擅私の行為を加ふ可からざるの位置を有す、原来此学校は故森有礼氏が、欧米諸国に商業の隆盛にして商人の気象卓絶なるは教育の素養あるによると為し、日本国内一も此教育を為す学校なきを嘆じて自ら之を創始し、未だ緒に就かざるに外交官として身海外に赴くに至る余儀無き場合となりければ、屡りに此局に当るべき適任の人を索めて遂に矢野次郎氏に托するに至りぬ、矢野氏は一身の利益より打算せば他の朋友と共に商事するに知かずと思ひしも、商業教育の社会に必要なると、森氏等諸氏の依托固辞すべからずと為し、決心して商業講習所長を引受けたり、其後此学校は一変して東京府立となり、再変して商業会議所の補助学校となり、三変して農商務省の管轄に入り、森氏文相たるに及び時勢の進歩に応ずるの断行を為して文部直轄の現状となれり、此変遷あり此経歴ありし為めに、其所有財産中には官内省下附金を初め、東京市内の有志及び商工会社の寄附金もありて、現に学校の収入となり居れり、又商業講習所の初めより今日の高等商業学校に成長する迄、終始金と力とを出し今尚ほ力を添へつゝあるは、商業会議所会頭渋沢栄一氏にして、小山校長の時代其功労記念の為めに氏の肖像を校内に掲げたる
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は此経歴あるによるなり、左れば現に学校商議員としては渋沢栄一・益田孝・近藤廉平・小野義真・園田孝吉・荘田平五郎・阿部泰蔵等の諸氏あり、商議員設置の理由は之によりて、教育の実用に適せんを望み、之れによりて、卒業生を商界に紹介するの道を開かんとするに在り、而かも又是れによりて従来の経歴自ら一種特異の関係あるを窺ふべし、故に従来の文相は努めて旧誼を存し、学校の要務・大事は之を商議員に計議諮問するを例とせり、是れ学校の利益なるのみならず、教員・生徒をして憑依する所あらしめんが為めなりしに、今回清水氏の任命は間接にも商議員の耳に入りたることなく、其任命の後清水とはドンナ人でドコから来た人ぞと言はしめたる程にて、学校の利害に関する校長の任命に於て一応の内議も無かりしは前例無き所なりと、商議員中頗る不満の意を洩らす者あり
以上の原因より新校長任命以来兎角校内穏ならず、教授も其職を執るを楽ます、生徒も其業に就くに安ぜず、同窓会員も商議員も異口同音に不当の処置を鳴らして止まざるなり、但し文相は我職権なれば我勝手なりとする乎、外山正一氏が斯る職権呼ばはりを為す俗吏的人物とは意外の事共なり、又小山健三氏が校長として商業教育を高めんと主張しながら、其転任の後は持論を述べて外山氏を警発せず、位置変ずれば議論変ずるの態度を取るとせば、是亦以ての外の次第なるべし、外山氏若し行き懸りを固執して、其器に非ずとの定評ある清水氏を校長に据へ置き、職権を担ぎ出して一切の異議を圧することあらば、校内の平和を保つこと恐くは難からん、一時之を保つと仮定するも、商議員は見込なき校議に参するの寓公に甘ぜざるべくして、結局辞任することとならん、商議員辞任せば商業社会の望を維ぐに足らずして、之が為めに生徒出身の途を杜ぎ、教育と実業の連絡を絶ちて、結局学校の衰運を招かんには、折角に成長し来れる商業教育の為めに深く惜むべし、此際外山氏が勇気を皷して平素の洒落に立帰り、断然行懸りを棄てゝ校内の平和、校運の隆盛に重きを置くの措置に出でんこと尤望ましき所なり
果然悦ぶべきの報告に接せり、曰く商議員渋沢氏は此間に周旋し、氏と次官小山氏とが暫く此案件を預りて調停を為すの協議となり、或時限の間に文部省も允当の処置を為すべしと、此事外に聞へたれば固より教育発達の公心より出でゝ、敢て私意を逞くし事を好まざる同窓会員・教員・生徒は暫く長者の意見に任せて、頃来の運動を止め、其結果を待つことに決せしといふ、双方共に行懸りを棄てゝ円満の終局に至らば、商業学校の為めに尤悦ばしき次第なり


