デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
4款 東京高等商業学校
■綱文

第26巻 p.685-720(DK260113k) ページ画像

明治42年5月23日(1909年)

是ヨリ先当校学生、当校ヲ昇格シテ商科大学ト為サンコトヲ希望セルモ成ラズ、文部省却テ東京帝国大学法科大学内ニ経済科新設ノ故ヲ以テ是月六日当校専攻部ヲ廃止ス。玆ニ至ツテ遂ニ是月十一日当校学生等総退学ヲ決行ス。是日栄一、同窓会主催ノ学生大会ニ出席シ、五商業会議所代表、父兄保証人会代表ト共ニ商議員会ヲ代表シテ学生ニ懇諭スルニ、其主張貫徹ヲ三団体ニ一任シ無条件ニ復校就学センコトヲ以テス。学生等遂ニ勧説ニ服シ翌日ヨリ復校ス。幾許モナク専攻部廃止ハ六ケ年延長サレ、明治四十五年三月ニ至リ廃止令撤回セラル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK260113k-0001)
第26巻 p.685-686 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
五月四日 曇 暖
○上略 午後三時文部省ニ抵リ、高等商業学校ノ事ニ関シ小松原大臣ト会見ス ○下略
五月五日 曇 暖
○上略 午前九時半本郷ニテ中野武営氏ヲ訪ヒ、高等商業学校ノ事ヲ談シ ○下略
   ○中略。
五月十一日 曇 暖
○上略 午前九時半高等商業学校ニ抵リ、真野文二氏ト同校生徒ノ事ニ関シ種々談話ス ○中略
 - 第26巻 p.686 -ページ画像 
岡田健次郎氏来リ高等商学校入学生《(業脱)》ノ事ヲ談ス
   ○中略。
五月十八日 晴 暖
○上略 夜飧後阪谷男爵来リ、高等商業学校ノ事ヲ談ス、八十島親徳モ来リ会ス ○下略
五月十九日 晴 暖
○上略 八十島ト共ニ朝飧ヲ食シ要務ヲ談ス ○中略
午前十一時兜町事務所ニ抵リ、中野武営・大橋新太郎二氏ノ来訪ニ接シ、高商生徒ノ事ヲ談ス ○中略 三時日本郵船会社ニ抵リ、重役会ニ出席ス、畢テ近藤氏ト高商学校ノ事ヲ談ス ○下略
五月二十日 曇午後雨 暖
○上略 午後 ○中略 兜町事務所ニ抵リ ○中略 関一・八十島親徳二氏ト高商学校ノ事ヲ談ス ○下略
五月二十一日 晴 暖
○上略 午後一時東京商業会議所ニ抵リ、高商学生復校ニ関シテ種々ノ協議ヲ為ス ○下略
   ○中略。
五月二十三日 晴 暖
○上略 午前九時半青年会館ニ抵リ、高商学生ノ復校ヲ勧告スルノ大会ニ出席シ、商業会議所ノ諸士ト共ニ学生ニ対シ一場ノ訓誡演説ヲ為ス、畢テ午後一時帰宅ス ○下略
   ○中略。
五月二十五日 晴 薄暑
○上略 十一時半東京商業会議所ニ抵リ、高商学校ニ関スル集会ニ参列ス協議中一同午飧ヲ共ニス ○下略
五月二十六日 雨 暖
○上略 午前九時桂総理大臣ヲ三田私邸ニ訪ヒ、高商学校ノ事 ○中略 ニ関シ要件ヲ談ス ○下略


一橋風雲録 浅野源吾著 第七―一一頁 明治四二年六月刊(DK260113k-0002)
第26巻 p.686-687 ページ画像

一橋風雲録 浅野源吾著  第七―一一頁 明治四二年六月刊
    第一章 高等商業の起源及び商大問題の由来
○上略
然るに日露戦争漸く其畢を告げんとするに際し、桂内閣瓦壊して西園寺内閣樹立するに至り、文部の椅子は当時遠く海外に使臣たりし牧野伸顕氏を特選して之に坐らしめたり。而して牧野文相は文部歴代の懸案たる学制改革に意あると共に、一方第二十三議会に於て商科大学設置の建議ありしに依り、当時の高等商業学校長松崎蔵之助氏に対し、其の意見を諮問するに至りたるを以て、高商側にては更に調査の結果同校の組織を変更して予科三年・本科三年の大学制度とし、且別に高等商業程度の専門科を併置し、何れも中学及び甲種商業学校と直接連絡を保ち、商業教育の一系統を作るべき同校多年の素論を成案として之を提出したり。之に対し文部省にては、制度の点に於ては大体之に賛成したるも、唯其名称に就て大学側との関係上容易に其議纏らず、沢柳次官の如きは名称は兎に角先づ組織を改善すべしとの意見を有し
 - 第26巻 p.687 -ページ画像 
たるに拘らず、松崎校長は名実両つながら之を得んことを欲して、議遂に纏らざる間に内閣の瓦壊を見るに至れり。内閣を再び藩閥を標榜せる山県系統に属する桂内閣起つて独断政治を行ふに至り、文相の位置は桂首相の股肱たる小松原英太郎氏占むるに至れり。氏は就任早々牧野前文相の立案たる改正仮名遣案の調査委員会の議に附せられつゝあるに拘はらず、突如蛮勇の爪牙を現はして、漸く社会各人の間に実用されんとしつゝありし明治三十三年文部省令第十四号小学校施行規則第二号表、即ち簡易なる仮名遣は、何等の条件を附せらるゝことなく廃棄さるゝに至り、相尋いで改正仮名遣案も中途其委員会より撤回さるゝに至れり。 ○中略 然るに仮名遣のこと昨今漸く社会各人の脳裏より将に忘れ去らんとするの時に当り、近く閉会せられたる議会に於ける建議案に対し、何等明確なる説明を与へられざりし商科大学問題も又前年の仮名遣廃止の筆鋒に依り、商業に大学を設置するの必要なしとして、同問題に一顧も敢てせざりし帝大側と着々協議の歩を進め、遂に輿論の趨嚮を無視し、一意専心大学側にあり普通の大学と自然其選を異にすべき商科大学をも、学制統一に名を藉りて帝大、而も法科大学の一学科として設置するを得策となし、四月中旬形式のみの省議を内決し、之を経済商科と云ふ名目を以て東京帝国大学に諮問する運びに立ち到りたり。此問同省にては該問題調査の経過を堅く秘密に附し、従来之を主張し来れる高商側に対しては殊に其事を感知せられざることに努め、当時同問題に関して貴族院議員たる中島男が小松原文相に会見したる際の如きは、商科大学問題に関しては足下は高商出身者のことなれば、同校の意嚮は十分足下より聞くことを得る便利あれば、其調査上頗る便宜なりと述べ、白を切りたる由なるも、当時既に省議決定したる後なりしと伝ふ。斯くの如く小松原文相は輿論の反抗を虞れて同問題の凡てを秘密に附したりしが、大学教授会に諮問せられつゝあること一度世上に伝はるや、言論界に於ける輿論は勃然として其論調を昂めたるは勿論、一橋高商健児千三百有余名の公憤激怒となり、学生等は母校の興廃黙過するに忍びざるものあるを以て、此際吾々も態度を一定するの必要あれば、正々堂々学生の本分を傷けざるの範囲に於て、一定の方針を執るべしとなし、其四月二十四日正午校内に於て学生大集会を開催したるは、抑も高商月余に亘る大紛擾勃発の端緒なりとす。


一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第一二五―一二六頁 大正一四年九月刊(DK260113k-0003)
第26巻 p.687-688 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第一二五―一二六頁 大正一四年九月刊
 ○第三期 専攻部の設置より申酉事件の落着まで
   申酉事件
    三 帝大に商科設置の事確定す
  商議員文相と会見
 予てより商議員は小松原文相に対して高商問題に就き会見を申込置いた所、二十八日 ○明治四二年四月午前愈々文相は商議員益田孝・阿部泰蔵・近藤廉平・和田垣謙三(渋沢男は欠席)を官邸に招き、商科大学設置問題の経過及び当局の意志を語つたが、学校側にて抱いて居た考、即ち「高商に専攻科を置いたのは当局者が軈て大学組織に改める為の準
 - 第26巻 p.688 -ページ画像 
備なり」と云ふに対して、文相は「文部省に於ては右の如き考を以て専攻部を設置したのではない、牧野文相時代に学科を改正し、三年の予科、三年の本科となさうとした時、学校側は頻りに此改正を以て後日大学組織となす準備になさんとした為、牧野文相は遂に逃出したのである。尤も久保田文相の時は文相は単独大学論者であつた故に、高商の如きも之を大学としても不可ならずと云ふ意見を有して居たが、久保田氏の意見は其後立消となり、爾来当局にては嘗て高商を以て大学に改むべき予備となしたる事なし。而して今回商科大学設置に関しても当局では調査講究の結果、帝大内に法科の一部として商科を置く事となし、大学へ諮問した所、大学にては前週の木曜日に教授会を開き、法科の一分科として商科を置く事に略決定したる様子で、此問題は最早大体決して居るから、此上如何に運動するも動かす事は出来ない」と述べた。そこで商議員は「商議員が学校に関する要務を諮詢すべきである以上、商大問題が殊に学校の興廃に関する程の大問題であるにも拘はらず、之を我々商議員に諮問しないと云ふ事は、即ち規則に背いたものである」と抗議し「商大問題は解決方法は兎も角、高商三十年来の歴史を以て成立つて居る所の専攻部を廃滅に帰せんとする如きは、甚だ策の得たものでない。之には絶対に反対する」と力説して引取つた。
○下略


官報 第七七五六号 明治四二年五月六日 文部省令第十四号(DK260113k-0004)
第26巻 p.688 ページ画像

官報  第七七五六号 明治四二年五月六日
文部省令第十四号
東京高等商業学校専攻部ハ之ヲ廃止ス、但シ現ニ専攻部ニ在学スル生徒及本年本科ヲ卒業シ専攻部ニ入学ヲ志望スル者ニ限リ、明治四十四年九月十日マテ仍ホ従前ノ規程ニ依ル
東京高等商業学校生徒ニシテ本科卒業ノ後尚其ノ学業ヲ研究セントスル者アルトキハ、学校長ニ於テ必要ト認ムル場合ニ限リ研究生トシテ一箇年以内在学ヲ許スコトヲ得
  明治四十二年五月六日    文部大臣 小松原英太郎


