デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

4章 教育
1節 実業教育
6款 其他 10. 神戸高等商業学校
■綱文

第26巻 p.810-817(DK260138k) ページ画像

明治39年7月11日(1906年)

是ヨリ先、栄一韓国視察ノ旅程ヲ終ヘ、帰路神戸ニ在リ。偶々当校校長水島鉄也ノ需ニ応ジ、是日初メテ当校ヲ訪ヒ、学生ニ対シ一場ノ演説ヲ為ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三九年(DK260138k-0001)
第26巻 p.810 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三九年     (渋沢子爵家所蔵)
七月十一日 雨 涼             起床七時 就蓐十二時
○上略 九時水島商業学校長ノ案内ニテ高等商業学校ニ抵リ、一場ノ演説ヲ為ス ○下略


竜門雑誌 第二一八号・第三六―四三頁 明治三九年七月 ○青淵先生渡韓日誌梗概(DK260138k-0002)
第26巻 p.810 ページ画像

竜門雑誌  第二一八号・第三六―四三頁 明治三九年七月
    ○青淵先生渡韓日誌梗概
 青淵先生には第一銀行の要務を帯び去る六月八日出発渡韓、七月十八日無事帰京せられしが、其間日々の記事及視察談等は逐て詳細に本誌に掲載を乞ふこととなし、唯々此処には不取敢旅行中の経過を最も分り易きよう極めて簡単に摘録することとなせり、読者諸君其心して一覧せられんことを望む(編者識)
○中略
同 ○七月十一日 少雨 午前九時より神戸高等商業学校長水島鉄也氏の需に応じ、同校講堂に於て生徒数百名に対し、商業教育の沿革、実業界の現状及将来、新人物の必要、現在学生が斯界前途の要望に適応せんとするに於て主として心掛くべき要項等に関し、約一時間半に亘る演説を為され ○下略


竜門雑誌 第二二二号・第一―九頁 明治三九年一一月 ○神戸高等商業学校に於ける青淵先生の演説(DK260138k-0003)
第26巻 p.810-817 ページ画像

竜門雑誌  第二二二号・第一―九頁 明治三九年一一月
    ○神戸高等商業学校に於ける青淵先生の演説
 - 第26巻 p.811 -ページ画像 
 本編は去七月十一日、青淵先生か韓国より帰途神戸高等商業学校長水島鉄也氏の求に応じ、同校に於て演説せられたるものゝ筆記にして、演説の要旨は商業教育及韓国近情に係れり、今同校々友会発行雑誌掲載の儘全文を転載す
始めて罷り出でました私ですから、斯く多数の御集りの諸君に御面識のある御人は一人も無いと云ふ有様です、仮令御知合ひが無とも、商業教育てふ重大な問題に対して永く関係し合うたと言ふ事は、水島校長から御紹介下さつた通りの私で御座いますから、斯く商業教育が発達して何れの地にも拡張せられ、御当地に参りましても斯様な立派な学校が設立せられ、此処に修学せらるゝ学生諸子が斯く多数に御集りの処を拝見しまするは、別して愉快雀躍此上も無い喜で御座います、折角水島校長の御所望により罷出ましたけれども、斯く旅行して居ました事であり、其旅行も実は忙がしく旅行しまして、吾々か見習ひ度くも無い韓国の旅行でありますから、別に申上ぐる事もありません、唯私が参上しました事は、諸君に御目に掛つて学校を拝見しまして、私から諸君を益するので無く、諸君から私が益を受ける考へで罷出たのですから、此れから御談する事柄は決して諸君を裨益する程の、或は学術上の事若くは新知識を発明した等の問題には渡り得ませぬから其辺は前以て御断り申上げ置きます