新聞集成明治編年史 同編纂会編 第一〇巻・第二四九頁 昭和一一年二月刊(DK260098k-0002)
第26巻 p.605-606 ページ画像

新聞集成明治編年史 同編纂会編  第一〇巻・第二四九頁 昭和一一年二月刊
    高等商業学校紛議
〔六・一四 ○明治三一年東京日日〕 高等商業学校にては、学校長小山健三氏が過般文部次官に栄転したるに付、教授神田乃武氏校長心得を命ぜられ、至極平穏に教務を進行しつゝありしが、此程東京帝国大学書記官清水彦五郎氏新たに同校長に任ぜられたるより、同校教授中にも生徒と其感を同うするものもある由なるが、再昨朝に至り同窓会員の多数
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は上野精養軒に集合し、排斥運動の方法を協議し、委員を択んで同校評議員及有力なる実業家を訪問して、其目的を貫徹することに決したりと。而して校長排斥の理由は、新任者の人物小にして、学識・経歴共に本邦唯一の高等商業学校長たるに適せずと云ふにあるよし。右に付同校商議員渋沢栄一氏は昨日文部省に至り、善後策に就て陳述する所ありたりと云えば、遠からず落着を告ぐるならんといふ。


東京高等商業学校同窓会会誌 第三号 明治三一年一〇月刊 校長問題の顛末(DK260098k-0003)
第26巻 p.606-612 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第三号 明治三一年一〇月刊
    ○校長問題の顛末
一時世の論議に上りて囂々たりし我高等商業学校長問題は、其当時学生が沈着穏当の態度を保持したると、我同窓会常議員及有志者諸氏が親切に奔走尽力せられたるとに因り、幸に退校処分の惨状を見るに至らずして、校長の交迭と共に一先つ静穏に帰したるは、本校の為め諸君と共に欣喜措く能はざる所なり
此問題に関し、我同窓会は如何なる処置を為したるか、其顛末の概要は左に掲くる臨時常議員会、及臨時総会の記事に就きて承知せられたし、但特に玆に記載すべきは常議員諸氏の厚誼なり、諸氏は概ね繁劇なる職務に従事せられ、日夜寸分の余暇なき身を以て、凡そ二週日の間七回の多きに達する集会に列し、深更に達するまで熱心に討議を凝らし、且つ大臣・次官・校長・商議員等を訪問せられたる諸氏の如きは、或は早朝に、或は深更に、又或は執務時間中に、東奔西走、能く本校の為めに身神の労苦を吝まれざりしは、記者が会員及会友一同に代りて深く感謝する所なり
      △臨時常議員会 第一回(六月十日)
右紛議の生するや、幹事は其三日目即六月九日に至り、事態捨置くべからざるを観察し、翌十日を以て臨時常議員会を招集することに決し夜に入て其通知書を発送せり、斯く急卒なる招集なりしにも係らず、熱心なる常議員諸氏は同日午後七時より続々本会々室に参集せられ、種々討議の末、小山次官・清水校長及渋沢商議員等の訪問員を定め、午後十一時過に至りて退散せり、当日の出席者は原・関・田中・祖山・成瀬・隈本・矢野・山本・丸岡・水島・下野・菅川の諸氏及村瀬春雄氏にして、次官・校長の訪問員は隈本・丸岡・下野の三氏、商議員訪問員は成瀬・水島の両氏にて担当せられたり
      △同 第二回(六月十三日)
此日各訪問員は、各々訪問の結果を齎らして午後七時より会室に参集し、専ら将来の運動方に就きて協議し、更に又外山文部大臣・小山次官其他を訪問して意見を開陳することに決し、午後十二時過散会したり、出席者は原・大田黒・岸・各務・横田・祖山・成瀬・山本・八十島・丸岡・宮川・下野・菅川・隈本・水島・関の十六氏と、外に村瀬氏にして、大臣・次官・校長の訪問は隈本・下野・丸岡・山本・菅川の五氏、商議員の訪問は成瀬・隈本・水島の三氏、学生の交渉は岸・山本の二氏に委嘱せり