東京高等商業学校同窓会会誌 臨時増刊 明治四二年六月刊 【拝啓、時下御清健奉賀…】(DK260113k-0005)
第26巻 p.688-689 ページ画像

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(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK260113k-0006)
第26巻 p.689-690 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
四月十六日 快晴 寒シ
○上略 午後二時兼テノ約束ニ依リ関・滝本・成瀬三氏兜町ニ来訪、男爵会見セラル、然ルニ男爵モ今日昼前大臣 ○小松原文部大臣ヲ訪ヒ面談セラレシ結果ニヨレハ、同大臣ヨリ大学 ○東京帝国大学ヘ内諮問ノ結果昨夜先方ノ重立チタル人々内議シタル処ニテハ、法科ノ内ニ商科ヲ設クル事、従テ現在ノ我高商校ノ専攻部ヲモ廃スルノ案ヲ可トスル答申ヲナセシヤニ察セラルヽ廉アリ、松崎校長問題ノ如キハ自然的ニ解決スヘキモ、ソレヨリ重大問題タル多年ノ宿望タル商科大学問題ハ犬骨折リテ鷹ノ餌トナルノミナラズ、カテヽ加ヘテ既得権タル専攻部ヲモ取上ケラレントスルカ如キ、実ニ言語同断《(道)》ノ話ニテ、殆一橋ノ死活問題ト言ハサルヘカラス、向後同窓者一般ハ素ヨリ同窓中ノ教授ノ如キハ最急激ニ大運動ヲナシ、文部当局者ヲシテ本問題ニツキ本諮問ヲ(大学ニ)ナス事ヲ見合ハサシメ、少クトモ此解決ヲ延期セシメザルベカラス、難事ノ上ニ又難事ヲ加フ、何故ニ我最愛ノ母校ニハ此クモ問題ノ加ハルニヤ ○下略
四月十七日 曇
例刻出勤、今夕佐野・滝本・下野三氏ノ男爵ヲ来訪シテノ言ニヨレハ昨日男爵ノ漏示セラレシ商大問題ニ対スル文部対帝大ノ交渉ハ他方面ヨリモ同様漏承レタルニ付、昨夜急速教授ノ集会ヲ開キ、打合セタル上、今午後一時教授十一名(同窓以外ノ乾・高島氏等ヲモ含ム)ハ文部省ニ出頭、小松原大臣・岡田次官及真野実業学務局長列坐ノ場処ニテ大臣ニ向ヒ、一同交ル交ル、商大問題ノ解決法トシテ、法科内ノ経済科改造ノ如キ姑息策ヲ取ルノ絶対不可ナル理由ト、一面ニハ我校発達ノ歴史、商大問題ノ由来及之レガ今日迄ノ研究等ノ方面ヨリ観察シテ、我校ヲ発展スルノ方法ニヨリテ此問題ヲ解決サレン事ヲ望ム旨ヲ陳ヘ、且商業学トシテハ最モ専門ノ智識ヲ有スルト我モ人モ信スル吾人ニ秘密ニシテ他ヘ詢ルガ如キハ、如何ニモ情無キ仕打ナラズヤ、トテ一同一大決心ヲ以テ陳述シ来リシ由、男爵ハ諸氏ト同意見ニシテ、兎モ角一ツ橋ノ学校ヲ用ユルト否トニ拘ラズ、一分科大学ト為スニ非レハ、到底商科大学必要論唱道ノ要求ヲ充タシ得ルモノニ非スト信スルニツキ、明後日校長ヨリ召集セラルヽ商議委員会ニ出頭シテ、大ニ他ノ人々ニ詢ルヘキ意向ナル旨ヲ答ヘラレタリ ○下略
   ○中略。
四月十九日 曇雨
○上略
(欄外記事)
 今日ノ商議委員会ニハ旅行中ノ園田・益田二氏ハ欠席、他ハ皆出席渋沢・和田垣ハ一分科大学ヲ必要トス
 近藤・阿部二氏ハ是非共本校ヲ之ニ充ツル事ヲ必要トスルノ意見
 - 第26巻 p.690 -ページ画像 
四月二十日 晴 暖
○上略
本日男爵ハ朝穂積八束氏ニ会見シ同氏モ文相ヨリ経済科改造意見ノ諮詢ヲ受ケシニ付、多少不完全トハ思フモ異存ハ無シト答ヘタリト、今午後男爵、文部大臣・次官ヲ訪ヒ、昨日商議委員会ノ結果ヲ十分ニ述ベラレ、可成ハ一ツ橋ノ現校ヲ用ヒ、タトヘ然ラサルモ一分科大学トナスニ非レハ、吾人商大必要論者ノ要求ニ充タス能ハズ、姑息策ニ出ツル位ナラ寧ロ現状維持ヲ可トスル旨反覆申陳ヘラレシニ、文相及次官共、乍遣憾説ヲ異ニス、吾人ハ経済科改造ニテ充分目的ヲ達シ得ト確信スル旨ヲ陳ヘ、一向男爵ノ説ヲ採ルカ如キ様子見ヘズ、殆話シ分レノ姿トナリシ由
事局ハ以外ニ悪傾向ニ陥リ、憂フヘキ事也、夫レ文部当局ハ只管大学ノ威ニ諂ヒテ其意ヲ迎ヘ、我母校ヲ継子視シ、蔑遇シ、侮辱シ、校長教授・同窓会ノ説ヲ容レズ、又之ニ敬意ヲ払ハズ、殊ニ商議委員全員及渋沢男爵ノ意見ヲ容レズ、玆ニ至リテハ言語同断只々《(道)》アキレルノ外ナシ、関・佐野二氏ヲ兜町ニ招キ内報ス、八時半帰宅
   ○中略。
四月廿三日 雨
朝例刻出勤、男爵今朝文部大臣ヲ訪問セラレシニ、昨日法科大学ノ決定ハ、商科ヲ一分科大学トシテ設立スル事ニナリシ様ニ話アリ、男爵一応満足シテ帰ヘラレシニ、豈計ランヤ、右ハ法科大学中ニ商科トシテ一科ヲ設クルノ意味ナリシニ付、矢張男爵等ノ素志ニ背ク訳トナレリ、関・佐の両氏ヲ招キ懇談セラレシガ、彼等ハ此際断乎辞任ノ意不可翻、夕帰宅ス、関・佐の・滝本三氏ハ本日辞表ヲ提出ノ由、又松崎校長ハ自説通ラズ、又妨ケラレシ廉ヲ以テ高商校長・大学教授双方共一両日前辞表提出セリト、此処ニ至リ同氏ノ境遇ハ頗気ノ毒千万也
   ○中略。
四月二十九日 雨 蒸暑
○上略 商大問題ニ付テ男爵ハ本日更ニ小松原文相ヲ訪ヒ会談セラレシモ法科内ニ置ク事ノ姑息策ナル義ニ付テハ、殆既定ノ場合ナリトノ理由ノ下ニ同意ヲ与ヘズ、次ニ責メテ一ツ橋専攻部ヲ現状ノマヽ保存ノ事ヲ主張セラレシニ対シテハ、已ニ本日午前ノ法科大学教授会ニ於テ高商卒業生ヲ無試験ニテ入学セシムル事ニ決セシ以上ハ専攻部存置ノ必要ナシト思フニ拘ハラズ、カヽル異論ヲ聞クハ閉口ノ至リト困却ノ体ナリシトイヘリ


東京高等商業学校同窓会会誌 臨時増刊 明治四二年六月刊 東京高等商業学校同窓会臨時全国大会議事速記録(DK260113k-0007)
第26巻 p.690-694 ページ画像

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一橋五十年史 東京商科大学一橋会編 第一四二―一四三頁 大正一四年九月刊(DK260113k-0008)
第26巻 p.695 ページ画像

一橋五十年史 東京商科大学一橋会編  第一四二―一四三頁 大正一四年九月刊
 ○第三期 専攻部設置より申酉事件落着まで
  申酉事件
○上略
    五 総退学
  五月十一日
 此日陰雲天を鎖して四辺暗澹、橋畔集ひ来たる千三百、万感胸に迫つて一語だも発する者なし。校門は固く鉄桿を横にして寂として死せるが如く、門前の柳葉徒に冷風に靡く。
 今や最後の学生大会は開かれんとする。之に先立つ午前十時、全校委員会は旧高師附属小学校々舎内に開かれた。集る委員三十六名(各年級より六名宛)全権を委任されて懸案の議に当つた各委員は、事始まつてより以来、日夜の奔走に甚しく疲労して居たが、尚ほ勇気を奮ひ起して案に対した。此の時原島座長は吾人か諸教授と其の進退を一にすべきや否やが本日の議案なりと宣告したことに依つて、八日の総退学の決議は絶対に有効のものにして、唯今日の委員会は此の決議に対して本校出身諸教授の同意を求むべきものなるや否を議するが目的なりと信じて居た各級委員は、猛然立つて座長の誤解を詰り、其の見解は全く前日の決議を根本的に覆へすものに非ずやと絶叫して、満場囂々を極めた。然るに原島座長は飽く迄自説を固持して動かず、議論数刻に渉つて議場益々混乱し、遂に彼は座長を辞して、徳野委員代つて座長の席に着くに到つた。是に於て順次各委員の説を徴して、其の結果委員会の決議を次の如く決定した。
 一、東京高等商業学校学生々徒一同は、其の行動進退を一にすること。但し海軍主計学生及教員養成所生徒は其の性質稍異るものあるを以て、各自の自由意志に任すこと。
 二、全校学生々徒は本日限り断然退校の事。
 三、本校出身諸教授の進退は、吾人の退学とは何等無関係のものと認むる事。
 此の間千三百の学生は校庭に在つて待つ事一時間、又一時間、委員会の議未だ決せず、其の浚巡して決意なきを罵り、我等の取る可き道は既に決せり、徒に論を戦はすべきにあらずと叫んで、屡々扉を排して闖入せんとし、辛くも支へられて居た。
 斯くて十二時十五分に至り、扉は漸く開かれ、委員は悲壮の意気と沈痛の決心とを以て現れた。時に天は愈々暗く、凄愴の気は徐ろに晩春の校庭を籠めた。徳野委員先づ廊下に起つて粛として其の言を待つ学生に臨み、悲痛なる音調に、前刻委員会に於ける三ケ条の決議を報告し、血涙を揮つて母校の最後を宣した。
○下略


新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一四巻・第九三頁 昭和一一年六月刊(DK260113k-0009)
第26巻 p.695-696 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第一四巻・第九三頁 昭和一一年六月刊
    千三百名の高商生同盟退学
〔五・一二 ○明治四二年中外商業〕悲壮なる大会 △十一日午前十時附属校庭に学生大会を開き、一応休憩後十二時半再び開会し、徳野隆輔氏より
 - 第26巻 p.696 -ページ画像 
今日に至りては、最早何等報告の必要なき要を述べ、去る八日の決議事項中、第一の行動は飽迄も断行すること、第二(教授と行動を一にす)は全部取消し、教授に対しては飽迄敬意を払ふこと、第三即ち同盟退学の件は本日直ちに実行すること、今後各科の聯絡を保つ為め、各委員を挙げ総本部を設くること、主計学生に対しては自由行動を執らしむること、退学後は全部一致の行動を執り、十五日の登校日には一切登校せざること等を決議したる後、一斉に君が代を三唱し、天皇陛下万歳・高等商業学校の万歳を唱へ、夫れより本校門前に至り万歳を三唱し、午後一時同所を引上げたるが、何れも一種言ふ可からざる感慨に打たれし者の如く、双眸に痛恨悲憤の涙を湛へ、中には声を放つて号泣する者すらありき。
△学生の血涙 遂に父兄の意を顧みるに暇なく、母校を去らざるべからざる運命に立至りし生徒一同は、万感交々加はりてか、徹宵下宿屋の二階にて泣き明かしたるものもありと聞けるが、本科二年某生の如きは、廊下の一隅に泣き倒れ居り、見るも気の毒に感じたり、軈て徳野隆輔氏(本科三年)が廊下を演壇と為し、校庭に集れる学生に委員会の報告を為すべしとて起ち現はるゝや、千三百の学生は恰も水を打ちたる如く静返り、報告の順序進んで全校一致同盟退校に決したりとの一段に至るや、俄に動揺めき亘り、徳野も感極まりて謂ふ能はず、漸くにして報告を終れり。
△徽章を外す 同盟退校の報告終るや、学生は誰れ云ふと無く、既に高商学生にあらず、徽章の必要なしとて、商人の神を意味せる古き歴史ある高等商業の帽章を、何れも一斉に取り外づせり。〔中略〕
△三教授の罷免 今回辞表を提出せし高商三教授に対し、十一日を以て左の通り聴許せられたり。
            東京高等商業学校教授 佐野善作
            同          滝本美夫
依願免本官
        高等商業学校教授文部省視学官 関一
依願免本官並兼官〔下略〕


万朝報 第五六六〇号 明治四二年五月一三日 文相の責任(DK260113k-0010)
第26巻 p.696-697 ページ画像

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一橋風雲録 浅野源吾著 第七一―七六頁 明治四二年六月刊(DK260113k-0011)
第26巻 p.697-699 ページ画像

一橋風雲録 浅野源吾著  第七一―七六頁 明治四二年六月刊
    第三章 高商将に亡びんとす
○上略
斯の如く事態益々容易ならざりしを以て、社会各方面の有力者は大に文部当局者の無能無策を痛撃して止まず。玆に於て文部省当局は真野校長事務取扱に内命し世間への申訳的の策として、十一日学生保証人
 - 第26巻 p.698 -ページ画像 
へ宛左の如き一通の衷願状を発送したり
 拝啓、過日来本校学生々徒中屡々課業を休み、寄々会合を催し候者有之、小官此際学校の事務取扱を命ぜられ教育の責任を負担致候に就ては、昨今の情況に対し衷心憂慮に堪へず候、何分小壮なる学生生徒の事故或は一時の感情に馳せて常規を逸し、或は同学に対する情誼上心にもなき行動に出で、為めに各自の前途を誤る等の事有之候ては、父兄諸氏の寄托に背き子弟教育の効を全ふすること能はざる結果と相成可申と深く痛心致候、此際小官に於ても固より十分の訓誨を与ふべく候得共、今日の場合学校の指導のみにては十分に行届き兼候処も有之候に付き、貴下に於ても学生々徒に対し各自其十分を全うし勉学の外他意無之様篤と御懇諭相成度右得貴意候 敬具
然して又、学生全部愈々解散式を行いたりと云ふ悲報忽ち全国各地に響き渡りぬ。其際渋沢男の如きは高商問題に就て左の如き感慨を披瀝せり。
予て此結果に立至るべき事は、文相に会ひたる時度々警告を与へたる程なれば別に驚くことにもあらざれども、修学盛りの学生をして無用の時間を費さしめ、其方向に迷はしむるは実に遺憾千万なりとて、坐ろに憂慮感慨に堪へざるものゝ如く、眼には暗涙をさへ湛へて、扨て語り継ぐやう、元来高等商業学校の創立は遠く明治六年の昔にして、当時故森有礼氏の創設に係り、二年を経て同氏海外に使ひするに際し之を時の東京府知事大久保一翁に頼て府の経営と為し、十五年に至りしに時恰も西南戦争の後を受け全国一般に財政の窮乏を告げ、国家財政の緊縮と共に東京府の経費節減説盛に出で、逐に本校も廃校の悲運に陥らんとせしを以て、三井より之を譲り受けんとの相談ありしも、国家有用の材としての商業家を養育するに三井一個の手にて為すも甚だ面白からずといふ議論出で、結局我々実業家・銀行が五万円許を醵金し、芳川知事も尽力して農商務省より年一万円宛を補助せしめ同省の管轄と為し、十八年文部省に移され以来今日に至れるものにして、既に多数の卒業生出し、其社会に於ける活動は実業方面及び実業教育或は領事其他の役人に於ても、其働き振りは決して帝大学生に譲らず否或る場合には却て勝れたる点も之を認むる次第にして、我々実業家は一意其健全なる発達を切望し居るに拘らず、従来とても文部省の本校に対する熊度は、動もすれば継母が継子に対する仕打ありて、面白からず感ずることありしも、今回の如き甚だしきことあらざりき、今回商科大学新設に就き、世人は一概に商人に学問は無用なりといふも自分決して左は信ぜず、深き学問を要せざる商人もあり、又学問を要する商人もあり、然して後者の為めに商科大学を設くること何の不都合かあらん、然して文部省が初めより世人の或る者と同機商科大学不必要と信するならば、高商に対し「商科大学新設は不必要なり」と云ひ切れば甚だ簡単明瞭にして、今日の紛糾も起らざりしならん、然るに単に法科の一部、夫れも最初は「経済商科」と名付けんかとの議にて殆ど従来の「経済科」と選ぶ所なきものを設け置き、一方高商側の「高商の位置を高めて欲しゝ」といふ希望を容れたりと称して其専攻部を廃し、折角芽出しかけたる者を無惨にも挘ぎ放すの処置に出でた
 - 第26巻 p.699 -ページ画像 
る事なれば、本年二月の松崎校長排斥当時には自分も極力学生の憤慨を慰め押へたるも、文部当局者の此処置に対しては、最初より学生を押ゆるの理由を発見する能はず、尤も同盟休校といふ如き不穏の行為は懇々取るまじき由説諭を試みたるも、何分純潔にして熱情に富める学生の事なれば、遂に自制する能はずして今日の挙に立ち至れる者なるべし、自分も評議員の位置にあるも、既に学生が居なくなりし学校に評議員や校長が幾らありたりとも如何とも手の下し様なく、午前真野氏を学校に訪ひ学生の無分別なき様呉々も頼み置たるも、既に遅くして及ばざりし次第なり、要するに此紛糾に就ては殆ど全部の責任文部当局者に在りと断言して憚らず、云々」 ○下略