日本の教育界の発達は、随分維新早々から政治家・学者・教育家が種種に力を尽し、今日の地位を占むる様に成つたのは、全く教育に力を尽したのが主なる原因である、兵力の強いのも、政治の完備したのも総て其根元は教育である、教育に力を注いだから色々の困難に出会つたが総ての困難に打勝ち得、殊に両三年前の困難は言語に絶して、国を賭するとまで思うたが、連戦連捷の名誉を得て欧米の諸国も我国を強国の伍伴に入れる事に成つたのは、一に教育にあるのです、即ち政治・法律・軍事等の多くの人を治むる事、又は世の中を支配すると言ふことに関する教育は先づ第一に発達し、物質の進歩を助くる農工商の教育は二期も三期も後れた事は事実です、況んや維新早々の教育は多く各藩の士族か秀才の子弟が幕府の倒れるに遭遇して、身は文筆に巧みに、或は言論に長じ、欧洲の学問に通じて居るとか、支那の学を聊か知つて居るとか言ふものが国家の事を支配するに至り、勢ひ其人が好い地位を得て、国家の事、即ち外交に政治に奔走するに至つたのである、当時国家は此等の学問の外に尤も有要な事がある事は知らぬでも無く、亦忘れもせないが抑も力を尽す事が遅かつたのである
只今校長から御紹介下さつた如く、私が我国家に始めより尽すと言ふ程の事もありませなんだが、国家が商工業に同様の力を進めねば国家が不具となつて、完全なる国力の発展を得ない事を、不肖私は三十五年来気も付き心懸もして居つた事は、蓋し事実と言ふてよからうと思ひます(拍手)
想ひ起せば明治十三年、屡申す事であり諸種の雑誌にも出て居ますから、復渋沢が彼の事を言ふかと笑はれるかも知れませぬが、丁度加藤弘之氏が大学総長をして居られたとき、東京瓦斯事業に就て一人の学士を傭はんとしたが、其学士は『同俸給なれば実業界に入る方は官途
 - 第26巻 p.812 -ページ画像 
に就くよりも好まず、官途なれば名誉があるから、若し実業界に就く時は名誉の代りに金銭なりとも多額に貰ひたし』と言ふた
何程私が必死に実業界の発達を思ふても、他人は斯様に思つて居るかと思へば情無い事である、国家は終に霊神的人間となり形態的人間で無い、即ち智恵の働は多少あるかも知れぬが身の働は無くなり、日本の人間は全く理屈許りの人となる、例へば神戸には桟橋が出来ずとも海陸連絡が出来ずとも、其方には何事も知らぬ国とならば、国家は霊神的となり、形態的に働かぬ事となり、斯くては国家に取りて由々敷大事であると思ひました、であるから私は其時加藤総理(其頃総長を総理と称せり)に大に談じて、終に其人は説得せられて瓦斯会社の技師と成りました
其時私は加藤さんに申しました『何んの為に学校に理科・工科等を置くのであるか、大学を出る人が皆教育者に成り官吏になれば、治める人ばかりとなつて治められる人が無くなる、一国の君主として恐れ多も我国の如きは別であるが、国として形作るのは治めらるゝ人其人である、然るに治めらるゝ人が無くて治める人のみと成つては、終には国を挙げて皆教育家、皆役人とならねばならぬ事となるから、若し其主義としたならば理科・工科等を廃めてよからう、斯くの如き行違ひを生ずるから大に改良すべし』と切に談した事を、今に記憶して居ます、二十四・五年しか過ぎて居ない此の一事でも、其頃実業教育の左程に重んぜられなんだ事は証拠立てられます、其後追々進歩して実業に従事する人も次第に増して来ましたから、未だ満足の地位とは言へませぬが前例の事と雲泥霄壌の差と申してもよく、又当地に参つても現に斯くの如き大学校が設立せられ、募集数よりも入学希望者が数倍ある事は何よりも好い証拠で、此れ程喜ばしい事はありません、殊に私共の最も希望する処は、前述の商工業は大に発達したとは申し乍ら至極低き地より進んだ事故、其基礎は鞏固でない、又之に従事する人の人格もありません、斯く申す渋沢は商業界に多少尊敬せられる地位には居るが如何なる教育を受け如何なる学問を為したかと言へば、恥し乍ら真正の教