デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
4款 東京高等商業学校
■綱文

第26巻 p.680-685(DK260112k) ページ画像

明治42年3月1日(1909年)

是ヨリ先前月下旬、当校学生等文部大臣並ニ貴衆両院議長ニ商科大学問題ニ関スル請願書ヲ提出セントシテ、校長松崎蔵之助ニ其進達ヲ依頼ス。校長其進達ヲ拒否シ学生五名ヲ退学処分ニ附シタルニ因リ、学生等校長排斥運動ヲ起ス。栄一事態ヲ憂慮シ、是日学生大会ニ臨ミ慰撫演説ヲ試ム。翌日学生等善後処置ヲ栄一ニ一任ス。


■資料

(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK260112k-0001)
第26巻 p.681 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
二月二十五日 晴
○上略
高等商業校学生、昨日松崎校長不信任決議ヲ為シ一騒持上リタルニ依リ、今朝ハ星野太郎・石川文吾・鹿野清次郎等諸教授兜町ヘ来訪、又今夜ハ専攻部在学生野尻孝宅ヘ来訪
   ○中略。
二月二十七日 曇
○上略 高等商業学校学生ノ校長排斥事件、事態益重大ヲ致シ、今朝専攻部学生五名退学ヲ被命、益扮擾《(紛)》ノ勢ヲ進ムルモノノ如ク、可憂事也、学生野尻孝等来訪ニ付、予等ハ勉メテ極端ニ渡ラヌヨウ、即仲裁者介入ノ余地ヲ存スルヨウ勧告ス
○中略
高商校ノ件事態益紛糾、校長ハ退学生一名毎ニ角袖巡査ヲ附シ、又関佐野・下野等諸教授ニサヘ密行巡査ヲ附シテ離間ヲ行ハントス、生徒益激昂シ、此末如何ナル重大ノ事態ヲ生センモ難計トテ、教授総員ノ総代トシテ神田乃武男本日渋沢男ヲ訪ヒ、男ノ立テヽ《(チテ)》生徒鎮撫ニ尽力サレン事ヲ希望セラル


東京日日新聞 第一一五七三号 明治四二年三月三日 ○高商と渋男 △訓諭なり調停にあらず(DK260112k-0002)
第26巻 p.681-682 ページ画像

東京日日新聞  第一一五七三号 明治四二年三月三日
    ○高商と渋男 △訓諭なり調停にあらず
東京高等商業学校の評議員たる渋沢男は、今回同校に起れる紛擾に関し専ら学生の将来を憂慮するの余り、去る二十八日岡田文部次官に電話もて、親しく生徒に訓諭を加へ度き希望を陳じ、次官の同意を求めたるに対し、同次官は御厚意の段深く感佩する所なれど、当局に於ては既に夫々善後の処分を講じ居るを以て、此際閣下を煩はすの必要を認めざれど、閣下に於て生徒に訓諭を試みられんとならば夫は当局の敢て異議なき所なり、然れども此際生徒をして閣下が両者の間に仲裁調停を試るものなりとの誤解を懐かしむるは、当局の頗る迷惑とする所なるを以て、斯る誤解なき様注意あり度き旨を以てし、同男も深く当局の意を諒とし、斯くて一日登校の上生徒を集めて最も懇切なる訓諭を加へ、深く彼等の不心得を戒めたるに、生徒中同男に対して其処分に一任すべしと発議するものありしかど、男は一言の下に之を排斥し、善後の事は文部当局の在るあり、敢て余の関与すべきものにあらず、余は唯だ諸子が学生の本分を守り校紀を尊重されんことを希望するに過ぎず、想ふに諸子の本校に学ぶは将来或は商事会社に入り、或は自ら商業を営み、商を以て身を立てんとするに外ならざるべし、然るに其行動常軌を逸し規律を守らざること諸子の如くんば、恐らく将来何れの会社と雖も決して之れを採用せざるべし、諸子能く此辺に注意して深く自ら反省する所なかるべからずと、丁寧反覆訓諭を加へたるに、彼等大に感動し、一同篤と熟考の上明日(二日)更に協議を尽して進退を決すべき旨を答へたりと云ふ
   ○是日ノ訓戒演説全文得ラレズ。
   ○是年五月、校長松崎蔵之助辞職シ、文部省実業学務局長真野文二校長事務
 - 第26巻 p.682 -ページ画像 
取扱ヲ命ゼラル。