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK260113k-0012)
第26巻 p.699-706 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
五月十一日 曇
○上略 夕刻某新聞社員ノ来報ト報知新聞ノ夕刊トニヨレハ、我東京高等商業学校学生々徒一同(来会者八百余名ナリシト)ハ本日午前十時元高師附属小学校舎(現今高商附属校舎トナル)ニ集マリ、先委員会決議ノ上更ニ総集会ヲ開キ一同一人ノ異議モ無ク学校ノ現状ニ失望シ将来ニ希望無ク現在ニ光輝無ク既往三十年ノ歴史ヲ没却セラレ、殆精神的ニ滅亡ノ境ニ葬ラレタル我校ニ殉スルノ趣意ヲ以テ総員退学ト決シ一同暗涙ヲ浮ベ尤静粛ニ解散ノ式ヲ挙ケ君カ代ヲ歌ヒ校歌ヲ奏シ、天皇陛下万歳ヲ唱ヘテ解散シ更ニ本校ノ門前ニ至リテ袂別ノ為ニ万歳ヲ唱ヘ帽章ヲ去リテ一同泣イテ退散セリト、一同心ヲ揃ヘ一人ノ乱暴者モナク其光景最凄愴ニシテハタノ見ル目モアワレニシテ一同感涙ヲ催セリト、偖一大事也、男爵モ新聞社員ノ来報ニ接シテ貰泣セラレ目ニ涙ヲ浮ヘラル ○下略
   ○中略。
五月十八日 晴
○上略
大倉喜八郎氏ヨリ電話アリ曰ク昨夜某所ニ於テ伊公・桂侯及予同席ノ節、談学校ノ事ニ及ビシニ、桂侯ハ中々強硬ノ意見ニシテ、学校ノ為不利益ノ方ニ見ヘタリ、依テ兎モ角同窓会側ノ者即八十島ヨリモ真相ヲ聞取ラレン事ヲト請ヒシニ、当方ニテモ望ム所也トノ事ナリシニツキ、本日午後三時半三田桂邸ヲ訪フベシト、予快諾セリ、益々予等ノ立場ヨリシテ意見ヲ公ニスルノ機会ヲ得タリ
○中略 高久氏ヲ待受ケ共ニ三田桂侯ノ邸ニ至ル、恰モ入浴中ナリトテ暫時待合室ニ留マリシニ、軈テ二階ニ通サレタリ、侯ハ袷ノ着流シニテ羽織ヲ着ス、兵児帯姿ニコニコト長椅子ニ安座シ、初対面ノ挨拶ヲナサル、今回ノ事件以来文相及首相ニハ何者ノ奸策ニヤ(或ハ曰フ松崎下野等ノ所業ナリト)或ハ同窓会、或ハ専攻部、或ハ一般学生ノ悪ル口ノミ注入シアリ、殊ニ首相ナドモ大倉氏ニ対シ、商大問題ニ関シ渋沢男爵ヲ誤ルモノハ八十島也ナド言ハレタル事アリトノ事、其他同窓会ヨリノ建白書ニ幹事トシテ予ノ名ヲ署シタル事モアル故、今日ノ会見モ到底意思相疏通スル事覚束ナキ事カト予想セシニ、流石ハ一国ノ大宰相也、ニコニコタル温顔ニ言語ヲ厚フシ、且終始予ノ言ヲ傾聴セ
 - 第26巻 p.700 -ページ画像 
リ、予ハ主トシテ商大問題ニ対スル同窓会多年ノ主張ヲ詳述シ、今回文部当局ノ取ラントスルノ方法ハ、乍遺憾同意スル能ハサル所ナルヲ以テ、同窓会トシテ種々意見ヲ発表シ又陳上セシモ採用ヲ得ズ、終ニ母校専攻部廃止ノ省令ヲ見ルニ至ル、事已ニ玆ニ至リシ上ハ策ノ施スヘキナク、殆失望セリキ、以上ハ商大問題ニ対スル同窓会ノ態度ニシテ、其間学生ニ対シテハ勉メテ鎮撫ノ方針ヲ取リシ事等ヲ説明セリ
然ルニ今回ハ生徒ノ総退学ヲ見ルニ至リシ事、如何ニモ不本意ノ至ニシテ、千数百ノ生徒ハ、今ヤ前途ノ方向ヲ誤ラントス、実ニ重大事件也、之レ差当リノ重大事件ニシテ、吾人ハ何トカシテ之ガ救済方法ヲ講セサルヘカラス、然ルニ生徒ノ決心・団結ハ吾人ノ見聞スル所ニヨレハ非常ニ鞏固ニシテ、容易ニ之ヲ打破スル事出来ズ、此際吾人ハ実ニ憂慮ニ堪ヘザル旨ヲ陳ベシニ、侯曰ク大ニ我意ヲ得タリ、足下願クハ学校制度ノ可否等ノ問題ト、生徒ノ総退学トヲ混同スル無ク、之ヲ引放シテ二個別々ノ問題トシテ考慮セラレヨ、前者ニ対シテハ世間可否ノ論或ハ盛ナルベシ、文部当局ハ可ト認メシトスルモ、同窓会ノ如キハ大ニ反対トスル事亦一理アラン、之ハ研究ノ余地無シトモ限ラサルベシ、去レド同盟退学ヲ恐レテ当局者ガ既発省令ノ一句ニテモ変更シ、又ハ復校セシメンガ為ニ将来一句ニテモ変更スヘキ内約ヲナスガ如キ事ハ、苟クモ不肖太郎、陛下ノ信任ヲ得テ、内閣ノ主班ヲ汚ス間ハ断シテ之ヲ為サズ、若シカヽル端ヲ開カバ、多数団結ノ強迫的行為ハ国内各所ニ起リ、一国ノ政事混乱スルニ至ラン、軍隊タルト学校タルト一般人民タルトヲ問ハズ、ストライキ的行動ハ、予ノ最モ嫌フ処也、故ニ高商生徒此等ノ事理ヲ解セズシテ飽クマデ退学セントスルナラバ予ハ涙ヲ奮テ彼等ノ去ルニ任スヘシ、不幸一人ノ生徒ナキ学校トナルモ亦致方無シ、此事タル文部一部局ノ仕事ニ非ズ、文部モ亦予ガ政府ノ一部分也、凡ソ学校生徒ハ命令・規律ニ従ヒ、柔順ニ勉強スルコソ模範トスルニ足ラン、高商生徒同盟ノ為ニ大臣ノ引責ハ愚《オロ》カ、省令一字一句ノ改正タリトモ苟クモナスヲ許サズ、此義ハ此好機ニ於テ足下等ノ了承ヲ乞フトノ事也、予実ニ然ルベキ事ト考ヘル旨ヲ述ベシニ、侯曰ク、然ラハ足下等先輩タルモノ、相議シテ進テヨク生徒ニ諭シ、直ニ悔悟復校スルヨウ尽力アラマホシト望マレシニ付、予ハ彼等ノ復校ヲ望ムノ意切ナルハ勿論、亦閣下ノ政府ガ断乎タル御決意ナル事モ充分了知スレドモ、彼等若者千数名ノ決心鞏固ニシテ、到底予等微力者如何ニ勉ムルモ、一人タリトモ之ヲ説得シ得ルノ自信無シ、此義ハ不悪御了察ヲ乞フ、蓋シ彼等ノ信頼スルニ足ルベキ非常ノ徳望家カ有力者ガ出テヽ彼等ヲ諭スニ於テハ、彼等夫レ或ハ之ニ信頼シテ、勧諭ニ従フ事モアランカト思ハルヽ旨ヲ答ヘシニ、然ラハ渋沢男出レハ可ナラントハ侯ノ説也、予ハ男ガ商議員トシテ屡々文相ニ立言セシ処一モ採用ナカリシ関係上、今突如トシテ男独リ立ツ事或ハ六ケシカラント答ヘタリ、尚談話中侯ハ、渋男ノ如キハ商大サヘ出来得ル以上ハ、其手段方法ノ如キハ敢テ問ハズト明言サレタ位ナリトノ言アリシニ、予ハソハ文部当局ノ曲解ナル旨ヲ弁ジ、又序ヲ以テ学校ガ決シテ騒動ズキニハ非ル事、其歴史・専攻部存続ノ必要ナル事、新聞記事ノ煽動的ニシテ、或時ハ当局ノ言トシテ生徒ヲ激発セシムル事ヲ掲ケ、
 - 第26巻 p.701 -ページ画像 
又或時ハ旧教授ノ憤慨的談話ナド掲載スル事アルモ、何時モ事実ト相違スル事アリテ、彼等迷惑スル事情、過般ノ松崎排斥ニモ又今回ノ生徒総退学ニモ教授及同窓会ハ更ニ何タル関係無キ事等、縷々トシテ申陳ベタルニ、侯ハ相当ニ了意サレタル様也、其他桂侯ノ談話中ニ、伊公ガ此事ニタズサハリテ何等尽力センカトノ談アリシモ、公ニ対シテハ何卒差控ヘオカレン事ヲ望ミ置キタリ云々ノ話モアリタリ
今日ノ談話約一時間半、高久ハ一言モ発セズ、予ノ熱誠ナル言ハ侯ヲシテ同窓会ノ立場ヲ正当ニ了解セシムルニ多少ノ効果アリシナラント信スルト同時ニ、今回ノ問題ハ区々タル岡田次官ノ小細工ガ大臣ヲシテ深入セシメ、終ニ首相マデ大ハマリニハマリ込デ仕舞ハレタルニツキ、生徒対当局ノ喧嘩ニテハ到底生徒ノ負ニ終ルト見ルノ外無キコトヲ、予自身了解スルニ至レリ ○中略
夕刻青年会館ニ至ル、今日ハ山本邦之助・皆川晃二氏ノ発起ニカヽル父兄・保証人大会ニシテ、一昨夜上野精養軒ヘ会合ノ人々モ発起人中ニ加入セリ、本日来会者ハ階下ニ充満シ、何トナク殺気ヲ帯ビタルガ劈頭坐長ニ江原素六ヲ押《(推)》シ、次ニ島田三郎氏ヨリ近状ニ付キ知ル所ヲ報告セラレシ後、坐中ヨリ種々過激論又温和論モ出テシカ、結局弾劾的決議又ハ解決方法ニ対スル決議等ヲナス事ハ、益時局ヲ紛糾セシムル恐アルニツキ、兎モ角生徒一同ノ利益ヲ図ルノ趣旨ヲ以テ委員十名ヲ撰フ事トナリ、左ノ諸氏当撰ス
 江原素六 根本正 島田三郎 箕浦勝人  角田真平
 中野武営 星野錫 増田義一 来栖総兵衛 荒木真弓
○中略
渋沢男爵今夕房州ヨリ帰省ニ付、夜飛鳥山邸ニ至ル、中野氏ノ企ニカカル五商業会議所及保証人委員会連合ノ計画ニ付テ中野氏ノ伝言ヲモ伝フ、阪谷男亦来会、同男ハ花房子ト共ニ大臣ノ内意ヲ聞キテ渋男ニ調停ヲ依頼サルヽ様ノ極下相談アリシ由ナルモ、渋男ハ明日中野氏ニ会見シテ直接打合ヲナシタル上ニテ決意スル積トノ事也 ○下略
五月十九日 晴
飛鳥山邸ニテ早起、男爵ト食事ヲ共ニシ汽車ニテ九時兜町ニ出勤ス、中野武営・大橋新太郎二氏男爵ヲ来訪シ高商問題ニ付協議アリ、男爵ノ考ニテハ商議員トシテハ是迄ニ屡々意見ヲ申立テヽ少シモ受付ケラレザリシ新シキ経験ヲ有スル事ナレバ無条件ニテハ甚不安心也、間接ナリトモ又黙解暗示等ノ方法ナリトモ多少ノ譲歩ヲ見出シ置ク事必要ナラントノ意向ナリシガ、中野氏ハカヽル事ヲ試ムルトキハ或ハ無効ニ終ルヤモ知レズ又最大譲歩トシテモ専攻部廃止ヲ現在予科生卒業マデ延期スル位ニ過キザラン、然ルトキハ折角ノ苦心モ制限的ノ効果ヲ得ルニ止マルベシ、況ンヤ二十四日ノ開校期迄ニ是然共復校セシメントスルニハ最早カヽル内交渉ヲ試ムルノ余日無キニ於テオヤ、夫ヨリハ全ク無条件・無交渉ニナシ置キ、アトハ徳義上責ヲ任ヒ一同戮力セバ進テ技本的解決迄モ為シ遂グル見込アラントノ事ニ男爵モ同意セラレ、愈々五商業会議所ト保証人委員トノ仲間ニ商議員タル資格ニテ聯合セラルヽ事ニ決定(他ノ商議員益田孝・近藤廉平・安部泰蔵三氏―園田氏ハ洋行不在―ニハ中野氏ヨリ交渉スル打合トナル)
 - 第26巻 p.702 -ページ画像 
右ノ如ク決定セシヲ以テ男爵ト中野氏トハ更ニ予ニ対シ同窓会ニ詢リ且生徒ニ交渉シテ、三団体ノ勧告ニ従ハシムベク斡旋ノ労ヲ取ラン事ヲ求メラル
○下略
五月二十日 雨
朝ヨリ兜町楼上旧婦人室ニ於テ秘密会ヲ開ク、会スルモノ関一・佐野善作・滝本美夫・郷隆三郎、和田瑞及予ノ六人也 ○中略
関幹事ハ今日初メテ男爵ニ会見シ直接ニ三団体ノ意見ヲ聞キ予ノ伝言ト一致スル事ヲ確カメ益安心ヲ固メタリ、本日モ吾人一同居処ヲ秘密ニシ外間ト接見ヲ避ク、事件ノ進行ニ害アレバナリ
○下略
五月廿一日 晴
○上略
三団体側ハ渋沢・益田・近藤ノ三商議員、会議所委員ニハ中野武営・松方幸次郎・藤江章夫・大橋新太郎・日比谷平左衛門・杉原栄三郎・稲毛登三郎ノ諸氏、又保証人委員トシテハ島田三郎・箕浦勝人・根本正・荒木真弓・星野錫・増田義一・角田真平・来栖総兵衛ノ諸氏貴賓室ヘ列席、初ハ関氏ト予トニテ其室ニ至リ改メテ中野氏ヨリ今回ノ件ニ付生徒ニ勧告セントスルノ趣意及同窓会ガ此事ニ斡旋セン事ノ希望ヲ陳ヘラレ予ハ厚意ヲ謝スルノ挨拶ヲナシ、引下リテ更ニ別室ニ在リシ生徒総代五名ヲ引ツレ再右ノ室ニ入ル、玆ニ於テ中野氏ハ一同ヲ代表シテ懇切ニ談話アリ原島・徳野ヨリ厚意ヲ謝シ自分共ハ正ニ受諾シタルニ付一同ヘ至急詢ルヘキ旨ノ答アリ、引ツヾキテ渋沢男・島田三郎・角田真平・増田義一ノ諸氏ヨリモ交々懇切ノ談話アリ、此会見終リテ更ニ生徒五人ト予等二幹事トハ中野氏ト別室ニテ会見尚詳細ナル同氏等ノ決意ヲ承リ進テ向後ノ手続ヲ打合ハセ散会セリ ○下略
五月廿二日 晴
○上略
昼兜町ニ出勤ス、例ノ高商学生ニ対スル件、総代等ガ他ノ委員ト協議スルタメ昨夜ヨリ向島言問附近ノ鳥松ニ於集会セシ状況ヲ聞クニ、昨夜徹宵甲論乙駁今朝ニ至ルモ決定ヲ見ズト、今朝電話ニテ情報ニ接シ憂慮セシニ、更ニ昼頃受ケシ報告ニヨレハ、原島・徳野・南ノ三名ハ己ガ言ノ徹セサルニ失望シ突然行衛ヲ晦マシ、且徳野ハ中野武営氏ノ宅ニ至リテ己ガ不明ト不肖トヲ謝シ、江ノ島ヘ高飛ビセシトノ事ニテ予等其間ニ介在スルモノトシテハ容易ナラヌ場合トナレリ、然ルニ同窓和田瑞氏ハ商学士中ノ口聞《(利)》ニシテ、且比較的新ラシキ故生徒トモ近キ間柄ナルヲ以テ、多分原島等ヨリ受ケシナランガ情報ニ気ヲモミ、今朝来鳥松ニ出張シテ大ニ勧告ニ勉ムル由ナルモ、予等幹事コソ当面ノ責任者トシテマヽナラヌ場合ナレハ、関氏ト交渉シ不取敢現場ニ出張ス、鳥松ノ楼上一間ニ百十人ノ学生集団シテ坐シ足ヲ容レル空席モナシ、一同和服ニテアグラヲカキ、昨夜来ノ徹宵ニ皆々目ヲ赤クシ、状景誠ニ異様ニ感ゼラル、和田氏ヲ始メ佐野善作氏モ先着、説諭ヲ終ヘシ処ナリシカバ、予ハ幹事トシテ中野氏等ヨリ直接其説明ヲ承リシ関係上充分ニ之ヲ解説シ且誠意ヲ以テ一同ノ之ヲ容レン事ヲ勧ム、其
 - 第26巻 p.703 -ページ画像 
内ニ滝本・関両氏来着、一時退席シテ此両氏ト佐野・和田両人ト共ニ艇庫楼上ノ一室ニ至リテ種々協議シ、且生徒ノ一両名ヲ招キテ昨夜来ノ実況ヲ問フニ、多数ハ心中了解シタルモノヽ如ク、今一際ナラント観測ス、依テ一同足ヲ鳥松楼上ニ運ヒ、今回ハ関・佐野両氏ヨリ懇々勧告スル所アリ、生徒中ニハ最早一同理会シタルト認ムルニ付、賛否ノ決ヲ取ラント主張スルモノアリ、玆ニ予等ハ態ト退席シテ別室ニ至リシニ、立処ニ満場委員百十名ハ、一同三団体ノ勧告ニ応スベク決セリトノ事也、玆ニ於テ一先安心ハセシモノヽ、肝腎ノ原島・徳の・南ハ不在ニシテ、アトアトノ事ヲ協議スルニ困リタリ、去レハ夫ヨリ言問ノ離座敷ニ専攻部ノ生出某及惣代五人中ノ残二人、即宇野・平岡両名等ト会シ向後ノ手順ヲ議ス、隔靴掻痒ノ感無シトセザルモ、兎モ角彼等ハ委員一同手分ケシテ今夜中ニ各組会ヲ開キテ同意セシメ、明朝七時半神田青年会館ニ、学生大会ヲ開キテ決議ヲナスベク、従テ九時半ヨリ三団体諸君ニ御来臨ヲ乞ヒ度ト申出デタリ、実ハ廿四日ノ開校日ニ美事立派ニ出校セシメタキ希望ト、今一ツハグズグズスル間ニ新聞其他ノ離間・中傷・流言蜚語アルベキヲ思ヒ、大ニ事ノ急ヲ欲スルトニ依リテ、予等ハ是非二十三日中ニ解決ヲ告ケタキ希望ナリシ也、然ルニ委員百余名間ニサヘ、予定以上即凡ソ一昼夜ノ論難時間ヲ要セシ位ナルニ付、或ハスグ明朝トイウ事ハ無理ニハ非ルカト疑ヒ、希望ハ希望、疑ハ疑トシテ協議セシニ、総代等ハ明朝決行シ得ト確答ヲ申出デタリ、予等尚疑ナシトセザルモ、尚一日延バシテモ矢張疑ハ疑也故ニ寧ロ背水ノ陣ヲ張リテ、何トモシテ明朝決行シ得ルヨウ必死尽力スベキ事ヲ決意シ、中野武営氏ニ電話ニテ事ハ略ボ纏リタリ、明朝九時半三団体諸君青年会館ヘ御臨席ヲ乞フ、生徒ハ同校挙テ出頭シ、御勧告ニ応スベシト断言ス、時ニ四時半、最早予等ノ面目ニカケテモ成功セサルヲ得ズ、冒険ニハ相違ナキモ、精神一到何事不成ノ赤誠ハ、我胸ニ充満セリ、ココ大責任・大覚悟! 千余名ノ血気ノ青年、シカモ悲憤慷慨退学ヲ決議セル熱血児ノ千余名ヲ寝耳ニ水ノ一晩ノ間ニ翻然復校ト決心セシメザルベカラズ、熱誠ナクシテ如何ニゾ之ヲ受合ハレ得ベケン、覚悟ナクシテカヽル冒険ヲナシ得ンヤ
関・佐野・滝本三辞職教授ト共ニ、浅草公園トキワ牛肉店ニテ夕食ヲ認メ、相携ヘテ母校構内同窓会事務所ニ至ル、実ハ三団体対生徒間ニ同窓会幹事トシテノ介立ニ付テハ、事突差ニ起リタルト、事ノ漏洩ヲ恐ルノ関係上、未タ常議員会ニサヘ詢ラザリシガ、今夜七時半ヨリ会ヲ開キテ、初メテ之ヲ協議スル事トシタル也、会スル人々二十名ニ近シ、予ハ幹事トシテ過ル十一日夜ノ常議員会以来一回ノ開会モセザリシモ、幹事トシテハ種々奔走尽力シタル状況ト、及ヒ三団体ニ関スル件々ヲ報告セルニ、実ハ来会者中幹事ノ専断ヲ叱スル者モヤト恐レシ事ハ全ク空トナリ、却テ一同ハ宮川久次郎氏ヲ代表トシテ、幹事ノ行動ヲ賛シ謝詞ヲ陳ヘラレ大ニ安心セリ、即明日ノ学生大会ニ於テ、同窓会ノ名ニ於テ三団体勧告ニ従フ事ヲ勧告スル事、及同窓会ハ三団体ト共ニ母校ノ改善・発展・拡張ヲ期スル事ヲ明言スル事ヲ決議セリ
常議員会ハ九時散会セシモ、予等両幹事ヲ始メ佐野・滝本・郷・和田日高・田崎其他数名ハ、今夜神田方面各所ニテ開ケル学生各組会ノ状
 - 第26巻 p.704 -ページ画像 
況、折角如何ナラント心配ニ堪ヘズ、事務所ニ詰切リ情報ヲ集ム、責任アル総代原島・徳野・南等ヘハ今夕来屡々江ノ島金亀楼ヘ電話ヲカケ、事ノ落着ニ頻セシ事ヲ告ゲ、至急帰京ヲ促カシタルニ、明朝一番ニテ先方ヲ発シ、九時半ニハ着場スベシト誓ヘリ
夜半過ニ至リ各所ノ情報ハ先ヅヨキ方ナレトモ、何分突差ノ為充分ニ人モ集マラズ、果シテ明朝迄ニ全部マトマルヤ否ヤ頗懸念ナシトセズ責任者ハ不在、中々当惑也、各員手分ケシテ各方面ニ向フ、中ニモ本科三年ハ玉泉亭ニ在リ、佐野・和田二氏至リシモ未纏マラヌ情報アリシヲ以テ一時過迎ヘラレテ其処ヘ出張シ、予モ又口ヲスクシテ勧説シ且数ケノ質問ニ応答ス、稍了意スルモノヽ如シ、二時半一同事務所ヘ帰集、暫時一寝入リスベク、関・佐野・滝本・田崎ト共ニ近傍ノ旭楼ニ至リ一泊ス、時ニ三時也、トロトロスル内本科二年生某来リ、稍マトマル見込アリト注進スルナド、戦地ノ参謀部ノ如シ ○下略
五月二十三日 日曜
○上略
朝食後、関・佐野・滝本・田崎等諸氏ト青年会館ニ至ル(郷・和田・日高・堀越、其他同窓会員十数名亦漸次来リ会ス)時ニ七時半頃也、学生ノ会館ニ集ルモノ已ニ数百名、中ニ未タクラス会ヲ終ヘサルモノ(昨夜来未タ決定ニ至ラサルモノアリ、又今朝初メテ之ヲ開キシモアリ)ハ会館楼上又ハ三階ノ各室又階下ノ地下室等ニ夫々立テコモリテ協議会ヲ開キ、ドノ室ニテモ甲論乙駁、議論湧クガ如シ、学生ノ委員ノ説明丈ニテハ容易ニマトマラズ、依テ関氏ハ地下室ニ於ケル本科三年級会ニ、予ハ同本科二年級会ニ臨ミテ三団体ノ趣旨ヲ説明シ、且今ヤ已ニ三団体ノ人々ハ形式的ノ勧告ノ為来着セントスル場合故、善トサトラバ速ニ同意セヨト迫レリ、彼等逐々マトマリ会場ヘ進出ス、然ルニ最強硬ナル一団ハ本科一年級ニシテ、之ハ三階ノ一室ニ立籠リ、最鞏固ノ輩五六名アリ、容易ニ同意セズ、或ハ和田氏・滝本氏其他コモゴモ説クモ異論百出、或ハ己等ハ退学ヲ目的トシテ退学セシナレバ今更復校ノ謂ハレナシト号シ、或者ハ条件ヲ握ルニ非レバ断シテ復校ヲ肯ンゼズ、又或者ハ昨夜来突差ノ談ニテ即決セヨトハ無理也、相当熟考ノ期間ヲ与ヘヨト訴ヘ、終ニ彼等ハ大会ノ席ニ列ナルヲ肯ゼズト断言スルニ至ル
之ヨリ先キ三団体ナル渋沢男・中野武営・日比谷平左衛門・大橋新太郎・小野光景・松方幸作・藤江章夫・杉原栄三郎・馬越恭平・稲毛登三郎・箕浦勝人・根本正・島田三郎・荒木真弓・来栖総兵衛ノ諸氏ハ約ノ如ク九時半ヲ期シ別室ニ来集セラルヽモ、一方ハ一向ニ運バズ、誠ニ手違ヒトナリ、不本意ナルモ一時申訳ヲナシ、兎モ角学生側ヲシテ十時半ヨリ学生大会ヲ開カシム(本科一年生丈ハ出場セズ)生出氏立テ大会開会、三団体ノ勧告ニ従ハントスルノ協議ノ要旨ヲ陳ブ、次ニ求ニヨリ予ハ同窓会幹事ノ資格ヲ以テ壇上ニ立チ、三団体ガ本件ヲ預リ責任ヲ以解決ヲ計ルヘキニ付、学生ハ宜シク無条件ニテ復校セン事ヲ望ムノ趣旨ヲ説明シ、同窓会ハ学生一同ガ右ニ従ハン事ヲ切ニ勧告スル旨ヲ陳ブ、劈頭階上ノ一隅ヨリ余計ノ御世話ダ(三団体ノ勧告ヲ指ス)ト号叫スルモノアリ、専一ノ岡田某トテ、今回ノ騒動ニ付発
 - 第26巻 p.705 -ページ画像 
狂ニ頻セルノ人ナリト、同輩ハ彼ヲ拉シテ場外ニ出テタル様子也、予ハ一応弁シ、終リテ後質問ヲ受クベク壇上ニアリシモ、一人トシテ質問ヲ為スモノナシ、次ニ関氏・滝本氏ヨリモ勧告演説アリ、終テ生徒中ヨリ一人出テ、二人出テ、三人マデ出テヽ反対演説ヲナスモノアリ満場拍手盛ニシテ形勢頗危殆也、和田瑞氏出テヽ反対論ヲ駁シテ生徒ニ勧告スル所アリ、学生中此時ノ司会者林好茂等ハ決ヲ取ラント傾キシモ、大勢頗懸念也、此時本科一年生ハ尚三階ニ在リテ論弁盛也、予亦到リテ熱涙ヲ流シテ説ク、郷氏・和田氏・滝本氏及昨年ノ卒業生タル古河在勤ノ春田茂躬氏、亦誠ヲコメテ談話シ、終ニ漸ク大会席上ニ臨ム丈ノ事ハ承諾スルニ至ル、時ニ十一時ヲ過グ、予等謂ヘラク、事予期ノ如ク九時半マデニ真実マトマルト思ヒシハ、十一時ヲ過クルモ尚マトマラズ、形勢容易ニ断スヘカラズ、三人ノ総代ノ勢力ヲ過信シ次ニハ百十名ノ委員ノ力ヲ過信シタルハ予等ノ誤也、千数百人決シテ土偶ニ非ズ、僅一夜ニシテ全然考ヲ改メシムルハ随分無理ナル事也、余等或ハ切腹ノ要ヲ生スルモ計ラレズト雖トモ、差当リハ予定ノ日程ヲ変更シ(先ツ大会ニ於テ全会一致議ヲマトメ置キ、然ル後三団体ヨリ形式ノ勧告ヲ聞キ、表面上復校ト一決セシムルノ手続)多少不面目乍ラモ事情ノ了察ヲ乞ヒテ、学生大会ハ未決ノ状体ニ置キマヅ三団体ヨリ直接ニ勧告演説ヲ乞ヒ彼等ヲシテ充分ニ理会セシメ、然ル後決意セシムルノ方法ヲ取ル外無シト考慮シ、之ヲ渋沢・中野・島田諸氏ニ詢リシニ、諸氏モ事情ヲ察シテ快諾セラレタリ、依テ一方学生大会ハ一時休憩セシメ、三団体ノ諸氏十五名ノ人々ヲ壇上ニ導キ、生徒ニ面シテ連坐ヲ乞ヒ、然ル後予ハ壇上ニ進ミ、之ヨリ同窓会ノ召集シタル学生大会ニ移ル旨ヲ宣シ、三団体代表者ノ勧告ヲ静聴スヘキ旨ヲ告グ玆ニ於テ先中野氏ヨリ、学生ノ主張ハ予等ニ預ケラレタシ、学生諸氏ハ本分ニ立返リテ復校セヨトノ旨ヲ荘重ニ申陳ヘラレ、渋沢男ハ母校ハ三十年来予ハ不可離関係ヲ有ス、之ヲ愛スル事蓋諸君ニ譲ラズ、諸君ノ衷情ハ充分ニ御察シ申ス、我々ニ一任シテ復校セヨト情ヲコメテノ談話ニ一同感泣セリ、次ニ島田三郎氏ハ政治問題トシテ飽迄モ当局ト争フ決意ノ旨ヲ陳ベラル、次ニ堀越善重郎氏ハ同窓会ヲ代表シテ、三団体ノ勧告ニ従フヲ可トスル旨ヲ勧告シタリ、玆ニ於テ学生総代徳野隆祐ハ一応学生ニ詢リタル上、三団体ニ答フル所アリ(御懇情ヲ謝ス、別室ニ引下リテ協議ノ上御決答申上ゲン云々)次ニ予ハ幹事トシテ、三団体及学生ニ謝辞ヲ陳ヘ将ニ壇ヲ下ラントスル際、渋沢男ハ更ニ善ト考フル以上ハ事ハ急決ヲ必要トス、学生諸氏ニ尚十分申伝ヘテ急速事ノ定マルヲ欲スルト申聞ケラル、モトヨリ大声、全学生ノ耳ニ入ル、蓋シ機先ヲ制シタル至言也 之ヨリ三団体諸氏ハ別室ニ去ラレ玆ニ同窓会ハ飲物及鮓等ヲ饗ス
学生ハ各室ニ分レテ各級会ヲ開キ、各級共賛否ハ多数決ニヨリ級議ヲ決シ、又全校ハ各級決議ノ多数ニ従フヲ先決シ、夫々詢リタル結果ハ愈全校一致各位ノ懇切熱誠ナル勧告ニ応シ問題ノ主張ハ各位ノ御取計ニ一任シ、生徒ハ明日ヨリ復校登校スベシト決シ申出ツ、此間一時間ヲ出デズ、即午後一時也、直ニ中野氏始メ一同ヘ申出テシニ、諸氏ノ喜一方ナラズ、連日ノ苦心・奔走・尽力・憂慮ノ末今朝来或ハ切腹申
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訳ノ外ナカランカトマデ憂ヒシ事件モ、流石ハ機到リ且三団体代表者ノ熱誠ニ動カサレテ美事解決ヲ告クルニ至リシ事ナレハ、此時ノ予ガ心中ノウレシサハタトウル物モナキ計リニシテ、蓋シ予ガ既往三十七年間ニ屈指ノ内ニ入ルベキ事件ナリ
玆ニ於テカ背水ノ陣、日切リノ決心ヲナシタル冒険モ大ニ其甲斐アリシ次第也
関ト予ノ両幹事ハ、徳野以下学生総代数名ヲ伴ヒ中野氏ノ玄関マデ挨拶ニ赴キ、予ハ別レテ飛鳥山邸ニ於ケル新緑宴会ニ至ル ○中略 予ガ出坐スルヤ否ヤ、種々ノ人々ヨリ連日ノ労(高商ノ件)ヲ謝セラレ、面目ヲ施コセリ、実ニ千四百名ノ生徒ノ正副保証人ハ至ル所ニ散在セリ、シカシ保証人ノミナラズ無関係者モ注意スル丈ノ大問題トナリシ也
夜ニ入リ帰宅シ、久シブリユツクリ休息就寝ス
五月二十四日 晴
○上略
関一氏ハ男爵ヘ挨拶ノ為来訪、男爵ハ将来ノ解決法ニツイテハ教授諸氏及同窓会側ノ意見一定ノ必要アリ、従来ノ失敗ハ具体的ノ方法案一定セザリシ点モ与カリテ力アリトセサルヘカラズトノ注意ト、今一ツハ教授諸氏ノ進退(学校問題解決ノ際ハ復職ヲ肯セラレタキ事)ニ関スル注文ノ意被申陳 ○下略
五月二十五日 晴
○上略 昼商業会議所ニ至ル、今日ハ三団体員第一回ノ会合トシテ、中野氏ノ召集ニカヽリ、関及予ノ両幹事モ招待セラレシ也、渋沢男爵始三団体ノ来会者中種々議論モアリシガ、要スルニ此際ハ文部省ヲシテ、突如トシテ法科大学ニ商科新設等ノ事ヲ発表セシメズ、研究ノ余地ヲ残セシムル事必要ナルガ、ソレニハ正面ヨリ表向ノ談判ハ却テ効力薄カルベキニ依リ、一・二ノ人ヨリ懇意ヅクニ穏当ナル話ヲナス事ニ打合ハサル、尤三団体中ヨリ解決ニ関スル特別委員七名ハ今日撰定セラレタリ、即チ渋沢男・中野武営・小野光景・島田三郎・江原素六・箕浦勝人・増田義一ノ諸氏也、渋男ハ明朝一個人ノ資格ニテ桂侯訪問ノ筈、他ノ委員ハ今日不取敢小松原文相ヲ訪ヒ、今回ノ調停ヲ報シタルニ、語端ハ議論トナリシヤニ聞及ヒタリ
○下略