育は受けて居ないのです、幾何・工学等は何も分らぬ不細工な者です、殊に私の幼少の時代には欧洲の学問は田舎に無かつたのです、僅に地理書を聞き覚えて英吉利は何処の方に在り亜米利加は何処に在るかは知つて居ますが、如何に区分せられ如何に発達したかと問はれたならば、是が明答は出来ぬ位しか学問無しと言はねばならぬのであります(失笑)、さて私等の時代に私丈け学問が無いのかと言へば、其時代の人と比べては私は同等位の学力は嗜んで居るのですから話せたのです(笑声起る)、反対に又そんな無学な人が今日の商業界を支配すると言ふ点より見れば、学問の力も甚だ鈍いものであります(失笑)
然し是れは人間の境遇で、才能も亦学んだ学問に拮抗するものでない二千・三千の学生中優等者は第一に居るでしようが、然し世に出でゝ果して優等者は第一位を占むるかは疑問である、故に実際には学問の優等の順序にのみ依る事は出来ません、学問は仮令第二に位しても、其人の丹精又は才能の多方面に優れ、境遇の好い方に遭遇して、大に
 - 第26巻 p.813 -ページ画像 
発達する人は間々あるものです、同様に維新早々の実業家は若くとも安政時代の人が支配するのだから、亜米利加は東に英国は西に在る位の事を知つて居る人に支配せられねばならぬのです、夫れ等の人々は小供の時から真正の学問を為し勉強をしたならば、猶一層の智能を発達せしむる事が出来たのでせう、故に無学が尊いので無くて、多少の境遇・地位を有する故に牛耳を実業界に執る者と観察せねばならぬのです
所謂文明の商業界は、文明的教育を受けた人間の支配たらしめねばならぬ、換言すれば諸君の如く蛍雪の苦学を積んだ人々の支配たらしめねばならぬ、諸君の皆が長となると云ふでは無いが、諸君の或者が長と成つて行かねばならないのです、商業は決して、一人で我は熊谷次郎直実なりと、唯一騎打で手柄を顕はす事の出来るものでは無い、左ればとて皆一同ワーツと言ふて行く訳には行かぬ、其内に自ら或地方には其人が長と成つて、其地方の風習が大体に感化せられ、大中小相調和して進むの宜しきを得たる者に支配せしめねばならぬ、事業に就ては千差万別なれども、一体の規定は前述の順序に進まねばならぬと私は申すのであります、で、私共渋沢等の希望は最早其時期に向つて居るが、今後の実業界の支配者は高等の教育を受けた智あり勉強ある人が世と共に進歩せる商業界を形作らねばならぬと思ひます、今日我我は他日諸君の如き人々が吾々に代つて更に一層学理的に一層文明的に商業界を形作つて呉れるだらうと思つて、暫く御預りして居ると考へて居ます、此の中の何方が代るやら其れは分らねど、後は宜敷御頼み申すと言ふて置きます(笑声盛に起る)、さすれば諸君は『成程、宜しい引受けた』と言ふでせうが、そう言へば諸君は大層豪い様に見へますが、渋沢は諸君を無瑕の完全な人々とは申しません、唯左様に成り得べきものだと申すのです(笑声)
私は一に諸君に希望を申し上げやうと思へば、礼儀廉恥を知らねばならぬとか、至誠事に尽すとか、克己廉潔等の希望数へ尽すことは出来ませぬが、然し数多く申すのは繁雑でありますから、唯一・二を述べませう
 第一に人は目的を正しく立てざるべからず
 第二に其目的を確に守らざるべからず
第一、何を学ばうかと云ふことは已に目的です、今後学成りて如何にせうと云ふ事も亦目的です、目的無しに学問に就く者も無い故に、満堂の諸君は目的を持たぬ人は一人も無からう、然れども其目的を正しく立てゝ、且つ鞏固にあるや否やは不明である、故に第一に申上げる目的が若し正当を失へる目的であらば、如何に鞏固に守らうとしても蹉跌を生ずるのである、故に目的は我が地位、我が境遇、我が学力に権衡を合せて、斯る位地に立たう、斯かる事に進まうと順当の目的に進まずば、目的に動きを生ず、我自身か動くのみならず、過大な目的を持てば其事の困難なるが為に動く事あり、或は怠慢の為に動く事あるのです、故に目的を定め其れを強く維持する事は、人の世に処する上に最も肝要であるから、能く識別して或る地位に立たうとすれば能く権衡を計つて、余程余儀無き場合で無くば変ぜずと考へねばならぬ