      △同 第三回(六月十五日)
本日亦各当局者及商議員へ面陳の顛末を報告せんが為め、午後七時よ
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り会室に会合し、右報告の後更に又凝議数刻、翌日午前一時に至りて散会したり、此日出席者は丸岡・山本・隈本・祖山・田中・岸・原・菅川・関・下野・水島の諸氏及村瀬氏なりき
      △同 第四回(六月十六日)
例に依り午後七時より本会々室に開会、出席者は下野・原・山本・菅川・隈本・村瀬の諸氏にして、九時過に退散
      △同 第五回(六月十八日)
過日来引続きし諸方訪問の結果を報せんが為、例刻より会室に参会せり、此日出席者は隈本・丸岡・原・菅川・各務・大田黒・祖山・水島等の諸氏にして、弥々来廿四日を以て臨時総会を催して、本件の成行を会員に報告することに決議し、十時頃散会したり
      △同 第六回(六月廿三日)
明廿四日の臨時総会に関する準備打合の為め会合、午後十一時過退散
      △同 第七回(六月廿四日〉
臨時総会の当日、上野精養軒に於て暫時開会、直ちに総会に移れり
      △臨時総会
臨時総会は六月二十四日を以て上野精養軒に於て開かれたり、当日参会せられしは左の諸氏にして都合七十七名なりき
  三宅亀三郎 ○外七十六名氏名略
午後六時一同着卓、先づ晩餐を喫し、終りて会議に移り、成瀬隆蔵氏多数の推薦に依りて会長席に就き、水島鉄也氏常議員総代として左の報告書を朗読せられたり
 我同窓会か常に其発達を希望する所の高等商業学校に於ては、過月来其新任校長に関し非常の紛擾を生し、我同窓会常議員も亦之に関係したることは、略々新聞紙上に於て諸君の知らるゝ所ならん、然るに新聞紙の報道中事実を誤れるものあるを以て、本日臨時総会を開き、玆に其顛末の大要を報する所以なり、常議員は本月十日幹事の招集に応じて同窓会々室に参集し、学校出身の教員より校内紛議の報に接したり、其概要左の如し
  本月七日清水彦五郎氏校長に任命の事校内に掲示せらるゝや、本科三年生一同は直に退散して某所に会同し、討議数刻に亘りたるの後、新校長を戴くを屑しとせず、眼前に迫れる卒業試験に欠席し、且一同退校の決意を以て運動に着手することとし、先づ委員を撰み、其運動を一任したり、玆に於て委員は第一着手として一方には学校出身の教員を訪問し、一方には専攻科本科一・二年及予科に交渉せり
  学生の主張する所は、新校長清水氏の経歴、多年大学の舎監を奉し、奔走周旋に長すると云ふの外、学識材幹の卓越せるを聞かず且同氏従来の位置・徳望は我高等商業学校の校長たるに適せざるを以て、其任命は学校の品位を墜落し、其進運を沮害するものにして、当局者今回の処置は商業教育を軽視したるものなりと謂ふに在り
  顧ふに小山健三氏が校長たりし時に当りては、頻りに商業学校の程度を高むべしとの説を主張せり、而して氏が栄進して文部次官
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となるや、学生は斯学振興の機運至れり、学校の地位は之より大に高めらるべしとの望を氏に属したるを以て、曩に此任命の風聞ありたる時、学生中某々等は氏を訪ひて其実否を質したるに、氏は某等をして此任命無かるべし、と信ぜしむべき返答を与へたるは、徳義上不都合なりとの憤怨は、学生激昂の度に一層の劇烈を加へたるものゝ如し