一橋会雑誌 第五四号 明治四二年一二月 一橋申酉誌(DK260113k-0013)
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一橋会雑誌  第五四号 明治四二年一二月
    一橋申酉誌
      乾 ○略ス
      坤
同 ○五月廿一日、従来一致協力本問題の円満なる解決を得んと尽瘁し居たる母校商議員(渋沢男・益田孝氏・近藤廉平氏)・五商業会議所(東京・横浜・大坂・神戸・京都)・父兄保証人会委員より成れる三団体は、此の日午前十時八重洲町東京会議所楼上に会合し、学生委員六名を招き、復校就学に就き勧告する所あり、先づ中野武営氏は三団体を代表し、学生側の主張する所を尋ねたり、原島委員はこれに答へて、学生の主張する所は之を要するに
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 一、商業大学を一橋に設置すること
 二、右商大設置を見るまで厳正なる現状維持たるべきこと、即ち専攻部は存続すること、の二点に帰着する旨を述べたり
玆に於て中野氏は、右三団体は今後全然学生の主張を主張として全力を傾注し、責任を以て之が貫徹に努むべければ、学生一同は二十四日を以て復校就学せられたく、学生か本分を守り復校就学することは、毫も其主張を傷けざるのみならず、今後に於ける三団体の努力をして益有効ならしめ、主張の貫徹に便易なる旨を説かれたり、次で渋沢男島田三郎氏亦復校就学を勧告せられたり。
此に於て徳野委員は厚く三団体の懇情を謝し、且つ列席委員六名は復校如何に就き速答をなし能はずと雖、近日中に東京委員会を開き、三団体の意の存するところは之を全学生に通達すべき旨を答へて退場したり。乃ち六名の委員は直ちに檄を飛して、本日夕刻向島鳥松に於て旧委員総会を開く旨通知したり。
檄に応じて向島鳥松に参集したる旧委員百四名なりき、午後十一時委員会を開く、徳野先づ会議所に於ける三団体の交渉顛末を報告す、退学の事既に完了し、最早考量の予地なしとなせる一同は、事の意外に驚き、蹶起或は之に説明を求め、或は之を攻撃詰問し、原島亦縷々之を説明したり、議論数刻遂に委員の協議に移りたる結果、大多数は飽までも初志を貫徹して一歩も退かずと論じたり、而かも果して然らば吾人は仮令此際吾人の希望全く達せらるも、尚ほ復校せざるやの議に至り、少数の反対論者を除きては、其の際の復校を是認したり、之に於て委員は吾人の希望実現せられたる後に非れば復校せすといふ実現説と、吾人の策既に尽きたる今日に於て、熱心にして有力なる後継者顕れ、大に吾人の主義を主義として戦はん為母校の存在を要し、反て吾人の就学を要するとなす時に於ては、一橋の為め之に信頼して復校すべしといふ信頼説との二派に分れ、再び論戦数刻の後、問題は然らば三団体は信頼すべきものなりやといふ事に帰し、三度議論沸騰し、余沫は飛んで三委員の攻撃に及びたるを以て、三人は委員の明なきものなりとし席を去りたり、午前六時一先づ休憩し、八時再び会議を続けたり、衆議は即ち実現説と信頼説とは原島等の説明は未だ以て三団体の意思を十分に了解せしを以て《(さり脱カ)》、宜しく委員一同は三団体に会見すべしといふ会見説との三に分れたり。更に先づ今は三団体の厚意を感謝して止むべしとの説も出で、略之に決せんとせる時、同窓会和田瑞氏、次ぎて同窓会幹事八十島親徳・関一・佐野善作・滝本美夫の四氏又来場せられ、つぶさに三団体の意思を紹介せられたり、四度議論沸騰の後、遂に採決の結果九十六の差を以て復校と決したり。玆に於て今夜中に各組会を招集して之を報告し、明二十三日神田青年会館にて三団体と会見までに全学生の意見をまとむる事に決し散会せり、時に午後五時、人事遂に計る可からず。
此夜委員会は徹宵各組会を招集し、帰郷せる学生には翌日の学生大会に出席すべき旨打電せり、
五月廿三日、午前八時より青年会館に於て各年級会を開き、昨夜の委員会の決議を附議せしに、議論沸騰、奮然委員の熊度を罵倒し、一橋
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の生命を呼号するもの、慨然正義の廃頽を憂ひ、一橋の将来を思ふものあり、各室騒然として帰一するところを知らず、同窓会員及び諸教授は此の間にありて極力復校の理由正しきを説明せられたり、如斯中午前九時三十分大会を開く、一委員開会の辞を述べて曰く、学生の為め熱誠其の善後を策せんとする三団体より、其全責任を以て復校の勧誘を致され、先輩同窓会亦極力此の間に斡旋して、同じく全責任を以て三団体の提議を容るべきを勧誘せられ、結果は一昨夜より昨夕に及べる向島委員会の徹宵討議となり、復校の可否は容易に決する所を見ず、さきに委員会を代表して三団体と面会せる各級代表委員の中、主として三団体の勧告を容れ、復校に決すべき旨を提議せし上級委員三名は、其復校の可否を投票に採決するや、否決せられしを以て、其委員としての代表権を制限され、委員としての信任を失ひたりとなし、其任を辞し場を去れり、時正に夜半を過ぐ、爾後委員の意気と熱誠と審議は其頂点に達し、遂に暁明に及びしが、畢竟帰着する処なきを以て、一委員の提唱により更に議長を挙げ、系統ある審議討論の歩を進めしが、議尚容易に決せず、議長は単純なる多数決を以て之を決するには未だ実情に於て尽さざるものありとなし、徐に其議の発展し成熟するを俟ちしが、其間同窓・先輩単純に復校勧誘に来るあり、終に午後五時に至る、此時同窓会幹事八十島氏及関・佐野・滝本三氏来訪、極力復校を勧誘せらる、如斯して大勢は転々復校に向ひ、向島委員会は其最終の採決に於て復校を可決せり、即ち昨廿二日午後六時なり、爾後八方に伝達して本日の大会を開催し、更に衆議に復校を問ふに及べりと、開会の辞に次で、一昨夜来委員会の決議事情を報告し、尚之に対して大会が賛同せん事を求めんとせしに、場中反対を叫ふものあり、喧騒を加へしが、更に一委員代りて三団体の勧告の容るべき事、復校の止むべからざるを縷述せり。之に次で質問権を得たる大会出席者中、登壇して反対説を主張するもの一・二ありしが、更に一委員及八十島同窓会幹事相次いで、三団体諸氏が直接学生大会に勧告忠言せんとし其機会を求めらるゝあり、大会の容るべきやを図りしに、異議なかりしを以て、三団体委員諸氏は即ち壇上に顕れ、声涙共に下るの熱誠を以て直ちに学生の心胸を打たる、諸氏の演説左の如し、中野武営氏曰く。
   ○演説略ス。
次いで渋沢栄一氏登壇、謂はく。
 東京高等商業学校の教育程度を大学にまで進め度いといふ世の中の希望は、殆んど十年此方多数の声が段々高まり来つた様に思ひましたのでございます、御臨席の学生諸君は、大に向上しつゝある学校に愉快に就学をされて居られた、末頼母しい青年である、縦し学校の程度が上らぬでも、我々の実業界を継続して下さるお方と思ふと失礼乍ら我子か我孫の様に私は深い同情を以て居る積りでございます、然るに其の向上されやうと思ふた事柄が、十年も経過して稍々其望を達しさうに進んだと思ひきや、意外な変態を生じて、其間には我々も頗る憂慮しまして、微力乍ら商議委員の一人に居ります為に、当局のお方々に種々愚見を呈した事もございましたけれども、
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学問も無し徳も薄し、弁論も甚だ其要を尽さなかつたものと見えて一も聴かれ得んで遂に諸君をして斯る苦境に陥ゐる様に至らしめた事は、自分等第一に大に面目を欠いた事で、頗る慚愧の次第でありますけれども、併し此の千数百の諸君が一歩を誤ると実に容易ならぬ事になりはせぬかと苦慮いたします、而して此千四・五百の人々が容易ならぬ境遇に立ち至るといふ事を憂ふるのみならず、諸君の今就学して居る母校は、決して一朝一夕に出来たものではありませぬ、斯様申すと老人の繰言の様に聞へまして、少し憚り多い口上にはなりますけれども、我が帝国の教育といふものは今日は実に進んで来たに相違ない、又行届いて居るに相違ないけれども、三十年の昔を考へて御覧なさい、実業の教育といふものに対して、心を尽した人はさうたんとありませぬ、法律とか政治とか軍事とかいふ事には、如何にも教育は進んだに相違ないが、実業教育といふ事は三十年以前は甚だ冷淡であつたといふ事を言はねばならぬ、其実業の教育の最も元祖ともいふ可き此一橋の高等商業学校が、今日諸君の御一身を誤るのみならず、若し此事が益々非運に傾いて参りましたならば、此学校は門前雀羅を張る様になりはせぬかと思ひますと、我が力足らぬで是迄の関係、是迄苦心尽力した事を申上げられませぬか知れませぬが、今申す様に、実業教育を三十年来唱へて、斯の如く進んで参つた母校迄が廃滅に帰しはせぬかと思ひますならば、目前に諸君の是迄の修学を犠牲にするのみならず、此歴史ある学校をして遂に頽廃せしむる様になるとしたならば、ナンと此位教育界に悲しい事は無いと申さなければならぬと、私は深く憂ふるのでございます。唯今東京商業会議所の中野君から諸君の復校に就て懇々のお説諭がありました、私も是は中野君のお説に是非御服従なさいませ、御同意なさいませ、と申すより外ございませぬ、深く此事を希望いたします、併し諸君が今日此場合に立至つた事に付ては、私は実に深く之を諒と致しますでございます、今も申します通り、回顧しますと、明治の七年であつたと思ひます、此母校の初まりは、世の進歩に従て実業教育が発達せねばいかぬといふ事を、故森有礼君が唱へて、其尽力で此学校が初まつたので、之を東京府が助力したのである、尋て有礼君が身分の変更からして学校は東京府の管理する所となつた、さり乍ら明治十五・六年の東京府会は左様な費用の負担に堪ぬといふ事で、此学校を廃さうとした時に、私共が大に之を憂ひて、どうぞ存続し度いといふて大層心配をしました、大層と言つても我々の微力でありますから、其様な大きな事も出来ませぬが、当局に向つて切に懇願し社会にも其理由を説得したのであります、殊に其時に左様な念慮を強めた原因は、前に申述べます通り政治に法律に軍事に医術に、さういふ方面に向つての教育は甚だ具備して参りましたけれども、商工業に対する教育は甚だ冷淡である、斯様な事では未来の国家の富は覚束ないといふ念から、是非此の実業教育を勧めなければならぬ、商工業は無学で宜いといふ事は、大いなる過ちである、力を尽し声を枯らして其事を苦慮したのが、幸に其甲斐あつて、遂に官立となつて追々に発達し来つたのでありま
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す、而して年一年に入学希望者も多く、又有為の人も出まするし、段々発達して参る所から、丁度十年計り以前より、我々志を同じうする人々の間に、商業丈けが大学にならぬといふ事は無いではないか、商業は一階級低い学校に永久止まる可き筈は無い、どうしても分らぬ、昔の学問の仕組はいざ知らず、今日では欧羅巴でもさういふ仕組で無い様に聞いて居る、我々学者で無いから何処の制度が斯うあるといふ事迄明言はしませぬけれども、昔の士農工商、商は各階級の下に居るといふ事は、いつ迄も襲踏され可きものでは無からう、然る上からには是非共商業教育をして大学たらしめる必要ありと、斯う考へまして、頻に同志者と之を唱へたのが、遂に商業大学の声の高まる原因であつた、所が此事は独り商業者間で唱へる許りでなく、又母校の関係の同窓会で唱へる許りでなく、又学生諸君が唱へる許りで無しに、国家の重きに任ずる所の帝国議会、上下両院が唱へた、遂に是が輿論となつて再三当局への建議となつた所が、其の事実は如何になるかといふと、実に案外なる結果を来しさうであつたから、我々大に憂ひた、同窓会も大に憂ひた、世間も大に憂ひたのが、遂に諸君の今日の境遇に立至る原因である、取も直さず我々の希望は、本膳の料理を食べ度いといふのである、其本膳の料理を呉れるといふ名の下に、従来貰つて居る所の会席料理迄も取上るといふ事になる訳だから、丸で反対の有様である、モウ一ツ例を言へば、三階に登り度いと言つたのが二階迄外づされるといふ事になつたのだ、是が遂に諸君をして斯る境遇に立至らしめたと思ふのであります、故に諸君の此度の行動を評論する場合に、之を治世の乱民といふ事も出来ませう、如何となれば生徒たる者が本分を忘れて当局と争ふといふのであるから、治れる世の乱民と言へるかも知れぬ、又或は暴政に対する義民といふ事も出来ませう、如何となれば当局者の仕方が甚だ悪るい、悪るい事には服従は出来ぬ、といふ義侠心から身を殺して仁を為すのだとも言ひ得ます、其評論は私は玆に論断して申す事は好みませんが、世の中に定論がありませう、例令ひ暴民であらうが義民であらうが、今諸君の力を以て直様其希望を達するといふ事は決して出来ない、此出来ないといふ事だけは暴民・義民を問はずして明かである、是非ともに諸君が此の希望を直接に達しやうといふ事であれば、即ち前に憂ふる如く此千数百名をして是迄の蛍雪の労をば犠牲に供し、全く其方向を誤るに立ち至る、モウ一ツ更に憂ふる所は、母校に大いなる汚点を与へる訳になる、是が東京商業会議所を初め五箇所の商業会議所の諸君が最も憂慮せられて、黙視するに忍びぬから、此処に立入つてお揃ひ申して諸君を学問に従事させ、諸君の意思を諒して、遂に其希望を完ふする様に致し度いと、奮励一番したる所以であります、今日の場合は諸君に対して、多言を要する事は私は無らうと思ふ、事情は明了に分り切つて居るのだから、諸君が如何に趣意が分らぬとか、結局はどうなるのだらうかといふ事をお問ひなすつた所が、我々が斯くしやう、といふ事を玆に明言する事は出来るものではない、併し事情は察して居る、此察するの一言が、既に已に大に力があるでは無い
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か、前に申す通り、若し諸君が治世の乱民であつたならば、憚り乍ら我々世の中に相当の信用を保ち相当の位地ある者共が、何で此処に与かるでありませうか、今日諸君が只身を犠牲にした所が如何なる効能があります、只諸君の身を誤り、母校に大いなる疵を附けるに過ぎぬのである、而して他から論ずれば、あれだから学生は困る取も直さず反対の口実を以て、却て諸君の志に同情を寄せる人を攻撃するの材料を与へる様なものである、是だけの道理は既に学問に付て長い御苦労を為すつた諸君に、必ずお分りにならぬ訳は無い、殊に頃日来の挙動を見ると、其進退の態度が、誠に能く一致して居る、同盟退学といふ事は私はお賞め申し度くない、お賞め申し度くないが、併し其間の処置に於ては甚だ整然と秩序がある、此秩序ある諸君であれば、既に其事が分つたならば、其分つたに対して同様に秩序を立てなければならぬと思ふ、それでなければ文明の学生でないのである、復校して一心不乱に学問に従事なさいといふ事に付ては、既に前席に中野君が繰返して懇切にお話がありまして、我々の立つ所以は斯る精神であるといふ事を喋々と述べられました、私は寧ろ諸君に同情が厚いのです、高等商業学校をして大学たらしめ度いといふ希望は、諸君より十年も前から私は申して居る、又今日の此場合に至つたのを憂ふる、悲しむといふ事も、或は諸君の涙より私の涙が余計あるかも知らぬ、諸君をして何処迄も極端に趨らしめるのは諸君の為に利益の無い事である、而して世の中にも裨益が無い事である、是は能く考へて貰ひ度いと思ふから、反覆此事を申す所以であります、どうぞ呉々も我々共の述べる衷惰を十分御諒意下さつて、此場合進むに整然たる秩序ある者は、退くにも同様の行為に出でられん事を希望致します、と
次いで島田三郎氏登壇曰く。
   ○演説略ス。
次いて堀越善重郎氏同窓会を代表して曰く。
 三団体諸君の深き御同情並に其御忠告に向つて御礼を申上げると同時に、我が同窓会員の決議文を玆に朗読いたしまして、諸君の御賛成を請ひ度いのでございます。玆に其決議文を読上げます。
      決議
 一、本会ハ(東京・大阪・京都・横浜・神戸)五商業会議所・母校商議員・学生父兄保証人会委員ノ三団体ガ、母校ノ改善・拡張・発展ニ関スル学生ノ主張ヲ諒トシ、責任ヲ以テ之ヲ承継シ、極力其貫徹ニ尽瘁セラルルト共ニ、学生ノ何等ノ条件ヲ附スルコトナク直ニ復校シ学ニ就クコトヲ勧誘セラルヽノ好意ヲ謝シ、学生ノ速ニ此勧誘ニ応センコトヲ切望ス
 二、本会ハ前項ノ三団体ト共ニ、母校ノ改善・拡張・発展ニ関シ、極力目的ヲ貫徹センコトヲ期ス
 斯の如く決議いたしましてございます、先刻より先輩のお方々の御勧告、誠に其御同情の深き、何ともお礼の申上げ様も無い位、私は深く感じて居ります、先刻から其お話を承りまして、実に涙を流して肺肝に徹して居ります次第でございます、蓋し諸君に於ても御同
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感であらせられると思ひます、どうぞ先輩のお方々の御忠告を容られまして、温順に御復校あらん事を切に希望いたします、玆に同窓会を代表いたしまして、御臨場の皆様に深くお礼を申上げますと同時に、学生諸君が其の御勧告を容れられる事を望みます、聊か玆に同窓会を代表いたしまして、一言申上ます、と。
次に徳野立ちて、学生大会の同意を得て、学生を代表して三団体委員諸氏に其厚意と尽力とに対し、丁重なる謝意を致し、其厚意に対し、熟議の上答ふる処ある旨を述べしを以て、三団体諸氏は此旨を諒し、告別して学生の敬意を表する間に場を去られたり。
こゝに於て学生は楼上・楼下の各室に再び各級会を開き、復校の議を討議し、或は直ちに採決せしに、遂に大勢は之を可決せり。
即ち各級代表委員は之を齎して、楼上に待たれたる三団体委員諸氏に答ふる処ありたり。
   ○中野武営ハ五商業会議所ヲ、栄一ハ商議委員会ヲ、島田三郎ハ父兄保証人会ヲ代表シタルモノナリ。