 - 第26巻 p.814 -ページ画像 
斯く申す渋沢の如きも変更しつゝ進むことありますが、此れは自ら変ずるもので無くて、時勢の為に余儀無くせらるゝもので、自分は目的を達せやうと思つても止むを得ぬのである、世に処するには己れの定むる目的を選むことが必要である、能く自己の分を考へて選定し、其選定したる事は困難があつても飽く迄為すと云ふ考へを要するのです以上は目的に就て老先き永き諸君に一言申して置きます
今一つ注意するのは、学成つて如何に世に処するかと云ふ事です、近来多く或部分の人は、独立で無くてはならぬと皷吹する人があります其意味は何事も一人で経営せずば不可である、自己の計算で事業を起さねばならぬと言ふ事だが、カーネギーの実業の帝国の訳本にも斯様な意味を翻訳せられてあつたと思ひます、又御当地・大阪・東京等の立派な商業界の有力者も、始めは微々たる者であつたが、脛一本から独立して今日の地位を得る様に成つてから斯の如き事を云ふのです、且つ此の事は新聞雑誌等に累りに皷吹するのです、然し乍ら此論の強く成る事は大きな間違ひ事だらうと思ひます、独立と云ふことゝ人の仕事とには差別があります、独立するも他人の仕事をするも其結果は同一である、他人に使役せられて居ても、或場合には却て使役者となるのである、私も傭はれ人です、即ち第一銀行は株式会社です、郵船会社も株式会社です、総て私の従事する事業は皆会社ならざるは無い何れも報酬を貰つて経営するのです、然れども日本の経済界が独立してやるには猶幼稚であります、又既往を顧るも独立経営が此経済界を発達せしめたか、又合本法が経済界を発達せしめたかと云ふに、私は合本法の主張者ですから我田引水かも知れませぬが、ドーモ合本法の方が利益が有つた様に思ひます、反対家でも単独に一人の力のみに依つて主張したならば、維新以後の事が斯く発達せなかつたらう、全く合本法の所作が事宜に適し今日の如き進歩をしたのです、経済界の進歩は未だ充分なりと言へないが、朝鮮から帰つて見れば実に立派です(笑声起る)私が三十五年十月に米国から帰りに、此神戸に上陸し諏訪山から見降した時は、家々は皆箱根細工の様で実に情無かつた(笑声)、丁度奈良の大仏を見て帰りに坊主に遭うて、赤児の捨児があつたと言ふのと同じ事です(笑)
兎に角此の経済界の発達は、断言す明治維新後合本法に従事する渋沢の如きは、或点よりは月給取と言ふかも知れぬが、国家に有益な事を為したと言ふを憚らぬ、又其地位も相当の地盤を保ち、相当の経歴を経たならば、野卑とか給金取とか云ふ言葉は何処から出やうか、月給取が卑しければ、総理大臣も国家から給金を貰ふ月給取である(拍手喝采)
果して独立の商業を決して悪いとは言はぬ、又合本会社に使はるゝ事も勿論可なり、唯其の人が此れが宜からうと思ふ処に向て進めばそれで好いのである、何れの方にもあれ、其れは宜しきに従ひ、彼は甚だ位地不利益だ、之は宜い地位だと言ふ様な区別は無からう、世人の言ふ如く一人にて商業を経営せずばならぬと言ふ様な事は、私は寧ろ賛成しませぬ、私は何人にも独立すべしと強ふる事は、誤りだと判断します、但し人に依頼する事は大に悪い、自己は自己で独立自尊を要す
 - 第26巻 p.815 -ページ画像 
れども、何も一人で事業を経営せねばならぬ筈は無いのであります、元来人の豪いと云ふにも種々あるのです、心にも無く世を経営せんとする人は、目的の立たざる人だから始めから算盤の中に置かぬのであります、前述の如く色々申し度御注意は多いが、言ふて見れば左程多くもありません、目的を正しく確固に立て、宜しきに従て行つたならば、天下の事何事か成らざらんで、種々の幸福が諸君の目前にぶら下ると申すべきである