東京経済雑誌 第五九巻第一四八〇号・第四〇五―四〇六頁 明治四二年三月 ○東京高商紛擾事件(DK260112k-0003)
第26巻 p.682 ページ画像

東京経済雑誌  第五九巻第一四八〇号・第四〇五―四〇六頁 明治四二年三月
    ○東京高商紛擾事件
東京高等商業学校に於て、先月廿三日学生一同は商科大学設立請願書を文部当局に差出さむとし、之を松崎校長に托さむとせるに、校長之を拒絶したる為め、従来校長に対し不満を抱きたる学生の心情煥発して、学生大会を開き校長の不信任を決議し、委員たる専攻部一年学生五名は辞職勧告書を校長に致せり、校長怒つて此の如きは受容るべきに非ず、且つ学生としてあるまじき事なりとて、廿六日右五名の者を退学に処し、他の一名に無期停学を命ぜり、学生更らに校長排斥の声を高め、一橋会は更らに其不信任を決議して、会長たる事を拒絶し、同窓会員の辞職を勧告する者少からず、専攻部二年は立つて運動を開始し、先づ商議員六名を訪ふ、其一人たる渋沢男爵は三月一日自ら学校に至り、専攻部学生全体を一堂に会し諄々師弟の道を説いて訓諭し即座に一切の事件を任さむ事を望む、学生其答に猶予を乞ひて熟議を遂げ、翌二日学生総代を以て一切を任し、且つ事態の真相を陳述する所あり、かくて本件は一先づ落着せるも、校長にして現職に永く止る事あらんには再び紛擾を来すやも計られずといふ


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK260112k-0004)
第26巻 p.682-683 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
三月一日 曇
○上略 過日来記載ノ高商校学生々徒全員挙ケテ松崎校長排斥運動開始ノ件ニ付テハ、事件益重大ヲ致スノ恐アルニツキ、渋沢男爵ハ傍観ニ忍ビズ、今朝学校ニ臨ミ専攻部一年・二年ノ全員ト会見シ、懇々訓諭セラレタリシニ、彼等ハ委曲感スル所アルモ、事ハ全生徒ニ関スルヲ以テ、打合ノ為一日ノ猶余(返事ノ為)ヲ乞ヒタリト、蓋シ男爵ノ信望ヲ以テスル事故無事ニ治マル事ナラン
三月二日 雨
○上略
高商学生総代五名今夕兜町ニ男爵ヲ訪ヒ、昨日ノ訓諭ニ対シ全校生徒挙テ服従シ、今日以後一切ノ行動ヲ止ムル旨及其玆ニ至リシ心事ノ御憐察ヲ乞フ旨申出、男爵モ満足ヲ表セラレ、尚膝ヲ交エテ学校ノ将来ナド談ゼラレタル由、去廿四・五日来突如トシテ曝発シタル事件モ、男爵ノ配神ニヨリテ一段落ヲ告ケタルハ幸慶ナリ、生徒ノ行動トシテハ上出来ニシテ而カモ目的ヲ達スルノ期ハ遠キニ非ルベシ
   ○中略。
三月五日 雨
例刻出勤、夕五時ヨリ成瀬隆蔵ト予ト主人トナリ、高商同窓会常議員及有志者ノ会ヲ開ク、来会者二十二人、予ハ過日母校騒擾中、当初ニハ同窓会ガ何タル行動ヲ為スコトハ却テ事件ヲシテ紛糾セシメ、或ハ同窓教授ナドノ位置ヲ混難《(困)》ナラシムルノ恐アリ、却テ不利益ト思ヒタル為会合モ催フサヾリシ事、而シテアマリ激シクナリ最早傍観ヲ許サザルヨウ感シタルトキハ、已ニ渋沢男爵立テ一挙之ヲ治メラレシ様ノ
 - 第26巻 p.683 -ページ画像 
次第ナリシ故、終ニ同窓会トシテハ何タル事ヲモ為サヾリシ理由ヲ陳ベ、且今後ノ方針ヲ謀リシガ、一同ノ意見ハ、生徒今回ノ行動ハ商科大学設立問題ニ対シ妨害トナルノ恐アル故、旁策ノ得タルモノニ非ズ乍去一旦興起シタル以上トシテハ男爵ノ懇ロナル訓諭ニヨリ最上ノ段落ヲ得タルハ至幸也、而シテ此以上ハ同窓生モ生徒モ全ク沈黙静止スル方、最事局ノ解決ニ利ナルト信スルニ付、若シモ生徒中残炎ノ恐アル向ヘハ、勉メテ之ヲ説諭スルノ方針ヲ取ル事ニ決セリ、不取敢其為来八日夕成瀬・八十島・浅野陽吉・日高驥三郎・宮川久次郎ノ五名主人トナリ、学校代表ノ生徒十二名計ト会見シ、向後ノ方針ヲ誤ラサルヨウ好意的懇談ヲナスベク決定セリ
三月八日 雨
○上略 午後五時偕楽園ニ至ル、去五日同窓会常議員及有志会協議ノ結果浅野・宮川・成瀬・日高四氏ト共ニ高商校学生代表的ノ人々十二名ヲ招キ、向後ノ心得方ニツキ種々ノ方面ヨリ懇談ス、一同理ノアル所ハ了解スルモ、感情ニ於テハ未タ必スシモ鎮静ニ帰シタルト安心スルヲ得ズ ○中略 食後緩話十一時ニ及ブ、結局我々同窓先輩ノ意見ヲ十分諒知セン事ヲ求メテ分袂ス