万朝報 第五六七一号 明治四二年五月二四日 高商問題一段落(DK260113k-0014)
第26巻 p.712-713 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK260113k-0015)
第26巻 p.713-714 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四二年     (渋沢子爵家所蔵)
六月一日 半晴 暑
○上略 午後六時帝国ホテルニ抵リ、高商同窓会ノ催ニ係ル宴会ニ出席ス ○下略
 - 第26巻 p.714 -ページ画像 
六月二日 曇 暑
○上略 八時朝飧ヲ食シ、後岡田良平氏ノ訪問ニ接シ、高商学校ノ事ヲ談ス ○下略
六月三日 晴 暑
○上略 午前九時兜町事務所ニ抵リ ○中略 午前十一時中野武営氏、関・佐野滝本ノ三教授等ト高等商業学校ノ事ヲ談シ、午飧ヲ共ニス ○下略
   ○中略。
六月五日 曇 冷
○上略 午前九時小松原文部大臣官舎ヲ訪問スル為メ自働車馬場先ニ抵リテ自転車ト衝突ス、幸ニ瑣少破損ニテ双方ノ人ニ負傷ナカリキ、依テ人車ヲ雇フテ文部大臣邸ニ抵リ、中野武営氏ト共ニ高商学校ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月十八日 晴 暑
○上略 午飧後商業会議所ニ抵リ、高商学校ノ事ニ関シ三団体ノ打合セヲ為ス ○下略
六月十九日 雨 冷
○上略 午前十時桂総理大臣ヲ三田私邸ニ訪ヒ、中野武営氏ト共ニ高商学校ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
六月二十三日 曇 冷
○上略 中野武営氏ヨリ電話来ル ○中略 午前九時中野武営氏ヲ其邸ニ訪ヒ、高商ノ事ニ関シテ談話ス、尋テ相共ニ桂総理大臣ヲ三田私邸ニ訪ヒ、高商学校ノ事ヲ談シ ○下略 十二時日本橋倶楽部ニ抵リ ○中略 午飧シ、後東京商業会議所ニ抵リ、高商学校ニ関スル三団体ノ集会ニ出席ス、協議畢テ ○中略 午後六時銀行倶楽部ニ抵リ、晩餐会ニ出席ス、文部次官、各学校長諸氏来会ス、食卓上各自ノ演説アリ、夜十時散会帰宿ス
   ○中略。
六月二十七日 曇 冷
○上略 午前 ○中略 文部次官岡田良平氏来リ、高商学校ノ事ヲ談ス ○下略
六月二十八日 雨 冷
(欄外記事)
 午後五時関一・村瀬春雄二氏来リ、高商学校ノ事ヲ談ス ○下略
   ○中略。
七月十日 曇 冷
午前 ○中略 三好長暉氏ノ来訪ニ接シ、高商学校ノ事ヲ談ス ○下略