戦後諸事物の発展に伴ふ経済界の発展に就ひて、最も注意を要すべきは支那・朝鮮の事、即ち東洋に於ける経営である、朝鮮の事は一応見聞した故に御相談せふと思ふが、唯に朝鮮のみにても諸君が総掛りで働く余地は十分にあります、然し同時に我国内を空虚にしてはつまらぬから、国内も共に進ましめんとすれば、国家の事頗る多忙と言はねばなりません
斯かる場合に、此の学校の如き至極広大な設備の在る事は、我が前述の喜びに一層の喜を加ふる事で、其れと同時に諸君に対して大なる喜びを呈すると共に大に責任のある事を御注意せねばならぬ、先づ諸君に対する御注意は此れ丈けに致して、私は朝鮮からの帰り途でありますから、朝鮮の有様に就て聊か状態を申上げて御参考に供へませう
扨て私が朝鮮に参りましたのは前後三回であります、明治三十一年・同三十三年と今年とがありまして、三回は三回共次第に進んで、韓国の事物も本年参つて聊か見るべきありと云ふ有様です、然し其進歩とは韓国全体が進歩したと云ふので無くて、僅に其十分の一であるかも知れぬが、韓国に在留する我同胞の進歩は実に偉大である、故に結局我国が進歩した事となるのであります(笑声)
今回私は内地にも立入つて、釜山・馬山浦・大邱・京城・仁川・鎮南浦・平壌其他の地方を視察して参りました
(一)釜山の事を御話すれば、鉄道は草梁から京釜鉄道が通じて居ますが前回の時は粗末な朝鮮家屋で荒村廃地であつたが、今は鉄道倉庫もあり、汽車も日々三回も発車し、大に賑かとなりました、殊に釜山には埋立地が出来、倉庫・桟橋・電話・電灯があり、日本市街も次第に立ち、人口も二万過ぎとなり、人家も三千以上四千戸に垂んとして中々立派で、先づ殆ど日本の町と異る事は無く、此辺の港と言ふても可い一市街を為して居ます
(二)仁川は立派な開港場で、多少外国人も居るが、山多く土地狭く町多く残らず立並んでゐる故、港口から見渡した神戸の様で、丁度神戸の小さなものゝ様である、南向で山があつて立連なり、独逸人等の家が二・三あり、日本人の家も左程小さくも無く、市街は奇麗で飾り附けも立派で、稍開港場の価値を有して居る、電話も電信も電灯もあつて至極便利で、中々賑かで商業も繁昌である、明治三十三年から京仁鉄道が通じて、一日七・八回発車するから、鉄道建設以来仁川町の繁昌すると同時に人口増して、朝鮮町も昔日の三倍にもなりましたが、何程増加しても一向奇麗には成らぬ、矢張り穢ない、然し朝鮮人には奇麗に見ゆるかもしれませんが、吾人には一向分らないが、多少奇麗になつたのでせう(笑声溢る)
 - 第26巻 p.816 -ページ画像 
(三)京城は主都の事ですから多くの役所も在り、泥峴街は我が居留地であるが、南大門に京釜鉄道の到着点がある、此れも表面の面目は変化しましたが、朝鮮人の家は変化しない、只我日本人の家が変化したのであります、朝鮮でも合本法に依つて発達し、種々の銀行が起つたのです、就ては合本法は私も好きですから、銀行者の方は第一銀行とも取引して引立てゝ、立派な銀行にせうと思うて世話中であります、其他金融逼迫から成立した手形組合等は、朝鮮政府の補助で成立したのです、日賀田顧問等の尽力で出来たのです、此れ等も昔日は無かつたが、経済界に効能を現はしかけて居るのです
(四)次に北方に参つて初めて平壌を一覧しました、此れは古への都であつて京都の如しと云ふが、土地広く家も立派である、日本人は沢山で六・七千人もあります、日本人街一ケ処あり、大同江が流れて地味肥へ、牡丹台・玄武門等の古戦場が多く、単に実業上のみならず、詩でも作り歌でも作ると言ふに適当な材料が多い、山があり水があり、大同江が前を流れて景色佳いけれども、例の朝鮮人の不潔極り無きと、蠅の多いのが是等を打消してしまひます(笑声)