一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第一〇七―一一〇頁 大正一四年九月刊(DK260112k-0005)
第26巻 p.683-685 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第一〇七―一一〇頁 大正一四年九月刊
 ○第三期 専攻部の設置より申酉事件の落着まで
   申酉事件
    一 橋畔漸く動揺す
  帝大に経済科設置せらる
 顧みれば一橋が我が国商業教育発祥の地として、世界商業史上に一橋商業帝国の大斾を樹立すべく、一路向上の途を辿ること此処に三十有余年、常に正論を持して輿論を導き、時勢は進展して、其の目的の地亦漸く近からんとするに至つた。
 明治三十七年図らずも日露干戈を交ふるに及んで、暫く念慮の外に放擲せられた一橋商業大学問題は、国民捷利の喜に乱舞する間に、再び一橋の空高く掲げられて、新たなる努力はこゝに開始せられた。三十九年第二十回帝国議会に於ては、遂に商科大学設置の建議案の通過を見た。是に於て、当時の高商校長松崎蔵之助に対し、其の意見を諮問せらるゝ所あり、一橋側では更に調査の結果、同校の組織を変更して、予科三年・本科三年の大学制度とし、且別に高等商業程度の専門科を併置して、何れも中学及び甲種商業学校と直接聯絡を保ち、商業教育の一系統を作るべき一橋多年の素志を成案として之を提出した。文部省に於ては制度の点に関しては大体之に賛成したが、唯其名称に就て帝大側との関係を慮り、容易に其議纏まらず、中には学制上須く之を帝大内に設置すべし、と主張する者もあつた。即ち一橋の独立を否認して、帝大法科内に商大を併置すべしとの意見は、此時初めて唱導せられたものである。沢柳次官の如きは名称は兎も角、先づ組織を改善すべし、と云ふ意見を有して居たのにも拘はらず、松崎校長は名実共に得ん事を欲し、為に益々文部省との交渉複雑となり解決を得ず其の結果は遂に四十一年、帝国大学に経済学科の設立となつて現はれ
 - 第26巻 p.684 -ページ画像 
た。
 之に対して一橋は一喜し、又一憂した。此の議に依つて商業学の蔑視が公然除去せられ、商業学の大学教育の必要が認められた事は喜ぶべし、然し乍ら当局は果して何れの点まで我主張を解し得たか、経済学科の新設を以て、商業大学の設立を不必要ならしめたと為すに非るか、商業大学に於ける総ての学科は凡て商業てふ一点に集中せられねばならない。経済学科が経済学者を作るを目的とするに反し、商業大学は商工業の将師を養成せんとするのである。此の点に関して当局の理解を先づ憂ひなければならなかつた。六月には教授十一名が文部大臣牧野伸顕に書を送つて、一橋が主張する商業大学と、新設さるべき経済科との差異を明かにして、我が意味する所の徹底した解釈を求めた。一橋は其の主張の完全な解決を要求して已まなかつたのである。
  文部当局一橋の主張を容れず