(八十島親徳) 日録 明治四二年(DK260113k-0016)
第26巻 p.714-715 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四二年   (八十島親義氏所蔵)
六月一日 晴
○上略 帝国ホテルニ至ル、今夕ハ我々高等商業校同窓会常議員ガ主人トナリ、過日生徒復校ニ関シテ尽力セラレシ三団体ノ人々ヲ招待シテ聊謝意ヲ表スルノ宴也、渋沢男爵ヲ始メ中野・日比谷・大橋・馬越・稲毛登・来栖・島田・増田・角田・星野・箕浦・根本等ノ諸氏来会、我我常議員モ二十名余出席、食事中図師民嘉氏主人側総代トシテ謝意ヲ
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述ヘ、且祝盃ヲ挙ク、渋沢男所用ノ為中途退席ニ付中野氏答辞アリ、向後事ノ解決ニ就テハ自己ノ地位・名誉ヲ賭シテ之ニ当ル旨ノ陳述アリ、益人意ヲ強フセリ、食後モ別室ニテ雑談九時過退散
   ○中略。
六月二十三日 曇雨
○上略
十一時穂積博士ヲ牛込ノ邸ニ訪フ ○中略
余談トシテ高商校、将来矢張未解決問題残リ、紛擾ノ種ヲ残スノ現況也トイウベシ、従来ハ各方面共実行不可能ノ方面ニノミ進ミ行キタルヲ憾ム、将来稍出来得ベシト思ハルヽ解決法ハ、一橋従来ノ歴史ヲ重ンジ、之ヲ基礎トシテ(商科ノ)分科大学トシテ帝国大学ノ一部トナルノ方法ニヨルノ外ナケン、単独大学説ノ如キハ百年河清ヲ待ツガ如キノ類ト観察ス云々トテ、同窓会幹事タル予ニ対シ種々忠告アリ、昼飯後兜町ニ帰ル
本日午前、渋沢男及中野会頭、桂首相ノ招ニ応シ参邸セラレシニ、過日来希望申出ノ高商ノ件ハ、帝国大学法科大学中ノ一科トシテ商科ヲ置ク事ヲ延期セヨトノ要求、第二ニハ高商専攻部廃止令ヲ撤廃セヨトノ要求、共ニ当路者ハ之ヲ容ルヽ能ハサルモ、高商現在学生ノ既得権ヲ保護スルノ趣旨ヲ以テ、向フ六ケ年間丈専攻部存続ノ事丈ヲ昨日ノ閣議ニテ決定セリ、之レ即首相特別ノ配慮ニ依リ為シ得ル所ノ最大限ナリ、宜敷承引アリタシトノ事ナリシ由、従テ右両氏ハ午後二時ヨリ商業会議所ニ三団体員ヲ至急召集シ此事ヲ報告セシニ、一同不完全トハ乍申商業大学ニ関スル、又高商ニ関スル政治問題ハ残ルモ、現在学生ニ対スル問題丈ハ解決セルヲ祝シ、三団体ヲ解ク事ニ決シ、且同窓会ノ関幹事(予ハ出先不明ナリシタメ、間ニ合ハズ)ヲ招キ此顛末ヲ告ケラレ、併セテ同窓会ニ於テ学生ノ静穏ヲ計ラレタシトノ希望ヲモ申聞ケラレタル由
予ニモ夕刻右同様渋沢男ヨリ申聞アリ
夜同窓会事務所ニ臨時常議員会ヲ開キ、関氏ヨリ今日ノ事ヲ報告セシニ、此際ニ於テ獲得シ得ル所ノモノニ付テハ左モアルベキ事乍ラ、問題ノ全部ニ着目シテ、学生主張ノ全部ヲ完徹セント計リ興起シタル三団体ヲ解クヲ遺憾トスルノ声多ク、予モ至極同感也、明日幹事打揃ヒ此辺ニ付テ中の氏等ト会見、詳細承合スル事ニ決ス
但今夜原島茂ヲ招キ今日ノ成行ヲ報告シ、且同窓会ハ学生ノ此際ノ行動慎重ナラン事ヲ祈ル旨ヲ陳ブ