  学校出身の教員は三年生の委員より此報告を得るや、事態頗る切迫し、且其主張する所敢て理由なきに非さるを以て、速に之に処するの策を施さずんば、終に同盟休校又は退校となり、為めに学生の方向を誤らしめ、且つ学校の体面をも傷くるに至らんことを憂慮し、一方には学生に対し不穏の挙動を戒め又一方には大臣・次官及校長に面して学生激昂の状況を縷述し、事を未然に防くの処置に付、迅速の考慮を請ふ所ありたり、然るに大臣・次官は清水氏を以て適任と認定し、学生の言ふ所は不条理として顧みず、清水氏亦学生の鎮撫には毫も施す所あるを見す、此間三日にして全校の学生々徒は各々同級会を開きて三年生と同一の決議をなし且各委員を撰み、各級の委員は更に委員会を組織し、将に大に為す所あらんとするに至れり、事情斯の如くなるを以て、若し此儘に放任せば、学生は業を抛て運動に着手し、終に退校処分を受くるの惨状に陥るやも計り難き景況に瀕せり、云々
 常議員は此報告に接するや、先づ第一に同窓会が本件に関係すべきや否やに就きて協議したるに、其方法如何に依ては臨時総会を開くを要せざるのみならず、事情切迫し、総会を開くの余裕なく、且此際総会を招集する時は、却て本件の気焔を高め、之を世間に発表するの恐なしとせず、而して今や学生の現状は将に自ら運動に着手せんとするに際し、若し一日を遅るれば、忽ち破裂の惨状を演すべきが故に、之を傍観するは親切の所為に非ざるを以て、応急の方法として我々は同窓会常議員の名を以て出来得る丈けの尽力をなさんが為めに、先つ委員を撰みて、一方には学生に忠告し、一方には当局者及商議員に事情を開陳する事とし、而して委員の執るべき方針は学生に向ては、不穏の挙動を止めて専心に修学に従事すべきを以てし、清水氏に向つては其熟慮を促し、大臣・次官及商議員に向ひては事態捨て置き難き状況を縷述し、且つ速に処決する所なくんば校内の平和を維持するの見込なきを以て、臨機の方策として臨時校長を設け、他日地位を高め、以て適当の人物を求められんことを希望するの意を陳述することに決せり
 玆に於て各委員は此意を体し、校長・次官に面会すること再三、大臣に面会すること一回、渋沢氏に会すること二回、其他商議員にも亦諮る所あり、今各委員応接の要領を述べんに、学生は曰く、今回の事固より好んで粗暴の挙を為すの意あるに非ざれば、本日より運動を中止すべし、然れども試験切迫の今日、久しく之を黙過するに忍びざるを以て、日数五日を限り何分の報告を得たし、其上にて自ら処する所あるべしと、清水氏は曰く、他日或は自ら辞職することあるべしと雖も、目下の処其意に任せずと、渋沢氏に於ては委細委
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員の意を了し、其後自ら大臣・次官を訪ふて面話の上諮らるゝ所ありたり、又大臣・次官は此任命を以て適当と認むるが故に、暫く時日を仮して以て実際の技倆を検すべしとの言ありしも、種々談話の末、終に渋沢・小山の両氏に本件の調停を委托することとなり、小山氏は責任を以て之に当り、渋沢氏は商議員として之に与かることとなれり、而して委員が此調停を托したるの意は、某新聞紙の報ずるが如く、二・三ケ月間本人の技倆を見ると云ふに非ず、此両氏は学生の意志の有る所を知り、我々の精神を十分に諒せられ「本件を預かる」と云ふに在りて、此主旨に依りて措置せらるべきを信じたるが為なり、故に其概要を学生の委員に通じ、両氏の調停に委任するの穏当なるべきを勧告したるに、学生亦此意を以て暫く運動を中止して其結果を待つこととなれり、是れ本会常議員が今日に至るまで本件に関係したる顛末の概要なり
右報告了るや、倉西松次郎・矢田長之助・土肥修策・秋山行蔵・菅川清・大山卯次郎・永富雄吉・岡崎久次郎等諸氏の剴切痛快なる演述ありて、甲論乙駁、議論騒然たりしが、結局満場一致を以て常議員諸氏が今日迄に施せる臨機の処置を是認して感謝の意を表し、且つ新たに委員五名を撰挙し、同窓会の名義を以て尚ほ本件の為め尽力することに決し、直ちに右委員の撰挙を行ひしに、左の五氏当撰せられたり
 隈本栄一郎  村瀬春雄   岸吉松
 矢田長之助  岡崎久次郎