(五)鎮南浦は、大同江を下つて河口に至つた処に在る従前の開港場で、電話はあるが電信無し、商業も相当にあり、米・大豆の繁昌する処である、水に沿うて山あり、眺望に富んで居るが、仁川に比べて港が小さく貿易も少ない、然し今後は発達の見込があります
(六)大邸は釜山から八十哩北方に在り、韓人三万・邦人二千人あり、御承知の通り朝鮮には市日があつて、市が立つ処では朝鮮人は市を以て商をするから、市の日には夫れこそ雲霞の如く集まつて、穢なくて其有様は如何な弁者も到底形容が出来ません、道は狭うて車は通れず、先づ朝鮮内部の大都市だと言ひますが、私の見る処では将来発達の見込はありません
(七)馬山浦は鎮海湾に接した処で、鎮海湾は広うて安全な処で、素人眼にも誠に立派な港です、而して海軍の根拠地で、日本海々戦の大勝利の用意が出来た処かと思へば、実に可愛う思はれます、然し所謂一夜出来の港で、且つ軍事上俄に作つたものである故、商業市街としては発達し得るや否やと思ひますが、釜山等に比べて港も非常に宜しい、但し貿易高は釜山は壱千万円以上あるが、馬山浦は僅に五十万円内外で、月々四・五万円です、要するに戦争の関係から内地人が多数に入込み、内地の家屋が多く出来、内地の事業が大に発達した事は一目して大変化を起した様であるが、朝鮮人を開発する点には未だ緒に就けりとは申せません、元来彼の国では経済界が独立して居るのでは無い政治と共に平行せねばならぬのです、商業は国旗に伴ふと言ふが、此事は朝鮮に於て最も甚だしいと思ひます、現に我銀行は三十八年に店を開いたが、進歩発達せなんだ事は私の羞かしく思ふ処ですが、如何にせん手を延し得なんだのである、日露戦争の如きも廟堂と元老の間に決定せられて、果して其主意から大戦争を開き平和を結び得ましたが、未だ韓国は安全なるや否やは明言する事出来ません、此国は変現常なき国で、其主人の変らない間は経済界は稍発展する事が出来ませう、昨年来土地に就て力を入れる様に成り、韓国興業会社を起す事に
 - 第26巻 p.817 -ページ画像 
成りました、思ふに彼の国は如何にしても商工業も勤めねばならぬが先づ農業も開展せねばならぬ、就ては合本法の点は出来得る丈け進めねばならないが、養蚕・棉花を奨むる事は、大に属望し得るに足るらしい、仮に此等の額が現今の貿易額の十分の五を増したならば、十分の五丈け吾等の貿易が韓国に対して進む事となる、其れ故に帝国として彼の国に対する経営は種々の方面にあるけれども、私は農にありと断定します
又た最後に望ましき事は、従来我国の人が韓国に到つて経営するのは『ブツタクリ主義』・『一攫千金流』であつたが、此れは宜しく無い、斯く今日の如くに統監府の在る処故、国民と同一の考へで韓人に対して『腰掛主義』や『掠奪主義』を廃めて、『居坐主義』・『文明主義』になる事を奨めます(笑)
私の考へでは、今四・五年も経たならば今日の韓国の農業界は大に発達するだらう、果して然らば我国は夫れ丈け韓国に帝国の畑を増したと申しても過言でありません、且つ韓国人の多数は豪い性質ではありません、知恵が無いと言はざるを得ませぬが、政治界の人及び商人でも、京城辺で多方面に関係する人は別として、田舎の人も約束を重んじ従順な点は、大に愛すべき事だと思ひます、此れは私が空に述べるのではありません、前述の韓国興業会社が土地を有して小作を為さしめ、何千人の人が約束を重んじて小作料を支払ふ事の醇朴なのを見て言ふのです
将来帝国多数の人の仕向け次第で、韓国を立派にする事が出来ない筈はありませぬ、私は唯一覧した事を一通り申し上げるばかりですから御参考にも成りますまいが、一応韓国の模様を御聞きに達したのであります(拍手大喝采)