官報 第七七九九号 明治四二年六月二五日 省令(DK260113k-0017)
第26巻 p.715-716 ページ画像

官報  第七七九九号 明治四二年六月二五日
    省令
文部省令第十七号
明治四十二年文部省令第十四号第一項但書ヲ左ノ通改正ス
 但シ現ニ専攻部ニ在学スル生徒、及明治四十六年九月迄ニ東京高等商業学校又ハ神戸高等商業学校ヲ卒業シ、専攻部ニ入学ヲ志望スル者ニ関シテハ、仍ホ従前ノ規程ニ依ル
  明治四十二年六月二十五日
 - 第26巻 p.716 -ページ画像 
                 文部大臣 小松原英太郎


東京経済雑誌 第五九巻第一四九六号・第一頁 明治四二年六月二六日 ○高商問題の解決(専攻科六年存置)(DK260113k-0018)
第26巻 p.716 ページ画像

東京経済雑誌  第五九巻第一四九六号・第一頁 明治四二年六月二六日
    ○高商問題の解決 (専攻科六年存置)
去月東京高等商業学校総退学一件に関し善後策に責任を負ふて無条件復校を強ひたる商業会議所を中心とする所謂三団体委員は、其後文部省の態度に変改の様なきを認め、強鞏なる決議を齎らして政府に肉薄するに決し、十九日三団体委員の代表たる渋沢男及び中野会頭は桂首相に会見し先づ来意を通じて委員側の意見として左の二案を陳述せり
 一、商科大学設置に就ては、数次議会にも提案せられ、我等も亦其設置の必要を認むるも、其形式に関しては世間未だ一定する所なき如く、我等は当局今次の処置たる帝国大学法科内に併置するに対しては、寧ろ反対の意見を有するもの也、事情既に如此なれば、政府に於ても此際充分審議するの目的を以て、九月より該科併置の議は之を延期する事(第一案)
 一、然れども若し該商科併置は既に当局に於て決定したる所にして今更之を翻す事能はずとすれば、前に述べたる事情にある該商科は試験的性質のものにして果して世間の希望に副ふの実効を期し得るや否や疑問の中にあり、されば此際高等商業専攻部を廃止する事をせずして両々相対立せしむるに於ては両者間に於ける比較研究をなすを得べく、而して其結果は適者存立の自然理法に適合すべければ、該専攻部は之を廃止せざる事(第二案)
首相は之に対し、身は内閣の首班に位すと雖も、事は文教上の重大問題なるを以て、直に玆に即答すべき筋にあらずと思惟すれば、直接責務の任にある当局大臣と熟議審査の上、該当局大臣を通じて確答すべき旨の返答をなしたるに依り、二氏は事情を具陳し、本月中に熟議決定の上確答あらん事を希望して退出したり
首相は廿三日午前十時右両氏を三田の私邸に招徠して、左の如き回答を与へたり、
 廿二日の閣議にて高商専攻部存続期間二ケ年を六ケ年に延期し、以て現在生徒の既得権を侵害せざる事に決定したり
右に対し渋沢男は前記二件を提唱し、単に右専攻部廃止期延期の一事のみを以てしては、問題の解決に至り難き旨陳弁したるも、首相は今回の譲歩たる特に閣議に依て決定したるものにして、決して文相一個の意見に依らず、且閣議は文部省の反対に拘はらず、三団体の尽力を多として決定を為したるものなれば、当局の苦衷も諒察ありたしと述べたり、依て両氏は一先づ引取り、同日午後二時半商業会議所に三団体委員会を開き、中野氏より右会見顛末を報告して一同に賛否を求めたる処、結局三団体は之にて生徒千五百名復校の目的は達したる訳なれば一先づ解散すべく、而して高商問題に対する当局の失政は、教育問題として、商議員及び会議所に於て引続き研究する事とし、島田三郎氏より更めて父兄保証人代表者として渋沢・中野両氏の労を謝し、父兄保証人代表者は追て保証人会を開き、右の結果を報告する事となれり
 - 第26巻 p.717 -ページ画像 