次で関一氏は村瀬春雄氏が近日社用を帯びて坂神地方に赴かるゝに付き、該地方の同窓者との打合せ方を本会より氏に委嘱せんことを発議されしに、是亦満場一致を以て可決し、村瀬氏亦速に之を快諾され、夫より大田黒氏提出の規則改正案を議し、終りて一同退散したるは十時を過ぐる頃なりき
      △臨時常議員会 第八回(七月六日)
常議員諸氏は去月廿四日の臨時総会に於て選挙せられたる委員諸氏と会合して、既往将来の運動方に関し懇議せんが為め、木挽町万安に於て集会を催されたり、此日出席者は隈本・井上・横田・成瀬・岸・丸岡・菅川・村瀬・祖山・柳谷・関・岡崎・水島の諸氏なりき
      △在坂神同窓者の決議
以上記する処は主として在京浜出身者に関す、然れとも今回の事件たる、独り一部の出身者を憂慮せしめたるに止まらず、広く全国に渉れる同窓者に同一の感情を与へたるは弁を俟たず、殊に在坂神出身者の如きは、為めに集会を催して大に議する処ありたりと云ふ、左に同地方よりの移牒全文を掲けて、右決議の概要を報ぜん
 拝啓、各位益御清康奉賀候、然は此度高等商業学校長更任に関し、在当地同出身者の委員として、某等は左に意見を開陳し、併せて同出身者集会の始末を御報告申上候
 当初某等発起人となり在坂神出身者八拾余名に通じ、一昨二十一日午後五時より大坂ホテルへ集会を求め候、当日出席者三拾二名、発起人より東京同窓会員よりの書状並に各新聞紙の掲載の記事等に就き報告し、皆熱心協議の上、十一名の発起人を其儘委員に選定し、
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午後十時散会致候
 扨右集会に於て左之通り決議致候
  一 今回新任の清水彦五郎氏は我国最高の商業教育を托する能はざるのみならず、教育及実業社会の輿望を繋ぐに足らず、故に我高等商業学校長としては全く不適任と信ず
  二 今回文部省が商議員へ一応の内議もなく如此人物を校長に選任したるは、我高等商業学校の威信を損し、商業教育を軽視し且商業社会の輿望に反したるの行為なりと信す、故に断じて清水氏の交任を希望す
  三 後任者に対する希望は、自ら其一身を我国商業教育の振興に委ね、商業社会の輿望を荷ひ、以て我国商業教育の最高機関たる高等商業学校の品位を高むるに足るべき人を得るにあり
 然るに当地にありては何分遠隔の事とて、直接十分の運動も致し兼ね候間、其方法手段に至りては総て貴会に御依頼申上候に付き、何卒当方の意志飽迄貫徹致候様御尽力被成下度、尤も当地に於ても不怠運動相勉め、遥かに声援可致候に付、貴地の摸様は時々報導に預り度不堪希望候 拝具
  明治三十一年六月二十三日
              在坂
                高等商業学校出身者惣代
                      森島修太郎
                      岩下清周
                      江口定条
                      岡野公蔵
                      太田正躬
                      林幾太郎
                      土屋豊吉
                      高橋真澄
                      豊田隆吉
                      木村勝
                      小平道三郎
   東京
    高等商業学校同窓会常議員 御中
  追而本書及別紙渋沢氏宛之書面写は、貴会員並に学生諸氏へ御示し被下度候