 四十一年七月には又内閣が更迭して再び桂内閣の世となり、文相の椅子は桂首相の股肱であつた小松原英太郎の占むる所となつた。是に於て松崎校長は、再び小松原文相及び岡田文部次官に会見して、前内閣以来の交渉を開始したが、彼に於ては全然前内閣より商大問題を引継がずと断言し、更に沢柳前次官よりの手続其の他の実証を引提げて談ずるも、尚頑として一橋側の主張を拒絶し去つた。斯る間に学年試験も終つて暑中休暇は訪れたが、風雲を想ふ学生有志は、尚炎熱の都に留つて、或は先輩の訪問に、或は主張の公表に東奔西走したのであつた。
 其の秋予定の如く帝大法科大学経済科は九月十一日より開講した。金風梢を鳴らす公孫樹の下、一橋の新学年は悲壮の色が漲つた。九月十月、一橋会雑誌は一橋商業大学論を掲げて人々の心を引き緊め、新学年を機として行はれる各種の会合は皆此の問題を論じて、言々悉く痛切を極めた。
 橋畔漸く風雲は動き初めた。十一月、専攻部一年・二年の有志は提携一致、一橋関係の有力者は勿論、政界・実業界の名士を訪問して、我が主張のある所を明かにせんとした。
  松崎校長学生の運動を阻む
 斯る渾沌の内に明治四十二年巳酉の易は一橋の天地にも訪れたが、橋畔徒に暗雲低迷して、人々の心は闊かなかつた。
 山雨将に到らんとして風楼に満つ。一月は嵐の前の静けさに過ぎて二月となつた。四十一年度卒業の同期生会は小松原文相に一書を送つて高商年来の主張を訴へ、又四十年度卒業生は不惑会を組織して商大問題に尽力する事となつた。此の月の初、代議士根本正は、商業大学設立建議案に関し議会に於て質問を試み、此問題又貴族院の予算会議に上つて当局は愈々其の解決を迫られる状態を示した。此の形勢を見た学生の有志は此の期逸すべからずとて全校千三百余名の賛成を以て文相並に両院議長に対する請願書提出の件を決議し、専攻科一年の有志三名此の決議を携へて校長松崎蔵之助を校長室に訪ひ、該請願書の進達を請ふた。然るに何思ひけん松崎校長は此の請願書の進達を峻拒したのみならず、学生を大いに罵倒したのである。
 - 第26巻 p.685 -ページ画像 
暗雲玆に破れて急雨沛然として到つた。一橋学生の権威は何処にある。松崎校長排斥の声は校内到る所に勃発して来た。
○中略
 斯くて、学生大会は数回連続して開かれ、松崎校長の処決を促す事愈々急となり、遂に先頭に立つた専攻部一年の五名は退学処分を受け尚他に一名の無期停学処分を見るに到つた。
 退学処分を受けた学生は嘗て校長室に於て松崎校長と直接談判に及ぶ内、憤激の余り、突然卓上にあつた書籍を取つて松崎校長の頭部に投げつけた。之が退学の最大原因となつたのである。
 六名の犠牲は、燃盛る焔に油を注いだ様なものであつた。其の勢は愈々猛く天をも焼かんづ有様となり、到底停止する所無きに至つた。
 越えて三月一日、我が国の商業教育の発展を以て畢生の事業とする商議員渋沢栄一来校して、学生一同に対して懇切なる慰撫演説を試みる所があつた。猛りに猛つて居た学生も之によつて鎮められ、其の結果問題は全く無条件にて、渋沢商議員に一任せられ、学生は何等積極的行動を取らないと云ふ事に決した。
○下略