〔参考〕小松原英太郎君事略 同編纂委員編 第八九―九九頁 大正一三年一一月刊(DK260113k-0019)
第26巻 p.717-720 ページ画像

小松原英太郎君事略 同編纂委員編  第八九―九九頁 大正一三年一一月刊
 ○第二編 第四章 文相時代
    第四節 商科大学問題
○上略
 商科大学問題は明治三十三年、東京高等商業学校同窓会に於て、同校商議員たる渋沢男爵が同校の発展を希望し、遂に之を商科大学たらしめんと欲する旨の演説ありたるに起因し、職員は勿論同校出身の同窓会員等の熱望の標目となり、漸次其の教育の程度を進めて大学となさんことを企画し、先つ文部省の許可を得て専門学校として、修業年限四ケ年(予科一年と本科三年)の外、別に二年の専攻部を置き、之を卒業したる者には商学士の称号を与ふることとし、斯くて時機を見て大学の組織となし、其目的を達せんことを期し、外部に対しても追追運動の歩を進め、牧野氏の文部大臣たりし時代(明治三十九年乃至四十一年)には、同校出身の議員の尽力と外部よりの運動とに因り、遂に帝国議会の問題となり、貴衆両院に於て商科大学設置の建議が通過するに至り、一面同校よりも専攻部を廃し本科及専攻部を合せて修業年限を六年とし、大学の課程に準じて其学科程度を高めんとする学科課程の改正案を文部省に提出し其認可を申請した。
 此改正案は表面唯学科課程の改正なるも、矢張大学問題と関聯せるものなれば、牧野文相は其儘之を握殺して予に引継いだ。蓋し商科大学問題は文部省の重要問題にて、之が解決に付ては幾多の困難あり、第一帝国大学の反対を顧慮しなければならないのである、我国は維新以来綜合大学制度を採り、工科の如き、農科の如き、皆之を帝国大学に綜合した、故に一橋高等商業学校を独立の大学となさんとすれば、従来の制度を変革し単科大学制度を取るの方針を決定しなければならぬ、之を帝国大学内に設置せんか、一橋高商は反対すべく、一橋高商の希望する如く独立の大学となさんか、帝国大学は之に反対すべく、即之を解決するに付ては帝大か、一橋高商か何れかの反抗を招くのであるから、文部当局者は玆に一大決心をなさねばならぬ事情があつたのである。
 翻て商科大学問題が帝国議会の問題となることとなりたる原因を尋ぬるに、近年欧米諸国にては商業教育を進めて或は大学内に商科を設置し、又は其学科程度を進めて大学と同等ならしむる等、商業教育に付ても漸次大学程度の最高教育機関を設けて時勢の要求に応じ、以て人材を育成せんとする気運勃興せる際なれば、此世界の気運と一橋高商出身者の熱心なる運動とに依り、貴衆両院議員中に於ても漸次商業教育程度を進むるの必要を認むることとなり、貴族院に於ては第二十三議会に於て商科大学設置の建議案を可決し、衆議院に於ては第二十三・二十四・二十五の三議会に於て、引続きて三回之が建議案を可決し、速に此問題を解決せんことを政府に迫るに至つたのである。而して第二十五議会は予が牧野氏に代て文部の局に当りたる時にて、予は特別委員会に出席し、委員諸氏より熱心なる希望を聴取せしが、委員中一橋高商出身者は素より同校の教育程度を進めて大学となさんこと
 - 第26巻 p.718 -ページ画像 
を熱望せるも、其他の議員は必ずしも一橋に拘泥するにあらず、時勢の進運に伴ひ商業界の牛耳を執るべき有為の人物を養成するは、今日の急務なるを以て、現今我国の学制に於て単独の大学を設置すること困難なりとせば、之を帝国大学の内に設置するも可なり、要は速に大学程度の商業教育機関を設置せんことを希望すと云ふのであつた。文部省当局者としては既に貴族院の建議あるに、衆議院の建議は引続き三回に及びたることなれば、只徒らに之を等閑に附するを得ず、且省内に於ても之に関する調査研究、略既に成り居りたることなれば、予は当時衆議院特別委員会に於て可成速に解決せんことを答弁した。
 当時渋沢男爵は一橋高商の商議員として最も熱心なる商科大学の主張者なりしも、他の商議員の意見は必ずしも渋沢男の意見と一致せるに非ず、即ち商議員中益田孝・近藤廉平諸氏の如きは、商科大学の必要を認めず、殊に益田氏の如きは、今日学校教育を受けて実業に従事せんとする者は、現在高等商業学校本科を卒業すれば其素養に於て敢て不足なし、成るべく年齢の長ぜざる内に実務に就かしむるを可とすとし、又実際従来専攻部を卒業したる者は、往々教員又は領事等を志望し、却て実業界に遠ざかるの傾あり、実業界に於ては寧ろ年齢の若くして勤務を厭はず、下級の実務又は支店・出張所等の勤務をも苦とせざる本科卒業生を歓迎するの実情であつた。渋沢男の意見も農に農科あり、工に工科あるが如く、商にも商科大学なかるべからずと云ふに在りて、一橋高商を大学となさんことを希望すべきは勿論なれども又帝国大学内に於て工科又は農科と同じく商科を設置するに於ては、其れにても満足する意見であつたのである。
 文部省にては議会閉会後更に詮議を尽したるに、今日に於ては最早大学程度の商業教育を授くるの途を開くことは、時勢の進運に応ずる適当の施設なりと認むるも、之と同時に現在の高等商業学校程度の教育の必要は毫も減ずることなく、殊に一橋高商は専門学校として多年実業界に有用の材を供給せることなれば、其本科・予科は現在の儘之を存続して、益其特色を発揮せしむることを要するものとし、一面商科の学科は大部分法律殊に法科大学中の経済科と密接の関係を有するを以て、之を帝国大学内に設置するに於ては、其方法最も経済的にて学生も亦研究上大に便宜を得べしとして、遂に商科大学は之を帝国大学内に設置することに決した。仍て明治四十二年四月十七日、(一)法科大学内に商科を設置すること(二)商科には高等学校及高等商業学校卒業生を入学せしむること(三)商科開設時期は成るべく明治四十二年九月とすること、の三項を東京帝国大学に諮問した。而して商科は之を法科大学内に置くか、又は法科の外に特に一分科として設置するかは、実際問題にして之を法科大学内に置くことに決したるは、法律・経済諸学科の関係と施設上の便宜とに因つたものである、若し当時商科を特別の一分科となすこととせば、帝国大学は之に反対せしならんも、必ずしも強硬の反対に非ずして、渋沢男は之に満足し、或は円満なる解決を見たらんも知るべがらず、政略上より考ふれば其方或は得策なりしならん、併し文部省議は法科大学内に設置するを以て最も適当の施設なりと為したのである。
 - 第26巻 p.719 -ページ画像 
 東京帝国大学に於ては前記諮問に付、法科教授会及大学評議会を開きて審議したるが、諮問案中高等商業学校卒業生を商科大学に進入せしめんとするの一項に対し、教授中強硬の反対ありしも、遂に其人員に相当の制限を附して之を入学せしむることとし、其他は総て諮問案の通り可決し、五月二日を以て浜尾総長より答申があつた。
 蓋し商科大学問題の解決は、東京高等商業学校より提出の改正案を認可して同校を大学校となすか、又は帝国大学内に商科を設置し一橋高商の専攻部を廃するに在り。当時予は帝国大学内に商科を設置するを第一策となし、若し帝国大学に於て異議あり之に反対するときは東京高等商業学校提出の改正案を認可して、之を商業大学校とする決心で居たのである、又之を大学内に設置するに付、高等商業学校卒業生を商科に入学せしめんとしたるは、一橋高商の専攻部を廃し、之に代ふるに大学商科を以てし、従来本科を卒へて専攻部に入りたる者に其進修の道を与ふる為である、故に帝国大学教授会に於て若し此入学に対し絶対の反対を表するならば、予は諮問案を撤回し、予の第二策に移らんと欲して居たのであつた。然るに帝国大学にても稍々其意見を緩和し、高等商業学校卒業生の入学人員に制限を加へて可決した、其制限に付ては文部省当初の精神を貫徹するを得ざるものあるを以て、猶慎重考慮の余地があつたのである、然るに一橋高商の反対運動盛に起り、文部当局者をして最早進で断行するの外退いて第二策を考慮するの時宜を許さざるに至つた。是に於て文部省は愈々之を帝国大学法科大学の内に設置することに決定し、随て東京高等商業学校に於ける専攻部は断然之が廃止の処置を取ることとなし、五月六日の官報を以て之を発表した。
 商科大学問題の帝国大学法科教授会の議に附せらるゝや、忽ち一橋高商関係者の聞知する所となり、同校同窓会は全国各地の同窓会と気脈を通じ、極力当局の方針に反対し、同校生徒も亦之に伴ふて不穏の状況を呈し、屡々集会して本問題に関する種々の決議をなすのみならず、政治家・実業家・新聞記者等有らゆる方面に向て運動をなし、且教授関・佐野等重立者は辞表を提出して授業を為さず、松崎校長亦既に辞表を出して出校せず、同窓会員は日夜学校構内の同窓会集会所に会合して運動方略を講じ、生徒も亦此処に出入して種々運動の協議をなし、全国各地の同窓会は激烈なる反抗的応援の決議をなし、又は書面を送りて生徒を煽動するものあり、生徒は全然学業を抛擲するに非るも、速に一刀両断の処置を施すに非れば、学校の秩序を回復する能はざる状態となるに至つた。是に於て予は断然専攻部廃止の省令を発すると同時に、松崎校長の辞職を聴許されんことを奏請し、真野実業学務局長に該校長事務取扱を命じ、且予て辞表を提出せる関・佐野等諸教授の職を免ぜられんことを奏請したる上、其の本分に付厳重の訓令を発して職員及生徒を戒飭した。
○中略
 乍去三団体委員は、学生に対し総退学の決議を取消し無条件出校を勧告するに際し、学生の希望する所の主張は三団体に於て代て之が貫徹に尽力すべきことを言明せるを以て、何等か相当の方法を講じ彼等
 - 第26巻 p.720 -ページ画像 
三団体委員の面目を立てゝ遣らざるべからさる事情あり、而して曩きに発布したる省令に於て専攻科廃止期限を明治四十四年九月限りとしたるは、同校在学本科生のみを打算して定めたるものにて、本年入学せし予科生は仮令ひ専攻部に進入の目的を懐きて入学したる者も、其目的を果すを得ざることとなり、又事故の為め一年進級を後るゝ者もあるを以て此等をも斟酌して、廃止期限を二ケ年延長することとし、明治四十六年九月限りとすることに改め、之を以て解決するに至つたのである。
 本件に付ては渋沢男爵其他有力者の之に関係せるあり、又煽動政治家は勿論、新聞紙の如きは盛に文部攻撃をなし、一時は世間の大問題となりたれども、桂首相を始め他の閣僚に於ても終始文部の方針と一致の歩調を保ちたれば、文部当局者は毫も内顧の憂なく全然最初の方針を以て貫徹を期したるも、結局三団体委員の誠意を認め、又東京及神戸高等商業学校予科生の該専攻部へ進学の志望を懐きて入学したる者の為めに、其道を開き与ふるを穏当となし(尤も此等は大学商科に入学するを得れども)桂首相と協議を遂げ、内閣会議にも報告し閣僚の同意を得て、廃止期限を二ケ年延長して結末を告げた次第である。
   ○明治四十二年度ノ東京高等商業学校商議委員ハ左ノ通リ
                株式会社第一銀行頭取 男爵 渋沢栄一
                三井家同族会管理部専務理事 益田孝
                   株式会社十五銀行頭取 園田孝吉
              明治生命保険株式会社専務取締役 阿部泰蔵
            東京帝国大学農科大学教授 法学博士 和田垣謙三
                    日本郵船株式会社長 近藤廉平



〔参考〕東京経済雑誌 第六〇巻第一四九七号・第九―一〇頁 明治四二年七月三日 商科大学問題に就て(黒沢竜浜)(DK260113k-0020)
第26巻 p.720 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。