 拝啓、時下益御清栄に被為渉候段奉大賀候、然は生等は在坂高等商業学校出身者一同に代り、玆に一書拝呈の栄を担ひ申候、此度我高等商業学校長更任に関し、在京同窓者の望を御採用被下、格別之御配慮を賜り候段、在京同窓者よりの通知にて敬承、一同感謝罷在候在坂出身者は右更任に就ては憂慮措く能はず、一同集会致候処、何れも清水彦五郎氏は校長として不適任なりと相信申候間、一日も早く交迭あらん事を希望致候、而して後任者に対する希望は、自ら其一身を商業教育の振興に委ね、我商業社会の輿望を荷ひ、以て我国商業教育の最高機関なる高等商業学校の品位を高むるに適当なる人
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を得るに有之候間、何卒生等の微衷御洞察之上、素志貫徹致候様、御高配之程奉仰候、右在坂出身者一同の志望を開陳致し、併せて御配慮を奉願度如此御座候 敬具
  明治三十一年六月二十三日
              在坂
                高等商業学校出身者惣代
                      森島修太郎
                      岩下清周
                      江口定条
                      岡野公蔵
                      太田正躬
                      林幾太郎
                      土屋豊吉
                      高橋真澄
                      豊田隆吉
                      木村勝
                      小平道三郎
    渋沢栄一様
          侍史
○中略
 謹啓黄梅之候益御清穆奉恭賀候、然は唐突之至に候得共、爰に鄙書拝呈仕候間、御一読之栄を賜り度奉願候、此度我高等商業学校長更任之義に関し御高配を賜り候趣、在京同出身者より通知有之、拝承仕り、一同感謝之至りに不堪候、右に付在大坂出身者より意見相具し、将来之御配慮相願候通り、在神戸出身者も亦同一之意見に御座候へば、敢て多贅を不費候へ共、爰に在神者の最も切に希望罷在候は後任者選定に御座候、生等固より其人を可否するものに無之、其器之如何を慮り候義に御座候間、後任者其人を得ざれば苦心其甲斐無き次第に御座候、就ては右選定に付御賢慮相煩し度、特に奉懇願候、何卒生等之微意御洞察之上、希望相達し候様御高配之程偏に奉願候、右在神出身者に代り御願申上候 敬具
  明治三十一年六月二十九日
             在神戸高等商業学校出身者総代
                      坂野兼通
                      山田万里四郎
    渋沢栄一様
          侍史
      △校長の交迭
斯の如く一時非常に紛擾を極めたる校長問題も、遂に左の交迭に依りて玆に一先つ鎮静の姿に帰し、校務着々として進捗するに至れるは、我同窓会の斡旋与て大に力あることを信するなり
              高等商業学校長 清水彦五郎
 依願免本官(三十一年八月六日内閣)
            文部省実業教育局長 手島精一
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 高等商業学校長事務取扱ヲ命ス(同日文部省)
      △渋沢栄一氏の尽力
渋沢翁が多年商議員として、我校の為めに尽されたる功績の著大なるは普く世人の認識する所、然るに又右紛擾事件は図らずも大に翁の配慮を煩したり、抑々本件の起れるや、学生先づ翁に訴る所あり、当局者亦翁に諮る所あり、而して我同窓会常議員も亦先つ翁を訪ふて具さに事情を開陳し、其局遂に本件の調停を翁に委托するに至れり、翁能く事件の真相を解せられ、大に同情を我同窓者に寄せ、平素寸暇だも無き繁劇の身を以て尚ほ東奔西走、彼れに説き此れに諭し、中頃学生の意気大に激昂して卒業証書授与式に欠席せんとするの兆あるや、翁は大に之を不可なりとし、親しく学校に臨で学生の委員を集めて懇々慰諭する所あり、其言の親切にして熱情の言外に溢れたる、実に厳父の愛児に対せるが如き感あり、以て翁が我校を愛せらるゝの如何に深且厚にして、而して本件の為め周旋尽力の尋常ならざるを知ると同時に、余輩は今日の結果を以て偏に翁の賜となすも敢て不当に非ざるを信ず、是れ本件に関する記事を終るに臨み、玆に其労を特筆して深く感謝の意を表する所以なり


一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第四二―四四頁 大正一四年九月刊(DK260098k-0004)
第26巻 p.612-613 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第四二―四四頁 大正一四年九月刊
 ○第三期 専攻部の設置より申酉事件の落着まで
    一 向上の一転機
○上略
  清水校長事件
 此の時運を顧みず、此の一橋の意気を量らざる文政当局の時代錯誤的政策は、玆に再び一橋に校長排斥の不祥事を生むに至つた。
 三十一年五月、小山校長は文部次官に任命され、翌月帝国大学書記官、清水彦五郎を校長に任命する旨の掲示が発表された。此の掲示を見るや本科三年の一同は一斉に学校を引上げ玉川亭に会合し、討議数刻、新校長を戴くを屑しとせず、眼前に迫る卒業試験にも欠席し、退校の決心にて運動に着手する事に一決した、之は同年六月六日の事である。委員は直に学校出身の教授を訪問し、一方には専攻部・本一・本二、及び予科に交渉して運動に参加する様に説いた。
 学生の主張する所は、清水某は其の経歴、多年大学の舎監を奉じ、奔走周旋に長する外、学識才幹の卓越せるものあるを聞かず、且同人の従来の地位徳望は、今や隆々発展せんとする我が光輝ある一橋の首長たるに適せず、その任命は学校の品位を失墜し、其の進運を阻害するものであり、当局今回の処置は商業教育を軽視する事甚しいものであると言ふのであつた。
 蓋し一橋の発展せんとする意気冲天の勢なりし事は前述の如くである。之も主として小山校長の指導に依つたものである。
 初め小山氏が文部次官と成り、学校の為にも大に幸する処あるべしと期待せる処へ、意外にも競争の対照たる帝大の一書記官を校長として任命されたる為、此処に一層の失望と、憤激を感じたるものであらう。
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 斯くて一部には教授の進退を窺つて軟論を吐く者もあつたが、大多数の絶対反対の硬論に圧せられて、学生全部は新校長反対の決議を為し、事態甚だ不穏を示した。
 一橋出身教授は之の勢の赴く所を見て、一方大臣・次官に事態の容易ならざるを告げて学生の意在る所を述べたが、出発点に於て既に誤つて居る当局は今更其の過失を改むる事無く、自己の不明に対して学生の執れる手段の不穏を徒に責めるのみであつた。然して一方清水校長にも辞職の色は見えなかつた。
 他方在京の本校卒業生を以て、明治三十一年組織された同窓会は之の報を聞いて直に運動を起し、常議委員は各所に奔走し、円満解決の為に努力し、之が会員も亦決議して之に応じ、結局、渋沢・小山両氏の調停に依り、学生の面目を保つを条件として両氏に解決を委ねた。斯くして両氏の努力の下に卒業試験も無事に終り、七月卒業式には初めて清水校長が臨席した、生徒の多くは此の時初めて新校長を知つた位であつた、本科三年は尚出席しなかつた、之の卒業生等の為学生は後に盛んなる送別の宴を開いた、八月文相の更迭と共に、校長も依願免職と成り、学生間に退校の惨事を見る事も無く此の件は落着した。